【オススメ!】タイトル未定

 僕はしがない占い師。別段未来が見えるわけでもないのに僕の店は客が途絶えることが無い。僕は普通に接客し、それらしいことを言うだけ。それで一回の面談料が五千円というのだから儲けものだ。

 僕がこうして安泰に暮らしていられるのも全て真由美のおかげ。真由美が誰かって?それはまたおいおい話すことにしよう。ただ一つだけ言っておくとすれば、僕には一つだけ能力がある。霊感が人よりも働くということだ。え?じゃあ真由美が幽霊かって?いやいや、これが実はそうでもないのだ。

 

 今日も僕の店、「新宿○8」には大勢の客が来ていた。

「あんたホントに未来が見えんの?どう見ても、ただのどこにでもいそうなお兄ちゃんじゃなあい」

 でっぷり太った女は椅子に深く腰掛け、タバコを吸いながらこちらをぎろりと睨んだ。この狭くて暗い室内では、どちらかというとこの女の方が占い師に見えることだろう。僕はスーツの襟を正した。

「ええ、もちろん。未来も過去も見えますよ」

 僕は机の上に置いた水晶玉を覗き込みながら微笑んでみせた。こうすることでそれらしく見えるからだ。実はこの水晶玉はガラス製で、ヤフオクで千円で買ったものなのだが、誰一人としてそのことに気づかない。

「じゃあ何か言い当ててみなさいよ」

「仕方ないですね」

 僕は水晶玉に念力を送るふりをした。

「おっおっ、来ました来ました!今降りてきましたよ」

「何が降りてきたのよ?」

 女は疑いの眼差しを僕に向ける。こういった客は最初から占いというのを信じていないから困る。何かトリックがあるんじゃないかと見破りに来ているのだ。

 まあ、あながちこれもトリックでないと言えば嘘になるが――

 その時、部屋全体にフローラルな香りが広がり、僕の肩に後ろから誰かがそっと手を載せた。だが実際、僕の後ろにあるのはベニヤ板に布をかぶせた壁だけ。そう、僕の肩に手を載せた女性こそが真由美なのだ。そして真由美は僕以外の人間の目には映らない。

「シンヤくん、このオバサン、三度も離婚しているようね。しかも三回とも男が不倫して逃げられたみたいよ」

 耳元で震えるほどセクシーな軽い笑い声がした。僕は真由美に小さく礼を言うと目の前の女に言った。

「恐縮ですが、あなたには三回ほど離婚経験がおありと見受けられます。しかも三回とも旦那さんに逃げられた。違いますか」

 女は歯をカチカチ言わせながらうなずいた。既に僕を信じ始めているようだ。

「な、ななな、何でわかったの?」

 僕はにっこりと笑ってみせ、決め台詞とばかりに言い放った。

「そりゃあ、占い師ですからね」

 女は目と鼻をがん開きにし、満足げに何度もうなずいた。

「なるほどね。じゃあ早速あたしの未来を見てもらおうかしら」

「どの未来になさいます?」

 僕は壁に貼り付けてある表を指さした。

  1. 恋愛。

2、結婚。

3、家庭。

4、仕事。

5、健康。

6、金運。

そして7が人生だ。

だが人生に手を出すものはなかなかいない。そればかりは言い当てられるのが怖いのだろう。

「二番の結婚でお願いするわ」

「かしこまりました」

僕はまた水晶玉に念力を送るふりをした。途端に真由美が耳元で甘い声で囁く。

「うーん、まあ努力次第ね。婚活パーティに何度も行けばいい相手が見つかるんじゃない?まあまずはそのチリチリパーマをどうにかすることね。ウフフ」

「ありがとう、真由美様」

「え?あたしマユミじゃないわよ。千鶴子よ。チ・ヅ・コ。それにしてもアンタ結構かわいい顔してんじゃな~い。どう?今夜」

 目の前の女が真っ赤な唇の間からこれまた真っ赤な舌をチロチロと出したので、僕の全身は拒絶反応を起こしたのか、ガタガタと震えだした。

「さ、さて、何の話ですか。さあ、わかりましたよ。今後婚活パーティに積極的に参加すればいい相手が見つかりますよ。でもまずは髪形を変えると更に運気が上がるとのことです」

「あらそう?でも何だか曖昧な答えだわね。その男性の名前まで教えてちょうだいよ」

 すかさず真由美が「タケダノリフミよ」と言う。

「タケダノリフミ。あなたの運命の相手はタケダノリフミさんという方です」

「ありがとうお兄ちゃん。わかったわ。あたしその男性を探します!」

「ええ、じゃあ頑張ってください。お引き取りはあちらです」

 入口のすぐ横にある出口を指すと女は五千円札を机に置いて意気揚々と去って行った。

「いやあ、神様、仏様、真由美様!マジいつもありがとうございます!」

 真由美はスーッと僕の背後から離れ、正面の椅子で足を組んだ。艶めかしい太ももが着物の間から露わになった。

「うふ。いいのよいいのよ。お互い様だもん」

 やはり何度見ても美しい。簪で結わえたしなやかな黒髪に大人かわいい顔立ち。豪華絢爛な衣装を身に纏い、そこから伸びる、ほどよい肉付きの透き通るような白い手足。スタイルも抜群。さすがは僕の女神だ。いやいや、変な意味ではない。本当に女神なのだ。

