【オススメ!】タイトル未定

 僕はしがない占い師。別段未来が見えるわけでもないのに僕の店は客が途絶えることが無い。僕は普通に接客し、それらしいことを言うだけ。それで一回の面談料が五千円というのだから儲けものだ。

 僕がこうして安泰に暮らしていられるのも全て真由美のおかげ。真由美が誰かって?それはまたおいおい話すことにしよう。ただ一つだけ言っておくとすれば、僕には一つだけ能力がある。霊感が人よりも働くということだ。え?じゃあ真由美が幽霊かって?いやいや、これが実はそうでもないのだ。

 

 今日も僕の店、「新宿○8」には大勢の客が来ていた。

「あんたホントに未来が見えんの?どう見ても、ただのどこにでもいそうなお兄ちゃんじゃなあい」

 でっぷり太った女は椅子に深く腰掛け、タバコを吸いながらこちらをぎろりと睨んだ。この狭くて暗い室内では、どちらかというとこの女の方が占い師に見えることだろう。僕はスーツの襟を正した。

「ええ、もちろん。未来も過去も見えますよ」

 僕は机の上に置いた水晶玉を覗き込みながら微笑んでみせた。こうすることでそれらしく見えるからだ。実はこの水晶玉はガラス製で、ヤフオクで千円で買ったものなのだが、誰一人としてそのことに気づかない。

「じゃあ何か言い当ててみなさいよ」

「仕方ないですね」

 僕は水晶玉に念力を送るふりをした。

「おっおっ、来ました来ました!今降りてきましたよ」

「何が降りてきたのよ?」

 女は疑いの眼差しを僕に向ける。こういった客は最初から占いというのを信じていないから困る。何かトリックがあるんじゃないかと見破りに来ているのだ。

 まあ、あながちこれもトリックでないと言えば嘘になるが――

 その時、部屋全体にフローラルな香りが広がり、僕の肩に後ろから誰かがそっと手を載せた。だが実際、僕の後ろにあるのはベニヤ板に布をかぶせた壁だけ。そう、僕の肩に手を載せた女性こそが真由美なのだ。そして真由美は僕以外の人間の目には映らない。

「シンヤくん、このオバサン、三度も離婚しているようね。しかも三回とも男が不倫して逃げられたみたいよ」

 耳元で震えるほどセクシーな軽い笑い声がした。僕は真由美に小さく礼を言うと目の前の女に言った。

「恐縮ですが、あなたには三回ほど離婚経験がおありと見受けられます。しかも三回とも旦那さんに逃げられた。違いますか」

 女は歯をカチカチ言わせながらうなずいた。既に僕を信じ始めているようだ。

「な、ななな、何でわかったの?」

 僕はにっこりと笑ってみせ、決め台詞とばかりに言い放った。

「そりゃあ、占い師ですからね」

 女は目と鼻をがん開きにし、満足げに何度もうなずいた。

「なるほどね。じゃあ早速あたしの未来を見てもらおうかしら」

「どの未来になさいます?」

 僕は壁に貼り付けてある表を指さした。

  1. 恋愛。

2、結婚。

3、家庭。

4、仕事。

5、健康。

6、金運。

そして7が人生だ。

だが人生に手を出すものはなかなかいない。そればかりは言い当てられるのが怖いのだろう。

「二番の結婚でお願いするわ」

「かしこまりました」

僕はまた水晶玉に念力を送るふりをした。途端に真由美が耳元で甘い声で囁く。

「うーん、まあ努力次第ね。婚活パーティに何度も行けばいい相手が見つかるんじゃない?まあまずはそのチリチリパーマをどうにかすることね。ウフフ」

「ありがとう、真由美様」

「え?あたしマユミじゃないわよ。千鶴子よ。チ・ヅ・コ。それにしてもアンタ結構かわいい顔してんじゃな~い。どう?今夜」

 目の前の女が真っ赤な唇の間からこれまた真っ赤な舌をチロチロと出したので、僕の全身は拒絶反応を起こしたのか、ガタガタと震えだした。

「さ、さて、何の話ですか。さあ、わかりましたよ。今後婚活パーティに積極的に参加すればいい相手が見つかりますよ。でもまずは髪形を変えると更に運気が上がるとのことです」

「あらそう?でも何だか曖昧な答えだわね。その男性の名前まで教えてちょうだいよ」

 すかさず真由美が「タケダノリフミよ」と言う。

「タケダノリフミ。あなたの運命の相手はタケダノリフミさんという方です」

「ありがとうお兄ちゃん。わかったわ。あたしその男性を探します!」

「ええ、じゃあ頑張ってください。お引き取りはあちらです」

 入口のすぐ横にある出口を指すと女は五千円札を机に置いて意気揚々と去って行った。

「いやあ、神様、仏様、真由美様!マジいつもありがとうございます!」

 真由美はスーッと僕の背後から離れ、正面の椅子で足を組んだ。艶めかしい太ももが着物の間から露わになった。

「うふ。いいのよいいのよ。お互い様だもん」

 やはり何度見ても美しい。簪で結わえたしなやかな黒髪に大人かわいい顔立ち。豪華絢爛な衣装を身に纏い、そこから伸びる、ほどよい肉付きの透き通るような白い手足。スタイルも抜群。さすがは僕の女神だ。いやいや、変な意味ではない。本当に女神なのだ。

「いや~ん。あんたさっきから脚ばっか見てるでしょー。この変態野郎ォー」

「いやいや!そんな、違いますって!」

 顔を真っ赤にした僕を見て真由美は面白そうに笑う。

「さあ次の客が来ちゃうわよ。頑張りなさいね」

 それから立ち上がり、机の上の五千円札を拾い自分の懐へ入れる。

 

「失礼しまーす」

 入ってきたのは貧相な感じのサラリーマンだった。スーツは皺だらけで、髭も何日も剃っていないらしい。こういう客はしょっちゅう来る。裏を返せばイケイケのサラリーマンは占いなどには興味ないのだ。

「どうぞ」

 僕が椅子をすすめると申し訳なさそうにちんまりと腰かけた。

「今日は何を占いましょうか」

「人生を、人生を診てください」

 真由美は男の横で何やらくすくす笑っている。

「何か思い詰めてるように見えますが、何かあったんですか」

 男は泣き出しそうな顔で言った。

「一か月ほど前に娘が自殺して、それから病気がちになった妻が……妻が昨日亡くなったんです。私は生涯孤独だ。一体どうすれば……

「そうですか……

 僕はちらりと男の横の真由美を見た。先ほどから何故かずっと笑いっぱなしだ。真由美は僕の視線に気づいたのかやっと説明してくれた。

「だってこの男ウソついてるんですもの。こいつ結婚すらしたことないわよ」

 なんだって?僕は男を睨んだ。

「あなたウソついたでしょ。結婚すらしたことないんじゃないですか」

 男は一瞬驚いた顔をしたが、途端にニヤニヤ笑いだした。

「うわあ、ばれちゃいましたか。凄いですね。何でわかったんですか」

「あなた何しに来たんですか……

「へへへ……

 真由美がこちらへスーッと寄ってきて言う。

「こいつ、ただ冷やかしでここへ来ただけよ。仕事クビになってイライラしてたみたいだけど。どうする?天罰いっとく?」

 何だか楽しそうだ。クビになったのは同情の余地があるが、だからといって僕の商売の邪魔をされては困る。

「そうですね。じゃあ、いっときましょうか」

 男は目を輝かせて身を乗り出した。

「え?どこ行くんですか。あ、一発の方ですか。やだな~」

 僕は肩の上で手を叩きながら大声で言った。

「お引き取りですよ~!」

 すると男は真由美に引きずられるように店を出ていった。

「ななな、なんだこれ。どうなってるんだ!」

「お代は勘弁してあげますよ」

 僕は男を追いかけるように店の外へ出た。見ると二人は既に二階から降りて表の道路にいた。

「いきますわよ!」

 真由美が叫ぶと、空から眩いばかりの太陽光がその男めがけて降り注いだ。僕は慌てて目を閉じ、また開けた時にはその男の頭部は完全に禿げあがっていた。

「何だ今の!すごく眩しかったけど。まあいいか」

 気づく様子もなく男は角に消えていった。

「大成功ですわ」

 満面の笑みを浮かべながら真由美はピースサインを出した。とんでもないことをしたというのに、なぜこうも最高の笑みを浮かべていられるのか。ちなみに天罰はいつも変わる。この前は体が物凄い異臭を放つようになるとか、全身がヌルヌルするとか、常に汗が引かないとか、様々だ。真由美によれば三日ほどで元どおりになるらしいが、確かめたことがないので定かではない。

「天罰しちゃったから今日は疲れたわ。あーやだやだ。お化粧が崩れちゃうわ。終わり終わり」

「え、でもまだ次の客が五十人以上いますよ」

 真由美は眠たそうにあくびした。

「私の言うこと聞かないと天界へ戻っちゃうわよー」

「またまたそんな。じゃあ早いけど店じまいといきましょう」

 僕は慌てて店へ戻り待合室に顔を覗かせた。

「カエデちゃん、今日は終わりだ。お客さん帰しといて」

 カエデというのは受付を任せている女性スタッフだ。真由美を入れて基本的にこの三人で経営していることになる。ちなみにカエデは元キャバ嬢だったが、訳あってここで働くようになったのだ。

「シンヤさんちょりーっす。ほーら、みんな今日は終わりだよ~。爺ちゃんも婆ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんもみんな帰んな~」

「げ、マジかよ」「いやーん。まだ占ってもらってないわよ?」「世も末じゃ」

 ぶつぶつ言いながらも客たちは大人しく帰って行った。

「真由美お姉さんまた機嫌損ねちった?」

「ん、まあね」

 カエデが真由美を知っているのにはわけがある。実は真由美は普通の人間の姿になり、他の人間にもその姿を見せることができるのだ。普通の人間の姿と言っても服装が変わるだけで、真由美そのものに変化はない。人間になった時はいつも、コンサバ系というのだろうか、普通にきれいな若奥様といった感じの服を着ている。個人的にはこっちの真由美の方が好みだ。

「んじゃあたしも帰るわ。じゃあね~」カエデはそう言い残すと階段を小走りに下りて行った。

 僕は息を吐くと真由美を呼びに占い部屋に戻った。

「では僕らも帰りますか」

「そうね」

 真由美は既に花柄のワンピースという普通の人間の格好になっていた。聞けばどうやらこの格好になると力が落ちるという。真由美はポケットから大量の五千円札を取り出し、そのうちの三枚を僕に渡した。

「はい。これシンヤくんの」

「ありがとうございます」

 残りの三十枚以上は真由美の取り分ということになる。不公平な気もするが、僕がこうして働けているのも全て真由美のおかげなんだから仕方ない。

「カエデにはまた今度渡しておくわ」

「はい」

 その後僕らは僕のバイクで自宅のアパートまで帰った。

 

 僕は六畳一間の自室で缶ビールを一口飲んだ。

「それ美味い?」

「はい、美味いっす!最高っすよ!」

 真由美は含み笑いを浮かべ「私のおかげよ」と言った。

 実は真由美はかの有名な天照大御神その人だという。今は天界から下界へ降りてきて生き別れになった弟、ツクヨミを探しているらしい。今は真由美という偽名を使い人間に溶け込んでいるのだが、天界へ戻ると一国のお姫様のようにちやほやされるという。にもかかわらずそれにはうんざりして、暇つぶし程度に下界に来て何となく弟を探しているのだという。さきほど真由美が私のおかげと言ったのは真由美が太陽の女神だからだ。ちなみにツクヨミは月の神様。

 なぜそんな偉い神様が僕なんかの商売を手伝ってくれているのかというと、実はこんな経緯があったのだ。

 

 半年前。つまり元旦、僕はそれとなく近所の寂れた神社へ行った。あまりにも小さいために他には誰もおらず、僕は何となくそこで手を合わせていた。

「年収一千万……年収一千万……

 それから目を開けると、なんとそこには艶めかしい女の足があった。目を疑ったが、やはりよく見てもそれに違いはなかった。確かめようと触れようとしたら「変態!」と叫ばれ、額を強く蹴られた。

 あまりの激痛にのたうち回った僕は、「勘弁してくださいよう」と情けないことを何度も口走っていたという。その女こそが真由美だった。

「あなた私が見えるのね?」と真由美は賽銭箱に座ったまま言った。よく覚えていないのだが、僕は半泣きで「痴漢とかじゃないですから」と言っていたらしい。

「あなた、フリーターで最近ロクなことがないでしょう」と、真由美は見事に言い当てた。

「な、なぜそれを……!」

「それはね、あなたに悪霊が憑りついているからよ!」と真由美は僕の頭を思いっきり強く叩いた。悲鳴を上げた僕はまた地面で転げまわっていたが、何だか少し肩の力が抜けて頭が良くなったような気がした。

「見なさい。これがあなたに憑依していた悪霊よ」と真由美はむんずと掴んだ真っ黒い子犬を僕の目の前へ突き出した。

「悪霊が宿るような人間は、大抵根っからのクズか、神仏や妖の類に抵抗力がないかのどっちかよ。早く取り出さなかったら、あんた、気が狂って犯罪者になっていたでしょうね。あ、私の脚をべたべた触ろうとしていたぐらいだから、性犯罪者ね!あはははは!」

 腹が立ったが、何も言い返すことができなかった。これでも一応恩人なのだから。悪霊という犬を見た。日本犬みたいな普通に可愛い子犬だったが、何だか怖くなった。こいつが自分の中にいただなんて……

すると真由美は「よし、第一町人だからあなたでいいでしょう」と僕についてくるという趣旨のことを言いだした。本気で怖かったが、何だか真由美が美人だったので家に上がることを許してしまった。邪な考えが全くなかったと言えば嘘になるが、その時はそんなことよりも好奇心が勝っていた。

 結局そのあと実は天照大御神で、という話をされ、半信半疑だった僕だったが、ぴたりと僕の人生を言い当てられ、更には「浮遊術」という怪しげな術を見せられ、信じざるを得なくなったのだ。

 それから真由美に言われるがまま占術商売を始めた。

 

「コォーッ、コォーッ」

 たった今ダースベーダのような声を発したのは、僕でも真由美でもなく、例の黒い犬だ。あの時からなぜか真由美の指示で飼い始めたのだが、成長が早いもので今ではシェパードほどの大きさになっている。最初は、悪霊なんか何で飼わなくちゃいけないんだと思ったが、真由美の話では、悪霊と言えど神仏で、それが宿っていたあなたには見所があるから飼いなさい、とのことだった。

 見た目はただの黒シェパードなのに、こいつはどうもおかしなやつで、いつもふらりと姿を消してはまた戻ってくる。家の戸を閉めていても外へ行くことができるのはやはり魔物ならではだ。真由美によるとこいつが度々出かけるのは餌を求めて出歩くからだという。その餌というのが驚くことに人間の幸福なのだとか……

「神田さん、どうぞ」

 僕は器にビールを注ぐと神田に差し出した。そう、この犬の名前こそが神田なのだ。いつしか真由美がそう呼ぶようになり、僕にはこの犬にまで敬語を使うことを強要している。

 神田はにっと歯を剥き出し、ごくごくとビールを飲み始めた。

「よしよし、かわいい奴だ」

 真由美は神田をたいそう可愛がっているが、どうも僕はこいつのことを好きになれない。悪霊だから、というのはもちろんなのだが、こいつは図ってか図らずか、なにかと真由美に甘えるのだ。犬だから当然といえばそれまでなのだが、僕には割と冷たいのに、真由美が朝起きると必ず一緒にベッドで寝ていたり、ひどいときには真由美のシャワー中に(戸をすり抜けられるのいいことに)そこへ潜り込んでいたりする。それに普通の餌は全く食べないくせにビールが大好物。なんだかどうも人間臭い。

