【オススメ!】逃避行
序章 忍び寄る影
午前二時。都会の薄明かりも完全に遮断される廃ビルの階段を、一人の男がゆっくりと上がっていく。前も後ろもない、吸い込まれんばかりの闇。コンクリートの壁に反響する男の硬い靴音。そして、嗅覚を刺激する血の匂い。
窓もない完全な暗闇の中を、男は躊躇なく突き進む。上方では「標的」が息を荒げながら逃げ惑っていた。
――殺せ、殺せ――
男の口元が僅かに歪んだ。
○
どんな人間もいずれ死ぬ。こればかりは避けようのない事実。だから、俺は死など恐れない。……殺すことも。
生きたいと願わなくなったのはいつからだろうか。いや、確かにはっきりと覚えている。初めて人を殺した時だ。
忘れたくない思い出は掌の砂のように流れては消えゆくというのに、消したい記憶ほど刺青のように胸に深く刻み込まれて消えることはない。あの日、あの瞬間から俺の中の時間は止まり、すべてのものは色を失い、何もかも価値を失った。世界が崩れ落ちるかのように、俺の心は死んだのだ。
もう、戻ることなどできないとわかっているのに――未練などないはずの過去なのに、どうして俺はこれほど執着しているんだ。
だがやはり、どんなに考えても無駄なんだ。俺は人殺しで、化け物なのだから。
その瞬間、俺の中のすべての感覚が麻痺する。いや、少し違う。強烈な快楽と痛みの波が電流のように全身を駆け巡る。ちょうど麻薬や覚醒剤のそれに近いものかもしれない。その瞬間だけは俺は俺を縛り付ける全てから解放され、「無」になれる。単に人間に生まれつき備わる「闘争本能」に従っていればいいのだから。
ならば人を殺すことが楽しいかと聞かれたら、間違いなく違うと答える。では何故――。
理由などない。
なぜ生きているのかと聞かれて、即座に答えられないのと同じことだ。為すべきことの対象が憎いわけではない。が、沸々と湧き上がるのは間違いなく怒りの感情。何故だ。俺は一体何に心を震わせ、感情のままに闘うのだろうか。俺は死ぬまでこの負の連鎖の中でもがき苦しみ続けるのだろうか。怒りに悶え、それを暴力という形で放出しながら。
だが、それでも俺の中の潜在意識がその感情すら鎮めようとする。やはり、俺はどこかで僅かな光を捨てきれていないのだろう。あれだけ人間という本能と欲望に埋もれた動物を嫌いながら、まだそれにわずかな希望を抱いているのだから。いくら希望を抱いても、本質的には、逃げ出せるわけもないというのに――。
従順に飼いならされた犬は、どんな飼い主であろうと噛みつくことはできない。しかし、命令が下されれば、誰にでも噛みつく。
俺は犬じゃないと自分に何度も言い聞かせてきた。それなのに「飼い主」に噛み付くことができない。しようと思っても、植えつけられた暗い記憶に逆らうことができない。
俺は一生「犬」のまま生きるのか。独房で繋がれ、命令のままに人を殺してくる。用がなくなれば跡形もなくこの世界から抹消される。確かに死ぬことに何の恐怖も感じない。むしろ俺を縛り付ける全てから解放される。
だが、このまま命を終わらせたくない。負け犬のまま、最後までいいなりになって死ぬなんてごめんだ。
俺に刃向かうすべての敵を一掃してから、静かになった世界で死にたい。
俺を殺せるのは、俺だけだ――。
――殺せ、殺せ――
何かが頭の中で囁く。自分自身の声だろうか。それとも俺の心を血で赤く染め上げた「奴ら」の声だろうか。この声を聞くといつも自分がわからなくなる。底の見えない暗闇に突き落とされ、どこまでも堕ちていく、そんな感覚だ。
今もこうして体が勝手に動き出す。
全身に力が漲るのがわかる。本来これは強い憤りから来るはずのものだ。だが、俺はそんなものを感じてはいない。
目の前の「標的」が俺を見上げて震えている。だが、何故こいつは俺を見てこんな顔をするんだ。解らない。
「あああ……ああああ!」
――殺せ、殺せ、殺せ――
まるで激しく脈打つように、声は頭の中でどんどん大きくなる。
誰なんだ。お前は一体、誰なんだ……。
――殺せ、殺せ、殺せ……――
○
外は土砂降りだった。激しい雨がビルの壁に叩きつけられる。男の濁った瞳が青白く光った。廃ビルの最上階の薄暗い部屋で、この男は今まさに人を殺そうとしている。
男の身長は優に二メートルを超え、筋肉の量も常軌を逸している。黒いタンクトップから伸びる両腕には、それぞれ一頭ずつ、黒く生々しい大蛇が指先へ向け絡みつくように刻まれている。
「あああ……ああああ!」
「標的」が狂ったような悲鳴を上げた直後、二頭の大蛇が素早く頭に飛び掛かった。
窓だけしかない殺風景なコンクリート部屋の中で、逃げ場を失った「標的」が成すすべもなく男の餌食にされる瞬間だ。死を目前にした人間は意外なほど大人しい。逃げられないとわかっているから抵抗しないのか。それともいっそ早く殺してくれ思うからなのだろうか。
男に持ち上げられ、「標的」の足は宙に浮いた。「標的」は自分の毛細血管が断裂される感覚のあとに、首の関節が抜ける激しい痛みを覚えた。「標的」の重い胴体が首を引っ張り、重力に従って首の骨がかくんと外れ、首が赤紫に変色しながら異様なほど伸びる。
苦悶に顔を歪める「標的」の目を、男の濁った瞳が真っ直ぐに捉えていた。一瞬窓から何かの光が男の顔を照らした。彫が深く、年齢も判らない。「標的」は自分を持ち上げる男の鋭い眼光の中に、僅かな光が揺れ動くのを見た気がした。何かに怯えているようにも見えたが、すぐに闇が男の表情を隠してしまった。
男は両手の親指を蟀谷に添えると、一気に力を加えた。
爆発的な威力だった。
ミシミシという骨が軋む音のあとに、顎の骨が外れる硬い音がして、二本の親指が頭の中に突き刺さった。溢れ出る血は男の指を伝って、「標的」自らの後頭部を赤く染め上げた。
男はさらに高く持ち上げ、頭部を壁に思い切り叩きつけた。勢いよく指を抜くと、体が壁伝いに床に落ちた。赤黒く生暖かい血が、一本の太い線となって床まで続いていた。
既に「標的」は死んでいるというのに、男はその鼻や耳などの突起物を手当たり次第に引きちぎった。首にも手をかけ、指を肌の中に食い込ませると、気管を握って引きずり出した。手足の骨も、執拗に関節から折り曲げ、最後は頭部を捻じ曲げるように胴体から引きちぎった。大量に血が溢れ、一面血の海になり、異臭が部屋の中を漂った。
男は見るも無残な姿となった「標的」のジャケットのポケットから何かを無造作に抜き取った。
――やっと見つけた――
立ち上がり際にそれを自分のポケットの中に滑り込ませ、開け放たれた窓の外を見つめた。
雨の街の弱い光に照らされた男の顔は、奇妙なことに穏やかだった。
――やっとすべてが終わった。これでもう、俺は――
その時床を硬いものが叩く音がした。階段を上る足音だ。耳を澄ませばどんどん大きくなる。相手は一人のようだ。
身を硬くし、男は彼の到着を待つことにした。
そしてついにドアは開かれた。
光沢を帯びた、いかにも高そうなスーツ姿。金縁メガネの下の鋭い眼光が、裏社会の人間だと言うことを雄弁に物語っている。顔なじみの男であった。
「右近さん、なんでここに……」
訝しげに目を細めた男に、右近と呼ばれた男が一歩近づいた。まだ若く、長身で細面の顔は端正だ。襟の下から首筋に伸びる蛇の尾の刺青がなければ、エリートサラリーマンのような見た目といえるだろう。
「井上、お前はよく働いた。この様子じゃ、仕事は片付いたようだなあ」右近はそう言って、井上と呼ばれた男の足元の死体を顎でしゃくった。「高杉会の組長も無様なもんだ」
右近は軽蔑で歪んだ顔を井上に向けたが、一方の口角だけは気味悪く引き攣っていた。
「わざわざ現場にやってくるとは相当急ぎのようですね」
「ああ。結局その男が持っていたんだろ、例のSDカード」
井上はゆっくりとポケットからSDカードを取り出した。ビニール袋に入っていて、血で汚れた手で触れても支障はない。
「よこせ」右近は手を出した。
「ちゃんと約束は覚えていますね」
「ああ……。俺たちがお前にコンタクトを取ることはもうない。強力な『武器』を失って残念だ」
井上は何も言わずにそれを右近の手に置いた。井上の右手と右近の右手は、大人と子供ほど大きさが違っている。
「約束ですよ」
右近は踵を返し、来た方向へ歩き出した。「本当に残念だ。こんな形で大きな武器を失うことになるとは。もうお前に会えなくなる……」
右近はSDカードを胸ポケットに入れる素振りをし、再び井上の方へ振り向いた。その右手には小型の拳銃が握られていた。
「一生な」
反射的に井上は窓へ走り出した。外へ飛び降りたと同時に、右近が発砲した弾が井上の分厚い胸板を貫いた。
慌てて右近が窓から身を乗り出したとき、土砂降りのせいで眼下は霞がかり、視界に井上を捉えることはできなかった。
――弾は心臓を貫通したはずだ。いや、少なくともこの高さから飛び降りて無事なはずがない――
身を翻し、右近は勢いよく走りだした。
組織屈指の銃の名手である右近だが、井上の死体を目にするまではどうしても不安を払拭することができなかった。相手は不死身と称され、今までにどんな標的をも死に至らしめてきた化け物だ。それは右近自身が一番よく知っていた。それ故不安だった。もし井上が生きていたら……。考えるだけで怖気がする。
――あれだけ闇に手を染めておきながら抜け出するとでも思ったのか、化け物め。お前に残された道は『死』のみだ――
第一章 リアル
1
先刻から蚊が周辺を飛び交っていた。
五月も終わりに差し掛かろうというこの時期、西日を背中に受けながら、一人の男が鴨川の畔に腰を下ろしていた。
男の名を三木武志といった。
ふらふらと腕に止まった蚊は武志の右の掌に勢いよく潰され、黒々としたシミになった。武志は苛立たしげに顔をしかめ、服の裾で手を拭った。
武志を苛立たせる理由は蚊ばかりではなかった。
武志の端正な顔に殴られたような痣があった。父親にやられたのだ。顔を殴られたことにも腹が立ったが、それ以上に、剣道部をやめると言っただけで殴られたことが気に食わなかった。
剣道部を去るに至った発端は、馬鹿な一年が他校の連中と喧嘩したことについて、顧問の下坂がキレ、部員全員に校舎全域の掃除を命じたことだった。やつは「連帯責任」という言葉を連呼していた。
三木武志は元来上下関係というものが嫌いだった。彼に言わせると、自分よりも劣っているやつを敬うなんて馬鹿げている、そうだ。だが、それでも今までは理不尽なことも耐えてきた。それは次の国体で去年の雪辱を晴らし、優勝を勝ち取ろうとしていたからだ。一年前、勝つ自信はあったが、最後の最後に判定で負けた。
今思い返せば、そもそも何故剣道なんかやっていたのだろうか。よくよく考えれば別にやりたいからやっていたわけではない。気がついたときには既に竹刀を握っていて、そのまま握り続けていたら当然のように全国大会準優勝の地位についていた。剣道が好きだったというよりも、他人よりも卓越した技術を誇る自分に酔っていただけなのかもしれない。やはり、その優越感を得るために剣道をしていただけのことなのだろう。
でも、だから尚更勝ちにこだわっていた。他人を蹴落とし、自分が優位に立つことの悦楽を知っていたから。
一年の喧嘩に関しては、正直なところ、殴り合いだろうと殺し合いだろうと勝手にすればいいと思う。俺に害が及ばなければ、極端な話、どこで誰が死のうが知ったことじゃない。それなのにあの顧問は、こともあろうか、この俺に掃除だと?舐めている。しかも剣道の心構えまで持ち出す始末。俺ははっきり言ってやった。お前みたいな腰抜けが剣道語ってんじゃねえ。俺の上に立ちたいなら、まずは剣道で勝ってみろ、と。
やつは額に青筋を浮かべて俺を怒鳴りつけた。いい加減耐えられなくなった俺は、ちょうど持っていた竹刀をやつの眉間に叩き下ろした。笑えるほどいい音が響き渡った。でも、それだけだった。
大きなため息と共に、鴨川の石段からへ思いきり石を投げた。ポチャンと小さな音がして波紋が広がる。それが消えるまで眺めていたが、することもなく寝転ぶと、初めて今日の夕焼けが綺麗だったと気がついた。自転車で家を飛び出して、気分でなんとなく鴨川まで来たわけだが、心の重たいものはどうにもならなかった。
もちろん「清々した」ではない。かといって「やっぱ剣道がしたい」という気は湧いてこなかった。じゃあ何なんだろう、この心の蟠りは……。
やつをぶっ叩いたあとはヤバい空気になったが、何となく許された。それは「三木には逆らえない」という空気がその場を支配したから。そりゃあそうだ。俺がいなければ、剣道部なんか所詮は雑魚共の掃き溜めみたいなところだ。私立の特権使って、スポーツ推薦で抜いてきたやつら揃えたからって、ガキの頃から竹刀だけを振ってきた俺の相手になるやつは誰もいねえ。
何となく許されはしたが、もう剣道部に戻るつもりはない。あいつが土下座してきても、校長を連れてきても嫌だ。だって俺がいい成績残したら、やつは手のひらを返したように「私の指導の賜物です」と言わんばかりに振舞うだろう。あんな下等な顧問の下で誰が剣道など続けていられるか。プライドを捨てない限り俺には無理だ。絶対あいつの犬にはならねえぞ。
その時ポケットの中でケータイが鳴った。電話だ。画面を見ると「ユリエ」と表示されている。無視しようと思ったが、鳴り続ける着信音が耳障りでつい出てしまっていた。
「なに?」
「あ、武志?あんた剣道部やめるってマジ?つーか顧問ボコるとかマジウケるって!」何が楽しいのか電話口の向こうでゲラゲラ笑っている。いつもどおりのねちっこい口調だ。てかボコるって何だよ……。
ユリエのやつ、顔はそこそこいいのにキツい性格とケバい化粧が邪魔してる。
面倒だったからあえて何も言わなかった。するとユリエはいつになく真剣な声になった。「あんた大丈夫?なんでやめちゃうのさ」
「は?何だよ。うるせえんだよ。俺のことなんかいちいち構うなよ」
「……バカ」
は?なんだこいつ。むっとして電話を切ろうとしたが、何も言い返さないのは逃げるみたいで嫌だった。
「剣道なんか、所詮お遊びだよ」
違う。
「棒っ切れ振り回して、今まで何が楽しかったんだか」
そうじゃない。頭ではわかっているのに、何でこんなことしか言えないんだ。
ユリエは何も言わなかった。しばらくしてそのまま切れた。俺も電話を切った。すぐにまた途方もないため息が出た。
馬鹿だよな。俺にとって剣道は勢い任せで捨てられるほどのものじゃなかっただろ。どうしてあんなことで捨てちまったんだろう。剣道は俺の人生そのものだったのに――。
昔から竹刀を振るだけで時間を忘れることができた。去年の国体で、全国レベルの選手たちと竹刀をぶつけ合ったときの緊張感を今でも覚えている。大勢の観客が見守る中、勝った時の高揚感。そして、決勝戦で判定負けした悔しさ――。
やはり実家が道場ということが大きかった。壱武館という道場で、俺は六代目。あの新選組の隊士も使ったというから驚きだ。流派はもちろん、多くの隊士が使ったという天然理心流。現在師範を務める親父は、国体で二度優勝した経験があるほどの猛者だ。段位は最高峰である八段。ちなみに祖父も国体で優勝している。だから血統は間違いないのだ。俺も来年には優勝するだろう。いや、優勝するはずだった。
幼い頃から剣道だけを叩き込まれて育ち、他と比較にもならないほどの厳しい鍛錬を積み重ねてきた。盆も正月も休みの日などなかった。平日などは家に帰れば真夜中まで竹刀を握った。
それなのに、それなのに……。
もう一度、空を見上げた。
既に太陽は沈み、夕方と夜との間の、光とも闇ともつかない空が広がっていた。遠くには一番星が輝いて見える。
強い風が吹き、俺の心をひやりとさせた。爽やかであり、同時に僅かな棘を帯びた五月の夜風。
それだけで十分だ。俺の心を慰めるのに、今はただそれだけで十分だ。
2
〈三木武志〉
私立玄徳学園は俺が通う高校だ。緑を多く取り入れた造りの、無駄にだだっ広い敷地を持つ学校。剣道部は新設ながらも優秀な顧問をつけ、特別強化クラブとして活動している。スポーツ推薦でテストも受けないまま入学した俺は入学料、授業料全額免除。やはり、道場だけでは稼ぎが少ない我が家では大いに喜ばれた。
が、俺は自ら剣道部を去った。いや、書類上はまだ部員として残っているのだろうが、今さら戻りたいと言うことなど俺のプライドが絶対に許さない。だが、その一方でもう一度竹刀を振りたいと思っているのも事実だった。
体育館で深いため息をついたとき、一限目開始を告げるチャイムが鳴った。今日は変則で学年集会だ。硬い体育館の床に座り、例のごとく学年主任や生徒指導部長の話を聞かされる。
俺は体勢を崩し、目を閉じてこの長い時間をやり過ごそうとしていた。と、その時ポケットの中のケータイが震えた。校則の厳しい玄徳学園では、見つかれば即没収だが構わずそれを取り出した。
『おーい』
何のことはない。ユリエからのメッセージだった。
――ちっ、こんな時になんだよ――
少しばかり苛立ちながらも俺は後ろを振り返った。横のクラスの列にユリエがいた。他の人に並ぶとユリエの化粧の濃さはさらに際立つ。今日は時間があったのか髪まで丁寧に巻いている。そんなユリエは俺の方をじっと見ていた。別段怒ったような顔はしていない。昨日のことではないようだ。
俺は慌てて返信した。
『なんだよ』
ユリエはケータイをちらりと見ると、何やら前を指さした。
見ると、前に生徒指導部長が立って何やら熱く話しているところだった。
『だからなんだよ』
ユリエはケータイに小刻みに打ち込んでいる。二つ折りだから打つのに時間がかかるらしい。届いたメッセージには『転校生』『来るみたい』『しかも女(爆)』と。文面では爆笑しているはずだが、ユリエの表情は至って落ち着いている。「ほら」と口だけ動かし、また前を指さす。よく見ると、端のほうに立つ教師の横に、大人しく座った女子生徒の後ろ姿が見えた。
『マジかよ(爆)』
進行役を務める教員が「では転校生を紹介します」と言い、その女子生徒はゆっくりと立ち上がった。
横顔しか見えないが、美人の部類に入ることは間違いない。肩までの癖のない黒髪。華奢な白い手足。大きな瞳――。
生徒たちは彼女を見て何やらざわついている。俺はそのざわつきに異様なものを感じ取った。
「結構美人やん」「どっから来たんやろ」「違うよ。よく見て」
一体何が違うんだ――。
もう一度目を凝らして見てみた。確かに美人なことに間違いはないが――。
危うく声を出すところだった。
寸の間、俺と前に立った彼女との視線が交錯した。顔の右側は間違いなく美形だが、左の目元は火傷でもしたのか、ケロイドのように赤く爛れていて、目も完全に塞がっている。それなのに、彼女はそれを恥じる様子もなく、悠然と構えている。それが俺の心に違和感を植え付けた。
気づけば無意識に彼女を凝視していた。見てはいけないものを見たようで、だがどこか引き込まれるような感覚を覚える。
「じゃあ、自己紹介して」
ハンドマイクを手渡された彼女は少し間をあけ、「桜田澪です」と頭を下げた。凛とした、透き通るような声だった。
その時背中を誰かにつつかれた。俺の後ろは帰宅部の篠だ。ニキビ面で、どういうわけか常ににやけている。いつも俺があしらっても馴れ合おうとしてくる変なやつだ。
「武志くん、どう?」
質問の意図は瞬時に理解できた。
「別に……」
「なあんや。武志くんが狙えば三日で落ちるのに。じゃあ俺が狙っちゃおっかなー」
篠は苦いものを噛み潰したような顔で笑った。そういった行動の一つ一つが気に入らない。
笑うな。汚ねえ顔が一層歪む。それにお前には絶対無理だ。
桜田を変な目で見る篠を俺は蔑むように見た。別段、俺にとってそれは敵意を示すものではなく、ただの嘲笑めいたものだった。
篠が言った「三日で落ちる」というものは、あながち間違いでもなかった。
確かに俺は頭も運動神経もよかった。見た目ならそれ以上に自信がある。多かれ少なかれ他のやつらが妬んでいることぐらい知っている。背は183センチある。でも特に顔には絶対的な自身があった。この顔で落ちない女はいないとさえ思っている。わざわざ自分から仕掛けたりはしないが、すり寄ってくる女は好みであれば抱いてきた。そして捨てた。ゴミのように。
「おーい。武志くん聞いてる?あの子美人や思う?」
「知らねえよ」
「目んとこどうしたんかな。何か病気かな。てか何組なるんやろ」
煩わしさに俺は何も言わなかった。篠もしばらく一人で何やら言っていたが、そのうち静かになった。
俺はまた腰を下ろした澪の小さな背中を見つめていた。俺はふと自分の背中に何を感じ、振り返ると一瞬だけユリエと目があった気がした。
3
〈二階堂健二〉
京都府警警察本部組織犯罪対策部第一係。肩書はよく聞こえるが、要はマル暴だ。この国の腐った部分の処理をする汚れ仕事。時々、危ないような陰気くさいような刑事課の空気が嫌になり、こうして近くの公園に逃げてくる。四六時中犯罪者の相手をしていると、自分の心も毒されていくような錯覚に陥る。いや、それはあながち間違いでもないのだが、だからこそこうして正気を取り戻すためにここへ来るのだ。
五月だってのにこの時間帯はくそ暑い。脱いだジャケットを左手に持ち、右手には大判の手帳。ベンチに腰掛け、それを一枚一枚丁寧に読み返す。手が空くとつい不精髭を触ってしまうのは随分昔からの癖だ。分厚い手帳には汚い字でびっしりと事件に関する情報が記されているが、要点だけを書き留めているために、素人が見ても何のことだか理解しかねるだろう。
暴力団員同士の殺し、警官殺し、縄張り争いの抗争、娼婦強姦、飲酒運転の際の轢き逃げなどなど。
ため息と一緒に手帳を閉じ、代わりにタバコを咥えた。銘柄はセブンスター。ゆっくりと煙を吐き、余韻を楽しむように目を閉じる。
またタバコを口へ運ぼうとした時、ポケットの中でケータイが音を立てて震えだした。せっかくの安息のひと時を邪魔しやがって。無造作にそれをまさぐり出すと、サブ画面には「柳川」の文字。俺はタバコを地面に捨て、靴裏で揉みつぶした。
「二階堂だ」
「おう俺や。お前、またどこをほっつき歩いとんのや」同じ班に所属する、階級が一つ下の同輩、柳川邦彦の声だった。班というのは、組織犯罪対策部内の第一係を指す。その顔ぶれは年齢順に松平、俺、柳川、乾の四人で構成されている。他の班からは「松平班」と呼ばれ、マル暴捜査において第一線を張っている。
「職務中やぞ。早ぅ本店に戻れ。乾に仕事押し付けよって」言葉こそ荒いが口調に棘は感じられない。仕事柄こういう喋り方になってしまうのは俺も同じだ。
「うるせえ。俺に文句垂れにわざわざ電話してくんじゃねえよ」
「まあ聞け。やっとガサ状(捜索許可状)が出たんや」
「どこの!」俺は切りかけていたケータイに怒鳴りつけた。近くの砂場で遊んでいた親子が驚いた顔でこちらを見たが、睨み返すとそそくさとその場から退散していった。
「ソープランド、クイーンタイムズ。あの雑居ビルの二階の」
すぐに分かった。前々から睨んでいた違法ソープだ。違法入国の韓国人や中国人ばかりを安値で働かせているのだが、鹿王会系暴力団である神坂組の息がかかっているために黙認していたのだ。
柳川は電話口の向こうで薄く笑った。「このガサ入れで何人か検挙できりゃ、また松平班の白星が増える。お前かて順調に出世したいやろ」
「ふん。そんなもんに興味はねえよ」俺は電話を切るとすぐに公園を後にした。
全く出世したくないと言えば嘘になるが、俺には会議室で資料をかき集めることよりも、第一線で歩き回ることの方が性に合っていた。現場でしか味わえないスリルと高い給料を天秤にかけると、やはりスリルの方を選ぶだろう。正直なところ、最近は大きな事件もなく味気なく感じていた。今回のガサ入れ、即ち家宅捜索も失敗は許されないが、昔大事件を経験したことのある俺にとっては薄い内容だ。
本店に戻ると、既に班員が玄関で待ち構えていた。よほど急ぎのことなのだろうか。俺は一抹の不安を覚えた。「わざわざここで待っていてくださるなんて、急ぎですか」
「まあな」低い声で応えた頭の薄い恰幅のいい男が、現在五十六歳の松平。班員からの信頼は厚く、この男が凄んだ時は確かに怖い。
その松平の横で、大事そうに一枚の写真を見つめているのが柳川だ。いつも一悶着あるときは決まって妻と娘の写真を見て心を落ち着かせるのがこの男のジンクスなのだ。もうこの道のベテランだというのに、マル暴らしからぬ小洒落たペイズリー柄のシャツを着ている。俺は見た目はあまり気をつかわない方だが、一番話が合うのがこの男だ。
「二階堂さん、どうぞ」そう言って拳銃と銃弾を手渡してきたのが、班の中で一番若手の乾。乾は数年前に警視庁からエリートコースを左遷されてこの道に来た。父親が警視官ということだったが、若気の至りで礼儀知らずの乾は、上官たちと反りが合わず何度も衝突を繰り返したらしい。
「悪ぃな」
この拳銃が実際に現場で使われることは滅多にないが、俺には何度か発砲経験がある。現場ではやはり犯人逮捕の瞬間が一番危険だ。追い詰められた人間は一体何をしでかすかわからない。実際、マル暴は警察官の中で最も殉職する確率が高い。一見現場に果敢に飛び込んでいく特殊部隊や、命がけの護衛をするSPの方が危険そうだが、防具を身に着けない分危険性は高まる。たとえ違法ソープのガサ入れでも下手をすれば反撃に遭うこともある。警察官とは、常に死と隣り合わせの仕事なのだ。
「乾」
車に乗り込むと、松平はシートベルトを締めながら発車の指示を出した。
覆面パトカーが走り出すと、松平は重く口を開いた。「二階堂が来る前に一度話したが、今回注意すべきは、現場にマルB(暴力団員)が潜伏しとる可能性があることや」
ヤクザが潜伏しているとなると、今回の案件は一気に難しくなる。
「カミサカの荒木健一の目撃情報が現場近くであった。潜っとる可能性は大や」
カミサカとは俺たちが独自に使う隠語で、神坂組のことを指している。その組員である荒木は、一週間ほど前に傷害と強姦で逮捕状が出ている。仮に荒木を逮捕しても、おそらく神坂組との関与は否定されることが予想されるが、逮捕できれば松平班にとってはかなり大きな星となる。とりわけ乾は左遷されたこともあり、特別出世することに欲があるようだ。
「荒木の事件は大きいっすね。何たって中学生に手ぇ出しやがったんやから」柳川は憎々しげに眉を顰めた。中学校に入学したばかりの娘がいる柳川にとって、なおさら許せない犯行なのだろう。
「ヤナ、くれぐれも無茶はするなよ。何べんも言うとるが仕事に私情を持ち込んだらアカンぞ。冷静な対処ができなくなる」
「わかってますよ、マツさん」
そう言いながらも、何度も腰の拳銃の感触を確かめる柳川を俺は横目で気にしていた。柳川が時に無茶をすることをよく知っていたからだ。
松平がフロントミラー越しにこちらを一瞥した。「二階堂、今回はお前が出入り口を塞げ。乱闘になることは避けたいが、もしものためにわしが先頭で斬り込む。そのあとにヤナと乾が続け。もしどっかに荒木が隠れとったらそっちを最優先にする。ええな、いつも通りやれば大丈夫やからな」
「はい」
こういう時に一番危険な役回りをするのが最年長者の役目なのだ。ここで怖気づかないところが、さすがは組織犯罪対策部で長年食べてきた松平だ。
車を運転する乾の横顔は緊張で強張っているように見える。松平が乾ではなく俺に表を塞ぐよう指示したのは、もしもの時に咄嗟の機転が利く者を入口に置いておくことと、まだ経験の浅い乾に、もっと現場での場数を踏ませることが目的なのだろう。刑事、特にマル暴の人間は数をこなすことで一流へとなっていくが、同時に最初のうちは大きなリスクを伴う。慣れないまま現場で死んでいく刑事が少なからずいることは否めない。まだ二十代の乾は、特に集団で行動することが苦手だ。ここでしくじれば取り返しのつかないことになる。
車は徐々に狭い路地に入っていき、目的地の雑居ビルから少し離れた場所に停まった。このみすぼらしいビルの二階が、これから乗り込もうとする違法ソープ店だ。俺たちは車から降りると、慎重に入口の前へ移動した。
素早く監視カメラや見張りがいないかを確認する。同時に小声で合図を送りながら、三人はゆっくりと薄暗い階段を上っていく。二階堂は腰の拳銃に右手を添え、背中を角ぎりぎりの壁に這わせた。こうすることで、わずかならも身を隠すことができる。目を皿にして、階段だけでなく外からの襲撃にも備え、意識を多方向に集中させる。
三人は階段を上りきると、ちらりと俺の方を見てから、一気にドアを開け部屋の中に乗り込んでいった。
○
「警察だ!動くな!」右手で拳銃を構えた松平は、左手で警察手帳を乱暴に振った。
店の中は薄暗く、ワインレッドのソファがコの字に並べられており、その横にカウンターが備え付けられている。従業員は白いスーツの男一人。背は高いが痩せ形でひ弱な印象を受ける。客は一人もいないようだった。
松平に詰め寄られ、男は慌てた様子で両手を挙げた。「撃つな。撃たないで下さい」
「後ろを向いて頭の後ろで手を組め」
男が言われたとおりにすると、柳川がすかさず乱暴に手錠をかけた。「15時7分」
「暴力団員を匿っているか」周囲を気にしながら、松平が横目で男に訊ねた。男は一瞬躊躇ったように目を泳がせたが、静かにうなずいた。
「荒木か。どこだ」
「一番奥の部屋にいるはず」男が顎をしゃくった先の通路には幾つもの部屋の扉があった。その突き当りの部屋に向かって、三人は走り出した。松平は銃を右手に挙げたまま、左手でドアノブに手をかけた。中から施錠してある。早くしなければ窓から逃げられる恐れがある。
「撃つぞ!」松平は数歩後ろに後ずさると、ドアノブへ向けて発砲した。
乱暴に扉を蹴飛ばすと、正面に大きなベッドがあり、若い女がシーツに体を埋めて怯えたように体を震わせていた。
――荒木はどこだ――
松平がそう思うのが早いか、横を見ると必死の形相の荒木が、鉈を勢いよく振り下ろすところだった。
ほんの一瞬にして、松平の首が叩き斬られた。
松平のすぐ後ろにいた乾は、考える間もなくを発砲していた。
松平と荒木。二人の男が命を落としたのは、たった数秒の出来事だった。
4
〈三木武志〉
水曜日の放課後。空には重苦しい暗雲が立ち込めていた。
胸が苛立ちで膨らんだ俺は、学校から駅へ向かう道を勇み足に歩いていた。頭の中は先ほどのことで一杯だった。
授業が終わると俺はそのまま格技場へ向かった。もう一度剣道部へ復帰する糸口を見つけるためだ。俺が到着したころには、何人かの先輩が先に来ていた。聞き耳を立てていたわけではないが、偶然聞いた会話の概要は、次の大会のエントリーのことで、俺が抜けることで三年が一人入れるというものだった。あいつらはその会話の中で、俺に対する鬱憤を好き放題に吐露していた。
実力で劣っているくせに都合の良いことを、と憤慨しそうになったが、今日はそこへ飛び込んでいく気力も湧かなかった。そのまま踵を返し、学校を出た。
一人、俺は歩いていた。今は葛藤のような気持ちは何もなかった。ただつまらなかった。これから代わり映えしない毎日が、永遠のように続くのだと思うと嫌気が差す。もちろん先ほどの出来事で剣道部へ戻る気も完全に消え失せていた。
どうせ暇つぶしの部活だ。剣道は家でもできる。いや、何が剣道だ。今更どうだっていい。
堪えきれずため息が出ると、俺の心を一層憂鬱にさせた。
つまらん。この怠惰の中に埋もれていたら自堕落に陥りそうだ。もっと何か刺激が欲しい。全身がゾクゾクするような、強烈な刺激が。
その時背後から肩を叩かれ、振り向くと隣のクラスの女子が三人いた。
「三木くん」
ユリエほどではないが、今どきの女子高生らしく若干化粧をしているようだ。スカートがかなり短く、見るからに遊んでいそうだ。むしろ都合がいい。
「こんな時間に珍しいね。部活は……。あー、何でもない」
愛想笑いを浮かべた俺に一人が自分の腕を絡ませてきた。しょぼい胸である。
「ウチら今からカラオケ行くんだけど、良かったら一緒に来ない?」
上目づかいに俺を見つめる。俺がわざと困惑した素振りを見せると、他の二人も「行こうよ~」とわざとらしく誘ってきた。さして親しいわけでもないのに、ここまで馴れ馴れしくできるとはつくづく腑抜けだ。だが、まあ、やって捨てるぐらいの鬱憤のはけ口には使えるだろう。
「いいよ」
優しく笑い返すと三人も嬉しそうになった。だが俺は気づいていた。その笑顔の裏に、単に見た目がいい俺を引き連れて歩けるという優越感があることを。同時に、自分が求められているのはこの外見だけだということもわかった。だから尚更罪悪感は湧かない。馬鹿を好きに使っても自業自得というものだ。
カラオケ自体は至って普通だった。盛り上がらなかったこともないが、だからどうといったこともない。さしずめ、俺が心から楽しめたはずもなく、終始気を遣うだけの重苦しい時間だった。
二時間のカラオケが終わり、俺たちは暗くなった道へ出た。三人の女子のうちの二人が、「家こっちだから」と別れを告げた。その時に二人がもう一人に「頑張れよ」と小声で言った時に確信した。最初から自分に気があることは見抜いていたが、これほどあからさまに示されれば間違いないだろう。まあ食えない顔でもない。スタイルも。今7時半か。少し早いが、まあ悪くない時間だ。このままこいつの家に行くか、それともホテルへ連れ込んでやろうか……。
画策していると、気づけば二人は帰っていた。残された女は、暗くてよく見えないがどうやら顔が染まっているらしい。何を勘違いしているのか。つくづく馬鹿な女だ。だが馬鹿な女ほど簡単なものはない。
「この後どうする」
顔を近づけ優しい笑顔で囁いた。一瞬驚いた女を深い酔いへ誘うように俺はその髪を弄んだ。こういう女は刺激を求めているものだ。
「どうしたの、顔赤いけど」優しくはにかんだのももちろん計算だ。女は恥ずかしそうに身をくねらせた。
「カラオケの時も、ずっと思ってたけどさ、やっぱ可愛いよな」
そういって髪から耳、耳から首へと手を移動させる。やはりだいぶ熱くなっている。体は正直だ。今度は指先を首筋からなぞるように顎まで移動させ、落としていた視線を自分へ向けさせた。数秒見つめた後、俺は甘い吐息のような声を出した。「もう少しだけ、一緒にいたい」
そこで流れは完全にこちらのものになった。
そのあとはいつもどおりだった。決まった運動、決まった動作を繰り返す。俺にとっては自分の快楽以外は目的ではなく、相手がどう感じようと関係なかった。だから蛇のように冷たく體をなぞり、何の情もなく事に及んだ。半分犯していたようなものだ。だがその快楽も一時的。全てが終わると、体を丸める彼女が醜いものに思えてならなかった。汚らしく、悍ましいものに見えると心はさらに冷たくなっていった。
「じゃあな」それだけ言い、部屋から出ようとした俺を女が引き留めた。これもいつものパターンだ。
「待って。ねえ、あたし本気だから」
俺は何も言わず、立ったまま裸の女を見下ろしていた。侮蔑に目を細めながら。
「あたし……武志くんのこと本気で好きだから。だからちゃんと付き合ってほしい」
女が顔を赤くし俯いたとき、俺は鼻で笑うように息を吐いた。何よりも、この瞬間が堪らない。優越感を手に入れ、同時に突き放すこの瞬間が。
「へえ、そっか。でもな、俺には愛だの恋だのいった下らねえ感情は無いんだ」
「……なにそれ」
俺を見上げた彼女は呆気にとられたような、怯えたような顔をしている。これも、いつものこと。
「おかしいでしょ。ここまでしておいて」
「はあ?下らねえ冗談はよしてくれ。自分を何だと思ってんだ。自分にそんなに価値があると、本気で思ってるわけじゃないよな?」
「え……」
俺は心の底から呆れたように大きく息を吐いた。「馬鹿にすんな。俺と対等に慣れ合おうだなんて生意気だ。お前みたいな性欲に塗れた醜い女は死ねばいい。それとも殴ってやろうか。もっと刺激的になる」
声を立てて笑いながらそのまま部屋を出た。階段を降りるときに、呻くような奇声が聞こえたが気にならなかった。それどころか小気味よかった。自分に対して所詮顔しか見ていなかった女などどうでもよかった。自分の本質も見抜けずに軽々しくその身を差し出した馬鹿。当然の報いだ。
玄関を出ると、仕事から帰ってきたところか、女の父親とすれ違った。すれ違う時に男は何か言おうとしていたようだったが、俺は冷たく睨んでやった。
電車に揺られながら、先ほどのことを呆然と思い出していた。時間が経つたびに、俺は人間らしい良心をじわじわと取り戻していった。最後に聞いた呻き声が耳に残って離れない。鬱陶しいと何度も気を紛らわそうとしたが、どういうわけか頭から離れてはくれなかった。目を閉じた俺の頭に、部屋を出る直前に見た絶望的な女の顔の残像が浮かんだ。
苛立たしげに窓の外を睨んだ。流れる景色を邪魔するように、窓に張り付く自分の顔が見えた。
きれいな曲線を描く輪郭。流れるようなしなやかな髪。涼しげな切れ長の瞳。形の良い高い鼻。薄い唇。どれをとっても完璧だった。ただ、表情はやつれていてまるで老人のようだった。
やっぱりどいつも顔しか見てないんだ。だから俺は求められる。でも、俺の本質が認められたことなんか、今までたったの一度だってない。
そう思うと先ほどまで悦に浸っていた自分が惨めに思えてならなかった。
俺は何をしてるんだ。こうやって女を食い物にして、一時の感情で満足している。こんなことをしている間に老いて、大事なことを見失って死ぬんだろうか。こうやって簡単に望めば得られるから、何の価値も実感できない。人を好きになっても、蓋を開ければどいつも内面は醜くて、欲望に塗れたただの「女」だった。本気で俺を好きでいてくれる人はいないだろう。俺だって、本気で人を好きになれない。いつもどこかで相手を見下している自分が怖い。
自分の冷たい両手が顔を覆った。その顔は、手よりも遥かに冷たかった。
俺は一体、何を求めているんだ――。
5
〈三木武志〉
苦しい。苦しい。ここは居心地が悪すぎる。
俺の居場所はいつも誰かの遠くだ。俺は名前も知らない誰かから、遠巻きに憧れや好意の目で見られる存在だ。でも絶対に話しかけては来ない。ひそひそと噂をして、それで楽しんでいるだけだ。そんな他人の生活を彩ることはできても、自分自身を満足させてやることはできない。どんなに求められてもそれに価値を見いだせない。俺は恵まれているのか。どんなに顔がいいと言われても、そんなことには何の価値もない。そんなものは所詮一つのアドバンテージに過ぎない。顔がいい……。女にもてる……。馬鹿馬鹿しい。こんな俺のどこが恵まれているというのだ。本当に大切なものもわからずに、ただ頭で考えて、行動も伴わない。どうせならもっと馬鹿になりたかった。そうすれば、何も考えずに好きなことをして満足していられるのに。
自嘲するような無味乾燥な息が漏れた。どうしても居心地が悪くて、武志は一時限目をサボって屋上に行くための暗い非常階段をふらつくように上っていた。
本来は立ち入り禁止で武志も行ったことはないが、もしかしたらこの学校の中で一番安らげる場所かもしれないと思った。
あいにく今日は霧が濃いが、それでも空を見上げていたら、また前みたいに少しは気持ちが楽になるかもしれない。授業の単位なんかどうでもいい。どうせ俺は頭がいいからすぐに取り返せる。でも勉強もしないくせに人よりも優れているなんて生意気だよな。俺みたいなやつより、もっと将来とかそういうことに真面目なやつはいるだろうに。頭の良し悪しも半分は遺伝っていうが、じゃあ俺にあるものは全部最初から備わったものだったのか。そう考えると努力なんか虚しくなる。
階段を上りきると眩しい光で視界がいっぱいになった。途中から光を遮断する屋根はなくなり、深い霧が視界を遮っていた。入口には閉ざされた背の高い柵に、鎖が何重にも巻き付けられてあったが、無視して無理やりよじ登った。
まだ朝だから少し肌寒い。シャツだけじゃ少し冷える。それにしても広い屋上だ。こんなにも濃い真っ白な霧のせいか縁の境界線が見えない。こんなに高い場所にいるのに、全くそんな感じがしない。
武志は数メートルあろうかという柵の上から、薄らとしか見えないコンクリートへと飛び降りた。両足に痺れるような痛みを覚えたが、それもすぐに消え失せた。
この下で、みんな椅子に座って真面目に勉強してるんだよな。したくもないことを、無駄な努力かもしれないのに……。そう思うと何だか自分も可哀想になってくる。生まれてからあれだけ剣道をしてきて、全国で二位という大きな結果は残したものの、結局それが何の役に立つかはわからない。せいぜい俺が道場を継いだ時の宣伝文句に使えるぐらいだろうか。だったら実に下らない。それに剣道なんて普通の生活をしていたらまず使うこともないだろう。もしヤバい状況になっても、絶対にボクシングや空手の方が現実的だろう。その辺に都合よく棒が落ちてるはずがない。
気が付けば剣道のことを考えていた。よくよく考えれば、今さら思い出したくもないことだ。忘れよう。今はどうでもいい。そんなことよりも、この屋上がどうなっているのかが気になる。霧が晴れてくれればきっといい景色なのに。
硬いアスファルトの上を上靴で歩きながら、俺の意識は実に下らないことに向かっていた。床に生えているコケがどこからやってきたのかとか、何でこんなところにアリの巣があるんだろうとか、ここから飛び降りたらどんなにグチャグチャになって死ぬんだろうか、とか。
そうして屋上の一番端まで来たとき、武志は無性に叫びたくなった。理由なんか分からないが、とにかく叫びたくなったのだ。都会に住んでいると叫べる場所なんかどこにもない。確かに今叫んだらまずいことになるかもしれないと、一瞬そんな考えが脳裏を過ぎったが、そんなことを深く考えることもせず叫んでいた。
「アァーッ!」
人ではなく犬のような声だと思った。飢えた犬だ。それでも武志は、この葛藤を少しは吐き出せたような気がして心もち楽になった。すると自然と口の端が歪み、笑いが込み上げてきた。最初は小さかったが、だんだん大声になった。
「ねえ」
女の声。どきりとした。
振り向くと少し遠くにうっすらと人影が見える。どうやら女子生徒らしいが、何故こんなところにいるのか武志には分からなかった。
「誰だ……」
彼女はゆっくりと近づいてきて、お互いの顔が見えるぎりぎりの距離で立ち止まった。武志はその女の顔をよく知っていた。そして、声も出せずに呆然としてしまった。
桜田澪――あの特異な転校生だ。
桜田は何も言わずに、その右の目で俺をじっと見ていたが、ふいと逸らし、歩み寄ってきたかと思うと風のようにそのまま通り過ぎた。
声をかけようとしたが何も言えなかった。普段の武志なら上手い言葉がいくつか浮かび上がってもおかしくはないのだが……。
桜田はそのまま歩いていき、武志がいたフェンスに体を預けた。普段の武志ならば、変なやつだとあしらったかもしれないが、彼女を見ていると、何だか自分の濁った心を、まだ辛うじて残るきれいな心が静かに眺めているような感覚を覚えた。
「何でそんなに大声出すかなあ。誰か来ちゃうよ」
俺の方に振り向いた彼女は、笑っているような悲しんでいるような顔をしていた。
「……悪い」
その言葉はあまりにも自然に発せられて、武志自身も意外だった。
「あなたは」
名前を聞かれているのだとはすぐには分からなかった。
「三木、武志……」
何が嬉しいのか、桜田は鈴が鳴るような可愛い声で笑った。
「私は桜田澪です。よろしく」
「あ、うん。さっきの、悪かった……。誰か来たらまずいよな」
桜田は小さくかぶりを振った。
「別にいいけど、何か嫌なことでもあったの?泣いてたように見えたけど」
そう言って片方の澄んだ目で見つめられ、俺は返答に困った。その瞳は吸い込まれそうになるほどの暗黒で、宇宙のような美しさを秘めていた。
「別に泣いてねえよ」
桜田は「そうだねえ」と微笑んだ。武志には彼女の笑顔は眩しすぎた。自分はいつも暗いところを見て生きてきたが、彼女は明るい方を見ているのだと思えたからだ。
彼女は俺が何も言わないとわかると、さらに続けた。
「たった今会ったばかりなのに、失礼なことを言っちゃった。忘れて。三木くんの一人でいる時間を邪魔しちゃった。ごめんね。私はすぐに消えるから」
「消える」という言葉に違和感を抱いたが、それよりも彼女を返してはならないと、俺の中の何かが働きかけた。それはほんの少しの衝動だったが、俺の心は今にも溢れそうだった。「待ってくれ」とは言えなかったが、それよりもむしろ俺の心だった。
「俺はいつも一人だ」
こちらへ歩き出そうとした彼女は、驚いたように身動きを止めた。
「周りに誰がいても、いつも俺は孤独なんだ。だから……もう少しだけ」
一緒にいたい。そう言いかけてはっとした。俺は何を言っているんだ。これじゃあいつもと同じだ。上手く自分の気持ちを伝えようとしても、実際はそうじゃない。これはいつも人を欺くときに使う、嘘の自分を演じる技だ。でも今は、素の自分でいたい。それを認めてほしい。
彼女は何も言わずに俺に近寄ってきた。見た目よりも背が低い。それに、きれいな髪だ。いい匂いがする。俺は不思議な感覚に囚われた。
「きっとあなたは一人じゃないよ。でも、その相手は私じゃない。私といると本当に一人になるよ」
「なんで……」
彼女は真っ直ぐに俺の目を見つめて、言葉の変わりに、寂しそうに、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
そのまま彼女は立ち尽くす俺の横をするりと通り過ぎた。はっとして振り向いたが、既に彼女の姿は霧に中に消えていた。
6
〈二階堂健二〉
昨夜、松平の葬儀は厳格かつ早急に執り行われた。参列者の多くが警察官関係者という物々しい雰囲気の中、松平の親族たちは所在無さげだった。俺たちも悲嘆に暮れてはいたが、ゆっくりとしていられないのが警察官の悲しい性だ。一番辛いのは家族だからと、俺たちは今日も普段通り仕事をしようと出勤した。
俺が自分のデスクへ行った時、柳川と乾はそれを待ち構えたようにそこに突っ立っていた。だがいつもと違い、軽い挨拶もない。柳川は険しい表情で「会議室へ行くぞ」と言い歩き出してしまった。乾も軽く頷いたような会釈をしただけで、俺とは目も合わせない。
嫌な予感がした。班の核である松平がいなくなったということは、もう俺たち三人を繋ぎ留めるものがなくなったということだ。今から下されるのは、俺たちがそれぞれ違う班に異動になるということだろうか。それとも俺を主任に立てて、新たなメンバーが加わるということだろうか。
「失礼します」
緊張の面持ちを浮かべ、重い会議室の扉を開けた。
中で待ち構えていたのは本部長だった。
やはり直々の宣告かと、俺は背筋を伸ばした。眉間に深い皺を寄せた本部長は、デスクに置いてある三枚の封筒を手にした。それぞれに名前が書いてある。本部長はそれらを手元で弄ぶように眺めていたが、一つ咳払いした。
「今回の松平警部の殉職は私としても大変遺憾だ。君たちは同じ班に属しており、そのショックはかなり大きいものだと思う。ただ、今回の件に関しては松平警部の不注意による過失致死だ。こちらとしてもそう処理するつもりだ。今回のことで一人欠け、班として成り立たなくなった。そこで君たちにはそれぞれ別々の部署に異動してもらうことになった。何か質問はあるかね」
やっぱりか。これで松平班も解散だ。
柳川が「いえ」と応えると、本部長は俺たちにそれぞれ封筒を手渡した。
今後の対応などの簡単な説明を受け、俺たちは会議室をあとにした。
デスクへ向かう道すがら、最初にため息を漏らしたのは柳川だった。それから何も言わずに封筒の封を乱暴に破った。
「組織犯罪対策部……第一係?」
乾も紙を取り出すと「僕も第一係です」と言った。元々俺たちは第一係だった。ということは新しく人員を入れることになる。だが先ほど本部長は「異動」という言葉を使った。つまり、そういうことか。
恐る恐る紙を取り出すと、諸挨拶のあとに「東山署刑事課」と記されていた。
何故だ。何故俺が所轄なんかに……。
デスクのあるフロアに戻ると、パソコンに向かっていた他の班の男たちが俺たちを見た。俺は確かにその視線に刺を感じ取った。
「二階堂」横を歩いていた柳川がちらりとこちらを見た。
「何だ」情けないが、俺の声は上ずっていた。
「隠さなくてええ。お前、異動やろう」
「あ、ああ……。だが納得できない」
柳川は俺に耳打ちした。「これはあくまで噂やがな、上はどうもお前が何か隠しているんやないかと見とるらしい。マツさんのことも、お前が何か知っとるんやないかって」
柳川が言ったことはつまり、俺が神坂組に裏で情報を売っていたのではないかということだ。瞬時にそれを察した俺は憤りに拳を固めた。
「ふざけんじゃねえぞ!」
勢いで柳川の胸ぐらを掴んだが、柳川は静かに俺の手を解いた。
「あくまで噂や。やけどな、火のないところに煙は立たぬっていう場合もある」
「柳川……」
思わず柳川を殴りたくなった。だがそれはその場凌ぎに過ぎない。どんなことをしても自分の立場では上官の決定事項を覆すことはできないのだ。それにこうやってわざわざ情報を回してくれる柳川に罪はない。俺は何も言い返すことができず、周囲からの冷たい視線に耐えていた。
「俺かて……俺かてお前を信じたい」柳川は硬い表情のまま、俺を見ないように視線を足元に泳がせていた。
「けどな、マツさんが死んだ以上、どうやってもお前を庇ってやることはできん。それに本音を言うと、俺もお前を腹の底から信じてええかわからんのや」
何よりも最後の言葉が堪えた。
「柳川ァ!」
殴りかかろうと拳を振り上げたが、柳川の悲しそうな顔を見ていると自然と右手は下がっていた。極まり悪くなって横を見ると、乾が青い顔をして突っ立っていたが、すぐに目を逸らされた。
そういうことか。もう俺はここにいることはできないのか。
苦いものが胃から押し返されるような、嫌な感じがした。結局そのどうしようもなさを、俺は誰にも向けることができなかった。
7
〈三木武志〉
屋上で初めて桜田と喋って以来、学校で彼女を見かけることがなかった。移動教室の時や放課後、それとなく彼女を探していたが、不思議と俺たちが出会うことはなかった。もしかしたらまた屋上にいるかもしれないと何度も思ったが、また足を運ぶことはなかった。何故だかそうするべきではないと思ったからだ。それでもずっと、あの時の桜田の複雑な笑顔が胸につっかえていた。
他にも俺はどうしても気になることがあった。桜田の顔の傷は一体何が原因なのだろうかと。それに彼女に強い意思のようなものを感じた。なぜそこまで気丈でいられるのだろうか。
もう一度ちゃんと喋りたい。
刻々と流れる時間とともに、その思いは確かに強くなっていた。
悶々とする日が続いたある日、放課後、帰り支度をする俺のもとへユリエがやってきた。いつも数人の仲間と一緒にいるユリエなのに今日は珍しく一人だった。
この時間帯の教室は数人の生徒を残すだけで、あとは各々部活へ行くなり帰宅したようだ。ユリエはスポーツバッグに教科書類を詰める俺の横で、最近の悪天候のことや同じクラスの女子の愚痴を話していた。俺は荷物をまとめ終わっても、まだユリエが喋っているためにその場を動けずにいた。
そんなユリエの話に相槌を打ちながら、長いなと心の中で呟いた。そうしてユリエの話がひと段落ついたとき、一つ質問した。
「そういや、いつも一緒にいる人たちは?」
「えっと、今日はみんな補習なんだって」
ユリエは「あたしって意外と頭いいじゃん?」と言い、いつものようにケラケラ笑った。俺は肯定も否定もせず、代わりにカバンを持ち立ち上がった。
「ねえ、どうせ部活ないし暇なんでしょ?だったら帰りどっか寄ろうよ。あたしお腹減っちゃってさあ」
確かに俺も空腹だったし、幼馴染の誘いを断る理由もないので二つ返事にOKした。
帰り道にあるファストフード店の椅子に座るや否や、ユリエはわざとらしくため息をついた。店に近づくにつれ口数が減ったとは思っていたが、単に話すことがなくなっただけだと思っていた俺は「どうした?」と珍しく自ら話を促していた。。
「おお、聞いてくださるかタケちゃん」
ユリエが小学生の時のように、俺のことを「タケちゃん」と呼ぶときは決まってロクでもない話をする時だ。そのために俺は反射的に身構えた。
「あたしと前付き合ってたヤツいるじゃん?」
ちなみにユリエは学年でも有数の尻軽女として知られている。女に見れなくて、俺が抱いたことは一度もないが。
「ああ、あの歯並びの悪い大学生か」
「違う違う。その次のF高の」
そう言われてもピンとこない。正直ユリエが誰と付き合ったかなんて把握していないし、興味もなかった。それでも俺は「ああ、あいつか。で?」と続きを促した。
「あいつったら別れたっつーのに、毎日メールしてくるから、こっちもいい加減ウザくなって、もうやめてって言ったら逆ギレしてきたんだよ!信じられる?」
そう言ってユリエはポテトをばくばく貪り始めた。俺は「信じられないなあ」とドリンクのストローに口をつけた。
「そんで電話かかってきて出てみたら、『俺はまだユリエのこと本気で好きだからー』とかわけのわかんないこと言ってきてさ、マジ怖かったからアド変して電話もブロックしてやったっつーの。不思議だよね~」
そう言って今度はメガバーガーを食べ始めた。驚いたことにこの時点で既にポテトは食べ終わっていた。
「で?」
ユリエは苦笑いした。「でって、あんたはどう思うよ?」
「おう、お前が正しい」
ユリエは口に物を入れたまま「そうじゃなくて~」と口を尖らせた。「普通さ、男ならフラれたら諦めるっしょ。まあ女でもそうだけどさ。なのにだよ、そんなにあたしのこと好きってどーゆーことよ」
ユリエが何を言いたいのかいまいちよくわからなかった俺は小首を傾げた。
「そんだけお前のこと好きだったってことだろ。良かったな」
ユリエはメガバーガーを飲み込むように食べ終えると、コーラを飲みながら不敵な笑みを浮かべた。「やっぱ逃がしたくなかったんだろうね~。だってあたしってしょーみ美人じゃん?滅多にいないよ?」
「はあ」俺は曖昧にうなずいた。するとユリエは「あたしって美人だよね?タケちゃん?ね?ね?」とわざとらしく目を大きくして瞬きして見せた。本気でめんどくさくなったので「その通りだ」と今度は力強く肯定した。
