あれから
僕の平和をぶち壊す報せはこたつの中にいるときにやってきた。ねーちゃんがフロリダから帰って来たのだ。なんの前触れもなく、いきなり。
「ただいま~」
聞きなれた懐かしい声に、まさかと思いこたつ布団から顔を覗かせると、あろうことか目の前にねーちゃんが仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。
「そこどきな」
慌てて場所を譲ると、どっこいしょっ、とこたつに足を突っ込む。三年ぶりだが見た目は特に変わっていなかった。ソバージュというのだろうか、その金髪の縮れ麺みたいなパーマも、どぎつい紫にヒョウ柄をあしらったパーカという趣味の悪い服装も、そして、その目元だけ白い、逆パンダみたいなガングロも……。
タケノコ族かよ!てかいつの時代の流行だよ!
「ね、ねーちゃん……」
「あんた、こんな時間に何してんの。小学校は休みなわけ?」
ただいまの時刻は午後二時すぎ。ちなみに今日は月曜日だが、一学期の始業式だったので午前中で終わったのだ。
「午後から休み。ていうか、ねーちゃんこそ……」
ぎろりと鋭い目でこちらを睨む。僕は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった。
最後に会ったのはねーちゃんがフロリダに旅立つ日の朝の空港。ねーちゃんは高校を卒業するとフロリダにあるナントカ大学(聞いたことのない怪しげな名前の大学だ)に留学していった。確かあの時僕は小学校三年生になった頃だった。
「……なんで帰ってきたの?」
恐る恐る訊ねるとねーちゃんは呆れかえったようにわざとらしいため息をついた。
「あんたさあ、久しぶりに会ったってのにもっとマシなこと聞けないわけ?まあオコチャマだもんね。仕方ないよね」
カチンときたが、ねーちゃんと喧嘩して勝てないことは知っている。
僕が小学校二年生の時、高校から帰ったねーちゃんが「それ貸しな」と僕から買ってもらったばかりのDSを奪い取った。十分だけならとしぶしぶ貸してやったのだが、十五分経っても二十分経っても返してくれなかったので、「返せよ!」とねーちゃんの髪を少し乱暴に引っ張ると「てめぇなにすんだこら」と凄み、その後何やら電話を始めた。数十分後、柄の悪いお兄さんたちが来て、僕は彼らと遊ぶことになった。
なんだか嫌なことを思い出してしまい、僕は一人ため息をついた。と、ねーちゃんは「喉乾いちゃった
ぁ」と僕の頬をつついてきた。本来小悪魔的な仕草だが、ねーちゃんがやると本当に胡散臭い。正直言っ
てかったるかった。
「お茶?水?」そう言って渋々立ち上がってやる。
「え~、オレンジジュースがいい。今のあたしオレンジジュースしか飲まないもーん」
なんだこいつ。せっかく人が親切で聞いてやってるってえのに。だいたいどうしてこんな性格なんだろう。前からこんなだったっけ?それともアメリカンナイズされてこんな風になってしまったのか……。
「ないよ、そんなもん」
そう言って突き放すと、ねーちゃんは呆れたように肩をすくめた。
「なっちゃん」
「誰?」
ねーちゃんはまた呆れたように肩をすくめた。「オレンジジュースといえばなっちゃんでしょーが。買ってきて」そう言ってどえらく派手な金ぴかの財布から千円札を取り出し、僕の前でひらひらさせた。
「おつりは全部あげるから。買ってきてよ」
僕はごくりと生唾を飲み込んだ。(数日前になったばかりではあるが)小学六年生にとって、千円というのは紛れもなく大金だ。ねーちゃんのつかいっぱしりをさせられるのは抵抗があったが、ジュース一本買えば残りのお金をくれるというのだからとんでもなくいい話だ。
「いいよ。わかった。買ってくる」
「へへっ、それでこそ我が弟だ」
僕はサンダルをつっかけ、家から約二百メートルの距離にある自動販売機まで行き、目的の「なっちゃんオレンジ」を一本と、自分用に八十六茶を買った。数あるお茶の中でこれが一番美味いのだ。
ペットボトル二本で三百円。残りの七百円が手取りになった。明日学校でヒロシやカナコに自慢してやろーっと。
意気揚々と家に帰ると、ねーちゃんは「おせーんだよ」とこたつに包まるようにして、僕のおやつ用にお母さんが買っといてくれたポテチを貪っていた。本当にふてぶてしいねーちゃんである。確か名前をユリ子とかっていったはずだが、そんなかわいい名前このねーちゃんにはもったいない。お前なんかにはせいぜいジャイ子かブー子あたりがいいところだ。
僕は仕方なく五○○ミリのペットボトル――なっちゃんを差し出した。するとジャイ子、じゃなかった、ねーちゃんは訝しげに眼を細めた。
「一本だけ?」
「……え?」
僕は耳を疑った。
「じゃあ、そっちは?」
しまった!八十六茶を左手に持ったままだった。ねーちゃんのことだ、これも寄越せとかって言うんじゃないだろうな?