「真由美様」

「あ?」

 僕のベッドに横になっている真由美は、スナック菓子をバリバリ食べ、その手でお尻をぼりぼり掻いた。

ツクヨミくんは見つかりました?」

「まだに決まってんだろ。見りゃわかるだろ」

 外にいる時は気品あふれるお姉さまだが、家に帰ると気の強いお姉さまになる。僕が何も言わず床に寝転ぶと真由美は言った。

「あんた、私がいてよかったね」

 家に帰るといつもこの一言から始まり長ったらしいお説教じみたことを聞かされる。

「家にいっつもこんな美女がいるなんて普通ありえないことなの。しかもそれが本物の女神様とくれば。ハッ、あんたは幸せもんだよね」

 あまりにもそんなことを言うので、この前遠慮がちに、じゃあなぜここに住んでいるんですかと訊ねた時、驚くことに真由美は悲しげな顔をして泣き出してしまった。あまりにもそれが見ていられなかったので、ついそっと肩を抱こうとしたら「今エロいこと考えてただろ」ときつく睨まれ、それから数日の間そのことできつく罵られることとなった。

「そうっすね。マジありがたいっす」僕は軽く流しながらテレビをつけた。

「こら。まだ話してんだろうが」

 真由美がそう言うとテレビはたちどころに消えた。

「何ですか」

「明日からツクヨミ、探しにいくわよ」

「仕事はどうなるんですか。カエデちゃんだって生活があるわけですし」

「じゃあカエデも連れていけばいいでしょ」

「じゃあ神田さんは?」

 真由美はにっこりと笑った。

「もちろん連れていくわ。ちゃんとリードに繋いでおきなさいね。まあ神田はウンチしないから心配ないけど」

 そういう問題じゃないだろう……

「そもそもどこへ行くんですか。あてはあるんですか」

「伊豆よ」

 こともなげにしれっと言う。そもそもなんで伊豆なんだ。

「今なんで伊豆なんだって思ったでしょ。教えてあげる。単に私が温泉に行きたいからよ」

「勘弁してくださいよ。それだったらカエデちゃんはいいじゃないですか」

「なにあんた。せっかく女二人を相手にできるチャンスなのに!あら、この言い方だと語弊があるわね。まあいいわ、私に逆らうのなら天界へ帰りますからね」

 真由美にそっぽ向かれてはこちらも職を失うことになる。仕方ない。温泉ぐらいなら行ってやろうじゃないか。

「わかりました。じゃあカエデちゃんにも連絡しておきますね」

「それでいいのよ。じゃあ私は明日に備えて寝ますからね」

 真由美がそう言ったとたんに部屋の電気が消え、雨戸が閉まり真っ暗になった。僕は文句も言えずポケットからケータイを取り出し、急いでカエデにメールした。ずっとケータイの画面を明るくしていると真由美に怒られる。

 最初に真由美が家に来た日からベッドは完全に彼女のものになった。この家での立ち位置も、真由美、神田、僕という順番になってしまった。だが僕は後悔していないぞ。真由美のおかげでフリーター、いや、半ニート状態から抜け出せたのだ。これからも真由美を信じてやっていくしかない。死ぬまですがりついてやるぜ。何たって神様なんだから百人力だ。

 五分後ぐらいにカエデから「何ですと」という短すぎるメールが返ってきたので、僕は外に出て電話をかけた。

「もしもし、シンヤだけど」

「どうしたんすか~。あたし今寝てたところなんですけど」

 何なんだ一体。本来ならまだ勤務時間内だぞ。そもそも真由美もそうだが午後二時なんて普通寝る時間じゃない。

「いきなりごめんね。ちょっと姉さんが突然伊豆に行きたいとか言い出して。それで、良かったら一緒に来ない?」

 電話口の向こうでカエデがニヤリと笑ったのがわかった。

「新手のナンパっすか。行きたいのは山々なんですけど、なーんかうちのピー太郎が風邪こじらせちゃって。つーことで今回はパスで」

 ピー太郎とはカエデが飼っている九官鳥だ。だが僕はその九官鳥自体はおろか、カエデに写メすら見せてもらったことがない。カエデが仕事を休む時はいつもピー太郎に纏わることだが、本当に存在するのかすら怪しいところだ。僕は「了解。じゃあお大事に」と電話を切った。

 明日は店を閉じて伊豆か。多分日帰りじゃ済まないんだろうな……

僕はなんとも言えない心もちのまま、することもなく部屋へ戻った。

 

 

 

   二

 

 伊豆への電車で、僕は神田を抱えながら肩身の狭い思いで揺られていた。神田は僕じゃ嫌なのか時折足をばたつかせて離れようとする。僕に憑依して幸福を食べていたくせに、いけ好かない犬だ。

「神田、餌が欲しいのね?」

 真由美は猫なで声で神田の頭を摩った。満員電車の中だというのに目立つじゃないか。

「餌って……幸福、ですか」

「そうよ。まあこれだけ人がいるんだからたくさんあるでしょうけど……。どう?食べたい?」

 神田は長い舌を伸ばしハアハアと応えた。

 真由美はにっこりと微笑むと僕に神田を離すように言った。恐る恐る手を離すと、突然神田は姿を消した。既に知っていたことだが神田は姿を消すことができる。その状態で人間に入り込むこともできるのだ。

 面白いことに今朝神田に付けた赤い首輪だけが色を残して辺りをふわふわと飛び回っている。色々な人のところへいっては暫くじっとしている。可哀想に。神田に幸福を食われているんだ。そもそも人の幸福を餌にするなんてなんと意地の悪い犬なんだ。

「シンヤくん、ちゃんと旅館取っといてくれた?」

「はい。紅葉荘とかいう古いけど立派な旅館です。露天風呂もあるみたいですよ」

 これだけ金を儲けていれば多少高い旅館に泊まっても支障はない。一日一万五千円。並のサラリーマン以上の稼ぎだ。真由美は満足げにうなずき「ありがとね」と優しい声で言った。外でこれなのだから、家でもこの調子でいてくれればいいのに。結婚すると女は変わると言うが、真由美もそんな感じなのだろうか。

「ねえシンちゃん」

 真由美は突然色っぽい声を出した。

「な、何ですか」

 潤んだ瞳でじっとこちらを見つめてくる。緊張のあまり僕の手はじっとりと汗ばんだ。

「あなたはどうして私に自分の未来を聞かないの?ずっと思ってたんだけど」

 ああ、そのことか。

「だって、それこそ占い師ならともかく、本物の神様に聞いたらどうしようもなくなるじゃないですか。やっぱり人生の先が見えたら楽しくないし」

「なるほどね」

 真由美は嬉しそうに笑った。

「私、シンヤくんのそういうところ好きよ」

「そんな、からかうのはやめてくださいよ」

「ふふ、どうかしら……いやん!」

 真由美は突然大声を上げた。近くにいた全員の視線が集まる。痴漢か!と思い真由美の足元を見ると神田がスカートのほど近くで鼻をヒクヒクさせていた。何だかいつになくいい感じだったのに。この変態犬め……。僕は神田を殴りたくなったが、そんなことができるはずもなく慌てて抱き上げた。

「こら、だめだろ」

 小声で叱ると神田は「コォーッ」と笑った。本当に変態なんじゃないのか……

「あらシンヤくん、神田にはちゃんと敬語を使ってほしいものだわ」

「す、すみません。だめですよ、神田さん」

 近くにいた乗客がくすくす笑った。何なんだこの茶番は。まあ神田も一応神仏の類だから仕方のないことか。でもどうして神田は他の人にも姿が見えるのだろう。

 

 そんなこんなで僕たちはどうにか伊豆の紅葉荘に無事到着することができた。

「ようこそお越しくださいました。お荷物お持ちしますね」

 旅館の女将が出迎えに来た。荷物と言っても僕はボストンバッグに着替えが少し入っているだけで、真由美に至っては手ぶらだ。僕は「大丈夫です」と手を振った。

「あら、ワンちゃんですか。すみません、部屋に動物は……

 神田は寂しげに「クゥー」と鳴いた。何だこいつ。どうせ真由美と離れるのが嫌なんだろう。

「こちらではペットの預かりサービスも行っておりますよ。一泊三千円からですが」

「わかりました。お願いします」

 僕はしめたとばかりにリードを女将に渡した。これで暫くはこの変態犬の顔を見なくて済むぞ。

「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」

「えっと、神田です。神田川の神田」

「へ、へえ。変わった名前ですこと」

 女将は薄笑いを浮かべていたが、近くにいた中居さんに部屋に案内するように言った。

 

 案内された部屋は二人で使うには広々としていた。畳敷きで真ん中にローテーブルがある。

「そこの障子を開けるとこの旅館の名物の庭園があるんですよ」

 中居さんが障子を開けると松やら梅やらが生えるなんとも風情ある庭が広がっていた。

「へえ、池まであるのねえ」

 真由美が感嘆したように言ったのは、もしかすると目の前の風景を天界と重ね合わせているからなのかもしれない。

「お客様はSコースをご利用なので、六時から七時まで露草の湯が貸切となっております。ではごゆるりと」

 中居さんはそう言い残して部屋を出ていった。僕は軽く会釈しながら見送っていたが、振り向くと真由美は人間の姿から神様風の豪華な衣装に変わっていた。いつもそうなのだが、僕は真由美の着物が変わる瞬間を見たことがない。

「ねえ、なんで部屋が一個なのよ。私と寝たかったの?」

 真由美は僕を咎めるように目を細めた。

「いや、そんなつもりは……。てか、そもそも、アパートでは一部屋ですよね?」

「ん、はぁ~あ。何だか疲れたわねえ」

 話を逸らしたか。真由美は気だるそうに畳の上に横になった。僕は真由美を労うためにテーブルに置かれたポットで湯呑にお茶を注いだ。

「どうぞ」

 真由美は身を起こし、「たまには気が利くじゃない」と満足げに茶を啜りだした。僕も自分の湯呑に注いで飲んでみた。さすがは静岡の緑茶というだけあってなかなかの味だ。

「まあまあね。でもま、人間が淹れたお茶にしては上出来かしら」

「人間以外にもお茶を淹れてもらうことがあるんですか」

「そりゃあね。天界じゃお姫様だもの。烏天狗や稲荷がかわりばんこにハーブティーを運んでくるわ」

「天界って、天国みたいなものですか」

 真由美は湯呑をコトンと机の上に置き、視線を宙にさまよわせた。

「まあ似たようなものかしらね。天国のさらに上にあるのが天上界。二つをまとめて天界というの。人間レベルじゃ、天界、つまり天国へ行けば基本的には下界には戻れないけど、神様や仙人級の官位になれば暇なときに降りてきたりできるのよ。私みたいにね。まあ実際天国に行ける人間なんてごく僅か。ほとんど輪廻転生からは抜け出せないのよねえ」

 僕はごくりと唾を飲んだ。

「生まれ変わり、ですか」

「そうよ。単純な仕組みよ。それなりに徳を積めばまた人間になれる。いい人生を送れるかなんてのもある程度生まれた時点で決まってるわ。因果応報ってやつよ。でも、前世で徳のある人間だったとしても現世でクズってこともしょっちゅうよ。まあ前世と現世では別の人間だもんね」

「もし人間になれなかったら?」

「犬猫家畜に鳥や虫、植物などなどってとこかしら。実はちゃんとした階層構造があって人間を頂点に成り立ってるわ。全ての命は生まれ変わるたびに一段ずつしか上には行けないけど、下へ行くのはあっという間。特に人間なんて私欲のために何でもする生き物。あんたも気を付けなさい」

「僕は、死んだらどうなるんですか」

「あら。未来は知りたくないんじゃなかったの?」

「え、まあ」

 真由美は大きく伸びをすると「せっかく伊豆まで来たんだし」と立ち上がった。

伊豆山神社にお参りに行くわよ」

 どこかへ行った時に近くの神社にお参りに行くのは恒例行事だ。まあ真由美の場合はそこにいる神様に挨拶するのが目的なのだが、大抵の場合自分よりも下級なのでちゃんと働いているか視察に行くと言った方がしっくりくる。

「今回の神様はどなたですか」

「えーっと、確か天忍穂耳尊拷幡千千姫尊、それから瓊瓊杵尊の三人で回していたはずよ。今年は順番的に姫尊が当たってたはず」

 ほとんど聞き取れなかったが、言いたいことは何となくわかった。これも前に真由美に教えてもらったことだが、神社には複数の神様をお祀りしているところが多くあり、そういう場合は毎年順繰りに任期を任せられるという。任期に当たっていない神様は天上界で休暇中なのだとか。真由美に出会ってから必死に古事記日本書紀を勉強したが、登場する神様が多すぎて未だによくわからない。

「真由美様は何でも知ってるんですね」

「神様なんだから当然よ」真由美は豊満な胸を反らせ、鼻から息を吐き出した。

「にしてもあんた、よかったわね。千姫めちゃくちゃかわいいわよ」

 タクハタナントカ姫尊のことらしい。まあ真由美がそう言うということは相当なのだろうが、別にかわいくても神様に手を出すことはできない。まさに雲の上の存在だ。

「じゃあ早速向かいますか」

「ええ。神田も連れてきてちょうだい」

 

 僕は神田を引き取りに行き、急いで玄関まで向かった。そこには既に濃紺に睡蓮模様の浴衣に身を包んだ真由美が待っていた。長い髪を簪で結わえている。やはりいつ見ても美しい。ついつい見とれてしまう。

「かぁんだぁ~!ん?寂しくなかった?」

 真由美に顎を触られ、神田は嬉しそうに舌を出した。犬のくせににやにやしやがる。

「真由美様、行きましょう」

伊豆山神社に歩きはじめてから一時間ほどで到着した。神社がある山の中腹まで長い石段があり、真由美は上るのが面倒になったのか、途中から「浮遊術」を使い、必死に歩く僕と神田の横をふわふわと飛んでいた。

「そういう術が使えていいですね」

「なに言ってんの。私はか弱い女の子なんですからね」

 女の子ではないような気もするが、言及しても仕方がない。

 息を切らしながら何とか上りきった僕は、他の参拝客が誰もいなかったのでお清めの水をがぶ飲みした。

「シンヤくんったらやあねえ~」

 真由美が横で「オホホホ」と笑っている。自分は浮遊術なんて使えるから楽なもんだろう。

 と、突然神田が大声で吠え始めた。見ると雄の狛犬(口を開けている方)に噛みつかんばかりの勢いで威嚇していた。神田がこれほどまでに殺気立った様子を見るのは初めてだ。

「神田さん、どうしたんですか」

 僕はその狛犬をじっと見た。確かに何か様子がおかしい。他の人にはわからないようなことかもしれないが、僕にはその狛犬が陽炎のように僅かに揺れているように見えた。

「私が直々に来たというのに千姫が出迎えに来ないのはおかしいわ。シンヤくん、あの狛犬に何か感じる?」

「はい。霊的パワーを感じます」

「コォーッ!」

 神田が飛び掛かると狛犬の中から、イタチほどの大きさの色の薄い狐が飛び出してきた。

「管狐ね。神田、やってしまいなさい!」

 真由美がそう言うと神田は管狐に飛び掛かり、あっという間にその首根っこを押さえつけた。管狐はじたばたしていたが、暫くすると大人しくなった。

「やだわね。薄汚い狐だこと。シンヤくん、それ持ってきてちょうだい」

 おいおい大丈夫かよ、と思いながら僕は大人しくなった管狐を拾い上げた。真由美はいそいそと神社の本殿へ歩きはじめる。僕と神田もそれに続いた。

千姫、もう大丈夫ですわよ!」

 真由美がそう言うと堂の奥の方がぼんやりと光り、スーッと赤い着物を着た女の子がやってきた。人間の見た目では小学校低学年ほどだろうか。さすがは真由美が言うほどの可愛い顔立ちの女の子だが、僕が想像していたような色気は全くない。