「いや~ん。あんたさっきから脚ばっか見てるでしょー。この変態野郎ォー」

「いやいや!そんな、違いますって!」

 顔を真っ赤にした僕を見て真由美は面白そうに笑う。

「さあ次の客が来ちゃうわよ。頑張りなさいね」

 それから立ち上がり、机の上の五千円札を拾い自分の懐へ入れる。

 

「失礼しまーす」

 入ってきたのは貧相な感じのサラリーマンだった。スーツは皺だらけで、髭も何日も剃っていないらしい。こういう客はしょっちゅう来る。裏を返せばイケイケのサラリーマンは占いなどには興味ないのだ。

「どうぞ」

 僕が椅子をすすめると申し訳なさそうにちんまりと腰かけた。

「今日は何を占いましょうか」

「人生を、人生を診てください」

 真由美は男の横で何やらくすくす笑っている。

「何か思い詰めてるように見えますが、何かあったんですか」

 男は泣き出しそうな顔で言った。

「一か月ほど前に娘が自殺して、それから病気がちになった妻が……妻が昨日亡くなったんです。私は生涯孤独だ。一体どうすれば……

「そうですか……

 僕はちらりと男の横の真由美を見た。先ほどから何故かずっと笑いっぱなしだ。真由美は僕の視線に気づいたのかやっと説明してくれた。

「だってこの男ウソついてるんですもの。こいつ結婚すらしたことないわよ」

 なんだって?僕は男を睨んだ。

「あなたウソついたでしょ。結婚すらしたことないんじゃないですか」

 男は一瞬驚いた顔をしたが、途端にニヤニヤ笑いだした。

「うわあ、ばれちゃいましたか。凄いですね。何でわかったんですか」

「あなた何しに来たんですか……

「へへへ……

 真由美がこちらへスーッと寄ってきて言う。

「こいつ、ただ冷やかしでここへ来ただけよ。仕事クビになってイライラしてたみたいだけど。どうする?天罰いっとく?」

 何だか楽しそうだ。クビになったのは同情の余地があるが、だからといって僕の商売の邪魔をされては困る。

「そうですね。じゃあ、いっときましょうか」

 男は目を輝かせて身を乗り出した。

「え?どこ行くんですか。あ、一発の方ですか。やだな~」

 僕は肩の上で手を叩きながら大声で言った。

「お引き取りですよ~!」

 すると男は真由美に引きずられるように店を出ていった。

「ななな、なんだこれ。どうなってるんだ!」

「お代は勘弁してあげますよ」

 僕は男を追いかけるように店の外へ出た。見ると二人は既に二階から降りて表の道路にいた。

「いきますわよ!」

 真由美が叫ぶと、空から眩いばかりの太陽光がその男めがけて降り注いだ。僕は慌てて目を閉じ、また開けた時にはその男の頭部は完全に禿げあがっていた。

「何だ今の!すごく眩しかったけど。まあいいか」

 気づく様子もなく男は角に消えていった。

「大成功ですわ」

 満面の笑みを浮かべながら真由美はピースサインを出した。とんでもないことをしたというのに、なぜこうも最高の笑みを浮かべていられるのか。ちなみに天罰はいつも変わる。この前は体が物凄い異臭を放つようになるとか、全身がヌルヌルするとか、常に汗が引かないとか、様々だ。真由美によれば三日ほどで元どおりになるらしいが、確かめたことがないので定かではない。

「天罰しちゃったから今日は疲れたわ。あーやだやだ。お化粧が崩れちゃうわ。終わり終わり」

「え、でもまだ次の客が五十人以上いますよ」

 真由美は眠たそうにあくびした。

「私の言うこと聞かないと天界へ戻っちゃうわよー」

「またまたそんな。じゃあ早いけど店じまいといきましょう」

 僕は慌てて店へ戻り待合室に顔を覗かせた。

「カエデちゃん、今日は終わりだ。お客さん帰しといて」

 カエデというのは受付を任せている女性スタッフだ。真由美を入れて基本的にこの三人で経営していることになる。ちなみにカエデは元キャバ嬢だったが、訳あってここで働くようになったのだ。

「シンヤさんちょりーっす。ほーら、みんな今日は終わりだよ~。爺ちゃんも婆ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんもみんな帰んな~」

「げ、マジかよ」「いやーん。まだ占ってもらってないわよ?」「世も末じゃ」

 ぶつぶつ言いながらも客たちは大人しく帰って行った。

「真由美お姉さんまた機嫌損ねちった?」

「ん、まあね」

 カエデが真由美を知っているのにはわけがある。実は真由美は普通の人間の姿になり、他の人間にもその姿を見せることができるのだ。普通の人間の姿と言っても服装が変わるだけで、真由美そのものに変化はない。人間になった時はいつも、コンサバ系というのだろうか、普通にきれいな若奥様といった感じの服を着ている。個人的にはこっちの真由美の方が好みだ。