機嫌を良くしたユリエは俺のポテトに手を伸ばしてきた。
「お前、勝手に食うなよな。つーかどんだけ腹減ってんだよ」
美味そうにポテトを頬張るユリエを前に、俺は気づけば笑っていた。
「あー!」
ユリエがいきなり声をあげたことで、俺は、こいつは公衆の面前で大声出しやがって一体何を考えてんだ、とむっとした。
「なんだよ」
「あんたが笑ったとこ久しぶりに見たよ。最近全っ然笑わなかったもん」
そう言ったユリエはなんだか嬉しそうだった。言われてみれば確かにここ最近全く笑わなかった気がする。
「あんたの笑顔を引き出したユリエちゃん、今日も絶好調でーす。てことでこのハンバーガーもいただきー」
俺のハンバーガーを素早く奪い取ると、勢いよくもしゃもしゃと貪りだした。
「お前それでも女かよ」
そのなんとも間抜けなざまに苦笑いし、これだけ食っても太らないユリエに感心させられた。
「そういやあんたの話、なーんも聞いてないや。最近どう?女関係とか」
女関係と言われてどきりとした。このユリエだけは、唯一俺の人間関係において踏み入ったことまで知っているのだ。一体どう返せばいいかと、少々不安になった。
「そんな硬くなることないってー。リラックスリラックス」
ただユリエはそのことも含めて俺のことを認めている。時として面倒だが、同じだけ頼りになる女だ。
「いつも通りかな」
ふーん、とユリエはつまらなさそうにうなずいた。俺は黙ってドリンクを啜った。炭酸が鼻に来て思わず顔をしかめた。
「じゃあ、やっぱ彼女はいないんだ」
実のところ、俺には今まで正式に付き合った相手はいなかった。いや、相手の方はそう思っていたのかもしれないが、それは単に俺に抱きくるめられたからで、そのところは曖昧だった。
「……でもまあ、別にいらねえよ」
嘘ではないと思った。というよりも、確かめるために口にしたという方が正しいだろうか。俺は自分の紙コップを持つ手をじっと見ていた。同時に、霧の中に浮かび上がる桜田が見えたような気がした。
ユリエは「そっか」とハンバーガーを一旦テーブルに置いた。「でもどうせ暇してんでしょ、剣道やめてから」
口ごもる俺を見て、ユリエは肯定したと受け止めたようだった。「剣道やめた理由はもう聞かないよ。あんただって言いたくないだろうし。でも何もせずにだらだらしてるのはもったいないよ。別に恋しろって言いたいんじゃないけどさ、そのうちしんどくなるよ」
今でさえ十分にしんどいよ。そう思ったが、口に出すことは憚られた。代わりに「別に平気だよ」と無理やり笑顔を作った。目が合うと、ユリエはなんだか強気な顔をしていた。
「無理するなよ」そう言ったのはユリエだ。「最近顔色悪いよ。家族と上手くいってないんじゃない?お父さんだってさ、そりゃあ希望の息子がいきなり剣道やめたら、堪えるんじゃないかな」
「やめてくれ」
ユリエ、お前が俺の何を知っているっていうんだ。俺の心を見透かしたようにずけずけと物を言うのはやめてくれ。
「期待とか、あいつはこういうやつだとか、そんなことを誰かに決められる筋合いなんかない。そのたびに俺はそれを裏切らなくちゃならない。それってほんとに苦しいことなんだ。お前にそれがわかるか」
ユリエは驚いたように目を丸くした。
「人から期待されるって、それだけ自分を押さえつけられるってことなんだ。俺を押さえつける権利なんか誰にもない」
「ごめん……。別に武志を怒らせるつもりはなかったんだけど……。でも、あたしだって何も考えずに生きてるわけじゃない。人目だって気になるし、それ以上にこのままでいいのかなって……。ずっと高校生でいれるわけじゃないもん。友達とバカやって、でもその帰り道とか寝る前とか、虚しくなる。でもそんなこと考えだしたら、怖くて何もできなくなるじゃん。そうやって何もできなくなるより、失敗しても、恥ずかしい思いしても、今しかできないことをした方がいいに決まってる。あんたの言いたいこともわかるよ。確かにあんたはあたしなんかより、よっぽど期待されてる。でも、それだけそれを跳ね返す力が必要ってことでしょ?だったら理屈で誤魔化さないで、本気で勝負しなよ。裏切りたくないなら、勝負するしかないんだよ」
そう言ったユリエの目は、逸らしたくなるほど真っ直ぐにこちらを見つめていた。正直、ユリエがこれほどまで考えているとは想定もしていなかった。ユリエが放った言葉があまりにも核心を突いてきたために、俺は動揺した。
「勝負なんて言葉、簡単に使うなよ……」
俺がそう言ったあと、ユリエは何も言わずに視線を落としていた。重い沈黙に耐えかねた俺は立ち上がった。
「もう帰るよ。今日はありがと」
そのまま俺は憮然たる面持ちのユリエを残し、逃げるようにその場を後にした。
8
〈三木武志〉
家に帰ると既に9時を回っていた。玄関の電気は消えていて戸の鍵も閉まっている。鍵を開けて家に入るのはいつものこと。暗い玄関で靴を脱ぎ、暗い廊下を歩いて居間へと向かう。
俺の家は古式の日本家屋で、その離れが道場になっている。敷地は広いが江戸時代末期から何度も修繕を繰り返しながら使われているために相当ガタがきている。内部も改装されたがほとんどの部屋が畳のままで、居間だけがフローリングにテーブルを置いているといった状態だ。名門とはいえ道場だけでは稼ぎは少なく、親父は審判に呼ばれたり、兼業で剣道の本を書いているが、これがなかなか売れない。お袋は近くの小料理屋の女将をしていて、そちらの方が稼ぎがいいぐらいだ。
「ただいま」居間のドアを開けると、お袋がキッチンで洗い物をしていて、親父は床で剣道で使う防具を磨いていた。親父はいつものように和服を着ている。二人とも俺とは目も合わず曖昧な返事をした。
「ご飯、できてるわよ」
テーブルの上には確かに食事は用意されていたが、どうやら冷え切っているらしい。
「ああ」俺はちんまりと椅子に座った。冷めた夕食に箸をつけようとしたとき、親父が口を開いた。
「遅かったな。最近どうした」いつになく感情のない口ぶりだ。そのうえ俯き加減で背中を向けているために表情も見えない。俺は何も言わず食事を続けた。
「弛んでるんじゃないか。どうせ遊んでたんだろ」
「進学補習」ぶっきらぼうに答えた。
「大学なんか行かんでいい」
俺は無視して食べ続けたが、どうも食欲が湧かなかった。
「ごちそうさま」そう言い残し、俺は自分の部屋へ向かった。
この家は息が詰まる。剣道をやめてから尚更だ。
二階にある俺の部屋は六畳の畳敷き。ベッドではなく布団で、その横に勉強机があり、押し入れとタンスがあるという簡素なものだ。俺はタンスの上の音楽プレーヤーの電源を入れた。音楽でも聴かないとこの威圧的な空気に飲み込まれてしまいそうだった。
適当に洋楽をかけ、畳の上で横になり両手を枕にして目を閉じた。穏やかな音楽を聴いていても、胸の変なざわつきはどうしようもない。思い出したようにケータイを取り出したが、何の変化もなくすぐに元に戻した。
見上げるとタンスの上には数々のトロフィーの類があり、壁には賞状や剣道をしていたころの写真が飾られている。今となってはもうずっと昔のことのようだ。それらを見ると大きなため息が漏れた。もう一度目を閉じ、今度は何も考えないように音楽に耳を傾けた。
確かにユリエが言っていた通りだ。
俺は身を起すと窓を開け外を見た。
このまま時間を食い潰していてもしょうがない。勝負してみよう。明日桜田のところへ行ってみる。そこで何かわかるかもしれない。この悶々とした気持ちの正体が、桜田のせいなのか否か。
そういえば桜田はユリエと同じクラスだったはず。ふと思い出し、ケータイからユリエに電話しようとしたところで、やめた。やっぱり自分の力で行くべきだと思ったのだ。人の力を借りても仕方ない。
明日、もう一度桜田と話す。それからユリエに謝ろう。あいつは俺のこと気にかけてくれていたんだ。
○
次の日の昼休み、俺は桜田に会うため3組に来た。同じ階にあっても、今までは一人で行くことが躊躇われてどうしても行けなかった。ユリエは俺を見つけると昨日のことが嘘のように笑顔で手を振った。俺も軽く笑い返したが、それ以上は何もしなかった。一瞬謝るべきだと思ったが、状況が状況だ。俺は教室を見まわし桜田を探した。だが彼女の姿はどこにもなかった。
もしやと思い俺はその足で屋上へ向かった。まさかとは思ったが、どうしても確かめずにはいられなかった。
走って暗い非常階段を上りきると、果たして、そこに彼女の姿があった。信じられなかったが、嬉しかった。彼女は一番遠くのフェンスに身を預け、遠くの空を見つめているようだった。
「桜田さん!」
柵のこちら側から彼女の名を大きく呼んだ。振り返った彼女は驚いたようだったが、確かに微笑んだ。一歩ずつゆっくりとこちらに来て、柵を挟んだそこに立った。俺たちがいる場所はちょうど死角になっていて、以前のように霧が濃くなくても人に見られることはなく、気兼ねなく話ができそうだった。
「久しぶり」
彼女の瞳の光が揺れていた。片目だけでも、その瞳は確かに美しかった。俺は嬉しくて仕方なかった。
「どうしてここに」
「もしかしたらまたここにいるんじゃないかって思ったから。桜田さんこそ、どうしてここに」
桜田は困ったように笑った。「誰にも言わないでよ。ほら、あそこに鳥の巣があるでしょ」
彼女が指さした先の、用水タンクの上には確かに大きな鳥の巣があった。ちょうど屋根がついていて雨を防げるようだ。ひな鳥たちは巣から頭を覗かせて、親鳥が運んでくる餌を我先にと待っている。
「シラサギ。時々ここに来て様子を見るの。もうすぐ巣立ちだから」
そういうことかと妙に納得させられた。てっきり何か重大な悩みでも抱えていて、一人になりたくてここへ来るものだとばかり思っていた。
「そうだったんだ……」
「すごく、幸せそうだよね」そう言い微笑んだ桜田が、どうしようもなく愛らしかった。
優しい風が吹き、彼女の柔らかな髪をかき上げた。「もうすぐあのヒナたちはここから飛び立って、大人になっていく。私もそんな風に飛べたらいいのに」
この時、俺は彼女がなぜ彼女が遠い目をしたのか、わかっていたようで、本質的にはなにもわかっていなかった。
「でも、教室に戻ったらいつもつまらない」
「どうして?」
桜田は苦しそうに笑った。「だって、私はみんなとは違う」
「もしかして、目のこと……」
桜田の悲しそうな顔を見た途端、俺はそんなことを聞いたことを激しく後悔した。俺はそれを誤魔化すために、桜田が口を開く前に「でも」と取り繕った。
「それは関係ない」
桜田は大きくかぶりを振った。「それは違う。この傷は私を何度も傷つけてきた。たとえ整形しても視力は戻らないし、心の傷だって癒えるわけない」
この子の過去に一体どれほどのことがあったんだ。それを知らないことがどうしようもなく煩わしかった。
「誰かにそのことを言われたのか」
桜田はまた大きく首を振った。
「ごめん……。もう聞かない」
桜田は視線を地面に落としていたが、また上げた時、その目は涙に濡れていた。
「この顔の傷は、事故じゃない」
そのあとの彼女の言葉は、俺の想像を遥かに越えていた。それはまるで剥き出しの鉄骨のように、冷たく脆いものだった。
「この傷は、何か強い酸で焼かれてできたもの。八年前、私がまだ小学校の低学年だったころ、襲われて、それから焼かれた」
言葉もなく立ちすくむ俺に桜田は続けた。「理由は私の父親がヤクザだったから……。それだけ。私の顔を焼いたやつらは父さんの仲間に殺された。別のやつに、父さんも殺されたけど」
「そんな……」
「これが私の現実なの。夜が来ると、どうしようもなく怖くなる。どこか遠くへ逃げ出したくなるよ。でもそれはできない。やっぱり私はどこへも行けない。時々夢に見るの。鮮明に記憶に焼き付いたあの時のことを。暗闇の中で大声で脅されて、犯されながら目に酸を流される。酸は強烈で鼻もきかなくなった。あれは火傷の痛みじゃない。皮を肉ごと剥がされるような感覚だった。でも一番覚えているのは、笑ってたあいつらの顔」
信じられなかった。この子にそれほどまでに辛い過去があったなんて。今、この子は目を真っ赤にして、肩を震わせながら俺にそんな重大な告白をした。それがどれほど辛いことか、俺には到底想像がつかなかった。
どうしてこの子がそんな辛い過去を背負って生きなくちゃならないんだ。現実とはこんなにも冷たいものなのか。俺は言葉にもできないような憤りに震えた。
この子のために、何かしてあげたい。その悲しみを分かち合いたい。
だが俺たちには越えられない壁がある。ちょうど俺たちを隔てる柵のように。
「来てよ」桜田が言った。
9
〈小林ユリエ〉
――ユリエ、ユリエ!――
まただ。夢の中で小学生の頃のあいつがまたあたしの名前を呼んだ。机に顔を伏せて寝たふりをしていたあたしは、顔を上げてにっと笑う。「なあに」と聞くと、あいつも笑って「遊ぼうぜ」とドッジボールを差し出してくる。真っ黒に日焼けしたあいつの顔にはたくさんのかすり傷や痣の跡があって、いつも友達とやんちゃしていたあいつらしかった。あたしは立ち上がって、あいつからボールを奪い取って走り出す。鮮やかな光の中へ、あたしたちは駆けていった。
そこで目が覚めた。
「ユリエ」
教室のドアからあいつがあたしの名前を呼んだ。あいつはあの時からすっかり成長して、昔はチビだったのに、今じゃ見上げないと顔が分からない。
机から顔を上げたあたしは、あの時のあいつを垣間見たようで嬉しかった。昨日あいつを怒らせてしまったけど、あいつはもう怒ってないみたいだ。今ではすっかり変わってしまったけど、昔は毎日一緒に遊んだんだ。あいつは覚えているだろうか。一緒に星空を見上げたこと。一緒に野良猫を追いかけたこと。一緒に悪さして、怒られて泣いたこと……。
あたしは嬉しくて立ち上がりかけた。でも、あいつは作り笑いをして、教室を見渡すとそのままふらりと出ていった。別の誰かを探していたのだろうか。
少しだけ悲しかった。
休み時間、いつも机に顔を伏せているのは本当は眠いからじゃない。仲間外れにされるのが怖くて、一人を認めるのが嫌だから、寝たふりをして人目を誤魔化す。誰かに話しかけてもらうのを胸の内で期待しながら、そんなことはあり得ないと諦めている。中の良かったグループも最近崩壊した。気づけばあたしを残して、みんな別のグループに上手く溶け込んでいた。
自分の居場所がなくなって嫌だったけど、また友達ごっこをする気力は失せていた。みんなの中にいるよりも、あたしを必要としてくれるたった一人の人と一緒にいれればいい。そう思うようになったけど、あたしが必要としているそいつは、幻のように姿だけを目の前に置いて、いつも心は遠くにある。あたしを求めてくるやつらは大抵体が目当てだ。わかっていても、そんな男たちの優しい言葉に靡いてしまうあたしは馬鹿だ。こんな状況から抜け出すための糸口が欲しくて、いつもふらふらしてしまう。でもそんなものは誰からも与えられない。自分から追いかけないとチャンスは常に遠ざかる。
あたしは立ちあがった。
昨日のこと、ちゃんとあいつに謝らないと。
渡り廊下の窓から、眼下に外を小走りに行くあいつを見つけた。そんなに急いで一体どこへ行くつもりなんだろう。そっちは裏庭だ。なんにもない場所。
と、あいつは非常階段へ姿を消した。あの非常階段は屋根があってここからじゃ見えない。あたしはあいつを追うように、その階段へと急いだ。
非常階段を上りきった時、太陽の光の中にあいつのシルエットが浮かび上がって見えた。声をかけようとしたが、誰かと話しているようだった。あたしは角に身を隠し、その相手を確認しようと首を伸ばした。柵が邪魔でよく見えなかったが、相手は間違いなく女だった。ただ反響があるために声だけはよく聞こえる。そうだ。あの声は、転校生の桜田澪さんだ。美人だけど左目が潰れていて、いつもぼんやりと空ばかり眺めていて、滅多に笑わない不思議な子だ。そんな子が、なんで。なんであいつとこんな場所で話をしているんだろう。
あたしは見つからないようにじっとしながら、そっと二人の会話に聞き耳を立てた。
それからたった数分後、彼女の秘密を知ってしまった自分がいた。同時に驚いたのは、あいつが柵を上り、桜田さんを抱きしめたこと。到底あいつのいつもの演技には見えなかった。不思議な感情に胸が苦しくなった。あいつが好きだから?奪われてしまうのが怖いから?それとも、彼女の秘密が悍ましいものだったから?
そのうちのどれかはわからなかった。もしかしたら全部なのかもしれない。あたしはそのあとの展開を見届けずにはいられなかった。二人の様子を伺おうと目を細めてみても、柵の向こうに見えるのはあいつの大きな背中だけ。その背中に彼女の腕は回ってはいないようだ。
「そんな理不尽なことがあってたまるか……」
あいつの声は震えていた。
「なんで君がそんな目に遭わなきゃいけなかったんだよ……」
泣いているのかもしれない。あいつのあんな声初めて聞いた。小学生の時も、どんなにきつく叱られても絶対に泣かなかったあいつなのに。
桜田さんは何も言わない。この距離からでもあいつが彼女を抱きしめる強さが伝わってくるようだ。少し間が空いて、彼女の細い両腕があいつの背中に回った。その瞬間、あたしの心は、押し寄せる津波のようにどうしようもない虚無感に襲われた。あいつが何人もの女を抱いてきたことと、桜田さんの手があいつの背中に回ったことは、言葉ではその重みは比較にならないけど、意味合いは真逆だ。
あいつは彼女の体を抱きしめて離そうとしない。彼女も自分の全てを預けるように、その両腕はきつくあいつを抱きしめていた。そんな時間が永遠にも続くように感じられたとき、彼女の方から体を離した。
そのままキスしてしまうんじゃないかというほど二人は見つめあっていた。でも彼女の視線は足元へ落ちていった。
「桜田さん、俺……」
彼女はあいつの言葉を遮った。
「ありがとう。でも、それ以上は言わないで。おかげで少し気が楽になった。私はもうそれだけで十分」
「でも、俺……実は……」
こういった場面であいつが口ごもるなんて今まで想像もできなかった。ずっと、あいつにとって告白なんてものは演技で、そのあとのお楽しみを得るための前戯のようなものだと思っていた。
でも桜田さんはゆっくりと首を振った。
「もうやめて。今まで、私が好きだった人はみんな死んでしまった。父さんも、母さんも。あんな親だったけど、私にとっては大切な人だった。だから、私にあなたを好きにならせないで。もう悲しい思いはしたくない」
じっと立っていたあいつだったが、力強く言った。
「いやだ」
桜田さんが、ゆっくりと、もう一度あいつを見上げる。
「ごめん。でも俺はもう好きになっちゃったから……俺は桜田さんのことが好きだ。だから桜田さんも同じ気持ちでいてほしい。でも俺は絶対に死なない。何があっても」
彼女は何も言わなかった。ただあいつから視線を外して、ほんの少しだけうなずいた。それは首の角度が僅かに下がっただけで、よく見ていないとわからないぐらいのものだったが、あたしには確かにうなずいたように見えたのだ。
その時、空気を破壊するチャイムが鳴り響いた。五限目開始の予鈴だ。あいつはまだ何か言いたそうだったが、桜田さんに「先に行って」と言われ、名残惜しそうに後ろの柵をよじ上り始めた。
その瞬間、あたしははっとした。
ヤバい。あいつが来る。
あいつは高い柵から一気に着地した。もうほんの5メートルほどの距離だ。あたしは素早く階段を下りようとした。ここであいつに見つかるわけにはいかない。でも足音を立てたらその瞬間に終わる。
そう思った時、あたしの視線の先にあいつの影が伸びてきた。その影は、力なく立ち止まっていた。
あたしはゆっくりと振り返った。ひどい顔をしていたかもしれない。何も知らないふりをして、いつものように笑う余裕などなかった。あいつは最初驚いた顔をしたが、でもすぐに悲しそうに視線を外し、何も言わずにあたしを抜かして小走りに下りて行ってしまった。
泣きたい気持ちだったが、どうしようもなく逃げるように武志に続いた。
10
〈小松原正〉
僕は出勤してくるなり、自分のデスクを見てため息をついた。机には山のように書類が積み上がり、どこから手をつけていいのかわからない。ここしばらく僕は憂鬱だった。別に何があったというわけではないのだが、何もなさすぎて気が滅入っていた。自宅と職場を往復する毎日。代わり映えしない日々。もう二十六歳になるというのに彼女はいない。まず職業柄出会いがない。
一年前、やっと駐在勤務から刑事課に配属されて舞い上がったが、実際の刑事の仕事は雑務ばかりだった。毎日のように上から送りつけられてくる書類に目を通し、またそれを上に送り返す。そもそも京都府警のお偉方は「所轄は所轄らしい仕事をしておけ」と言わんばかりに、殺人事件や放火などの重要事件は、管轄内であろうとなかなか調べさせてもらうことすらできない。
ここでいう所轄というのは、京都府警察本部の下にある「署」の管轄内を所管する警察官のことだ。所轄刑事の一人である僕は今までに窃盗や傷害などの小さな事件しか経験がない。
「小松原くん、ちょっと来い」
刑事課長、秋山耕一が書類を見ながら手招きした。ミスでもあったかな、とうんざりしながら「はい」と返事した。秋山が僕を「くん」付けで呼ぶときは決まってロクでもない時だ。
見ると、秋山の横に悪そうな顔の中年の男がいて、偉そうにこちらを睨んでいた。いや、厳密にはその細面の顔は整っている方なのだろうが、とにかく人相が悪い。暴力団関係者のような和柄のシャツにジャケットを着て、だるそうに左手だけポケットに突っ込んでいる。容疑者だろうか。
「何ですか」
秋山が見ていた書類はどうやら警察官の経歴書らしかった。秋山は眼鏡の下から上目遣いにこちらを見上げた。いつも思うが額に濃い皺が寄る。そのせいなのかは分からないが、秋山には逆らえない貫禄がある。
「彼は府警からこの東山署に配属された二階堂警部だ」
府警……。本店から?この男が刑事なのか。いや、それよりも二階堂という名前、どこかで聞いた覚えがある。
「よろしくお願いします」僕はとりあえず目上の存在である二階堂におずおずと頭を下げた。
身長は僕が180センチだから、だいたい170ってところか。
「二階堂だ。今日から世話になるぜ」二階堂はタバコを取り出すと火をつけた。
あのパッケージは確かセブンスター。詳しくはないが、かなり度数が高いはずだ。
「小松原正です」
胸ポケットから名刺を取り出そうとした僕を見て、二階堂はつまらなさそうに鼻から息を吐いた。タバコの煙がもろに顔にかかり、僕は咳き込んだ。
「小松原くん、今日から君は二階堂警部とタッグを組んで、マル暴、つまり組織犯罪対策係を担当してもらうことになった。君は大きな事件を担当したがっていたからね。彼は優秀なマル暴専門の刑事だから色々教えてもらいなさい」
デスクの上で手を組む秋山はいつになく真剣な表情だ。
「マル暴、ですか」
マル暴という言葉を聞いたとき、僕の頭の中で蟠っていたものが繋がった。
本店のマル暴、二階堂――。
そうだ。噂を小耳に挟んだことがある。相当頭が切れ、睨んだ獲物は絶対に逃さない男だと。幹部レベルの学歴があるのに現場に留まっているというのもそうだ。でもなんでそんな人が所轄に?それもよりによってどうして僕なんかと組むのだろうか。
秋山がしまおうとした経歴書に「京都大学法学部卒」の文字が見えた。
高卒の僕なんかとは、比べものにもならない……。
呆然とした僕の肩を二階堂が荒く叩いた。
「実はよ、本店で俺たちの班だった人が、犯人逮捕の瞬間に斬りつけられてよ。残念なことだが殉職された」
そう言った二階堂は表情すら変えず、その声には何の感情も籠っていないようだった。事件自体は僕もよく知っていた。すぐ先日の事件で、違法ソープに入り浸っていた指名手配犯が逮捕時に踊って(暴れることをいう)、捜査員の一人を殺害したというものだ。
「それで代わりにお前が俺と組むことになった」二階堂は鋭い目つきのまま口だけ笑った。
僕は返す言葉が見つからなかった。確かに殺人などの大きな事件は担当してみたかったが、マル暴の捜査は新米の自分には危険すぎるだろう。
「安心しろ。犯人は殺されてるからよ」
犯人は逮捕の瞬間に射殺されたと聞いたが、まさかこの男が遣ったのだろうか。
「いや、しかし……」
僕がそう言うや否や二階堂の顔が憤怒に歪んだ。「しかしなんだ。まさか怖いってのか。オイ!てめぇはそれでも警察官か」
僕は助けを求めて秋山を見たが、すっと目を逸らされてしまった。すると素早く二階堂に胸ぐらを掴まれ、ぐいっと顔を近づけられた。
「なに目ぇ逸らしてやがんだ。ちっちぇえケツの穴しやがって。来い!てめぇの根性叩き直してやる!課長、こいつ借りていきますね」
二階堂はそのまま僕を引っ張って資料庫の中に入った。刑事課に隣接する薄暗い部屋で、未解決事件の資料や捜査状況などの書類が入っている。
「さっきは悪かったな。冗談だ」意外にも二階堂は僕から手を離すと優しく笑いかけた。それに安堵した僕は二階堂の無駄な演技に呆れ、襟を正した。
「ホントっすよ。てか何で僕なんすか。他にも刑事はたくさんいるでしょうにうっ」
直後、鳩尾に二階堂の拳が飛んだ。
「ありゃ、ネクタイ曲がっちまったな」
「……な、何するんですか」
恐怖と怒りと痛みで何が何だか分からなくなり、ただただ泣きたい気持ちになった。
「俺にちょっとでも軽い口叩いたらこうなるんだよ。覚えとけ、裏社会はこんなもんじゃねえぞ」
「……はい」
二階堂はにっと笑うと「せっかくの男前が台無しだ」と言い、棚からホコリを被ったダンボール箱を「これかな」と取り出した。
「八年前の暴力団員連続殺害事件だ。あと三ヶ月で時効になる」
「それを今から調査するんですか」
「おう。だがまずは飯だ」
この時初めて二階堂は満面の笑みを浮かべた。だがやはり、笑ったところで人相は悪かった。
11
〈小松原正〉
東山署を出てすぐの通りに面する牛丼屋のカウンター席で、僕は「ミニ」を、二階堂は「メガ盛り」をかき込んでいた。店内は狭かったが、時間帯のためか客もまばらだった。外回りが多い仕事だけに、こういった時間に融通を利かせられるのも刑事の特権だ。
僕の横で二階堂は鼻歌を歌いながら牛丼に七味を振り始めた。牛全体が真っ赤に染まっている。味覚がおかしいのだろうか。
「付き合わせて悪いな。朝飯食ってなかったんだ」
「大丈夫ですけど、さっきおっしゃった事件というのは」
二階堂は箸を持った右手を僕の顔の前に突き出した。「楽しい飯の時に殺しの話はなしだ。それよりも、俺たちはこれからずっと行動を共にするんだ。最初ぐらい楽しい話をしようぜ」
名刺も受け取らなかったくせに失礼な男だ、と思ったが、僕は「そうですね」と大人しく笑い返した。経験上、こういう相手には盾突くだけ無駄なのだ。下手なことを言ってまた殴られるのはごめんだ。
「えーっと、名前、なんだっけ。コマツナだっけ?」
「小松原です。小さな松原と書いて、小松原です」
二階堂は視線を落とした状態で口角を吊り上げた。口元の無精髭がなんとも男臭い。
「小さな松原か、面白い。改めて、俺の名前は二階堂健二だ。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
以外にも右手を差し出され、僕たちは握手した。彼の手は僕の手よりもわずかに小さかったが、ごつくて逞しかった。
「おばちゃん、水おかわり」二階堂は空のコップを突き出した。「あいよ」と太った店員が氷水を入れる。二階堂は笑い返しながら会釈した。人相が悪い割に人懐っこい笑顔だから不思議だ。
「そうだ。歳、聞いとかねえとな」
「二十六です」
二階堂は右手で顎を摩りながら、にやにやと僕を観察してくる。「一番盛りの時期じゃねえか。彼女か嫁さんは?」
「いませんよ」苦笑いを浮かべざるを得なかった。
「じゃあ風俗通いってところか」
男同士とはいえいささか失礼じゃないか。
「行ったことないです」
僕はぶっきらぼうに答えた。脂ぎった男たちがかわりばんこに抱いた女を、自分も一緒になって抱くことを考えると気持ち悪くて気が進まなかった。そもそも残業や休日出勤ばかりでそんなところへ行く暇もない。
「じゃあ今度いいところに連れて行ってやろうか」
「大丈夫です」
僕は息をついた。全く興味がないと言えば嘘になるが、この人とそんなところへ行って楽しいものだろうか。それよりも早く結婚がしたい。今のうちに相手を見つけないと、気づいたら一生独身なんて勘弁だ。
「二階堂さんの趣味は」僕は話を逸らしたくなって話題を変えた。
「風俗に決まってんだろうが」
二階堂は愉快そうに笑った。聞かなければよかった。僕は黙って残りの牛丼を食べ始めた。
「お客さんたち、もしかして刑事さんかい」
カウンター越しに先ほどの店員が食器を磨きながら聞いてきた。顔に濃い皺を刻んだ、凄めば怖そうな中年女性だ。もみあげの白髪の量からすると、もう五十代半ばといったところか。
「ええ。そこの東山署で」
「えやあ、そりゃあお勤めご苦労様だこってえ。あたすもこの前財布落とした時にお世話さなったべな」
どこの方言だろうか、かなり訛りがきつい。二階堂は店員を見上げ、優しい笑みを浮かべた。
「そうですか。でも私たちはマル暴といって、主に暴力団を相手にしているんですよ」
店員の目が丸くなる。「へえ、それは大変なお仕事だすねえ。どういったことをなさるんです?」
「彼は新米なんですが、私は追いかけ仕事が多かったですね。こう見えても柔道は黒帯なんですよ」
店員は「すごいですなあ。じゃあサービスせんと」と牛肉を僕らの丼に足してくれた。
「ありがとうございます」そう言って二階堂はまた人懐っこい笑顔を店員に向ける。よく見ると二階堂の歯は薄く黄ばんでいる。ヘビースモーカーの特徴だ。
その時、外で十数台のバイクが轟音を立てながら通り過ぎていった。それぞれに豪華絢爛な装飾が施されたバイクで、操縦する者たちは真っ白な特攻服を着ている。当然メットなどはしていない。馬鹿な連中だ。
「一応行った方がいいですかね、二階堂さん」
立ち上がりかけた僕に、彼はひとつ大あくびをした。
「いや。交通課だか生活安全課の仕事を取っちゃあ悪ぃよ。それにどう考えても追いつけねえよ」
「ほんと嫌だわあ」店員が外を見ながら顔をしかめた。
「なんていうんだったっけ、確か京都ナントカ連盟とかって聞いたことがあるような……」
二階堂は手前の紙ナプキンを一枚取り出すと、それで鼻をほじりはじめた。
「京都暴凶連盟、通称ビーストのことでしょう。昔は関西屈指の暴走族だったらしいが、今じゃすっかり衰退して、ヤクザも相手にしませんよ。最近じゃあ交通課と争ってるぐらいのもんだから、この辺も平和になりやがった」
つまらなさそうにパッケージからタバコを取り出し咥えた。そのまま火も点けずにぼんやりとする二階堂を見ていると、なんだか腑に落ちなくなった。なんとなく、平和になったことを不満に思っているように見えたからだ。
12
〈小松原正〉
八年前の殺人事件というのは、暴力団同士の抗争がきっかけだった。
東山署に戻り、僕は二階堂との捜査を本格的に始めることになった。二階堂はタバコを咥えながら会議室のデスクに京都市の地図を広げた。百台以上の事務机が並ぶフロアには僕たち二人以外は誰もいない。電気はつけなかったが、窓からの光だけで中は十分見通せた。四角いだだっ広いだけの部屋は、これといった細工がなされているわけでもなく、つまらないものだ。通常何らかの事件が発生すると、発生現場を所管する所轄警察署が捜査することになる。ただし、所轄警察署で解決できないとなると、本店に応援を頼むことになる。この会議室は今使われていないのは、本店から応援を要請するような事件がないからだ。
「ここが八年前の事件が発生した廃ビルだ」二階堂はマジックで紙上のその場所を囲んだ。幼児のような汚い囲み方だ。
「東山署の管轄内ですね」
「ああ。コマ、お前は神坂組を知ってるか」
コマとは僕に付けられた愛称だ。牛丼屋をあとにしたあたりから、二階堂が勝手にそう呼ぶようになったのだ。
「聞いたことがあります。マル暴ですよね。でも実態は謎に包まれている」
「そうだ。暴力団ってもんは基本的に土地の転売やみかじめ料で成り立ってるんだがな」
僕は聞きなれない言葉に小首を傾げた。「みかじめとは?」
そのぐらい知っとけよ、とでも言うように面倒くさそうに肩をすくめる二階堂。確かに僕が勉強不足だったのかもしれないが、駐在所上がりの刑事がそんな言葉を使う機会など皆無に等しい。
「裏社会では大抵の場所にシマ(縄張り)があるってのは知ってるよな」
「まあ、ぼんやりとは」
「みかじめってのはそのシマの中で商売してる店から、営業を認める対価とか、用心棒代的な意味で金を徴収することだ」
なるほど、暴力団が好みそうな仕事だ。言われてみれば何となく聞いたことがあるような気がする。
「店って風俗とかですか」
二階堂はうなずいた。「他にもバーやスナック、場合によっちゃゲーセンなんてこともある。ヤクザはそういうところをどやしつけて金を要求すんだ」
「勉強になります」
「で、俺が思うに神坂組は地上げやみかじめ以外にも、薬や武器の転売なんかもしてるはずだ」
「何故そんなことがわかるんですか」
二階堂は苦笑いした。僕は的外れな質問をしたのではないかと冷やりとしたが、どうもそうではないらしかった。
「こういう稼業してたら自ずとそういう情報が転がり込んでくるもんなんだ」
本当はよくわからなかったが、また殴られるのが嫌だったので納得たふりをしておいた。
「話を戻すぞ。ヤクザが殺されたのは八年前の抗争がきっかけだ。詳しいことを説明する前に、お前は何もわかっちゃいなさそうだから、まず組織の構図について教えてやる」
二階堂はホワイトボードの方に移動すると、上の方にサインペンで「組長」と乱暴に殴り書いた。
「暴力団の構成は警察と同じで複雑だ。ただ、やつらの系列は血縁関係のそれにそっくりだ。一番簡単な構図を教えてやる。まずこの組長をオヤジだと思え」
僕はメモ帳を取り出すと「組長=オヤジ」と書き込んだ。二階堂は「組長」の下に線を引き、ちょうど家系図の兄弟のように横並びに丸をいくつか書いた。それから「舎弟」と書き込む。
「こいつらみんな舎弟だ。こいつらは兄弟みたいなもんだ。んで、長男にあたるこいつが若頭だ」
僕は何度かうなずくと、できるだけ丁寧にその図を写した。二階堂は「若頭」の下にまた線を引き、先ほどと同じようにいくつかの丸を並べた。
「若頭や舎弟の下にいるのが若衆だ。一番簡略された構図はこんな感じだが、それでややこしいのは、この組員が他の組の組長だったりすることだ」
「組にさらに下の組織があるということですか」
「そうだ。その下の組織にまたさらに下の組織があったりする。トップの組織を親だとすると、その子供の組織を二次団体、孫を三次団体っていう。でけぇところじゃ五次団体とか六次団体とかまであるわけだ」
「じゃあ暴力団って物凄い数で存在するんですね」
二階堂は眉間に濃い皺を寄せ、顎の無精髭を撫でながらうなずいた。
「ああ。その中でも神坂組は関西一の大組織、数千人規模の鹿王会の二次団体になる。神坂組は鹿王会の傘下の中でもずば抜けて非人道的な組織だ。女だろうが子供だろうが容赦しねえ」
二階堂は一層険しい表情になった。
「抗争相手は三代目翼賛会の三次団体、高杉会ってところだ。高杉会は伏見あたりにシマがあったんだが、隣接する神坂組と抗争になった。発端については曖昧だったんだが、みかじめにする店の取り合いってことで収まった。結局高杉会の方が身内を五人殺されて、全員でエンコ詰めして解散したんだ」
八年前といえば僕がまだ高校生の頃だ。そんな抗争があったとは全く知らなかった。どうやら裏社会の出来事は表沙汰にならないらしい。
「その時に高杉会から神坂組に膨大な金が流れたそうだ。それで神坂組は今も潤ってる。犯人は絶対に神坂組にいると、八年前に俺たちはガサ入れ(家宅捜索)したんだが、犯人を特定できるものは何もなかった」
二階堂は短くなったタバコを携帯灰皿に押しつぶした。
「当時の捜査に二階堂さんも関わっていたんですか」
「ああ。五人分の殺人事件だったからかなり手を焼いたぜ」
「でも八年前に捕まらなかった犯人が、今になって捕まるものなのでしょうか」
僕の意見に二階堂は、確かに、とうなずいた。「まあ、犯人を特定できるものがなかったとは言え、当時の俺たちが全く情報を掴めなかったわけじゃない。驚くことにマル害全員の死因は、蟀谷から指を突っ込まれたことによる失血死だ」
二階堂は自分の頭に両手を添えて、力を込める真似をした。僕はその話がどうも信じられなかった。人間の蟀谷に指を突っ込む?そんな怪力を持つ人間が一体どこに存在しているというのだ。
「蟀谷から両手の親指を突っ込んで、持ち上げ、壁に叩きつける。このパターンで現に五人の人間が殺されてる。そんな恐ろしい芸当、人間の成せる技じゃねえよな……」
「え、ええ……」
「しかも叩きつけられた跡は床から二メートル半も上だった。つまり、犯人の身長は最低でも二メートルはあるってことだ」
「まさか……二メートルだなんて」
信じられない。二メートルの大男が五人のヤクザを素手で殺した?そんな大男を逮捕するなんてあまりにも無謀すぎるし、そんな鬼畜のような男がこの世に存在していいはずがない。僕は自分の顔が引き攣る感覚を覚えた。
「もちろん台か何かに乗った可能性も考えたが、あり得なかった。台を使ったような形跡もないし、まず切羽詰った現場でわざわざ台に乗るようなバカはいねえ。俺たちは浮かび上がった犯人像から神坂組と高杉会にそんな男がいなかったか調べた。だが明確な証言もないまま事件は蔵入りしたんだ」
二階堂は二本目のタバコに火をつけて神妙な顔で吸った。それから僕を見ると薄らと目を細めた。僕が事件のあまりの不可解さに釈然としない表情を浮かべていたせいだろう。
「コマ、その時の犯人は八年経った今も捕まっちゃいねえ。時効になる前にパクって、俺は本店に戻りたい」二階堂の目は真剣だった。僕はおずおずと遠慮がちにうなずいた。
「はい……もちろんです」
二階堂はにっと笑い、「よし」と僕の胸板を力強く殴った。
13
〈三木武志〉
俺は不思議な感覚に囚われた。
葛藤と対象もない憤りを抱えながら過ごしていた日々の中に、小さな光を見つけ、もう少しで掴めそうなのに、ほんの少しの所で届かない。桜田を抱きしめた時の感触を今でも鮮明に覚えている。小さくて、柔らかくて、暖かくて、そして、怯えていた。
彼女は絶対に離さない。何があっても。これほど人を好きになったのは初めてだ。今までの自分が馬鹿らしくなる。俺は所詮上辺をなぞっていただけだ。でも、これからは違う。誰に邪魔されてももう迷わない。誰に邪魔されても――。
不意にユリエの顔が浮かび上がった。あの時のユリエは、俺に対して恐怖に怯えたような顔をしていた。何故あそこにユリエがいたんだ。あいつはいつからいて、何を見たんだろうか。
少し不安になる。口が堅いからといって、まあいいかとなるようなことではないのだ。
このままではいけない。状況を変えたいなら、自分から働きかけなくちゃならないんだ。
気が付けばあの出来事からまた数日が経過していた。ユリエとは連絡も取っていない。
今日は日曜日で、家で暇を持て余していた。気づけばもう六月だ。
今俺にできることはなんだろう。そう考えた時、咄嗟に思い付いたのは、桜田の父親が殺されたという事件をもっと知ることだった。家に一台だけあるノートパソコンを自室まで運んだ。インターネット回線は無線通信で繋がっている。型が古く、対応していないソフトも多いがまだまだ使えるはずだ。
俺は机にパソコンを置きさっそく立ち上げた。桜田から聞いた話だけでは情報が少なかったが、思い付くキーワードを手当たり次第に入力した。
桜田自身が受けた事件に関する情報は得られなかったが、彼女の父に関係のありそうな事件があった。
その概要は想像を絶するものだった。
京都市東山区に拠点を置く暴力団、神坂組と、当時伏見を拠点としていた高杉会が抗争を起こし、高杉会側の組長を含む組員五名が何者かによる不明の死を遂げている。犯行の手口の詳細は記されていないが、犯人が未だ捕まっていないということは書いてあった。その後、高杉会は神坂組によって解散させられている。ちょうど八年前の事件だ。
こんな事件が起きていたなんて知らなかった。それに、犯人が捕まっていないなんておかしい。神坂組との抗争で死者が出たなら、間違いなくそれは神坂組の何者かの仕業だろう。
俺はそのサイトを深く調べることにした。全面黒い画面に白い字で事件のことが記されているという怪しげなサイトだった。だが他のサイトはかなりの確率で閉鎖されている。
リンクやホーム、関連情報のページを隅々まで見たが、抗争の発端が何によるものなのかは書かれていなかった。ただ一つ、わかったのは犯人が逃亡中だとしたら、時効まであと三か月だということ。
五人も死に至らしめた犯人の時効が、あと三か月――。
納得いなかったが、それなら警察が動き出してもおかしくはない。そんな大きな事件の犯人をみすみす逃す真似はしたくないはずだ。
待てよ。
俺はページに度々登場する「神坂組」という文字を見て、何か違和感を覚えていた。
ミサカグミ、ミサカグミ。初めて聞いた気がしない。知らない名前なのに、どこかで知っていたような気がする。
その時、電流が走ったように俺の脳が震えた。
――カミサカのやつら、覚えておけよ――
爺さんだ。爺さんの言葉だ。もう十年も前になるだろうか、真夜中トイレに起きた俺は庭に佇む爺さんを見かけた。その時に、爺さんは確かにそう呟いた。
思い出したぞ。この家には代々続く刀があった。でもそれは爺さんの代で盗まれたんだ。ガキの頃、俺は爺さんにそれを取り返してくるって約束したんだ。そうか。爺さんが言った「カミサカ」ってのは神坂組のことだったのか。爺さんが死んだのは一昨年だ。もう少し早くわかっていれば。
俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。親父にそのことを聞くためだ。今親父は道場で子供たちの相手をしているはずだ。でもそんなこと構っていられるか。
俺は廊下を走って道場まで行った。母屋と離れである道場は廊下で繋がっているのだ。
「親父」
ちょうど竹刀の素振りをさせているところだった。五、六人の子供たちは俺を見ると嬉しそうな顔になった。どの顔もよく知っている。馴染の子供たちだ。
親父は俺に気づくと驚いたように目を丸くした。「どうした」
「聞きたいことがある」
親父は訝しげに眉を寄せたが、「稽古中だ」ときっぱりと言った。仕方なく立ち去ろうとした俺に親父はまた言った。
「今から実戦練習だ。手伝ってくれないか」
振り返った時、親父の目は久しぶりに熱を帯びていた。俺は考える間もなくうなずいていた。
備え付けの更衣室で胴着に着替えを済ませると、俺は立てかけてあった竹刀を握った。久々だ。俺専用の竹刀。久しぶりすぎて、それは意外なほどに軽かった。黒竹という特別な竹でできた竹刀で、軽さもしなり具合も抜群だ。胴着は学校で使っていたものではなく、この道場、壱武館専用の胴着だ。ほとんど黒に近い藍色を基調としていて、その中に変則的に鮮やかな朱色が入るデザインは、秀逸で京都らしかった。
竹刀を強く握ると興奮で全身が痺れた。俺はこの感覚を待っていたんだ。やっぱり俺は、剣道が好きだ。
「やっぱりお前は胴着が似合う」
親父は不器用だが優しく笑った。誇らしげに俺を見るその顔は久しぶりに見るものだった。全く同じ顔を去年のインターハイの決勝で見た。試合後に涙を堪える俺を、親父はその目で客席から見ていた。それだけで、なんだか救われたような気がした。
子供たちも嬉しそうだった。小学校高学年を中心に構成されているメンバーで、この壱武館で稽古を受けるために遠くから来ている子もいるぐらいだ。壱武館は優秀な生徒しか受け付けない。直接親父と試合するか、他の道場から実力を買われて抜かれてきた子たちだけが高度な練習を教授できるというシステムになっている。そのために生徒は少ないが、実力は間違いなかった。
「礼、始め」
親父の掛け声で、子供たちは竹刀をぶつけ合った。小学生とはいえ、それは見ていて非常に興奮するものだった。俺はその試合の審判を親父と交替でしながら、目の前の子供たちと当時の自分を重ね合わせていた。それほど昔のことではない。ほんの数年前だ。俺は言うことを聞かず、剣道も乱暴なものだった。でも親父は、まだ生きていた爺さんと俺を鍛え上げてくれた。おかげで腕前は間違いない。瞬発力も、反射神経も、動体視力も誰にも負けない。子供たちの試合を見ていると四肢が疼いた。
試合が終わり、子供たちが帰って行くと、親父は数々の歴史を思わす古びた木板の床に正座した。
「武志、話があったんだろ」
「はい」
「まあ座れ」
俺は親父と向かい合うように正座した。背筋を伸ばすと親父が小さく見えた。少なくともこの道場の中では親子と言えど師弟関係だ。古くからのしきたりで敬語を使うことになっている。
「刀の話です。この家には刀があったはずです。爺さんの代で盗まれたという」
親父はその話か、とうなずいた。どうも落ち着いている。「黒金景光のことか。そんなことよく覚えていたな。それがどうした」
「その刀は、一体どこにあるんですか」
親父は少しの間俺の頭上の天井の梁を見つめていたが、また視線を戻した。「黒金景光は神坂組という暴力団に盗まれた。わしも本物を見たことはないが、売り飛ばしていないとしたら、そこのどこかにあるはずだ。だがそれは期待できんな。なんせあれは五千万の値がつくほどのものだからな」
なるほど。
「お爺さんも取り返そうとしていたようだが、まさか、お前もそんなことなんぞ考えてはいないな」
親父に睨まれてどきりとした。妙な威圧感がある。取り返すことを考えていなかったと言えば嘘になるが、本気でそうしようと思っていたわけでもない。
「まさか」
笑って逃げた。だが親父は追ってくる。
「あの刀は確かに由縁のある家宝だったが、今となってはどうしようもない。それにそんな昔のこと、警察に届け出ても煙たがられるだけだろう。もし取り返したいと思うなら、気持ちはわかるがやめておけ。下手すれば死ぬぞ」
確かにそうだ。神坂組なら平気で人を殺しかねない。
「でも、もし俺が取り戻したら爺さんは喜ぶだろうな」
敬語を使わなかったからではない、親父の眉間が歪んだのは、間違いなく今の言動のためだ。
「お爺さんは亡くなったんだ。死んだ人間は喜んだり悲しんだりはしない」
真っ直ぐに俺を見つめてくる親父の視線が痛かった。でも俺は覚えている。爺さんがあの刀に、命を惜しまぬほど執着していたことを。生前、自分は一族の面汚しで、死んでもご先祖様に合わす顔がないと言っていた。なら、死んだ爺さんの仇討に、取り返してやるのが道理じゃないか。
「お前が何を企んでいるのかは知らんが、危険な真似はするな。お前は自分の命の重さをまだわかってない。お前は三木家の六代目で、替えがきかん人間なんだ」
俺は曖昧にうなずいた。つまり、俺は道場を継がなくてはならないということだ。最初からわかってはいたが、改めて聞くと気が重くなる。俺は立ち上がり礼を言った。それは極めて形式的なものではあったが。
親父も立ち上がると「そろそろ晩飯じゃないか」と歩き出した。
俺は一つ思い出し、その背中に言った。「試合、してくれないか。体が訛ってて」
親父は立ち止まり少しの間黙っていた。「気晴らしのために竹刀を握るならやめておけ。怪我をする。お前が本気で剣道をしたくなったら、その時に来い」
そしてまた歩き出す。少し残念ではあったが、それもそうだなと、不思議と納得させられた。
14
〈乾実〉
私は携帯電話を片手に、眼下に広がる夜景を眺めていた。明治維新の時に大老の井伊直弼が暗殺された桜田門には、今ではここ、警視庁のビルが建っている。深夜だが外は人口灯が眩いばかりに輝いている。この東京という摩天楼に、多くの人間が憧れや夢を追い求めて迷い込む。ちょうど蝿や蛾が蛍光灯の光に集るように。昔の私もそうだった。自分の信じた道を貫くために、猛勉強し、警察官官僚の座を頂き、人を蹴落とし、今では実質トップツーの警視官。残すは警視総監の椅子だけだ。ここまで来るのに相当な無茶をした。警察官は時には正義を捨てなくてはならない。汚い手も使わないと上には上れなかった。数々の門を潜り抜け、私はやっとこうしてここへ辿り着いた。今こうしていられるのも、過去の私と、犠牲となった人間のおかげだ。
時刻は午後十時。時計の秒針がちょうど真上を指した時、握っていた携帯電話が音を立てた。
「私だ」
「もしもし、日下部ですが」
やはりあの男だ。いつもながら時間通りにかけてくるところが律儀だ。低い声で、いつも笑みを湛えたような喋り方をする。気に入らない。
「例のこと、考えてくれましたか」
私は苦い吐息を漏らした。「薬のことか。本当にそれに三百億の価値があるのか」
受話器の向こうで日下部は僅かに笑ったようだった。「警視官、あの薬の効果は絶大ですよ。細胞を活性化させ分裂を早める。身体能力が劇的に上がる、画期的な薬品です」
その説明はこの前も受けたが、どうも胡散臭い。
「ならその薬の成果を実証したというマウスを早く捕まえて来い。だいたい投与したマウスのほとんどが死んでしまったんだろう。それにいつ捕まるかわからんそいつのために三百億なんていう莫大な金を用意するなんて無茶だ」
「別にいいんですよ。たとえ三百五十億でも買ってくれる人はいます。でもそれはブラックだ。ですからこっちは親切で言っているんです。何にしても、金を用意していてくれるという保証もなしにマウスを探せなんて無理難題。そのマウスは、今も逃亡中なんですから」
いつもこの男の声はどこか落ち着いている。それゆえに私の心の中まで見透かされているようで居心地が悪い。
「たった一匹の成功例、か」
「ええ。何でも死なない男だそうですよ。魑魅魍魎どもも怯えてしまう」
「馬鹿馬鹿しい。死なない人間などいるわけがない」
鼻で笑ったものの、本当にそうだとしたら恐怖だ。逃亡中のマウス、いや、その男のDNAが無ければこの計画は実現しない。唯一の成功例。その男の血液で今後の人類における医学が左右されるのだ。いや医学だけではない。そのような薬が社会に横流しにされれば、国家の存亡を揺るがすような大事件が起きることだろう。そうなる前に、その薬は国家が独自に確保しておきたい。
受話器の奥で日下部の乾いたため息が聞こえた。「どのみち、そのマウスを捕獲しなければこの計画は実現しません。その男で人体実験を行わない限り、もう二度と同じ薬を作り出すのは不可能です」
「そのマウスがいる場所の目処は立っているんだろうな」
日下部は黙っていた。わざと間を置くことで私を焦らしているのだろう。つくづく気に入らない男だ。
「鹿王会の二次団体が、その薬を投与したマウスを秘密裏に実戦に使用しました。もう八年も昔です。その時に最後の仕事をさせたあとで殺されたことになっていましたが、最近になってそうではなかったと発覚しました。つまり」
「つまり、その男はまだ生きているということだな」
「ええ。ただ八年も昔のことなので、手掛かりは皆無に等しい状況です」
「こちらでも現場の警察官を再捜査に当たらせているが、厳しい状況だろう。情報を与えずに捜査させても無理があるだろうからな。そうだ。その最後の仕事というのはどういう内容のものだったんだ」
「男は一連の事件で五人を殺害しています。その五人目が、抗争相手の組長でした。何でもマウスを所持していた暴力団はその薬の開発データを持っていたそうなんですが、相手側の暴力団員に盗まれ、それが原因で抗争に発展し、マウスを使ってそのデータを取り戻そうとした。五人目でSDカードを発見し、それを回収しに行った男がマウスを射殺したことになっていましたが、やはりマウスは不死身。弾丸は胸部を貫いたにも関わらず、現場から逃走し、結局そのSDカードも損傷し、修復不可能だそうです」
「やはりその男を見つけ出すしかないようだな。だがその男が既に死んでいるという可能性はないのか。確かその薬の副作用が、寿命が著しく短くなるということだったはず」
私は窓際から移動し、柔らかな椅子にもたれた。個人的に持ち込んだこれは、ボーエ・モーエンセンとかいうパリのデザイナーが作ったもので、五十万ぐらいした。
「まあそれはあくまでも仮説です。実際に投与して生きていたのがその男だけなんですから確かめようがない。ですが分裂が異常な回数で行われるわけですから、その分早く年を取るというのは納得できます。あれから八年です。見た目も大きく変わっているかもしれません。なんせあの薬は一度投与されれば永続的に進行するものですから」
「なるほど。まるで何か病原体のようだな」
日下部は受話器の向こうでおかしそうに笑った。
「病原体とはよく言ったものですね」
それにはあえて返答せず、私は一つ気になっていたことを訊ねた。「日下部くん、もし君が裏側の人間ならば、その男を見つけ出した時にどう利用する」
日下部は楽しげに言った。「そうですね。僕ならどんなに莫大な金を積まれてもこの国に売ったりはしません。アメリカか中国あたりが妥当なところでしょう」
「戦争でも起こすのか」
「それも悪くないですけど、ま、核と同じですよ。核と。持っているだけで安心だ。でも成功例が一人だけっていうんじゃ、この薬自体にそこまで価値がありますかねえ。まあそれに僕はアナーキストじゃない。あなたの敵にはなりませんよ。今のところはね」
私は机の上に置かれたブラックコーヒーを啜った。
「日下部くん、ふざけるのもいい加減にしなさい。そもそも研究チームの一人だったからといって、当時の君は下っ端で、何一つ鍵となる情報を与えられていないんだ。君がこうして生きていられるのも、私たち警察のおかげなんだ」
日下部はこともあろうか、私に聞こえるようわざと大きくため息をついた。「だから僕はそのチームの唯一の生き残りなんだ。僕が死ねば困るのはどっちですか。僕が脅威なら、先にマウスを捕まえる努力をすることです。ねえ、乾警視官」
そこで電話は切れた。私は震える手で携帯電話を切った。
「ヤブ医者め……」