「やや!これはこれは天照様!相変わらずお美しい。して、何故このようなボロいところへ」

 見た目は申し分なかったが、何だか声はしわがれていて年寄りじみていた。

「久しぶりねえ千姫。表の狛犬に管狐が憑りついていたわよ」

 千姫はちらりと僕の右手の管狐を見た。

「ああ、その狐でござりまするか。一週間ほど前にここへ棲みついてしまい難儀しておりました。ずっと探しもっておりましたが、まさか狛犬に憑依しておったとは。こりゃこりゃ、お恥ずかしい」

 右手の扇子で頭を軽く叩き、ぺろりと舌を出した。何なんだこの神様。全然神様っぽくないじゃないか。外見は普通に可愛いが中身はおばさんだ。

「こら、そこの小童!おばさんとは何だ!」

 千姫がこちらをぎろりと睨んだ。心を読まれたのだ。

「す、すみません!つい」

「ふん。まあよいわ。わらわもだてに一千年も生きてはおらぬ。それにしてもお主、管狐を掴める上にわらわのことが見えるとは、実に興味深いのう」

 横にいた真由美が色っぽい声でくすりと笑った。

「私も最初は驚いたわ。シンヤくんはもしかしたら陰陽師か何かの末裔なのかもしれないわねえ」

「天照様、適当なことを言うてはなりませぬ。さすがに気づいておられるのでしょう。こやつには人ではない邪な血が流れておりまする。そこの犬神の成りそこないといい、あなた様はなぜそんな妖どもをお近くに置くのですか」

 神田は千姫を睨み「ウーッ」と全身の毛を逆立てた。

「あら、別にいいじゃない。普通の人間や動物じゃ面白くないわ」

「ちょっと待ってください!神田さんが犬神?それに僕に邪な血が流れているって何ですか!」

 真由美は申し訳なさそうに言った。

「シンヤくん、あなたは知らない方がいいんじゃない?」

「天照様、いずれ全てを知ることになるのです。早いうちに教えてやってはどうですか」

 真由美は暫く考えていたが、僕に強く押されやっと口を開いた。

「いいわ、教えます。シンヤくんあなた、妹はおろかご両親もお亡くなりよね?」

僕は無言でうなずいた。確かにそうだ。妹は幼稚園の時に川で溺れて亡くなっている。親も三年ほど前、一度に交通事故で亡くした。それどころか僕は父方も母方も祖父や祖母に会ったことがない。

「あなたの父方のお祖父さんのお祖父さん、つまり高祖父の和重さんは二十歳の時に赤沼の河童と交わっているわ。そう、つまりあなたのひいお祖父さんは河童と人間の合いの子なの!」

 僕は言葉を失った。ということは、僕は河童の子孫ということになるのか。よりによって何で河童なんだ。どうせならもっとカッコいい、龍とか鳳凰とか……。っていやいや、そんなことよりもその和重とかいう爺さんは何で河童なんかと子供を作ったんだ……

「まさか……そんな……

「シンヤくん、あなた確か水泳得意よね?それはあなたに河童の血が流れているからよ。私たちが見えるのも、ちょっとした霊感があるのも全部河童の血のおかげなの」

「ふむ。そういえばこやつはどこどなく河童っぽい顔をしておる。ほっほっほ」

「あらもう、千ちゃんったら。いくらシンヤくんが河童の子孫で顔が河童みたいで河童にしか見えないからって河童っぽいなんて言っちゃ可哀そうよ~。うふふ」

「河童河童言わないで下さいよ……

 じゃあ僕の親父も河童の血が流れていたというのか。末恐ろしい。

「神田についても、犬神と何かの子がなぜかあなたに憑りついていたみたいね。まあ河童だから仕方ないか」

 真由美は「アハハハ」と笑い出した。僕も無理やり笑った。そうだ。別に河童の血が流れているからといって困ることはないはずだ。むしろこうして真由美に出会って恩恵を受けているじゃないか。そう自分に言い聞かせ、無理やり納得した。

「それにしてもこの管狐どういたそうか」

 千姫が僕の手の管狐を恐る恐る見た。死んではいないようだが、何だか元気がないようだ。

「いっそ神田の餌にしちゃう?」

 真由美がそう言うと管狐は暴れ出した。

「冗談よ、冗談。それにしてもどうしてこんなところに管狐がいたのかしらねえ」

「そういえばこの前の台風の時にスサノオ様が天上界から降りてきたと噂に聞きましたよ。スサノオ様といえば天上界きっての暴君ですからなあ。何かその影響で妖どもが狂いだしたのではないでしょうか」

 真由美はなるほどねえと唸った。

「スサ……あいつまた下界で悪さするつもりなのかしら」

 スサノオ古事記を勉強してよく知っている。イザナギイザナミの息子で、天照大御神の末の弟だ。英雄だったという説もあるが、実際はかなり凶暴なやつだったらしい。三種の神器の一つである天叢雲剣を八岐大蛇から勝ち取ったというのは有名な話だ。

「真由美様、まさかそのスサノオさんを捕まえに行くなんて言わないですよね」

「うーん。スサは強いからなあ。さすがの私でもあいつと喧嘩したら勝てないわ」

「真由美様でも勝てないんですか……

 一体どれだけ強いやつなんだ。

「仕方ない。こうなったら是が非でもツクヨミを見つけ出してスサノオに備えるわよ」

 何だかとんでもないことになってしまった。神様同士の対決なんて一体何があるかわからない。この世界すら壊してしまうのではないだろうか。

「天照様、おやめください。さすがに危険でござりまする。スサノオ様は英雄気取りですからきっと下界に新たなモンスターを探しに来たのでしょう。そこで立ちはだかれば実の姉と言えど敵とみなされますぞ。こんな平和な世界に今どきモンスターなんかいるものですか。スサノオ様の勝手な思い込みでこの大日本帝国をぼろぼろにしてほしくない!」

 確かに千姫の言うとおりだ。それに僕だってやっと稼ぎのいい仕事にありつけたのだ。こんなところで変な旅に巻き込まれたくない!

「コォーッ、コォーッ」

 神田も股にしっぽを挟んで怯えている。

「ねえ千姫、管狐が来た時になにか変わったことはなかった?やっぱり管狐がここへ来たことは何かよからぬことの予兆だと思うの」

「そうですねえ。一週間前はちょうど雷の多い日にござりました。やはりスサノオ様が降りてきたのも一週間ほど前のよう思います。雷はこの伊豆を中心に大きいのが落ちたとか」

「なるほどね。つまりスサはこの近くに降りたということか。でもまあ、全く手掛かりがない以上私たちにできることはないでしょう。スサだって考えを改めてくれたのなら悪さしないかもしれないし」

 千姫は「一理ありまするな」とうなずいた。

「ですがスサノオ様が何かやらかした時にはお姉さまとして、然るべき対応をお願いしますよ。わらわも仕えている身故、勝手に出歩くわけには行きませぬからね」

「わかったわ千姫。じゃあ私たちは戻りましょうか」

 真由美は僕と神田ににっこりと微笑んだ。

「この管狐はどうするんですか」

 真由美に訊ねると千姫が応えた。

「仕方あるまい。そやつは私が天界へ送り届けよう。妖といえど稲荷の大事な奉公人。多く存在するからとて、仕事を休まれては稲荷もさぞかし困窮のことであろう」

 千姫は僕から管狐を受け取ると「ではでは」と本堂の奥へ消えていった。

「神田、これから大変なことになりそうね」

 真由美に撫でられても、神田は怯えたように「クゥ」と鳴いただけだった。

「真由美様、未来を見てはどうですか」

 名案だと思ったのだが、真由美はしゃがんだまま静かに首を振った。

「神仏に関係する未来を見ることはできないわ。私は神だけど他にも神がいる限り、できることが制限されてしまうの。特に私は争い事には特化していないわ。空から日光を注いで、自然と調和することぐらいしかできないのよ」

「真由美様……

「正直に言うとあなたの未来も見ることができないの。あなたには人間ではない血が流れているから……。でもだからあなたといると何が起きるかわからなくて楽しいわ。普通の人間じゃつまらないもの」

真由美はすっと立ち上がると「疲れたから温泉に行こうか」と微笑んだ。やはり本物の女神の笑顔はこちらが恥ずかしくなるほど眩しいものだった。

狛猫

     1

 

 その日は夏なのに不気味なくらい涼しい日だった。台風でも来るんじゃないか。

 ここは京都のとある寺。清水寺金閣寺のように賑うことは祭りのときもない。

俺はここの狛犬ならぬ狛猫。なぜ猫かって?それには悲しい事情があったんだ。

 

この寺が今みたいにボロじゃなかったとき、この寺に住んでいた坊さんが犬に殺される夢を見たそうだ。なんと、その犬がこの神社の狛犬そっくりだったらしい。そこで、坊さんは犬がだめなら猫だ!って狛犬を壊し、代わりに狛猫にしたそうだ。しかし、雌の狛犬を壊したとき、空から声が聞こえたんだ。

「私をよくも殺したな。夢に出たのは悪かった。だが、私は忠告しようとしたんだ。もうすぐ山犬に殺されるぞ、と」

坊さんは顔を真っ蒼にした。布団に包まり、何日も震えていた。だが、さすがにお腹がすいて、寺を出たとき、山からシロクマみたいな犬が出てきた。坊さんはあっという間に噛み殺されてしまったそうだ。

 そのことを不憫に思った村の人たちは、坊さんの葬式をした。坊さんは成仏できたのだろうか。その日も、今日みたいな不気味な天気だった。そんで、山から聞こえたんだ。山犬の唸り声が――。

 村の人たちは噂した。あの大山犬は、壊された雌狛犬の化身だったんじゃないかと。

 そのときは、もう戦の真っ最中だった。平家と源氏の。だから狛犬の修理どころじゃなかった。村の子供は、坊さんが乗せようとしていた猫の石像を、犬の代わりに置いたんだ。それが俺だ。

 それからずっと、俺はこの寺で雄の狛犬と一緒に、寺を見守ってきたんだ。

 

――そして今。

 

向こうに雷が落ちだ。

また落ちた。今度は近くに。

そして、空から一筋の雷が落ちた。俺と右隣の狛犬の真上で枝分かれし、俺たちに直撃した。

 気絶するかと思ったくらいだ。まだ、手足がしびれている。

横で隣の狛犬がぶるっと震えたような気がした。まさかな。狛犬は動物じゃない。

しかし、俺が思ったこととは裏腹に、その犬は台から飛び降りた。

なぜだ。

その犬は、獅子のような姿だった。鬣としっぽは先がくるんとカールしている。

犬は振り返り、俺にこう言った。

「お前も動けるんだろ」

ハッとし、俺は前足に力を込めた。足は自然に持ち上がった。体を見ると、どうやら俺は虎猫のようだった。俺は奴に話しかけていた。

「お前、誰だ?」

犬は大きく溜息をついた。

「俺たち、何年一緒にいると思ってんだ」

「さあ、数えたことなかった」

「ふん、まあいい。俺は正影。お前は」

「俺は・・・・・・」

「名前、思い出せないのか」

「思い出せない以前に、なかった気がする」

「そうか。なら俺がつけやろう」

正影はしばらく考えてからこう言った。

「義影だ」

「ヨシカゲ?」

「嫌か?義影」

「いや、いいと思うけど何で」

「正影に義影。いいコンビになりそうだな」

正影は嬉しそうだった。俺は曖昧にうなずいた。

「降りて来いよ」

「おう」

飛び降りた。かっこよく着地するはずだったが、案の定地面に顔面から激突。

「痛てぇ」

正影が俺の前に立った。どうも助けてくれるようではなさそうだ。

「お前、猫だろ」

「まあな」

「ドジか」

正影のストレートすぎる言葉に、俺は一瞬言葉を失った。だが気を取り直して、起き上がり際にこう言ってやった。

「悪かったな。ドジで」

「別に悪くないさ。千年もここに突っ立ってりゃ、足も弱っちまうさ」

「お前はぴんぴんしてるみたいだな」

「俺は見てのとおり、野生のオオカミより力が強い」

俺は素朴すぎる質問をした。

「何で」

「決まってるだろ。俺を作った職人が、獅子のようにしたからだよ」

「じゃあ、何で俺はこんななの」

「それは・・・・・・きっとお前を作った奴が、強そうにしなかったからだろ」

俺は正影が言うことの見当はついていた。なぜなら、俺を作ったのは例の坊さんだからだ。石を彫って作った正影と違い、俺は粘土製だった。犬に殺される夢を見て、俺を強く作るわけがない。

 俺は質問を変える事にした。

「まあいいが、俺たちはどうして動けるんだ」

「それは俺にもわからない。だが、千年前の出来事と関係していそうだな」

俺もそんな予感はしていた。正影は急に明るい顔をした。

「まあいいさ。そんなことより、俺たちは動けるんだ。町を探検しようぜ!」

「そんな軽いノリで大丈夫か?」

「平気平気。さ、行こうぜ。千年後の京都」

正影は歩き出した。俺も後を追った。

 神話に出て来そうな獅子と、野良猫みたいな俺が連れ立って歩いているのは、きっと不思議な光景だっただろう。

 神社の長い階段を降りきったとき、そこに腰掛けていた婆さんは、こっちを見るなり、すっ飛んでいった。

「何だろうなあ。ああいうの」俺は呟いた。

「きっと俺たちにびびったんだ」

俺たち、という言葉が頭に引っかかった。俺たちじゃなくて、お前だけだろうな。

「なあ、食えそうなもの、探そうや」

「そうだな。腹も減ったことだし」

俺たちは、魚屋を狙うことにした。

 

 俺たちは店の前まで来ると、人間に見られないように、物陰に姿を隠した。

「おい義影、取って来い」

ちくしょう。正影に命令されてしまった。

「やだよ。お前が行けよ」

「俺は目立つだろ。ライオンみたいで。お前なら」

「野良猫みたいってか?」

皮肉を込め俺は聞いた。

「ん?・・・・・・まあそんなところだ」

「はぁ。あんな、確かにお前のほうがでかい。だが、子分でもパシリでもない!」

きっぱり言ってやった。だが、

「いいから行け」

あっさり俺は正影に押されてしまった。仕方ねえな。

男は度胸

俺は店頭に並ぶイワシめがけて、猛ダッシュした。

キャッチ!