「んじゃあたしも帰るわ。じゃあね~」カエデはそう言い残すと階段を小走りに下りて行った。

 僕は息を吐くと真由美を呼びに占い部屋に戻った。

「では僕らも帰りますか」

「そうね」

 真由美は既に花柄のワンピースという普通の人間の格好になっていた。聞けばどうやらこの格好になると力が落ちるという。真由美はポケットから大量の五千円札を取り出し、そのうちの三枚を僕に渡した。

「はい。これシンヤくんの」

「ありがとうございます」

 残りの三十枚以上は真由美の取り分ということになる。不公平な気もするが、僕がこうして働けているのも全て真由美のおかげなんだから仕方ない。

「カエデにはまた今度渡しておくわ」

「はい」

 その後僕らは僕のバイクで自宅のアパートまで帰った。

 

 僕は六畳一間の自室で缶ビールを一口飲んだ。

「それ美味い?」

「はい、美味いっす!最高っすよ!」

 真由美は含み笑いを浮かべ「私のおかげよ」と言った。

 実は真由美はかの有名な天照大御神その人だという。今は天界から下界へ降りてきて生き別れになった弟、ツクヨミを探しているらしい。今は真由美という偽名を使い人間に溶け込んでいるのだが、天界へ戻ると一国のお姫様のようにちやほやされるという。にもかかわらずそれにはうんざりして、暇つぶし程度に下界に来て何となく弟を探しているのだという。さきほど真由美が私のおかげと言ったのは真由美が太陽の女神だからだ。ちなみにツクヨミは月の神様。

 なぜそんな偉い神様が僕なんかの商売を手伝ってくれているのかというと、実はこんな経緯があったのだ。

 

 半年前。つまり元旦、僕はそれとなく近所の寂れた神社へ行った。あまりにも小さいために他には誰もおらず、僕は何となくそこで手を合わせていた。

「年収一千万……年収一千万……

 それから目を開けると、なんとそこには艶めかしい女の足があった。目を疑ったが、やはりよく見てもそれに違いはなかった。確かめようと触れようとしたら「変態!」と叫ばれ、額を強く蹴られた。

 あまりの激痛にのたうち回った僕は、「勘弁してくださいよう」と情けないことを何度も口走っていたという。その女こそが真由美だった。

「あなた私が見えるのね?」と真由美は賽銭箱に座ったまま言った。よく覚えていないのだが、僕は半泣きで「痴漢とかじゃないですから」と言っていたらしい。

「あなた、フリーターで最近ロクなことがないでしょう」と、真由美は見事に言い当てた。

「な、なぜそれを……!」

「それはね、あなたに悪霊が憑りついているからよ!」と真由美は僕の頭を思いっきり強く叩いた。悲鳴を上げた僕はまた地面で転げまわっていたが、何だか少し肩の力が抜けて頭が良くなったような気がした。

「見なさい。これがあなたに憑依していた悪霊よ」と真由美はむんずと掴んだ真っ黒い子犬を僕の目の前へ突き出した。

「悪霊が宿るような人間は、大抵根っからのクズか、神仏や妖の類に抵抗力がないかのどっちかよ。早く取り出さなかったら、あんた、気が狂って犯罪者になっていたでしょうね。あ、私の脚をべたべた触ろうとしていたぐらいだから、性犯罪者ね!あはははは!」

 腹が立ったが、何も言い返すことができなかった。これでも一応恩人なのだから。悪霊という犬を見た。日本犬みたいな普通に可愛い子犬だったが、何だか怖くなった。こいつが自分の中にいただなんて……

すると真由美は「よし、第一町人だからあなたでいいでしょう」と僕についてくるという趣旨のことを言いだした。本気で怖かったが、何だか真由美が美人だったので家に上がることを許してしまった。邪な考えが全くなかったと言えば嘘になるが、その時はそんなことよりも好奇心が勝っていた。

 結局そのあと実は天照大御神で、という話をされ、半信半疑だった僕だったが、ぴたりと僕の人生を言い当てられ、更には「浮遊術」という怪しげな術を見せられ、信じざるを得なくなったのだ。

 それから真由美に言われるがまま占術商売を始めた。

 

「コォーッ、コォーッ」

 たった今ダースベーダのような声を発したのは、僕でも真由美でもなく、例の黒い犬だ。あの時からなぜか真由美の指示で飼い始めたのだが、成長が早いもので今ではシェパードほどの大きさになっている。最初は、悪霊なんか何で飼わなくちゃいけないんだと思ったが、真由美の話では、悪霊と言えど神仏で、それが宿っていたあなたには見所があるから飼いなさい、とのことだった。

 見た目はただの黒シェパードなのに、こいつはどうもおかしなやつで、いつもふらりと姿を消してはまた戻ってくる。家の戸を閉めていても外へ行くことができるのはやはり魔物ならではだ。真由美によるとこいつが度々出かけるのは餌を求めて出歩くからだという。その餌というのが驚くことに人間の幸福なのだとか……