日下部達也。確かにあいつがいなければこの計画は進まない。だがそのマウスが確保できればあいつの存在は不要となる。つまり口封じに我々によって抹消される。あいつもそのくらいの察しはついているだろう。妬きになって鹿王会や裏の人間と繋がらなければいいが。そのためにも、あいつの監視は続けなければなるまい。
私は椅子の首を回し、窓の外を見た。先ほどと変わりない、平和な東京の街が広がっていた。この日本の平衡を保つためにも、その薬も、マウスもこの世から消さねばなるまい。たとえ三百五十億を日下部に支払うことになったとしても、この日本の総人口を考えれば仕方のない出費だ。それに、金を餌にして日下部を使っても、始末してしまえばその金はまた元通りだ。何にしてもマウスを裏の人間の手に渡らせてはいけない。そうなればこの国は終わりだ。誰にも悟られずにマウスを捜索し、秘密裏に全てを始末しなければならない。その再捜査をさせるためにも、わざわざ時効のタイミングを早めたのだ。
何としてでもやつらよりも先に男を捕まえなくては。私の眼下に広がるこの国が、崩れて消えてしまう前に。
第二章 いつわり
15
〈三木武志〉
京都という地は未だに平安京の色を残し、現在もなお数多くの社寺仏閣が点在する、言わずと知れた観光地だ。歴史ある街なだけに観光客は絶えず商業も賑わう。
だが、表があれば裏がある。
表裏一体という言葉があるように、京都は古くから裏社会と因果関係の強い街として知る人ぞ知る。京都を拠点に活動する暴力団、暴走族、ヤミ金は数知れない。夜の京都の有楽町は暴力団員たちが蔓延る危険地帯だ。今夜もキャバクラや風俗店が幟を掲げ、客引きの女たちが店の前で行き交う男たちを呼び込んでいる。ここで働く女たちの大半は、暴力団やヤミ金に沈められてやむを得ず体を売る、金という泥沼に沈んだ女たちだ。
そんな無法地帯に明らかに場違いな男が一人いた。
時刻は既に午前二時に差し掛かろうとしていたが、高校生ぐらいの若者が木刀を右手に下げて歩いていた。身長は180センチはあるだろう。端正なその顔は、口を真一文字に結び真剣な表情をしている。街を歩けば誰もが二度見してしまいそうな甘い顔立ちだが、同時に僅かな厳めしさも垣間見える。
「兄ちゃん、ちょいと遊んでいきなよ」
芸者風の一人の客引きが彼に声をかけた。だが彼は物憂げな表情で一瞥しただけで、何も言わずに通り過ぎた。そんな男が木刀を片手に風を切るように夜の有楽町を歩いている。明らかに不自然な光景だ。街ゆく怪しげな男たちは、そんな彼に訝しげに目を向けたが、声をかけたりはしなかった。何者にも臆せぬようなオーラを放ち、足早に歩いて行くからだ。
弱冠十六歳。彼の名を左衛門三郎武志といった。三木という姓は古くから武家に続く由緒正しき名前だ。さらに武志という名前に使われる「志」の一文字は、三木家に代々受け継がれてきた字だ。ちなみに父の名は剛志、祖父の名は雅志という。武志もまた代々続く壱武館という剣道の道場の六代目にして後継ぎだ。
武志は右手の木刀の感触を確かめるように強く握ると、目的地までの道を急いだ。
――黒鉄景光、必ず奪い返す――
黒鉄景光とは人名ではない。壱武館に先代から代々受け継がれる日本刀で、江戸時代の刀工、藤堂景光がこの世に残した最高傑作だ。黒鉄景光は同年代に作られた佐渡天喝の小烏丸、西蓮左文字の小夜左文字と並べて「三名刀」と呼ばれ、原価にして五千万の価値がある。
黒鉄景光を奪ったのは、京都の東山辺りを縄張りとする、神坂組という数十人規模の暴力団だ。
壱武館の四代目である祖父、雅志の代に盗まれたのだが、在り処自体は見当がついていた。ただ武闘派の神坂組は一般人であろうと容赦はしない。さらにその神坂組の上には鹿王会という関西一の数千人規模の巨大組織が構えている。それ故迂闊に手出しできない状況だったのだ。
だが恐れを知らない武志は、たった今、黒鉄景光を取り返すためにそれがある場所へ乗り込もうとしているのだ。
武志が立ち止まったのは、有楽町から外れた薄汚い雑居ビルの前だった。このビルの地下に神坂組直属の武器商人がいるはずなのだ。
だがそう易々と入れそうもなかった。入口には見張りらしき男が三人陣取っている。
男たちは武志の存在に気づくと目の色が変わった。暴力に慣れきったような凄みがある。まさにヤクザだ。
だが武志は落ち着き払っていた。さらにその唇は笑みを浮かべるように横に伸びている。武志は祖父の雅志が生前よく言っていたことを思い出した。
――勝つためにはまず、流れを自分のものにする。相手の目を見て、翻弄するんだ。それからどんなに苦しい時でも涼しい顔をしておけ。そうすれば、相手はやけくそになって自滅する――
武志は一人一人の顔を前かがみになってまじまじと見つめた。彼らは無言で凄むような視線を向ける。武志はひとり言のように言った。
「どいつもこいつも、間抜けな顔してやがる」それから不気味な満面の笑みを浮かべる。ただその目だけは、異様な殺気に満ちていた。
「おいてめぇ、なめた口利いてんじゃねえぞ!」男たちは凄むように武志の元へ歩み寄ってきた。
――感情的になりやすい。馬鹿の特徴だ――
武志が木刀を構えると、殺気に満ちていた目がさらに怪しく輝いた。
「なんじゃ、そんなもんで俺らとやる気か。ぶっ殺すど!」
武志の胸ぐらを掴もうとした瞬間、
「うっ」
男はうめき声と共にその場に崩れ落ちた。武志の素早い突きが鳩尾に炸裂したのだ。
「てめぇ、何してくれとんじゃ!」
次の男が武志の木刀を奪おうと手を伸ばしてきた。だが武志はその手を木刀の先で弾くと、その流れで顔面に強烈な一発を叩き込んだ。武志は怯んだ相手の腹部に蹴りを入れ、相手は崩れた。
次の男は武志の背後から殴りかかってきた。
振り向いた武志は瞬時にその攻撃を躱したが、顔面すれすれに男の拳が飛んでいった。相手がよろめいた隙をついて武志は左足をかけた。
勢い余った男はアスファルトに顔面を擦りつけた。
すかさず武志は男の頭を勢いよく踏みつけた。顔面がアスファルトに擦れ、男は奇声に近いうめき声を上げた。
「俺に刃向かうんじゃねえ!」武志の顔に濃い縦皺が刻まれた。先ほどとは明らかに違う物凄い剣幕だ。
彼は生まれつき鋭敏な瞬発力と反射神経を持っていた。去年の国体で準優勝しただけのことはある。計り知れない実力だ。
倒れる男たちの首筋めがけて、武志はそれぞれ力任せに竹刀を振り下ろした。鈍い音がして、男たちは呻き声も漏らさなくなった。
地下への階段は薄暗かったが、武志は迷いなくそこを下りていった。
光源はぼんやりとしたオレンジ色の光を放つ幾つかのランプだけだった。通路は木製の棚で仕切られただけの簡素なものだったが、至る所に布が吊るされており視界が悪い。その背の低い棚に置いてあるものは骨董品ばかりだったが、一つ一つに引き出しがある。あながち中身は武器の類だろう。
武志はそれらには目もくれず真っ直ぐ奥に進んだ。
一番奥の作業台には見るからに見窄らしい姿の初老の男が突っ伏していた。「服」というよりは「ぼろ布」と言うべき赤い着物を纏って、白髪交じりの髪の毛と髭はボサボサで長かった。
――薄気味悪い爺だ――
「起きろ」武志は木刀の先で男を乱暴に揺すった。男は寝ぼけ眼で何か中国語らしい言葉を漏らしていたが、武志の姿を確認すると咄嗟に身構えた。
「誰だ」
発音が不自然だ。体が弱っているのか目は薄らと白濁している。
「ここに黒鉄景光があると聞いて来た。出せ」
武志と男の視線が寸の間交錯したが、男は武志の鋭い視線に負け目を逸らした。
「外の連中、倒したのか」
武志は手にした木刀を見せた。男は眉を寄せた。
「そんなものでか」
「あんたも痛い目に遭いたくなければ大人しく黒鉄景光を渡すんだ。神坂組だか何だか知らねぇが、爺さんの尻拭いは俺がする」
男の目が怪しく光り、口元が微かに歪んだ。
「さては、三木の倅坊か」
武志は無言で男を威嚇するように睨んだ。端正な顔が一気に肉食獣のような顔に変わると、男の蟀谷に脂汗が滲んだ。
「わかった」
男は渋々引き出しの奥から木箱を一つ取り出した。
中には一本の刀があった。柄や鞘には部分的に金細工が施されている。シンプルだが完成された作りだ。五千万の値がつくのも納得できる。
武志が鞘を抜くと、この薄暗がりの中でも鋭い光を放っていた。刃渡りには「藤堂景光作 黒鉄景光」と刻まれている。
「模造品じゃないだろうな」
「間違いなく本物だ。俺が保証する」
「そうか」
武志は暫く刀を見つめていたが、無意識に瞳孔がじわじわと開いていった。刀の美しさに魅了させられたようでもあり、その神秘的な何かに飲まれたかのようでもあった。
――こいつで人を斬りたい――
そう思いはっとした。
――まさか。そんなわけがない――
武志は初めて自分が刀の柄を物凄い力で握っているのに気づいた。そんな武志を見て中国人の男は顔を歪めた。
「おい、どうした」
「これは……黒鉄景光は返してもらうぞ」
「待て。それを持って行くな」
途端に男は懇願するような目つきになった。
「あんたがそれを持っていけば俺は間違いなく殺される。あんただって、その刀を持っている限り神坂組から命を狙われ続けることになる」
武志は鼻で笑った。「この俺に泣き落としか」
「お願いだ。他のものなら譲ってやる。だがそれはだめだ。俺は命が惜しいだけだ。助けてくれ」
武志は黒鉄景光を勢いよく振り下ろした。
男は突然の乱暴に目を剥いた。
その目の数センチ先に刄があった。
「黙れ」
すぐに鞘にしまうと、崩れ落ちる男から逃げるようにその場を後にした。
16
〈小松原正〉
外の光が強いためか、この四角い部屋の中は暗く見えた。窓があったはずの場所は、今は何もはめ込まれておらず開け放たれた状態になっている。そのために時折強い風が吹き込む。
タバコを咥えたまま、二階堂はコンクリートの床にしゃがみ込んだ。僕もそれに倣い床に手を突いた。外の気温は高かったが、この床はひんやりと冷たかった。二階堂は壁と右手に持った写真を交互に見比べている。写真には壁に真っ赤な血の跡が下へ向けて太い線を引いている。その下に、人間と思しき生々しい死体が捨てられたようにあった。壁にもたれるように背中を預け、足を大きく開き、その股の間に頭部が転がっている。血の量も尋常なものではない。初めてその写真を見せられた時、僕は嘔吐しそうになった。
刑事になって一年と少し。駐在所勤務時代は人の血を見ることなどまずなかった。地域巡回や落し物などの処理。だが、たった一度だけ強盗を捕まえたことがある。刑事になる一か月前のことだ。仕事終わりに何となく立ち寄ったコンビニで、男が刃物を店員に向けているところを見た。若い店員の女性が、店内に唯一いた僕に助けを求めるように目を向けたとき、体が勝手に反応していた。走っていき、男に飛び乗り、馬乗りになって腕を力ずくで捻じりあげた。だが、その時に男が持っていたナイフが店員の顔に深い傷を残した。急所は外れていたが、あの傷が完全に消えることはないだろう。血を見たのは、あれが最後だった。
だが、そのおかげか急遽移動が任ぜられ、晴れて東山署刑事課に着任するに至った。
「ちょうどあの位置にマル害の頭が押し付けられたんだ」
二階堂はゆっくりと立ち上がり、写真をポケットにしまった。
僕も立ち上がり、彼が指さしたコンクリート塀を見上げると、ほんの僅かだが薄らと血の跡が残っていた。やはり高さは二メートル半はある。事件から八年たった今、この部屋は片づけられ血の跡もほとんど残っていない。それでも、この廃ビルは取り壊されることもなく放置され続けてきたために、事件当時とほとんど差異はないはずだ。
二階堂は遠い目をし、ゆっくりと窓の方へ移動した。「ここへ来たのは八年ぶりだが、あの時となんも変わっちゃいねえ。現場百回で、毎日毎日現場へ足を運んでは手掛かりとなるものを探したもんだ」
二階堂はもう一度タバコに口をつけ、携帯灰皿に押し付けた。ぼうっと、彼の唇から肺に残った煙がゆれゆらと逃げていった。
ここは一連の事件で最後に犯行が行われた場所で、ビルの最上階にあたる七階の一室だ。この場所で、高杉会の組長が惨殺されたのだ。本来この廃ビルは、鹿島建設事務所という会社のある場所だったのだが、倒産して事件の数か月前にはこのありさまだったという。被害者は何らかの状況で、犯人から逃げようとここまで上ってきて殺されたようだ。二階堂の話では入口あたりからここまで血痕が続いていたという。この場で致命傷を与えられるまでに、既に出血はしていたのだ。結局、それは喉の奥を何らかの影響で切ったことによる出血だった。さらに二階堂が言っていたのは、こういった残忍な殺人の場合は怨恨による動機が一般的なのだが、一連の事件で手口が全く同じために、動機による行き過ぎた犯行ではなく、快楽犯の可能性が高いということだった。快楽犯とはいえ、ここまで残酷なことができるなどとは信じられなかったが、一番有力な説なのだ。
被害者は五人だが、実際にあった事件は三件だ。つまり残りの四人の犯行のうち、一件が三人同時に殺害されている。これが一番初めの事件だ。一人の組員のアパートの一室で、仲間と三人で酒を交わしていたところを襲われたというものだ。マンションは直後に放火され全焼失したという。幸い入居者に死者は出なかったが、その被害総額は二億五千万円にも及ぶ。放火されたことで事件解決に繋がる手掛かりは得られなかった。ちなみに被害者は年齢順に高山仁、西田守、有村孝次郎の三人で、それぞれ高杉会の、いわゆる舎弟だった。
二件目の事件の現場は住宅地のごみ置き場だった。やはり凶器は使われずに素手で殺害されていた。被害者の首には犯人が掴んだ跡が残っていたが、驚いたことに絞殺が直接の死因ではなく、それも致命傷は圧力による大量出血だった。首筋の肉がえぐられていて、そこから大量の血液が流れたようなのだ。さらにこの事件も三件目と同様に二メートル半の高さに後頭部を叩きつけられていた。ただ今回の場合は壁ではなく電柱だった。もちろん頭部には親指を突き刺した穴が二つあった。この事件は唯一屋外での犯行だったため、目撃者がいることが期待されたが、死亡推定時刻が午前三時頃だったために、誰一人として犯人を見た者はいなかった。さらに、全ての事件において共通することは、犯人の体毛や皮脂などのDNAに関するものや、指紋は一切検出されなかったということ。普通、絞殺などで被害者が抵抗した場合、その傷跡に皮脂や爪垢などのものが残るものなのだが、今回の場合はあまりにも被害者の出血が多かったために、犯人を特定するものの検出が不可能だった。体毛に関しては、二階堂の話では、髪の毛は帽子をかぶるなりして抜けるのを防ぐことが可能なのだが、他の毛は意外と現場に残りやすいということ。ただそれが全くなかったために、犯人は完全に体毛を処理している可能性が高いということだった。
「ほら、どうだ」
二階堂に当時の写真の束を手渡され、僕はそれを一枚一枚この現場と見比べた。夢にまで出てきそうなほど生々しい写真がほとんどで、直視するのも嫌だった。
「この犯人、人間じゃないでしょう……」
「ああ。まともな人間の仕業じゃねえ。この下種を野放しにしておくわけにゃいかねえなあ」
二階堂はジャケットのポケットから徐に一冊の分厚い手帳を取り出した。合成皮革のカバーだが、随分と年季が入っていてところどころ擦り切れている。二階堂はそれをパラパラと眺めていたが、あるページで手を止めた。
「いつも俺たちの手を焼かせるのは、決まってカミサカ絡みの事件だ。だが、その割になぜ、未だにやつらが活動していられるか。その理由がわかるか」
僕は頭を振った。
「それはな、カミサカが鹿王会の二次団体だからだ。鹿王会は関西一の大組織だ。迂闊に手を出せば警察官であろうと闇に葬られる。だが普通の暴力団じゃそんなことはできねえんだ。なぜなら、国家を敵にしている限り、犯行を暴かれる危険性が付きまとうから」
不気味に口元を歪める二階堂が不気味だった。
「つまり、結論を言うと、鹿王会はこの国を裏から牛耳っている。その手下のカミサカにも警察のお偉方は手出しができない。だから俺たち下っ端が潰すんだ。この日本の形態が変わらない限り暴力団は消えないが、それをどう上手く扱うかがマル暴の要なんだ」
彼の言ったことの全ては理解しかねた。何となくはわかったが、それではまるで僕らが捜査する意味がないと言っているようなものではないか。
「だったら、僕らは何のために捜査するんですか。この事件を再捜査することを命令したのは上の人間ですよね」
「ああそうだ。上のやつらはヤクザを消したくても、自分の手を汚したくはないだろうからな。ヤクザに関わりを持って殺されるのは、いつも現場の人間なんだ。上のやつらは俺たちを将棋の駒ぐらいにしか思っちゃいねえよ」
そう言ってじっと僕を見つめてくる。その目には何か強い意思のようなものが感じられた。もしかしたら、先日殉職された刑事のことを思っているのかもしれない。死ぬかもしれないとわかっていても尚、この人が現場に留まる理由は何なんだ。東山署に配属されたといっても、京大卒で実績もある彼ならば、東京の警視庁で官僚の座に食い込むのも決して無理なことではないはずだ。
「だったら何故、あなたはここに留まるんですか」
二階堂は少し穏やかな表情になった。
「コマ、お前はまだ本物の刑事じゃねえな。本物の刑事の神髄は、国民のために命を懸けることにあるんだ。それを忘れちゃ、どんなにいい椅子に座ろうと意味がねえんだよ」
純粋にカッコいいと思った。裏で殴られたり、凄まれたりはしたが……。
彼は照れくさそうに笑った。「話が逸れちまったな。まあ、捜査やろうや」
二階堂は開けたままの手帳の一部を指でなぞった。
「人着(人相着衣)言うぞ。犯人の身長は推定約二メートル。犯行現場に続く足痕から靴のサイズは三十五センチと判明。靴の種類は不明。服装も不明。絞殺の痕から手の大きさは直径約二十五センチ」
足の大きさが三十五センチで、手の大きさが二十五センチ?ギネスかよ。
「さあここからが驚くところだ。俺たちの捜査を混乱させた驚異の事実」
二階堂はまた不気味な含み笑いを浮かべる。
「現場へ向かう犯人の足跡はあったが、現場から逃走する足跡はなかった。それから、この部屋に一発だけ落ちていた拳銃の薬莢」
「そんなの初耳ですよ」
二階堂はしげしげと僕を見上げながら顎を触った。「そりゃそうだ。言ってねえからな」
何なんだ。しれっと言いやがる。
「そういうことはもっと早く言ってくださいよ。重要なことじゃないですか」
二階堂は「悪い悪い」と笑いながら立ち上がった。牛丼屋で見た時と同じ、人懐っこい笑い方だ。
「でも謎だろう。逃走する犯人の足跡がないのは、靴を脱ぐとか履き替えるとかしていくらでも偽造できるがな、現場に薬莢はおかしいぜ」
確かに靴を替えてしまえば足跡を残さないことは可能だ。事件当時の階段は真っ暗だったはずだが、ライトを使えば被害者の血をよけて歩くことも可能だ。二階堂はさらに続けた。
「薬莢だけあって現場に弾は落ちていなかった。消炎反応からこの部屋で発砲したことは間違いないんだが、どうも犯人が撃ったとは考えにくいんだ。犯人は一連の犯行の中で凶器は使わなかった。今回の場合だって、凶器なしで十分に殺せたからな」
「だったら被害者が発砲したんじゃないですか。高杉会の組長なら、銃を持っていたとしても不思議ではないと思いますけど」
二階堂は首を振り、僕が持っていた写真の束から一枚を抜き出してみせた。部屋の隅から被害者と部屋全体を撮影した写真だ。
「この写真を見りゃわかりやすいが、被害者はそこのドアから入って、まっすぐに一番奥まで行ってる。犯人の足跡は血が薄れて途中からなくなってはいるがな」
確かにその写真を見れば被害者が歩いた場所がすぐにわかる。なぜなら血痕が続いていたからだ。犯人の足跡は被害者を惨殺した場所で何度も重なり合っているが、上手く血をよけるようにしているために、途中から足跡が消えている。
「薬莢が落ちてたのはちょうどあの辺だ」二階堂が指さした場所は、確かに被害者が歩いた場所からは大きく逸れている。
「しかも弾が現場に残っていなかったということは、考えられるのはあの窓から外へ向けて発砲したということ」
「一体誰が、何の目的で……」
「わからん」やや投げやりな返答だった。「事件前に発砲されたのか、事件後に発砲されたのかすらわからねえ。結局ここで、俺たちはこの事件を諦めた」
悲しげな目だった。二階堂はまたポケットからタバコを取り出し、火を点けた。僕は彼が一服している間、一言も口をきかなかった。
「一応、この場所に一番手掛かりがあったんだが、どうだ。他の現場にも行っとくか」
「はい」
僕がうなずくと、二階堂もうなずき返した。
これからやっと、刑事らしい本格的な捜査が始まる――。
17
〈龍門寺影虎〉
「如是諸人等、皆已成仏道、諸仏滅度已、若人善軟心……」
一人の僧侶が、一心に正面の弥勒観音菩薩像に向かって経を上げていた。まだ若いようだが、顔には彫刻のように深い皺が刻まれている。経を読み始めてから既に一時間が経過するというのに、彼の背筋はぴんと伸びていて、正座した足も崩していない。目を閉じ、数珠を垂らした左手を右手と合わせている。低いがよく通るその声にはどこか力が篭っていた。
僧侶は、額には大粒の汗を浮かべてはいるが、それを拭う余裕すらないように眉間に濃い皺を寄せていた。
「諸法従本来、常自寂滅相、仏子行道已、来世得作仏……」
ちょうど梅雨時の今日は湿度が高く蒸し暑かった。堂の襖は開け放たれてはいるが、ほぼ無風状態だ。空には鉛色の絵の具を零したような雲が立ち込め、今にも一雨きそうだ。さらに、この男は袈裟を着ているために体に熱がこもる。それでも身動き一つせず、合わせた手を離そうとはしない。まるで何かに憑依されたように、一心に声を張り続ける。
その時、堂の木板が軋む音のあとに、背後から「影虎」という優しい声がした。若い僧侶が振り向くと、自分と同じ袈裟に身を包んだ老いた住職が立っていた。
「今日も精が出るな。経の途中で悪いんだが、少し一服しないか。今日は宇治の栗饅頭だ」
影虎と呼ばれた僧侶は「ありがとうございます」と硬い表情のまま言い、額の汗を拭うと、住職から饅頭と湯呑を受け取った。
住職はそんな彼を神妙な面持ちで見つめていた。
――この子はいつから笑わなくなったのだろうか――
心の中で呟くとため息が出た。
――今では笑顔すら思い出せない――
すると茶を飲む影虎と目が合った。
「朱鷺さん、冷めますよ」
「あ、ああ」
朱鷺と呼ばれた住職はゆっくりと座ると湯呑の茶を啜った。影虎の自分への態度は昔とは違い他人行儀になった。小さい頃はよく甘えてきたのに……。
「影虎、やっぱり敬語はやめてくれないか。どうも他人行儀だ」
だが影虎は「今さらどうしたんですか」と茶を啜る手を休めただけで、あとは何も言わなかった。
しばらくして、朱鷺は思い出したように言った。「檀家さんがまた増えた。松平さんという方で、警察官だったそうだ」
影虎は飲み干した湯呑を静かに床に置いた。「そうですか」
「殉職だそうだよ。あと四年で定年だったのに、まったく哀れなことだ」
影虎は床の湯呑を見つめるばかりで表情すら変えなかった。その時、朱鷺の懐でケータイが震えだした。最近買ったそれは、目の悪い彼にもよくわかるように老人向けのものだ。本当はこういった電子機器は操作も難しいし、持ちたくなかったのだが、周囲からは「連絡に困るから」と半ば強制的に持たされた。
「もしもし」電話に出ると男の声が返ってきた。聞き覚えがあるが、最後に聞いたのはかなり前だ。影虎は気を利かせたのか立ち上がった。
「……どうしたんですか、三木さん」
その場を立ち去ろうとした影虎はその名前に聞き覚えがあるのか立ち止まった。
「えっ……。神坂、ですか」
影虎の顔の筋肉がみるみるうちに強ばっていく。
「……ええ、いますよ。代わります」
朱鷺は「剛志さんからだ」と影虎にケータイを渡した。
「もしもし」
受話器からは「海斗くん、久しぶりだな」と懐かしい声が聞こえてきた。だたその声は昔のような威厳に溢れたものとは違い、焦りを隠しているようだった。影虎はその呼ばれ方に何か感じたのか「ご無沙汰しております」と少し冷たい声で応じた。
「短調直入で悪いんだが、君に相談したいことがある」
受話器の向こうの声は少しトーンを落とし、ゆっくりと話しだした。それを聞いていた影虎の眼光は鋭くなり、ケータイを握る手にはいつしか力が篭っていた。その太い右腕には、ずれた袈裟の袖からはみ出た黒い蛇の刺青が顔を覗かせている。
「わかりました。いざという時は命を懸けて守ります」
電話を切った時には、外は土砂降りになっていた。
「大丈夫か」
「ええ」静かにうなずき、朱鷺にケータイを返す。
「影虎、無理はするなよ……」
「はい」
朱鷺が静かにその場を後にすると、影虎はその場で胡座を組んだ。剛志の声を聞くと、忘れようとしていた昔のことを思い出してしまった。薄らとだが、剛志と竹刀をぶつけ合った日々のことを思い出す。
――恩人のためにこの命を使うときが、来たのかもしれない――
影虎は襟元の紐を一つずつ外していく。
――だが、俺はまだ生きなくてはならない。生きて償うことが、俺に与えられた役目だ。神は俺が死ぬことを、まだ許してはくださらないだろう――
影虎はゆっくりと袈裟を腰まで下ろし上半身を露わにした。両腕には黒の大蛇がまとわりつくように、その大きな背中には一つ、曼荼羅が刻まれている。そして胸には丸い穴の古傷があった。目を閉じて、その傷をゆっくりと撫でる。
――与えられた命だ。大義を為すまで燃やし続けねばなるまい。運命が俺を導いているならば、それは今だ。八年間もこの暗い堂の中で待ち続けていたんだ。だが、同じ過ちを繰り返していいのか――
影虎は外を見つめた。激しい雨が一面に広がる砂利に叩きつけられる。雨を見て思い出す記憶はいつも暗いものだ。あの時、右近に撃たれた後、影虎は七階からアスファルトの地面へ叩きつけられた。その瞬間、自分は死んだのだと思った。走馬灯のように色々な場面が目の裏を駆け巡ったが、それでもまだ呼吸は続いていた。叩きつけられた腰に激痛を覚えたが、すぐに痛みを通り越して何も感じなくなった。胸を押さえると、ヘドロのように血が溢れ出てはいたが、まだ心臓は激しく動いていた。そのまま傷口を塞いで立ち上がった。急いでその場から逃げなくてはならなかった。
濁流のように降り注ぐ雨の中を必死に走った。何度も何度も血を吐いたが、雨に流れて消えていった。全身が熱くなり、視界が大きく揺らぎ始めたが足はまだ動いていた。裏切られたという憎しみが胸を熱くした。この時、影虎は自分を裏切った全てに復讐することを考えながら、無我夢中で走っていたのだ。朦朧とする意識で表通りへ出た。眩しい光に照らされ、バイクの轟音が聞こえた気がした。そこで自分の名を叫ぶ大きな声が聞こえた。右近のものではなかった。懐かしい、忘れかけていた友の声だった。
意識を取り戻した時、ちょうどここに寝かされていた。横には老いた住職がいた。見覚えのある顔だったが、誰だったかは思い出せなかった。それが朱鷺だった。胸に手をやると、傷口は完全に塞がっていた。それが薬の効果だと気づいたのはその時だった。
――裏切り者は消さなくては――
目を閉じて深い息をついた。それから両腕の蛇を見た。
――この腕で何人もの人間を殺してきた。この悍ましい蛇が、今では血の汚れにしか見えない。仏門に入り、戒めのために入れた背中の曼荼羅ですら、俺の汚れた過去を消してはくれない。俺にはすべきことが多すぎる。己の過ちを償うために生きなければならないと朱鷺さんには言われたが、俺にはまだ自分のためにすべきことが残っている。俺は八年間もこの暗い堂のなかで、朝から晩まで経を詠み続けてきた。俺はこのまま一生、償いのためだけに生きていくのだろうか――
考えれば考えるほどわからなくなった。影虎は両手で顔を覆い、指の隙間から睨むように菩薩像を見つめた。
――菩薩よ、あなたは何故俺を創ったのだ。俺はあなたに命を頂く価値があったのか――
菩薩像はただ悠然と、荘厳な目で影虎を見下ろすばかりだ。耐え切れず目を閉じると、脳裏に鮮明に焼き付いた記憶が、激しい光のようにフラッシュバックした。
冷たい暗闇の中で、黒服の男たちに囲まれている自分。
目の前には椅子に縛り付けられ、袋を顔に被せられた女。
渡された拳銃の重さと冷たさ。
震える両手。
「殺せ、殺せ」
男たちの無感情な声。
「この女を殺さないと、君自身と、君に関わった全ての人間をも抹殺することになるんだ」
一人ずつ名を挙げられ、その上でさらに繰り返し言われた「殺せ」というあの言葉。まるで悪魔の囁きのようだった。
女の頭に泣きながら突きつけた銃口。
堪えるようにすすり泣く女の声。
引き金を引く直前に聞こえた言葉――「海斗」
鼓膜が破れそうになるほどの破裂音。
火薬と血の匂い。
血と肉の残骸が転がる床。
男たちの醜い笑い声。
被せられていた袋が取られたとき、影虎が見たのは変わり果てた自分の母の顔だった。
気がつけば影虎は目を赤くし、床を強く殴っていた。
――かあさん、かあさん――
影虎が心を失ったのはまさにあの瞬間だった。時が止まり、光と闇が逆転した時だった。
――たった一人の親と呼べる人を、こんな俺を愛してくれたかあさんを、俺はこの手で殺してしまった。俺は俺自身と、俺にあんなことをさせたやつらを許さない。あいつを殺すことだけが俺の生きる目的なんだ。俺は僧侶である前に人間だ。俺の心の中にいる鬼はどんなことをしても死なない。あいつを殺さない限りは――
土砂降りの中、激しい雷鳴が轟いた。
――やっとその時が来た。かあさんの命の仇を討つ時が来た。あいつの命は誰でもない、俺が頂く。俺たちが味わった恐怖の何倍も悍しい思いをさせてから殺す。俺はただ、そのためだけに生きている――
顔を上げた影虎の目は狂気の光を帯びていた。
18
〈三木武志〉
俺が黒金景光を奪還した夜から数日が経過した。あの夜、俺は床に就く親父を揺り起し、その刀を見せた。寝ぼけ眼だった親父だったが、すぐにその目は恐怖に震えだした。俺はその夜のことを鮮明に覚えている。喜ぶことを期待していたのに、親父の反応は真逆だった。訳が分からなくなって、今すぐにでも戻してくるかと訊ねたが、それはやめた方がいいという答えが返ってきた。戻しに行くことも危険だからだ。親父はそれから、お前は大人しくしておけ、わしが手を打つ、と言い部屋から俺を追い払った。どうするのかは聞けなかった。ただただ取り返しのつかないことをしてしまったという自責の念が、俺の心を重く沈ませた。
ここ数日で生活と環境が大きく変化し、俺は心身ともに疲労を感じ始めていた。心も体も強い方だという自覚はあったが、最近はどうも調子がおかしかった。以前はこういったときは何かとアルコールで誤魔化していた。頭を回らなくすれば、それだけ気楽になったような気分になった。一時的ではあったが、一番の特効薬だった。
だが今回はそれに頼ることはしなかった。桜田のことで、心を入れ替えると決めたからだ。自分の弱い姿を見せては桜田を不安にさせるかもしれない。だから気丈に振る舞って、少しでも安心感を与えてやりたかった。
肉体的な疲労は時間とともに回復の兆しを見せたが、それに反するように精神的な疲労は増すばかりだった。黒金景光を取り戻したことで、いつ自分たちの命が狙われるのかという不安が頭の中で一人歩きする。ユリエのこともそうだ。いずれちゃんと話をつけて桜田のことをきちんと理解してもらう必要がある。それに剣道部のことも……。
今朝は冷たい雨が降っていた。空はどんよりと黒い雲が立ち込め、足元は雨水で濡れていた。
校門を通ると、「おい」と誰かに呼び止められた。突然のことだったので、驚いて振り向くと、剣道部の顧問、下坂がこちらを見ていた。威圧的な態度は体育教師の特徴か。俺はすぐに顔を背けた。
「そう嫌な顔をするな」
あの顧問が笑っていた。傘の下に見え隠れする額には、まだ俺がつけた竹刀の傷が残っている。
「何すか」
「三木、ここんところ全然部活に来てないじゃないか。早く戻ってこい。大会のお前の枠はちゃんと空けてある。部員もみんな、お前を待ってる」
ふざけるな、と言ってやりたかったが、実はほんの少しだけだが動揺していた。この男が嘘をついているようには見えなかった。それどころか、まだ自分を部員として見ている。俺はあれだけ乱暴に部を去ったというのに……。
「正直な、お前がいないとみんな弛むんだ。俺がどんなに声を張り上げてもだめだ。前みたいに、みんなをまとめてやってくれないか」
みんなをまとめているという自覚はなかったが、確かにそうだったのかもしれない。知らず知らずのうちに、大抵の部員が自分を慕うようになっていた。もちろん、先輩の中には自分を妬むものも何人かいたが、上下関係がある以上、それは仕方ないことなのかもしれない。
「頼む」
下坂は傘を閉じて深々と頭を下げた。雨が彼の頭や背中にかかる。俺は彼の広い旋毛をぼんやりと眺めていた。
「剣道部にはお前が必要だ」
悪い気はしなかった。それどころか、心はほとんど持っていかれかけていた。が――。
「すみません」
顔を上げた下坂は驚いたように目を見開いていた。
「なんでだ」
俺は湧き上がる苦しさを噛み殺し、無理に笑顔を作った。
「理由なんかないですよ」
困惑する下坂の顔を見た時、罪悪感のような胸の痛みを感じた。後悔はなかったが、潔く投げ出してしまったことが、本当によかったのかはわからなかった。
一礼して逃げるようにまた歩き出す。
胸が嫌に苦しかった。これで本格的に退部だろう。
それから下坂が声をかけてくることはなかった。
靴を履き替え、傘を玄関の傘立てに差し込んだ。胸に重たいものを抱えたまま、教室への廊下を歩く。今朝はいつもよりも騒がしかった。それが少し耳障りだったが、無視して歩き続ける。その時、教室から女子生徒が数人飛び出してきた。俺を見るなり慌てたように駆け寄ってくる。
「武志くんヤバいよ。三年生が教室で暴れてる」
「は?なんで……」
「わかんない。でも武志くんを探してた」
――まさか……。嫌な予感がする――
「バット持ってる。絶対行かない方がいい。今先生呼んでくるから」
女子生徒が言い終わるのが早いか、俺はカバンを放り出し、教室へ向かって走り出した。部活をやめているために今日は竹刀を持っていない。何かあった時に、武器となるのは自分自身の体だけだ。
乱暴にドアを開けた。
教室を見渡すまでもなかった。昨日まで等間隔に並んでいた机はばらばらで、ひっくり返っているものまである。教室の真ん中にその三年がいた。野球部だろうか。丸刈りで、童顔だが吊り目で乱暴そうな印象を受ける。背は俺よりも圧倒的に低いが、代わりに分厚い筋肉があった。手には金属バットを持っているようだ。息を切らしているところからして、激しく動いた後なのだろう。なんとなくだがその顔は見たことがあった。
他の生徒たちは、怯えるものと野次馬のように好奇に目を光らせるものとに二分されていたが、そのどちらも教室の隅の方へ退避している。彼らは俺を見るなり、異様な歓声を上げた。
野球部員は金属バットを振り上げた。相当頭に血が上っているらしい。ただならぬ形相だ。
「てめえ……俺の女に手ぇ出したそうだな」
ああ、それか――。
一度冷静になったが、ならば尚更まずい。否定して通せるわけはないだろう。いや、それ以前に一体相手が誰だったのかさえ全く分からない。だが、こうとなればこちらも引くわけにはいかない。俺は眉を寄せ相手を深く睨みつけた。「知らねえよ。てかバット捨てろよ」
「とぼけてんじゃねえぞ!」怒鳴り、乱暴にバットを床に叩きつけると、つかつかと歩み寄ってきて俺の胸ぐらを両手で掴んだ。呆気なく俺が捕まったためか、教室はまた湧いた。
「許さねえ……。絶対許さねえ!」
女ぐらいでよくもまあこれだけ熱くなれるものだ……。
「殴りたかったら殴ってみろよ。そうだなあ、ほら、廊下の方にあんなに人が集まってて面白そうだぜ」
俺はやつを見下ろし、馬鹿にするように笑った。何だかもうどうでもよくなっていた。別に殴り合いになっても構わなかった。俺が負けるはずがないのだから――。
「……来い」
やつは額に青筋を浮かせ、俺の胸ぐらを掴んだまま廊下へ引きずり出した。集まっていた生徒たちは逃げるように後ろへ下がった。既に騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちが三、四十人以上集まっていた。
俺はやつの耳元で囁くように言った。「俺にも心当たりの一つや二つあるからさ、別に殴られても仕方ないけど、そんなことすればお前、退学だぜ」
やつは顔を真っ赤にして渾身の一撃を俺の顔面に叩きつけた。鈍い音がして、鼻に痛みが走った。血は出なかったらしいが、そんなことはどうでもいい。俺の顔を殴りやがって……。鼻の形が変わったらどうする気だ。
「みんな!見たか、こいつが先に殴ったんだ!もう何しても文句は言わせねえからよォ!」
凄みを利かせ、唾をやつの顔面に吐き捨てた。やつは目を真っ赤に充血させながら震えていたが、いきなり大声を出した。
また殴りかかってきたが、今度は右手でそれを制した。
「いい加減うぜぇんだよ。歳上だからって、手加減してやってんのがわからねえのか」
笑いながら、掴んだ腕を相手の背中に捻じりあげ、体制を崩していく。既に俺の頭からは周囲の人だかりのことは消え失せていた。今はただ、対象をどういたぶるかを考えることが、どうしようもなく面白かった。
苦痛に呻きながら、相手の右腕はあり得ない方へと捻じれていく。
この顔を殴られたんだから、もう何をやってもいいだろう――。
俺は倒れた相手の背中に馬乗りになった。それから相手の左腕も右腕とひとまとめにし、空いている左手で相手の頭を床に押さえつけた。
やつは体を回し、俺を振り下ろそうとした。俺は勢いよくやつから飛び退くと、立ち上がりかけたやつの口につま先から強烈な蹴りを入れた。それから何度も何度も顔を蹴った。
周りから甲高い悲鳴が聞こえた時にはっとした。目の前には自分が蹴った男が、口から大量の血を流してうずくまっていた。口の中を深く切ったのだろう。廊下のその場所には血だまりができていて、よく見ればその中に歯のようなものが見えた。
「やりすぎだ!」誰かが叫んだ。
「なんで喧嘩になった」「あいつ、あんなことするやつだったんだ」「ひでえ」「怖い」
そんな声が頭の中に流れ込んでくる。時計の秒針が時を刻むごとに、俺の胸の中で罪悪感はどんどんと膨らんでいく。それどころか、今まで築き上げた信頼が一瞬にして失われていくこの時に、この上ない恐怖を感じた。
だが、後戻りなどできなかった。
「見てんじゃねえぞ!」
最初に目に入った一番近くにいたやつを突き飛ばした。それから取り押さえられるまで、同じようなことを何度も繰り返した。男も女も関係なかった。
既に俺に理性はなかった。
19
〈三木武志〉
すぐに俺の噂は学校中へ広まった。さらに今までしてきたことも完全に公になった。自分がそうしてきたのだから仕方ないといえばそれまでなのだが、やはり、本当にそうなったのは恐ろしかった。
あの三年を蹴り飛ばしてから数時間が経過した。あいつは救急車で病院まで運ばれ、俺は職員室の横にある「面談室」という地味な部屋で、担任や学年主任、更には副校長、校長といったメンツを揃えて、根掘り葉掘り話を聞かれた。はっきり言って苦痛でしかなかった。さきほどのことで、さすがの俺でも精神的にまいってはいたが、実質反省はしなかった。そうだ、俺は何も悪くない。先に殴ってきたのはあいつなんだから。もし女関係のもつれの話を持ち出されたとしても、そんなことは俺の知ったこっちゃない。俺はすり寄ってきた女を抱いたまでのことだ。そんなの男なら誰でも至って当然のことだ。
俺はうつむいたまま、反省しているふりを突き通した。いちいち跳ね返っていては埒が明かない。素直に何度か謝っていると、そのうち解放された。
確かに反省はしなかったが、後悔はしていた。それは胸をきつく縛りつけ身動きを取れなくする。授業中の廊下を一人で歩きながら、俺はこの後どうするかを考えていた。一連のことを見られたからには教室に戻るのはあり得ない。
ちょうどカバンも廊下にそのままになっていた。俺はそれを拾い上げると、教室へは行かず、人目につかず、一人になれる場所を考えた。
行き場をなくした俺が行くべき場所は一つしかなかった。
傘もささず、一人、誰もいない屋上に立った。足元は滑るが既に霧雨になっていた。全身に吹き付ける風が冷たかった。ミストのような雨を受けながら、俺はただ虚空を見つめていた。
もう一度全身でこの雨を感じた。シャツから冷たい雨が染み込んできていたが気にならなかった。
深く、深く目を閉じた。
それから桜田のことを考えた。今日はさすがにここにはいないようだったが、むしろその方が良かった。どうしても一人になりたかったんだ……。
俺のことを桜田が知れば、きっと裏切られたと思うだろう。そしてまた、彼女は傷つくかもしれない。俺は本当にどうしようもないやつだ。力や自分の持つものにものをいわせて、平気で人を傷つける。そして同時に俺も傷つく。いや、そう決めつけるのは単なる逃げでしかないか。やっぱり俺は弱い人間だ。結局自分のことしか考えていない。だから俺は一人なんだ。
笑おうとしたが、どうしてもできなかった。誰のために笑うんだ。自分のことだ。笑って誤魔化せないのは分かっている。これからは、全てのことを諦めなくちゃならないのかもしれない。今までみたいに傲慢に振る舞うことはできなくなるだろう。大人しく高校生活をやり過ごすことが順当か。心を入れ替えて、誠実な人間になろうか。いや、それは無理だ。この前にもそう決めたのに既にこのザマだ。だったら逆に思いきり遊び倒してやろうか。開き直って女を食い物にして、もっともっと悪くなれば、それはそれで楽しいかもな。
だが俺はすぐにその考えを打ち消した。そんなことをしても何にもならないことは分かっている。自分を甘やかして現実逃避するだけだ。このままじゃだめだ。俺はどうしたら……。
延々と考えを巡らせていたが、時が経つのは早いもので、気づけば昼休みを告げるチャイムが鳴った。同時にポケットの中でケータイが音を立てた。
見るとユリエだった。
あれから全く言葉を交わしていない。出るかどうか躊躇ったが、これで決まると思った。ユリエに見捨てられれば、俺の理解者は本当に誰もいなくなる。身を起こし、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし」
まず少しの沈黙があった。いつものユリエのことを考えるとまずあり得ないことだ。
「もしもし。あたし」声に張りがなかった。
「ああ……」
「今どこにいるの。先生とか、みんな探してるよ」
答えるべきか迷った。だがユリエが他言しないことは昔からよく知っていた。
「屋上」
「……やっぱり。待ってて、今行くから。直接話そう」
返事をしようとしたとき、視界の端に人影が現れた。恐る恐るそちらを見ると、柵の向こう側に桜田が傘もささず棒のように立っていた。それを見た途端呼吸が止まった。俺の手からケータイがするりと滑り落ちたが、それにも気づかなかった。俺は操られたように一歩ずつ、慎重に桜田の方へ進んでいった。
肩を落として俯く彼女を前にすると、どうしても距離が必要でそれ以上は進めなかった。
桜田が何も言わないので、しばらくして、やっと俺から口を開いた。
「ごめん……」情けなく、掠れた声が出た。桜田は俯いたままだ。
俺は何も言えなかった。ただ苦しい沈黙が続く。
「俺は裏切り者だよな……」
また絞り出すように、それだけ言った。桜田はまだ黙っていたが、じわじわと顔を上げ、俺の目を見つめた。その目は濡れていて、悲しそうだった。
「信じてたのに……」
否定することも、肯定することもできない。俺は彼女の言葉を受け止めることしかできなかった。
雨は土砂降りに変わった。桜田の頬に大粒の雨がかかる。
「もう、顔も見たくないよ……」
彼女の美しい大きな瞳から、一粒の水滴が頬を伝い落ちた。それは間違いなく雨ではなかった。顔を歪めるが、必死にそれ以上泣いてしまうわないよう耐えていた。俺はいよいよ何も言えなくなり、ただただその場に立ち尽くしていた。雨は一層激しさを増し、俺と桜田の髪や服をずぶ濡れにしていく。そのうち桜田は背を向け、俺の視界からいなくなった。
一歩ずつ遠ざかる足音を聞くたびに、俺の心は強烈な虚無感に蝕まれた。倒れるように数歩進み、錆びかけた柵にしがみついた。それからぼろぼろと泣いた。信じられないような量の涙が流れ、嗚咽の声が低く響く。
世界が止まったと思った。時間が壊れてしまったとも思った。悲しそうな顔をされるぐらいなら、きつい言葉で罵られた方がよほどましだった。俺自身、桜田に言われた言葉がどうしようもなく苦しかったが、それ以上に桜田を裏切ってしまったということの方が、惨めで情けなく、憤ろしかった。
足元の水溜りの中に俺の涙が溶けていった。目を閉じれば、桜田と出会った時のことや、会いに行った時のことの鮮烈なイメージが浮かび上がる。優しい目、美しい髪、薄い唇、華奢な肩、澄んだ声、笑った顔、泣いた顔、困った顔……。俺はあなたが好きでした。心の底から好きでした。今になってようやくそれがわかったよ。でも俺は、最期に君を裏切った。
寒さと涙で俺の体は震えていた。何分そうしていたのかもわからない。時間の感覚は全くなかった。
そっと、俺の肩に誰かの手が触れた。
見上げるまでもなくそれはユリエだとわかった。
「武志……」
俺は下を向いたまま涙を拭いた。
「俺は馬鹿だ……。全部俺が蒔いた種なんだ……」
ユリエは柵越しに俺の肩に触れたまま、静かにしゃがみ込んだ。ユリエの吐息が俺の耳を優しく撫でる。
「あんたのせいじゃないよ。気にしなくていい」
違う、違う。ユリエは俺に優しくしてくれる。でも今は、その優しさが俺をどうしようもなく苦しめるんだ。
「だから、もうやめよう。昔のあんたみたいに、もっとまっすぐに」
それからユリエは、少し躊躇いがちに言い出した。
「……実は、あたし、ずっとあんたのことが好きだった。小学校の時から、ずーっとあんたのことが好きだった……。それから今も。だからあんたがどんなことをしても、全然嫌じゃなかった。でもね、最近苦しそうにしてるあんたを見てると、あたしもどうしようもなく苦しかった……。ねえ、せめてあたしにはもっと素のあんたを見せてよ」
ユリエが微笑んだのがわかった。だが俺は、どうしてだろう。ユリエを見つめ返して笑うことができなかった。
「……ふざけるな」
俺はユリエを睨み返した。残忍な目だっただろう。ユリエは驚いたのか、動揺して目が震えている。今気づいたのは、その目が涙で濡れていたということ。でも俺は、自分の中から湧き上がる感情を言葉にせずにはいられなかった。
「俺の中身はこんなにも醜く、爛れているんだ。俺がこの中身ごと好かれるわけがないだろう。お前も所詮は俺の外見しか見ていなかったみたいだな。だったら、もう、消えてくれ」
「武志、あたしはあんたの中身ごと好きだよ。小学生の時から一緒で今さら何言ってんの!」
ユリエの言葉は俺の真っ黒い感情の中に沈んだ。俺は噛みつかんばかりの勢いでユリエを威嚇した。
「馬鹿にするな!……信じてたのに、お前も他の女と同じじゃないか」
とうとうユリエは泣き出した。
「もういい!」
そう言い残し、走って非常階段を下りて行った。
20
〈柳川邦彦〉
京都府警刑事課の窓の外は六月の冷たい雨が降っていた。
柳川と乾は、本部長から新しい班員との顔合わせのために、九時に会議室に来るように言われていた。それまでの間、二人は暗い顔でブラックコーヒーを啜っていた。松平が殉職したことに加え、二階堂が所轄送りになり、特に柳川はげっそりしていた。
「不味いコーヒーやのう」柳川は顔をしかめ、新発売の缶コーヒーをデスクに置いた。その様子を見るともなく見ていた乾だったが、つまらなさそうに視線を逸らした。
「次はどんな人でしょうね」
柳川の眉が苛立たしげに寄せられた。「さあな。乾、お前、二階堂のことほんまやと思うか」
乾は興味ないといった風に肩をすくめてみせた。「どうでしょう。でも上が下したことなんですから、そうだったんじゃないですかね」
「冷めとるなあ……。おっと、ええ時間やな」
柳川はよっこいしょ、と大儀そうに立ち上がると、「松平班も終いや」と肩を落とした。
広々とした会議室の奥に本部長と女が一人立っていた。柳川と乾は敬礼し、二人のもとに近づいた。
――なんで茶汲みの女なんかがここにおるんや――
訝しげに思った二人だったが、すぐにその理由が明らかとなった。
「彼女が第一係に新しく配属となった、烏丸涼子警部だ」
冗談やろ、そう言いかけた柳川は慌てて言葉を飲み、代わりに乾と視線を交換した。後輩の顔も自分と同じように困惑の色が浮かんでいる。
目の前にいる女は、刑事にはあるまじき、タイトスカートにヒールという出で立ちだった。それに真っ赤な口の紅。おそらく三十代ほどで、美人には間違いないのだが、どうも気の強そうな女だ。それ以上に柳川にとって気に入らなかったのは、このまだ若い女が、自分よりも階級が一つ上だということだった。
烏丸は「お願いします」と頭を下げた。見た目の割に落ち着いた感じだ。その年齢で(しかも女でありながら)警部の座にいるというのは相当なキャリアということの表れだった。普通、ノンキャリの場合、定年まで働き詰めて警部になれるかなれないか。そういうレベルだ。
――そういや、あいつも警部やったな――
柳川は左遷された同輩、二階堂のことを思い出した。京大卒のキャリア組の二階堂は、努力型の準キャリアの柳川とは給料も違った。ちなみに柳川の横にいる乾も名古屋大学卒のキャリアだ。いずれ抜かされるかもしれない。
「柳川邦彦警部補です」
「同じく、乾卓警部補です」
再び敬礼した二人に烏丸は作り笑いを浮かべた。それを見た柳川はすぐに、いけ好かない女だと確信した。
本部長は烏丸の紹介を始めた。「彼女は警視庁から特別にこちらに配属された。若いが実力は間違いない。第一係の主任を任せるが、まだここの勝手がわからないかもしれない。そこはよろしく頼むよ」
――この女が主任やと?階級はそうやとしても、マル暴の経験が格段に違うやろう――
そう思ったが、柳川は顔に出すようなへまはしなかった。やはり刑事はどんな状況であれ心中を顔に出してはいけないものなのだ。
「はい。ところであと一人は」
「今回は特例でこの三人で第一係を任せることになった。適任の人材がいなかったものでな」
若干気にはなったが、あえて別の話を振った。
「本部長、ところで二階堂が異動になったことについて、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
本部長の太い眉がぴくりと動いた。「なんだね」
「二階堂が異動になった理由は知っていますが、それには何か根拠となるものがあったんですか。私は到底彼が情報を売るようなやつだったとは思えないんです。それに、もし仮にそうだったのならば、松平警部が殉職した以上、彼は懲戒処分にされて然るべきではないのでしょうか」
本部長は間を空けて言った。「この件に関しては上の決定だ」
その答えは意外だった。府警全体を取り仕切る本部長より上となると、警視庁の人間しかいないことになる。最後に判を押すとしても、府警の一警察官の異動の全てを警視庁の人間が決めたなどという話は聞いたことがない。烏丸がここへ来たことと、何か関係があるのだろうか。
「用は済んだから、もう行きなさい」
柳川は敬礼すると、二人とともにデスクがある階へと向かった。
○
〈乾卓〉
昼休憩、乾は昼食を買いに近くのコンビニへ行った。その帰り、玄関の入り口に烏丸がいるのを見つけた。烏丸は雨に濡れないよう屋根の下に立っている。乾は隣に行き傘を閉じた。
「ひどい雨ですよね……。傘、使いますか」
烏丸は笑いながら首を振った。その時に香水の匂いが辺りに漂った。人口的な甘い香りだが、嫌味ではない。
「君を待ってたのよ。ねえ、前に警視庁にいたそうじゃない」
「ええ」
乾は躊躇いがちにうなずいた。この烏丸という女も警視庁からだ。父親絡みのことだろうか。何か嫌な予感がする。
「私この前まであなたのお父さんの元でずっと働いてたのよ」
――公安部か。父の部下だとするといよいよ匂う――
乾は少し身構えた。
「そうなんですか。ならどうしてここに配属になったんですか」
烏丸は何が楽しいのか含み笑いを浮かべた。笑顔の時はまだいいが、真顔になると急に怖くなる女だ。美人には違いないが、鋭いというか冷たいというか、どうも近寄り難い雰囲気がある。
「地元がこっちなのよ。母がもう歳だからってことで、ここへ転勤させてもらったの」
――なるほど。ならば父の回し者ではないらしい。が、本当の理由とは思えない――
「そうそう。ここへ来たのはもう一つ理由がある。どちらかというと、そっちがメインね」
烏丸の口角が引き攣るように歪み、乾は身を固くした。
「公安部で秘密裏に追っている案件があってね。私はその調査のためにここへ来たの。お父さんから何か聞いてない?」
確かに乾には心当たりがあった。先日父から電話があった。内容は、八年前の暴力団員連続殺人事件に関する資料を請求するものだった。未だに犯人は逃亡中で、時効はあと少しだったはずだ。それにしても警視庁の公安部が動いているとすればそれは大ごとだ。再捜査を始めるという情報は届いていない。そのくせ資料を欲しがるということは、何かの目的で、水面下で捜査を進めているいうことなのだろうか。
「八年前の事件のことですか」
「ええ。あと少しで時効の案件。今は管轄の所轄署の刑事が担当してるそうね。まあ、たった二人だけだけど……。私は上層部と現場とのパイプ役にここへ来たわけ。あなたも自分のお父さんが不利な状況になるようなことは他言しないでしょう。それに、私たちは元警視庁の好だしね」
何かまずいことになりそうだ。すぐにそう思ったが、乾は平静を装った。
「では柳川さんには言わない方がいいですね」
「お願いするわ」
「その所轄署とはもう繋がっているんですか」
「ええ。署長と刑事課長に極秘でお願いしてあるから、情報が入り次第報告が入る。少しでも動きがあれば、警視庁から応援が来るわ。乾くん、この件についてはくれぐれも内密に」