「待ちな!泥棒猫!」

店の肥えたおばさんが叫んでいた。だが俺は待つわけがなく、正影がいる路地まで突っ走った。

 正影はイワシを見て、

「これだけかよ」

と文句をたらしやがった。

「るっせーな」

ムカついた。腹が立った。せっかく盗ってきたのに、ケチをつけられるとは。

「まあいいか」

正影はイワシを半分にした。

「俺しっぽ!」

「あ」

正影は体に似合わず、せこい一面があるようだ。

 俺は仕方なく頭を食べた。案外うまい。イワシとはこれほど美味いものだったのか。

その時、俺は地面に何かが落ちているのに気がついた。

「何だ?」

拾うとそれは、携帯電話だった。寺にいた時、住職が使っているのを何度か見たことがある。

「どうした?」

正影が近寄ってきた。

「携帯電話だ」

「ふーん。で?」

「で、って言われても」

その時、携帯電話が鳴った。

「わっ」

俺たちは仰け反った。が、俺は勇気を出して出てみることにした。

「はい、もしもし」

「っちょ!」

正影が手で止めようとしたが、俺はよけた。

「おお、びっくりさせて悪かったな」

その声は、人間とは違うもののように思われた。そもそも、俺は猫だ。人間に俺の言葉が通じるはずはない。

「あんた、誰?」

「わしか?わしゃ仙人だ。やってもらいたいことがある」

「仙人?は、頭おかしいんじゃねぇの?」と言いたかったが、俺はその言葉をぐっと飲み込んだ。

「え、何ですって」

「だから仙人だ。いいか、お前招き猫だろ」

「狛猫です」

狛犬?」

「いえ、狛猫です。狛犬もいますけど」

「猫?まあいい。お前んとこの神社の犬が暴れまわっている」

「犬?もしかして千年前の!」

「ああ。その犬だ」

その時、正影は俺から携帯を奪い取った。

「胡蝶を知っているのか!」

「おいおい、大声を出すな。おや、お前はさっきの猫ではないな」

「それより胡蝶はどこにいるんだ」

正影の口調は激しかった。

「その胡蝶が、こちらの世界で暴れておるんじゃ」

「こちらの世界だと?」

「ああ、お前らがいる地球とは逆の世界じゃ」

――逆の世界。その言葉が俺の脳裏に焼きついた。

「胡蝶がそこにいるのか」

「ああ。どういうわけか迷い込んでしまったのじゃ」

「俺たちもそこに連れて行ってくれ!」

「そう大声を出すでない。言われなくても来てもらうつもりじゃ」

「本当か!」

聞き耳を立てていた俺は、正直行くのは嫌だった。俺が作られたせいで壊された狛犬だ。何をされるかわからない。

「おい、猫」

電話の向こうから俺は呼ばれた。

「あ、はい」

俺は正影から携帯を奪った。

「行きたくない気持ちはわかる」

仙人は俺の心を読んだようだ。

「行きたくないとなぜわかった」

近くにいる奴の表情を読み取って、心を見るのはできそうだ。しかし、受話器の向こうの俺の心を当てるとは、やはり、仙人の術なのか。偶然なのか。

「わしは仙人じゃ。そのくらいできて当然じゃろうが」

恐ろしい術師だ。彼が言っているのは本当のことなんだろう。いや、もしかしたらすぐ近くにいるのではないのか。だとしたら俺の表情が見えていたのかもしれない。

「もしかして、あんた、俺たちのすぐ近くにいるんじゃないか」

「いいや。だが、お前たちのいる場所や、表情や、行動は手にとるようにわかる。見なくてもな」

恐ろしい。彼を敵にするのは不可能だ。

「いいか。今すぐにでも来てもらう。お前がどう思うかはその次だ」

「・・・・・・あがいても無理そうだな。正影も行く気だし。よし、俺も行くぞ、あんたの世界へ」

「よし。ならこちらの世界へ通じる道を教えよう。だが、道は一度しか使えない。近くにマンホールがあるだろう。それがこちらへ通じる道だ」

ホントかよ。マンホールの道?下水道じゃねえの。だが、俺はこう言った。

「わかったよ」と。

仙人は、「よしよし。あ、そうだ。電話は持っておくんじゃ。通話手段になる」と言った。

「わかった。ところであなたは」

「名前か。聞かないでくれ。とっくの昔に失ったんじゃ」

仙人の口調は悲しそうであり、寂しそうだった。

「じゃが、君の名前は」

「義影です。こいつは」

正影の名前を言おうとしたら、

「正影じゃ」

と、仙人に当てられてしまった。俺がなぜわかったかを聞く前に電話を切られてしまった。

 正影は俺を見つめた。

「何だって」

「どうやら、相当、手ごわい人物のようだ」

「手ごわいって、最初っから敵視かよ」

俺は話を逸らした。

「さあ、まあ、とりあえず彼の世界へいってみるか」

「おう」

俺は近くのマンホールを見つめた。

「これだ。正影」

「これって」

「マンホールだ」

「下水道?」

「これが道だ。正影、開けてくれないか」

「わかった」

正影はマンホールの淵に爪をかけると、一気に力を込めた。

「おりゃ!」

マンホールは持ち上がった。俺は駆け寄って中を覗いた。正影もマンホールを置き、中を覗いた。

「・・・・・・何だこれ」

螺旋階段だった。中は真っ暗。そこに真っ白な螺旋階段が伸びていた。

「相当深そうだな」

「地獄まで続いていそうだ」

「不吉なこというな」

俺は正影の一言に動揺した。まさに、そのとおりだったから。

「行こうぜ。考えるより行動だ」

正影は俺の前に立って、階段を降り始めた。俺も携帯をしっぽに引っ掛け、後に続いた。

さっきも言ったが中は真っ暗だ。猫の俺でも、階段を踏み外さないのがやっとだ。

「なあ、懐中電灯持ってないか」

「もってねえよ。それにしても真っ暗だな」

「ああ、この先が心配だ。このまま真っ暗だったら、これから大変だぞ」

「そうだ」

正影は何か思いついたようだ。

「携帯貸せ」

俺はしっぽごと正影に差し出した。

「これだこれだ」

正影はなにやら携帯をいじり始めた。すると、なんと携帯がライトになったのだ。

「うわ!」

携帯からでた光を見て俺は声を上げた。

「へへへ。ライト機能があるんじゃないかって思ったんだ」

正影は得意そうだ。

「お前、よく知ってたな」

「夏によく学生が肝試しに来たじゃんよ。その時に見たんだ。携帯でライトだしてんの」

「そんなことあったなあ」

俺たちはずっと寺にいたので、記憶はほぼ同じだった。

「運よくバッテリーは『満』だ」

「それはありがたい。でも大切に使わなきゃな」

「ああ」

俺たちはうなずきあった。

 地中は予想以上に深かった。何分いや、何時間歩いただろ。俺たちはひたすら階段を降り続けた。

「正影、時間を確認してくれないか」

「おう」

正影は携帯を開いて時間を確認した。すると・・・・・・。

「まさか」

「どうした?」

「さっきと時間がまったく変わっていないんだ」

「なんだと、故障じゃないのか」

「いや、他はなんともないし」

「変だ。俺たちはずっと階段を降り続けているのに」

その時、螺旋階段の先に、扉があるのを俺は見つけた。

「扉がある!」

俺たちは扉へ向かって走った。扉についたとき、正影は

「さあ、行こう。きっと時間の事とも関係しているはずだ」と言って扉を押した。

 

     2

 

 扉の先は、俺たちが思っていたものとはかけ離れていた。地下なのに空がある。

「・・・・・・」

俺は息を呑んだ。そこに広がっていたのは草原。すぐ向こうには湖がある。周りには小高い山がある。

「綺麗なところだ」

正影は一歩前へ出た。すると、甲高い鳴き声が青空に響き渡った。見上げると、見たこともないような、美しく、たくましい真っ赤なドラゴンが飛行していた。

 俺たちはさっと物陰に身を潜めた。

「何だあいつは」

「しっ!大声を出すな」

俺は正影を制した。

「龍か」

「龍というよりドラゴンだ」

その生き物は、トカゲのような体に、大きな翼が生えていた。羽毛じゃない。コウモリみたいな翼だ。しかも角まで生えている。だが、驚いた理由はそんなものじゃなかった。大きさだ。半端なくでかい。ここからじゃ、確かなことは言えないが、俺たちが乗ってもびくともしなさそうだ。

 正影はあんぐりと口を開けた。笑っちゃうくらいすごい表情だ。勿論、笑わないけど。

「何で龍がいるんだ」

面倒臭いので、訂正しないことにした。

「わからない。それにここは地下の世界のはず」

「太陽まであるしな。やっぱり、地下じゃなくて、まったくの別世界なんじゃないか」

「信じられない」

正影は湖の方を見て、眼を見開いた。

「・・・・・・」

「どうした」

俺も眼をやる。そこには、人魚がいた。いや、正確には半漁人とでも言うべきだろう。

「なんだありゃ」

半漁人が群れで水泳をしている。全員男のようだ。海パンをはいている。

「・・・・・・海パンをはいた半漁人」

正影がぽゆつりと呟いた。俺は吹き出しそうになった。

「変なこと言うな」

「だってそうだろ?」

「まあな」

俺たちは呑気な会話をしている場合じゃない事を思い出した。

「ドラゴンがまだいる」

「ああ、ここから逃げよう」

「ひとまず、さっきのドアに入るんだ」

振り返ったがドアは存在しなかった。

「何でないんだ!」

正影は叫んだ。

「落ち着けって!」

俺は暴れる正影を押さえつけた。勿論、気持ちは。

「これが落ち着いていられるか!なんでドアが無いんだ!俺たちはあのドアから来たんだぞ!」

「仙人が言ってたじゃないか、道はなくなると」

「そんな・・・・・・」

正影は力なくへたり込んだ。

「半漁人に助けてもらうか?」

俺は冗談のつもりだったのに、正影は本気にしあがった。

「それがいい」

ほんとに嫌になる。半漁人に助けてもらうなんて。

 俺たちは恐る恐る半漁人に近づいた。

「すみません、助けてくださいな」

半漁人は『はぁ?』って顔でこっちを見た。

「どなた」

「えっと、始めまして俺は義影、こっちは正影です」

「ふーん」

半漁人の反応は驚くほどに薄かった。しかも、自分から聞いておいて、上の空だ。

「あの、聞いてます?」

上空のドラゴンを気にしながら、俺は聞いた。

「ん、あー」

半漁人もドラゴンを見ている。俺の脳裏にふと思ったことがあった。『ドラゴンは俺たちを襲わないんじゃないか?だから、半漁人はのんびりしているんだ』

「あ、やっぱり大丈夫でした」

俺は半漁人から離れようとした。すると、ドラゴンが上空から急降下してきた。俺と正影はドラゴンとぶつかりそうになり、伏せた。半漁人が食べられる!と思ったら、水に潜って危機一髪だった。

 ドラゴンは水が嫌いなようだ。驚くようなスピードで潜っていった半漁人を必要に追い回すことはしなかった。ただし、口から炎を出すのは忘れなかった。

「危ねぇ」

正影は心臓を押さえながら言った。俺は今にも気を失いそうだ。

「やっぱり襲うんじゃねえか」

「龍だからな」

「とにかく安全なところを探そう」

ドラゴンは炎を吐きながら、上空を旋回していた。

「湖を泳ぐってのはどうだ?」

「お前、泳いだことあるのか」

俺の質問に、正影は答えることができなかった。

「まあいい。俺は山に登って逃げたほうが安全だと思う」

「何で」

「山は木があるだろう。隠れることができる」

「そうだな」

俺たちは山を選んだ。この選択が俺たちの人生を大きく変えることになる。

 

 ドラゴンの眼を盗んで、俺たちは山へ分け入った。

「不気味な山だ」

さっき見たときは綺麗な山だと思った。しかし、入ってみると暗くて不気味だ。

 その時、突然携帯が鳴った。

「わ!」

正影は携帯を落っことしそうになった。

「もしもし」

正影は電話に出た。無論あの仙人からだった。

「元気か?」

「元気なわけねぇだろうが!」正影は怒鳴った。

「おお、元気そうじゃないか」

「あんたのせいで、ひどい目にあったんだぞ」

「わしのせいと言うのか?なぜじゃ」

言われてみると、ここへ来たのは正影が望んだからだ。

「の?わしは悪くないじゃろ?」

「まあな。で、何のようだ」

「わしに会わんことには、胡蝶を見つけるどころじゃなかろうが」

俺たちはうなずいた。

「で、わしのところに来てもらう、思てな」

「あんたが来たほうが早いんじゃないか?」

正影はもっともな質問をした。

「戯け!」

なぜか仙人の喝。

「わしはもう歳じゃ。身体をちょっと動かすだけで、神経痛になるんじゃ」

「ほー、それはそれは」

「じゃで、お前らが来るべきじゃ。そもそも、わしがぴんぴんしとったら、胡蝶のことをお前らに頼まんじゃろうが」

「ほー、まったくだ」

正影の適当な返事に、俺は吹き出しそうになった。

「わかったら、さっさと来んかい!」

仙人は電話を切ってしまった。

「来んかい、ってどこに」

地図のメールが送られてくるわけでもないし、番号の履歴は残っていなかった。

 仕方なく、俺たちは山を登っていった。

「あの仙人って奴、なんか間抜けだよな」

「おいおい、聞こえてるかもしれないぞ」

「大丈夫だって。いちいち聞こえていたら、こっちだって病気になるぜ」

「そうだな」

道なき道を登っていた俺たちは、獣道があるのを見つけた。

「獣道があるぞ」

「ああ。行くか?」

「勿論!」

正影はノリノリだった。

 獣道のおかげで、さっきよりは歩きやすかった。歩き続けると、山が開けたところに出た。

「何だここは」

十五、六メートル先に、馬鹿でかい鳥の巣があった。

「それにしてもでっかい巣だな」

近づこうとした瞬間、さっきのドラゴンが空から舞い降りてきた。ドラゴンが巣の近くに来たとたん、ちびドラゴンが顔を出した。

五、六匹のちびドラゴンたちは激しく喚きたてた。

「なんだありゃ」

正影は、半漁人を与える親ドラゴンを見て、眼を丸くした。

「ギーギーギー」

死んだ半漁人をちぎりながら、美味しそうに食べているちびドラゴンたちの姿は、かわいいようでもあり、恐ろしかった。

 半漁人を残していった親ドラゴンは、また空へ飛び立った。

「・・・・・・恐ろしい怪獣だ」

俺たちは呟いた。ちびドラゴンは俺たちの存在に気がつかないらしい。美味しそうに半漁人の肉を頬張っている。

「逃げよう」俺は言った。

「ドラゴンの巣があるなんて」

「俺にいい考えがある」

俺の提案を無視して正影は説明を始めた。

「あのドラゴンを一匹失敬するんだ」

「は?」

「仙人がいるところまでは、結構遠いはずだ。だが、ドラゴンに乗れば簡単だ」

「そんな、神話みたいなことが現実にできると思うか?」

「この世界自体、神話みたいなもんだろ」

「・・・・・・ま、まあな」

「さあ、親ドラゴンが戻ってくる前に、ちびドラを失敬しようぜ!」

・・・・・・ちびドラ?