「神田さん、どうぞ」

 僕は器にビールを注ぐと神田に差し出した。そう、この犬の名前こそが神田なのだ。いつしか真由美がそう呼ぶようになり、僕にはこの犬にまで敬語を使うことを強要している。

 神田はにっと歯を剥き出し、ごくごくとビールを飲み始めた。

「よしよし、かわいい奴だ」

 真由美は神田をたいそう可愛がっているが、どうも僕はこいつのことを好きになれない。悪霊だから、というのはもちろんなのだが、こいつは図ってか図らずか、なにかと真由美に甘えるのだ。犬だから当然といえばそれまでなのだが、僕には割と冷たいのに、真由美が朝起きると必ず一緒にベッドで寝ていたり、ひどいときには真由美のシャワー中に(戸をすり抜けられるのいいことに)そこへ潜り込んでいたりする。それに普通の餌は全く食べないくせにビールが大好物。なんだかどうも人間臭い。

「真由美様」

「あ?」

 僕のベッドに横になっている真由美は、スナック菓子をバリバリ食べ、その手でお尻をぼりぼり掻いた。

ツクヨミくんは見つかりました?」

「まだに決まってんだろ。見りゃわかるだろ」

 外にいる時は気品あふれるお姉さまだが、家に帰ると気の強いお姉さまになる。僕が何も言わず床に寝転ぶと真由美は言った。

「あんた、私がいてよかったね」

 家に帰るといつもこの一言から始まり長ったらしいお説教じみたことを聞かされる。

「家にいっつもこんな美女がいるなんて普通ありえないことなの。しかもそれが本物の女神様とくれば。ハッ、あんたは幸せもんだよね」

 あまりにもそんなことを言うので、この前遠慮がちに、じゃあなぜここに住んでいるんですかと訊ねた時、驚くことに真由美は悲しげな顔をして泣き出してしまった。あまりにもそれが見ていられなかったので、ついそっと肩を抱こうとしたら「今エロいこと考えてただろ」ときつく睨まれ、それから数日の間そのことできつく罵られることとなった。

「そうっすね。マジありがたいっす」僕は軽く流しながらテレビをつけた。

「こら。まだ話してんだろうが」

 真由美がそう言うとテレビはたちどころに消えた。

「何ですか」

「明日からツクヨミ、探しにいくわよ」

「仕事はどうなるんですか。カエデちゃんだって生活があるわけですし」

「じゃあカエデも連れていけばいいでしょ」

「じゃあ神田さんは?」

 真由美はにっこりと笑った。

「もちろん連れていくわ。ちゃんとリードに繋いでおきなさいね。まあ神田はウンチしないから心配ないけど」

 そういう問題じゃないだろう……

「そもそもどこへ行くんですか。あてはあるんですか」

「伊豆よ」

 こともなげにしれっと言う。そもそもなんで伊豆なんだ。

「今なんで伊豆なんだって思ったでしょ。教えてあげる。単に私が温泉に行きたいからよ」

「勘弁してくださいよ。それだったらカエデちゃんはいいじゃないですか」

「なにあんた。せっかく女二人を相手にできるチャンスなのに!あら、この言い方だと語弊があるわね。まあいいわ、私に逆らうのなら天界へ帰りますからね」

 真由美にそっぽ向かれてはこちらも職を失うことになる。仕方ない。温泉ぐらいなら行ってやろうじゃないか。

「わかりました。じゃあカエデちゃんにも連絡しておきますね」

「それでいいのよ。じゃあ私は明日に備えて寝ますからね」

 真由美がそう言ったとたんに部屋の電気が消え、雨戸が閉まり真っ暗になった。僕は文句も言えずポケットからケータイを取り出し、急いでカエデにメールした。ずっとケータイの画面を明るくしていると真由美に怒られる。

 最初に真由美が家に来た日からベッドは完全に彼女のものになった。この家での立ち位置も、真由美、神田、僕という順番になってしまった。だが僕は後悔していないぞ。真由美のおかげでフリーター、いや、半ニート状態から抜け出せたのだ。これからも真由美を信じてやっていくしかない。死ぬまですがりついてやるぜ。何たって神様なんだから百人力だ。

 五分後ぐらいにカエデから「何ですと」という短すぎるメールが返ってきたので、僕は外に出て電話をかけた。

「もしもし、シンヤだけど」

「どうしたんすか~。あたし今寝てたところなんですけど」

 何なんだ一体。本来ならまだ勤務時間内だぞ。そもそも真由美もそうだが午後二時なんて普通寝る時間じゃない。

「いきなりごめんね。ちょっと姉さんが突然伊豆に行きたいとか言い出して。それで、良かったら一緒に来ない?」

 電話口の向こうでカエデがニヤリと笑ったのがわかった。

「新手のナンパっすか。行きたいのは山々なんですけど、なーんかうちのピー太郎が風邪こじらせちゃって。つーことで今回はパスで」

 ピー太郎とはカエデが飼っている九官鳥だ。だが僕はその九官鳥自体はおろか、カエデに写メすら見せてもらったことがない。カエデが仕事を休む時はいつもピー太郎に纏わることだが、本当に存在するのかすら怪しいところだ。僕は「了解。じゃあお大事に」と電話を切った。