「わかってますよ。でも何故そんな機密事項を僕なんかに」
烏丸は目を細め明後日の方向を見た。
「そうね。手元に情報を共有できる人間を置いておきたかったからかしら」
――そしてそれが自分の上司である警視官の息子なら裏切るリスクがないからか。抜け目のない女だ。結局俺を上手く利用したいんだろう?だったら俺も、この女を踏み台に警視庁へ返り咲いて見せる――
腹の中でほくそ笑んだが、内心を悟られないように何食わぬ顔を保つ。
「なんというか、さすがですね。そうだ、この弁当冷めちゃもったいないんで、そろそろ戻りますね」
「ええ」
乾は烏丸を残してそそくさと自動ドアを通り抜けた。残った烏丸はケータイを取り出すと短縮ボタンで電話をかけた。
「もしもし、烏丸です。警視官――」
烏丸の真っ赤な唇が、忍び笑いに歪んだ。
21
〈小松原正〉
捜査が本格的に始まってから数日が経った。事件現場には何度か足を運んだが、やはり八年も前の事件だけに、手掛かりとなるものは全く掴めなかった。まだほんの数日たっただけだというのに、情報のあまりの少なさに僕はうんざりしていた。それでも二階堂は「再捜査なんてこんなもんだ」と冷静を保っている。彼の言葉を借りると、再捜査は初動捜査の後にするもんだから、ネタなんか出きっている。一回特捜が踏み込んだところを俺たちだけで捜査しても、そうそう手掛かりなんか出やしない、のだ。確かにそうかもしれない。僕にとって、捜査と言える捜査は今回が初めてだが、それが再捜査となると尚厄介だろう。せめて二階堂の足手まといにならないように頑張らないと。
本日の勤務が終わり、僕は二階堂に呼ばれ、居酒屋兼焼き鳥屋、明石家に来ていた。二階堂が僕を誘ったのは、僕の気疲れに気づいてくれたからかもしれない。店内は狭く、照明はかなり絞ってあり、ゆっくりとするにはちょうどいい空間だった。カウンター席の一番端に陣取り、生を片手に焼き鳥を頬張る。既にほろ酔い加減の二階堂は若手だったころの話を楽しそうに語った。
「……それがマル暴になって最初の仕事よ。昔はちょいちょい事務所に顔を出すのもマル暴の仕事だったんだぜ。信じられるか」
事務所とは暴力団事務所のことだ。「いえ」と僕は顔の前で手を振った。
「組長に顔を覚えてもらって、いい関係を築いておけば、裏の情報を売ってくれるってんだから、非合法もいいところだ」
「今でもそういう捜査はするんですか」
二階堂はビールを啜りながら笑った。「まあまずねえなあ。でも俺は裏に何人か知り合いがいるから、そういった人間に捜査を手伝ってもらうこともある。あ、秘密だぞ」
僕も笑いながらうなずく。
「お前も本気でマル暴に足突っ込むなら、ぼちぼちそういうことを覚えといた方がいいかもな。多かれ少なかれ、マル暴はそういった捜査が必要になってくっから」そう言うと二階堂は何か思い出した表情になり、顎を掻きはじめた。「……そうだな、今回はまだそれを使ってなかったな」
まさか今回の事件でもその非合法の捜査をしようというのか。僕は少し身を硬くした。
「犯人は十中八九カミサカの人間だろう。だったら、そりゃあカミサカの人間に聞くのが一番手っ取り早いわけだ」
「八年前はそういった捜査はしなかったんですか」
険しい表情の僕を見て、二階堂は苦笑いを浮かべた。「いくら俺でもあのカミサカに知り合いはいねえもん。近づいたら殺されちまうぜ。おー、くわばらくわばら」
そう言うわりには楽しそうだ。ではその捜査をどう取り入れようというのだ。二階堂がネギマに手を付け始め、僕もビールに手を伸ばした。
「五年くらい前に他の事件の捜査途中に、ある男にコネができてよ。カミサカの組員じゃねえんだが、違法入国者だから軽く脅せば、何かあれば吐くかもしれねえ」
なるほど、これが二階堂の捜査方法か。だんだんとわかってきたぞ。その男をあえて逮捕せずに泳がせることで裏とのパイプ役に使っているわけか。確かに発覚すれば減給どころか、下手すれば懲戒免職ものだが、そこはさすがにマル暴の一流だ。今までも秘密裏にやってきたのだろう。
「なら明日にでもその男のところへ行きましょう」
二階堂は苦笑いを浮かべ顔の前で手を振った。「強引な捜査だぜ?それよりも先に、ムショにいる元組員の人たちに聞いてみようじゃねえか。意外と見落としがちだが、そういうところから情報が拾えたりするもんだ」
「ではその違法入国者の方は」
二階堂は食べ終えた串を咥えながら意味深な笑みを浮かべた。「最後の砦だ。俺だって危ねえ橋は渡りたくねえからよ。お前だってそうだろ?」
「ええ、そりゃあ」
二階堂は怪しい笑みを浮かべていたが、すぐに視線を手元のメニュー表へ移した。
「お姉ちゃん、モモとネギマ。それから生!」
「あ、僕も同じやつを」
「はーい」
二階堂はニヤリとした。「あ?顔赤いぞ。おまっ、生っつってもあっちの方じゃねえからな」
また下ネタか。アルコールが入っていれば顔が赤くなるのは当然じゃないか。
「二階堂さん、ところで」ふと思い出し、前々から気になっていた異動の理由を聞こうとした。同じ班の人が殉職したとはいえ、それで二階堂が所轄送りになったことに直結するとは思えなかったのだ。
「あ、いえ……」
聞こうとは思ったが、自ら詳しく話さなかったということは、人に喋りたくないということなのだろう。僕にだってそういうことはある。例のコンビニ強盗の件も含めて。
二階堂は怪訝そうに僕を眺めていたが、手元のジョッキに目をやった。「そういやよ、俺が若手だったころ、先輩刑事によく言われたんだ」
「何をです」
「罪を憎んで人を憎まず、ってな。深いんだが浅いんだが知らねえが、俺は未だにそれを実行できてねえ気がする。どうだ、お前はこの言葉の意味がわかるか」
僕は曖昧に首を傾げた。「でもそれって難しいですよね」
「ああ。俺だって時々殺してやりたくなるほど犯人が憎くなるときがある……」
さきほど注文した料理が運ばれてくると、二階堂はいったん言葉を切り、一呼吸おいてからまた話し始めた。
「危険な考えかもしれんがな、今回の犯人だって、見つけたらすぐにぶっ殺しちまいてえよ。マル害は全員ヤクザもんだが、同じ人間だ。人間が人間を殺すなんて馬鹿げてる。自分の命をどうするかなんてのは、そんなもん個人の勝手だが、他人の命に干渉するなんてこたあ、あってはならんことだろう」
料理には見向きもせずタバコを味わっていたが、すぐに灰皿でもみ消した。その手元を見つめる彼の表情はどこか寂しげで、何か思いつめている人間のように見えた。
「どうして刑事になったんですか」自分でも何故そんなことを聞いたのかはわからなかった。酒のせいだろうか。
二階堂は声を落とした。「暗い話だぞ」
「はい」
「八つも歳の離れた姉がいた。当時姉貴には婚約者がいて、あと数日で挙式って時に、交通事故で死んだんだ。俺が高校生の時だ。ひき逃げだったんだが、飲酒運転でな。すぐに車を降りて救急車を呼べば助かったかもしれねえのに、そいつは飲酒がばれるのが怖くて逃げたんだ。俺はどうしてもそれが許せなくて復讐を考えたんだが、死んだ姉貴の顔を見てると、どうもそんな気は失せちまった。殺されたってえのに、穏やかで、優しい死に顔だったからよ……」
「だから警察官になったんですか」
二階堂は無言でうなずいた。鼻の頭がほんのりと赤くなっている。
「俺がそういうやつらを捕まえにゃならんと思ったわけだ。青くせえ考えだが、それからめちゃくちゃに勉強した。それで今こうしているわけだ。だから、俺は犯罪者が許せねえ」
僕は何も言えず、目の前の料理をじっと見ていた。
「しけた空気になっちまったな」
「いえ、とんでもないです」
「お前はどうだ」二階堂は僕を見て少し笑った。こんな話の後に僕の動機を言っていいものだろうかと迷ったが、場の空気に負けてしまった。
「大した理由じゃないですよ。ただ公務員で給料もいいからっていうだけです」
二階堂はジョッキを握った。「でも命懸ける仕事だぜ」
「ええ……」
「でもま、それはそれでいいのかもな」
それから僕らは料理を食べ始めた。終電の時間まで、僕たちはずっとその席を離れなかった。
22
〈三木武志〉
死にてえ――。
そう思ったのは、あの雨の日から数日後のことだった。
俺は右手にビールの缶をだらしなく下げ、いつかのように鴨川の畔で風を受けていた。
あれから学校へは行っていない。休みの連絡すら入れなかった。さすがに怪しまれるだろうと思ったが、今さらどうでもよかった。人間関係や他人の目なんかどうだっていい。既に自分のことは諦めている。だから悔しさや惨めさはもう感じなくなっていた。
長い間、狭い部屋の中に閉じこもっていたが、気づけばまたここへ来ていた。揺れる水面をぼんやりと眺めながら、四本目のビールを口に含む。もう味は感じなかったが、とにかくもっと酔いたかった。酔って忘れらるほどのことではないことは重々承知していたが、そうするしかなかった。
いつ死のうか――。
またそんな考えが頭を過った。生きる目的もなく、恨まれ続けながら生きることは苦痛でしかない。死んでリセットできるとは思えなかったが、少なくとももうそれしか道はないとも思っている。俺が死ぬことで喜ぶ人間はいくらでも思いつくが、死んで悲しむ人間は誰一人として思い浮かばない。親でさえも、あの一件から俺に口をきいてくれなくなった。
時刻は最後にここを訪れた時と大差はないが、あの時とは違い、川に反射する太陽の輝きはなく、連日の雨のせいで濁流となった水が勢いよく流れていく。おまけにぽつりぽつりと雨が降り出した。
飲み干した最後の缶を川へ投げ捨てた。黄土色の水に揉まれながら浮き沈みを繰り返して、流れていく。
あれが見えなくなったら死のう――。
コンビニのビニール袋から剥き出しのナイフを取り出した。ビールと一緒に家から持ってきた。当てつけに黒金景光で自殺することも考えたが、なんだか爺さんに申し訳なくなってやめた。
ナイフは薄く、鋭く、鈍い光を帯びていた。刃渡りは10センチといったところか。死ぬには申し分ない長さだ。これが肉を引き裂き、太い血管を断裂し、臓器を抉っていくのか。やはり、心臓か。酒のおかげで少しは痛みが緩和されるだろう。だが、河原で自殺とは、なんとも無様な最期だ。
川下を見ると既にさきほどの缶は見えなかった。
ようし。
絵を両手で掴み、刃先を胸へ向けた。きっと、痛いのは一瞬だろう。つまらない人生だった。本当に、つまらない人
生だった……。
深く目を閉じ、柄を握りなおした。
背後で「おい」という女の声がしたのは、まさにその時だった。
振り向くと、後ろの狭い道に見たことのある顔があった。ユリエでも桜田でもない。あの女だ。ついこの間、俺がやって捨てた女。上の名前が「石井」ということは覚えていたが、下の名前までは覚えていない。
俺は咄嗟にナイフを背中に隠した。
「ゴウキくん、退学になった」
あの丸刈りのことか。到底同情はできなかったが、あいつも被害者だったのだとわかった。
「あいつの女って、お前のことか」
今になってこの女と交わった夜のことを思い出す。案外汚い体だったというぐらいの印象しかなかった。こここへ来てまでそんなことを思い出す自分が嫌になる。
石井は何も答えない。代わりに目を赤くして俺を鋭く睨んでくる。その目には確かに憎悪があり、怒りがあり、侮蔑があった。
その目を見ていると、自分の中で、何か大きな苛立ちの感情がむくむくと膨れ上がるのを覚えた。
何故俺が死ななければならない。俺がこの女を貪っていた時、こいつは腹の中で嗤っていたんだ。そうだ、元の発端はこの女にある。この女が俺を誘惑しなければ、あの三年は俺を殴りに来なかった。俺も立場を失わずに済んだ。桜田を失ったのも、元はと言えば全部こいつのせいなんだ。それなのに被害者面しやがって。どこまで調子のいい女なんだ。
気づけば背中に隠したナイフの柄を強く握っていた。立ち上がり、ゆっくりと間合いを詰める。
「お前こそ、全部計算ずくだったんだろ?」
雨は風と共に強さを増していく。
お前は悲劇のヒロインか?悪いのは全部俺か?俺が死んでも、お前は何食わぬ顔で平然と暮らしていくのだろう。だったら、俺に死ぬ理由なんか、これっぽっちもないじゃないか。俺を苦しませ続けてきたものの正体である、この女に一矢報いなければ死んでも死にきれない。このナイフで、その顔をずたずたに引き裂いて、てめえの汚い血で汚してやる。
一歩ずつ慎重に石井に詰め寄る。三メートル、二メートル……。やつはゆっくりと後ずさるが、既にもう斬りつけたら届く範囲だ。
「なに?誤解してる……」
「誤解だ?ふざけるな!」
「あたしが悪かったって言いたいの?意味わかんない!全部あんたのせいでしょ!」
いい加減にしろ。さもないと――。
雨は土砂降りに変わった。全身の体温が奪われ、視界が悪くなる。
だが俺はそれを振り切るように石井を睨みつけた。この女は全く反省していない。それどころか、これっぽっちも自分に非があると思っていない。
「あんた女癖悪すぎ。マジキモい。あたしは何も悪くないよ。全部あんたのせいだから!」
唾を飛ばしながら、よくこれほどまでぬけぬけとものを言う。それもこの俺に、この俺に――。
俺にナイフを向けられた石井の顔が恐怖に歪んだ。その顔を見ているとなんだか全てのことがどうでもよくなった。もう俺の人生は修復不可能だ。俺以上にこの女に生きる価値はない。ここで始末してやる。
「嫌ァ!」
石井は逃げようと背を向けたが、俺はすかさずその肩を掴んだ。無理やりこちらを向かせ、ナイフを腹に突き刺そうとしたとき、石井は涙を流しながら、大声で謝罪の言葉を喚き散らし始めた。「ごめん!ごめんなさい!だから殺さないで!」
ここで俺の動きは完全に止まった。この女が最後まで悪女なら、俺は迷いなくその腹を引き裂いただろう。だがここで動きを止めたことが命とりだった。
石井が俺の腹に体当たりすると、俺は体勢を崩し、石段を転げ落ちた。石井はその時に落としたナイフを拾い上げると、走ってきて、そのまま何の躊躇いもなく振り上げた。
「やめろッ!」
咄嗟に身を引いたが、胸を刃先で斬られた。鋭い痛みが走り、石井が泥濘に足を取られてよろめく。今しかない。
俺は夢中で石井に飛びかかっていた。
石井を仰向けに押し倒して馬乗りになり、ナイフを握る右の腕を強く捻じり、ナイフを落とした。それから悲鳴を上げた石井の首を強く掴んで声を出せないようにした。両手両足を使って必死に抵抗してくるが、到底俺の力には敵わない。俺は全体重を一点に乗せ、一人の女が自分の手の中で死にゆく感触を味わうことにした。やつの顔は真っ赤になり、目を白黒させながら魚のように大きく口を開閉する。最期まで間抜けな様だ。
気道は完全に塞がった。あと少しで、この女は死ぬ。
突然、何の前触れもなく俺の視界が真っ暗になった。
なんだこれは――。手か?異常な大きさの手に背後から目を隠された。
それから俺は凄まじい力で石井から引き離され、素早く何者かの両手で側頭部を押さえつけられた。それから異常な高さまで持ち上げられていく。足が地面から離れると同時に首に強烈な痛みを感じた。この状況が全く分からない。相手が本当に人間なのかも定かでない。俺は必死で相手の手を掴んで体重を分散させようとしたが、ほぼ無意味だった。
――痛い。首が……抜ける――
悲鳴すらも出なかった。あまりの激痛に意識が飛んだ。最後に見たのは、泥と血で汚れ、ぴくりとも動かない石井の体だった。
○
暗闇の中で意識が戻った。真っ暗で何も見えない。どうやら目に何かをきつく巻きつけてあるらしい。体は全く動かない。背中に冷たいものを感じる。コンクリートかそれに近いものに寝かされているらしい。
「原田さん、この女、やっちゃっていいすか」
隣で声がした。確信はないが、どうやら石井も俺の横で寝かされているらしい。声の反響からして狭い室内のようだ。
「待てや。あとでたっぷり楽しませたるさかい。最初は俺じゃ」
柄の悪い声だ。続いて乾いた笑い声が重なる。この狭い空間にかなりの多人数がいるらしい。
まさか、神坂組か――。
「ガチのJKて、かなりレアやぞ。しかもほれ、割と顔もええし、なによりええオッパイしとるわ。コラァ、たっぷり楽しんだっからなあ」
凄むような最後の言葉は石井に向けて言ったらしい。石井の反応はない。状況から考えて死んではいないようだが、少なくとも意識はないらしい。俺は息を潜めていたが、いつまでこうしていればいいのかわからない。石井は女だから犯される。なら俺は?俺は殺されるのか――。
全身に寒気が走り、体が小さく震えだしたが、一心にそれを止めようとした。今ここで意識があると教えるわけにはいかない。好機を見計らって逃げなければ。
「念のためにビデオ回しとけ。わかっとると思うが俺の顔は映すなよ。まあどのみちこの女はシャブ漬けにして売り飛ばすがな。一本……行けば上等かのぅ」
すぐ近くでズボンのファスナーが下りる音がした。それから服の擦れる音。男の荒い息遣いまでもが耳に入ってくる。
その時、誰かの手が俺の足に触れた。
「あっ……」恐怖のあまり、俺は声を上げてしまった。
「うわっ、びっくりさせんな。原田さん、こいつ生きてますよ」
服の擦れる音がやんだ。それからゆっくりとこちらに近づいてくる足音。立ちどまり、俺を見下ろしているらしい。その間の沈黙が恐ろしかった。
「どうします?腹裂いて海にでも捨てますか」
乱暴な舌打ち。「ドアホッ!こいつはカイの獲物じゃ。クスリで眠らしとけ」
カイ……獲物……俺は殺されるのか――。
原田と呼ばれた男は、俺の体を靴の裏で転がそうとしていたが、飽きたのか、顔の前にしゃがみ込んだ。
「おい。今からお前が殺そうとしとった、このねーちゃんで、たーっぷり楽しませてもらうさかいな。考えられるありとあらゆるゲスいプレイで死ぬ寸前まで犯しまくったる。どうせ殺されてた身や。のぅ、この人殺しがッ!」
耳元で怒鳴ると、立ち上がり、俺の耳を乱暴に踏みつけた。耳がちぎれんばかりのの激痛と、恐怖と屈辱で、俺は声を噛み殺しながら震えていた。
すぐして右腕に針が刺さる痛みがあり、すぐに呼吸が苦しくなった。意識を失うまでそう時間はかからなかった。
23
〈小松原正〉
石丸邦夫。強姦と傷害で懲役五年、執行猶予二年。組での立ち位置は一番下の、いわゆる若衆だ。留置場で最初に聴取したのがこの男だ。背の低い、猿のような男だった。年齢は四十五歳。ちょうど二階堂と同じだ。事件当時は三十八ということになる。それで若衆なのだから、使えない男だったのだろう。
「もう一度聞く。八年前の夏の前後で、組に身長二メートルぐらいのやつはいなかったか」
二階堂は石丸に詰め寄った。といっても面会室はガラスで仕切られているため、二階堂がガラスに顔を寄せた、という方がしっくりくる。僕は二階堂の横に立ちメモを取る。
「知らねえ!何度も言わすな」
二階堂は苛立たしげに石丸を睨みつけ、その顔のまま壁の時計に目をやった。既に聴取を始めてから十五分近く経過している。石丸の横に立つ看守は眠たそうにあくびを噛み殺している。
「事件に関することならどんな些細なことでも構わねえ……。石丸!どうせ出所しても服役したってタグが付いてりゃ、煙たがられて神坂組にも戻れねえだろうし……どうだ。ここらで俺に恩を売っときゃ、出所した時にいい仕事紹介してやるぞ」
もちろんウソだ。案の定というべきか、石丸は好色を示さなかった。
「知らねえもんは知らねえっつってんだろうが!」
「じゃあ高杉会の組員が五人殺されたってのは知ってるか」
石丸はやや投げやりな感じでうなずいた。「ああ。あたりめえだ」
「殺したのは神坂組の人間か」
「知らねえ……」
そのとき石丸は何かを思い出したような顔になった。「結局あの抗争は何が発端だったんかなあ……」
僕と二階堂は顔を見合わせた。発端はみかじめにする店の取り合いによるものだったはず。もし違うとすれば、抗争の意味は大きく変わる。
「みかじめの取り合いじゃなかったのか」二階堂の荒い口ぶりに石丸は逃げ腰になった。
「なに?てぇか、そんな情報どっから拾ってきたんだよ」
まずい。抗争の原因が間違いならば、捜査自体がずれた路線を行っていた可能性も危惧される。
「二階堂さん、それ、どこの情報ですか」
二階堂は唸った。「査会議ん時に他の班の誰かが言ってた気がするが……」
石丸は薄い笑みを浮かべた。「警察って案外馬鹿らしいな。アンタ、そんな情報信じたん?みかじめの取り合いなんかで相手の組員を五人も殺すなんてあるわけねえだろ。ましてや組長なんて……。ちょっと常識無いんじゃない?」
「クッ……」二階堂は机の上で強く拳を固めた。
僕は石丸のその言い回しに若干の違和感を覚えた。「待って下さい。あなたの言い方じゃあまるで、神坂組の誰かが犯行に及んだことを認めているみたいだ」
「例えばの話だよ。例えばの」石丸に動揺の色はない。嘘をついているようには見えなかった。僕は視線を二階堂に移した。「そのみかじめの店はちゃんと押さえたんですか」
「ああ。クラブ・パッションとかいう会員制クラブだ。抗争の途中で跡形もなく消滅しちまったがな」
石丸は乾いた唇を濡らすように舌なめずりをした。「ああ、その店なら鹿王会が買収したやつだ」
「何だと?」二階堂は身を乗り出した。
「あれ。言わない方がよかったな……。まあいいや。あの店は鹿王会が買い取って廃業にしたんだよ。理由は知らないんだけどな」
二階堂は硬い表情で僕の方を見た。「コマ、こいつはいかんぞ。鹿王会の目的が俺たち警察を嵌めることだったとすれば、とんでもなくでかい事件だ……」
それからさらに三人の男に聴取をとったが、それ以上の新しい情報は得られなかった。僕たちはその後、東山署へ戻り集まった情報を整理するために報告書の制作に取り掛かった。事件の情報があまりにも少ないために大したことは書けなかったが、時効成立までの期限は確実に迫っていた。このままこの事件を闇に葬るなんてごめんだ。薄らとだが既に輪郭は掴みかけている。もう少し時間があれば、きっとこの事件をモノにしてやるのに。
「明日例のところへ行く」
二階堂に言われ、すぐに違法入国者の居場所のことだとわかった。いよいよ最後の砦か。そこで情報が得られなければもうチャンスはないかもしれない。
「わかりました」
「危険かもしれん。お前は来なくてもいいぞ」
そう言われたが、この目でその男を見てみたいと思った。裏社会のことはよくわからないが、マル暴として身を固めるなら通らねばならない道だろう。
「いえ。行かせてください」
「そう言うだろうと思ってたよ」
二階堂はいつものようにタバコを吸い始め、しばらくしてそれを灰皿に押し潰した。
「死ぬなよ」横に僕を見るその目は真剣そのものだった。
「ええ……」
ぎこちなくうなずく僕の胸に、久しぶりに拳が飛んだ。力が籠っていたが不思議と痛くはなかった。
「この二十年ほどで俺の周りで三人も殉職者が出た。俺はもう死体を担ぎたくない。だから死ぬな」
熱い目だった。僕は少しの間何も言えなかったが、「はい」と一つ礼をした。
当たり前だ。こんなところで死んでたまるか。
24
次の日、僕は二階堂に連れられ、東山区内の怪しげな雑居ビルの前にいた。時刻は午前六時前。元々怪しげな場所だから人がいないのか、それとも時間の問題なのかはわからない。
少し前を行く二階堂は背中を丸めながら、薄暗い地下室への階段を下りて行く。本当にここで武器の裏販売が行われているのだろうか。
二階堂はその武器商人のことを「モグラ」と呼ぶそうだ。本名は不明だという。二階堂も刑事ということ以外は本名を明かしていないそうだ。
地下室には薄汚れた、緑とも青ともつかないペルシャ絨毯が吊るしてあり、それをかき分けた先にいたモグラは見るからに怪しげな風貌だった。薄汚い赤い服を着ていて、髪や髭は伸び放題。少なくとも見ていて気持ちのいいものではなかった。それになんだか不潔な匂いがする。
作業台で黄色い壺を磨いていたモグラは、僕たちの存在に気づくと険しい目つきになった。「カワサキか。久しぶりだな。今日は逮捕しに来たか」
カワサキ――おそらく二階堂の偽名だろう。
「また情報を買いに来た」二階堂は机の上に懐から出した札束を投げ出した。僕は驚いたがそれを顔に出さぬよう平静を装った。これもまだ許容範囲だ。それに口を利かないように釘を刺されている。
モグラは獲物を見つけた猫のように札束に掴みかかると、急いでそれをポケットに押し込んだ。一瞬だったが、その右手は指が三本ほどしかないように見えた。
「八年前の神坂組と高杉会の抗争についてだ。俺たちの推測じゃ、一連の犯行は身長二メートル以上の大男の犯行の可能性が極めて高いという結論に至ったんだが、そんな男を知らないか」
「ああ、あのヤクザ殺しの件か」モグラは数本欠けた歯を覗かせた。彼は少しの間考えていたが、何か思い出したのか「あっ」と声を上げた。「確かにいた。名前は知らねえが、まだほんのガキだったはずだ」
やっと推測が確信に変わった。二階堂は興奮のあまり顔を引き攣らせた。「どんなやつだ!詳しく教えてくれ」
「俺もちょっと見ただけだが、いつも組長の近くにいた。でもあいつは人じゃねえ。怪物だ」
怪物――。確かにそうだ。五人もの人間を殺めた男なのだから。
「他には?どんな些細なことでもいい」
モグラは少し考えていたが続けた。「吊るし屋と呼ばれていた気がする。見た目は頭がこう……スキンヘッドで、それから……機械みたいなやつだった」
「機械?」
「ああ。組長の言うこと全部に、はい、はいって応えるんだ。異様だったよ」
二階堂は顎を触った。「あと一つ。抗争の発端を知ってるか」
モグラは険しい顔で首を振った。「それがわかんねえんだ。上の人間だけで片付いちまったからよ。なああんた、やっぱりこの件には踏み込まない方がいいぜ」
モグラは何かを怖がるように目を眇めた。「マル暴ったってよ、あんたは堅気の人間だ。吊るし屋のことは神坂組じゃ口にするのもご法度みてえになってるよ。他の事件はいい。だが、悪いことは言わねえ。吊るし屋を追うのだけはやめておけ。さもないと、あんた、消されるぜ」
二階堂はモグラに掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。「教えてくれ!俺が誰に消されるって?その吊るし屋とかいう男か。カミサカか。それとも鹿王会か!」
モグラの唇が僅かに震え、次の言葉を発しようとした時、入口の方で乱暴に車が止まる音がした。
「まずい。裏口から早く逃げろ!」切羽詰った様子でモグラは言った。
「くそっ、カミサカか」
二階堂はモグラが指さした方へ走り出した。本来、歩行者専用道路に乗用車が入ってくるはずがないからだ。
「コマ、早く!」
僕は慌てて二階堂を追いかけた。
25
午前六時過ぎ。朝の心地よい眠りは一瞬にして壊された。
聞きなれない男の声で目を開けると、目と鼻の先に銃口が突きつけられていた。この状況が全く理解できないわけではなかったが、殺させる理由は見当たらなかった。
「誰だ……」
「やっと見つけたぞ。研究員は全員焼死した思っていたが、まだ残党がいたとはな」
日下部達也は身動きもとれず息を飲んだ。目の前の男に見覚えはない。金縁メガネに尖った鼻。長身で細身のスーツを着ている。
――警察の人間か。いや、それにしては様子がおかしい。ならば裏の人間か。だが何故俺の居場所を暴かれた――
「俺を撃つな。俺が死ねば警察が駆けつけるぞ」
男は動じる様子もなく、日下部から目を逸らさない。「随分と警察に肩入れしたみたいだな。おかげで警察は井上のことを嗅ぎまわっているみたいじゃないか。困るんだよ。あいつの存在がばれたら俺の首も危ない」
顔を歪めるようにして不気味に笑う。よく見れば首に何か刺青が見える。となれば間違いなく暴力団だろう。鹿王会か、それとも――。
「あの男、井上という名前だったのか……どうせ殺すんだろ。最後に全部教えてくれないか」
「こっちも聞きたいことはたくさんある。お前が情報を売った警察官は誰だ」
日下部は口をつぐんだ。すぐに名を挙げればこの場で射殺されかねない。どうにか引き伸ばして逃げるチャンスを見つけなければ。「井上という男は一体どんなやつだったんだ」
男はうんざりしたように息を吐いた。「お前にそのことを話す謂われはない。それにしても、わざわざ京都から横浜まで移住するとはご苦労なことだ。殺されないための策だったんだろうが、結局少し寿命が延びただけだったみたいだな。まったく苦労かけやがる……さっさと吐かねえか!」男は乱暴に布団をまくり、銃口を日下部の額に押し付けた。「少しでも動いたら撃つぞ」
「わかった……警視庁の乾実って男だ……」
「乾実……階級は」
「警視官だったはず」
男の唇の一片が吊り上がった。「井上の血にはえげつねえ懸賞金が掛かってるみてえだからなあ。まあ俺はあいつをきちんと始末することしか目的はないが」
それから日下部を蔑むように見た。「立て」
ゆっくりと拳銃を遠ざけ、少し後ろへ下がった。日下部は男の行動に疑問を抱いたが、すぐにその目的がわかった。男は日下部にネクタイを投げつけ、頭上の梁を指さした。
ネクタイは日下部自身のお気に入りのものだった。ギャルソンで一万円もしたやつだ。それを梁に括り付けて自殺しろというのだ。卑怯な男だ。最後まで自分の手を汚さないとは。
「俺は井上みてえな馬鹿な殺し方はしねえ」
日下部は歯を食いしばりながら震える手でネクタイを梁に結びつけた。既にこの男から逃げることはできないと悟っていた。ゆっくりと首を通し、目を閉じた。
――本当ならばもっと前に殺されていたはずなんだ。あの研究に関わったことで、俺の人生は狂ってしまった――
「降りろ」男の声は無感情だった。このベッドから降りれば自殺は成立する。だが日下部は降りることができなかった。どうしてもここで死にたくはなかった。
が、男は乱暴に日下部の足を掴むと、無理やり下へ引きずり下ろした。
首に全体重がかかり呼吸が不可能となった。日下部は顔を真っ赤にして最期の痛みに耐えていた。首が赤黒く変色し異様なほど伸びる。日下部は大量の唾液と糞尿を垂れ流しながら死んでいった。
男は日下部の遺骸を侮蔑に顔を歪めながら見ていたが、すぐして部屋を後にした。
それから十数分後、事件現場に別の男が一人駆け付けた。日下部の死体を見るとうんざりしたように顔をしかめたが、すぐに作業に取り掛かった。工具箱からメスのような刃物を取り出すと、コンセントの蓋を慎重に外し、その裏に取り付けられていた盗聴器を回収した。それからまた蓋を元通りにし、命令通り電話をかけた。
「もしもし……日下部達也の遺体を確認しました。首吊りですが、他殺の線でしょう」
受話器の向こうで男が言った。「そうか。餌にするには惜しい人間だった……玄関の監視カメラと盗聴器は回収したか」
「ええ。映っていると思いますよ」
「助かる。首吊りなら私が手を下すまでもないだろう。君はそのデータを今すぐ私の所へ持ってきなさい」
「わかりました」
電話が切れると、男はすぐにその部屋を後にした。
26
再び目覚めた時、景色は一変していた。そこは紛れもなく自分の部屋だった。
意味が分からない。俺は何者かに拉致されたはず。あれは夢だったのか。時計を見ると時刻は午後六時過ぎ。日付はあの時から丸一日経ったということになる。
身を起こし、はっとした。裸の上にさらしのように包帯がきつく巻かれている。押さえると確かに痛みがあった。あれは夢ではなかった。
俺は立ち上がり、まず服を着た。それからふらつく足で親父を探した。親父なら何か知っているかもしれない。
居間の近くまで行くと声が聞こえてきた。とりあえず入ろうとしたが、ある声を聞いて足がすくんだ。
「養子なんか引き取らなきゃよかったのに」紛れもなくお袋の声だった。親父のため息も聞こえた。
「この家も終わりだ」
背筋が凍りついた。
「あいつは大馬鹿だ。まさか本当に刀を取り返してくるとは。神坂組がここへ来るのは時間の問題かもしれん」飲んでいるのか父の声はいつもより荒々しい。
「もう嫌!あなたがあんな子引き取ってくるから」
剛志が乱暴に缶ビールを置く音がした。
「やめろ」
「だってそうでしょ!だって……だって……」お袋がすすり泣く声が聞こえる。親父は何も言わない。
何だよそれ。俺はこの家の人間じゃねえのか。今までのことは全部偽りで、俺は十六年間も欺かれ続けてきたっていうのか。冗談じゃねえ。
体がかたかたと震えだした。意味が分からない。だって俺は三木家の六代目で、後継ぎで、剣道の腕だって遺伝なんだろ?それが養子だと?何の血の繋がりもない、赤の他人だと?
「ごめんなさい。私が子供を産めない体だったばっかりに……」
肉を打つ高い音がした。親父がお袋を打ったのだろう。「いい加減にしろ!それは言わないと約束しただろ。あの子は俺たちの子だ。もし武志が聞いていたらどうする!」
「もう嫌!最近おかしなことばかり。全部あの子のせいよ!警察へ行きましょう」お袋の声は普段と大きく違い、ヒステリックなものだった。
「警察はだめだ。何か起こらない限り取り合ってもらえない。それに彼もいるんだ。見殺しにはできない」
お袋が泣き声を上げた時、俺はふらつく足で二人のもとに姿を現した。なぜそうしたのかは自分でもわからない。頭に血が上り、体が勝手に動き出していた。
二人が俺を見たとき、場の空気が凍りつくのが全身に感じ取れた。二人とも唖然とするだけで何も言わない。
「今までよくも騙してくれたな……」
考えることなく口走っていた。また心が黒いものに染められていく――。
「武志……」
それから言葉は溢れるように出てきた。まるで自分ではない誰かが言うのを、ただ傍聴している感覚だった。
「親子じゃなかったんだな……あんたらにとって、俺はペットだったんだろ。剣道をさせてあとを継がせるための」
「止めろ、武志……」
親父の声など耳に入らなかった。
「剣道も、この家も、服も、食べ物も、この名前すらも、全部あんたらが俺に与えた肥やしなんだ。結局は自分たちのためなんだ。俺のことなんかこれっぽっちも愛してやいねえ。だから平気で今みてえなことが言えたんだ。どうせお前らは自分のことしか考えてねえんだろ!」
親父もお袋も言葉もなく立ち尽くすだけだ。それが俺にとっては答えだった。
「今までよくも親のふりしてきたよな。笑っちまうぜ。ほら、なんか言い返してみろよ……言い訳もねえのかよ!」
俺は乱暴に足元のゴミ箱を蹴り飛ばした。中に入っていたものが部屋中に飛び散る。
「武志、お前は俺たちの子だ!血の繋がりなど関係ない!」
親父の言葉も俺の心には響かなかった。いや、心なんか既にないのかもしれない。
「やめろ。今更父親面すんなよ……みっともねえから」
「やめなさい武志!」
つかつかと歩み寄ってきたお袋が俺の頬を打とうとしたが、きつく鋭く睨まれて手を止めた。
「なんだよ。殴れねえのかよ。まあそうだよな、本当の親じゃねえんだから」
「あんた……」
「もういい。俺、この家出て行くから」
二人から逃げるように踵を返した俺は、呼吸を忘れるほどの衝撃を受けた。
すぐ目と鼻の先に何者かの分厚い胸があった。背が高すぎて顔も判らない。驚いて言葉も発せられない俺は、腹に強烈な蹴りを食らった。
俺は下から腹を突き上げられ、体を「く」の字に曲げ、床でもんどりうった。
「海斗くん!」
親父の声がした。
カイト――。
間違いない。あの男だ。鴨川で俺を殺そうとした男。何故あいつがこの家にいるんだ。神坂組の人間か。まさか、親父が何か仕組んでいたのか――。
「先生を侮辱するな……」やつの声は、肉食動物の唸り声のように低くて図太いものだった。
蹴られた勢いで胸の傷口が開き、包帯がどんどん赤く染まっていく。傷口を押さえると粘り気の強い血が手にべっとりと付着した。
見上げようとすると、ぼやける視界に薄らと男の両手が見えた。両腕に生々しい蛇が彫られている。それを見た途端、俺の中に眠っていた記憶が一瞬にして蘇った。
それは生きるために消した記憶だった。
全てを思い出した時、俺は涙を流さずにはいられなかった。
27
俺がまだ赤ん坊だった頃の真夏の暑い日。目を閉じれば記憶が映像のように流れていく。淡いブルーのサングラスをかけて見ているような、幻想のような光景だった。
蝉の声。子供用の赤い靴。小さなクマのぬいぐるみ。ベビーカーの前輪。楽しげに歩く日傘を指す人。
女の人の楽しげな笑い声。ベビーカーの中にいた自分を抱きかかえた男の人の逞しい両腕。鳥のさえずり。眩しい太陽。鮮やかなひまわり。草木が揺れる音。
俺の目に確かに二人が見えた。見覚えがないのに、なぜだか胸が熱くなる。それが懐かしさから来るものだとわかったとき、俺の目から涙が溢れた。心が深い幸福で満たさる。ずぶ濡れの体を暖かなのもで優しく包み込まれる、そんな温もりを感じた。長らく忘れていた感覚だった。この二人が俺の本当の両親なのか――。
次の瞬間、別の記憶が激しい電流のように俺の頭を貫いた。
次の景色は地獄絵図だった。
母親が俺を抱いて泣いている。暗闇の中で見えるのは、大きな大きな男の背中だ。しゃがんで何かしているようだ。ブチブチと生々しい音が聞こえる。男が立ち上がった。手に何かを持っている。
ゆっくりと男が振り返った。
その光景を見た瞬間、俺の頭の中の何かが壊れた。
男が持っていたのは、胴体から引きちぎった父の頭部だった。暗くてよく見えないが、目だけが光に揺れている。母の泣き声が嗚咽に変わった。
男がゴミのようにそれを床に転がし、ゆっくりと近づいてくる。見上げるほどの大男だ。顔はわからないが、母の頭を掴んだ時に腕に刺青が見えた。命が宿っているように生々しい大蛇の刺青だ。それだけは確かに見覚えがあった。
――やめろ、その人を離せ――
母の体が持ち上がっていく。自分の体が床に落ちた。
男の両手が母の頭を挟んだ。
――やめろ、やめろ!――
男が手を離したとき、床に転がった母は既に息絶えていた。血が床に広がり、自分の肌にもその生暖かい液体が触れた。
男の濁った目と目があった。腕のそれのように、冷たい目だった。
男の大きな手がゆっくりと伸びてきた。
殺されると思い目を閉じた。
覚えているのはそこまでだった。
28
「あああ……」
俺は肩を震わせながら身を起こした。
初めて男の顔をまともに見た。
まず、化け物だと思った。
毛髪だけでなく眉毛すらないために表情が全く読めない。さらに彫の深い顔はとても日本人には見えなかったが、白人でも黒人でもない。強いて言うなら中東の顔立ち。年齢も判らない。さらに身長は明らかに二メートルを超えている。二メートル十センチ、いや、二十センチ以上はあるかもしれない。黒いタンクトップを着ている。そして、恐ろしく筋骨隆々で俺の力では到底敵いそうにもなかった。
「武志に手を出すな……」
親父が俺の体を支えた。男はというと、怒るわけでも、笑うわけでもなく、微塵も感情の伺えない目で俺たちを見下ろすだけだ。
俺は震える手を突いて立ち上がった。
「お前……俺の本当の親を殺しただろう……」
睨みつけても男は平然としていた。この男に心はないのか。
この男は俺の両親を殺して、あの時、今度は俺を殺そうとした。この男だけは生かしてはおけない。
勝算はなかったが、そんなことを考えられる頭は俺には残っていなかった。男の首筋に夢中で飛びつき、俺は男を倒そうとしたが全く動じなかった。俺は下から男の首を強く掴み、指をめり込ませるように爪を立てた。
「殺したければ殺せばいい。だが、お前にそれができるか」
平然と言ってのける。何故だ。この首は硬すぎて爪が少しも食い込まない。さらに力を込めた時、男の大きな右手が俺の腕を掴んだ。簡単にへし折られてしまいそうだ。
「お前は人間を殺すということの本質がわかっていない。お前には過去も未来もあるが、俺にはそのどちらもない。俺は気分次第でお前を殺すこともできるんだ」
男は左手で俺の頭を掴み、じわじわと力を込めていく。頭蓋骨が割れるような激痛に、俺は悲鳴を上げた。
「やめろ!海斗!」
後ろから親父が叫んだ。
「だが俺は、義務は果たす」
男の力は引いていった。俺は苦痛あまりその場に崩れ落ちた。痛みは簡単には引いてくれなかったが、俺はそれではなく、悔しさに身を震わせた。
その時表門の方から物を壊すような音と乱暴な罵声が聞こえてきた。神坂組だと直感した。
まさか、この状況で――。
「武志、動けるか。黒金景光を守れ」
そう言うと親父は玄関へ向かって走って行った。
こんな状況で……一体全体状況が全く飲み込めない。ただ言えることは、もはや躊躇している時間などないということ。残された道は二つに一つ。戦うか、戦わずに黒金景光を差し出すか――。
お袋を見ると恐怖に顔を歪め、膝を床に付けて震えていた。再び男の方を見たが、驚くことに音もなく消えていた。不気味に思ったが、すぐに親父の言葉を思い出し黒金景光がある道場の方へ、傷口を庇いながらも急いだ。
稽古場の一番奥に飾られていた黒金景光を握りしめた時、表門から二発の銃声がした。直後に母屋と離れを繋ぐ廊下を駆けてくる男たちの足音。音が多すぎて人数が分からない。それぞれに乱暴な言葉を発しながら確実に近づいてくる。
さきほど音が本当に銃声ならばこの家の誰かが撃たれたということか。
親父だろうか――。
俺は恐怖に震える手で黒金景光を鞘から抜いた。刃は僅かな光を照り返し、不気味な輝きを帯びていた。
たとえこの刀で人を斬ったとしても、俺は、俺だけは生き残ってやる――。
ついに男たちはなだれ込むように道場の戸を開けて入ってきた。多すぎて人数が分からない。狭い入口から途絶えることなく侵入してくる。全員スーツ姿だが物々しい雰囲気だ。俺一人に対して相手が多すぎる。それにまだ傷口から血が流れ続けている。貧血で意識が飛びそうだった。
「来るなァ!」
目頭が急激に熱くなるのを感じた。手にした黒金景光を構え、相手一人ひとりを見た。既に人を殺す覚悟はできている。誰からでもかかって来い。
男たちは俺から一定の間を空け立ち止まった。ナイフを持っているやつも、拳銃を構えているやつもいる。
「ガキがァ!刀降ろさんか!お前の親父みてぇに殺されたいんか!」
足がすくんだ。こいつらは平気で人を殺せる人間ばかりだ。ここで降参してもどのみち殺される。俺は全てを投げ出す覚悟を決めた。
稽古場に響き渡る声で叫び、目の前の男に斬りかかった。男が銃を撃つ前に、黒金景光はその腕を見事に刎ね飛ばした。斬った時の感触はほとんどなかった。牛の鳴き声のような悲鳴が聞こえ、血飛沫が顔にかかったが全く気にならなかった。俺は考えることもなく次々と刀を振るった。剣道の技術など何の役にも立たなかった。無我夢中で目の前の相手に黒金景光を叩きつけていく。数人に斬りつけたところで、床に広がった夥しい血に足を取られた俺は身を強く打ち付けた。
しまったと思った時には、轟音に続いて、体が後ろに持って行かれる感覚を覚え、直後に火傷のような強烈な痛みを感じた。撃たれた……状況は理解できたが、実感は湧かなかった。目に入るのは天上だけで、それ以外は何も映らない。
撃たれた左の脇腹から痛みが全身に広がっていく。微弱な電流が走ったように手足が痙攣する。こんな激痛は生まれて初めてだ。じわじわと背中に生温かい血が広がる。動脈をやられたかもしれない。ならばもう長くは持たないだろう。
男たちの醜悪な笑い声が聞こえた。拳銃を握りなおす音。
次はどこだ。頭か、心臓か――。
俺はこの、赤い泥濘の中で一生を終えるのか。恐怖を味わいながら、全てを失って……。
嫌だ。まだ生きたい――。
その時、入口の方から何者が咆哮した。全員の視線が一気にそちらへ集中する。空気が一瞬にして張り詰めるのが全身に感じ取れた。
「イノウエ……」
誰かがそう呟いたのを俺は朦朧とする意識の片隅で聞いていた。
また何発か銃声がした。
撃たれたのはあの大男ではなく、暴力団員たちの方だった。胸から血を吹き出し、その場へ崩れ落ちていく。それに構うこともなくやつはまた発砲した。弾丸は寸分のずれもなく、見事に暴力団員の胸部を貫いていく。即死だった。
人間が死ぬ瞬間を見たのは初めてだ。人の命とは、これほどまでに呆気ないものなのか――。
刹那、あの男と視線が交錯した。残忍で狂気に満ちた、人殺しの目だった。
男は次の瞬間には銃を捨て、暴力団員たちの群れの中に飛び込んでいた。
そのあとの一部始終を見たわけではない。遠ざかりゆく意識の中で、男たちの叫びや、骨が砕ける音、肉を引きちぎる生々しい音を何度も何度も聞いた。
第三章 厭世観――ペシミズム――
29
小松原正
事件発生から四時間後の東山署は騒然としていた。
全員で十七人いた暴力団員のうち十五人が死亡し、辛うじて一命を取り留めた二人は警察病院の集中治療室で緊急手術を受けている。メディアはこの事件をトップニュースに上げ、ネットの掲示板やSNSは事件の話題で炎上していた。
暴力団以外にも、その家にいた五十代の男性が銃殺されている。事件はあまりにも不可解だった。神坂組が一般家屋に突然襲来したということはもちろんだが、それ以上に事件の成り行きが全くの不明だ。殺害された暴力団員の多くは射殺、撲殺による即死だが、中には鋭利な刃物で体を傷つけらている者もいた。にもかかわらず現場に凶器となる刃物はなかった。
凶器以外にも死に至るまでのプロセスが全くの不明だ。十七人いた暴力団員がたった一人の男、それも高校生に力負けしたとは考えにくい。死亡した組員たちには強く殴打された形跡があり、それも非常に強力なもので、とても彼だけの仕業とは考えられなかった。そもそもそれが殴打などと呼べるものなのかさえ疑わしい。手足の骨を折られ、更には顔から首にかけての肉を引きちぎられ、中には完全に顔が陥没している遺体まであった。
東山署には急遽、京都府警から特別捜査本部が開設されることになり、東山署以外にも隣接する警察署の多くの職員がこの事件の捜査の応援をすることになった。各メディアは東山署と府警に報道陣を送り込み、署長や副署長、刑事課長はその対応に追われていた。
警視庁が応援をよこすのも時間の問題だった。
東山署が事件の後処理に追われる中、僕は二階堂と被害者の家族を保護するため、市内の大学病院内にいた。本来ならばもっと早く対応するべきだったのだが、事件があまりにも大ごとになったために、事件現場の確保に調査、さらには本店の捜査本部開設などの対応で遅れたのだ。時刻は既に午後十一時を回り、院内にほとんど人はいなかった。
既に閉院した薄暗い廊下を勇み足で歩きながら、僕は少し前を行く二階堂に目をやった。「今回の事件、八年前のものと何か関係があると思いますか」
「わからんが、否定はできん」振り向くこともせず歩き続ける。その声はいつもよりも緊張感があった。
「あの死体の山を見たか。あの殺し方は八年前のそれに匹敵する」
そう。入電を受け、最初に現場に入ったのが管轄内にいた僕たちだ。玄関に倒れる男性が救急車で運ばれ、SATが到着した時には既に全てが終わっていた。血みどろの稽古場には、生きている者と死んでいる者、合わせて十八人が転がり、夥しい血が床一面に広がっていた。すぐに住人と思しき高校生ほどの男が病院に搬送され、続いて生存が確認された暴力団員二名も警察病院へ搬送された。残りは状況証拠として、鑑識の仕事が終わるまでは現場に置いておき、それが終われば科学捜査研究所、通称科捜研で解剖される。
数十分後には本店からの応援も駆けつけ、僕らはまともに現場を調べさせてもらうことができなくなったのだが、それ以前に初めて見る大量の血液と異常な匂いを前に、僕は立ち眩みを起こした。一方の二階堂はというと顔を歪めはしたものの、至って冷静に状況確認にあたっていた。
「いいかコマ。もし八年前の犯人が関与しているなら間違いなくそいつが鍵になるはずだ。人間の頭を捻り潰すような下種を生かしてはおけん。絶対に油断はするなよ」
「はい」
前を向いていて顔は伺えなかったが、彼が険しい表情をしていることは付き合いでわかる。この人が犯罪を憎んでいることは、誰よりも僕がよく知っている。
「この事件、もしかすると俺たちの知らないところで、何か大きなものが動いているのかもしれん。国家の威信に賭けて、絶対に根元からぶっ叩くぞ」
二階堂の背中を見て思った。彼には貫禄がある。それは数々の事件を経験したものにしかない貫禄だ。どうしても、すぐ近くの二階堂が、手の届かないどこか遠くの存在に思えてならなかった。
僕もこんな刑事になれるだろうか↓↓。
被害者がいる待合室の前に到着すると僕たちの足音の反響は消えた。
二階堂は軽くノックし、待合室の戸を開けた。中には黒い硬質なソファに腰掛け背中を丸めた女と担当医がいた。現場にいた中で唯一口がきけるその女の衣服は意外にもきれいだった。ただ、随分と泣き腫らしたのか、化粧は涙の痕を残し、顔もやつれている。そうでなければおそらく年の割になかなか美人のはずだ。
「失礼します。東山署刑事課、二階堂警部です」警察手帳を見せ、目礼する。
「殺人事件ですので、ご主人の遺体は科捜研に回させております。どうぞご理解下さい」
四十代半ばほどのその女は「はい」と消え入りそうな声で言った。
「同じく小松原巡査です。今後の捜査を担当させていただきます」
女は誰を見るでもなく、微かに頭を垂れただけだった。無理もない。一家の大黒柱を暴力団員に殺害され、一人息子すらもたった今緊急手術を受けているというのだから。
二階堂は彼女の正面にしゃがみ込み、その目を真っ直ぐに見つめた。
「大変な目に遭いましたね。でももう大丈夫です。あなたはこちらで保護致します。今夜は遅いので署の方でゆっくり休んでください」
「いつ頃、元の生活に戻れますか」
夫を殺され、こんなことがあっては元の生活になど戻れるはずがない。それさえ判別できないほどこの女性は気が動転しているのだろう。
「今夜はゆっくり休みましょう。話はそれからです」二階堂の口ぶりは至って落ち着いている。
二階堂に廊下に出るように促されると、女はふらりと立ち上がった。
これから本格的な捜査が始まるのだ。そうなれば自分も第一線で捜査することになるだろう。
そう思ったが僕の胸は踊らなかった。以前はあれほど大きな事件を担当したいと思っていたのに、いざ遺族を前にすると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。事件が起きたのは自分たちの管轄内だ。未然に防げたかもしれない。
その時「コマ」といつもの低く鋭い声がした。
「行くぞ」
慌てて返事をすると、今自分のすべきことを思い出した。
僕は何を迷っている。一刑事たるもの、職務を全うすることが己に課せられた仕事なのだ。今は自分にできることを精一杯やるしかないだろう↓↓。
30
三木武志
点滴の滴の音で目が覚めた。誰かが横にいるでもなく、薄暗い病室のベッドにたった一人で寝かされていた。脇腹が痛む感覚はあるが、体は鉛のように重い。どうやら俺は生きているらしい。だが喜びも安堵も感じなかった。ただただやるせなさに胸が詰まりそうになる。
親父が死んだという事実が重く心に圧し掛かる。結局本当の親ではなかったが、今まで俺を育ててくれたことに変わりはない。最後の最後に酷いことを言ってしまった。親父に対する疑心が今も完全に晴れたわけではないが、それよりも後悔が大きかった。できることなら今すぐにでも謝りたい。だがそれはもうできない。
親父を殺したやつに対しての恨みは不思議と湧かなかった。まだ頭が冴えていないだけかもしれないが、やはり全ての責任は自分にあるのだ。俺はあの場で死んでおくべきだったのかもしれないが、今は死にたいなどとは思わない。本当の死を目の前にすれば恐怖からそんな考えは吹き飛んでしまう。あの暴力団員たちは、全員あのカイトという男に殺されたのだろうか。なぜあの男が家にいたのだろうか。なぜあの男は殺しを躊躇わなかったのだろうか。俺を助けようとして敵を殺したのか、それともただ殺したかっただけなのだろうか。
どちらにせよこうして俺が生きていられるのはあの男のおかげということになる。今思えば、河川敷でのあの男の行動は、俺を殺そうとしたからではなく、俺を殺人犯にしないためにしたのではないのだろうか。
だが、どのみち俺の親を殺した男だ。人の命を何の躊躇いもなく奪っていく↓↓あの男に心はない。
ならばこの感情は何なんだ。恨みや憎しみは間違いなくある。殺してやりたいほどに。が、それだけではない。「恩義」というものだろうか。だったらそれは、人をだめにするくだらない感情だ。
ベッド脇の机の上に目覚まし時計があった。午前六時前。あれから随分と長い時間が経ったわけだ。
布団の中で傷に手をやった。包帯が何重にも巻かれていて、押さえると痛むが、この様子だと臓器はやられていないようだ。
俺はこれからどうなるのだろうか。ここで終わりというわけにはいかないだろう。
目を閉じればあの時の真っ赤な景色が鮮明に浮かび上がる。破裂した水道管のように血が飛び散り、内臓が抉れ、人が人ではないかのように死んでいく。由緒あるあの稽古場の床が、悍ましいほどに真っ赤な鮮血に染められていく。悲鳴、怒号、発狂、嗚咽、そして塩辛いような血液の独特の匂い。
看護士が朝食を運んできたのは二時間後のことだった。それまで俺の頭の中は完全に事件のことで支配されていた。胃がむかむかするような苦しさをずっと抱えたまま、布団の中に蹲っていた。
「調子どうですか」三十歳くらいの女性看護師が俺の前に机を出して簡素な料理を並べていく。病院の飯は味気ないというぐらいのことはあって、見た目も量も貧相だ。
俺は答える気にもなれず何も言わなかった。あながちこの看護士は本心から俺の怪我を案じているのではなく、単なる挨拶として言ったのだろう。
「十時ごろに警察の方が面会に来られるそうです。それまでゆっくりしていてください。それからそこに着替えを置いたので使ってください」
顔が他の人よりも大人びているせいか、俺は年上にいつも敬語を使われる。いつも。
「親父とお袋はどうなりましたか」
看護士は皿を持つ手を止め、俺を申し訳なさそうに見た。「お母さんは無事ですが、お父さんは亡くなられました」
「そうですか」
やっぱりと思っただけで別段驚きはしなかった。それにそれ以上は悲愴感もなかった。お袋に関しては、俺たちが必死になっていた時にどこかに隠れていたのだろう。失望こそしなかったが、なんだか呆れる。そういえばあの男はどこへ行ったんだ。黒金景光は?