俺たちは空の様子を伺いながら、巣の前に来た。ちびドラゴンたちは餌がもらえると思ったらしく、口を大きく開けてきた。

「餌なんかねえよ」

俺たちは半漁人の死体をできるだけ見ないようにして、ドラゴンの品定めを始めた。

「おい義影、卵があるぞ」

「なに」

俺は正影のほうへ近づいた。そこには、黄金の卵がひとつあった。

これだ。

「正影、これにしよう!」

「おう」

卵を持って、俺たちは大急ぎで山を登り始めた。どうか、親ドラゴンに見つかりませんように。

 山の頂上に来たあたりで、ドラゴンの雄叫びが聞こえた。

「来るぞ」

正影は俺の前で、山を下り始めた。身体の大きさや、俊敏性は正影の方が圧倒的に優れている。俺は遅れ始めた。

「正影」

「ええい!」

正影は俺が来るのを待っていた。俺が来ると、背中を咥えて持ち上げた。

「卵、落とすんじゃねぇぞ」

正影は走った。道なき道をひたすら走った。傷だらけになりながらも。

 その時、正影は背後に気配を感じた。親ドラゴンだ。卵を取り返しに来た。木の上を飛びながら俺たちを見失わないようにしている。

「きっと、山を出たところで捕まえる気なんだ!」

正影は何も言わずに走った。

 

山を抜けると、そこは平原だった。隠れられそうな場所はひとつも無い。全てが終わったと思った。ドラゴンはかっと口を開いて、急降下してきた。

「うおー!」

ドラゴンの口が俺たちを飲み込むと思った瞬間、俺たちの視界が真っ暗になった。

 

     3

 

 気がつくと俺はあたりを見回した。ドラゴンの腹の中にしては、嫌な感触も、変な匂いもしない。

「ここは」

ここは、穴の中だった。動物の巣のようだ。俺は地面に横たわっていた。

「気がついたか」

声を掛けたのは、正影ではなく大きなネズミだった。頭の毛が薄くなっている。俺はわからなかったが、どうもプレーリードッグにそっくりだ。もう少しサイズが小さかったら、ランチにしても良かったな。なんて、失礼なことを考えてしまった。

「大丈夫ですか。あなたは誰です」

ネズミが話し掛けた。

「俺は義影」

「そうですか。気がついて何よりです。でも、あなたのお連れさんは、背中に大火傷を負っています」

俺は慌てて正影を探した。すると、床に正影がうずくまっていた。

「正影!」

俺は正影のところへ駆け寄った。

「今は静かにしておやりなさい」

彼は俺の肩にそっと手を置いた。

それにしても、この生き物は正影を見ても驚かない。自分より遥かに大きい獅子がいたら、腰を抜かしてもおかしくないはずなのに。

「あなたは正影を見て驚かないんですね」

「このくらいでは驚かんよ。なんせ、私らは毎日のようにドラゴンを見ているんだから」

「そうでしたか。ところであなたのお名前は」

「私か、私はダグラス」

「ダグラスさん、どうして俺たちを助けてくれたのですか」

「この一族に悪い奴はひとりもいない。君たちがここへ落ちてきたとき、私は咄嗟に助けるべきだと思ったよ」

「どうしてです?」

「伝説があるんだ。ある日、ふたりの勇者が現れて、この世界に平和を取り戻す、と」

「なるほど、案外本当かも」

「どういうことだ」

「俺たちは仙人に頼まれて、この世界へ来たんだ。胡蝶という山犬を倒してくれと」

「仙人?この世界?まるで別の世界から来たような口ぶりだな」

「俺たちは日本から来たんです」

ダグラスの顔が一瞬青ざめた。

「日本?どこだ」

「北半球はご存知ですよね」

「知らん」

「え?」

「まあいい。やはり、君たちは救い主だったか。ところで、君が大事そうに抱えていた、あの金ぴかのものはなんだね?」

「あれですか、ドラゴンの卵です」

ダグラスは言葉を失った。

「・・・・・・何だって」

「ドラゴンの卵です。山から下りて来るときに失敬したんです」

「何でそんなことをしたんだ!」

ダグラスは声を張り上げた。

「え、仙人のところに行くのに、ドラゴンを使えば簡単だと思ったからです」

「確かにドラゴンの成長は早い。だが、あのドラゴンの卵だぞ。孵化したら大変なことになるかもしれないんだぞ」

「最初に見た、物を親と思い込むんでしょう。だったら、俺が最初に見られてやればいいんです」

「確かにそうだが」

ダグラスは曖昧にうなずいた。

「きっと大丈夫です。俺を信じてください」

「わかった。君たちはきっと伝説の救世主だ。信じるよ」

「ありがとうございます」

「さあ、お連れの傷が癒えるまで、ここにいてくださいな」

ダグラスは手を二回叩いた。すると、横にある穴から、四匹のネズミたちが出てきた。

「父さん、どうかした?」

「さあ、お客さんだ」

みんなが俺たちのほうを見た。猫を見たネズミなら普通、ぎょっとするはずだ。しかし、彼らは俺たちを歓迎してくれた。

「ようこそ」

「はじめまして。俺は義影です。こいつは正影」

「あらー、ひどい怪我」

みんなは正影のほうへ行った。俺のすぐ隣だ。

雄ネズミが二匹、雌が二匹。

「あたし、薬を取ってくるわ」

一番若いネズミが、部屋(?)を出た。他のネズミたちは俺に向き直った。

「失礼。僕はトム。一家の長男です」

「パーシー。次男」

パーシーはぶっきらぼうに答えた。

「私は、カレン。彼らの母です。そして、今出て行ったのが、末の娘のクリスよ」

みんなは、俺に握手をしてきた。

「あ、どうぞよろしく」

すると、ダグラスが俺が来た経緯をぺらぺら話し出した。そして、俺たちが伝説の救世主だと締めくくった。みんな大盛り上がりだ。その時クリスが戻ってきた。

「さ、お薬よ」

クリスは、ぬめりがある葉っぱを正影の身体に貼り付けた。

「これでよし」彼女は満足げにうなずいた。

「それは薬草?」

「ええ、そうよ」

「美味しい?」

俺は冗談を言った。

暫しの沈黙。

みんなは気まずそうに笑ってくれた。こんなときに不謹慎でしたと俺は謝った。

「いいのよ、そんなの」

カレンが優しくフォローした。

「さあ、みんな飯の仕度だ」

苦笑いしたダグラスの呼びかけで、みんなは飯の準備に取り掛かった。

「義影さん、ゆっくり休んでいてください」

「いえ、俺も手伝いますよ」

「いいえ、ドラゴンに追いかけられて疲れたでしょう。こんなところですが、どうぞ休んでいてください」

「ありがとうございます」

俺はお言葉に甘え、正影のほうへ行った。正影はぐっすり眠っていた。薬が効いたのだろう、安らかな顔だった。

「さてと」

俺は、台の上のドラゴンの卵に手を伸ばした。卵はかすかに暖かかった。

「きれいな卵だ」

俺は殻の美しさに見とれた。

「いいドラゴンになれよ」

あんな乱暴そうなドラゴンは嫌だな。まあ、俺が卵を盗んで怒ったのは分かるけど。

 しばらくすると、飯が出来上がった。

「さあ、義影さん思う存分食べてください」

「ありがとう。正影のぶんは」

「ああ、彼のぶんなら要らないわ。きっと朝まで眠ってるでしょう」クリスが答えた。俺もうなずいた。

「さあ、食べようじゃないか」

その日の晩ご飯は、笑っちゃうくらい豪華だった。どこのフルコース?って感じだ。

「今日は、救世主のおふたりを歓迎して、かんぱーい」

「かんぱーい」

俺以外みんなノリノリだ。救世主なんて言われたら、プレッシャーが半端じゃない。正影は相変わらず眠っているし、もうどうなってんだ。

「さあ、ビールでもいかがかな?」

酔ったダグラスが、俺にビールを勧めた。

「未成年じゃないんだろ?」

ははは。齢千年以上ですわ。

言われるがままに、ビールを飲んだ。

「うぐっ」

「どうですかな」

「う、まいです」

めちゃくちゃまずい。よくこんなものを飲むな。だが、ダグラスはもっと飲めと、ビールを勧めた。カレンが止めるまで俺はビール地獄だった。

 くたくたになって、眠りにつくころ台の上の卵が、明るく光りだした。

「・・・・・・ま、眩しい」

俺は卵に近づいた。自分が最初に見られて親代わりにならなくては。

「義影さん」

ネズミたちは部屋の隅で、怯えていた。

メキメキと卵にひびが入った。もうすぐご対面だ。卵の光は一層強くなった。

 周りが見えなくなったころ、光はおさまった。台の上には、金の鱗を持ったドラゴンがうずくまっていた。

「・・・・・・ちびすけ?」

ドラゴンが俺のほうを凝視した。

「・・・・・・」

ドラゴンは、俺から眼を逸らし、ネズミ一匹一匹を見た。その後、眠っている正影を見て、また俺に眼を戻した。

「くぅん」

鳴いた。

「げ、元気か?調子は」

「くぅん」

「俺がお前の父ちゃんだ」

ドラゴンと俺はじっと見つめあった。

「さあ、よしよし」

俺がドラゴンを持ち上げた瞬間、ドラゴンは俺の指に噛み付いた。

「いたっ」

ドラゴンは首を引っ込めた。

「痛いだろ。噛んじゃだめだ」

申し訳なさそうに、ドラゴンは頭を下げた。

「気をつけて、な」

俺はドラゴンを台に戻した。ネズミたちも恐る恐る近づいてきた。ダグラスは酔いが一気に醒めたようだ。

「これがドラゴンの赤ん坊か。かわいいような、恐ろしいような」

ダグラスはドラゴンをツンツンつついた。

「やめなさい」クリスが止めた。

「変ね。卵から孵ると普通、濡れているはずなのに」

「こいつはドラゴンだ。ニワトリじゃないんだぜ?」パーシーが嗜めた。

「そうかしら」

みんな興味心身だ。ただし、正影だけは呑気にいびきを掻いて眠っている。

 そのうち、ドラゴンは大きくあくびをして、眠ってしまった。

「私たちも寝るとしようか」

ネズミたちは眠った。俺は一晩中、ドラゴンの寝顔を見守っていた。

 

     4

 

 朝になると、正影が一番に起きた。

「正影、調子はどうだ?」

「ん、何のことだ?」

「背中の火傷の傷だよ」

「ああ、ドラゴンに毛を燃やされちまったとこだろ。今は痛くないよ。そこだけ禿げちまったけどよ」

「クリスのおかげだな」

「クリス?ところでここはどこだ」

「ここはダグラスさんたちの家だよ」

俺は寝ているネズミたちを起こさないようにして、簡単に紹介と昨日の出来事を説明した。

「そうだ、卵はどうした?」

「ここだよ」

俺は正影を台のほうへ手招きした。

「・・・・・・こいつはいいぜ」

正影はドラゴンの美しさに感動したようだ。

「でも俺が眠ってるうちに、産まれるなんてナンセンスだぜ」

「しょうがねえよ」

「そうだ。俺の顔を見せておかないとな。おーい、父ちゃんだぞー」

正影は眠っているドラゴンを起こそうとした。

「やめとけよ。産まれたときにお前の顔を見ていたから、大丈夫だろうよ」

「そうか?」

納得のいかなさそうな顔で、俺を見た。

「そんな顔するなよ」

「あ、名前、決めたのか」

名前?言われてみれば決めてない。

「お前が決めてくれよ。俺の名前だって付けてくれたじゃないか」

「俺が決めちゃっていいのか」

俺はうなずいた。

「金色だから、金ちゃんでどうかな?」

俺は言葉を失った。

「だめ?」

「だろ。もっとかっこいいのは無いのかよ?」

「そうだな。ゲール(gale)はどうだ。確か疾風って意味だ」

「よく知ってるんだな。俺もそっちのほうがいいと思う」

「やっぱ、金ちゃんはだめか」

「あったりめーよ」

俺たちは笑いあった。その時、クリスが起きた。

「おはよう」

目をぱちぱちさせている。

「正影さん元気になった?」

「お、おう」

「それはよかった。朝ごはん作るから、休んどいて」

「おおう」

正影は初対面の人と話すのは苦手なようだ。

「散歩に行くか」

正影が切り出してきた。

「大丈夫か。ドラゴンがまだいるんじゃないか」

「大丈夫だろ。ドラゴンは、今いる子どもの餌を取るのに夢中だと思うぜ」

「そうか?なあクリス、そうなのか」

「ドラゴンは基本的に半漁人を食べてるみたいだから、ここに来ることは滅多にないわ」

「そうか。じゃあ、行って来るよ」

「ちゃんと戻ってきてね」

「はーい」

俺たちは、ゲールと朝の草原を散歩することにした。

 穴を登って外へ出ると、すがすがしい風に包まれた。

「いい天気だ」

ゲールは正影の背中で羽ばたく練習をしていた。

「どうだ、飛べそうかゲール」

「くぅー」

「お前はまだ無理だろ」

草原には所々に穴が開いていた。ネズミの巣があるようだ。こんなに清清しい場所は初めてだ。この世界は地球に比べて、美しい場所が多い。

 草原は地平線の先まで広がっていた。遠くのほうでネズミたちが穴から顔を出した。ネズミたちは、突然二足歩行になった。

「おい、見たか正影」

「ああ」

ネズミは人間の姿になった。服を着ている。

「信じられん」

「義影、行ってみようぜ」

正影が走り出した。ゲールは翼を動かした。そして、正影の横を飛び出した。

「ゲール!」

「くぅー」

ゲールは嬉しそうだ。俺も後を追った。

 向こうには、人間の姿をしたネズミたちが朝日に向かって、吠えていた。

「おはようございます」

俺は声を掛けた。ゲールは空高くまであがっていった。人間を警戒しているようだ。

 人間たちは、こっちを見た。

「どうかしましたか」

半漁人の時とは違い、人間たちは親切だった。

「なぜあなたがたは、人間の姿をしているのですか」

「変なことを言うな。我々は人間だ」

「え!さっきネズミだったじゃないですか」

「ああ、我々は変身できるんだ。今は人間だが、食べた物の姿を借りることができる」

「じゃあ、ネズミを食べたんですか」

「ああ。ここで暮らすにはネズミの力は必要だ」

「元は人間だったってこと?」

「そうだ」

「どうして、変身できるようになったんだ」

正影が身を乗り出した。だが人間はその質問に答えなかった。

「おや。美しい動物だ」

「俺を食べようとしても無駄だぞ」

人間は残念そうに首をすくめた。正影は美しい獅子だ。人間がこの姿を借りたいのがわかる。いや、それ以上に、こいつらはネズミを食べたんだ。クリスは外は安全だと言っていた。いつもはネズミの姿だから、こいつらが仲間だと思っているんだ。早くクリスに知らせよう。

 俺は正影に耳打ちした。

「わかった」

正影と俺は、人間に用事を思い出したから戻ると言った。

「だめだ。お前らはここで俺たちの餌食になってもらう。初めて見る動物だからな」

周りの人間たちも、不気味に笑いあった。

「こいつら人間じゃねえ」

俺たちは身を強張らせた。振り切って逃げても、居場所を突き止められかねない。ダグラスやクリスに迷惑をかけることはしたくない。

「おい、横に逃げるんだ」

小声で正影にささやいた。正影はうなずいた。俺たちは地面を大きく蹴って走り出した。

「待て!」

後ろから人間たちが追いかけてきた。だが、俺たちは走りが速かった。俺の身体は前のように弱くは無かった。昨日の料理が俺の力の源となっている。だが、正影はドラゴンに追いかけられた疲れと、空腹で思ったように走れなかった。それでも、人間に大きく差をつけた。

 二足歩行なんかに負けるわけが無い!