 明日は店を閉じて伊豆か。多分日帰りじゃ済まないんだろうな……

僕はなんとも言えない心もちのまま、することもなく部屋へ戻った。

 

 

 

   二

 

 伊豆への電車で、僕は神田を抱えながら肩身の狭い思いで揺られていた。神田は僕じゃ嫌なのか時折足をばたつかせて離れようとする。僕に憑依して幸福を食べていたくせに、いけ好かない犬だ。

「神田、餌が欲しいのね?」

 真由美は猫なで声で神田の頭を摩った。満員電車の中だというのに目立つじゃないか。

「餌って……幸福、ですか」

「そうよ。まあこれだけ人がいるんだからたくさんあるでしょうけど……。どう?食べたい?」

 神田は長い舌を伸ばしハアハアと応えた。

 真由美はにっこりと微笑むと僕に神田を離すように言った。恐る恐る手を離すと、突然神田は姿を消した。既に知っていたことだが神田は姿を消すことができる。その状態で人間に入り込むこともできるのだ。

 面白いことに今朝神田に付けた赤い首輪だけが色を残して辺りをふわふわと飛び回っている。色々な人のところへいっては暫くじっとしている。可哀想に。神田に幸福を食われているんだ。そもそも人の幸福を餌にするなんてなんと意地の悪い犬なんだ。

「シンヤくん、ちゃんと旅館取っといてくれた?」

「はい。紅葉荘とかいう古いけど立派な旅館です。露天風呂もあるみたいですよ」

 これだけ金を儲けていれば多少高い旅館に泊まっても支障はない。一日一万五千円。並のサラリーマン以上の稼ぎだ。真由美は満足げにうなずき「ありがとね」と優しい声で言った。外でこれなのだから、家でもこの調子でいてくれればいいのに。結婚すると女は変わると言うが、真由美もそんな感じなのだろうか。

「ねえシンちゃん」

 真由美は突然色っぽい声を出した。

「な、何ですか」

 潤んだ瞳でじっとこちらを見つめてくる。緊張のあまり僕の手はじっとりと汗ばんだ。

「あなたはどうして私に自分の未来を聞かないの?ずっと思ってたんだけど」

 ああ、そのことか。

「だって、それこそ占い師ならともかく、本物の神様に聞いたらどうしようもなくなるじゃないですか。やっぱり人生の先が見えたら楽しくないし」

「なるほどね」

 真由美は嬉しそうに笑った。

「私、シンヤくんのそういうところ好きよ」

「そんな、からかうのはやめてくださいよ」

「ふふ、どうかしら……いやん!」

 真由美は突然大声を上げた。近くにいた全員の視線が集まる。痴漢か!と思い真由美の足元を見ると神田がスカートのほど近くで鼻をヒクヒクさせていた。何だかいつになくいい感じだったのに。この変態犬め……。僕は神田を殴りたくなったが、そんなことができるはずもなく慌てて抱き上げた。

「こら、だめだろ」

 小声で叱ると神田は「コォーッ」と笑った。本当に変態なんじゃないのか……

「あらシンヤくん、神田にはちゃんと敬語を使ってほしいものだわ」

「す、すみません。だめですよ、神田さん」

 近くにいた乗客がくすくす笑った。何なんだこの茶番は。まあ神田も一応神仏の類だから仕方のないことか。でもどうして神田は他の人にも姿が見えるのだろう。

 

 そんなこんなで僕たちはどうにか伊豆の紅葉荘に無事到着することができた。

「ようこそお越しくださいました。お荷物お持ちしますね」

 旅館の女将が出迎えに来た。荷物と言っても僕はボストンバッグに着替えが少し入っているだけで、真由美に至っては手ぶらだ。僕は「大丈夫です」と手を振った。

「あら、ワンちゃんですか。すみません、部屋に動物は……

 神田は寂しげに「クゥー」と鳴いた。何だこいつ。どうせ真由美と離れるのが嫌なんだろう。

「こちらではペットの預かりサービスも行っておりますよ。一泊三千円からですが」

「わかりました。お願いします」

 僕はしめたとばかりにリードを女将に渡した。これで暫くはこの変態犬の顔を見なくて済むぞ。

「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」

「えっと、神田です。神田川の神田」

「へ、へえ。変わった名前ですこと」

 女将は薄笑いを浮かべていたが、近くにいた中居さんに部屋に案内するように言った。

 

 案内された部屋は二人で使うには広々としていた。畳敷きで真ん中にローテーブルがある。

「そこの障子を開けるとこの旅館の名物の庭園があるんですよ」

 中居さんが障子を開けると松やら梅やらが生えるなんとも風情ある庭が広がっていた。

「へえ、池まであるのねえ」

 真由美が感嘆したように言ったのは、もしかすると目の前の風景を天界と重ね合わせているからなのかもしれない。

「お客様はSコースをご利用なので、六時から七時まで露草の湯が貸切となっております。ではごゆるりと」

 中居さんはそう言い残して部屋を出ていった。僕は軽く会釈しながら見送っていたが、振り向くと真由美は人間の姿から神様風の豪華な衣装に変わっていた。いつもそうなのだが、僕は真由美の着物が変わる瞬間を見たことがない。