看護士は何も言わず作業を進める。俺は目の前に置かれた麦茶を喉へ流し込んだ。渇いた喉に心地よい冷たさが広がる。
「すいません、ちょっとトイレいいすか」
「はい、出たところの右側です。付き添いましょうか」
「大丈夫です」俺は慎重に体を起こした。痛みはあるがゆっくりとなら歩ける。支柱台というのだろうか、点滴袋を下げる金属製の柱を転がしながら病室を出た。
トイレは清潔感があった。俺は車椅子用トイレの横のを使った。
すぐして、左横、つまり車椅子用のトイレに誰かが立った。他にも結構あるのにと思ったが、それ以上は気にもしなかった。
「君が、武志くんだね」ふいに横の男が言った。驚いて見ると、上下ベージュのスーツ姿で同じ色のハットを被った小太りの老人だった。驚いたのはその男は用を足していたのではなく、ただそこに立っていたということだ。入院患者ではないのは明らかだった。
「え、ええ」辛うじて返事をした。
「なにも怪しいもんじゃない。わしはこの近くの寺で住職をしている、朱鷺というものだ。鳥のトキと同じ字を書く」
苗字だろうか、聞きなれない名だ。本名なのかさえ分からない。
彼は帽子を外して見せた。確かにきれいに髪の毛のない頭だ。顔は、ごく普通の人の良い老人といったところか。
「わしは君のお父上とは古い友人だ。知り合った経緯を離せば長くなるのだが、もっと言うと、影虎の親代わりだ」
「カゲトラ」
異様な名前だ。コードネームか、それに近い何かなのだろうか。
「知っているだろう。背の高い男だ」
あの男か。だが俺が知っている名前じゃない。それを聞くと朱鷺はこともなげにうなずいて見せる。
「あの子は本名を井上海斗という。じゃが、親のない哀れな子だ。今は影虎としてわしを手伝ってくれておる」
あの男が僧侶だったのか。信じられない。
「なんでそんなことをわざわざ言いに来たんですか。俺はあの男を警察に突き出すかもしれないのに」
俺は朱鷺と対峙した。朱鷺は動じることもなく、至って落ち着いた風だ。
「うん。そのことでここへ来た。本来ならば影虎がここへ来るべきだったんだが、それはできない。影虎が君の前に姿を現したのは何も君を殺すためじゃない。君を守るためだ」
守る?どういう意味だ。
「影虎は君のお父上に大きな恩義があるらしい。今回の一件の前に影虎に君を守るよう言ってきたのは剛志さんからだ」
そういうことならわからないでもない。だがその影虎は親父に一体何の恩があると言うのか。
外で看護士が押す荷台が横切る音がしたので、俺は声を潜めた。「だからって何も殺すことはないでしょう。それもあんなに大勢」
朱鷺は悲しそうにうなずいた。「わしも影虎が人を殺めることはもうないと思っていたのだが。いや、今はその話は別だ。単刀直入に言おう。君は影虎のことを警察に話してはならん。絶対にだ」
「何故ですか。そんなのはそっちの勝手な都合じゃないか」
少し間を置いてから朱鷺は言った。「警察に言えば影虎は逮捕され、おそらく死刑になる。匿っていたわしも捕まるだろう。だが同時に君も捕まるぞ」
「どういうことだ」少し語気が強まった。対する朱鷺は妙に落ち着いた声で、窘めるようにゆっくりと言い放った。
「君も人を殺したからだ。あの刀で、暴力団員に斬りつけたそうじゃないか」
はっとした。まさか殺したとは思っていなかったが、少なくとも斬りつけたことに違いはない。切羽詰っていたために状況をはっきりとは思い出せないが、もしかすると本当に殺してしまったのかもしれない。
俺の顔から汗の粒が流れ落ちた。
「あれは正当防衛だ」
「ならば鴨川のことはどうかね。あれは違う。君は確かに女の子を殺そうとしていたそうじゃないか。これも否定するかね」
俺は恐怖から何も言えなくなった。警察にそのことを調べられれば一巻の終わりだ。石井はまだ拉致されているのかもしれない。それを追及されれば俺の立場は危ない。さらに俺には学校での暴力事件がある。俺がいくらとぼけてもその証言に力はないだろう。
俺の肩に朱鷺の皺だらけの手が置かれた。
「わしは何も君を脅しに来たわけじゃない。わしらは君の味方だ」
それから折りたたまれたメモを俺の手に握らせる。「隙を見てここへ来なさい。刀も置いてあるから。いいかね、警察が本格的に動き出せば君は身動きが取れなくなるだろう。それは君の身の破滅を意味する。そうなる前に、来なさい」
そう言い残し、朱鷺は去って行った。彼がいなくなった後も俺はその場で呆然として動けなかった。
この状況で何を信じろと言うのだ。信じられるのは己のみだ。そう思ったが、俺に何か別の選択肢があるとは思えなかった。
31
乾実
烏丸涼子。現在三十二歳。東京大学法学部卒。二十五歳で国家公務員試験Ⅰ種に合格。その後、警視庁公安部に所属していたが、数週間前に京都府警警察本部に異動し、刑事課組織犯罪対策部第一係の主任を任せられる。
京都府警に異動になったことをマイナスに捉えなければ、全く非の打ちどころない経歴といえるだろう。この若さで警部とは相当優秀ということの表れだ。「公安のS」と呼ばれた女で、私の直属の部下だ。
Sとは隠語で警察内の組織内通者のことを言う。すなわちスパイだ。
今回の場合もそうだ。府警に潜らせて八年前の捜査情報を調べさせる。頭の良くて使える女だ。日下部の存在は伝えてあるが、さきほど殺されたことを伝えると、「そうですか」とだけ業務的な答えが返ってきた。いつもそうだ。あの女は、仕事はできるが熱意は感じられない。常に適切なことをするが、それ以上はしない。まあ、だから私の手で動く「駒」としては申し分のない人材なのだが↓↓。
日下部が殺された一部始終を録音したデータは、その三時間後には私の元へ直接届いた。ネットワークを介してのやり取りだと何らかの形で暗号が解かれてしまったり、パソコンに送る段階で他の職員が確認する可能性がある(まあ、実際にそんなことが起きたことは今まで一度もないのだが)。そのためわざわざ人の足で運ばせた。多少の時間はかかったが、一番安全な方法だ。
右手でマウスを移動し、玄関の監視カメラに映った男の顔を画面に映し出す。この男だ。この男が日下部を殺したのだ。そしてこいつの口から出た「井上」という存在。恐らくその井上なる人物が八年前の事件の真犯人で、やつはまだ生きている。100%とは言えないが、今回の事件に井上が関係している確率は限りなくそれに近い。そうでなければ十五人もの暴力団員を一度に殲滅させるなど考えられない。不死身と呼ばれるのも当然かもしれない。
「警視官」
烏丸が私を呼んだ。そうだ、烏丸と電話していたところだった。椅子に深く背中を預け、足を組み換え楽な姿勢をとる。「ああ。君はそちらで任務にあたってくれ。現場のことは卓がよく分かっているからあいつに聞いてくれればいい」
烏丸を現場へ送り込んで正解だった。あいつは賢い女だ。「集まった情報は全て私の元へ回せ。今回の捜査の指揮権は君に委ねる。烏丸捜査官」
受話器の向こうで烏丸が息を飲んだのがわかった。捜査官は捜査全体を取り仕切るトップだ。烏丸がキャリアと言えど普通は年配者がするものだ。だが今はそんなことに構ってはいられない。私の直属の部下でないと何かと面倒だ。
「まだ警部クラスで、若輩者の私なんかに大役すぎませんか」
気の強いこの女が臆するとは珍しい。私は彼女の尻を叩いてやることにした。「烏丸。君は公安で非常に優秀な働きをしてくれたじゃないか。場所が変わっても君ならできるはずだと思うが。犯人逮捕の暁には警視の椅子を用意してやる」
「ありがとうございます、警視官」
「それから、所轄送りにした二階堂警部はこちら側へ取り込んでおけ」
「確か、私と入れ替わりで班を退いた人ですよね。何故ですか」
「あの男は異常に鼻が利く。所轄に異動させたのも、八年前の事件を追わせたのも全部私が仕向けたことだ。駒にしておけば後あと使えるだろう」
「わかりました」
こうやって私の元で動く人間を増やしておけば何かと役に立つ。烏丸には捜査全体を、二階堂には現場と裏の情報を回してもらおう。あの男こそ本当のマル暴だ。裏社会は知っていても、その本質を知っている刑事はこの国には数えられるほどしかいない。本当の裏というのは、裏の裏、つまり表側の見えない部分に潜んでいるのだから。
「烏丸、必ず星を挙げろ」
彼女の返事を聞くと私は受話器を置いた。
さて、問題はまた別にある。日下部の死は自殺として処理できたが、日下部を殺した男がまだ生きている。監視カメラに映った顔を頼りに私の直属の部下に追わせているが、現れるのは私の前だろう。日下部の次は私が餌になったというわけか。自分の命惜しさに私の名を挙げるなど、あの男は最後まで使えなかった。私にSPを付けたがいつあの男は現れるのだ。私を殺そうなどと思うなよ。私は警察官僚のトップツーだ。私を敵に回すのは警察全体を敵に回すことと同じことだぞ。
「新沼、菅谷」
ドアが開き、黒いスーツ姿の男が二人入ってきた。私の部下でSPを任せている。二人とも長身で逞しく、実戦経験も豊富だ。
「例の男のこと、任せたぞ」
「はい」二人同時の敬礼。私の自宅からこの職場、更には顔を出す店にまで注意を払い、完全な警戒態勢を敷いている。例の男を見つけ次第の後処理はこの二人に任せている。私のコネで警備部から公安に引き入れ、警視の階級までくれたやった二人だ。忠義を感じ、命を張る覚悟はできているだろう。
「それはそうと、日下部の処理はもう終わったのか」
「神奈川県警は自殺として既に処理を終えました。遺族にも不信感を抱く人間は今のところいません」
「よし」
私は窓の外に目をやった。曇り空の下に、今日も騒々しい東京の街が広がっていた。
32
乾卓
暴力団員連続不審殺人事件。これがこの事件に与えられた名だった。
今日、正式に東山署に捜査本部が開設された。明日には警視庁からの応援も駆けつけるという。こういった類の事件は初めてだった。暴力団員が民家に押し入るところまではまだわかるが、返り討ちに遭い、ほぼ全員が殺害されるというのは前例がない。しかも犯人は不明。証言できるのは生き残った母親と病院にいる高校生の息子だけ。だが母親の方は情緒不安定でまともに会話が噛み合わないという。殺された暴力団員十五名の遺体は科捜研送りとなり、辛うじて一命を取り留めた二人は警察病院にいるが、二人とも遷延性意識障害。つまるところ昏睡状態だ。
今日初めてこの東山署に来た時、まず寂れたチンケな建物だと思った。狭い駐車場に、それとほぼ同じぐらいの敷地の建物がそれだった。しかもたったの三階建て。やはり所轄署は所轄署だ。俺たちがいる本店とは規模が違う。まあ、その本店でさえ警視庁舎とは雲泥の差なのだが↓↓。
最初に出迎えてきたのは、署長の青田警視。見た目はただのオッサンだが俺たちよりも階級は上だ。まあ年功序列制だから署長の席には年の功で居座っているのだろう。
案内された会議室は思いのほか広かったが、建物自体の老朽化が進んでいるために壁や天井の至る所にひび割れが目立つ。百台以上ある三人用長机には、既に本店の第二係から第五係までの職員、東山署の職員、応援の他の署の職員、さらには科捜研の職員が座り、向かい合う前の席には府警の栗原警視正、足立警視長と錚々たるメンバーが揃っている。烏丸はその二人の間の席、つまり真ん中の捜査官の椅子に座り、俺と柳川はこの三人の横の机の席に座った。
これはこれは。向かい合う三列目の席に二階堂がいた。横の若い刑事と何やら話している。相変わらずのヤクザまがいの趣味の悪い服装だ。
「起立」足立警視長の号令でその場にいた全員が立ち上がった。「敬礼」
烏丸は足立警視長とアイコンタクトを挟み話し出した。「捜査官の烏丸です。今回は暴力団絡みの事件です。くれぐれも行き過ぎた捜査の無いように、皆さん心して捜査に当たってください」
烏丸が捜査官だと名乗った時、その場が若干ざわついた。無理もない。こんな若い女に捜査官など務まるものか。だが烏丸は動じることなく、机の上の書類を持ち今回の事件の概要の説明をした。
「では捜査報告をお願いします」
説明が終わると烏丸の声で捜査員の一人が立ち上がり話し始めた。ちなみに彼も本店の人間だ。事件現場を最初に押さえたのは所轄の人間だが、初動捜査で踏み入ったことまで調査したのは本店の人間なのだ。
「殺害されたのはまず、事件があったで民家で剣道の道場を営んでいた三木剛志、五十一歳。死因は胸部を拳銃で二回発砲されたことによる失血死。銃弾は二発とも被害者の体外から発見されました」
そう言ってビニール袋に入った銃弾を持ち上げる。日本の警察が使用する「ニューナンブM60」の、先が丸い弾丸とは違い、アメリカやフランスの軍が使用するものに近い尖った流線形をしている。暴力団関係者が使うものなら、さしずめフィリピン製といったところだろう。
「暴力団員の方は所持品から神坂組の組員だと判明。裏取りはこれからですが、おそらく十七人全員がそうと思われます。殺害された十五人の死因のうち、拳銃によるものが六人。残りの九人は撲殺でしたが、本田直樹、葉山和重、池本芳樹、松井正次の四人は特に外傷がひどく、顔の識別も困難でした。他に刃物のような傷が銃殺されたうちの三人、うち一人は右腕を切り落とされていました」
それから一人ずつの名を挙げ、その死因と外傷の状況について詳しく説明する。他の捜査員たちはそれぞれメモを取っている。
次に科捜研から白衣の白髪交じりの男が立ち上がった。「死亡推定時刻は午後六時頃。それぞれ多少の誤差はありますが、暴力団員が玄関で剛志を殺害後、稽古場で息子の武志に発砲。その前後で何らかの状況で返り討ちに遭ったものと思われます。ちなみに暴力団員の体内外から検出された弾丸は神坂組が使用していたものとは一致せず、全くの別物というところから、犯人は神坂組の人間ではない可能性が高いと見受けられます」
栗原警視正は机の上で手を組んだ。「では暴力団員を殺害した犯人は全く別にいると?」
「おそらく」
栗原警視正は「なるほどな」とうなずき、「引き続き目撃情報の収集に当たってくれ」と全員を見渡した。
その後、烏丸が捜査担当の割り振りを行い最初の捜査会議は終了した。
結局俺たち第一係の担当は歩き仕事ではなく、第二係から第五係までの本店の職員と所轄の刑事が収集する情報を整理するというものだった。
「乾くん」
人が散った会議室、ちょうど柳川がトイレか何かのために席を外した隙に烏丸は俺の所へ来た。「あなたは八年前の事件の捜査情報を集められるだけ集めてちょうだい。データは府警のコンピュータにデータ化してあるけど、詳細や押収した物品は全てここに保管してあるはず。それから二階堂警部のこと」
「二階堂さんがどうかしたんですか」何故烏丸の口から二階堂の名前が?さきほどの捜査会議を除いて二人に面識はないはず。
「上からの指示で彼にも我々の捜査に協力してもらうことになったわ。彼にはここで最近まで例の事件について捜査してもらっていたらしいから」
「上って、もしかして父ですか」
烏丸はうなずいた。なるほど。つまりあの男は権力で二階堂を所轄へ送ったということか。二階堂が裏に情報を流したという話もでっち上げだろう。それを知れば二階堂も柳川もどう思うことか。下手すれば俺の方に怒りの矛先が向く。所轄の二階堂はともかく、柳川は敵にしておきたくない。あの二人は無駄につるんでいた。最悪、その関係をこじらせ二人を対立させておくべきか。
「捜査情報は秋山刑事課長に言えば引き出せるはずよ」
そういえば刑事課長も取り込んだとか言っていたな。
「では先にそちらをやりましょう」俺は烏丸に軽く頭を下げると会議室を後にした。
刑事課まで行き、まず秋山を探した。小用で空けているのかデスクに姿はなかった。
と、視線の先で二階堂と目が合った。二階堂は俺に気づくと馴れ馴れしく笑いかけ、近づいてきた。その横の若い刑事は素早くこちらへ敬礼する。
「乾じゃねえか。元気か」
俺は愛想笑いを浮かべた。「ご無沙汰しております。ここだったんですね、二階堂さんが異動になった署というのは」
「ああ」と苦々しく笑う二階堂。「それよりこんなところへどうした。何か用でもあんのか」
「ええ、まあ」言うべきか迷った。だがどのみち捜査に協力してもらうのであれば必要なことだ。「唐突で恐縮なんですが、八年前の暴力団員連続殺人事件の捜査情報をお借りできますか」
二階堂は訝しげにこちらを睨んだ。あからさまに俺を怪しんでいる。「そんなもん何に使うんだ。お前は今回の事件の捜査をしにここへ来たんじゃないのか」
言葉に詰まった。ここでこちらの手の内を明かして仲間へ引きずり入れるべきか、それとも慎重に行くべきか。この男は無駄に鋭い。下手な真似はできない。
そこへ若い刑事が近づいてきた。
「二階堂さん、どうしたんですか」
背は高いが細身で、刑事らしい物々しさにまるで欠けた優男だ。縦社会の警察の中でこの口の利き方か。おそらく刑事の厳しさをまだあまり知らない、駐在所上がりか研修生といったところだろう。やれやれ。邪魔者が介入してきやがった。
「ああ、なんだ。乾、俺たちは今から被害者の遺族のところへ向かう。悪いがここではお前が部外者だ。捜査情報なんざ軽く渡せるわけないだろう。行くぞ、コマ」
二階堂は俺の横をするりと通り過ぎ、若い刑事もそれに続いた。
「待ってください」
二階堂は立ち止まったが振り向かずに言った。
「なあ、俺はもう本店の人間じゃねえんだぜ。なあなあは通用しねえよ」
そしてそのまま行ってしまった。その声に迷いや躊躇いは伺えなかった。左遷され腐っているのかと思えば、逆に吹っ切れた様子だった。これは少し厄介だ。俺たち本店の人間を敵視しているならばこちら側へ引き入れることは困難かもしれない。
33
〈三木武志〉
約束の時間ちょうどに彼らは病室に訪ねてきた。
彼らが来るまでの間、俺は病室のテレビでずっとニュースを見ていた。報道のほとんどが俺の家であったことだった。そこで詳しい事情を確認した。襲撃た十七人の暴力団員のうち、殺されたのが十五人で、残りの二人も意識不明の重体ということだった。やはりどの局も龍門寺影虎の存在には触れていない。事件はまだ捜査段階で、詳細が掴めていないというわけだ。
訪ねてきた刑事は二人組で、一人は顎鬚の生えた渋い感じのベテラン。もう一人は二十代くらいの背の高い男。二人の自己紹介で名前がわかった。前者が二階堂。後者が小松原。警察相手ということで俺は身構えていたが、彼らは意外にも柔らかな物腰だった。
「色々なことがあって不安も多いだろうけど、今はゆっくり怪我を治してね」小松原はベッドの横の台に見舞いのフルーツ籠を置いた。
「被害者や遺族の心のケアをするのも僕ら警察官の仕事だから。何でも話して下さいね」
二階堂は一脚だけある椅子を出してそこに座った。「早速で悪いんだが、事件の概要を聞いてもいいか」
「ええ」
二階堂はポケットから手帳を取り出した。随分と使い込んだのか、えらく年季が入っている。「えーっと、君は三木武志くん。十六歳の高校二年生。私立玄徳学園に通学しているということで間違いないね」
「はい」俺はベッドの上で少しだけ身を起こした。
「で、家にいると突然ヤクザ集団に襲撃された、と」
少し癇に障る言いぐさだったが、俺は黙ったまま彼の手帳を見るでもなく見ていた。そこには読めないほど汚い文字が所狭しと羅列してある。
「借金があったとか、揉め事があったとか、そういうことは?」
俺は「わかりません」と首を振った。二階堂は「なるほどなあ」と何やら手帳に書き込んでいく。「まあ高校生だもんな。もしそういうことがあっても隠そうとするもんだからな、親は」
最後の「親は」という何気ない言葉に胸がチクリとした。この人はまだ俺の家の本当の家族関係を知らないのだろう。
「俺の口から言っても確認してるだけになっから、君の口から事件のあらましを話してくれないか。それとも気が動転して上手く喋れないか」
俺は「大丈夫です」と首を振り、言葉を選びながら事の次第を説明した。ただ、嘘の証言をしなければならないという緊張で、口の中に粘土の高い唾液が溜まった。「暴力団員たちが来て、親父は玄関に行きました。あ、俺たちはリビングにいて俺は稽古場に行きました。お袋はどこかへ隠れていたんだと思います」
二階堂はうなずいた。「通報してきたのが君のお母さんだった」
「それから銃声を聞いて、暴力団員たちがこっちへ来て」それから何を言えばいいか迷った。暴力団員たちが来て、俺が刀で斬りつけて、撃たれて殺されそうになったところへ影虎が来た。そしてそこにいた人たちを殺していった。
押し黙る俺を二階堂がじっと見つめてくる。「辛いのは分かるが、事件解決のためなんだ。話してくれないか」
「すみません。記憶が曖昧で。確か銃で撃たれて、そこで意識がなくなり、目覚めたらここでした」
二階堂は何度か小さくうなずいた。「そうか他に思い出せることは?どんなことでもいいんだが」
俺は首を振った。「すみません。まだ気が動転してるみたいで」
「わかった。落ち着いてからゆっくりと聞くことにしよう。コマ、今日は戻るぞ」
そう言い、二階堂は小松原と共に俺の病室を出ていった。
* * *
〈小松原正〉
病院を出ると、二階堂は早速タバコを取り出しライターで火を点けた。もうこの光景も見慣れてしまったが、僕はまだどうもタバコの臭いを好きになれない。だいたいあんなもの、体と財布に悪いだけだろう。刑事だったら歩き仕事もあるし、犯人を追いかけることもある。タバコ吸う刑事がウケるのはせいぜい昔の刑事ドラマくらいのものだろう。
「臭うな」二階堂はタバコを咥えたまま顔をしかめた。
「タバコがですか」
「バカッ。あの武志とかいうガキがだよ」そう言って鼻から白煙を吐き出す。
「え?だって、被害者ですよ」
二階堂は眉を寄せ、遠くを見るように目を細めた。「考えてもみろよ。自分の父親が死んで間もないってぇのに、涙どころかそのことについて一切聞いてこなかっただろ。俺があいつの立場なら警察官が来た時点でそれを聞くがな」
「確かにそういえばそうですよね」
「あのしおらしいというか、被害者じみた態度というか、なーんか胡散臭かったんだ」
そこまで見抜いていたのか。さすがは二階堂だ。
「でも被害者は被害者ですよ。それにまだ高校生ですし」
二階堂は呆れたようにタバコの白煙を吐き出した。「高校生ならなおさらだ。まあ、一応被害者だから強引な聴取はできねえが、看護士の話じゃ、あと数日で退院って言うし、保護とかなんとか理由付けて署で勾留しときゃ、何かしらネタを落とすかもしれねえ」
「ええ、まあ」
「そうだな今日まだ時間あるしよ、お前、高校行って敷鑑(被害者の関係者に対する聞き込み)して来い。俺は他にすることあっから」
「僕一人でですか」怯んだ僕は二階堂にきつく睨みつけられた。
「何だよ。一人じゃ嫌って小学生じゃあるまいし」
少しむっとなった。
「違いますよ。ただ、二階堂さんの他にすることっていうのが気になったんで」
「ああ。モグラんとこに行ってくる。今頃カミサカはピリピリしてるだろうからな。今回も強引だが奥の手を使うことにするよ。それにもし犯人が八年前と同じ人間ならまたどこかで殺しが起きるかもしれん」
「待って下さい。今あんなところへ行くなんて絶対に危険ですよ」
「うるせえ。前に言っただろ、国民のために命を張ることが警察官の神髄だって。何も殴り込みに行くわけじゃねえんだから。それに、あれからモグラの安否が気になっちまってな」
僕は何も言えず黙り込んでしまった。確かにあの後モグラはどうなったのだろうか。あの様子では殺されていたとしても不思議ではない。僕もそのへんは知っておきたかった。
「わかりました。でもほんとお願いしますよ」
二階堂は「おう」と笑い、「じゃあな」とそのまま行ってしまった。
取り残された僕はケータイで元徳学園の場所を確認しながら考えた。何の確証もないが、もし八年前の犯人が関与しているならば今回の事件の捜査はかなり難航するのではないだろうか。それに、何故、犯人は時効成立まで迫った今になって事を起こしたのか。もしかすると八年前とは全く別の人間の仕業なのではないだろうか。
だが考えても分からなかった。結局刑事の仕事はパズルのようなものだ。散らばった一つ一つのピースを、これでもないあれでもないと組み合わせながら目的のものを導き出す。今回の事件は散乱するピースを見つけること自体困難かもしれない。が、確実に終着点はあるはずだ。
戦はまだ始まったばかりだが、ピースは着実に集約されていくだろう。それを組み合わせた時、今回の事件と八年前の事件は何らかの形で繋がるのかもしれない。
34
〈右近〉
強風が吹き荒れるビルの屋上で、二人の男が作業をしていた。一人はキャスターにスナイパーライフルをセットし、もう一人は周囲を気にしながら風向計で風を測っている。
「右近さん、やっぱり吊るし屋はまだ生きてるんですかね」風向計を見つめたまま三島竜二がそう言うと、右近の眉間に若干の力が入った。「だろうな。あれは十中八九井上の仕業だ。俺たちやあん中の数人はともかく、井上の存在すら知らなかったやつらまで殺すとは舐めたことをしやがる。あいつには死んでもらうしかない」
三島は憎々しげに顔を歪めた。「そうっすよね。井上だけは生かしてはおかないっすよね」
「ああ。それにしてもまさか本当に井上が生きてたとはな」
右近は廃ビルで井上を撃った夜のことを考えていた。あの時、確かに心臓を撃ったはずだ。いや、たとえ心臓を逸れていたとしてもあの状況で生きていられるはずがないのだ。普通なら叩きつけられた衝撃で骨折はおろか辺りに肉片が散らばってもおかしくはない高さだ。だが井上の死体どころか、大雨のせいで手掛かりとなるものは何も残っていなかった。それが意味することはただ一つ。
井上はまだ生きている。
↓↓組長には殺したと報告したが、生きていたとすればまずいことになる。組長が井上の生存を知れば俺を消すかもしれん。ならばそれより先に井上を始末しておかないと↓↓
「右近さん、それにしてもなんで井上は今頃動き出したんでしょうか」
「さあな。もしかするとあの家と何か繋がりがあったのかもしれねえさあそろそろか。リュウジ、わざわざ東京まで呼んですまなかったな」
「いえ。俺は右近さんの舎弟っすから」
「ああもうすぐだ」目を眇めながらスコープの鏡筒を覗き込んだ。たった今、この男は警視庁舎の出入り口へ向けて、乾実を射殺しようと構えていた。時刻は正午を少し回り、真上から照り付ける太陽のせいで屋上はうだるような暑さに満ちていた。体中から吹き出す汗を拭うことすら我慢して、身動き一つせず、スコープから庁舎の入り口に意識を集中させる。
↓↓乾実、殺してやる。俺の命を脅かすやつは誰であろうと生かしておくわけにはいかねえんだ↓↓
右近はここ数日の乾実の行動の大まかなパターンを掴んでいた。昼は決まって庁舎を出てブティック・今野という店で昼食をとる。そこでちょうど警視庁舎から出てきたところを狙おうという算段だ。
引き金に人差し指を添え、スコープから入口の自動ドア周辺を睨んでいたが、どういうわけか何分経っても乾実が出てくることはなかった。
「遅いっすね」
「リュウジ少し黙ってろ」
右近にとって乾実はどうしても消しておきたい存在だった。警察官の中でおそらく唯一例の薬のことを知っている人間だからだ。十年ほど前に京大の医学部で研究していたアンチエイジングの新薬は、研究段階で非常に特殊なものを生み出した。生物実験でその薬を投与した二十匹のモルモットのうち十九匹が死に、たった一匹だけに大きな変化が生じた。まず全身の毛がほぼ抜け落ち、通常時よりも1.5倍ほど体長が大きくなり、筋肉も大きく発達し強度を増した。他のモルモットとの違いを調べるためにその遺伝子を調べると、フォクソ(FOXO)という遺伝子が検出された。このフォクソ遺伝子は管理人遺伝子とも呼ばれ、寿命が著しく伸びるというごく希少なものだ。人間にもこのフォクソ遺伝子は存在するが、ある人と無い人がいて、ある人は無い人に比べ圧倒的に少ない。
結局そのモルモットは一気に老化し、一か月と持たずに死んでしまった。チームは更なる研究のために人と遺伝子が近い動物として、ニホンザルを次の実験に使用した。ニホンザルもやはりフォクソ遺伝子が無い個体は全滅だった。だが驚くことにフォクソ遺伝子がある個体でもあのマウスのようになったのは、十匹のうちたった一匹だけだった。フォクソ遺伝子を持つ個体というだけで希少なうえに、その一匹と他の九匹の明確な違いが判らないままこの実験は行き詰っていた。さらに、細胞が活性化する反面、分裂が早まることで老化が早まり、それだけ死へ近づくということで、人間への使用は見込めない薬品ということでこの研究自体の意義が問われ始めた。
研究全体を通して分かったことは、薬の投与が成功した場合、まず全身の毛が抜け落ち、筋肥大と同時に骨格が新たに形成され、更には細胞の活性化により自然治癒力が著しく高まり、多少の怪我や病気はすぐに治してしまうということ。結局何故フォクソ遺伝子がある個体で、更にはその中でも僅かなものにしか投与が成功しなかったのかは不明のまま、この研究は日の目を見ることなく終わった。
だがそれは本当の意味での終わりではなかった。
その直後、研究室があった建物は火災で焼失し、そこにいた研究員も脱出できずにほぼ全員が死を遂げた。警察は実験中の不慮の事故ということで処理したが、実際は事故などではなかった。その実態はその研究を知った神坂組がそのデータと薬を盗み出し、口封じに研究員を事故死に見せかけて殺害したというものだった。唯一生き残った、当時研修生だった日下部達也も、先日右近によって自殺に見立てて殺害された。
八年前、神坂組は人間の投与に唯一成功した井上海斗を抗争に使用した。当時十七歳だった井上に実の母親を殺害させ、絶望的な環境の中で彼の洗脳を遂行した。心理学的用語を用いるならば、当時の井上は学習性無力感だったと言える。学習性無力感とは、長期にわたりストレス回避の困難な状況下にあったものは、それから逃れようとすらしなくなるということを意味する。井上もこの無気力状態の中で何人もの人間を惨殺していった。
手筈では最後の最後に井上を抹殺し、証拠を完全に隠滅するはずだったのだが、結局それは果たせなかった。
そして、井上は未だにどこかで息を潜めている。
だから先日の事件のように暴力団員たちを殺害していったのだ。次は自分の番かもしれないと、右近は覚悟している。
だが生きる希望を捨て去ることなどできるはずがない。だからこうして、間接的にでも自分の命を脅かす乾実を消しておきたいのだ。
「右近さん!」背後で三島の切羽詰った声がした。振り返るとそこには二人のガタイのいい警察官がいて、それぞれこちらへ銃を向けていた。右近は状況のあまりの激変ぶりに目を疑った。
↓↓何故だ↓↓
ゆっくりと立ち上がり三島と同じように両手を挙げた。
「公安部の者だ」男の一人がそれだけ言った。
↓↓乾の部下か↓↓
「なあ、待てよ」右近の顔が恐怖に歪み、鼻の頭に汗の玉が浮かんだ。
「君たちにはカク秘(警視庁における秘密保持の階級。カク秘が最上級)で超法規的措置が許可されている。つまり殺してもいいというわけだ」男は銃を構えたまま顔を歪めるように笑った。「だが血肉が飛び散れば後始末が骨だ。大人しくしていれば獄(刑務所)までで勘弁してやる」
「わかった。わかったから」
右近の弱弱しい声に動揺した三島は、彼の方をちらりと見たが、観念したのか大人しく警察官の方へ歩き出した。
「ようし」
二人の注意が三島へ移ったその瞬間、右近は首裏に隠しておいた小口径の銃を素早く取り出し、迷いなく発砲した。
特有の破裂音はなかった。空を切るような音がしたかと思うと、二人はほぼ同時に膝から崩れ落ちた。それぞれ顔に穴が開き、そこからどろどろと赤い血を吹きだしている。
三島は緊張のあまりその場にへたり込んだ。「右近さん」
見ると三島の頬に赤い血の線が横切っていた。右近が発砲した銃弾が掠ったのだ。
拳銃を下ろした右近は肩で息をしていた。「危ねえリュウジ、急いでここから離れるぞ」そう言ってスナイパーライフルを素早く片付け、それが終わると虫の息の二人の刑事の手から拳銃を奪い取り、そのうちの片方を三島の手に握らせる。「お前も持っとけ。いつ殺されるかわからねえぞ」
「でも右近さん、いくらなんでもこれはヤバいですって」右近に引きずられるように歩き出した三島は後ろの死体を振り返った。三島は恐怖に顔を強張らせているが、対照的に右近は僅かな緊張の色を浮かべるだけでそれ以上動じる風もない。
「殺される前に殺しただけだ。こんなことを躊躇ってたら井上に殺られるぞ」
二人は警察官二人の死体を残し、非常階段から逃げるように下りて行った。
35
中年の事務員に案内された面談室という部屋は狭くてかび臭かった。部屋の中央に低いガラス張りのテーブルがあり、それを挟むように薄汚いソファが設置されている。テーブルの横に設置された木製の台座には、中国風の柄が施された壺が飾ってあるが、ホコリを被っているために色が薄れて見える。事務員が黒いカーテンを開けると、日光に照らされて舞い上がった塵が見えた。掃除が行き届いていないということは、この部屋が使われることは滅多にないということだ。僕は事務員に促されるままに上座にあたる椅子に座った。彼は薄暗い部屋に電気をつけると、「先生を呼んできますので」と部屋を出ていった。
待っている間に室内を観察していると後ろの壁に数枚の賞状が飾られているのを見つけた。
平成○○年↓↓去年のものだ。剣道部か。どうやらこの高校は剣道部が強豪らしい。僕も高校の時に警察官採用試験に有利だろうと剣道をしていたが、どうも強い方ではなかった。それでも三年間なんとか続けていたが、残した最高の成績は地区大会での三勝だけだった。運動自体は得意だが、技術を要する剣道はどうも向いていなかったらしい。
勉強なんてもっとだめだった。最初は大学に行くために頑張っていたが途中で諦めた。夢だった警察官採用試験にはなんとか合格し、それから京都府警察本部警察学校で十か月を過ごした。たくさんの厳しい訓練や課題をこなしたが、夢のためならいくらでも我慢できた。おかげでこうして曲がりなりにも刑事になれた。
ふうっと細い吐息を吐いた時、ゆっくりとドアが開き、男性教諭が二人入ってきた。一人は校長だろか、恰幅の良い年配の男。もう一人は特徴の掴みづらい短髪の中肉中背の男。僕は背筋を伸ばし、懐から警察手帳を取り出した。「東山署刑事課の小松原です。お忙しいところすみません」
「とんでもございません。あ、私、校長の重田と申します。それからこちらが三木くんの担任の吉岡先生」
吉岡が上目づかいに軽く会釈する。僕も軽く頭を下げ、スーツのポケットから手帳を取り出した。
「早速ですが武志くんの学校での様子をお聞かせ願えますか」
吉岡は重田をちらりと見ると遠慮がちに話し始めた。警察相手に緊張しているのだろうか。「三木は成績もいいですし、部活の剣道では去年は全国二位の成績を残し、頑張っていました」
あの彼、それほどまでの実力があったのか。さすがは道場の跡取り息子だ。
「ですが」吉岡は口ごもった。
「どうしました?」
「は、はい。半月ほど前に剣道部に行かなくなった辺りから様子がおかしいと思っていたんです。授業態度が悪くなったというのもそうなんですが、もっとこう、目つきが鋭くなったというか」
僕はメモを取りながら軽く相槌を打った。
「剣道部に顔を出さなくなったのも、顧問の先生と上手くいってなかったらしくて。なんでも、あるとき口論から竹刀で殴ったそうなんです。ちょうどここら辺を」そう言って自分の額のあたりを触る。校長の重田は「殴ったなんて。少しかっとなって当ててしまっただけですよ」と弁解したが、どうも怪しい。そもそも剣道なんてものは特に上下関係や礼儀に重きを置く競技だ。普通口論になったからといって顧問を殴るだろうか。二階堂が言ったように武志くんが曲がっているのか、あるいはその顧問によほどの問題があるのかだ。ただこの件は事件と直接問題があるとは思えない。
「あのう、まだあるんですが」
「何ですか」
「実は三木は事件の四日前に暴力事件を起こしていまして」
「えっ」つい大きな声を出してしまった。それが本当だとしたら一大事だ。
「あ、少し語弊がありました。えっと、朝、私たちの教室である三年生がバット持って暴れてたんです。それがどうやら三木を探していたみたいで。そこへ三木が行って、喧嘩、みたいになってしまって」
「それから?」
「それからえっと」
口ごもった吉岡に痺れを切らしたのか、重田が代わりに話し始めた。「私どもも実際に現場を見たわけではありませんので詳しいことは言えませんが、そこで三木くんはその三年生をきつく罵り、怪我をさせてしまったんです。それがひどい怪我で前歯が抜けて、骨は無事だったんですが肩の関節をひどく痛めてしまったとか。これはあとでわかったことなんですが、どうやらその三年生と交際していた子を三木くんが取った、取っていないとか、そういうことだったらしいんです。結局、最初に手を出したのがその三年生だったということで、彼には退学処分を下しました」
女関係のもつれで乱闘。その際にバットを持った三年生をボコボコにした?普通の真面目そうな高校生だと思っていたが、まさか猫を被っていたのか。剣道が強いならかなり力もあるだろう。進学校の生徒といえど不良じゃないか。
それで話は以上だと思っていたが、校長はさらに続けた。「もしかしたらこれは関係ないことなのかもしれませんが、今日その子が登校していないんですよ」
「えっと、その子というのは、例の二人が乱闘を起こすきっかけとなった女の子ですか」
「まあ、そうなりますね」
それだけなら別段おかしなことではない。しかし↓↓。
「今朝保護者に電話したら昨日から家に帰ってないとかで女の子ですし、身に何かあったのではないかとこちらも肝を冷やしていたところで」
何か嫌な予感がする。
「その子と退学した三年生の名前と住所を控えさせてください」
重田は予め用意していたバインダーから書類を取り出しこちらに差し出す。僕はそれらを素早く写し取り、書き取った名前を見つめた。石井詩織と小田剛喜か。
「二人がホテルかどこかにいるといった類のことかもしれませんね」
「ならまだいいんですが保護者の方は様子を見て、場合によっては被害届を出すかもしれないとおっしゃっていました」
「そうですか。もし被害届が提出されたら捜査することになると思います。他に、何かありますか」
「あのう、三木は無事なんでしょうか。さっきからずっとそれが気になってて」おずおずとそう言ったのは吉岡。先ほどから落ち着きがなかったのはそのためだったのか。
「ええ。今は病院に入院していますが、今朝会った時は普通に会話できるほど元気でした」
それから僕は、さすがにお父さんが亡くなられて落胆していましたが、と付け加えた。すると吉岡の視線がすっとせり上がり、僕を見つめた。
「刑事さん、もうご存知かもしれませんが、一応言っておくと彼の両親は本当の親ではありません」
また新しい情報か。僕は「詳しく聞かせてください」とペンを握りなおした。
「入学時にご両親が内々に相談してきたことなんですが、武志くんは養子で、そのことをまだ教えたくないから一応気をつかってやってくれとのことでした」
「武志くんは、そのことを知っているんですか」
吉岡は首を傾げた。「どうでしょう。そういったことは」
「わかりました。今日はお忙しいところありがとうございました」
二人と別れ、来客用出入り口から校門へと向かった。ここへ来て正解だった。二階堂が言うように武志は完全にはシロとは言い切れない。さすがに暴力団員殺しの犯人だとは考えにくいが、必ずしも犯人が犯人らしいオーラを放っているわけではないのだ。武志のことをさっきの二人以外にも↓↓できれば彼の近辺の生徒辺りに聞いておきたいが、あいにく時間的にも今は厳しい。それに警察官といえど無関係の生徒に聞き込みを入れては学校側から何らかの形でバッシングを被ることになりかねない。ここへ来たときに校門の前を通りかかったが、マスコミ関係者らしい人物を何人か見かけた。学校側としても今回の件は警戒しているはずだ。無用な刺激をして関係を悪くさせては今後の捜査に響くかもしれない。
ポケットから手帳を取り出し、先ほど仕入れた情報を再度確認する。石井詩織に小田剛喜。石井が行方不明というのはこの事件とは無関係だろう。ならば小田の所へ行くか?左京区↓↓少し遠いが足を運ぶ価値はあるかもしれない。
「刑事さん!」
いきなり後ろから呼ばれ、慌てて振り返ると吉岡が息を切らせながら走ってくるところだった。どうしたのだろう。何か言い忘れたことでもあるのだろうか。
「どうしました」
「あの、さっきは校長の前だったんで言えなかったんですが」
吉岡は少し間を置いてから声を低くした。「これは担任としてではなく、一人の人間として言わせてください。私も噂で聞いただけなんですが、三木は以前から女癖が非常に悪く、そのために敵を作ってしまうことが多々あったそうですですから、この前の暴力事件も一概に小田が加害者とは言えないんですよ。校長は三木を庇護したがっていますが、それはこの学校にとって彼が大きな成績になるからです」
そうか、吉岡が先ほどから様子がおかしかった理由はそういうことだったのか。この学校が武志の方ではなく小田剛喜を退学にした理由の一つにそういった策略があったとも考えられる。なら、先ほどの聞き込みでは学校側に不利になることは隠していた可能性もある。その辺はこの男が話してくれそうだ。
「石井さんと三木くんはどういう関係だったかご存知ですか」
「はいこんなことを言うのはいけないのかもしれませんが、石井は不良とまでは言いませんが、それに近い感じで。三木も一見真面目そうなんですが、どうも屈折したところがありまして。二人の関係についてはなんとも言えませんが、あの二人が男女の関係を持った可能性もあります。だとすれば小田がそれを知って、三木に敵意を持つのは当然です」
確かにそうだ。年上の彼氏がいる女に手を出すのは挑発的な行為とも言える。年下に自分の彼女を寝取られたのであれば小田が腹を立てるのも分かる。しかし、もし武志が石井に交際相手がいることを知らなかったのだとすれば?片方の観点からでは見えぬことも、多角的に攻めれば見えてくることもある↓↓つまり、もしそうだったのであれば、武志はむしろ被害者なのではないだろうか。いくら屈折していても、いくら悪人だったとしても、イコール加害者という位置づけをすることはできかねるのではないだろうか。
「刑事さん校長の目を憚ってわざわざ言いに来た私の気持ちも汲んでください」僕の顔色を窺うように吉岡が頭を下げた。もしかするとこの吉岡という男は三木に何か負の感情を抱いているのではないだろうか。表向きは担任だが、だからといって生徒を全面的に信頼しているとは限らない。ならその感情は何だ。恨み?怒り?いや違う、そこまで薄汚れたものではない。そうか、羨望だ。自分よりも容姿や能力に恵まれていて、それを己の欲望のために利用する武志への、手の届かない妬みと憧れ。
だとするとこの男の話を鵜呑みにするわけにはいかない。
僕は「今後の捜査の参考にします」と頭を下げた。顔を上げた時、吉岡はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、構わず踵を返した。
人間の内面がどれほどのものかなど、外側の人間が知る由もないのだ。だが目的はそれを追及することではない。犯人を逮捕する。ただそれだけなのだ。それができれば、この事件は終わりだ。
36
刑事課長の秋山は、一階の自動販売機前で呑気にタバコなんか吹かしていやがった。ベルトの上に乗っかった、でっぷりと贅肉のついた腹。所轄署の刑事課長なんざ所詮は捜査費用を誤魔化してできた裏金で私腹を肥やしている身なのだ。上の人間に阿るようにさえしておけばそれなりに上手くやっていける。そういう立ち位置にいる人間は一番取り込みやすい。
俺は自動ドアをすり抜けると、秋山の元へ歩み寄った。秋山は俺が自分と同じ側につく人間だと言うことを知らないはずだ。俺に背を向けるようにして口から白い煙を吐き出した。
「秋山刑事課長ですね」俺が声をかけると驚いたように振り向いた。小さな黒目がちの目が、メガネのレンズの向こうで僅かに揺らいだ。
「君は?」
「府警の刑事課で暴対(組織犯罪対策部のマル暴以外の別の呼び方)をしている乾卓警部補です」
「あ、ああ」明らかに事情が分かっていないようだった。
「八年前の暴力団員殺しの件の捜査情報を拝見させてもらえますか」
やっと状況が呑み込めたのだろう、口を開けたまま何度かうなずくと、慌てて持っていたタバコの火を灰皿で揉み消した。「こちらへ」そう言って歩き出し、俺を資料庫の中まで案内してくれた。
俺の身長よりも高い棚には、解決済み、又は未解決事件の資料がそれぞれファイリングされ並べられている。押収品がある事件の場合は捜査資料と共に段ボール箱に詰められている。少し前から二階堂たちが捜査していたこともあり、その段ボール箱だけがホコリを被っていなかった。秋山はそれを手に取ると、恭しくこちらへ差し出した。「やはり極秘ですか」
どうやら危ない取引か何かだと勘違いしているらしい。まああながち間違いでもないが、俺はこの男を安心させてやることにした。「大丈夫ですよ。これも捜査の一環ですので」
秋山が安堵の息を漏らすのを確認すると、頭を下げ、その足で会議室へ向かった。
人の散った会議室で、俺は烏丸を呼んで段ボールの中身を確認した。捜査資料に押収品の類。当たり前だが凶器はない(凶器の無い殺人事件だからだ)。
被害者が身に着けていた血で汚れたシャツ、スラックス、ベルト。どれも被害者の遺族が引き取らなかったからここに残しているだけだろう。当時の写真には被害者一人一人の所持品が写され、裏面には事細かな説明書きが添えられている。
第一の事件の被害者、有村孝次郎、西田守、高山仁の所持品を確認する。有村の自宅で酒を交わしていたところ殺害されていたことと、犯行のあとに現場が放火されたことからどの所持品も焼け焦げていたり、灰や煤を被っていた。
西田守↓↓二つ折り財布(現金一万五千八百円、その他カード数枚)、二つ折りの携帯電話、自動車のキー。
高山仁↓↓長財布(焼失されていたために明確な所持金は不明)、二つ折り携帯電話、自動車のキー、メガネケース。
有村孝次郎↓↓長財布(現金三万二千六百五十二円、その他カード数枚)、自動車の免許証、二つ折りの携帯電話、自動車のキー、家の鍵。
三人とも特に特徴のない所持品ばかりだ。
二件目の被害者、桜田敏行はどうだろう。自宅付近のごみ置き場で深夜に殺害されている。所持品は、特になし。
三件目の被害者、高杉会組長、石橋哲也。鹿島建設事務所があった廃ビルの七階で惨殺されている。所持品、長財布(現金六万八千二百五十五円、クレジットカード、その他カード数枚、レシート多数)、二つ折りの携帯電話、自動車のキー、自宅の鍵、そして拳銃(フィリピン製)。
「個人的には桜田の事件が気になるわね」
「何故ですか」烏丸の意見に俺は首を傾げざるを得なかった。深夜、自宅近くのごみ置き場に出向いたのであれば所持品を持っていなくても何ら不思議なことはない。まあ、自宅の鍵すら持っていなかったのは多少物騒な気もするが、暴力団員ということを考慮すれば多少のことは自分で解決できるだろう。
烏丸は桜田敏行に関する捜査資料のページに素早く目を通していった。「自宅から数十メートルのごみ置き場まで、何も持たずに行くのはうなずけるけど、だとしたら犯人はどうやってその時間に桜田を外に呼んだんだと思う?深夜を狙って桜田を待ち伏せしていたのだとしても、真夜中に外へ出る人はそうそういるもんじゃない。私は犯人が桜田を呼び出した可能性が高いと思うけど」
言われてみれば確かにその通りだ。なら当時の捜査員たちはそれを察して捜査を進めたのだろうか。烏丸から捜査資料を借りて確認する。そこに記されていた桜田の携帯電話の通話記録にはその時間帯での通話はなかったとのことだった。メールや固定電話も同様。なら犯人は桜田が出てくるまでゴミ置き場で待ち伏せしていたのだろうか。それとも何か別の方法で呼び出した?