 しかし、実際は違った。人間たちは正影よりひとまわり小さいハイエナになって追いかけてきた。

「畜生!」

ハイエナは想像以上に速かった。ハイエナは俺たちのすぐ後ろに来た。そして正影のしっぽに飛び掛った。ハイエナは正影のしっぽを掴むと身体を引っ掻いた。

「うっ」

正影が苦しそうな顔をした。そのとき空からドラゴンが舞い降りてきた。ドラゴンは口から炎を出しハイエナを殺した。

「おいドラゴンだ!」

人間たちは鳥の姿に変身した。ドラゴンに目移りしたようだ。

「逃げろ!」

正影は叫んだ。ドラゴンのほうが断然大きかったが、鷹になった人間たちのほうが圧倒的に数が多かった。

 俺たちははっきりわかった。大きくなっているが、あれはゲールだ。金色の鱗。凛々しい姿。迷いの無い眼差し。ドラゴンはこっちを見て、大きく吠えた。まるで『俺に任せろ!』と言っているみたいに。

俺たちは走った。ゲールを信じて。

ゲールは炎を吐いて鷹を焼いていった。翼を焼かれ、落下していく鷹はまるで火の雨だった。

 

 雲の隙間から差し込んだ太陽は、見事勝利したゲールを照らしていた。

「ぐぇー」

空から降りてきたドラゴンは真っ先に俺たちのところへ来た。

「ありがとうゲール」

俺はゲールの脚を撫でた(脚までしか届かなかった)。

「それにしてもでかくなったもんだ」

正影は目を丸くした。

ゲールは何か言いたそうだったが、喋ることは出来ないようだ。向こうには煙が立ち上っていた。ゲールが殺した人間たちだ。

「行こう。何か手がかりがあるはずだ」

正影は歩き出した。ゲールと俺も後に続いた。

 

 人間たちの死体がある場所には、無数の宝石が散らばっていた。その宝石は燃えるような赤だった。

「これはいったい」

「きっと人間がこれを使って変身していたんだ」

「けど、これをどうやって使うんだ?」

「わからない」

俺たちは考えた。ゲールだけは焼き鳥になった人間を美味しそうに食べていた。

「奴ら、この宝石を持っていたか?」

「いいや。そんな様子は無かった」

「だとしたら、これは燃やされた拍子に出てきたことになるな」

「出てきたって?」

「身体からだよ」

「マジで言ってんのか!」正影の眼といったら、冗談はよしてくれと言いたいのが、すぐわかった。

「マジだよ。そうとしか考えられないだろ?」

「確かに」

「俺が思うに、この宝石の力で奴らが変身していたんだと思う」

「本当か。なら俺たちもその石を食べようぜ」

正影がひとつ石を掴んだ。俺が止めようとしたときには、正影は石を呑み込んだところだった。

「・・・・・・大丈夫か」

正影は眼を閉じた。しかし、何か力が漲ってきたようでもあった。

「来た来た来た」

「何が来たんだ」

「とてつもないパワーを感じる。石を舌の上に乗せたとたん、それが溶け、身体に染み渡ったんだ」

「大丈夫なのか」

「大丈夫だぁ?そんなモンじゃねえ。力がどんどん湧き上がってくる。義影、お前も食べてみろ」

俺は恐る恐る地面に落ちていた宝石をつまんで、口へ放り込んだ。すると、石は溶け、身体が熱くなってきた。血管が浮き出て、筋肉が盛り上がるのがわかった。頭は冴え、闘争心が掻き立てられた。

「正影、俺強くなったみたいだ」

「だろ?ゲールにも食べさせようぜ」

俺たちはゲールにも石を食べるように勧めた。ゲールは鶏肉を食べるのに夢中だった。俺たちはゲールに石を食べさせるのはやめて、周りの石を拾い始めた。

「石を集めておけばきっと役に立つぞ」

石は死んでいった人間の数だけあった。

 俺たちは石を拾い終わった。ふと見ると、ゲールは元の大きさになっていた。

「ゲール、元の大きさになってるじゃないか」

「くぅー」

不思議だった。産まれたばかりのゲールが突然大きくなったり、また元のサイズに戻ったりしているのには何か理由があるはずだ。

「ゲールが話せればいいんだけどな」

すると、驚いたことに

「何?」とゲールが喋ったのだった。俺たちは言葉を失った。

「・・・・・・」

「どうしたの」

ゲールはきょとんとしている。

「お前、喋れんの」

「当たり前じゃないか」

「まさか。何か仕込んでんじゃねぇの」

「何も仕込んでないよ」

ゲールは面倒臭そうな顔をした。

「俺、誰か分かる?」

俺は聞いてみた。

「義影でしょ」

「父ちゃんか」

「は?何言ってんの。仲間同士じゃないか」

「仲間」

俺は呟いた。誘拐犯の俺を仲間だと思っている。俺は何だか申し訳なくなってきた。

「親のこと覚えてるか」

俺は思い切って聞いてみた。

「覚えてるよ」

予想外の返答だった。

「おいらが卵の時のことだけど」

「卵の時の記憶があるのか」

「ある」

「じゃあ、俺たちがお前を盗んだことも知っているのか」

ゲールはうなずいた。

「でも、おいらは義影や正影と一緒にいるほうがいい。ドラゴンは一生仲間を持たない。言葉も話さない。おいらはそんなの嫌だ。だからふたりと知り合えて幸せだ」

俺は涙腺から熱いものがこみ上げてくるのが分かった。正影も目がしょぼついていた。

「泣かないでよ。おいらはもう普通のドラゴンとしていきたくないんだ。何か面白いことになる予感がするしね」

「ありがとうゲール」

俺はゲールを抱きしめた。正影はそんな俺たちに口を挟んだ。

「ところでさっきはどうして、でかくなっていたんだ」

そう言いえばそうだ。

「それはおいらにも分からない。気が付いたら身体が大きくなっていたんだ。炎を出せるのも不思議だったし」

「ドラゴンって元々炎を出せるんじゃないのか」

「それは無理だよ。身体に水素を取り込まなくちゃいけない」

「スイソ?」

俺は聞いたことがない言葉が出たので、質問した。正影も分かっていないみたいだ。

「つまり、水を飲めばいいってこと。身体が勝手に分解してくれるんだよ」

「俺たちも水を飲めば、炎を出せるのか?」

正影の質問は決まって自分に力がほしいときのようだ。

「そんなにおいらに質問しないでよ。おいら昨日産まれたばかりなんだよ」

言われてみればそうだった。その時、携帯が鳴りだした。俺がこっそり正影の鬣に入れておいたんだ。正影は自分の耳元で携帯が鳴り出したもんだから、物凄いリアクションをとった。

「うわああああ」

「悪ぃ悪ぃ」

俺は鬣から携帯を引っ張り出した。

「もしもし」

「おう、元気にしとったか」

「何が元気にしとったかだよ。こっちは死にそうな目にあったんだぞ」

「じゃが、ドラゴンに助けてもらえたじゃろ。ちびドラゴンを大きくしたのはこのわしじゃ」

「そうだったんですか」

「そうじゃ。さっきは悪かったな。電話を切ってしもうて」

「いいんですけど、あなたどこにいるんですか」

「わしか。ある島にいる。そこまできてくれ。携帯に地図を送るから。じゃあ」

「あ・・・・・・」

仙人は電話を切ってしまった。まもなく、メールが届いた。メールは意味不明な地図だった。

 

     5

 

 地図はまるで世界地図だった。

「何だよこれ」

「どう見ても地球じゃないな」

「恐ろしく広いな。街の案内マップには見えない」

「→マークがついている所が、仙人の家か」

「この×マークは何だ」

きっと、やばい生き物がいるんだろう。言わなくても分かった。正影は携帯をいじっていた。

「お、拡大できるぞ」

拡大するとそこは、俺たちがいるところのようだ。

「俺たちがここで、湖があっちだから、ダグラスさんの家が向こうか」

「どうする?戻るのか」

正影は面倒臭そうだ。

「道や方角も聞かなきゃならないしな」

「わかった」

俺たちは引き返すことにした。道はよく分からなかったが、携帯の地図を見て、ダグラスさんの家を目指した。

 

 戻ってみると、みんなはそわそわした様子で、俺たちを探していた。

「どこに行っていたの。心配したじゃない」

「ははは。めんごめんご」

「もう朝ご飯できてるわ」

俺たちは朝飯を食べた。朝飯は昨日と違い、質素なものだった。

「いただきます」

俺は飯を食べた。俺の眼に鶏肉が焼きついた。

・・・・・・鶏肉。これを食べると鶏になるのか。

恐る恐る口へ運んだ。特に異常はない。

「何だ。何もおきないじゃないか」

「鶏になりたいと願ったら、そうなるかもしれない」

俺は鶏になりたいと思った。すると、皮膚に鳥肌が立ってきた。そこから、毛が羽毛に変わった。顔も嘴が出てきて、鶏冠が立った。足も鳥らしいものになった。

「見てくれ」

正影は興奮していた。

「すっげー!おい、どうやったんだ」

「鶏をイメージしたんだ」

正影は鶏を頬張った。そして、何かぶつぶつと唱えだしたかと思うと、鶏の姿になった。

「俺たち鶏だな!」

すると、外からダグラスが入ってきた。

「うわ!鶏だ。おい、トム、パーシー鶏だ。捕まえるのを手伝ってくれ!」

トムとパーシーがすっ飛んで来た。

「待ってください、俺たちは・・・・・・」

「問答無用!」

「うわっ」

俺たちは、急いでもとの姿に戻った。

「わ!正影君に義景君」

「何で鶏だったんだ」

俺たちは今までの成り行きを説明した。

「なるほど。それは大変だったな。石は今はどうしているんだい」

「ここです」

俺は正影の鬣から石を引っ張り出した。

「また入れてたのか。もうやめてくれよ」

正影は呆れ顔だ。

「この石です」

「なるほど、見るからに魔力がありそうだな」

「分かるんですか」

「うん。昔私は術師だった」

突然の告白に俺たちは驚いた。周りにいたトムやパーシーも初めて聞く話のようだ。

「私がまだ若い頃だ。ここから随分遠い村で、そこの長老に伝授してもらった。私が使える術は三つある。ひとつは体の寒暖を自由に操ることが出来る術だ。やってみよう」

ダグラスは俺の手首を掴んだ。眼を閉じて意識を集中している。握られた俺の手首が段々熱くなってきた。そして、火傷するかと思ったら、ダグラスが手を離した。

「熱くないんですか」

「なんともない。冷たくすることも出来るが、やってみるか」

「いえ、結構です」

ダグラスは残念そうな顔をした。

「さて、次の術は相手の心を読む術だ。これには私も大変な修業をしたよ」

何か思い浮かべた様子だった。きっと修業のことだろう。

「さあ、誰が心を読んで欲しい?」

誰も手を挙げない。当たり前だ。心を読まれていい気分なわけがない。

「仕方ない」

ダグラスは俺のほうを見ると、手を額にかざし眼を閉じた。

「読める。君は私の術を疑っているようだ。本当に心が読めるのかと。他に、これからの旅に不安を感じている、といったところかな」

ダグラスは俺の心の声を確かに聞いたようだった。

「すごい。大当たりです。どうか是非俺に伝授してください!」

「まあ待ちなさい。まだあとひとつ術が残っている」

「教えてください」

「最後の術は、自分の魂を自在に操るというものだ」

「具体的には」

「身体から魂を抜け出すことができる」

「魂を抜いて死なないんですか」

「下手をしたら死ぬ。だから、ひとつめの術で体温を十分に下げておく。すると、魂が戻って来た時、身体がまた動く」

「でも、魂を自由に出し入れすることで何かメリットがあるんですか」

「いい質問だ。魂を抜くと、勿論、物理的なものに左右されることがない。すなわち、どこへでも自在に行く事ができる。勿論相手に存在を悟られることもない」

「素晴らしい!」

正影は興味津々だ。

「君たち四人にも後で教えてあげよう」

「ありがとうございます!」

「ただし、修業はきつい。それが耐えられるかな?」

「はい!頑張ります」

「いいぞ、その調子だ」

ダグラスは急に表情を変えた。

「正影、義景、君たちは私の息子同然だ。君たちが救世主だとしても、修行をやる以上、私は君たちの先生だ。そのことを忘れるな。トム、パーシーも同じだ」

「はい!」

俺たちは心を引き締めた。

それにしても、ダグラスにこんな術が使えるなら、自分が世界を救う英雄になれるとは思わないのだろうか。

「悪いが思わない」

「え、何がですか」

「私は世界を救うことができない。さっきも言ったが、私が術師だったのは昔の話。今は衰え、たいした力はない。だが、君たちはその素質がある。ドラゴンの卵を持ってきたのもその現われではないのかな?」

俺は考えた。力が衰えてきたからといって、こんなに素晴らしい人をほっておくなんてもったいない。

「なら、俺たちと共に旅をしましょう」

「いいや。私はこの家の主としてここにいる。どちらにせよ、私は足手まといだ。君たちのように速く走ることも、正影君のように腕力があるわけでもない」

「でも俺たちには先生が必要です!」

ダグラスが涙ぐんだ。しかし、きっぱりとこう言った。

「君たちの先生はこの世界全てだ。大地に耳を傾けると、答えはおのずと出てくるだろう。しかし、どうしても私の助けが必要になった時、魂だけでもここに戻ってきてくれ。何か方法を使って私も君たちに合流する」

「わかりました」

本当は、魂だけ戻ってきても、ダグラスにどうやって存在を知らせたらいいのか、俺には分からなかった。

「さあ、午前の練習を始めようじゃないか!」

ダグラスは外へ出た。俺たちも後に続き、緑の草原に出た。

 

     6

 

 「さあ!まずは体温調節の練習だ!」

「あら、父さんどうしたの?」

外で洗濯をしていたカレンとクリスが尋ねた。

「今から、彼らに術を伝授する」

「術、何のこと?」

「クリス、父さんは昔、術師だったのよ」

「え!」

クリスを尻目に俺たちは練習を始めた。

「さあ、まずは心を落ち着かせ、大地に耳を傾けろ」

ダグラスはどっかと腰を下ろし、座禅のポーズをとった。俺たちも真似をした。

「さあ、何が聞こえるかな」

静まり返った草原の中にも、音はあった。草の揺れる音。鳥たちの鳴き声。そして、遠くから聞こえるドラゴンの鳴き声。

 ゲールは、餌を探しに空を旋回しているようだった。だが、食べれそうなものはここにはないはずだ。

「さあ、眼を開けてごらん」

ダグラスは小さな声で言った。眼を開けると、何も変わらないのどかな草原だった。

「どうだ、体温が上がったような気がするだろ?」

確かにそうだ。

「言われてみればそうです」

「今日から君たちは変温動物だ!」

ダグラスは立ち上がり、俺たちの前に出た。

「己の体温を調節するには、周りの温度に溶け込むことからだ。さあ、今日から湖の畔で修行だ。ついて来い!あ、カレン、クリスしばらくは帰れないと思うからよろしく」

ダグラスは二人の返事も聞かずに歩き出した。

一向は、ドラゴンがいる山の近くまで来た。

「ここで何をするんです?」

「まだここじゃない。私たちは湖まで行く。そこで精神統一をする」

「精神統一、ですか」

「ああ、精神を鍛えてこそ立派な術師だ」

「そんなもんですか」

「どうした義影、腰が引けてるぞ。そんなことでは、まともに剣も使えない」

「俺たちにあるのは前足ですよ?どうやって剣を使うんです?」

「手がなければ、作るまでだ。いいか、君たちがこの三つの術を完璧に使いこなせるようになったとき、私は君たちの贈り物を授けよう。なんだと思う」

「青銅の剣」「ハンティングナイフ」「魔法の道具」「秘伝の書」

「話の内容がわかっているか?私が君たちに授けるものは、新しい身体だ」

「新しい身体?」

「そうだ」

「でもどうやって?」

「簡単なことだ。自分の想像力を最大限まで働かせるんだ。そして、欲しい身体を想像する。すると、君たちは変身している」

俺たちは笑った。まさか、冗談だろ?