「ねえ、なんで部屋が一個なのよ。私と寝たかったの?」

 真由美は僕を咎めるように目を細めた。

「いや、そんなつもりは……。てか、そもそも、アパートでは一部屋ですよね?」

「ん、はぁ~あ。何だか疲れたわねえ」

 話を逸らしたか。真由美は気だるそうに畳の上に横になった。僕は真由美を労うためにテーブルに置かれたポットで湯呑にお茶を注いだ。

「どうぞ」

 真由美は身を起こし、「たまには気が利くじゃない」と満足げに茶を啜りだした。僕も自分の湯呑に注いで飲んでみた。さすがは静岡の緑茶というだけあってなかなかの味だ。

「まあまあね。でもま、人間が淹れたお茶にしては上出来かしら」

「人間以外にもお茶を淹れてもらうことがあるんですか」

「そりゃあね。天界じゃお姫様だもの。烏天狗や稲荷がかわりばんこにハーブティーを運んでくるわ」

「天界って、天国みたいなものですか」

 真由美は湯呑をコトンと机の上に置き、視線を宙にさまよわせた。

「まあ似たようなものかしらね。天国のさらに上にあるのが天上界。二つをまとめて天界というの。人間レベルじゃ、天界、つまり天国へ行けば基本的には下界には戻れないけど、神様や仙人級の官位になれば暇なときに降りてきたりできるのよ。私みたいにね。まあ実際天国に行ける人間なんてごく僅か。ほとんど輪廻転生からは抜け出せないのよねえ」

 僕はごくりと唾を飲んだ。

「生まれ変わり、ですか」

「そうよ。単純な仕組みよ。それなりに徳を積めばまた人間になれる。いい人生を送れるかなんてのもある程度生まれた時点で決まってるわ。因果応報ってやつよ。でも、前世で徳のある人間だったとしても現世でクズってこともしょっちゅうよ。まあ前世と現世では別の人間だもんね」

「もし人間になれなかったら?」

「犬猫家畜に鳥や虫、植物などなどってとこかしら。実はちゃんとした階層構造があって人間を頂点に成り立ってるわ。全ての命は生まれ変わるたびに一段ずつしか上には行けないけど、下へ行くのはあっという間。特に人間なんて私欲のために何でもする生き物。あんたも気を付けなさい」

「僕は、死んだらどうなるんですか」

「あら。未来は知りたくないんじゃなかったの?」

「え、まあ」

 真由美は大きく伸びをすると「せっかく伊豆まで来たんだし」と立ち上がった。

伊豆山神社にお参りに行くわよ」

 どこかへ行った時に近くの神社にお参りに行くのは恒例行事だ。まあ真由美の場合はそこにいる神様に挨拶するのが目的なのだが、大抵の場合自分よりも下級なのでちゃんと働いているか視察に行くと言った方がしっくりくる。

「今回の神様はどなたですか」

「えーっと、確か天忍穂耳尊拷幡千千姫尊、それから瓊瓊杵尊の三人で回していたはずよ。今年は順番的に姫尊が当たってたはず」

 ほとんど聞き取れなかったが、言いたいことは何となくわかった。これも前に真由美に教えてもらったことだが、神社には複数の神様をお祀りしているところが多くあり、そういう場合は毎年順繰りに任期を任せられるという。任期に当たっていない神様は天上界で休暇中なのだとか。真由美に出会ってから必死に古事記日本書紀を勉強したが、登場する神様が多すぎて未だによくわからない。

「真由美様は何でも知ってるんですね」

「神様なんだから当然よ」真由美は豊満な胸を反らせ、鼻から息を吐き出した。

「にしてもあんた、よかったわね。千姫めちゃくちゃかわいいわよ」

 タクハタナントカ姫尊のことらしい。まあ真由美がそう言うということは相当なのだろうが、別にかわいくても神様に手を出すことはできない。まさに雲の上の存在だ。

「じゃあ早速向かいますか」

「ええ。神田も連れてきてちょうだい」

 

 僕は神田を引き取りに行き、急いで玄関まで向かった。そこには既に濃紺に睡蓮模様の浴衣に身を包んだ真由美が待っていた。長い髪を簪で結わえている。やはりいつ見ても美しい。ついつい見とれてしまう。

「かぁんだぁ~!ん?寂しくなかった?」

 真由美に顎を触られ、神田は嬉しそうに舌を出した。犬のくせににやにやしやがる。

「真由美様、行きましょう」

伊豆山神社に歩きはじめてから一時間ほどで到着した。神社がある山の中腹まで長い石段があり、真由美は上るのが面倒になったのか、途中から「浮遊術」を使い、必死に歩く僕と神田の横をふわふわと飛んでいた。