「乾、何やっとんや」その時、俺たちの元へ柳川が歩み寄ってきた。まずい。この男は俺たちが裏で仕組んでいる「本当の捜査」を知らないのだ。
「ヤナさんこそ、今までどこにいたんですか」立ち上がり、柳川の注意をこちらへ引く。烏丸は素早く捜査資料を段ボール箱の中へ詰めていく。
「ん、やっぱり俺には現場の方が向いとるらしい。さっきから他の班の刑事に事情を聞いてまわっとったんやが、なかなかこれといった情報はなかったな」
どのみち捜査会議が行われるのだから、その時に情報は共有できるじゃないか。まったく、せっかちな男だ。
「そうですか。ところで、二階堂さんのこと、もうご存知ですか」
柳川は「なんや」と怪訝そうに眉を顰めた。よしよし、あとは上手くこの男を丸め込めば二階堂とこの男の間に距離を作れる。そうしておけば松平の件で二階堂が所轄送りになった本当の意味を知るリスクから、柳川を遠ざけておける。
「二階堂さんが異動になった件について、」
36
刑事課のデスクには既に二階堂がいた。暑そうにジャケットを椅子に掛けているところからして、ちょうど今帰ってきたところなのだろう。別れてからまだ二時間と経っていない。僕は少し不思議に思った。「モグラ、どうだったんですか」
二階堂は僕に気づくと「ああ」と呟き、疲れた様子で軽く周りを見渡した。「ちょっと来い」
狭い館内は関係者が気忙しそうに行き来していた。僕たちは廊下の自動販売機の前の少し広いスペースに移動した。二階堂はアイスコーヒーを二本買うと一本を僕に手渡した。
「ありがとうございます」
以前焼き鳥屋に出かけた時もそうだが、この人は何かと僕に奢ってくれる。彼は遠くを歩く人たちを意識しながら、どこか上の空で「ああ」と返事した。
「モグラ、どうでしたか」再度訊ねるとやっと僕の目を見た。随分と疲れているようだ。
「あ、ああ会えなかった。というか、あの様子じゃ殺されてたな」
驚く僕をよそに二階堂は額の汗を袖で乱暴に拭った。僕は彼が何を見たのか追及しようとしたが、話は少し別の方へ移っていた。
「俺たちが行った日、あっただろ。そのあとにやっぱり暴力団員にやられてた」
「なんでわかるんですか」
二階堂はその質問には答えず、ぐったりとした様子で缶コーヒーを啜った。
「今思うと、あの時の様子じゃ殺されることを自覚してるみてえだったな」
まるで友を失ったように苦々しく顔を歪める。僕はそれ以上訊ねることができず、仕方なく缶のプルタブを開けた。
「お前の方は」そう聞かれ、僕はさっき拾ってきた情報の一部始終を話して聞かせた。二階堂は例のごとく顎を摩りながら興味深げにうなずいていたが、僕が話し終えてもしばらく黙っていて、ゆっくりと備え付けの椅子に腰を下ろした。僕は曖昧な反応の二階堂を見て、自分が拾ってきた情報が不満なのかと不安になった。
「これはかなり大きな情報だと思うんです。武志くんが暴力に慣れていたならあの時暴力団と応戦したというのも、万に一つ無いとは言い切れません。剣道の腕は全国で二位ですし、体格だっていい。捜査会議で言えば上の人たちも容疑者をもう一度考えるかもしれません」
二階堂は黙って床を見つめていたが、徐にタバコを咥え、ライターで火をつけた。コンビニで買えるような安いものでなく高級そうなジッポーだ。煙を吐き出し、それからやっと口を開いた。
「なあ、コマ」
いつにない、窘めるような声だ。
「はい」
「あのガキは好きじゃねえが、今回の犯人はあいつじゃねえよ」
どうしてそんなことが言えるんですか、と聞き返す前に二階堂の次の言葉に遮られた。
「ずっと気がかりだったんだが、今朝乾が八年前の捜査資料を取りに来ただろ」
あの刑事のことかと黙ってうなずいておく。
「捜査会議じゃ所轄を含む捜査員が仕入れた情報を上の人間が吸収する。その役目を担う一人の乾が八年前の情報を見たがってる。それはきっと乾が独自にやってることじゃねえと思うんだ」
つまり↓↓。
「つまり、上の人間は既にこの事件と八年前の事件との関連性を見出している。誰もそんなこと知らねえはずなのに」
冷たいものが背中を這いまわるような嫌な寒気がした。二階堂は顔を上げないまま淡々と続ける。
「お前だってあの死体の山を見ただろ。信じられねえが、あれはやっぱり人間の仕業だ。だが普通の人間じゃない。八年前の犯人と同じ、怪物だ」
僕は返事もできず息を吞んだ。
「これはあくまで仮定だがな、八年前の犯人が関与していて、今回の騒動の時にひと暴れして逃げたとすると全部辻褄が合うんだ。そうでなけりゃ、たとえ腕っ節の良いガキでも暴力団員十七人相手にあんな真似できるはずがねえんだ」
僕は苦い表情のままうなずいたが、どうしても納得いかなかった。
「逃げたってでも犯人はカミサカ側の人間でしょう。だったら何故同じカミサカの人間を殺したんですか。やっぱり犯人は別にいるんじゃ↓↓」
「裏切りはある。裏社会でも、表社会でも」
彼のタバコを持つ手が震え、長くなった灰が床にぽとりと落ちた。自分の経験と照らし合わせているのだろうか。だが僕にはそんなことを気遣う余裕はなかった。
「でもなら、どうして武志くんはそれを言わなかったんですか。僕には犯人を庇うような供述をした意味が分からない。それにその犯人だって、彼らを守るために人を殺すほどのリスクを冒した意味があったんでしょうか」
床の一点を見つめていた二階堂の視線が、じわじわと僕の方へせりあがっていく。
「その家族を助けるためじゃなく、組員を殺すためだったとしたらどうだ」
僕ははっとした。殺すために殺した。つまりはそういうことなのか。
「そいつが昔の仲間に大きな恨みを抱いていて、殺そうとしていたんだとしたら分からないこともねえぞ。それにあのガキを脅して嘘の供述をさせることなんざ、きっとやつにはたやすいはずだ。もう一つ気になってることがある。犯人はなんで時効間際の今になって事件を起こしたのか。それからなんで俺たちはこんなタイミングで八年前の事件の捜査に当たらされたのか。言い方を変える。どうして俺はこんなに都合の良いタイミングでここへ飛ばされたんだ!」
最後は荒い口ぶりだった。
「二階堂さん」
「ここへ来る前、俺はカミサカの別の事件を追っていた。そこで仲間が殺され、俺が裏に情報を売っていたって疑いがかけられた。実際俺はそんなことしていないが、問答無用でここへ飛ばされたよ。そんで俺はここへ来たとき、いきなり八年前の事件の再捜査に当たらされた。そうだ、八年前の事件を調べるにはここへ降りてくる方が都合がよかった。それに、俺は当時捜査していて勘が働く」
「まさか、上の人間の陰謀で」
気味の悪い汗が僕の脇からシャツを濡らしていった。
二階堂は人差し指の節で眉間を押さえながら何か考えている。
「連続殺人犯が時効まで待たずに直前で犯行に及んだ。そうなれば考えられることは一つだ。やつは自分の全てを賭けている。もしこれが本当に復讐だとしたら、必ずまた組員の誰が殺されるだろう」
僕たちの視線が交錯した。お互いに恐怖と緊張のあまりに顔が強張っていた。
「なら早く上にそのことを知らせないと」
そう言って立ち上がりかけた僕の手首を二階堂が乱暴に掴んだ。
「馬鹿かお前。俺を嵌めてここへ飛ばしたやつらだぞ。もし何らかの策略があるならば上層部とカミサカは繋がっているかもしれん。簡単に情報を預けるのは危険だ。それにあの捜査官の烏丸とかいう女、どうもいけすかねえ。あの歳で捜査官なんてどう考えても上の人間の思惑だ」
「なら一体どうしろって言うんですか」
焦りを隠しきれない僕を前に二階堂は渋っていたが、ついに決心を固めたようだった。
「俺たちだけで独自に捜査する」
そう言った彼の目には紛れもなく強い意思が宿っていた。数々のヤマを経験してきたベテラン刑事だけが見せる特有の、鋭利なものだ。
「いくらなんでも、危険すぎやしませんか」
立ち上がった二階堂は狼狽する僕の肩を力強く叩いた。
「どのみち危険だ。それにこのままあの化け物を世に泳がせておくよりはよほどマシだろ?」
僕はおずおずとうなずいた。独自の捜査なんて発覚したらどうなることか。減給か、駐在所に逆戻りだろうか、まさか懲戒免職にはならないと思うが↓↓。
「面白くなってきやがった」二階堂は無精髭の口元を歪ませた。「俺ら二人でホシを挙げる。そんで聞いてやろうじゃねえか。なんで人が人を殺すのかってえのを」
その時遠くから廊下を靴が叩く硬い音がした。見ると本店の警察官らしき男女三人が並んで歩いてくるところだった。二階堂は彼らに見覚えがあるのかじっと睨んでいる。
「ヤナ」
息を漏らしたような小さな声が確かに聞こえた。
事件の捜査官の女性を先頭に二人の男が続く。一人は今朝会った乾。もう一人が「ヤナ」という男だろうか。全員険しい表情を浮かべている。
「二階堂警部ですね」
そう言ったのは捜査官の烏丸。見た目は三十代前半。若作りしているとしても、まさか四十代には満たないだろう。この人が捜査官と知った時は正直驚いた。年配の男性警察官の役目というイメージが強かったからだ。
二階堂は烏丸の問いに返事もせず、怪訝そうに目を細めた。きつく睨んでいるようにも見える。
「以前府警にいらしたと彼らから聞いています。私は今回の事件で捜査官を務めさせていただくことになった烏丸です」
「マル暴の二階堂だ」タバコを灰皿に押し潰しながら、凄むようにそれだけ言う。
二階堂のぶしつけな態度に烏丸の細い眉が寄った。
「年下に敬語は使いませんか」
二階堂は目を尖らせ、口だけで笑った。「悪いが、女にも敬語は使わない主義なんでね」
烏丸はあからさまに顔をしかめた。二階堂はそう言ったが、僕は牛丼屋で女性店員相手に敬語を使っているところを見ている。やはりこの烏丸という女を挑発しているのだろうか。
「このご時世に男女差別ですか。考え方が古いようですね。私は女ですが、この班の主任です」
「おい待て。そこの柳川じゃなく、あんたが主任なのか。それに班員がもう一人足りないようだが」
上目づかいに烏丸が笑った。「特例で、この三人で第一係を任せられました。足手まといが無い分捜査がスムーズになるという上の方針みたいです」
そう言い、細めた目でちらりと僕を見た。汚いものでも見るようなその目つきに、僕の胸がちくりと痛んだ。その僅かな目の動きを二階堂は見逃さなかった。
「くっ。エリート気取ってんじゃねえぞ、この尼が。マル暴はデスクワークじゃねえんだ。女はオフィスで茶でも淹れときゃいいんだよ」
「口を慎め」
そう言ったのは烏丸の後ろの男だ。
「柳川、元気そうだな」
「悪いがお前と馴れ合うことはもう二度とない。本店の面汚しめ」
「お前それ、本気で言ってんのか!」
僕は彼の胸ぐらに掴みかかろうとした二階堂を必死に押さえつけた。「落ち着いて下さい!」
「柳川、乾、お前らはいつからこの女の犬になったんだ!マル暴のプライドを忘れたのか。警察はサラリーマンじゃねえ。肩書きよりも足で勝負するもんだろうが!」
「やめなさい」烏丸が冷たく制した。
「二階堂刑事、立場を弁えなさい。過去に府警の人間だったとしても、今のあなたは所轄の人間です。所轄は所轄の仕事をしておきなさい」
二階堂はぎりぎりと歯を噛みしめた。さすがに僕も今の言葉には腹が立った。
「行くわよ」そう言った烏丸を先頭に柳川と乾が続く。すれ違いざまに乾がぼそりと呟いた。
「本店の犬になったのは、あなたの方ですよ」
二階堂は屈辱に肩を震わせ、ただ足元に視線を落としていた。
刑事課長、秋山警部が八年前の暴力団員連続殺人事件の捜査情報を烏丸に提出したと知ったのは、そのすぐ後のことだった。
37
小林ユリエ
朝起きて、眠い目を擦りながらテレビ画面を見た時、小林ユリエは何かの間違いかと思った。リアルタイムで見覚えのある壱武館が大々的に映されていて、多くの報道陣が家の前の道路にごった返していた。テレビ画面に家族の顔が映ることはなかったが、それでも間違いなくあの家だった。門の所に広がる夥しい血を見た。既に乾いていて赤黒くアスファルトにこびりついている。三木剛志、あの優しい武志のお父さんが殺されたのだと知ると、全身の力が抜けた。
↓↓なんで↓↓
考えても分からなかった。警察でもわからないことがユリエにわかるはずもなかった。立ち尽くすユリエの肩に母がそっと手を置いた。
二十分間にも及ぶ報道が終わった時、ユリエは膝からくずれて泣いてしまった。
今日は学校を休んだ。両親も、泣き崩れるユリエを前に到底登校を強要することなどできなかった。ユリエはそれからもずっとテレビの前に座り、チャンネルを変えながら各局の報道を凝視していたが、何を思ったのか「行ってくる」と立ち上がった。武志の家はここから路地を三本挟んだだけのすぐ近くにある。スウェットのまま、ユリエは親が止めるのも聞かずに家を出た。
武志の家までサンダルで走った。近づくと野次馬の声が聞こえてきた。
武志はここにはいない。きっとどこかの病院か警察署にいるんだ。そうとは分かっていたが、どうしてもそこへ向かわずにはいられなかった。
「ちょっと、通してください」
人ごみを無理やりかき分けた先には黄色いビニールテープが張ってあり、人を通さないようにしてあった。マスコミも外側から撮影を続けている。
ここにいてもどうしようもないとわかると、来た時と同じように人ごみから抜け出した。
↓↓何であいつがヤクザなんかに↓↓
泣き出しそうなのを堪えながらとぼとぼと歩いていたユリエは、人だかりから距離を置いた場所に見覚えのある人を見つけた。
制服姿の桜田澪が顔を青くして立ちすくんでいた。
「桜田さん」
恐る恐る声をかけたが、桜田は呆然と立ち尽くすだけだった。ユリエは桜田に駆け寄ると彼女の目の前に立ちふさがった。
「ねえ」
桜田はゆっくりと視線をユリエの方に上げ、泣き出しそうな細い声で言った。
「私のせいかもしれない」
「どういう、こと?」
崩れ落ちた桜田は息を噛み殺すように泣き出した。
38
警視庁からの応援として、特殊部隊を含む総勢二百人の捜査員と、更には公安部の警視官、乾実が直々に駆けつけた。朝の捜査会議では前日の捜査状況を捜査員たちがそれぞれ述べていった。その中で、府警の捜査員が興味深い情報を発表した。事件発生直後に現場から走り去った一台の車を目撃した人がいるという。ナンバーや車種は不明だが、黒いワゴン車だったいうことだ。捜査会議ではそれが犯人だという見解を強め、犯人が京都市内から逃亡できないように各地に検問を設置することに決定した。捜査会議に顔を出した乾実警視官の話では、他県警にも協力を要請し、今日中に四千人以上の捜査員を動員するということだった。更にはマスコミにも情報を提供し、市民にも捜査の協力を呼びかけるという特例の捜査方針を取るということになった。捜査員全員に拳銃携帯命令が下されたのもこの捜査会議でのことだった。
捜査会議が終了すると二階堂は「被害者のところに行くぞ」と立ち上がった。
その時彼を呼ぶ声がして、振り返ると乾実が僕たちを見ていた。二階堂は怪訝そうに眉を顰め「はい」と返した。警視官が二階堂に一体何の用があるというのだ。
「少しだけ、いいかね」
僕たちが歩き出した乾実についていこうとすると、彼は「すまないが君は外してくれ」と僕を遠ざけた。
「コーヒーでも飲んで待っててくれ」二階堂は狼狽える僕にそれだけ言うと乾実について歩き出した。二階堂は何か知っているのだろか。もしかすると彼を嵌めたという上層部の人間というのは、乾実なのではないだろうか。
* * *
空いている取調室に案内され、二階堂は大人しく扉をくぐった。乾実は二階堂に軽く笑うと、ついてきた男に「外してくれ」と二階堂と二人だけの空間を設けた。
二階堂は立ったままだったが、構わず乾実が口を開いた。
「二階堂警部、京都府警で卓がお世話になったそうだね。礼を言うよ」
やはり乾の父親かと二階堂は息を漏らした。この男が本心で言っているのかはわからなかったが、少なくとも挑発しているようには見えなかった。
「ええ、まあ。警視官、まさかそんなことを言うためだけに、わざわざ時間を割いたわけではないですよね」
乾実は薄く笑うと鋭い顔つきになった。
「単刀直入に言おう。私たちは公安で独自に八年前の京都市暴力団員連続殺人事件を追っていた。君が最近まで捜査していたそれだ。我々は今回の事件と八年前の事件の犯人は同一だと睨んでいるが、どうだね。我々に情報提供してくれないか。もちろんタダでとは言わない。犯人が逮捕されれば君には警視という肩書きを与えるつもりだ。なんなら察庁(警察庁)で採用してもいい。本来君はキャリア組なのだから、現場にこだわる必要はないと思うが?」
二階堂はパッケージからタバコを取り出し、「買収ですか」と笑った。
確かに二階堂は国家公務員試験Ⅰ種に合格している。これはかなりの難関で、これに合格した者だけがキャリア組と呼ばれ、国家公務員試験Ⅱ種に合格した者は準キャリアと呼ばれる。今までも出世のタイミングはあったが、二階堂は現場に留まるためにそれを断り続けていた。
「君の活躍は本庁の方まで届いている。マルB(暴力団)捜査において相当優秀なんだって?」
当たり前だ。潜入捜査の経験がある刑事すら少ない時代なんだから、と二階堂は心の中で毒づいた。
「京大卒のキャリアの君がどうして昇進試験も受けないでこんなところで燻っているんだ」
咥えたタバコを右手で拾い上げ、二階堂は乾実を疑いの目で見つめた。「ここへ飛ばされたのは二週間ほど前です。ご存じありませんでしたか、警視官」
乾実は目を眇めて鋭く笑った。
間違いない。この男こそが裏で糸を引いている立役者だ。
二階堂はさらに続けた。「荒木健一の事件を発端に俺がここへ飛ばされたのは、全部上の人間の仕組んだことなんでしょう。八年前に俺はこの東山署でその暴力団員連続殺人事件を追っていました。だから勘が働く俺にこの事件を当たらせたかった。違いますか」
狼狽の色を少しは見せるかと思われたが、反対に乾実はゆっくりと笑顔を作った。憎らしいほど満足げな笑顔だ。
「さすがだ。そこまで見抜いているとはね」
あっさりと認められたことで逆に二階堂の方が狼狽えた。
「あなた方がやっていることはれっきとした服務規程違反だ。俺は汚名を着せられたんですよ」
「すまないと思っている。だが、これも大義のためだ」
平然と言ってのける乾実が、二階堂には腹立たしかった。大義なんて言葉を言い訳に使うんじゃない。上の人間の都合で関係のない者にまで干渉するなんて許せない。二階堂は右の拳を固く握りしめた。
「我々は既に人員を確保している。捜査官の烏丸や息子の卓もそうだ。他にもここの署長、副署長、刑事課長もこちらへ取り込んでいる。もし君が断ればここに居づらくなるぞ」
二階堂は昨日刑事課長の秋山が当然のように乾に情報を横流しにしていたことを思い出した。つまりはそういうことだ。金や出世のためなら平気で卑怯な真似をする。これが人間の浅ましさというものなのか。
「もし断れば?」
この狭い空間で、一対一で話すには威圧が大きすぎる相手だった。乾実の背後には国家という最強の組織が構えている。この男は警察官でありながら半分は政治家なのだと二階堂は生唾を呑んだ。
じっと真顔で見つめてくる間の沈黙に、二階堂ですらも緊張の色を隠しきれず、額から汗が流れ落ちた。
ふと乾実は二階堂から視線を外すと、窓の方へ移動した。
「十年前、君は別の事件を追う中で高杉会に潜入捜査したそうだね。暴力団への潜入捜査は危険極まりない。ヤクザは組織に属す刑事を殺さないと一般的には言われるが、潜入捜査員に対しては別だ。身内の情報を売る人間は警察官でも容赦しない。三か月に及ぶその危険な捜査で、君は高杉会自体を潰すことはできなかったものの、ホシだった、銃の密売人、工藤久を上げたそうだね」
確かにそれは実際にあったことだ。本来は銃対(銃器対策部隊)が担うべき事件だったのだが、ホシがあまりにも危険だという理由で組織犯罪対策部から二階堂が選出された一件だ。だが今、それが一体この話と何の関係があるというのだ。この男の意図が読めない。二階堂は警戒しながらも「はい」と肯定せざるを得なかった。
「その三か月で君は暴力団員の心を掴み、とりわけある男と親しくなった。その男の名は桜田敏行。当時君は三十五歳で敏行は三十三歳。歳の近かった君たちは急速に近づき、敏行は君を兄のように慕うようになったそうだね。潜入捜査員と暴力団員との間の情とは、また皮肉なものだな」
何故この男がそんなことまで知っているんだ。このことを話した男はたった一人だけのはず↓↓。
二階堂は全身が粟立つのを感じた。何故ならこの話をしたたった一人の男というのが、他でもない、柳川邦彦だったからだ。
柳川、俺を売ったのか。
冷たい口調で乾実はさらに続けた。
「上手く身を引いた後も君たちの関係は続いた。だが、二年後に発生した暴力団員連続殺人事件で桜田敏行は惨殺された。おそらく、たった一昨日起きた事件の真犯人、井上という男によって」
イノウエ。この男は既に犯人の名前まで割っているのか。一体どこにそんな情報源があるというんだ。
「奇しくも、君はその事件の捜査に当たらされた。弟のような男を殺した犯人を許すことなどできなかっただろう。君は個人的な怨恨を持って捜査に臨んだ。その捜査の中で、君は敏行の小学二年生の娘が強姦傷害事件に遭っていたことを知る。これでその怒りに拍車がかかった。まだ小学二年生の女子児童に強姦とは、私も胸がいたくなる話だ。だが、君たちのそんな関係を露も知らない上司たちは、結局捜査を打ち切りにした。君にはそれが大きなストレスだったはずだ。本来服務規定には、被害者が身内の場合、職員は自ら申告し捜査を外れなければならない、というものがある。これは捜査員に私的な感情を持ち込ませないためのものだ。だが君は申告しなかった。何の血の繋がりもないのだから、もちろんこれは何の処罰の対象にもなることもない。だが↓↓」
乾実は不気味に口元を歪めた。窓からの逆光のせいで全身が黒いシルエットとなり、顔の輪郭だけがぼんやりと光りを受けている。二階堂にはおそらく次に来るであろう言葉が分かっていた。そして、それがどういう意味を持つことなのかも。
「実際は君と敏行は腹違いの兄弟だった。君はそれを隠して捜査をしていた。まあ当然だ。身内に暴力団員がいたとなっては立場がなくなる。刑事、それもマル暴としては致命的だ。さらに君はもう一つ隠していることがある。現在君はその敏行の娘の、桜田澪の親代わりをしているようだね」
二階堂のシャツの背には冷たい汗が染み込んでいた。小さく肩を震わせながら乾実をじっと睨んだ。
「いつからそれを」
二階堂にしては珍しく力のない声だった。
「つい最近のことだよ。少し卓にも調査を手伝ってもらったんだが、悪く思わないでくれ。何も君の生活をめちゃくちゃにしようなどとは思っていない。姪御さんのこともある。高校生なんだってね。まあ叔父が姪を引き取ることは問題じゃない。問題なのは君の弟が暴力団員だったということの方だ」乾実は息を吐くように軽く笑った。「最初は驚いたよ。まさか隙のなさそうな君からこんな綻びが出てくるなんて。どおりでやたらと裏の事情に詳しいわけだ。信用していても、たった一人に話せばそれが命とりになることもある。よく覚えておくんだな。君が望むなら、柳川警部補は地方に飛ばすことも可能だぞ」
二階堂は力なく首を振り、ゆっくりと頭を下げた。「それではあいつがあまりにも可哀想です。あいつに罪はありません。勘弁してやってください」
「そうか。君が我々に協力してくれるのであれば、敏行の件も帳消しにしよう。ただし、しないと言うのであれば、私は警視官として然るべき処分をするつもりだ」
「わかりました。捜査に協力させていただきます」
乾実は満足げにうなずいた。「そうこないとな」
「ただし」二階堂はゆっくりと顔を上げた。「得た捜査情報は全てこちらにも回してください。そうでなければこちらも動けません」
「ああ。そうだな」
「それから、それから出世させてやるなら、さっき俺といた小松原巡査にしてやってください」
もう一度深々と頭を下げる。乾実は黙って二階堂を見ていたが「君がそれでいいのなら」とそれを受け入れた。
「では捜査に戻ってくれ。くれぐれも他言しないように。捜査資料は烏丸を経由してデータで渡す」
二階堂は更に頭を下げ、取調室を後にした。
* * *
二階堂が取調室をあとにした後、乾実は窓の曇りガラスを見つめながらタバコを一本取り出した。
↓↓今夜は新沼と菅谷の葬儀か↓↓
昨日ビルの屋上で殺害されていたのを、帰りが遅いと不審に思った別の警察官が発見した。二人とも顔から夥しい血を流しながら死んでいたという。本当は葬儀に参列したかったのだが、事件の方がどうしても心配だった。昨日の通夜にはなんとか顔をだし、急いで直後の新幹線でここまで来た。
↓↓せめて顔はやめてやってほしかった↓↓
顔にあれだけの傷があると遺族に遺体を会わせてやることもできなくなる。そのうえ遺族には捜査中の殉職というだけのことしか報告のしようがない。守秘義務という警察官の宿命だ。刑事なのだから仕方ないと言えばそれまでなのだが、やはり、やりきれない感がある。遺族には火葬した骨だけしか手元に届かないという。なんというか、哀れ極まりない。
乾実はぐっと目頭を押さえた。
↓↓二人を殺したのは間違いなく日下部を殺した男だ。いくらなんでも許せない↓↓
タバコを右手に下げたまま、乾実は取調室を出た。
「親父」
目の前に息子の乾卓が立っていた。直接会ったのは実に数年ぶりだったが、今は父親という立場を忘れ、一人の上司として毅然とした態度で振る舞わなければならない。
「職務中だぞ」
息子は本庁にいた時よりも眼光が鋭くなり、頬が少しこけて刑事らしくなっていた。幼いころから勉学に親しませ、厳しいことも言ってきたつもりだ。卓には苦労させたと思っている。
「二階堂警部はこちらの捜査に協力してくださるそうだ。色々と人間関係をこじらせてしまって、すまなかったな」
乾卓は軽く首を振ると言った。「何かを為すためには犠牲はつきものだと、親父はいつも言ってたでしょう」
乾実は何も答えず、代わりに今は自分よりも背が高くなった息子の肩を軽く叩くと会議室へと戻っていった。
39
二階堂が乾実警視官に呼ばれた後、僕は言われたとおりコーヒーを買うために、入口の自動販売機前に来ていた。小銭を投入し、ブルーのパッケージ、エメラルドマウンテンのボタンを押す。ガタンと落ちる音がすると、腰を屈めてそれを拾い上げる。冷たい感触が右手に心地いい。
見上げると空からは痛いほど燦々とした陽光が照り付けていた。もう梅雨は明けたらしい。街路樹の葉っぱもこの暑さで元気をなくしている。
プルタブを開け、ゆっくりと喉に流し込む。コーヒー特有の芳醇なほろ苦さが口全体に沁み渡る。学生の頃はコーヒーなど苦いだけで、格好を付けたいやつが飲むものだと思っていたが、二十代になってから急に味が分かるようになってきた。苦さの中に深みやまろやかさがある。他の飲物とは別格だ。そんなことを考えていると受付からいきり立つ男の声が聞こえてきた。
「生活安全課ってどういうことですか!普通刑事課だろう」
見ると受付嬢に中年の男が怒鳴っていた。受付嬢が僕好みだったからとかそういうことではないが、仕方なく止めに入った。
「どうしたんですか」
男はにわかに荒い息で僕の方を見た。
「刑事さんですか。いいところに来た」
見た目だけで刑事だとわかるとは、ちょっと嬉しい気がした。交番勤務時代には「おまわりさん」などと呼ばれていたが、やっと一介の「刑事」になれたのだと改めて実感する。
「小松原くん」
助かったとばかりに僕を見るこの受付嬢は、確か会計課の中西さん。狭い署内では大抵の職員は顔見知りだ。一つか二つ年上で、何度か「ミワコ」と呼ばれているのを聞いたことはある。まあ、ちゃんと喋ったことは一度もないのだが。
「刑事さん、娘が誘拐されたんだ。これってどう考えても刑事事件ですよね」
誘拐?だとすると間違いなく刑事事件だが、捜査本部が開設されたこともあり、立て込んでいて生活安全課へ回しているというのならないでもない。
中西は困り果てた様子で男に言った。
「まだ誘拐って決まったわけじゃないでしょう。小松原くん、この人の高校生の娘さんが一昨日から家に帰ってないんですって。まだ事件って決まったわけじゃないから生活安全課へ案内してるところ」
もしかして昨日元徳学園で話に出た石井さんのことだろうか。
「すみません、もしかしてあなたの上の名前、石井さんというんじゃないですか」
男は目を丸くして何度もうなずいた。「ええ、そうですが。何故それを」
被害届を提出しに来たところなのだろう。あの子は連絡もなしに二日も家に帰っていないのか。小田くんといったか、その彼の家に泊まっているにしても向こうにも親御さんがいるだろうし。
「別件でちょっと高校の方へ行った時に校長先生からお話を伺いまして」
怪訝そうに首をかしげていた男だったが、何かを思い出したように大声を上げた。
「あっ!もしかしてそれ、この近くであった暴力団員ナントカ事件の!刑事さん、もしかして娘はそれと何か関係があるんですか」泣きつくように僕のシャツに掴みかかってきた。娘がいる父親の気持ちは理解できそうもなかったが、なんだかどうも可哀想になってきた。困惑しながら中西に横目で助けを求めたが、彼女は申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべただけだった。仕方なく僕は男の肩を掴む。
「落ち着いて下さい。話はきちんと伺いますから」
「ありがとうございます。さすがは刑事さんだ」男の目が輝いた。
今から捜査に行こうとしていたところだったのに、面倒なことに巻き込まれてしまった。
「やっぱりこれは刑事課で対応してくださるんですよね」
「それも含めてお話をお聞ききしまますから。どうぞこちらへ。中西さん、二階堂さんが来たら刑事課にいると伝えておいてもらえますか」
「はあい」何だか間の抜けた軽い返事だった。仕方なく男を刑事課がある二階へと階段の方へ連れていく。途中振り向くと中西が両手を合わせて笑っていた。まったく。本当に面倒なことになった。
「なるほど。学校に行ったきり帰ってこないわけですね」
「はい」
刑事課の一角にある「接待コーナー」と呼ばれる、二つのソファーとテーブルが設置された一角で、僕は男の話を聞いていた。普段ここはベテラン刑事の溜まり場のようになっているが、どういうわけか今日はすんなりと席を譲ってくれた。もちろん話を聞くための場所なのだから当然だが、二階堂と組んでから、どうも僕に対しても扱いが良くなったような気がする。
「えーっと、それで被害届を提出しに来たということですね」
手帳に書き取ったことを見返しながら訊ねる。こうしていると自分でも刑事らしくなったと改めて感じる。
「そうです。刑事さん、これは刑事事件ですよね」
「どうでしょう。実際に被害に遭われたわけではないので、こういう場合は大抵生活安全課での捜査ということになります」
現にこういう案件は結構頻繁に持ち込まれるが、大抵はラブホテルなどで遊んでいるか、駆け落ち(この場合は他県警に捜査要請することもあり非常に厄介だ)、または(プチ)家出という場合がほとんどだ。実際は被害がなければ追い返すことがほとんどらしいが、運よく生活安全課へ持ち込まれる場合もその多くが粗雑な捜査で片が付くという。最終的に行方不明者がふらっと家に帰ってくるというのがほとんどで、最低でも三日は家に帰っていないという場合に初めてやっと刑事事件としての捜査が始まる。
「そんなわざわざ仕事まで休んで来たっていうのに。あなたに親の気持ちの何が分かるっていうんだ!」
可哀想だとも思ったが、よく考えれば彼氏がいるにもかかわらず他の男に手を出すような女の子だ。きっとギャル系で、いわゆるビッチなのだろう。単にどこかで遊んでいるに違いない。
うんざりしながら言い返そうとした時「おーいコマ、何やってんだ」と僕を呼ぶ声がした。二階堂だ。
「はい!」
慌てて返事すると、二階堂は「何やってんだよ。探したんだぞ」と苛立たしげに寄ってきたものの、すぐに状況を察したのか、静かに僕の隣に腰掛けた。僕は彼に今までの経緯を簡単に説明した。
「なるほどな。あ、私、刑事課組織犯罪対策係主任の二階堂と申します」
その肩書きから頼れると人間だと思ったのだろう。男は二階堂に深々と頭を下げた。「お願いします。娘の命を助けてください」
少し大袈裟じゃないか、と思いながら横で聞いていると、驚くことに二階堂は「わかりました」と即答した。
「ちょっと。今から捜査に行くんじゃ」
だが二階堂はちらりともこちらを見ない。「私の専門は暴力団絡みの事件でして、こういった案件は専門外ですが、一応当たれるところを当たらせていただきます。ただ、やはり刑事課よりも生活安全課の職員が専門なので、是非そちらにも当たってみてください。刑事課の二階堂が捜査してくれと言っていた、と言えばわかってくれるでしょう。何かありましたら遠慮なくこちらにお電話ください」
そう言って名刺を一枚、机の上で差し出す。男は目に涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
男が帰った数十分後、僕と二階堂は地下鉄で移動し京都大学病院へ向かって歩いていた。車内ではお互いずっと黙っていたが、僕はとうとう耐えられなくなった。
「さっきの、捜査してあげたくなったのは分かりますけど、僕らには今追うべき事件があるじゃないですか。二階堂さんだって、この事件は俺たちだけで独自に追うって意気込んでたところですよね」
「お前な、さっきから何言ってんだよ。俺はあの案件を上手く断ったんじゃねえか」タバコを咥えながら鼻を鳴らす。言われてみると確かに捜査は生活安全課がメインになるといった話ではあった。
「ああいうのは真摯な対応をするフリしときゃいいんだよ。真っ向から対立したらかえって怒りを逆撫でするだけで、最悪訴えられちまうからな」
なるほど。確かにそれはあるかもしれない。
「ところでさっき警視官の方と何を話したんですか」
僕がそう聞いた途端、二階堂の鼻に皺が寄った。「買収提案だよ。極秘で捜査してる事件の情報を流せと頼まれた。八年前の暴力団員殺しだ」
「それってやっぱり上は八年前の事件と今回の事件が何らかの繋がりがあると見てるってことですよね」
二階堂は何も言わずにうなずき、顎にそっと左手を添えた。
「そんで警視官は何故かその犯人の名前を知っていた。上しか言わなかったが、井上って名前だ」
井上↓↓。聞いたことのない名前だ。それにしてもどうして八年前に血眼になって追っていた犯人の名前を上層部の人間が知っているのだろうか。やはり裏の組織と何らかの繋がりがあるということだろうか。だとしても何故、そこまで割れているのに犯人を特定できないのだろうか。それに情報を公にして捜査に踏み出さないところから考えて、その情報源は間違いなくブラックだろう。あの乾警視官という男、相当な曲者だろうな。
「まさかその買収に乗ったわけじゃないですよね」
僕の質問に二階堂はあっけらかんと「乗ったよ」と答える。さすがに言葉を失った。この人は何を考えているんだ。情報を上層部に垂れ流せなんていう馬鹿げた買収に乗る意味が分からない。だがそこは二階堂のことだ。まさか意味もなくそれを呑んだとは考えにくい。
「そんな怖い顔すんなよ。捜査に協力してやる代わりに上が仕入れた情報は全て俺たちにも下ろして貰える。それなら文句はねえだろ」
そうは言ってもやはり釈然としない。あれだけ上の人間に敵意を剥き出しにしておいて、条件が良ければそれを簡単に呑むというのか。
「ですが」
「コマ、これは捜査だ。手柄をあげることが目的じゃない。本当の目的は犯人をパクって獄にぶち込むことだ。そこをはき違えるな」二階堂は凄みを利かせるように言ったが、そういうのにも随分と慣れてしまった。
「でもいいんですか。僕はやっぱり上の人が何らかの表に出せないようなことを隠しているように思います。これは勘ですが、恐らくそれは警察官僚が使う裏ルートか何かで、どうしても表沙汰にできないことなんじゃないでしょうか。だから二階堂さんを使って自分の手を汚さないようにしている本当にそんな人間を信じて命を張る意味はあるんですか」
陽の光に目を細めるように、二階堂はすっとこちらを見上げた。強い斜光のために目元に陰ができ、その中で瞳が小さな光を揺らしていた。
「俺だって、俺だって本当はこんな理不尽な捜査はごめんだ。上層部は既に何か掴んでて、俺たちはその犯人を追うためのダシにされてるだけなのかもしれねえ。これじゃまるで掌で踊らされてるのと同じだ。でもな、だとしても俺はどうしてもホシを逮捕してえ。いや、願わくはその眉間に銃弾の一発でもぶち込んでやりてえよトシを殺したやつだからな」
彼が拳を強く握りしめたのがわかった。そこからは強い憤りのような黒く染まった感情が伝わってくる。
暴力団員連続殺人事件の捜査資料は全て頭に叩き込んである。トシとはつまり、第二の事件の被害者、桜田敏行のことではないだろうか。
深夜に住宅地のごみ置き場で殺害されていたという高杉会の若衆の中の一人。確か享年三十五。高山仁、西田守、有村孝次郎に次ぐ四人目の被害者だ。その桜田敏行と二階堂との間に一体何の因果があるというのだろうか。
「二件目の事件で殺された桜田敏行は、俺の弟だ。十年前にダイブ(潜入捜査)したときに再会したんだが、まあ驚いたよ。腹違いで二個下だった不良あがりの弟が、今回の『対象』なのかってな。笑っちまうだろ?マル暴の俺の弟がヤクザとはな。とんだ茶番だ」
二階堂は鼻で笑ったが、僕には到底笑える話ではなかった。警察官にとってそういった繋がりが致命的なことぐらい僕にだってわかる。しかしそのことに関しては二階堂自身に非があるわけではない。それほどの秘密をずっと抱え続けることは、相当な障害になったのではないだろうか。
「ダイブが終わった二年後に、理由は知らんが敏行は殺された。俺はその捜査に当たらされたんだが、刑事の身内にヤクザがいるってのは痛手でな、誰にも言えずに任務に従事した。結局犯人は捕まらずに打ち切りになったんだが、俺の中でその事件は永遠に終わらなかった。敏行には妻と娘がいたんだが、すぐに妻は病死。残された娘は俺が引き取ったんだが、毎日毎日あいつの顔を見るたびに敏行のことを思い出しちまうんだ。澪っていうんだが、あいつの顔にゃあ痛々しい傷跡があってな。そのせいでいじめられたりとか、随分と苦労したみてえで両親は死んでて、あいつの祖父にあたる俺の父親は澪のことを赤の他人としか思ってない。孤独だっただろうよ。俺だって結婚もしてねえし、仕事柄家にいる時間も少ねえから」
そんな話初めて聞いた。ずっと黙っていたのだろうが、僕にはもっと早く教えてほしかった。嘘をつかれていたわけではないが、同じように胸が痛かった。
「だから俺は、あいつを孤独にした犯人を死ぬほど恨んでる。もし俺が刑事をやってなかったらカミサカに潜り込んでその犯人の尻尾を掴んで、この手でぶち殺していただろうよ」
「わかりました二階堂さんの言いたいことはよくわかりました。ですが、ですがこれはやはり捜査です。僕なんかが偉そうなことは言えませんが、そういった考えを捜査に持ち込むのはやっぱり間違っているんじゃないでしょうか」
二階堂は項垂れるように力なくうなずくと、今度は逆に笑いかけてきた。「そう強く出るなって。安心しろよ、こんなのは本当に人を殺めたことがないやつの、ただの戯言だからよ」
到底安心など出来そうもなかった。なぜなら僕にはその笑顔が安っぽい作り物にしか見えなかったからだ。
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〈京都市東山区で発生した『暴力団員連続不審殺人事件』について、今日午前十時頃、京都府警は捜査に警視庁から約四千人の捜査員を動員し、さらには京都市内の要所に検問を設置すると発表しました。依然として事件の概要は明らかにされていませんが、鹿王会系暴力団、神坂組組員襲来時に、何らかの形で第三者が介入した可能性が高いということです。なお、事件発生時に現場周辺で黒いワゴン車が猛スピードで走り去るのを目撃した人がいることなどから、府警は今後、その車種の解明なども視野に入れて捜査する意向を表明しました↓↓〉
ゆっくりとだが着実に影虎の存在が明るみに出ようとしている。そのことに対して何故か妙な焦りを覚えた。
アナウンサーが原稿を持ち替え、ニュースが次に移るのを確認しテレビを消そうとした瞬間、勢いよくドアが開き、俺は固まった。少なくとも怪我人の病室に乱暴に入ってくる看護士や医者はいない。恐る恐る首を回すと、昨日と同じ刑事が二人立っていた。二人とも昨日と違い、その表情は強張っていた。
「怪我の具合はどうだ」 体調を案じてくれているわけではなく、二階堂が言ったその言葉は単なる挨拶のようだった。
「大丈夫です」
二階堂は無言でうなずくと「今日は聞き込みじゃない」とだけ突き放すように言った。どういう意味だろうか。嫌な予感がする。
「担当医には既に話をつけてきた。病院から毎日医者を出張させる約束で君を東山署で保護することになった。こちらで再度事情聴取を行い、数日後には京都府警へ送検される。そこでまた取り調べを行い、それからのことは上の人間の決定に従うんだ」
何を言っているのかよくわからなかった。保護?取り調べ?何故怪我が完治していない俺を東山署に連れていくんだ。
「どういうことですか」
「君は事件の重参(重要参考人)だ。こちらで保護し、捜査に協力してもらう。それに今外に出れば何が起きるかわからない状況だ。君にとっても警察にいる方がよほど安全だと思うが」
確かにそうかもしれないが、いきなり状況が変わりすぎてはいないか。昨日は数日後に退院と言っていたのに、今になってそれを覆すとはどういう了見だ。やはり本当に「保護」を目的としているのか。いや、そうとも限らない。署へ連れ込めば取り調べがしやすくなり、容疑者の一人として拘束しておけるという魂胆かもしれない。だとするとまずいことになる。石井の件が表面化すれば俺の逃げ道は断たれる。
「待ってください。これは任意同行ですか」
こちらを見下ろす二階堂の目つきが急速に鋭くなっていく。
「ニンドウなんて難しい言葉よく知ってんじゃねえか。いいか、これは国を揺るがすような大事件なんだ。てめえが拒むなら別件で引っ張ってもいいんだぞ」
別件↓↓。背中に悪寒が走った。石井の件だとするととんでもないことになる。
「お前、数日前に高校で暴力事件を起こしたらしいじゃねえか」
それか。石井の件ではないらしいが、それもあの鴨川でのことに繋がっている。警察の捜査が一体どれほどのものかは検討が付かないが、既に影虎の存在に気づきかけているぐらいだ。かなり精度が高いのではないだろうか。だとすると下手な動きをして怪しまれることだけは避けたい。だが、言うことに従っていたとしても、鴨川での一件が暴かれれば、最悪、俺が暴力団員殺しの犯人に仕立て上げられる可能性も、無きにしも非ずだ。
俺の顔色が変わったことに気づいたのか、二階堂がニヤリと笑った。昨日は人の良い男だと思っていたが、今はどうだ。犯罪者を見るように、俺に好奇と嫌悪の入り混じった眼差しを向けてくる。
「どうした。怖いか。立件されれば立場がなくなるか」
俺の緊迫感を楽しむようなその声が誰かに似ていると思った。わかった。石井を強姦した原田とかいう男だ。
「あれは、止めに入っただけです。こっちから仕掛けたわけじゃありません」
平静を装ったつもりだったが、二階堂の目の色は変わらなかった。
ケータイを確認していた小松原が「タクシーが到着したそうです」と二階堂に耳打ちしたのが聞こえた。二階堂は無言でうなずくと、更に鋭く俺を見た。
「それはいいが、一昨日から石井詩織が行方不明だ。お前、何か知ってんだろ?」
心臓が跳ね上がりそうだった。この二人は例のことをどこまで知っているのだろうか。何を、どう答えれば正解なんだ↓↓。
「知りませんよ、そんなこと」無理やり言葉をひねり出す。
「本当だろうな」
「はい」
「そうか小松原」
二階堂に顎をしゃくられ、小松原は手帳を取り出すとゆっくりと説明するように切り出した。
「はい。昨日ここへ来たあとで、僕は元徳学園まで聞き込みに行きました。そこで君が起こした暴力事件のことを先生方から伺いました。それによると、君と教室で乱闘をした小田剛喜の交際相手が石井詩織で、その乱闘のきっかけとなったのは、君が石井に手を出した、出していないという交際関係のもつれが原因とのことでした。違いますか」
全部本当のことだった。俺は肯定も否定もせず、次の言葉を待った。
「これは僕の仮説ですが、もしかして君は石井に交際相手がいることを知りながら手を出したんじゃないですか」
「違う!」勢いで身を起こすと傷口が痛んだ。二人とも瞠目したようだったが、二階堂が「後は署で追い込みかけりゃいい」と薄く笑った。
「立て」
俺は二階堂に無理やりベッドから引きずり降ろされた。傷がまた痛んだが、傷口は既に塞がっていた。二階堂の乱暴なやり方に俺は動揺の色を隠せなかった。
「離せコラ!」
乱暴に手を振り払おうとした瞬間、二階堂の拳が頬に飛び、次の瞬間には胸ぐらを掴まれ、壁に強く押さえつけられていた。
「てめえ自分の立場が分からねえのか。お前は被害者だが、別件では加害者だ。傷害は重罪だぞ。これ以上俺ら警察に盾突いたらマスコミにお前のことを売ってやる。被害者が暴力好きなガキだって知ったら、えれえ面白がるんじゃねえか?なあ、武志くんよ」
タバコのヤニで薄汚れた歯を見せて笑う二階堂を見ていると、腹の底からこいつ殴りたいという衝動にかられた。しかしそれをすればどうなるのかは目に見えている。殴られた頬は痛かったが、そんなことよりも今の自分の置かれた状況が惨めで情けなかった。もはや自分には選択の余地などないのだろう。屈辱を味わわされながら強引な取り調べを受け、絞れるだけ絞り取られる。自尊心なんてものは「警察」という大きな権力に叩き潰されるのが関の山だ。
俺はせめてもの意地で二階堂を睨み返した。「あんたの捜査こそ違法じゃないのかよ俺の顔殴りやがって。訴えてやる」
すると二階堂は愉しげに顔を歪めた。「殴っただと?小松原、お前、何か見たか?」
視界の隅で小松原がおずおずと首を振るのが見えた。
「ああ、そうだろう。なあ武志くん、これが大人のやり方だ。ガキが舐めた口利くと怖い思いするぜ」
そうかよ。所詮足掻くだけ無駄なんだろう。警察は正義だと信じていたが、それは見せかけに過ぎなかった。実態はこの国と同じで腐っている。力を持たない国民はどうすることもできない。そうやって権力を振りかざすのが、この国では正義なんだ。
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「保護」という名目の元、取り調べは壮絶を極めた。東山署に連行され、昼飯もなしで午前十一時から午後五時までの六時間もの間狭い取調室に押し込められ続けた。二階堂は手こそ上げなかったのもの、凄みを利かせ、怒鳴り散らし、机を殴るなどという到底正当な取り調べとは思えない所業を繰り返した。俺も最初のうちはいちいち否定していたが、途中からはずっと黙っていた。何度も何度も真実を吐露しそうになったが、その度にどうにか耐えた。ここで本当のことを言えば俺自身も犯罪者の肩書を着せられる。そうなれば全て終わりだ。
やっと地獄の取り調べから解放され、俺が連れていかれたのは、お袋が待つ「仮眠室」という二段ベッドが並ぶ狭い部屋だった。
「お前の母親、事件のせいで頭がイカレちまったよ」吐き捨てるように言った二階堂の言葉が胸につっかえた。
案内された部屋は薄暗くかび臭かった。左右の壁に沿うようにベッドが配さされていて、その一番奥の窓際のベッドの上に、膝を抱えて蹲るお袋がいた。最後に見た時よりも随分とやつれているようで、肩が小刻みに震えている。
「飯まで大人しくしてろ」二階堂が乱暴に部屋を出ていくと、取り残された俺は恐る恐るお袋に近づいた。カーテンが外の光を遮っているためか、部屋全体に沈んだ色味を帯びていて、空気もどんよりと澱んでいるようだった。
あれからお袋とは会っていない。一体何を話せばいいのだろうか。実の両親について知りたいという思いはあったが、それを聞けるような状態ではないだろう。
「お袋おい、お袋」
何度目かの呼びかけで、やっと、ゆっくりとだがこちらを見た。しかしその目は虚ろで、焦点も定まっていないように、俺をすり抜けてどこか遠くを見ているように見えた。
俺は「頭がイカレた」という二階堂の言葉にはっとした。お袋の足元を見ると、布団が何か水のようなものでびっしょりと濡れていた。
「おい、どうしたんだよ」
美味い小料理屋の女将で、美人な母ちゃんだと友達にも羨ましがられていたお袋の面影はなく、代わりに醜い老婆がお袋の姿を借りているように、死臭のようなオーラが感ぜられた。風の吹かない生ぬるい部屋の中で、お袋が歯をカタカタいわせた。もしかして、泣いているのだろうか。
「シ」
何を言っているのかわからなかった。そして、ただ怖かった。
「タケシ」
ゆっくりと手を伸ばしながらこちらへ来ようと這ってくる。ぼさぼさに乱れた黒髪が顔にかかっていたが、目だけがゆらゆらと揺れ動く光を宿している。
正直どうすべきかわからなかった。何か言葉をかけてやるか、その手を握って抱きしめてやるべきだったのかもしれないが、俺は増幅する恐怖に負けていた。
「く、来るな!」
後ずさったが、お袋は息を荒げながらこちらへ迫ってくる。
「ねえ、武志」
ベッドから床へ移動するとゆっくりと立ち上がり、じっとこちらを見つめてきた。そのまま息遣いも聞こえぬほどの静寂があった。寸分のずれもなく、その目はじっとこちらを見つめていた。今にも怒りを爆発させそうであり、同時に悲しそうな衰弱した目だった。
そんなお袋を見ていると、今まで見てきたお袋の姿とは遠くかけ離れていて、どうしてもその二つを繋げることはできなかった。
「お、お袋?」
俺の口から今にも泣き出しそうなか細い声が漏れた。両手にびっしょりと掻いた汗が指の先から水滴となって落ちていく。お袋はじっとこちらを見ていたが、突然狂ったような大声を発した。
「お前があの人を殺したのよ!」
その言葉を聞いた俺は嗚咽に近い悲鳴を上げていた。刹那、お袋が勢いよく俺に飛び掛かり、俺を床に押し倒した。
「殺してやるお前なんか殺してやる!お前さえいなければあの人は死ななかったのに!」
お袋の冷たい声が胸を鋭く突き刺した。少なくとも今のお袋にとって俺は子供じゃない。自分の夫を殺した憎むべき相手なんだ。
「ああああああ!」
お袋の長い爪は痛みと共に俺の顔の肉を強く抉っていった。顔を押さえると両手に赤いものがべっとりと広がった。
助けてくれ↓↓。
俺の中の何かが声を張り上げたが、実際の声にはならなかった。お袋は泣き叫びながら爪を俺の頬に深く突き立てた。その激痛に全身が悶えた。刺さった爪が引き抜かれたとき、俺はお袋の第一関節までが血で赤く染まっているのを確かに見た。
気が付けば俺は足でお袋の腹を強く突き上げ、その場から逃げようとドアの方へ走っていた。開けようとノブを捻ったが、しかし、施錠してあるのかそのノブはガタガタと音を言わせるだけで回転することはなかった。
「出せ!出してくれ!」
ドアを何度も強く殴ったが、全く動きはしなかった。振り向くと目を赤く血走らせたお袋がこちらへ走ってくるところだった。
「あああ!」
俺は泣きながらお袋を押さえつけた。しかし、お袋は猛獣のように俺の腕の中で暴れ、唾を飛ばしながら俺の腕に噛みついてきた。痛みに耐えながらも腕を振ると、お袋は子犬のような悲鳴を上げて後ろへ吹き飛んだ。右の拳が頬に当たったようだ。
「やめてくれ!もうたくさんだ!」
叫んだが、お袋は息を荒くしてまたこちらへ飛び掛かってきた。そしてまた格闘になったが、俺はとうとうお袋の腹に強烈な拳を入れてしまった。
お袋はそのまま腹を押さえながら床に倒れ込み、そのまま動かなくなった。
俺は恐怖に震えながら、窓の方へあとずさり、血で汚れた手で鍵を開けた。外を見るとひび割れた民家の壁が目に入った。数メートル下にはアスファルトの細い道がある。逃げなくては。俺は夢中で窓から飛び降りた。
着地の直後、両足に鈍い痛みが走った。地面を見ると顔から垂れた血液の斑点が飛び散っていた。咄嗟に顔を押さえると先ほどよりも多い量の血が手に付着した。
逃げないと↓↓早くここから逃げないと、俺はいずれ殺されてしまう。
痛む足に鞭打ってがむしゃらに走った。柵を乗り越え、できるだけ人目につかないように、できるだけ遠くにと。
もしここで捕まれば俺の人生は終わってしまう。警察も、暴力団も、マスコミも、この社会自体が俺にとっては敵なんだ。俺の味方は一人もいない。誰一人として、俺を助けてくれる人間はいないんだ。
流れた涙が頬の傷を刺激した。
↓↓影虎↓↓
その時、脳裏にあの男の残像が浮かび上がった。そうか、あいつのところが最後の砦だ。
ポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出す。住所は?ここからでは遠すぎる。金もない。歩いていくなんて論外だ。ならどうすれば↓↓。
その時、一台の黒い大型バイクが轟音と共に俺を抜かし、進行を妨げるように目の前でドリフトした。
誰だ敵か、味方か。
男はフルフェイスのヘルメットを脱ぐと怒鳴った。「乗れ!」と。
はっとして立ちすくむ俺に男は図太い声を張り上げた。「クソッ、死にてえのか!」
考えることもなく、俺はバイクに飛びついていた。男は俺に自分のヘルメットを渡すとハンドルを捻った。短く刈り上げた金髪に両耳にずらりと並ぶピアス。そして上下白という服装は確かに不審だったが、今はそんなことを考えている余裕はない。
バイクは轟音と共に滑るように走り出した。
42
神坂組組長、安岡大力は椅子に深く腰掛け、鼻に皺を寄せながら葉巻の煙を顔の前でくゆらえていた。ゆったりとした和服にポマードで固めたオールバック。恰幅の良い体系に浅黒い肌。暴力団の組長としては申し分のない貫禄がある。
その安岡の目の前で、額に汗を浮かべながら立ち尽くしているのが右近だ。この建物のこの部屋には、三島竜二を含む三人の他は誰もいない。
「吊るし屋は消したんじゃなかったのか」
安岡は窘めるように右近を見上げた。元々の額の皺が更に濃くなり、幾筋もの黒い線を引いた。
「申し訳ありませんでした」右近は深々と頭を下げた。組長という絶対的な権力を前にその声は怯えていた。その様子を三島は右近の斜め後ろから神妙な面持ちで見つめていた。
「消したのか否かを聞いているんだ」
安岡の下腹を突き上げるような野太い声が部屋全体に重く響いた。右近は顔を上げないまま「消していません」と声を絞り出した。安岡は鼻で笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「右近お前はもう少し使える男だと思っていたが」
ゆっくりと右近に近づき、「のう」とその顔を覗き込む。恐る恐る顔を上げた右近の眉間に、安岡は持っていた葉巻の先を押し付けた。
「うっ」
右近は歯を食いしばりながら耐えていたが、眉間はジュウジュウという音と共に煙を吹きだした。
「お前を拾ってやったのはいくつの時だったかのう」
やっと葉巻が離されると、右近は咄嗟に傷口を押さえた。出血こそなかったが、その傷が消えることは一生ないだろう。端正な顔に無様な烙印を焼き付けられてしまった。
「十七です」
「そうか。ならあの時から十九年がたったわけかつまり人生の半分以上をここで過ごしたわけだ」
現在三十六歳。影虎を逃した時は二十八だったということになる。
「そうか確か吊るし屋がここへ来たのも十七の時だ」安岡は不敵な笑みを浮かべた。「やつの方がまだ使えたな」
右近の目が屈辱に見開かれた。「次は必ず殺します!この命に代えても」
「当たり前だ!」安岡は右近の耳元で大声を張り上げた。「お前が殺し損ねた男のせいで十七人もの組員が犠牲になったんだぞ!本来ならここでお前も殺すべきなんだ」
安岡の凄みに近くにいた三島は身を縮めた。
安岡は右近の胸ぐらを乱暴に掴んだ。「お前の銃の腕は誰よりも俺が買っているんだ。これからはそこを弁えて行動しろ。それから、人間の姿を借りたあの化け物だけは何があっても生かしておくな」
「はい」
安岡は右近の襟から手を離すとまた椅子に座り、深く葉巻を吸った。「黒金景光が原因でどうしてこうなったんだ。死んだ組員の命に代えてくれるなら五千万の刀など腐るほどくれてやるのにそれにしても何故あの場に井上がいたんだ。こちらの組員が襲いに行くのが分かっていたのか。右近、お前はどう思う」
右近は恐る恐る口を開いた。「八年前の復讐が目的というのは言うまでもなく明らかです。井上が待ち構えていたのは、恐らく、あの家族と何らかの繋がりがあったからではないでしょうか」
「どういうことだ」
「殺した三木剛志と井上との間に何らかの因果関係があったならば、最悪の場合に備えて井上を用意したということが考えられます。それか、井上自身が我々が組員を寄越すと踏んで待ち構えていたのか」
安岡は細く息を吐き出した。「お前が袁峰隆に預けていた黒金景光を紛失したと聞いたとき、やつはその三木家のガキの名を挙げたらしいが、そいつの下の名前は何だったか」
袁峰隆↓↓違法入国者の武器商人だ。
「確か武志という名前でした。今はどこかの病院に入院しているはずです」
「ああ。ならばそのガキを洗わないとな。井上につながる唯一の頼みの綱だ。マークしておけ」
「わかりましたあの、鹿王会はこのことについてなんと」
安岡は苦々しい表情で唇を噛んだ。「今の段階では何とも言い難いが、何か裏で工作をしているようだ。笠井は侮れない男だからな。こちらへはまだ何も言ってこない。最悪、切られるかもしれん」
右近はごくりと唾をのんだ。そうなれば最悪、口封じに命を追われることになるかもしれない。そもそも京大のアンチエイジングの研究の話を持ち掛けてきたのも鹿王会だったはずだ。だとすると一体やつらは何が目的なのだろうか。
まさか、神坂組のことを実験材料として利用したというのだろうか。だとしても分からないのはその目的だ。
「右近、わかったらとっとと行け。その武志とかいうガキが井上に接触するまで泳がせるんだ」
「はい」
右近は目礼し、踵を返すと三島とともに部屋を後にした。
43
古民家が立ち並ぶ入り組んだ道を抜け、男に連れてこられたのは、「龍門寺」という寺の大きな門の前だった。高さ五メートル以上はあろうかという巨大なその門は固く閉ざされていて、来るものを固く拒んでいるように思えた。青銅製だろうか、くすんだ蒼い門には細やかな彫刻が施してあり、見上げると梲の下に一頭の黒い龍の像が泳いでいる。おそらくこれがこの寺の名の由来なのだろう。それにしても巨大な門だ。その門の脇には「厳格な寺院につき、何人も許可なき立ち入りを禁ず」と書かれた古びた貼り紙が貼られている。
「ここだ」男はバイクから降りると、周囲を気にしながらケータイを取り出した。「朱鷺さん、例の、連れてきましたよ」声を潜めるようにそれだけ言うと、ゆっくりとその木戸(高さは僅か一メートル強ほどで、身を屈めないと通れそうもない)がゆっくりと開いた。
「さあ、中へ」やはり、朱鷺だった。前見た時と違い今日は袈裟に身を包んでいた。
俺は訝りながらも素早く戸を潜った。三メートル以上はあろうかという外壁で外から様子は遮られていたが、いざ中へ来てみると、そこは想像以上に広々としていた。砂利が一面に敷き詰められた敷地内はほぼ正方形で、一片の端から端までは三十メートルはあるだろう。その敷地の一番奥に本堂があり、その左側に小ぢんまりとした倉庫があった。
バイクで俺を連れてきた男は、その小さな扉から無理やり大型バイクを通し、急いで木戸を閉ざした。
「顔の傷、大丈夫かね」朱鷺が心配そうに訊ねてきた。まだ痛みはあるが血は既に乾いているらしい。
「警察署でちょっと」軽く愛想笑いを浮かべたが、朱鷺が笑って返してくることはなく、代わりに「とりあえず本堂へ」と歩き始めた。
本堂へ歩く道すがら「影虎は中にいる」と朱鷺が囁いた。あの男にまた会うと思うと急に気が重くなった。一体俺はどんな顔をしてあの男に会えばいいのだろうか。俺の命の恩人であり、同時に親の仇でもある。それにしてもどうしてこの二人はこんなにも平然としていられるんだ。あれほどまでに凄惨な殺し方をする人殺しが近くにいるというのに。
本堂の襖を開けると中は広々としていた。その中の中央に影虎がこちらに背を向けるようにして胡坐を掻いていた。朱鷺と同じように黒い袈裟を着ているが、明らかに大きさが違う。
「影虎、武志くんが来た」
朱鷺がそう言うと影虎は立ち上がり、ゆっくりと振り向いた。「生きてたのか」影虎が言ったのはそれだけだった。
俺はどう答えていいかわからなかった。この男のせいではないかもしれないが、紛れもなく親父は死んだ。どういう意図があってそんなことを言うのだろうか。俺が生きていたことがラッキーだという意味なのか。
俺は無言で影虎を見上げた。相変わらず目を合わせることすら躊躇してしまうほど恐ろしい顔つきだが、それ以上に不気味なのはその目だった。人間らしさというか、生き物全てに共通してある輝きがこれっぽっちもない。全てを諦めているかのように陰鬱で、同時に凶暴でもある。
影虎は俺に背を向けると、本堂の一辺の仏壇に立てかけてある刀を手にした。黒金景光だ。それを俺に手渡すと「少し話そう」と俺に座布団に座るように勧めた。大人しく仏壇の前に一つだけある座布団に座ると、影虎も俺に向かい合うように床に腰を下ろした。朱鷺と俺をここに連れてきた男は未だに立ったままだ。
「俺に聞きたいことがあるんじゃないか」
ある。ありすぎて何から聞けばいいかわからないほどに。
「俺の両親を殺したのはあんたか」
影虎が口を開く前に、朱鷺が「違う」と遮った。「わしは剛志さんからその話を伺ったが、君の本当の両親を殺したのは影虎じゃない」
嘘だ。この男は嘘をついている。「じゃあ誰なんだ!」語気に苛立ちが混じる。「説明してみろよ」
朱鷺は一つうなずき、言葉を選ぶように言った。「君の本当のご両親、草刈一さんは舞鶴で刑事をしていた。十六年前、連続警官殺しの犯人を追っていた彼は、その犯人に自宅で妻の陽子さんと共に刺殺された」
刺殺だと?そんなはずがない。俺は確かに二人が素手で嬲り殺される様を見たんだ。そしてその犯人こそが今目の前にいる影虎なのだ。
「馬鹿言うなよ。俺の親はこの男に弄ばれるように殺されたんだぞ!」
そうだ。この忌々しい化け物に↓↓。だが朱鷺は毅然とした態度で首を振った。「君の両親を殺害したのは永井龍という男だ。君の両親が殺害された翌年に逮捕され、服役中に結核で死んだよ。調べればすぐにわかることだ」
「まさか嘘だ」太腿の上に乗せた両の拳が僅かに震えはじめた。
「嘘じゃない。残された君は一の高校時代の友人である剛志さんに引き取られた。証拠に、君の両親が殺害された十六年前、この影虎がいくつだったと思う?たったの九歳だよ」
「嘘つくんじゃねえ!」立ち上がった勢いで影虎をじっと睨みつけた。向こうも闇のように濁った瞳で俺をじっと見つめ返してくる。
「だって」
「俺が老けて見えるからか」嘲笑めいた声だった。「残念ながらこれは真実だ。現に俺はそいつと同じで二十五だ。なあ、原田」影虎は襖の柱に身を立て掛ける男に視線を投げかけた。
原田だとまさか俺を監禁していた男か。確かに最初、聞き覚えのある声だと思った。だとするとこいつらは全員俺の敵なんじゃないのか。本当は俺をここへ連れてきたのも何かの策略なんじゃないのか↓↓。
がたがたと震えだした俺を原田は面白そうに眺めていた。
「そうさ。俺たちは中学時代からのダチだ」
「あんたが石井を強姦した、あの原田なのか」
原田は長い舌を出して笑った。その舌は蛇のそれのように先が二股に分かれていた。笑い方も普通の人間ではない。薬物中毒者のように目の焦点が定まっていない。「石井っていうのか、あのねーちゃん。随分と楽しませてもらったぜ。媚薬とシャブで頭破壊してからソープに飛ばしたよ。思ったほどの額にはならなかったが、中古車が一台買えるぐらいにはなったぜ。なんたって本物の女子高生なんだからなあ」
よくもまあぬけぬけとそんなことが言えたものだ。一体どんな環境で育ったらそんな屈折した大人になるんだ。考えただけで胃がむかつく。
「シャブはいい。人間を堕落させてくれる。女はシャブを俺から買うために自分の体を売って金を稼ぐ。表に戻ったらシャブが手に入らなくなっちまうからまともな仕事には就けねえ。あながち頭がイカレてそんな考えも湧かねえだろうがな。中毒者はそうやって裏の道から抜け出せないとわかっていながら地獄の火車に乗るんだぜ。おかげでこっちは大儲けだ」
覚醒剤の注射針を腕にさす石井の姿が目に浮かんだ。
「あんたそれでも人間かよ」
原田はこれ見よがしに顔の片側を歪ませた。「殺そうとしてたお前が言っても何も説得力ねえぞ。むしろ感謝してもらいてえぐらいだ。あのねーちゃんがもし正気で表に戻ったら、お前は殺人未遂で懲役食らうんだぜ?」
「原田、それぐらいにしておけ」影虎が冷たい声で制した。「武志、原田はシンナーで少し馬鹿になっている。勘弁してやれ」
勘弁?確かに俺はあの時石井を殺そうとしたが、それは何も影虎、お前みたいに目的もなく人を殺めるのとは違う。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて、どうしようもなくなって導き出した答えがそれだった。決してこいつなんかとは違う。原田もそうだ。石井を強姦して風俗に売り飛ばしたのだって、要するに自分のためなんだろう。恨みや憎しみもないのに、自分の利害だけで物事を考えている。違うか?このクズども。
反論しようとした途端、影虎の目が険しくなった。
なんだよ。俺が間違っているとでも言いたいのか。馬鹿馬鹿しい。確かにお前は俺の親を殺しちゃいないのかもしれないが、その実、目の前で暴力団員を殺したことは否定のしようのない事実だ。それについてはどう答える?