「もしかしてあんた、あたしをジュース一本でちょろまかそうとしたわけじゃないよな?」
よな?女が使う言葉かよ……。
「千円で百五十円のジュースが何本買えるか言ってみな」
「えーっと……」
頭の中で計算してみる。小学生といえどこのぐらいの計算ならできる。三本で四百五十円。それが倍で九百円で百円のおつりが出る。
「六本、かな」
「ん?待って。今電卓で計算するから」
そう言って巨大なタブレット端末をカバンから取り出してごそごそしている。自分で聞いておいて、つくづく馬鹿な女である。よくこんなんで(聞いたことない名前とはいえ)フロリダの大学に行けたもんだと妙に感心させられる。
「ああそうそう。六本ね。ほんじゃあ百円のおつりが出るでしょ。それがあんたの取り分よ」
「いやいや、いくらなんでもそれはないでしょ」
僕がそう言うや否や、ねーちゃんの目じりが吊り上がった。今度はどんな屁理屈を持ってくるのだろうかと僕はビクビクした。
「あんた、いい男の条件を知ってるかい?」
いきなり何の話だろう。ここは適当にそれらしい言葉を並べておくか。
「高収入、高学歴、高身長?」
「三高かよ。つかいつの時代だ?」
タケノコ番長には言われたくないものである。
するとねーちゃんは「んなもんイケメンに決まってんだろうが」と言い捨てた。
「はあ……」話の筋が全く読めない。顔の話?だから何なんだよ?
「じゃあイケメンとは何か。顔がいいだけじゃあ本当のイケメンとは言えないんだよ。そう、本当のイケメンとはレディに対する優しさを持つ男のことだ。だけどあんたは、たった数百円ぽっちの為にその、男として最も大切な優しさを忘れちまってる。なあ、コウヘイ、そうだろ?」
そんなマジな目で見つめないでくれよ……。僕はどうしようもなくうなずいた。
「そうだろ、コウヘイ?フロリダにはそんなイケメンが大勢いたぜ。なあコウヘイ、あんたも好きな女の一人や二人ぐらいいるだろ?その子を幸せにしたいならイケメンになれ。な?」
「は、はい……」
仕方なくポケットから七百円を取り出し、ねーちゃんに手渡す。ねーちゃんは「よしよし」とそれを例の派手な財布に滑り込ませた。
次の日の昼休み、教室でヒロシとカナコにそのことを話すと、二人とも同情したような顔をした。
「ドンマイ、コウヘイ」とヒロシは同情してくれたが、カナコは何故か楽しそうに聞いていた。
「ジュースのことだけじゃないんだ。ねーちゃんが帰ってきたせいで僕んちは崩壊寸前なんだよ!このままじゃ一家離散ものなんだよ」
「え、なあに?」途端にカナコが目を輝かせた。女子は何故かこういう話に興味を持つんだよなあ……。
「昨日の夜さ、ねーちゃんが久しぶりにフロリダから帰って来たから家族で焼き肉行ったんだ。そしたらねーちゃんが店員に色目使って」
「色目ってなあに?」
カナコの質問に僕とヒロシは顔を見合わせたが、ヒロシが取り繕うように説明した。
「ああ、あれだよ。えーっと、あれあれ。なんか、あれ」
「なによ」
「えーっとね、アハ~ン、ウッフ~ンってやつ」ヒロシは腰を艶めかしくくねり始めた。
「いやヒロシ、そこまでじゃなかったけど……」
「ああ!同伴ってやつね!」とカナコ。
「……」
「ん?アフターの方?」
それってキャバクラかよ!
「ああーっ!」突然ヒロシが大声を上げた。「今日一組のやつらとドッジの試合じゃね?こりゃあマジで絶対に負けられない戦いがそこにはあるパティーンじゃないですかこれ!戦闘能力五〇〇〇の俺がいねえと話にならん」
何を基準に戦闘能力が設定されるのか僕には理解できなかったが、このクラスの男子にはそれぞれ戦闘能力なる数値が設けられていた。ちなみにヒロシに言わせると、僕の戦闘能力はたったの二○らしい……。
六年生は二クラスで、毎週金曜日に来週のグランドの配分を決めるドッジボールの試合があるのだ。基本的に自由参加だが、確かにヒロシがいるのといないのとでは差が出てしまうだろう。
「もうすぐ始まるぜ。行くぞコウヘイ!カナコも来るか?」
「う~ん、めんどいからいいや」
そう言うとカナコはふらりと女子の群れに消えていった。ヒロシはそれには構いもせずに走り出した。
「待てよ、ヒロシ」
「へっへ~ん!」
だが試合は惨敗だった。教室に戻るや否や、服を土で汚した男たちは呻きだした。
「ああ~くそ、顔面はセーフだろーが!」
「つーか片桐のやつ普通にライン越えてただろ」
「言俵め~、女子ばっかり狙いやがって」
その時授業開始のチャイムが鳴った。
「みんな国語の用意はできてるかしら~」