「そういう術が使えていいですね」

「なに言ってんの。私はか弱い女の子なんですからね」

 女の子ではないような気もするが、言及しても仕方がない。

 息を切らしながら何とか上りきった僕は、他の参拝客が誰もいなかったのでお清めの水をがぶ飲みした。

「シンヤくんったらやあねえ~」

 真由美が横で「オホホホ」と笑っている。自分は浮遊術なんて使えるから楽なもんだろう。

 と、突然神田が大声で吠え始めた。見ると雄の狛犬(口を開けている方)に噛みつかんばかりの勢いで威嚇していた。神田がこれほどまでに殺気立った様子を見るのは初めてだ。

「神田さん、どうしたんですか」

 僕はその狛犬をじっと見た。確かに何か様子がおかしい。他の人にはわからないようなことかもしれないが、僕にはその狛犬が陽炎のように僅かに揺れているように見えた。

「私が直々に来たというのに千姫が出迎えに来ないのはおかしいわ。シンヤくん、あの狛犬に何か感じる?」

「はい。霊的パワーを感じます」

「コォーッ!」

 神田が飛び掛かると狛犬の中から、イタチほどの大きさの色の薄い狐が飛び出してきた。

「管狐ね。神田、やってしまいなさい!」

 真由美がそう言うと神田は管狐に飛び掛かり、あっという間にその首根っこを押さえつけた。管狐はじたばたしていたが、暫くすると大人しくなった。

「やだわね。薄汚い狐だこと。シンヤくん、それ持ってきてちょうだい」

 おいおい大丈夫かよ、と思いながら僕は大人しくなった管狐を拾い上げた。真由美はいそいそと神社の本殿へ歩きはじめる。僕と神田もそれに続いた。

千姫、もう大丈夫ですわよ!」

 真由美がそう言うと堂の奥の方がぼんやりと光り、スーッと赤い着物を着た女の子がやってきた。人間の見た目では小学校低学年ほどだろうか。さすがは真由美が言うほどの可愛い顔立ちの女の子だが、僕が想像していたような色気は全くない。

「やや!これはこれは天照様!相変わらずお美しい。して、何故このようなボロいところへ」

 見た目は申し分なかったが、何だか声はしわがれていて年寄りじみていた。

「久しぶりねえ千姫。表の狛犬に管狐が憑りついていたわよ」

 千姫はちらりと僕の右手の管狐を見た。

「ああ、その狐でござりまするか。一週間ほど前にここへ棲みついてしまい難儀しておりました。ずっと探しもっておりましたが、まさか狛犬に憑依しておったとは。こりゃこりゃ、お恥ずかしい」

 右手の扇子で頭を軽く叩き、ぺろりと舌を出した。何なんだこの神様。全然神様っぽくないじゃないか。外見は普通に可愛いが中身はおばさんだ。

「こら、そこの小童!おばさんとは何だ!」

 千姫がこちらをぎろりと睨んだ。心を読まれたのだ。

「す、すみません!つい」

「ふん。まあよいわ。わらわもだてに一千年も生きてはおらぬ。それにしてもお主、管狐を掴める上にわらわのことが見えるとは、実に興味深いのう」

 横にいた真由美が色っぽい声でくすりと笑った。

「私も最初は驚いたわ。シンヤくんはもしかしたら陰陽師か何かの末裔なのかもしれないわねえ」

「天照様、適当なことを言うてはなりませぬ。さすがに気づいておられるのでしょう。こやつには人ではない邪な血が流れておりまする。そこの犬神の成りそこないといい、あなた様はなぜそんな妖どもをお近くに置くのですか」

 神田は千姫を睨み「ウーッ」と全身の毛を逆立てた。

「あら、別にいいじゃない。普通の人間や動物じゃ面白くないわ」

「ちょっと待ってください!神田さんが犬神?それに僕に邪な血が流れているって何ですか!」

 真由美は申し訳なさそうに言った。

「シンヤくん、あなたは知らない方がいいんじゃない?」

「天照様、いずれ全てを知ることになるのです。早いうちに教えてやってはどうですか」

 真由美は暫く考えていたが、僕に強く押されやっと口を開いた。

「いいわ、教えます。シンヤくんあなた、妹はおろかご両親もお亡くなりよね?」

僕は無言でうなずいた。確かにそうだ。妹は幼稚園の時に川で溺れて亡くなっている。親も三年ほど前、一度に交通事故で亡くした。それどころか僕は父方も母方も祖父や祖母に会ったことがない。

「あなたの父方のお祖父さんのお祖父さん、つまり高祖父の和重さんは二十歳の時に赤沼の河童と交わっているわ。そう、つまりあなたのひいお祖父さんは河童と人間の合いの子なの!」

 僕は言葉を失った。ということは、僕は河童の子孫ということになるのか。よりによって何で河童なんだ。どうせならもっとカッコいい、龍とか鳳凰とか……。っていやいや、そんなことよりもその和重とかいう爺さんは何で河童なんかと子供を作ったんだ……