「影虎、あんたが俺の親を殺してないっていうのは分かった。でも、何がしたいんだよ。親父に恩があるっていうのは朱鷺さんから聞いたけど、だからって人を殺すことはないだろう!」
「ならあの場で見殺しにしてほしかったのか」影虎の声は至って落ち着いていた。あまりの感情のなさに俺は狼狽した。
「それはでも、それは結果論だ。なんであんたは人を殺してそこまで冷静でいられるんだ!俺には理解できない」
「俺を化け物に変えたのはやつらだ。裏切り者は生かしてはおけん」影虎は俺と対峙するような姿勢をとった。
化け物?裏切り者?どういう意味だ。
「八年前、俺は神坂組に高杉会との抗争で殺し屋として使用された。ちょうどお前ぐらいの歳の時だ。逃げ場のないあの恐怖がどれほどのものか、所詮お前には理解できぬだろうな」
八年前の高杉会との抗争↓↓桜田の父親が殺された事件と一致している。まさか↓↓。
「薬を投与され、目覚めた時にはこのザマだ。組長や右近は神の薬だと賞賛していたが、俺には分からなかった。人間の姿をこれほどまで悍ましく変えてしまう薬に、いかほどの価値があるというのだ。俺は訳も分からないまま殺しを強要されたんだぞ。人間を殺すことがどれほど恐ろしいか、当事者でない限り一生知りえない」影虎の口調はまるで自分に言い聞かせるようだった。
俺は無意識のうちに黒金景光を強く握りしめていた。俺にとって影虎は脅威だが、今は恐怖心が憎しみに変わっていた。どういうことがあったのかは知らないが、全て言い訳にしか聞こえなかった。このご時世に、そんな話はあまりにも現実味がなさすぎる。
「桜田の父親を殺したのか」
核心的な問いに、影虎はこちらをじっと見下ろしたまま何も答えなかった。
「八年前、お前は五人殺した。そしてついこの前、俺の目の前で十五人も同じように殺した。俺を守るためだ?馬鹿にするな。それを他人事みたいに言いやがって。お前は罪を償うべきなんだ。もう一度聞く。桜田の父親を殺したのはお前か」
俺は左手を黒金景光に添え、その刃を鞘から引き抜こうとしていた。斬りかかれば届く距離だ。そして、桜田の父親を嬲り殺した犯人こそがこの男なのだ。
「誰を殺したかなどいちいち覚えていてもきりがない。その桜田とかいう男が高杉会の組員なら、確かに俺が殺したのかもな」
「お前は遺族がどれほど辛い思いをするか知らないからそんなことができるんだ。桜田は、一生父親を殺されたっていう現実を背負って生きていかなくちゃならねえんだぞ!」
ついに俺は鞘から刀を引き抜いた。刃先を影虎へ向け、じわじわと間合いを詰める。今斬りかかれば間違いなくこの男は死ぬだろう。二十人もの人間を死に至らしめた化け物をこの手で成敗できるのだ。
「やめろ!」朱鷺の叫びが聞こえたが関係なかった。
「原田、やめておけ」影虎の声に原田の方を横目で見ると、こちらへ小型の拳銃を構えていた。「ここで使うことは俺が許さん。仏の前で血が流れるなど、あってはならん蛮行だ」
俺には仏の目など関係なかった。人を一人殺せば自分も死んで償うべきだ。もし俺があの時人を殺していたのなら(殺していなくてもそうするつもりだが)、影虎を斬ったあとで自分も斬ってこのくだらねえ世の中とおさらばだ。今さらこの世に未練などない。命よりも大切な何もかもを失ったのだから。
「武志、俺を殺しても何にもならんぞ。その程度の判断力はさすがにまだあるんだろ?」
「黙れ、バケモノめ。お前を殺して俺も死んでやる。それで全て終わりだ」
「そうか」影虎の目が怪しくぎらついた。「なら先に殺すまでだ」
そう言うと影虎は両手で俺の頭を勢いよく挟み込んだ。と同時に蟀谷に激痛が走った。
殺られる前に殺らなければ↓↓。
俺は刀を影虎の腹めがけて突き刺した。肉を引き裂く感触の後に、骨に突き当たった硬い感覚があったが、力ずくでねじ込むと軽くなった。貫通したのだろう。
「う」低い声を漏らすと影虎はその場に崩れ落ちた。床に大量の血が広がっていった。
俺はその光景を見て声を荒げて笑ったが、すぐに笑っている自分に気が付いて途方もない罪悪感に襲われた。俺はとうとう人を殺してしまったのだ。人として一番やってはいけない罪を犯してしまった。もう残された道は死しかないのだ。
刀を叩き下ろしたと同時に、視界が真っ赤に染まった。次の瞬間には両目に夥しい量の血が降り注いだ。影虎が口から血を吹き出したのだ。だが確かに肉を斬った感覚はあった。ならばやつを殺すことに成功したはず↓↓。
身動きの取れなくなった俺に影虎の体が重くのしかかった。床に押し倒され、両手を強く押さえつけられた。
「馬鹿野郎!」本堂に影虎の怒鳴り声が響いた。「お前まで人殺しになるな!お前はまだ人間でいろ!」
「なんで」両目に涙が溢れてきた。血のせいで周りの様子が見えなかったが、影虎の荒い息遣いはよく聞こえた。「なんで俺のためにそこまでするんだよ」
朱鷺と原田が駆け寄ってくるのが分かった。影虎を俺から押しのけ、傷口を押さえつける。
消え入りそうな声で影虎が言った。「先生にお前を守れと言われた。先生には、大恩がある」
「恩って、なんだよ」どうして自分の命を擲ってまでそれを果たそうとしたんだ。俺には意味が分からない。死んだ人間との約束などないも同然じゃないか。
だが影虎の答えは単純明快だった。やつは声とも息ともつかぬ荒い声で言った。
「先生は、初めて、俺を人として見てくれた」
それだけか。たったそれだけなのか、この男をあれほどまで突き動かした理由のいうのは↓↓。突然俺は深い寂寥感に襲われた。寂寥感は涙に変わり、俺の頬を伝い落ちていった。
そして影虎の呼吸の音は次第に消えていった。
第四章 逃避行
45
渇いた喉を潤すのは水だが、乾いた心を潤すためにはどうしたらいい?その答えは未だに見出せていない。カラカラに乾いた心はぼろぼろにひび割れ、今にも壊れ落ちてしまいそうだった。大切な人を失った悲しみは当事者にしかわからない。それが悲しみなのか憎しみなのか、当時のこの男にはわからなかった。
姉弟を二人も失った。一度目で、もう二度と同じことを経験したくないと思い、刑事になった。二度目は刑事になってからだ。二人とも、殺されたのだ。二人目↓↓弟を殺した犯人は未だ逃亡中だ。その犯人に手錠をかけるのは自分しかいない、そう二階堂は誓っていた。
カーテン越しに、まどろみのような優しい朝日が部屋全体を照らしていた。二階堂は柔らかいベッドの上で目を覚ました。裸の体には薄らと汗を掻き、頬には涙の痕が残っていた。
この国は平和だ。ほんの少しの例外があるだけで。どうして俺はその「例外」に自ら飛び込んでいくのか。二階堂自身ですら本当のところはわからなかった。給料はいい。こんな危険なことをしなくても十分なほど手に入る。なら単に刺激を求めているから現場に留まるのか。それは違うと自分に言い聞かせ、思い出す。刑事は国民のために命を張る仕事なのだと。だから俺はこうしている。だから俺は、もう誰も悲しませないために刑事になったんだ。そう思うが、いつも途端に虚しくなる。今自分がしていることは単なる他人の粗探しでしかないんじゃないかと。
だがすぐにその考えを打ち消す↓↓いや、これもこの国に生きる人々のためだ。復讐の連鎖が始まる前にそれを断ち切らなくてはならない。犯人がまた人を殺そうとするなら、何としてでもそれを阻止しなければならない。それが俺の仕事なのだから、と。
ゆっくりと身を起こし、机の上の時計を見た。午前六時五十分。目覚ましの時間よりも早く起きた。基本的に家に帰ることは少ないが、たまに帰れば仕事の時間ぎりぎりまで寝てしまうことが多い。それはそれで幸せだが、今回のように大きな事件を追っているときは、それが解決するまで安心して眠ることもできない。
ベッドから下りて目覚ましのタイマーを切る。それから丁寧に折りたたまれたボルドーのシャツとグレーのスラックスに身を通す。まだ眠い目を擦りながらダイニングまで移動すると、コーヒーの芳醇な香りが漂っていた。
「姉貴」
キッチンに立つ姪の後ろ姿に死んだ姉の姿が重なったが、すぐに現実に引き戻された。きれいで優しかったあの姉貴はもうこの世にはいないのだ、と。
炒め物をしていたために二階堂の呟きは聞こえなかったのだろう。澪は二階堂の気配に気づくと、振り返り、優しい笑みを浮かべた。「おはよう、伯父さん」
「あ、ああ……」
不思議と面立ちは亡くなった姉にそっくりだが、その顔の傷は痛々しい。二階堂は笑い返そうとしたが、ぎこちなく顔が歪んだだけだった。
「今日は起きるの早いんだね。もうすぐできあがるから、座って待ってて」
敏行には申し訳ないが、あいつの娘にしては出来が良すぎると思った。そして、だめな自分の相手をさせておくのにも。
二階堂は言われたとおり席に着いた。テーブルの上には今朝の新聞が置いてあった。いつも澪がここに置いていてくれるのだ。気立てが良くて、よく気がつく自慢の姪だ(あながち、二階堂は自慢などしなかったが)。
もし澪が嫁に行くと言い出したら俺はどんな反応をするだろう。確かにそれは喜ぶべきことだが、俺は心から喜べるだろうか。俺は澪の父親代わりでありなあら、実際はそれだけでは割り切れない関係なのかもしれない。澪にとって俺は伯父であり、父親であり、本当の父親を殺した犯人を追う刑事でもある。なら俺にとって澪は何なのか。ただの姪とというのも違う気がする。ならばもはや娘?それとも被害者の娘か?それはもっと違うと思う。なら一体何なんだ。この子がいなくなったら、俺の生活はすぐに杜撰なものになるだろう。それだけじゃない。心のつっかえ棒を失うことになるのだ。敏行の奥さんが死んで澪がここへ来ることになった時、最初は俺も戸惑ったよ。十歳の女の子なんて相手にしたことなかったし、何よりも怯えていたから。でもできるだけ負担をかけないように気遣いながら、どうにか育ててきた。あの頃は単なるガキで――今もそうなんだろうが――時々はっとするよ。不意に見せる「女」の表情に――。
新聞のトップ記事はやはり暴力団員連続不審殺人事件のことだった。記事に目を通して安堵する。「あのこと」はまだメディアにばれていないらしい。こちらの捜査以上のことは何も記されていない。次のページを開く。「府立○×高校で首吊り自殺」
その時、澪が運んできたコーヒーを二階堂の前に置いた。二階堂は慌ててページを戻した。こんな暗い記事を少しでも澪に見せたくなかった。前の高校でひどいいじめに遭ったのが理由で、三か月ほど前に今の高校に転校させた。やはり、原因はその顔の傷だった。
「ねえ、伯父さん」
どきりとした。
「な、何だ」
澪は料理を並べながら二階堂が読む新聞を遠くから覗き込むようにしていた。
「犯人、捕まるといいね」
二階堂は言葉に詰まった。警察官――特に刑事には守秘義務が付きまとう。捜査状況は家族であれ部外者にひけらかしてはならないのだ。
「ニュース見たよ。ひどい事件……」
澪は二階堂と向かい合う席に腰を下ろした。二階堂は新聞を畳むとコーヒーに口を付けた。
「そうだな」
正直何と答えていいか分からなかった。この事件を自分が追っていることすら話していない。ましてやこの事件の犯人が澪の父親を殺したやつだと言えばどうなるだろう。澪は悲しむだろうか。それとも憤慨するだろうか。どちらにせよ事件が解決するまでは話すわけにはいかないのだ。犯人を捕まえて、お前を怖がらせるものはもうないと教えてやるのだ。そのためにも、やつを死刑台に送らなくては。
「事件があった場所ってここからそう遠くないよね」澪はテーブルの上のフレンチトーストに目を落としていたが、伏目がちに顔上げた。「伯父さん、その事件追ってるんでしょ」
二階堂ははっとして澪の顔を見つめた。穴が開くほど見つめた。
「その被害者の子、私の友達だよ」
躊躇いがちにそう言った澪の目はうっすらと赤くなっていた。彼女はまるでそれを見せまいとするかのように窓の方を向いてしまった。二階堂はやはり澪の顔を見つめるばかりで何も答えることができない。あえて答えなかったわけではない。彼女の目に一瞬だけ浮かんだ、悲壮感とも恐怖ともつかぬ曖昧なものを見た瞬間、心を抉られたような嫌な苦しさを覚えた。二階堂自身なぜそんな風になったのかは分からなかったし、知りたくもなかった。
「三木武志……そうか、学校、同じだったのか」
その嫌な感情を少しでも遠ざけようとしたのか、そんな的外れな言葉が漏れた。本当はそんなことはとっくに知っていた。武志が元徳学園の生徒だと知った時に、澪との関係を気にしたが、聞けなかった。どう聞けばいいというのだ。守秘義務だってあるわけだし、それ以前にこの事件に少しでも触れさせてはいけないと思った。だから俺は高校へは行かず、そちらは小松原に任せたのだ。
澪は軽くうなずいた。「武志くんは大丈夫なの?」
二階堂は昨日のことを思い出していた。取り調べの後、仮眠室で待機させていたはずの武志の姿はなく、代わりに母親が倒れていた。武志は自分の母親を殴って逃げたのだ。母親の指にべっとりと付着した血液は武志に抵抗した時にできたものなのだろう。実の親子でないとはいえ、ここまでする武志の人間性を疑った。やはり、武志が事件に関与している線は濃厚になった。井上とはどういった間柄なのだろうか。
「伯父さん……」
二階堂ははっと我に返った。「あ、ああ。大丈夫だ。お前は心配しなくていい。犯人も俺が必ず捕まえるから」
澪は少しの間じっと黙り込んでいたが、躊躇いがちに口を開いた。
「もしかして、その犯人って」
二階堂は咄嗟に立ち上がっていた。「澪……お前は何も心配するな」
「……」
「俺が意地でも捕まえるから。約束だ」
澪は悲しそうに顔を歪ませ、ゆっくりと二階堂に歩み寄ったかと思うと、二階堂の体を強く抱きしめた。
「犯人が捕まることよりも、私は伯父さんが生きていてくれればそれでいい。生きて、私を守ってよ」
涙交じりのその声を聞いた二階堂は、強く澪の体を抱きしめていた。
「わかった。わかったよ……」
右手を澪の頭に移し、ぎゅっと抱きしめた。柔らかな癖のない髪の毛が指先を流れていく。小さな肩を強く抱きしめる。うっすらとした甘い花の香りが心を麻痺させる。澪の柔らかい体が自分の肉張った体に強く当たる……。
二階堂は自分が何か特別な感情を抱きかけていることを心の端で感じていた。
46
「」
第五章 マーダー
終章 遠景の光
事件発生から二日。俺の病室の前に警官が張り付くようになり、医者や看護師も頻繁に部屋に訪れるようになった。昨日の夜にやっと点滴針を外せ、体調も回復の兆しを見せていた。医師の話では傷口は脇腹の肉をそぎ落としたが、痛み以外は普段の生活には大きな支障はないという。ただ筋肉をやられたために激しい運動はできなくなるということだった。
時が経つごとに俺の不安は大きくなっていった。俺のことはもう警察は知っているのだろうか。影虎という男のこともそうだ。暴力団員たちはまた俺に復讐をするだろうか。もう普通の生活は取り戻せないのだろうか……。
武志は東山署から数十メートル離れた道でタクシーを拾った。手元には満足な金額はなかったが、それでも今は構っていられない。
正面玄関を突破するときはどうなることかと焦ったが、ケータイで電話をするふりをしながら、怪しまれることなく抜け出すことに成功した。報道陣関係者と思しき男たちが数人いたが、それもうつむきながらなんとか誤魔化せた。それよりも武志が注意していたのは神坂組の誰かがいないかということだったが、今のところそれらしい男はいない。
タクシーに乗り込むと、武志は影虎から渡された紙切れの住所を見せた。運転手はくしゃくしゃのそれを訝しげに見ながらカーナビに打ち込んでいく。
――早くしろ。急がないと――
車は静かに発進した。運転手は暫く黙っていたが、ちらちらとフロントミラー越しに武志を見てくる。
「お客さん、何をしにここまで?」
緊張で会話をする余裕などなかったが、返さないのも不自然だと武志は素っ気なく返事した。
「この住所まで」
「ここは龍門寺というお寺みたいですが、お客さん、今日は学校は休みですか」
詮索されることを恐れ、武志は何も言わず外の景色を眺めていた。淡々と流れる京都の風景はビルや家屋が立ち並ぶどこにでもある風景だ。今日は日差しが強くて眩しかった。
武志は何度か後ろを振り返った。尾行されているか気がかりだったが、どうやらその心配はないらしい。見るたびに後ろの車が変わっている。
十数分後、タクシーは徐々に入り組んだ道に入り、大きな門の前で停車した。
「おいブー。いつまで寝てんだ。ブー起きろ!」
狭いボロ雑居ビルの一室のオフィスで、真っ赤なソファに座る男は床で眠りこける太った男の腹に靴裏を押し付けた。
オフィスと言っても大したものではない。雑居ビルの二階を借りて、表向きは「ニコニコ相談所」という幼稚な名前の何でも屋をやっているが、実際のところは武器の裏取引を中心に活動している裏会社だ。狭いオフィスには応接室と社長室の二部屋だけ。社長室といっても二人だけの会社なので片方が専務ということになる。業界ではこの会社のことを縮めて「NK」と呼んでいる。ニコニコだから、というそれだけの理由だ。
「ブー」こと山内康介は呻き声を漏らしながら体を起こした。ちなみにこの男がここの専務だ。
「真ちゃん…まだ寝かせてよ…」
「うるせえ。今何時だと思ってんだ。時計見て見ろ。真昼間だぞ、ブー」
ブーと呼ばれるだけあって山内の外見はどうも情けなかった。頭は禿げあがっていて、腹の肉はいつもベルトからはみ出している。更にはチビときた。オタク風というかニート風というか、まだ二十五歳だというのに、見た目は本物のオヤジだ。
それとは対照的にソファに座る男、社長の原田真之介はガラの悪い見た目をしている。短く刈り込んだ髪は金髪で、それと同じ色の顎鬚を生やしている。両耳にはメタリックなピアスがずらりと並び、それと同じように鼻や唇にもピアスが光っている。だるそうにワイングラスを持ち上げた左手の指にはこれまた厳つい指輪が並んでいる。
「ブー、一時に客が来るんだ。その汚え恰好をどうにかしろ」
山内はゆっくりと立ち上がり「ブーブー言わないでよ」と悲しそうな顔になった。だが原田は「あっち行けよ」と手で山内を遠ざけた。
左手でワインを飲みながら、原田はテーブルの上のリモコンで正面のテレビを起動させた。やはり数日前の暴力団員連続不審殺人事件についての報道をしていた。
「ひぃ、おっかねえ」
そう言って楽しげに口を歪める。
番組ではアナウンサーが事件現場である壱武館の前から報道していた。未だに事件の詳細は掴めておらず、警察は引き続き捜査に当たるという。
――カイの野郎、殺しはしねえって約束しただろうが――
壱週間近く前に龍門寺へ拳銃を届けに行った時は、影虎に変わった様子はなかった。礼だけ言って銃を受け取った。「アンパン(シンナー)はもうやめたのか」と聞かれ、原田は「いいや」と笑った。「それで人を殺すのか」という原田の問いに影虎は「もう殺しはしない」と言った。久しぶりに会ったというのに、たったそれだけの会話だった。
結局影虎は人を殺した。それも十五人も。これで一体何人目になる。原田はため息を漏らした。
影虎がいなくなってから武志の頭はパニック状態だった。影虎が黒鉄景光と共に姿を消したのは、剛志と舞衣が武志の元へ戻ってくる直前だった。
影虎は一枚の紙切れに住所らしきものを書き込むと、「頃合を見計らってここへ来い。それから、俺のことは絶対に他言するな」と武志の目を見つめた。その後に「当たり前だが、一人で来い」と彼は言った。
武志は当初、黒鉄景光を影虎に渡すことを拒んだが、「どうせ持っていても警察が取り上げて、戻ってはこないぞ」という影虎の言葉を信じることにした。それに影虎には信じるだけの価値があるような気がした。あれほど武志の心を突き動かした者は今までいただろうか。武志は影虎に自分に近いものを知らず知らずに感じていた。
武志はブラインドの隙間から窓の外を見た。外は報道陣の車のフロントライトや照明器具で照らされ眩しかった。
家族のために貸し出された応接室には、三人が寝るためにソファと毛布がそれぞれに用意された。だが武志は眠れなかった。それは父も母も同じようで、電気もつけないで座ったままでいるようだった。
武志の和服は血で汚れたために、小松原という担当刑事が自分の替えのワイシャツとスラックスを貸してくれた。小松原が貸したそれらは、長身の武志にも合うほどのサイズだった。武志の和服は明日の朝には洗濯が終わり返してくれるそうだ。
――明日には事情聴取か。一体いつ影虎さんのところへ行けばいいんだ。今は報道陣が多すぎて身動きが取れない。でも時間が経てば取り返しのつかないことになる気がする――
武志は不安を払うように立ち上がった。
「どこへ行くんだ」
剛志だった。
「トイレ」
応接室を出ると、二階堂がドアの横のパイプ椅子に、タバコをふかしながら座っていた。
二階堂は武志を見ることもなく、正面の壁を見つめたまま煙を吐いた。そのままトイレに行こうと歩き出した武志の背中に二階堂は言った。
「武志くんだったな。今日、君は何を見た」
武志の背筋が凍りついた。影虎のことが脳裏をよぎったからだ。ゆっくりと振り返ると、二階堂は鋭い目でこちらを見上げていた。
「今日のこと、正直に話してくれ。残念ながら暴力団員たちの証言は意味不明だ」
武志は生唾を飲み込んだ。
「…事情聴取は、明日からじゃなかったんですか」
二階堂は嘲笑めいた笑みを浮かべた。武志にはそれがただただ不気味で仕方なかった。
「そうだな。だが、これは俺が個人的に聞きたいことだ。今回の事件は明らかにおかしい。まるで何者かが乱入したようだ。大勢の暴力団員を相手にできるような、驚異的な力を持った何者かが」
武志は言葉を失った。この刑事は全てお見通しなのではないか。どんなに思考を巡らせても言い返す言葉が見つからない。この場で二階堂を納得させるようなことを言わなくては。だが、何も出てこない。
額に大粒の汗を浮かべた武志を見て、突然二階堂は無表情になった。
「どういう事情があるにせよ、警察に隠し事はすんじゃねえぞ。小僧」
武志の額から脂汗が伝い落ちた。
「……何も隠してませんよ。何も見ていません」
二階堂は暫く武志を見つめていたが、「そうか。小便だろ」と目を逸らした。
武志は逃げるようにトイレに入った。鏡に映った自分の顔は、今まで見たことがないくらいに引きつっていた。
――逃げないと。ここにいたら何もかもが暴かれる。自分が黒鉄景光を持ち出したことも。爺さんと約束したんだ。あの刀は誰にも渡さない。誰にも――
武志は朝まで絶えず色々なことを考えていた。
自分の周りの全てが敵に思えて仕方がなかった。自分を育ててくれた家族でさえも、本当に心から信用していいか分からなかった。
「親父、母さん」
ふたりはゆっくりと武志を見た。
「影虎さんのこと、俺は絶対に話さない。だから…だからお願いだ…」
二人は驚いたように顔を見合わせたが、剛志は「二人には話しておかないといけないことがある」と言い、小声で続けた。
「海斗くんのことで、わしが知っていることを話そう。彼は昔わしの教え子だった。力が強く優秀な子だったが、中学に入ると彼は剣道をやめてしまった。そのあとは暴走族に入ったと朱鷺さんに聞いている」
「暴走族…」
「ああ。海斗くんの過去に何があったのか、具体的なことまでは分からないが、そのあとは暴力団にいたらしい。そのあと彼は瀕死の状態で朱鷺さんに助けられたと聞いている。理由は分からないが、彼は暴力団員たちから命を狙われている。おそらく警察にもだ。だから警察には彼のことを言うつもりはない」
武志は何度もうなずいた。
――確かにそうなら辻褄が合う。今までのことも納得できる。だが一つ気がかりがあるとしたら――
「親父、影虎さんがいた暴力団って」
剛志は言いにくそうに言った。
「神坂組だ」
信じられないというよりは、信じたくなかった。薄々そんな気はしていたが、本当にそうだとわかると、どうしても影虎のことを疑ってしまう。
「…神坂組…影虎さんが」
「彼がそこで何をしていたのかは不明だ。彼の記憶も曖昧だったし、何より言いたくないようだった。ただ、聞くところによると、常軌を逸した力を誇示していて、不死身と言われていたそうだ」
武志は頭を抱えた。影虎が神坂組の元組員だとすると本当に信用して良かったのかわからない。黒鉄景光のことも全て影虎の計算内だったとしたら、取り返しのつかないことになる。
「…親父、本当に影虎さんを信用してよかったのか」
剛志は神妙な面持ちになった。
「わしは彼を信じたい。根本的なところで、わしらはまだ師弟関係だからな。ただ、彼の中に悪が宿っているのも事実だ。まあ、どのみち彼を信じるほかないだろう」
――何だよ、その押し付けがましい説明は。俺は命よりも大事な刀を預けてきたんだ。信じる信じないの問題じゃないだろう――
「……俺だって信じたいさ。命の恩人だからな。でも、爺さんを殺したやつらの昔の仲間を腹の底から信じるなんて、俺にはどうしても無理だ」
剛志は悲しそうに顔を歪めた。
「…武志、人間の真の価値は肩書きじゃないんだ。それがどうしてお前にはわからない」
武志が何も言わずに父を見つめ返していた時、ドアがノックされ小松原が顔を覗かせた。
「朝食をお持ちしました。30分後に事情聴取を行います」
武志たちは小松原から受け取ったパンを無言で食べた。剛志ともっと話すべきだったのかもしれないが、このまま平行線を辿るだけだろうと思うと気がめいった。代わりに武志の意識は次の行動へ集中していた。嘘の証言をしなければならないというプレッシャーに、押しつぶされそうだった。
狭い取調室は、よくドラマで目にするものと何ら変わりなかった。武志は促されるままに、奥の簡素な椅子に腰を下ろした。向かい合うように入口側の椅子に二階堂が座った。小松原は横の小さな机で調書をとるために座っている。壁の小さなマジックミラーが、誰かに覗かれているようで気味悪かった。
二階堂は手を組み、武志の顔を覗き込むように見つめた。
「緊張しているか」
「大丈夫です」
二階堂はうなずくと、手元のレコーダーの録音ボタンを押した。それが武志の心を余計に不安にさせた。
「まずは本人確認をしましょうか。三木武志くん、私立玄徳学園に通う高校二年生。十六歳。間違いありますか」
二階堂の敬語は至って形式的だったが、不思議と不自然ではなかった。武志は首を横に振った。
「声に出して」
「間違いないです」
二階堂は小さくうなずいた。
「じゃあ、事件当時のことについてお伺いします。暴力団員たちがやってきたとき、君はどこで何をしていましたか」
「道場で父と祖父と一緒にいました」
「それから」
「…それから、母の悲鳴を聞き、駆けつけると暴力団員たちが大勢いて、乱闘になりました」
「人数は何人ぐらいでしたか」
「二十人…ぐらいだったと思います」
「その時に、君はどうしましたか」
武志は一瞬返答を躊躇ったが、平静を装い「木刀で応戦しました」と言った。
二階堂は「ほう、木刀ねえ」と訝しむように顎を摩る。
「その時の状況を詳しく聞かせてもらえますか」
武志は、剛志と二人で玄関を防いでいたこと、何人かが入り銃声が聞こえたことなどを話し、駆けつけた時には既に母が殺され、死に物狂いで戦ったと話した。
二階堂はゆっくりと首を縦に振っていたが、その顔は納得していないようだった。
「君は木刀で応戦したと証言しましたね。だがおかしいのは、暴力団員たちの中には、明らかに木刀ではつかない傷があるものがいたことです。それも大勢。どうしてですか」
二階堂の的を射た質問に武志は言葉を失った。
「どうしました。顔色が悪いですよ。何か心あたりでもあるのですか」
「いえ。わかりません…夢中で戦ったので覚えていませんが、もしかしたら僕か父が殴ったのかもしれません」
二階堂と小松原が目配せした。
「殴る…私がそのような言葉を使いましたか。私は『木刀では付かない傷』と言ったんですが。誰かが殴るところを見たのですか」
二階堂の目が怪しくぎらつく。武志の肩は小刻みに震えだした。
「……分かりません。覚えてないです。僕は、気が動転していたので」
武志自身、自分の挙動が不自然だというのは分かっていた。だがどうしても二階堂の目を見つめ返すことができない。それどころか唇が乾燥して、粘度の高い唾液のせいで上手く喋れない。
「…そうですか。じゃあ、暴力団員が刺殺されていたことについて、何か知っていますか」
そう聞いて武志は考えた。ここで正直に知っていると答えれば、次は誰がやったか聞かれ、凶器を聞かれる。だが日本刀だと答えればそれが一体どこに消えたのかという問題になる。だが知らないと答えるのはどう考えても不自然だ。
「え…」
やっと武志が口にした言葉はこれだけだった。
「もう一度言います。暴力団員が三人刺殺されました。だが凶器がない。まあ死体は科捜研で司法解剖しているところだろうから、凶器が割り出されるのも時間の問題だろう。ただ、その凶器がどこにもない。どういうことだ」
二階堂が身を乗り出した。彼の目は武志を捉えて離さない。
「知りません…」
二階堂は間を置いて言った。
「実を言うとこちらは、君が刺したんじゃないかと見ているんだが」
「違う!」
武志は声を荒げていた。立ち上がり、威嚇するように睨んだが、二階堂は冷たい眼差しでそれを制しただけだった。
「事件直後で気が動転しているようだ。コマ、今日はここまでにしよう」
小松原がうなずくと、二階堂はレコーダーを切った。
「戻っていいぞ」
武志を一瞥し、冷たく言い放った。武志が呆然としていると「まだ続けたいか」と今度は語気が強まった。
武志は苦悶の表情を浮かべたまま、何も言わずに部屋を後にした。
15
取り調べが終わると、小松原と二階堂は廊下の自動販売機の前で一服した。相変わらず二階堂は美味そうにタバコを吸う。
「武志くんって言いましたっけ。あの子、随分と様子がおかしかったですね」
缶コーヒーを自販機から取り出す小松原に対し、二階堂は「ああ」とうなずいた。
「あいつは間違いなく何か隠しているな。まあ、俺たちが取り調べできたのもあれで終わりだ。あとは本店のやつらが追い込みをかけるだろ」
「それにしても取り調べ、随分と攻めましたね。二階堂さんがカマかけた時、あの子の目の色が変わりましたよ」
「そうだったかな…」
二階堂はタバコを口から話すと、深く息を吐いた。
「だが本店にいた頃はもっと攻撃的だった。ヤクザ相手に本気で殴りかけたこともあったわな。そんなことよりも」
二階堂はタバコを灰皿に押し潰すと、備え付けられている椅子に腰を下ろした。
「捜査本部が開設された。俺たちが集めた情報が全部かき集められる」
「ええ」
小松原は訝しげに眉を顰め、コーヒーを啜る。
「それと同時に情報を共有できる。これがどういう意味を持つかわかるか」
「なんですか」
「つまり、八年前の事件との関連性を導き出せるかもしれん。本店の情報にアクセスできれば」
「何言ってるんですか二階堂さん。今はそれどころじゃないでしょう。八年前の事件のことは暫く保留にするしかない」
二階堂は大きくため息をついた。
「お前はヤクザの死体を見てねえのか。あれは人間の仕業だ。だが普通の人間じゃない。八年前の犯人と同じ、怪物だ」
小松原は息を飲んだ。
「これはあくまでも仮定だがな、八年前の殺し屋が関与していて、今回の騒動の時にひと暴れして逃げたとすると、全部辻褄が合うんだ。そうでなけりゃ、たとえ腕っ節の良い親子でも、暴力団員十七人を相手に無傷で済むはずがないんだ」
小松原は苦い表情のままうなずいたが、どうしても納得いかなかった。
「ですが、もしそうだとしても、なぜ武志くんはそいつを庇うような供述をしたんですか。それにあの現場に乱入して、あの家族を助けた意味が分からない。人を殺すほどのリスクを冒す意味があったんでしょうか」
床の一点を見つめていた二階堂の視線がゆっくりと小松原へと上がっていく。
「家族を助けるためじゃなく、組員を殺すため、だったとしたらどうだ」
小松原の眉が寄る。
「どういうことです」
「そいつが昔の仲間に大きな恨みを抱いていて、殺そうとしているんだとしたら分からないこともねえぞ。それにあのガキを脅して嘘の供述をさせることなんざ、きっとやつにはたやすいはずだ」
小松原は背筋が寒くなった。二階堂の感の鋭さに尊敬と同時に恐怖を覚えた。
「やっぱり、八年前の犯人は今も生きていたんだ…」
その時、遠くから廊下を硬い靴が叩く音がした。見ると本店の警察官らしき男女が三人で歩いてくるところだった。二階堂は彼らに見覚えがあるのか、じっと睨んでいる。
「あれぇ、二階堂さん。飛ばされたのってここだったんですか」
一番若い刑事がつかつかと歩み寄ってきた。二階堂は立ち上がる。
「乾…」
「お知り合いですか」
小松原が耳打ちすると二階堂は小さくうなずいた。
「鬼の二階堂さんが所轄とは、驚きましたよ」
「やめなさい乾くん。すみません」
そう言ったのはまだ若い女だ。見た目は二十代後半から三十代前半。若作りしているとしても四十代には満たないだろう。なかなかの美人で頭もよさそうだ。
「以前府警にいらっしゃったと彼らから聞いています。私は今回の事件で捜査官を務めさせていただく、烏丸と申します」
捜査官といえば捜査全体を取り仕切るトップだ。普通なら上層部の年配者がするものだが、今回はこの女がするというのだ。すなわちかなりのエリートなのだろう。
「マル暴の二階堂だ」
「同じく小松原です」
小松原は敬礼したが二階堂は何もしなかった。その態度に烏丸の細い眉が寄った。
「年下に敬語は使いませんか」
二階堂は目を尖らせて笑った。
「いや、悪いが女に敬語は使わない主義なんでね」
烏丸はあからさまに顔をしかめた。
「このご時世に男女差別ですか。考え方が古いようですね。私は女ですが、この班の主任です」
「待て。柳川じゃなく、あんたが主任なのか…。それに班員がもう一人足りないようだが」
上目づかいに烏丸が笑う。
「特例で、この三人で第一係を任せられました。足手まといが無い分、捜査もスムーズになるという上の方針みたいですよ」
二階堂は鼻で笑うと、鋭く烏丸を睨みつけた。
「ふざけるな。エリート気取ってんじゃねえぞ、女が。マル暴はデスクワークじゃねえんだ。あんたは椅子に座って資料の整理でもしてろ」
「口を慎め」
そう言ったのは烏丸の後ろの男だ。
「ヤナ、元気そうだな」
「悪いがお前と馴れ合うことはもう二度とない。本店の面汚しめ」
「なんだと!」
「落ち着いて下さい」
小松原が押さえつけたが、すぐにふり払われた。
「ヤナ!乾!お前らはいつからこの女の犬になったんだ!マル暴のプライドを忘れたのか!警察はサラリーマンじゃねえ!肩書よりも足で勝負するもんだろうが!」
「やめなさい」
烏丸が冷たく制した。
「二階堂刑事、立場を弁えなさい。過去に本店の人間だったとしても、今のあなたは所轄の人間です。所轄は所轄の仕事をしておきなさい」
二階堂はぎりぎりと歯を噛みしめた。
「行くわよ」
そう言った烏丸を先頭に柳川と乾が続く。すれ違いざまに乾が二階堂に耳打ちした。
「犬になったのは、あなたの方ですよ」
二階堂は苦しそうに顔を歪め、ただ足元に視線を落としていた。
三人が見えなくなると、呆然と立ちすくむ小松原に二階堂が呟いた。
「あれは俺のここへ来る前の仲間だ」
二階堂の表情は硬く、ケースからタバコを取り出す手もおぼつかなかった。
「仲間が一人殉職したって言ったよな」
「ええ…」
「そのあとに俺はここへ飛ばされた。理由は…多分俺が被疑者に情報を売ったってことなってるだろう」
「どういうことですか」
二階堂の顔が険しくなり、言葉を選びながら続けた。
「確かに俺は裏に情報ルートがある。そこから容疑者を探したり、裏を取ることもあった。だが、寝返って仲間を殺させたりはしない。それに、もし俺が情報を売ったっていう結論を上が下したとしたら」
「東山署に飛ばされるだけで済むはずがない、ですよね」
二階堂は力なくうなずくとさらに続けた。
「だとすると、俺はどうしてここへ飛ばされたんだ」
二階堂は調子が戻ってきたのか、タバコを指に挟みながら顎髭を摩った。
「他に理由がありそうですね。何か思い当たる節はないんですか」
二階堂は目を閉じ、深く考えていたが、「あっ」と目を開けた。
「俺はここへ来たとき、いきなり八年前の事件の再捜査に当たらされた。そうだ、八年前の事件を調べるにはここへ降りてくる方が都合がよかった。それに、俺は当時捜査していて勘が働く」
「じゃあ、上の人間がそれを見越して、二階堂さんをここへ寄越したというんですか」
「いや待て」
二階堂は眉間を人差し指の節で押さえながら、何か考えている。
「事件の捜査をさせるなら俺の他にも柳川だって必要だろう。くそう!あと少し出かかっているのに」
「落ち着いて下さい。ゆっくり考えましょう」
小松原は二階堂を椅子に座らせ、その横に腰を下ろした。二階堂は何度も唸っていたが、ゆっくりと顔を上げた。
「おかしいぜ、コマ。もし今回の事件の立役者が八年前の犯人と同じだとしたら、いくらなんでもタイミングが良すぎやしないか…」
小松原ははっとした。八年の間を空けての捜査だというのに、このタイミングで動き出したというのは二階堂が移動してきたことと、何らかの繋がりがあるのかもしれない。
「僕らが捜査を始めてからまだ一か月もたっていない。それに、あと二か月と少しで時効になるこのタイミングで、こんなことをするなんて不自然だ。まるでそれを狙っているみたいですね…」
気味の悪い汗が小松原の脇の下からシャツを濡らす。
「連続殺人犯が時効まで待たずに、直前で勝負に出た。そうなれば考えられることは一つだ。やつは自分の全てを賭けている。もしこれが本当に復讐だとしたら、必ずまた組員の誰が殺される」
二人は顔を見合わせた。お互いに恐怖と緊張のあまりに顔が強張っていた。
「なら早く上にそのことを知らせないと」
そう言って立ち上がりかけた小松原の袖を二階堂が乱暴に掴んだ。
「待て。俺を嵌めてここへ飛ばしたやつらだぞ。もし何らかの策略があるならば、上層部と神坂組は繋がっているかもしれん。簡単に情報を預けるのは危険だ」
「なら一体どうしろと言うんですか」
二階堂は渋っていたが、ついに決心を固めたようだった。
「俺たちだけで独自に捜査する」
そう言った二階堂の目には、紛れもなく硬い意思が宿っていた。
「危険すぎやしませんか…」
二階堂は立ち上がると、小松原の肩を軽く叩いた。
「どのみち危険だ。それに、このままあの化け物を泳がせておくよりはよほどマシだ」
僅かにうなずいた小松原は苦しそうに笑った。
「だったら、あの家族を本店に引き渡す前に、もう一度聴取しましょう。時間はまだ少しだけあります」
二階堂がうなずいたとき、廊下の向こう側から血相を変えた秋山が走ってきた。
「大変だ!彼が、武志くんの姿が無い!」
16
武志は東山署から数十メートル離れた道でタクシーを拾った。手元には満足な金額はなかったが、それでも今は構っていられない。
正面玄関を突破するときはどうなることかと焦ったが、ケータイで電話をするふりをしながら、怪しまれることなく抜け出すことに成功した。報道陣関係者と思しき男たちが数人いたが、それもうつむきながらなんとか誤魔化せた。それよりも武志が注意していたのは神坂組の誰かがいないかということだったが、今のところそれらしい男はいない。
タクシーに乗り込むと、武志は影虎から渡された紙切れの住所を見せた。運転手はくしゃくしゃのそれを訝しげに見ながらカーナビに打ち込んでいく。
――早くしろ。急がないと――
車は静かに発進した。運転手は暫く黙っていたが、ちらちらとフロントミラー越しに武志を見てくる。
「お客さん、何をしにここまで?」
緊張で会話をする余裕などなかったが、返さないのも不自然だと武志は素っ気なく返事した。
「この住所まで」
「ここは龍門寺というお寺みたいですが、お客さん、今日は学校は休みですか」
詮索されることを恐れ、武志は何も言わず外の景色を眺めていた。淡々と流れる京都の風景はビルや家屋が立ち並ぶどこにでもある風景だ。今日は日差しが強くて眩しかった。
武志は何度か後ろを振り返った。尾行されているか気がかりだったが、どうやらその心配はないらしい。見るたびに後ろの車が変わっている。
十数分後、タクシーは徐々に入り組んだ道に入り、大きな門の前で停車した。
武志は料金をどうにか払うと、人目を気にしながらその閉ざされた門の前へ立った。青銅製だろうか、くすんだ蒼い門は細やかな彫刻が施してあり、見上げると屋根の下に一頭の由々しい龍の像が泳いでいる。これがこの寺の名の由来なのだろう。それにしても巨大な門だ。その門の脇に貼られた古びた紙には「厳格な寺院につき、何人も許可なき立ち入りを禁ず」と書かれている。後ろを見ると、いつの間にかタクシーは消えていた。
躊躇ったが、武志はその門を開けようと力強く前へ押した。
「そこじゃない」
いきなり声をかけられて武志の胆がひやりとした。横を見ると、門に備え付けられた小さな木戸から、あの男が顔を覗かせていた。
いつ見ても厳つい顔だ。何度見ても背筋が冷たくなる。
「中へ入れ。安全だ」
声に促されるまま木戸をくぐると、中は想像以上に広く、武志は目を丸くした。大きな公園ほどの広さはあろうかという広場に砂利が敷き詰められ、それを取り囲むように松の木が並んでいる。さらに奥には古びた本堂がある。外からは全く見えなかったが、瓦屋根のそれはかなり大きいだろう。その本堂の脇に小さく見えるのが倉庫のようだ。
松の木も足元の砂利もきっちりと手入れがされているのに、どういうわけか他の僧侶は見当たらない。
「本当に待っていてくれたんですね」
影虎は振り返らず、黙って前を歩いていく。
「ここには誰が住んでいるんですか」
ちらりと振り返り、影虎は応えた。
「俺以外に、朱鷺という住職が一人いる」
第三章 襲来
25
神坂組組長、安岡大力はどっかりと椅子に腰かけて葉巻をふかしていた。
大柄な男で腹が前に突き出している。高級な和服を着てピカピカの革靴を履いている。顔中に濃い縦皺が刻まれ、ロングの黒髪はポマードでオールバックに撫で付けてある。見るからに危険な風貌だ。まさにヤクザのドンといった感じだ。
「おい」
安岡は葉巻の先で近くにいた男を呼んだ。
「はい」
180センチほどの男は安岡の正面に立った。金縁の眼鏡をかけていて頬に切り傷がある。スーツを着こなしているが、その首筋には服に隠れきれなかった刺青がはみ出している。
「右近、刀の行方はまだわからないのか」
「申し訳ありません。若衆が必死に捜索しているので、見つかるのも時間の問題だと思われます」
右近と呼ばれた男は頭を下げた。
安岡は軽くうなずくと、手を組み眠るように目を閉じた。だが実際は眠ってなどいない。これが彼の一番落ち着く体制なのだ。
右近は海斗の次のボディガードだ。
彼は細身だが相当な豪腕だ。幼い頃から総合格闘技を学び、頭もきれる。そして彼は拳銃の扱いが人知を超えているのだ。組員からは次期組長と囁かれている。
右近は顔を上げると部屋に備え付けてあるパソコンの前に座った。新しいメールが来ている。確認してみたが、どれも有力な情報とは言えない。場所を特定する有力な手がかりがないのだ。
その時、外の部屋から騒ぎ声が聞こえた。
安岡は苛立たしげに身を起こすと「黙らせろ」と言った。
「見てきます」
右近は部屋のドアを開け、向こうの部屋に移った。
「一体何の騒ぎだ」
するとひとりが慌てて駆け寄ってきた。
「右近さん!三島が、三島龍二が帰ってきたんです!」
「何だと?」
三島は例の抗争の時に警察に逮捕され、今は警察病院にいると聞いた。
「三島はこの前サツにパクられただろう」
「でもあんさん、現に表に三島がいるんですよ!」
右近は男を押しのけると外へ急いだ。
(あの時現場にいた三島が本当に戻ってきたとしたら、これは有力な手がかりを得られるに違いない!)