「冗談だと思うかね?ならば、私が変身してみよう」

ダグラスは目を閉じ、胸に手を当て大きく深呼吸した。すると、ダグラスの身体が炎を発し、彼はたちまち灰になってしまった。

「父さん!」

俺たちは、灰になってしまったダグラスに駆け寄ろうとした、次の瞬間――

 灰の中から、ひとりの人間が立ち上がった。細身の長身に、涼しげな瞳。ダグラスは超ハンサムボーイになったのだ。歳は二十代前半といったところか。しかし、俺が一番驚いたのは、彼が侍のなりをしていたからだ。鎧は着ていないが、動きやすそうな着物、腰には刀が二刀あった。千年前の戦を思い出す。あの時、勝利を祈願した侍たちが俺たちの寺へも来た。

「どうだ、驚いたか」

「ダグラスさん?」

「先生と呼びなさい」

「はい先生」

「どうだ、なりは変わってしまったがこれで手が使える」

「先生その術、俺たちにも教えてください!」

「正影、これは術ではない。術とは修行をして獲得するものだが、これはひとりひとりに秘められた力だ。誰でもこの力は持っている。私がするのは、その力を最大限に引き出すことだ。わかるかね」

「はい」

「さあ、修行が終わったときの自分の姿を想像しておくがいい。まあ、術を使える資質がある者は、この世界でほんの一握りだ。君たちにその者がいると信じているよ」

先生は高らかに笑い、山を歩き始めた。俺たちは顔を見合わせた。この中にその資質があるものがいるのか。果たしてそれは修行が終わるまではわからない。また、この修行がいつ実を結ぶかもわからない。俺たちの使命のこともある。時間がかかりそうだ。

「・・・・・・俺の運命はどうなるんだ」

俺の呟きは聞こえなかったみたいで、他の三人は歩き出していた。

 

 山を越えるとき、俺はドラゴンに襲われると思っていて心配だった。だが、そんな心配は意味なく、先生は秘密のトンネルを使うことにした。

「先生、こんなトンネルがあったんだね」

「うん。ここは昔戦争のときに作ったトンネルなんだ」

「百年前の戦争のこと?」

「いいや、ドラゴンがここに来たときのことだ」

「それって、物凄く昔じゃない?」

侍姿のダグラスは、微笑んだ。人間なのに俺でもわかるほどイケメンだ。

「さあ、このトンネルを越えると草原が広がっている」

「山を越えるなんてはじめてだぜ」

パーシーは不気味なトンネルの前で呟いた。

「さあ行くぞ」

ダグラスを先頭にひたすら長いトンネルを俺たちは歩いた。

「真っ暗で何も見えやしない」

「こういう時は、秘密兵器!」

俺は正影の鬣から携帯を引っ張り出した。

「痛っ、毛が抜けちまったじゃねえか」

「悪い」

携帯のライト機能のおかげで、辺りが一気に明るくなった。

「これは驚いた。君たちは私が知らない道具を持っているんだな」

「これは携帯電話といって、離れている相手と会話ができるんです。また、メールや写真を撮ったり――」

「凄い物のようだな」

「さあ、行きましょう」

ライトのおかげで、歩くスピードが増した。トンネルというより洞窟だ。壁は湿っていて、天井からは木の根が降りてきている。

「正影」

「なんだ」

「なんか前よりでかくなってないか」

「気づいたか。そうなんだ。石像のころは身体が窮屈だったんだ。でも、それが開放されたわけだ」

「俺はどうだ、でかくなってるか」

「いいや、前と変わらない」

「そうか」

まあ、仕方ない。

「なあ、義」

「ん」

「義って呼んでもいいか」

「別に構わねえが」

「よし、なら大丈夫だ。義影っていうのは、結構面倒だったんだ」

「たった四文字だろ」

「いや、面倒っていうか、もっと親しみを込めた言い方だよ」

「ふうん」

俺は正影の言っていることがいまいちわからなかった。

「じゃあ、俺も正って呼んだらいいのか」

「おお、そりゃいいな」

正影はノリノリだった。名前の呼び方でこうもテンションが変わるとは、簡単な奴だ。

 その後俺たちは、しばらく歩いた。たわいもない会話をした。先生の思い出とか、京都であった大戦などだ。

「さあ、光が見えた。ここからは湖だ」

「わーお、初湖到来の時が来たのだな!この燃え滾るような血が、私の体と心を熱くしている」

トムとパーシーは、大いにはしゃぎまくっていた。いつも冷静なトム、無口なパーシ―がここまでハイになるのも無理はない、トンネルの向こうには、青々とした湖と、美しい草原が広がっていたのだから。

 トンネルを抜けると、前俺たちが立っていた草原そのものだった。

「懐かしいな、正影」すると、正影が俺を横目で睨んだ。

「あ、正」

正影は鋭い牙をこちらに剥き出してきた。これは正影なりの満面の笑みらしい。

 トムとパーシーは、湖のほうへ行ったり草原に寝そべったり、思い思いの事をしていた。

「集合!」

先生がどすの利いた声で集合をかけた。ネズミの姿ではないから迫力がある。

俺たちは先生のもとへ駆け寄った。

「今からここでキャンプする。諸君、必要な木材及び食料を調達してもらう。ここでテントの位置を決める。以上、役割分担等は相談しろ」

「ちょっと!」

俺はダグラスを呼び止めた。上空にいるドラゴンのことが気になったからだ。しかしダグラスはどこかへ歩いて行ってしまった。

残された俺たちは顔を見合わせた。

「俺は木材を調達する」

正影はきっぱりと言い放った。

「自分も」パーシーが手を挙げた。

「義とトムは食料を調達してくれ」

「わかった」

俺たちは承知した。いつの間にか正影がリーダー格になっていた。正影は身体も大きく、動きも俊敏だ。木材を運ぶにはもってこいと言えるだろう。

 俺たちふたりは、湖で魚を取ることに決めた。上空にいるドラゴンが旋回しているのを気にしながら、湖へ近づいた。

「魚を獲る方法もたくさんある。釣り、網、銛どれを使う」

トムは魚を獲るのに詳しいようだ。だが、ダグラス家では湖に行く機会はなかったはず。

「トム、なんで魚を獲るのに詳しいんだ。湖に来るのは初めてだろ」

「簡単なことさ、雨期になったら草原に水溜りができる。もっと雨が降ると池になる」

俺は納得しそうになったが、それが変だということに気がついた。

「雨水でできた池に魚が泳ぐのか」

トムは俺が変なことを言っているような顔をした。

「何言ってるんだ?雨水でできた池には魚が泳がないっていうのか?」

「え、だってそうだろ」

「変なこと言うなよ。じゃあ、数多ある池はどこも魚がいないんだな」

なんだかトムの言ってることのほうが正しい気がしてきた。俺も日本で池を見たことは一度もなかった。俺は曖昧にうなずいて話を戻した。

「早く魚を獲ろう。おすすめの獲り方は?」

「やっぱり、追い込み漁だな」

トムは細長い草を摘んで編み始めた。

「義影、君も手伝ってくれ」

俺は言われた通り草を編み始めた。

 

 三時間ほど編んだだろうか。向こうでは正影たちが小屋の骨組みを立てていた。相変わらずドラゴンは旋回したままだし、先生は呑気に小屋の近くで寝息を立てていた。

 突然トムが立ち上がった。「完成だ」俺たちははふたりで作った網を広げた。横幅十メートル、縦三十センチくらいの草網だ。縦が三十センチなのは俺たちの伸長を考慮したうえでだ。トムはこの網をどうやって使うかの説明を、俺に話して聞かせた。それによると、浅瀬でできるだけ陸から離れて網を広げ、弧を描くようにふたりで岸へ近づいて行くというものだった。

「さあ、始めよう。一発大漁のチャンスだ!」俺たちは湖に入っていった。

 

     7

 

 「わはははははは」

俺たちは大爆笑していた。食べきれないほどの魚を小一時間ほどで手に入れたからだ。半漁人たちは、なにやらこちらを見つめている。まさか半漁人だから魚は食べないだろう。万が一食べるとしても、約五百匹の魚の一匹でもくれてやるほど我々は御人好しではない。

「トム、これだけあればしばらくは漁をしなくても大丈夫だな」

「まったくだ!さあ、簡易ハウスが出来上がる前に魚を料理しようぜ」

「おう。さあ、何にする?」

「燻製にしよう。燻製は長持ちするからな」

「了解!」

さっそく俺たちは、火を起こすことにした。木と木の枝を擦り合わせ、必死こいて俺たちは火を起こそうとした。だが、火が起きるどころか、煙すら起きない。

「なんでだ!なんでなんだよ?」

俺はヒステリアスに叫んだ。案の定、木が湿っている。というトムの意見で俺はがっくりとうなだれた。

「・・・・・・乾いた木はないのか」

「パーシーたちの所から貰ってこよう」

「それがいい」

俺たちが行ってみると、簡易ハウスはほぼ完成していた。

「おう義とトム、家はもう少しだ。後は屋根と床だけだ」

「なあ、木材は余ってないか?魚をたくさん摂ったんだ。で、火を起こす」

「木材なら向こうに余ってるぜ」

 行ってみると、そこには木材が遥か高くそそり立っていた。

「・・・・・・こんなにあるのか」

「まあいいや。早く木材を貰って魚のところへ戻ろう」

魚を湖の近くに置いて来てしまったのだ。

俺たちは湖の畔まで戻った。すると、そこには信じられない光景があった。

「・・・・・・ど、どうなってやがる」

なんと、半漁人たちが、俺たちが苦労して獲った愛しい魚たちを貪り食っていやがったのだ。

「あう?」

魚を頬張った半漁人たちが一斉にこちらを向いた。

「き、貴様らあああぁぁぁぁぁぁっ!」

俺たちは半漁人たちを追い払った。半漁人たちはあっという間に湖へ逃げ帰ってしまった。

「ばかやろぉぉぉ!」

真昼間の湖畔で俺たちは吠えた。奴らが去り、後に残ったのは食い散らかされた魚の骨だけだった。俺は湖にガソリンを撒いて一気に火を点けたい衝動に駆られた。

 その後の俺たちの行動はよく覚えていないが、凄まじいものだった。湖に巨大な石を放り込みながら、半漁人に対する悲痛な恨みを念仏のように大声で唄った。

 

 また漁をする気にもなれなかったので、俺たちはとぼとぼと家に帰った。案の定、正影、パーシー、先生までもが完成した家で、期待に胸を躍らせて待っていた。俺たちはさっきの有様を三人に話した。

「あの下種ども生かしておけん。人様のものを無断で奪うとは、この正影様が許しちゃいねぇ!」

正影はぐっと拳に力を込めた。だが、日本で魚屋を俺に襲撃させるように仕向けたのは、何を隠そう正影だ。

「半漁人という分際で魚を食うとは何事だ?あの思考回路残念野郎どもを皆殺しにしてやる」

その後、正影は狂ったように笑った。ダグラスとパーシーもどうやって奴らを皆殺しにするか考えているようだった。

「よし」

先生は思い立ったように立ち上がった。

「私が半漁人たちに鉄拳制裁を下そう」

「何かいい方法があるんですね」

「うん。私が変身して奴らを叩きのめす。具体的には巨大化して、術の力で湖を凍らせる。すると、半漁人たちは窒息するという寸法だ」

拍手喝采。

「湖を凍らせるのは、体温調整の応用だ」

「でも、湖が凍るほど体温を下げて死なないの」

「敬語を使いなさい――大丈夫だ。私は寒さには慣れている」

「わかりました」

俺たちは承知した。

 先生はその場で変身を始めた。侍の姿から炎をまとった。そして灰になった。

「・・・・・・」

俺たちは息を呑んだ。が、しばらくの間灰には変化がなかった。

「もしかして、だめだったのか」

俺が呟いた瞬間、灰の中から青い龍が空へ立ち上った。大きさは半端なくでかい。ドラゴンと比にならないくらいの大きさだ。

「先生?」

だがその生き物は、俺たちには目もくれず、まっすぐに湖の中心へと向かっていった。

「・・・・・・青龍だ」

正影が呟いた。『青龍』それなら知っている。四神のひとつだ。先生は青龍に変身したんだ。だが、なぜ先生が侍や青龍を知っているんだ。侍も青龍も地球のものだ。先生は地球に行ったことがあるのか。

「青龍。憧れるなぁ」

「どうした、正影」

「いや、青龍を倒せるくらい強くなりたいと思ってさ」

「確かに。俺たちも変身できるようになりたいな」

「変身できるじゃねえか。石を食べただろう」

「まあな。でも、あれは食べたものに変身できるんだろ?俺たちはたいしたものを食べちゃいないし、これからも早々食べないだろう」

「そうか?」

正影は遠くを見つめた。そこには湖に垂直に潜っていく青龍の姿があった。

 先生はきっとやってくれる。食べ物の恨みは恐ろしいとは本当だった。湖はだんだん表面に氷が張ってきた。氷はどんどん広がり、湖全体を覆いつくした。

「大丈夫か」

氷が厚くなった頃、湖の中心で何かが削れるような音がした。すると、氷に穴が開き、青龍が飛び出してきた。青龍は氷の上で横たわった。

「大変だ!」

俺たちは氷の上を走り出した。

 

 駆け寄ると、龍は息をしていなかった。

「父さん!」

トムとパーシーは涙で顔がぐちゃぐちゃだった。横になった龍を見て、俺はふと思った。先生の魂は抜け出たんじゃないのか。

「父さん!」

「待て、パーシー。彼はきっと生きている。きっと魂が抜け出したんだ」

俺はパーシーを制した。パーシーはじっと龍の顔を見た。

「・・・・・・そうかもしれない」

か細い声でパーシーが呟いた。

「きっとそうだ。身体が冷え切ったから、時間を置いて戻ってくる」

「そうだね」

俺たちは待った。先生はきっと戻ってくる。彼は半漁人を殺すために自分の命を投げ出すような愚か者ではないはずだ。

 辺りが暗くなり始めた頃、龍の身体が燃え出した。

「先生が戻った」

龍の身体が灰になり、中から侍の姿のダグラスが立ち上がった。

「今戻った」

「先生」

「大きな穴が開いてしまった。半漁人たちはきっとここから出るだろう。そこを生け捕りにしよう」

「わかりました」

俺たちは半漁人たちが出てくるのを今か今かと待った。ロープを持った正影はうずうずしていた。

「まだか」

その時、半漁人たちが一斉に飛び出してきた。

「ぷはぁー」

俺たちは半漁人たちに襲い掛かった。半漁人たちはあっけなく俺たちに捕まった。

「これで全員か」

「のようですな。僕たちに何をするつもりです」

「どうしようか。俺たちは冷酷なハンターだ。貴様らには死んでもらう!」

正影がどすの利いた声で言った。半漁人たちは眼をぱちぱちさせ、震えていた。

「ゲールがいたら真っ先に餌にするところだが、あいにくゲールはいない」

すると、空からゲールらしきドラゴンが飛んできた。

「えっ」

やはりそれはゲールだった。ゲールは俺たちの元に舞い降りた。

「正影、義影、美味そうな匂いがしたから飛んできたよ」

「お前の嗅覚は敏感だなあ」

ゲールはへへん、と笑うと半漁人たちに眼を移した。半漁人たちは縛られたまま、足をじたばた動かしている。

「半漁人か。みんなも食べる?」

ゲールは半漁人一人ひとりを見た。品定めをしているようだ。

「いいや。俺たちは鬱憤を晴らしたかっただけだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

ガルルルル・・・・・・正影が喉を鳴らした。

「俺も半漁人の肉を食べたい。朝から昼飯がなかったから腹ペコだ。それに、ドラゴンが大好きな半漁人を食べてみたい」

どうぞご勝手に。俺たちは肩をすくめた。

 空ではドラゴンが数頭旋回していた。

「先生、ドラゴンがいます。危険です」

「大丈夫。ドラゴンは近づけんよ。私はドラゴンハンター。奴らはそのことを知っている。だから容易に近づくことができないのさ」

「ドラゴンハンターとは?」

「その名のとおり、ドラゴンを捕まえるのさ。ドラゴンの肉を食べたものは、寿命が百年延びると言われているんだ」

「食べたことはありますか」

「何度か食べた。言葉では表すことのできない美味しさだよ」

先生は無意識のうちにゲールのほうを向いた。ゲールは顔を強張らせて先生を見た。

「ゲール、君は心配するな。ドラゴンハンターだったのはとっくの昔のこと。それに君は私の息子同然だ」

「びっくりした。でも、おいらは他のドラゴンが食べられても何にも思わない。彼らは愛や友情を知らない、醒めた連中だからね」

「先生、あなたは何者なんです?」

俺は先生が何者か疑問に思った。すると先生は微笑して、こんな話を始めた。

 