「まさか……そんな……

「シンヤくん、あなた確か水泳得意よね?それはあなたに河童の血が流れているからよ。私たちが見えるのも、ちょっとした霊感があるのも全部河童の血のおかげなの」

「ふむ。そういえばこやつはどこどなく河童っぽい顔をしておる。ほっほっほ」

「あらもう、千ちゃんったら。いくらシンヤくんが河童の子孫で顔が河童みたいで河童にしか見えないからって河童っぽいなんて言っちゃ可哀そうよ~。うふふ」

「河童河童言わないで下さいよ……

 じゃあ僕の親父も河童の血が流れていたというのか。末恐ろしい。

「神田についても、犬神と何かの子がなぜかあなたに憑りついていたみたいね。まあ河童だから仕方ないか」

 真由美は「アハハハ」と笑い出した。僕も無理やり笑った。そうだ。別に河童の血が流れているからといって困ることはないはずだ。むしろこうして真由美に出会って恩恵を受けているじゃないか。そう自分に言い聞かせ、無理やり納得した。

「それにしてもこの管狐どういたそうか」

 千姫が僕の手の管狐を恐る恐る見た。死んではいないようだが、何だか元気がないようだ。

「いっそ神田の餌にしちゃう?」

 真由美がそう言うと管狐は暴れ出した。

「冗談よ、冗談。それにしてもどうしてこんなところに管狐がいたのかしらねえ」

「そういえばこの前の台風の時にスサノオ様が天上界から降りてきたと噂に聞きましたよ。スサノオ様といえば天上界きっての暴君ですからなあ。何かその影響で妖どもが狂いだしたのではないでしょうか」

 真由美はなるほどねえと唸った。

「スサ……あいつまた下界で悪さするつもりなのかしら」

 スサノオ古事記を勉強してよく知っている。イザナギイザナミの息子で、天照大御神の末の弟だ。英雄だったという説もあるが、実際はかなり凶暴なやつだったらしい。三種の神器の一つである天叢雲剣を八岐大蛇から勝ち取ったというのは有名な話だ。

「真由美様、まさかそのスサノオさんを捕まえに行くなんて言わないですよね」

「うーん。スサは強いからなあ。さすがの私でもあいつと喧嘩したら勝てないわ」

「真由美様でも勝てないんですか……

 一体どれだけ強いやつなんだ。

「仕方ない。こうなったら是が非でもツクヨミを見つけ出してスサノオに備えるわよ」

 何だかとんでもないことになってしまった。神様同士の対決なんて一体何があるかわからない。この世界すら壊してしまうのではないだろうか。

「天照様、おやめください。さすがに危険でござりまする。スサノオ様は英雄気取りですからきっと下界に新たなモンスターを探しに来たのでしょう。そこで立ちはだかれば実の姉と言えど敵とみなされますぞ。こんな平和な世界に今どきモンスターなんかいるものですか。スサノオ様の勝手な思い込みでこの大日本帝国をぼろぼろにしてほしくない!」

 確かに千姫の言うとおりだ。それに僕だってやっと稼ぎのいい仕事にありつけたのだ。こんなところで変な旅に巻き込まれたくない!

「コォーッ、コォーッ」

 神田も股にしっぽを挟んで怯えている。

「ねえ千姫、管狐が来た時になにか変わったことはなかった?やっぱり管狐がここへ来たことは何かよからぬことの予兆だと思うの」

「そうですねえ。一週間前はちょうど雷の多い日にござりました。やはりスサノオ様が降りてきたのも一週間ほど前のよう思います。雷はこの伊豆を中心に大きいのが落ちたとか」

「なるほどね。つまりスサはこの近くに降りたということか。でもまあ、全く手掛かりがない以上私たちにできることはないでしょう。スサだって考えを改めてくれたのなら悪さしないかもしれないし」

 千姫は「一理ありまするな」とうなずいた。

「ですがスサノオ様が何かやらかした時にはお姉さまとして、然るべき対応をお願いしますよ。わらわも仕えている身故、勝手に出歩くわけには行きませぬからね」

「わかったわ千姫。じゃあ私たちは戻りましょうか」

 真由美は僕と神田ににっこりと微笑んだ。

「この管狐はどうするんですか」

 真由美に訊ねると千姫が応えた。

「仕方あるまい。そやつは私が天界へ送り届けよう。妖といえど稲荷の大事な奉公人。多く存在するからとて、仕事を休まれては稲荷もさぞかし困窮のことであろう」

 千姫は僕から管狐を受け取ると「ではでは」と本堂の奥へ消えていった。

「神田、これから大変なことになりそうね」

 真由美に撫でられても、神田は怯えたように「クゥ」と鳴いただけだった。

「真由美様、未来を見てはどうですか」

 名案だと思ったのだが、真由美はしゃがんだまま静かに首を振った。

「神仏に関係する未来を見ることはできないわ。私は神だけど他にも神がいる限り、できることが制限されてしまうの。特に私は争い事には特化していないわ。空から日光を注いで、自然と調和することぐらいしかできないのよ」

「真由美様……

「正直に言うとあなたの未来も見ることができないの。あなたには人間ではない血が流れているから……。でもだからあなたといると何が起きるかわからなくて楽しいわ。普通の人間じゃつまらないもの」

真由美はすっと立ち上がると「疲れたから温泉に行こうか」と微笑んだ。やはり本物の女神の笑顔はこちらが恥ずかしくなるほど眩しいものだった。