神坂組の雑居ビルを出ると、一点を取り囲むように男たちがいた。
「俺だ!お前らそこを退け」
男たちは右近を見ると慌てて左右にどいた。右目が完全に潰れてはいるが、そこにいたのは間違いなく三島龍二だった。
「三島、その怪我どうした」
「包帯が邪魔だったんで捨ててきてやりましたよ!」
右近は辺りを見回した。
「ここじゃなんだ。とりあえず中には入れ」
「そんなことより…あんさん。龍門寺海斗が生きていました」
右近は息を呑んだ。
「…とりあえず中へ来い。組長の前で話すんだ」
「龍門寺影虎」という名を右近から聞くなり、安岡は顔を強ばらせた。右近の隣にいる三島が先日の衝突の一部始終を話している間、安岡の顔は強ばったままほんの少しも動かなかった。
(龍門寺海斗…あいつは殺したはずだ…)
安岡は八年前のことを思い出していた。
高杉会と衝突したとき、高杉会の組員が神坂組から一枚のSDカードを盗み出した。そのSDには神坂組が今までに沈めてきた一般人の詳細が記されていた。借金に溺れて最終的に臓器提供を強要されて殺された者や、組を脱退しようとして殺された者の他にも、大物政治家から依頼された、国会議員暗殺のデータも含まれていた。安岡は影虎を使って高杉会のその男を徹底的に追わせて、最終的に銃殺させ、高杉会は姿を消した。SDカードも回収し、全てが幕を閉じたようだったが、安岡には最後にすることがあった。
SDカードを回収した影虎を保険のために殺しておくことだ。
安岡が知っている限り影虎は、組員にバラバラにされた後、大阪湾にコンクリートで沈められたはずなのだ。それを実行したはずの男はちょうどその頃に姿を消している。高杉会の残党に殺されたと聞かされていたが、ちゃんと確かめたわけではない。
安岡は直感し、全身に鳥肌が立った。
――バラバラにされて沈められたのは、海斗ではなくあの組員の方だったのだ――
事件の末路を知るのはこの世に安岡と影虎だけだ。
――海斗さえ消せば全てが丸く収まる。いや、やつを消さなければ自分の命がどうなるかわからない。あいつは間違いなく俺を恨んでいる。実の母親を殺させたこの俺を――
「右近」
「はい」
「黒鉄景光は必ず奪い返せ。それから、龍門寺海斗は今すぐ見つけ出して始末しろ」
新しい葉巻を取り出そうとした安岡の手は小刻みに震えていた。
26
武志は目の前の光景を見て息を呑んだ。総勢二百人以上の厳つい男たちが、バイクに跨りこちらを凝視しているからだ。
龍門寺の前に集まったビーストのメンバーは表通りを完全に陣取っていた。それぞれ煌びやかな装飾が施された大型のバイクに跨り、静かにこちらを見つめている。年齢はバラバラだ。中年もいれば武志より若い者もいる。全員が真っ白の特攻服に身を包み、「京都暴狂連盟野獣」とか益荒男魂」という幟を掲げている者もいる。異様な光景だ。
ビーストのメンバーが一挙に集結したわけだが、それをまとめるはずの原田の姿がないために武志はかなり慌てていた。山内ははっきり言ってあてにならない。
その時、大型のトラックが彼らの後方からやってきた。
「頭領!」
男たちは口々に叫ぶと、原田のトラックのために道をあけた。
原田はトラックを先頭に停めると、武志の横に歩み寄ってきた。原田も特攻服姿だった。
「お前らァ!」
一瞬にして水を打ったように空気が張りつめた。これがビースト会長原田真之介の存在の大きさだ。原田は満足そうに笑うと彼らを見渡した。
「これは戦争だ。敵は神坂組って暴力団。神坂組はこのガキのなんだっけ…とりあえず刀を狙っている。お前らにはその刀を死守してほしい。このガキは前会長、龍門寺大先生の大切なご友人だ。死んでも守って欲しい」
「神坂組なんか怖くないぜ!」
一人が叫ぶと一斉に歓声が沸き起こった。原田は右手を掲げそれを静めた。
「今から向かうは初代会長、巳六權水先生の邸宅だ。そこまで逃げ切るんだ。組の連中は仲間を何人か殺されて相当苛立ってる!死ぬ覚悟をしてくれ」
武志は鳥肌が立った。多分この中からも死者が出るだろう。自分や黒鉄景光の為に…。
横にいる桜田が心配そうに武志を見つめた。だが武志は彼女の視線を視界の端で認識しつつも、その顔を見返すことはできなかった。
一方ビーストの面々は、不気味なほどニヤニヤ笑っていた。
「命なんか惜しくねえ!俺らはただ金と名誉が欲しい!なあみんな」
前にいたスキンヘッドの男がそう言うと、その後ろからも歓声が沸き起こった。
原田は声を上げて笑うと満足げにうなずいた。
「よし!それでこそ京都暴狂連盟の看板を背負ってる男たちだ。今から拳銃を渡す。アメリカ製のエミリーだ。だが覚えとけ。敵だろうと人を殺すとムショから出てこれねえぞ!さあ、思う存分暴れようぜ!」
一斉に歓声が沸き起こり、原田は満足げに舌を出して笑った。
全員に拳銃が手渡されると原田は武志たちの所に戻ってきた。
「ほら、お前らも持っておけ」
ずしりと重い感触が武志の手に触れた。桜田は恐怖心に顔を歪ませた。無理もない、目の前に殺人兵器があるのだ。
「普通の女子高生に拳銃は良くなかったな。ねーちゃん、あんたはブーとトラックに乗れ。バイクよりは安全だろう。それから武志、その刀は俺が持っておく」
武志は腰の黒鉄景光に手をやった。
「いや、こいつは俺が持っておきます。死んだ爺さんの形見だ。命を賭けても自分で守りたいんだ」
「だがそいつを持ってる限り、神坂組から狙われ続けることになるぞ。香川までは遠い。本当に大丈夫か?」
原田は心配そうだった。
「それでも俺はこいつを守りたい」
武志は原田を真っ直ぐに見つめ返すとはっきりそう言った。それを見て原田もうなずいた。
「わかった。俺が先頭で突っ走るからお前は常に俺の後ろについておけ。香川までノンストップで行くぞ」
そう言うと原田は山内に目で合図を送った。山内はうなずくとトラックの運転席に乗り込んだ。
「ねーちゃん早くしろ。みんなを待たせるな」
桜田は心配そうに武志を見つめた。その視線が武志の心を熱くさせた。
「大丈夫だって。そんな顔するなよ」
笑おうとしたが顔が不自然に歪んだだけだった。桜田はそのまま原田に急かされて山内の隣の席に乗り込んだ。
「荷台からバイクを出す。手伝え」
原田は武志を連れてトラックの後部に回り込んだ。
それからトラックの荷台を開けた。中には左右に軍隊が使うような武器や弾薬が所狭しと積まれていた。その真ん中の一番奥に原田のバイクがあった。青を基調としている。
「おい、グズグズすんな」
原田に呼ばれ武志は慌てて荷台に乗り込んだ。
「こんな武器や弾薬、ブーさんが一人で?」
「そうだ。持っていきたいのがあるなら遠慮するなよ。このトラックは動く武器庫だ。こいつさえあればビビるこたぁねえ。ほら、持ち上げろ」
二人は原田のバイクを外に出した。車体が太陽に反射し眩しく輝いた。よく見ると、足元にアクセルのようなものがついている。普通バイクはハンドルにアクセルがついているから、これはおかしなことだった。
「何見てんだ。もたもたすんじゃねえ。早くてめぇのバイクに乗れ」
武志は慌てて自分のバイクに跨った。
「それから」
原田は武志に何か投げてきた。受け取るとずしりと重い服のようだった。
「防弾チョッキだ」
そう言って彼は白い歯を覗かせた。
「ありがとう!」
「和尚さんと小僧さんたちは寺に残るそうだ。お前の両親は途中のどこかに安全なところに下ろしていく。それまでは後ろのジャガーで移動だ。獅子頭とかいうやつは使えそうだから香川まで来てもらう」
「わかった」
原田はうなずくと右手を空へ振り上げた。
「さあ、俺についてこい!」
原田のバイクが轟音を立てて走り出した。
27
28
その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。
一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。
――何なんだあいつは。人間じゃない――
武志は自分の
武志の目は憤怒に血走っていた。
「お前ら…全員殺してやる…」
十人以上いる男たちの中に飛び込もうと、思いきり床を蹴った。
その時だった。
誰かが武志の肩を強く引いた。
振り向くと、自分より遥かに大きい男が立っていた。少なくとも2メートルはあるだろう。
スキンヘッドで黒いタンクトップを着、その逞しい両腕には黒い蛇がそれぞれ彫られている。
彫りが深い顔は目元が陰になっており、彼の威圧感を増幅させている。頬は肉が薄く鼻が高い。日本人らしからぬ顔立ちだ。武志は直感的に生命の危機を感じた。一瞬自分を殺しに来たと思ったのだ。
だが違った。武志はこの男のことを覚えていた。
「…龍門寺影虎」
そう。三年前に父、剛志に勝ってふらりといなくなった男だ。
「小僧、俺が隙を作る間にご老体を助け出せ」
影虎の声は不気味なほど落ち着いていた。
敵の暴力団員たちの空気が一気に張り詰めた。武志は誰かが「イノウエ」と囁いたのを聞いた気がした。
影虎は武志の肩から手を離すと、勢い良く男たちの中に飛び込んだ。
彼の戦い方は豪快だった。
その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。
一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。
――何なんだあいつは。人間じゃない――
「小僧!早くしろ!」
影虎が叫ぶと、武志は自分のすべきことを思い出した。影虎が敵を寄せ付けないようにしていたおかげで、雅志に駆け寄ることができた。
雅志の手はしっかりと黒鉄景光を握っていたが、既に本来の温もりは消えかけていた。
武志は雅志を背負うと逃げるように稽古場を後にした。
瞼の隙間からぼんやりと光が差して、それが徐々に強くなった。
眩しいけど、ここはさっきの場所じゃない。体が暖かい。息もできる。俺は確かに生きている。
焦点が定まると、真っ先に輸血袋が見えた。一本の赤い管が伸びていて、俺の体に繋がれているらしい。壁の時計を見ると十一時前だった。あれから五時間も眠っていたのだと思うと不思議な感じがする。体中が汗でべたつく。ベッドに寝かされていると分かり、すぐに病院にいると認識した。
俺は生きている。でも、なんで――。
体を起こそうとすると激しく左腕が痛んだ。
「大丈夫か、武志」
そう言って覗き込んできた顔を見てぞっとした。
「親父…」
親父は安心したように息を吐いた。
「無事で良かった」
親父の横を見るとお袋が涙ぐんでいた。そっと俺の右手を握っている。
左手を見ると包帯が何重にも巻かれていて、肩の近くに輸血の為の針が刺さっている。正直言って気持ち悪かった。
「君のお母さんがO型で本当に良かった」
見ると、白衣を着た中年の医者が立っていた。
「輸血が遅れたら大量出血で死んでしまうところだったよ。傷口が動脈をわずかに逸れていたから助かったものの、あと1センチずれていれば君は確実に死んでいた。お母さんに感謝しなさい」
お袋は心なしか疲れているようだった。俺はどうしていいか分からず、ぎこちなく会釈するしかできなかった。
「いいのよ。親子だもの」
そう言ったお袋は、心の底から安心したように俺を見つめてくる。だが俺にとってはそれが不気味で仕方ない。
医者が病室をあとにすると、親父が深々と頭を下げてきた。
「武志、今までお前の本当の親のことを黙っていて、本当にすまなかった」
いいんだ。なんて、言えるわけがない。
お袋は悲しそうな顔で俺の顔を見つめてくる。その目が何を訴えているのかは分からないが、俺はこの二人にどう接すればいいかを必死に考えていた。俺が突き放すかどうかで、この人たちの明暗が分かれる。でも何故だかどっちに転んでもいいような気さえする。俺が優しくすれば以前と同じような日々が続くだろうが、それは上辺だけのもので、要は家族ごっこだ。逆に冷たくあしらえば、俺の胸はすくかもしれないが、人間関係は崩壊するだろう。まあどちらにせよ、もう修復は不可能だろう。
「俺の本当の親のことを教えて」
結局許す許さないを選ぶことはできなかった。親父は言いにくそうにしていたが、絞り出すような声で続けた。
「お前の父親の名前は草刈一。警察官だった。でもある事件を捜査していた時に、自宅で奥さんの陽子さんと一緒に殺害された。お前は現場に居合わせたが奇跡的に無事だった。草刈と陽子さんは駆け落ち結婚だったらしく、親はおろか親戚とも連絡の手段がなかった。残されたお前は引き取り手が現れない限り、児童保護施設に入る予定だったが、わしが申請してお前がここの子になった。かいつまんで説明するとこうなる」
親父の説明は確かに理にかなってはいる。が、頭では理解できても心がついていかない。それにこの話、さっき俺が見た夢をなぞるような内容だ。俺の本当の両親が何者かに殺されたなんて、不気味で仕方がない話だ。
もし二人が生きていたのなら、俺はもっと違う人生を歩んでいたのだろうか。こうやって苦しまずに済んだのだろうか…。
「わしと草刈は高校の時に剣道部で同じだった。あいつは真面目で、いいやつだった」
親父の険しかった目が、わずかに優しくなったような気がした。
「じゃあ草刈さんが殺された事件っていうのは」
言いにくそうにしている親父が今は腹立たしかった。俺のために言うべきか躊躇っているのかもしれないが、これ以上何かを隠されるのはごめんだ。
「親父」
「ああ…。十六年前のことだ。舞鶴辺りに連続殺人犯が潜伏しているという情報があって、捜査に乗り出して暫くしてから草刈は殺された。ちなみに犯人はまだ捕まっていないらしい」
犯人がまだ捕まっていないという事実も興味深かったが、それ以上に確認すべきことがある。
「犯人はどうやって二人を殺したんだ」
呼吸も躊躇われるような深い沈黙があったが、俺は自らそれを破った。
「頭を胴体から外されて、か」
核心を突かれ、親父の目が見開いた。答えを聞かなくてもそれが答えだった。
間違いない。あの夢は現実だ。
いや。そもそもあれは夢だったのか。夢にしては鮮烈過ぎる。きっとあれはもう一人の、今の俺に隠れている自分からのメッセージだ。だとすれば、俺がすることは何だ。
その時俺の頭の片隅に「革命児」という文字が浮かび上がった。
そうか…。あの声もそう言っていた。なら、俺はその犯人を見つけ出すべきなのか。俺の親を殺したやつを見つけ出して、そのあとは。
そのあとは――。
もう人を傷つけるのはごめんだ。こうやって俺がここにいる今、詩織さんはどうしているのだろうか。あの人は生きているのだろうか。いや、生きていてくれ。そうじゃないと、俺は人殺しだ。そんな闇を背負って生きていけるほど俺は強くない。もう自分がどうすればいいのかわからない。こうやって悩んでいる時間もきっと今の俺にはないんだ。何かすべきことが必ずある。それを見つけ出さないと。早くしないと――。
「親父、俺はその犯人を見つける」
「見つけてどうするんだ」
親父の目は真剣で、じっと俺を見つめてくる。
「それはまだわからない。でも見つける」
親父は呆れたように息を吐いた。
「お前のそういうところ、草刈にそっくりだ。だからこのことをお前にだけは言いたくなかったんだ」
9
平日の午後、二人の男が東山の繁華街を歩いていた。時間の割に営業中の店や通行人は多い。空には昨日の雨が嘘のように太陽が燦然と輝いている。
「暑いですね」
小松原は隣を歩く二階堂に目をやった。自分より若干背は低いが、社会の裏の全てを知り尽くしているかのような貫禄がある。
「まだ、四月だってぇのになあ」
二階堂は吸い終わったタバコを火も消さずに道端に放り投げた。
「ちょっと、ダメですよ」
小松原は慌ててそれを拾った。だが二階堂は謝るでもなく先を歩いていく。小松原は二階堂の背中を見つめて小さく溜め息を漏らした。これで何度目だろう、二階堂のタバコの処理をするのは。本当にこの人が刑事なのだろうか。
と、二階堂はいきなり立ち止まった。
「コマ…あれを見ろ」
「何ですか」
二階堂の視線の先を見ると、和柄の服を着た男が二人、怪しげな雑居ビルの地下に入っていくところだった。
「もしかしてマル暴ですか」
「間違いない。あの雑居ビルの地下にはモグラがいる。もしかしたらやつらはモグラに会いに行ったのかもしれねえ」
「モグラ」というのはもちろん動物ではなく人間のことだ。小松原は既に二階堂から「モグラ」についての説明は受けていた。神坂組の下で武器の裏販売をしている中国人のことだ。常に地下にいて、まず地上に姿を見せないことから二階堂が勝手にそう呼んでいる。今回二人はその通称モグラという武器商人に会いに来たのだ。理由はもちろん八年前の事件について聞くためだ。
「あいつらが出てくるまでは様子見だ。そこの喫茶店で様子を伺うぞ」
「はい」
二人はすぐ横にあった喫茶店に入った。するといきなり「いらっしゃいませご主人様!萌え萌えキュンキュン」とメイド服を着た若い女が出迎えた。
「二階堂さん、どうやらここメイド喫茶みたいですね。どうしますか」
「メイドだ?メイドってあの冥土の土産の冥土か」
どうやら二階堂はメイド喫茶というものを全く知らないらしい。
「冥土だろうと賽の河原だろうと今は関係ねえ。おいねえちゃん、そこの窓際の席に座らせてもらうぜ」
そう言うと二階堂は窓際の席につかつかと歩いていき、どっかりと腰を下ろした。小松原はメイド服の女に申し訳なさそうに会釈すると、慌てて二階堂と向かい合う席に座った。
「コマ、あいつらが出てくるまで絶対に目を離すなよ」
二階堂は外の雑居ビルをじっと見つめている。目を離すなと言われても小松原の席からは反対方向で振り向かないと見ることができない。
「はい。ところで二階堂さんはどうしてモグラのことを知ってるんですか。明らかに違法の店ですよね。まさか、警察上層部が黙認してるんじゃないですよね」
二階堂は小松原が喋っている途中から面倒くさそうな顔になっていた。
「まさか。モグラの存在を知ってるのはマル暴担当でも俺だけのはずだ。おい、ちゃんと見とけ」
小松原は慌てて雑居ビルを見るために振り返った。
「はい。で、モグラは検挙しなくていいんですか。放っておけば武器が平気で街中に出回りますよ」
二階堂は小松原をバカにしたように鼻を鳴らした。
「そのモグラが逮捕されりゃあ、せっかくの裏の情報の仕入先がなくなるだろ。そうなれば俺たちの仕事もなくなるぜ」
「そういう捜査ってよくするんですか」
二階堂が面倒くさそうに口を開きかけたその時、注文を取りに先ほどの店員がやってきた。
「ご主人様!注文を取りに来ました。萌え萌え」
二階堂は苛立たしげに大きく舌打ちした。
「おい、ねえちゃん、俺たちは今会話してんだ。勝手に割り込んでくるんじゃねえ」
彼女の表情が一気に曇ったので、小松原は慌てて「コーヒー二つ」と言った。
「お砂糖とミルクはどうなさいますか。も、萌え」
「いえ、結構です」
「かしこまりました。も、も…」
彼女はがっくりと肩を落として去っていった。二階堂は「変な店だなあ」と顔をしかめた。確かに内装は目がチカチカするようなピンク一色で、椅子や机も派手な柄の模様がプリントされている。こういう店に私服とはいえ警官が二人でやってくるのも相当変なのだが。
「コマ、これはひょっとして何かのプレイか?」
「へっ、どうなんでしょう。違うような違わないような…」
「だとしたら違法の可能性があるな。支店に戻ったら確認しとけ」
「わかりました」
と言いつつ小松原は二階堂にバレないように小さく溜め息をついた。
(確認なんてするわけないでしょう。この人は裏社会には詳しくても、表社会にはそんなに詳しくないんだろうか)
運ばれてきたコーヒーを、二階堂は不味そうに飲みながら外の様子を伺った。と、彼の瞳孔が見開かれた。
「やつらが出てきた。意外と早かったな。行くぞ」
二階堂はコーヒーカップを机に置くと立ち上がった。
「ねえちゃん、千円で足りるよな」
二階堂は財布を開いた。しかし小銭しかない。
(やべ、これじゃ後輩の前でカッコつかねえぞ)
だが二階堂は何か思いついたようにニヤリと笑うと、やってきた店員に警察手帳を見せつけた。
「動くな、警察だ!この店は違法だろう。だが今回ばかりは見逃してやる。ありがたく思え。よし行くぞ」
二階堂は唖然とする小松原の胸ぐらを掴むとそのまま店を出た。店員は状況が飲み込めずただ呆然と二人を見送った。
10
モグラの巣穴には骨董品などが置かれていて、所々に布や木箱が置いてあった。昼間なのに中は薄暗く異様な雰囲気だった。
「実はよ」
二階堂は小声で小松原に囁きかけた。
「俺がモグラの存在を知ったのは、捜査を打ち切りにした四年後だった。だからあの時のことをモグラに聞くのは今日が初めてだ。もちろん、今までも何度か会ってるが、大抵他の事件の捜査中だったからよ…」
「じゃあ、もしかするとその時の手がかりが掴めるかもしれませんね」
小松原がそう言った時、店の奥から男の呻くような声が聞こえてきた。二階堂は軽く笑い「モグラめ」と言った。慣れている様子だ。
「おおい、どこにいるんだよ」
二階堂はそう言って声のする物陰を見た。
すると、右手から夥しい量の血を流した初老の男が倒れていた。白髪交じりの髪も髭もボーボーに伸びていて薄汚い服を纏っている。
「おいモグラ!一体何があったんだ」
モグラと呼ばれた男は「血、トメテ」とか細い声で言った。どうやら右手の小指を第二関節から切断されているらしい。小松原は慌ててポケットからハンカチを取り出した。
「これを使って下さい」
二階堂は乱暴にそれをひったくるとビリビリに裂いて、男の指にきつく巻いた。
「コマ、棚に置いてある酒を取ってくれ」
小松原がそのブランデーを二階堂に手渡すと、彼はその酒を勢いよく男の口に流し込んだ。
「痛み止めだ」
男はそれからもしばらく呻いていたが、どうやら血は止まったらしい。十分ほどで喋れるようになった。
「まさか救急車呼んでネィだろな」
「大丈夫、呼ぶわけがない」
男は安心したのか大きく息を吐いた。
「おいモグラ、さっきの男たちにやられたのか」
「いや。指は自分で切っタ。俺がやった責任重イ」
「責任って何だ」
「俺、アンタラに話す筋合いない。それよりアンタラなにしにきたネ」
二階堂は珍しく溜め息をついた。
「助けてやったんだから少しぐらい話してもいいだろう…。そうだ、今日来たのは八年前の事件について聞くためだ」
「ヤクザ殺しか」
男は痛みを堪えならも、数本欠けた歯を剥きだして笑った。小松原はそんな彼を不気味に思った。
「そうだ。俺たちは犯人が2メートルの大男だと特定して捜査したんだが、そんな男を知らなかったか」
男は首を傾げたあと、何か思い出したのか「あっ」と声を上げた。
「いた!確かにタ。名前は忘れたケド、まだほんのガキだったはず…」
二階堂はただの推測が確信に変わり、興奮のあまり顔をピクピクさせた。
「どんなやつだ、詳しく教えてくれ!」
「俺もちょっと見たダケだがいつも組長の近くにいた。でもあいつは人じゃネィ。怪物だ」
男がそう言った時、入口の方から乱暴に車が止まる音がした。
「まずい。オマイら裏口から早く逃げれ!」
男は切羽詰った様子で小声でそう言った。
二階堂はそれが神坂組の車だと直感した。本来、歩行者専用道路に乗用車が入ってくるわけないからだ。
「コマ、急げ!」
小松原は走り出した二階堂の背中を慌てて追いかけた。
12
「どうぞ」
小松原は夕日を見つめている二階堂に缶コーヒーを差し出した。二階堂は珍しく嬉しそうに笑った。
「悪いな」
「いえ」
小松原は二階堂と並ぶように柵に体を預けた。東山署の屋上から見る夕焼けは絶景だ。風も優しい。
コーヒーを口にすると、ほろ苦い味が口全体に広がり、心を落ち着かせた。
二人は「モグラの巣穴」から逃げたしばらく後、再びその場に戻ってきた。しかし、武器商人の男の姿はなく、置いてあった骨董品や木箱なども全て運び去られていた。唯一掴んだ手がかりは、二メートルの大男が実際にいたということ、彼がいつも組長のそばにいたこと、そしてまだ若かったということだけだ。それでも二階堂は「十分大きな手がかりだ」と喜んでいた。
「二階堂さん」
「あのあとモグラは一体どこへ行ったんでしょうか」
二階堂は薄く笑った。夕日を体中に浴びてどこかもの悲しげだった。
「死んだのかもしれねえなあ。裏社会は怖ぇからよ、追求するのはやめておけ」
最後の言葉に小松原は疑問を抱いた。
「…でも、それが僕たちの仕事です。失礼ですが二階堂さんは警察官らしくないですね」
二階堂は顔を小松原の方へ傾けた。じっとこっちを見てはいるが、同時に、自分を通して違うものを見ているような気がした。
二階堂は缶コーヒーを飲み干すと、ほらよ、と小松原に空き缶を渡した。
「…コマ、お前は何で刑事になったんだ」
意表をつかれた。
「えっ。子供の頃からの夢だったからです」
二階堂は「ふうん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「じゃあよ、ここは小松原少年が描いたような、情熱だとか正義だとかに満ちあふれた職場だったか」
小松原は何も言えなかった。子供の頃は正義のために戦う警察官に憧れていたが、今までの仕事を振り返ってみると、普通のサラリーマンのようなことしかしていない。
二階堂は遠くを見て言った。
「俺じゃ上手く言えねえけどよ、警察なんて所詮は国家権力で動いてるただの『庁』なんだ。この世には当然光があって闇がある。俺たちは闇を暴こうとしてるが、考えてもみろ。光と闇があって初めて目に見える。もし光だけになったらよ、眩しくて何も見えなくなるぜ」
二階堂の目は悲しげだった。小松原は息もできずそんな彼を見つめた。
「俺は二十年とちょっと刑事してきて、この社会の裏と表の両方を見てきたつもりだ」
「はい」
「いいか。地球って丸いよな。丸い地球の光が当たってる側を見ると、光が当たってる場所と当たってない場所がある。またよく見ると、影が濃いところと薄いところがあり、光が強いところと弱いところがある。どういうことかわかるか」
小松原はかぶりを振った。
「つまりそれがこの社会だ。光が当たってるような表社会にも実はそうじゃない場所がたくさんある。警察で考えるとわかり易い。正義のために本気で頑張ってるやつもいりゃ、金のために裏で手を汚してるやつもいる。汚ねえ金で私腹を肥やす上層部がいれば、そうじゃない所轄刑事もいるってことだ」
二階堂は若干口元を緩ませた。
「人間一人にしろ、多かれ少なかれ闇の部分はある。だがこの社会を動かす政治家とか警察の上層部は必ずと言っていいほど裏とつながりが深い。それは誰もそれが間違ったことだと教えちゃくれないからだ。自分より上がいないと歯止めが効かなくなる。あとは自分の判断次第ってことだ。いいかコマ、お前は周りがどんな動きを見せても、必ず自分の正義を貫け」
「二階堂さん…」
二階堂は真剣な顔をしていたが、ふっと笑った。
「しけた話しして悪かったな」
「いえ。そんな」
「俺が言いたかったのは、この腐った社会で信じられるのは自分だけだってことだ」
「…はい」
照れくさそうに夕日を見つめる二階堂が眩しかった。失礼だが、初めて二階堂が本物も刑事に見えた。
「たとえ上からの命令でも、自分が間違っていると思えばする必要はないんだぜ。心まで染められたら、自分が本当にしたかったことができなくなっちまうからよ」
そう言って二階堂は、ポケットからタバコを取り出して口に咥えた。
「じゃあ、僕はもう二階堂さんが捨てたタバコは拾いませんよ」
小松原が冗談っぽく笑うと、二階堂は嬉しそうに殴りかかってきた。
「俺の命令だけは特別なんだよ」
小松原は嬉しそうに、その拳を胸に受け止めた。
13
病院で精密検査を受けたが異常は見当たらなかった。
しかし、彼は未だに自分の腕に違和感を抱いていた。不思議な感覚だった。あの試合の時から、右腕に力が漲っているのだ。左腕はいつもどおりというのに、一体どうしたのだろうか。右腕の筋肉に若干の痛みを感じるが、普段よりも軽く感じた。
最近彼は部活を休み続けていた。腕のことが心配だったからだ。
空は怪しげな雲行きで、今にも雨が降りそうだ。上空には夥しい暗雲が立ち込めている。
武志は今日も部活を休んで、家に帰ってきた。
由緒正しい道場だけあり、和風の豪邸だった。ただ、代々伝わる家だけに老朽化が進み、ネズミが住処としていた。
(俺の右腕は何かに取り憑かれているんだ。毎晩激しい電流が体中を駆け巡る。これは物の怪の仕業に違いない!俺の腕が、どんどん蝕まれていく…)
「おい、武志」
彼が縁側を通りかかったとき、一人の男が声をかけてきた。
そのひとことで彼は我に返った。
別段怪しい男ではない。彼の父、三木剛志だ。普段から和服を着て、ここへ来る子供たちに稽古を付けているのだ。今は縁側に座り池の錦鯉を眺めていた。
彼は息子と違いゴツゴツした顔をしていた。身長も168センチと高くはなかったが、剣の腕前は相当なものだった。五十歳を迎えた今でも、それはほとんど衰えていない。普段は優しい父親だが、剣道のこととなると豹変するのだ。
「久しぶりに勝負しないか」
「悪いな親父。前にも話したが、今はそれどころじゃないんだ」
しかし、剛志はむっくりと立ち上がると、道場のある離れへ歩きだした。
仕方なく武志も後に続いた。
彼がこの道場に足を踏み入れたのは久しぶりだった。江戸時代から続くだけあって、床板はボコボコでとても汚れている。だがこの汚れはこすっても落ちるものではなかった。もう床の一部となっているのだ。
武志が幼い頃、何故床を張り替えないのかと聞いたことがある。剛志は、代々伝わるものだから、と答えた。その時武志は「ふうん」と思っただけだったが、今ではそのありがたみがわかる。昔の偉人たちもこの道場をよく利用していたという。
道場の四方向には四神が描かれた掛け軸がある。これも年季ものだ。
東が青龍、西が白虎、南が朱雀、北が玄武だ。
そして、その下にあるのはこの前武志が取り返してきた宝刀黒鉄景光だ。鹿の角の上に置いてある。
「やはり、ここにあると落ち着くな」
剛志はニッと豪快な笑みを彼に投げかけた。
「わしが赤ん坊同然だった時に盗まれてな。それ以来ここには何もなかった。わしも実質これを見たのは初めてだ」
「親父、こんなところに置いておくなんて無防備じゃないか?それに子供だってここに来るんだ」
剛志は腕組みをし、眉間に皺を寄せた。
「だがなぁ、これは代々伝わる格式というか、伝統なんだ。それを覆すことはできない。それにほら、お祖父さんだって毎日ここへ来て黒鉄景光を拝むんだ」
剛志が指さした先には、背の低い仙人のような老人がいた。隅に置いてある花瓶に並んでいたため、武志は彼の存在に気づかなかった。
「げっ。爺さん、いたのかよ」
「ふぉっふぉっふぉ。武志、わしの存在に気づかないとは、まだまだじゃのぅ」
その老人の身長は小学三年生程しかなく、孫と並ぶと危うく蹴られそうになる。
「懐かしいのぉ、この感触」
この一見ハゲ老人、三木雅志は自分の代で黒鉄景光が失われたことで激しく落ち込んでいたのだ。だが、孫の武志がそれを持ち帰ったことで、最近になってよく人生を取り戻したかのような、満面の笑みを浮かべるようになったのだ。
雅志は鞘をさっと抜くと、黒鉄景光の銀色の刃渡りを眺めた。
「これぞ美じゃ!素晴らしい!国宝級じゃ」
「爺さん、もう歳なんだ。あんまり喚くとみっともないぜ」
「何を!わしがまだ現役だった頃は、敵の鬼畜米英どもをバッサバッサと薙ぎ倒したもんよ!」
現役時代とは太平洋戦争に兵役していた頃のことである。
「不死身の雅志とはわしのことじゃ!がっはっは!」
彼がグアムで戦っていたのは今から70年近くも前になる。雅志は敵の銃弾をものともせず、相手の懐に飛び込んでは敵を刀で片っ端から切っていったのだ。小さな体と持ち前の度胸を活かす彼の活躍は、他の兵士に勇気を与えた。彼が刺殺した敵兵の数は平均的な兵士と桁がふたつも違ったという。常人のメンタルなら刀で何百人も殺すと精神崩壊を起こしてしまいそうだが、それでも平然としていられる雅史はまさに鬼だった。それほど彼のメンタルは強かった。
その時、突然表門の方から甲高い悲鳴が聞こえた。
9
「何だ何だ!」
剛志は表門に走っていった。
「待て親父」
武志も剛志の後を追った。
玄関で悲鳴を上げたのは、武志の母、舞衣だった。
「どうした!」
剛志は妻の元へ駆け寄った。
「サエモンさん、この前のオトシマエ付けに来たぜ」
そこにいたのは二十人ほどの厳つい男たちだった。この前武志とやりあった三人の姿もある。全員バイクで乗り付けたようだ。黒を基調としたジャケットに統一している。明らかにヤクザだ。
剛志は眉間に皺を寄せ、訝しげに男たちを睨んだ。
「オラァ!刀渡さんかい!」
一人の男が怒鳴った。だが一番年上の貫禄のある男がそれを沈めた。
「黙れ。サエモンさんは賢い人やて聞いた。言わんでも返してくれはるわ。なあ、そうですやろ?」
男は挑発するような目で剛志の顔を覗き込んだ。
「お前ら、神坂組の連中だな」
剛志は玄関に立て掛けてあった木刀を手にした。
「そんな木ぃっころでこの大人数と戦う気ぃか。やめとけや、死ぬで」
彼らは不気味に笑った。下品な笑い方だ。
剛志の蟀谷に一筋の汗が伝った。
「刀などはここにはない」
男たちの目つきが一層険しくなった。
「嘘抜かせ!舐めてると血祭りじゃ!」
そう言って男は武志に顎をしゃくった。
「おい兄ちゃん。あんたがシメた武器屋のオッサンに吐かして殺すぐらい、俺らには雑作もないことなんやぞ。刀渡せば大人しく帰ったるけどなぁ、渡さへんねやったらこうやで」
男は不気味に笑い、懐から一枚の写真を取り出した。そこには腹部から大量の血を流し、倒れているあの時の武器商人の姿があった。剛志は忌々しそうに写真を見つめた。
「だが黒鉄景光は渡さない。あの刀は代々この家に伝わるもんなんだ!お前らに渡す筋合いはない!」
「…それが答えか」
「ああ」
男は含み笑いを浮かべると、踵を返し歩き出した。
一瞬引き上げるのかと思ったが違った。振り向きざまに「殺れ」と小さく声がしたのを武志は聞き逃さなかった。
すると相手の若い連中が懐からナイフを取り出し、一斉に剛志に飛びかかった。下手をすれば死ぬだろう。
だが、剛志の顔に焦りはなかった。
「くらぁっ!」
剛志はカッと目を見開きそう叫ぶと、手にした木刀を飛びかかってきた男の顔面に突き立てた。
グシャという音がした。
相手の男は鼻をやられ、目と鼻と口から大量の血を流して倒れた。
「うらぁ!次は誰だァ!」
相手の動きが一斉に止まった。剛志の剣幕に負けている。
剛志は目を見開き、相手一人ひとりを睨んだ。
「武志、お前も手伝え」
武志に腕の痛みを躊躇っている余裕はなかった。彼は静かにうなずくと、手にした黒い竹刀を構えた。
「母さんは奥にいてくれ」
そう言って武志は目の前の男に飛びかかった。
10
刑事課にいた警察官全員がほぼ同時に立ち上がった。
東山署の刑事課に事件発生の緊急招集がかけられたのだ。突然民家に暴力団が侵入し、現在も乱闘しているという。
小松原は嫌な予感がした。
課長は立ち上がり声を張った。
「マル暴担当の二階堂刑事が指揮を取れ。民間人の救出を最優先にするんだ」
「はい」
二階堂は返事をすると走り出した。
(まさか神坂組じゃねえだろうな)
小松原も二階堂の背中を追いかけた。突然の事件発生に体中の鳥肌が立った。事件は今も起きているのだ。
東山署のパトカーが一斉に動き出した。サイレンを鳴らし、列を成してどんどんと加速していく。
「二階堂さん、神坂組でしょうか」
小松原は運転しながら助手席に座る二階堂に訊ねた。
「わからん。だが民家にマル暴が乱入するなんて明らかにおかしい。借金取りの時とは明らかに様子が違うみてえだ」
小松原は苦悶の表情でうなずいた。
「急げ。特殊部隊が来るまで待ってたら死人が出るかもしれん」
10
二人は相手一人ひとりを順番に倒していったが、それでもこの前とは違った。敵の人数が多い分、自分に隙ができてしまう。武志は何回も危ない目に遭った。腕が悲鳴をあげている。どういうわけかいつも通り動いてくれない。
相手は倒しても倒しても起き上がる。並みのメンタルではない。ヤクザの意地とプライドが掛かっているからだ。
「おい、中へ行ったぞ!」
剛士は息子に叫んだ。
二、三人が二人の隙を突いて家の中へ転がり込んだのだ。
だが武志にそれを追いかける余裕はなかった。相手の人数が多すぎて、自分を守るだけで精一杯だった。それは剛志も同じだった。
彼らは足早に稽古場へと向かった。
(まずい。あっちには爺さんしかいない!)
武志は不安に思いつつも、目の前の敵と戦うしかなかった。
三人のヤクザが稽古場へ着くと、そこには刃が剥き出しの黒鉄景光を大事そうに握った背の低い老人が立っていた。彼の周りの空気が異様に張り詰めていたため、三人は一瞬怯んだ。しかし、年寄り相手に引き下がるわけにはいかない。
「ジジイ、さっさと刀をよこせ。年寄りだからって手加減はしねぇぞ!」
しかし、雅志は悠然と構えている。
彼はゆっくりと黒鉄景光を構えた。無表情だが目に闘志が漲っている。
「わしが五十年以上恋焦がれた黒鉄景光じゃ。命に代えても守り抜く」
そう呟くと雅志は一人の男に飛びかかった。既に彼の感情は黒鉄景光に支配されていた。
「やぁ!」
八十を迎えた老人とは思えない、俊敏な動きだった。
雅志は時が止まる感覚を覚えた。
六十年間眠っていた感覚だ。
人間が作り物にしか見えない。真剣を振るうことに何の抵抗もなかった。
黒鉄景光は空を切るように男の胸を切り裂いた。鮮血が雅志の頬を掠めた。驚いたことに、雅志は笑顔だった。
男はゆっくりと前かがみに崩れ落ちた。
男の膝が床に付くより先に、雅志は次の男の心臓を突き刺した。黒鉄景光は驚くほど簡単に体を貫通した。抜いたときには、もう息の根が止まっていた。
最後の男に切りつけようと、黒鉄景光を大きく持ち上げた時だった。
武志の耳に、爆竹のような強烈な破裂音が飛び込んできた。
一瞬そこにいた全員が固まった。
武志は一瞬何が起きたのか分からなかった。
「今だ!」
誰かその声で周囲は一気に怒号へ包まれた。彼らは一斉に家の中へなだれ込んでいく。彼ら全員我先にと門をくぐって行く。
だが、二人は取り残された。剛志はただ呆然としている。
先に我に返ったのは武志だった。
「親父、行くぞ!」
彼はそう言い残して、先を行くヤクザたちを追った。
(爺さん、頼む。生きていてくれ!)
死に物狂いで土足のまま廊下を突っ走った。
行き着いた先には、先に来た黒服の男たちが何かを取り囲むようにして立っていた。よく見ると血で真っ赤に染まった男が四人倒れている。全員呼吸している様子はない。
武志は立ち尽くしてしまった。
(爺さんが、殺された…)
武志は自分の目頭が急激に熱くなるのを感じた。自制心を制御できない。手にした竹刀を構え直し、相手一人ひとりを見た。
武志の目は憤怒に血走っていた。
「お前ら…全員殺してやる…」
十人以上いる男たちの中に飛び込もうと、思いきり床を蹴った。
その時だった。
誰かが武志の肩を強く引いた。
振り向くと、自分より遥かに大きい男が立っていた。少なくとも2メートルはあるだろう。
スキンヘッドで黒いタンクトップを着、その逞しい両腕には黒い蛇がそれぞれ彫られている。
彫りが深い顔は目元が陰になっており、彼の威圧感を増幅させている。頬は肉が薄く鼻が高い。日本人らしからぬ顔立ちだ。武志は直感的に生命の危機を感じた。一瞬自分を殺しに来たと思ったのだ。
だが違った。武志はこの男のことを覚えていた。
「…龍門寺影虎」
そう。三年前に父、剛志に勝ってふらりといなくなった男だ。
「小僧、俺が隙を作る間にご老体を助け出せ」
影虎の声は不気味なほど落ち着いていた。
敵の暴力団員たちの空気が一気に張り詰めた。武志は誰かが「イノウエ」と囁いたのを聞いた気がした。
影虎は武志の肩から手を離すと、勢い良く男たちの中に飛び込んだ。
彼の戦い方は豪快だった。
その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。
一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。
――何なんだあいつは。人間じゃない――
「小僧!早くしろ!」
影虎が叫ぶと、武志は自分のすべきことを思い出した。影虎が敵を寄せ付けないようにしていたおかげで、雅志に駆け寄ることができた。
雅志の手はしっかりと黒鉄景光を握っていたが、既に本来の温もりは消えかけていた。
武志は雅志を背負うと逃げるように稽古場を後にした。
その時丁度、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきて、何台も車が家の前に停った。舞衣が連絡したのだ。
中から防護服を身につけた警官が何人も降りてきて、そのまま稽古場へ走っていく。
武志は門から出ると、雅志を道路の脇に置いた。その時、初めて土砂降りだったことに気づいた。
そこへすぐさま若い警察官が駆け寄ってきた。
「腹を撃たれている!早く病院に運んでくれ!」
そう言いながら武志は自分の和服を脱いで、包帯のように雅志の腹部を強く縛った。脈は微かにあるが、大量に出血している。
警官は慌ててうなずくと、「担架を持ってきてください!大至急だ!」と応援を頼んだ。
「後は我々に任せてください」
雅志は担架に乗せられ、救急車の中に運び込まれた。そこへ舞衣がやってきた。
「おじいちゃん!」
舞衣は目に涙を浮かべながら、衰弱した雅志の手を握り、担架にしがみつくように救急車に乗り込んだ。
「爺さん、鬼の雅志だろ!こんなところで死んでいいのか!」
武志は涙で顔をくしゃくしゃにしながら必死に叫んだ。
「武志!あんたも早く乗りなさい」
武志は一瞬迷ったが、首を縦には振らなかった。今の自分には他にすべきことがある。――影虎の元へ行かなくては――
雅志の口に呼吸装置を付けられた。普段の生き生きした顔色ではなく、死人のように真っ白で、硬い顔だった。
武志は踵を返すと、警官に呼び止められるのも無視して、元いた方へ走っていった。
11
それから数時間が経過した。
今も雅志は大学病院で手術を受けている。難しい手術かもしれないと武志は思った。
先ほど剛志から乱闘は終焉を迎えたことを電話で知った。警官がヤクザを制圧し、おそらく全員が逮捕されたという。だが安心はできない。神坂組にこれほどのことをしたからには、これから何があるか分からない。神坂組は決して小さな組織ではない。まだ仲間が沢山いる。そして、その上には鹿王会が控えている。だが、剛志はしばらくは大丈夫だと言った。これほどの大事になれば、しばらくは警戒して手を出してこないはずだろう、と。しかし、武志にはそれが自分を落ち着かせる為に言ったことだと分かった。
薄暗い廊下に座りながら、武志は血で赤く染まった黒鉄景光を見つめていた。
(元はといえば、俺がこいつを取り戻したから、爺さんがこんなことに…)
すっかり元気をなくした武志と舞衣のもとに、血だらけの姿で剛志とその男がやってきた。
舞衣は影虎の姿を見てぎょっとした。身長約2メートルある刺青だらけの厳つい大男が、長い鉄の棒を揺らしながらこちらに歩いてくるからだ。しかも、服には生々しい赤い血がべっとりと付いている。
「母さん、彼は龍門寺君だ」
剛志の紹介で影虎は礼儀良く頭を下げた。
「龍門寺影虎です。そこの寺の副住職をしております。以前壱武館でお世話になっていました。旧名は海斗と言います」
「海斗」と聞いた舞衣の影虎に対する目が、恐怖や警戒から違うものに変わった。
「もしかして、小さい頃うちに来ていた、あの問題児の?」
「ええ」
問題児と言われ、少しは愛想笑いを浮かべてもいいものなのに、影虎は表情一つ変えなかった。それが不気味で、影虎の方ばかりを見ていると目が合った。
「やっぱり。小僧、あの時の」
影虎は武志を見つめたまま横に腰を下ろした。近くで見ても凄い迫力だ。分厚い筋肉がひと目でわかる。二十五歳ぐらいだろうか。四十代にも見える。年齢がわからない顔をしている。
「久しぶりだな。でかくなった」
武志は何と言えばいいか分からなかった。でかくなったと言われる程の間柄だったような覚えはない。一度会っただけだ。
影虎はそんな武志の心を見透かしたように言った。
「三年ぶりぐらいか。俺は君のことをよく知っているが、君は俺のことは覚えていないかもしれないな。なんせ、あの時は会ったとはいえ一瞬だったからな。さっきも言ったが俺は代々続く龍門寺という寺の僧だ。だからこんな頭なんだ」
彼は自分のスキンヘッド頭に手をやった。身長2メートル以上もある刺青の入ったスキンヘッドの大男は、どこからどう見てもその筋の人間に見える。
龍門寺とは影虎の名前であり実家の寺の名前でもある。そこは京都に数ある寺の中でも古く敷地も広い方だが、厳格な浄土真宗の寺として観光客や一般人が立ち入ることは許されていない。
「海斗君は幼い頃からわしが特別に稽古をつけていたんだが、彼があまりにも乱暴者だったため手に負えなくなったんだ」
影虎は無表情のまま頭を掻いた。
「若気の至りというやつですかね。この刺青もその時のものです。こいつのせいでいつもは袈裟しか着られないんですよ」
武志の脳裏にぼんやりと記憶が蘇った。確かに小さい頃にこんな年上の少年がいたような気もする。見た目はかなり怖かったがたまに冗談を言ってくる少年だった。ただ十歳も歳が離れているために記憶は曖昧だった。
影虎は突然真剣な表情になった。真顔になった途端さらに厳つくなった。彼に凄まれたら誰でも動けなくなってしまうだろう。
「師匠、これから神坂組の連中が乗り込んでくるのは言うまでもないです。このまま大人しくしているはずがない」
影虎は真っ直ぐに剛志を見つめた。
「うん。仲間が三人も殺された以上、彼らが黙っているはずがない。最悪この道場も手放すことになるかもしれない。それと、もし鹿王会が動くとしたら大変なことになる」
武志は居心地悪そうにしていたが、自分がしたことへの責任を感じ俯いた。
「俺のせいで…ごめんなさい」
普段は絶対に自分から謝ることのない武志の姿に、剛志は少し目を見開きすぐにいつもの威厳あふれる表情になった。
「武志、顔を上げろ。お前らしくもない。それにお祖父さんがまだ死んだと決まった訳ではない」
影虎もうなずいた。
「そうだ。今はこの状況をどうするか考える方が先だ。自分の行動に非があると思うなら、その責任を取るのが男じゃないのか」
武志はゆっくりと顔を上げた。
「俺、どうすれば…」
「今は神坂組から遠ざかることが先決だ。どうでしょう、皆さんで龍門寺に来るというのは」
「いいのか、海斗くん」
「はい。師匠には大変お世話になりましたから。クズ同然だった俺を救い出してくれたのはあなたです」
二人が熱い視線を交わす傍ら、舞衣はぼんやりと「手術中」という赤いランプを見つめていた。
「手術中」のランプを見つめる舞衣は剛志の肩にそっと身を寄せた。その目は赤く泣きはらしていた。剛志は舞衣の頭を強く腕に抱いた。
その時、赤いランプの光が消えた。
12
「先生、結果は」
全員が一斉に立ち上がった。
初老の外科医は暫く黙っていたが、重々しく口を開いた。
「最善の治療は施しましたが、手遅れでした」
全員が固まった。
寸の間、武志は医師が何を言っているのか理解できなかった。大切な人を失ったのは何度目だろうか。だが武志はどうしても実感が沸かなかった。数時間前まで一緒に笑っていたあの矍鑠とした祖父が、もうこの世にいないのだ。不思議と涙は流れなかった。その代わり「ああ、ああ…」と乾いた声が溢れ出した。
崩れ落ちた息子の背中を、麻衣は泣きながらそっと抱え込むように支えた。
剛志は「そうですか…ありがとうございました」と言い深々と頭を下げると、そのまま顔を上げなかった。ただ、大粒の涙が頬を伝っては床に落ちていった。
全員が悲しみに暮れる中、唯一影虎だけは、少し離れた場所で腕を組んで無表情で彼らを見つめていた。
手術台で運ばれてきた雅志の顔には白い布が載せられていた。
それでも武志は、爺さんがまた起き上がって「大丈夫」と俺に声をかけてくれるんじゃないか、と思っていた。いや、そう願っていたのかもしれない。だが雅志が息を吹き返す筈もなく、静かに流れる時が武志の心の希望を拭い去り、代わりに絶望で黒く染めていった。
「別室に来てください」
医師はそう言った。武志はそれが死因の詳しい説明だとわかったから、影虎とここに残ることにした。これ以上辛いことを聞かされたら、堪えている涙が溢れてしまうと思ったのだ。
剛志と舞衣は医師のあとを静かについていった。
雅志の遺体も看護師の手によって冷暗所に運ばれていった。
取り残された武志はしばらく無言で突っ立っていたが、「コーヒーでも飲むか」という影虎についてふらふら歩き出した。
「ほら」
影虎は売店で焼きそばパンとブラックコーヒーを武志に渡した。
「ありがとう…ございます」
武志のぎこちない表情を見て、影虎は目を細めた。
「ご老体がああなったのは、決してお前のせいではないぞ」
そう言って武志の頭を乱暴に揺すり、そこにあったベンチに座った。武志も横に腰を下ろした。
「…こんな時だってのに、腹が減っちまう」
武志は必死に涙を堪えながら、焼きそばパンに食らいついた。
影虎は自分のブラックコーヒーを一気に喉に流し込むと、大きく息を吐いた。
「こんな時にする話じゃないかもしれないが、聞いてくれ。武志、お前は人が死んで悲しいだろ。だがな、俺は何も思わないんだ。俺は組時代に何回も抗争に巻き込まれ、人が死ぬところを何度も見てきた……仲間が死ぬところも見てきた。だから俺は自分の感情に蓋をしたんだ。蓋をすれば何も感じなくなる。辛さや悲しさとか…。最初はよかった。何も考えずに闘えた。それは自己防衛にもなるし、誰も俺に手出しできなくなった」
武志は影虎の顔を見つめた。彼が暴力団員だったことに驚いたというよりは、純粋に彼の話に耳を傾けていた。
「でも俺は気づいたんだ。俺は組の兵器にされてたって。何も考えず、感じずに相手を倒してくれる都合のいい男、それが俺だ。……俺は獣同然だ。無感情にただ本能に任せて暴れていた」
「……影虎さんは獣なんかじゃない。俺を助けてくれた」
影虎はほんの少し顔を歪ませ、武志の頭を乱暴に撫でた。
「…泣けるってのは羨ましいことだぜ。涙は人間だけの特権だ。獣は泣けない。だからさ、思いっきり泣けよ」
言葉は武志を優しく包み込んでくれた。「もう大丈夫」というような温もりがあった。
影虎を見つめる武志の目が潤み、一筋の涙が流れ落ちた。
一度涙が頬を伝うと、次から次へと溢れてきた。
そして、もう止めることはできなかった。
泣きながら武志は雅志との記憶を辿っていた。
最初に剣道を教えてくれたのは雅志だった。まだ歩けるようになったばかりの武志に竹刀を握らせた。三歳の頃にはおもちゃの剣を振れるようになった。その時の雅志の喜びようを、武志は今でも薄らと覚えている。
それから武志は剣道が大好きになった。いつも雅志相手に練習をした。楽しくて、楽しくて仕方がなかった。
武志はその頃から雅志が目標になった。小学校に上がると練習も一段と厳しくなり辛かったが、それでも剣道は大好きだった。
――いつか、爺ちゃんのような剣客になる――
それが武志の夢だった。
その時、雅志は既に八十を越えていたが、そのへんのゴロツキ相手なら一人でも勝てるほど強かった。
とても強く優しい雅志だったが、寿命は確実に終わりに差し掛かっていた。患っている心臓病が悪化して入院したとき、彼は一度黒鉄景光について語ってくれた。
――爺ちゃんの命が尽きる前に、必ず俺が取り返すんだ――
幼かった武志は、彼に必ず自分が取り返すと約束をした。
雅志は己の孫を愛おしげに見つめ、誇らしげな顔をした。
話半分に流されるのかと思っていた武志に、雅志は「ありがとう」と言った。
その「ありがとう」は、付け焼刃なものではなく、孫に対する激励だった。
そしてその後、その約束は見事に叶えられた。しかし、今も神坂組はこの黒鉄景光を狙っている。現金に換算して五千万の価値がある黒鉄景光だが、武志にとってはそれ以上にどうしても手放せない代物だった。
雅志が亡くなり、彼の決心は一際強くなった。
――俺の為にも、死んだ爺さんの為にも、こいつだけはどうしても手放せない。意地でも守り抜く。爺さんとの約束だから――
黒鉄景光を握る両手に力が篭った。