     8

 

 私が生まれたのは千年以上昔のこと。私はドラゴンハンターの部族の子供だった。部族には様々な生き物がいた。彼らについて語るのはやめておこう。話が長くなってしまう。

 私は父親、兄たちと共に、ドラゴンの狩り方を学んだ。捕獲したドラゴンは、町へ持っていって売るか、自らが食すのだ。ドラゴンは気高き生き物だから、馴れたりはしない。父はこの部族の中でも有名なハンターだった。人生で五頭のドラゴンをしとめた。だが、彼はドラゴンと戦っているときに命を落とした。私が同行していた者に聞いても、彼らは何も教えてはくれなかった。

 兄たちはみんな疫病にかかり死んでしまった。父が亡くなり、私は途方に暮れていた。

私はひとりになったのだ。そこへ、ひとりの旅人が声を掛けてくれた。彼の名を竜荒原と言う。彼は人間だった。幼い私は藁にすがる思いで、彼と旅に出ることを決意した。彼は優しかったが、決して生ぬるい人間ではなかった。私は彼と共に修行をした。ドラゴンを狩る修行だ。彼と私は千年に一度の、ドラゴンの大集結を見た。なぜ集結するのかはわからない。だが、それは凄まじい光景だった。今も夢に見ることがある。美しく恐ろしい光景だ。その時私は、始めて狩りをした。

 竜荒原とドラゴンを一頭しとめた。ドラゴンが休憩のために降りてくるところを狙った。

普通は弓矢でしとめるのだが、我々は剣を使った。弓に比べ、剣は致命傷を与えられる。木の陰に隠れ、じりじりと近づき、ドラゴンの腹に剣を突き刺した。ドラゴンは悲鳴を上げ、息絶えた。若いドラゴンだった。私たちはドラゴンの肉を食べた。そんなことを何度か繰り返した。

 

 ある時、森の奥に動くものを感じた私は、荒原と協力して挟み撃ちをすることにした。私はその生き物を追いかけた。追いかけていたら、その生き物は急に止まり、その牙を私に剥き出した。その生き物は虎だった。虎は私に飛び掛った。私は虎に飲み込まれた。痛みはなかった。

 

 気がつくと、私は船の上にいた。船の甲板に横たわっていたんだ。周りには頭に布を巻いた色黒い屈強な男たち。まず私は自分の手を見た。ネズミの手だったはずだが、人間の手をしていた。私は生まれ変わったのだと思った。虎に食べられて、気がついたら海の上。私は自分に言い聞かせた。これは生まれ変わりだ、と。だが、生まれ変わったなら始めは赤ん坊だ。しかしなぜか私は大人の男だった。

 周りにいた男たちが寝そべっている俺に声を掛けてきた。

「よお、ダグラス。そんなところに寝てないで朴を張るのを手伝えや」

私はダグラスと呼ばれた。前は違う名前だった。だが、思い出せない。私はダグラスとして生きることにした。

さりげなく今までの自分について聞いたが、周りの連中は、何でそんなことを聞くんだ、と言った。私は余り追求しなかった。いや、できなかった。我々は世間一般に『海賊』と呼ばれる集団だった。すなわち、他の船を攻撃したり、陸に下りて、王朝や宮廷などから財宝を頂戴するのだ。私は暴れた。世界中で。ギリシャで大金をものにし、スペインでは金をものに、天竺では仏像を金に換えた。日本にも行ったことがある。その時、日本は大戦の真っ最中だった。我々は貴族院に乗り込んだ。金を手に入れ、しばらくそこで遊んだ。

気がつくと私は歳をとっていた。そして、寿命が来て死んだ。

 

 目覚めると、私の身体は森の中だった。身体はネズミの姿、忘れかけていた姿だ。長い夢を見た気分だった。虎に食べられ、海賊になった。身体を起こした。身体は木の葉が何層にも積もっていた。毛は濡れている。

「荒原、どこにいるんだ」

だが、誰も返事はしなかった。木の葉が風で揺れている音が、私を孤独にさせた。私はふと自分が眠っていた地面を振り返った。そこには、土の間から白骨化した人間に指の骨があった。直感的にわかった。この骨は竜荒原のだと。私が眠っていたときに、竜荒原は私が死んだものだと思い、自害した。そして、月日は流れた。骨は風に吹かれ塵となって消えた。その時、深い悲しみが押し寄せてきた。竜荒原は自分のために死んだ。私が死んだと思ったから。私も死のう、竜荒原。私は腰にあった剣を抜こうとした。だが、錆付いていて抜けなかった。私は新しい剣を求め山を降りた。

 

 そこにあったのは小さな村だった。自分の故郷に似た落ち着いた村だった。私は村の者に武器商人はいるかと尋ねた。その人は何も言わず、道の突き当たりの小屋を指さした。私は礼も言わず、武器商人の小屋まで歩いた。

 中へ入ると、ひとりの老人が腰を下ろしていた。彼は人間だった。

「武器を買いに来たのかね」

老人は私の眼をじっと見た。

「君は飢えたオオカミのような眼をしている」

「なんだと。いいから武器を売ってくれ」

「自殺しようとしている者には、武器を売らない主義なんでね」

私はたじろいだ。なぜこの男は私が自殺しようとしていることを知っているんだ。

「自殺などしない!」

「嘘をついてはいかん。わしは相手の心を読むことができる。君の心は読みやすい。自殺などやめなさい。心に蟠りがあるなら、話を聞こう」

正直迷った。この男は信頼できるのだろうか。男が澄んだ瞳で私を見つめてきた。

「わかった。全部話す」

私は男にすべてを話した。本当にすべてだ。彼はたまにうなずきながら、静かに聞いていた。

「君は大変な苦労をしてきたのだね。きっと、海賊として生きていたのは夢じゃない。どこか違う世界に行っていたんだ。世界はひとつじゃない。私はそう思う」

「あなたに話したおかげで、心が楽になったような気がしました。私はこの先行くあてもありません。どうかここで働かせてもらえないでしょうか」

「構わんよ」

彼は立ちあがった。

「さて、まずは剣を磨いてもらおう」

私が剣置場に向かおうと歩き出したとき、彼は私を引き留めた。

「そうだ。まだ君の名前を聞いていなかった」

「私はダグラスです」

「そうか。わしはこの村の長老、アウロス・ギル・プリジンべ。よろしく頼む」

「はい」

それが彼との出会いだった。それから私は過酷な修行をすることになる。きっかけは、こんなことからだった。

 働き始めて二か月がたったころ、店に武装集団が来た。他の地方から来た男たちだった。店には、歴史的価値が高い武器が数多くあった。奴らはそれを狙いに来たのだ。

「ジジイにネズミ、命が惜しけりゃ大人しく武器をよこしな!」

大抵このような決まり文句から始まるものである。アウロスはさっと私の前に出た。

「おぬしら、いい度胸をしておるな。じゃが、命が惜しけりゃさっさと立ち去れ。さもないと、魂抜くぞ」

アウロスの気迫に、一瞬武装集団は怯んだ。しかし、

「魂抜くだ?調子こいたこと抜かすと、首が飛ぶぞ、あああ?」

アウロスは微かにくちもとが歪んだ。

「ならば、見せてやろう」

彼はボスらしい男の前に手をかざした。すると男は、急に意識を失い倒れたのだ。

「兄貴!大丈夫ですかぁ!」

「貴様、何をした!」

「わしは忠告したぞ。貴様らもこのようになりたくなければ立ち去れ!」

「畜生!みんな、引き上げだ」

後の男たちは、ボスを引きずり走り去ってしまった。そして、私とアウロスが取り残された。

「アウロス、何をしたのです」

「術を使ったのじゃ。彼の魂は浮遊しておる。きっと、今もこの近くにおるぞ」

「殺したのですか」

「ああ。戻すこともできるが、面倒になるだけじゃ。ここいらで終止符を打つべきなんじゃ」

「・・・・・・そんな」

「わしは悪人に妥協しない。彼は今までに罪のない人をたくさん殺している。だから、わしが鉄拳制裁をくらわせたわけじゃ」

「では、魂はどこへ行くんですか」

「浮遊している魂を、天使か悪魔が捕まえに来るんじゃ。天使は善人しか見えず、悪魔は悪人しか見えない。だから、善人は天使に、悪人は悪魔に連れて行かれるんじゃ。きっとあの男は悪魔に連れて行かれるじゃろう」

「どこへ連れて行かれるのですか」

「地獄じゃ。彼は永遠に地獄で苦しむことになる。生まれ変わりのチャンスが来るまではな」

「生まれ変わりですか」

「そうじゃ。天国へ行ったもんも、地獄へ行ったもんも、いつかは生まれ変わるのじゃ。そうしないと、あの世とこの世のバランスが崩れるからな」

アウロスは遠くを見た。

「ほれ、悪魔が奴の魂を捕まえた」

皺だらけで血管が浮き出た指で外を指さした。だが、私には何も見えなかった。

「悪魔が見えるんですか」

「生まれ持った障害じゃよ。悪魔が魂を捕まえる瞬間や、天使が魂を連れて行くのが見えてしまうんじゃ。それに、生きたもんが地獄へ行くのか、天国へ行くのかがだいたいわかるんじゃ」

「それは障害でしょうか。私は、神様からのプレゼントだと思います」

「そんなありがたいもんじゃないわい」

アウロスはそう言うと、武器を磨きに行ってしまった。私もそれに続いた。

 

 武器を磨いていたアウロスが急に立ち上がった。

「のうダグラス、君は私の術を見ても、恐ろしがったり羨ましがらないのじゃな」

「術は素質があるものが使うものだと思うからです」

「ほほう。君の心はできあがっている。まあ、普通の生き物より人生経験が長いからな」

アウロスはひとりでうなずいていた。

「よし、君はきっと術を使う素質があるぞ。私は術を他人に教えたことはないが、君は術を使いこなせるはずじゃ」

「本当ですか」

「ああ、もしかして君はドラゴンハンターの部族の生まれだったな」

「はい」

「実は私もドラゴンハンターだったんだ」

「本当ですか」

「嘘をついても仕方なかろう。今、ドラゴンは限られた土地にしかいない。人間が多い土地にはドラゴンが住めんようになっているんじゃ」

「それは、人間がドラゴンを捕獲しすぎたということですか」

「そのとおり。さあ、今から術を伝授してやろう。嫌がっても逃げ出してもだめじゃぞ。わしはもう決めたんじゃからの」

「逃げたりしませんよ」

「ようし、ならばついて来い。なあに店はほっといても大丈夫じゃ」

「そうですか」

「ああ、さあ来なさい。わしの七つの術を伝授してやろう」

七つの術とはこのようなものだった。

【体温を調節する術】

【読心術】

【自分及び相手の魂を操る術】

【炎を操る術】

【水を操る術】

【空気を操る術】

【地面(土)を操る術】

 

 

 それから長い月日の中で【体温を調節する術】【読心術】【自分及び相手の魂を操る術】を使えるようになった。ただし、【自分及び相手の魂を操る術】に関しては、相手の魂を操る段階までは伝授してもらうことができなかった。なぜなら、アウロスが突然姿を消したからだ。私とアウロスは同じ部屋で寝起きを共にしていたのだが、朝目覚めると、置手紙を残してアウロスが消えていた。

 

 わしはこれから長い旅をすることにした。突然ではあるが、どうぞ許してくれ。この旅は危険を伴う。よって、君はまだ一緒に旅をするには危険だと判断した。わしが旅をすると知れば、君はついてこようとしただろう。だから、わしは君に悟られないように準備をしていた。この旅は、神になるための旅だ。この愚か者を許してくれ。

 

 追伸

店及び店の商品については君のものだ。どうぞ好きにしてくれ。

 

 親愛なる弟子ダグラスへ          アウロス・ギル・プリジンベ

 

 

 私は憤慨した。神になる旅だと。そんな勝手なことを許すことが、当時私にはできなかった。

 私はその日のうちに、荷物をまとめた。この村を出てまた旅をする、そう決めた。

 店を出るとき、アウロスが大切にしていた剣と盾が目に入った。それは西洋風の作りで、剣は金で、盾は青銅で作られていた。私はアウロスが、この剣と盾は魔力がある。私が死んだら、これはお前のものだ。と言っていたのを思い出した。私はその剣と盾を持っていくべきか迷った。結局、武器は必要だったため持って行くことにした。

 

 それから、長い旅をした。不思議と寿命は訪れなかった。身体は若いままだった。それがドラゴンの肉の力だとは気がつかなかった。

 放浪者としてさまよって、私は緑の大地で力尽きた。

 

 気がつくと、一匹のネズミに看病されていた。若い雌のネズミだった。私は彼女に恋をした。彼女の名前はカレンだった。

 

     9

 

 先生は遠くを見た。夜空には無数の星が輝いていた。

「私の半生はこんな感じだった。どうだい、これで納得したかい」

俺たちはダグラスの話をうっとりと聞いていた。半漁人たちも縛られた状態で静かに聞いていた。

「先生、大変な半生でしたね」

「まあね。辛いときもあったが、幸せなときのほうが多かった気がするよ」

「今は、剣と盾はどこにあるんですか」

「秘密だ。必要になったら君たちの誰かに授けよう。だが、魔力がある物だから、下手をすると自分が操られてしまうがね」

先生はにっと歯を見せて笑った。

「ところで、半漁人はどうするね。料理するか」

半漁人たちが一斉に騒ぎ立てた。

「俺は半漁人たちがもう悪さをしないなら、逃がしてやってもいいと思います」

「大人だねえ」

正影は俺を睨んだ。

「半漁人はまた悪さをするだろうよ。ゲールも腹が減ってるみたいだし、こいつらは食われて当然なんじゃないか?なあ、ゲール」

「おいらに無茶振りしないでよ。まあ、半漁人を数人食べさせてくれたら、おいらは他のには興味ないけど」

「ほらな、義。悪い奴は鉄拳制裁を食らわす。これが自然界の掟だ。弱肉強食って言うだろ」

「まあな」

「生きるためには、他の生き物の命が必要なのです」

正影はしみじみ言った。

「ということで食べよう!」

正影がひとり半漁人を掴んだとき、

「助けてくれ!お願いだ、望みのものは何でもやるから!」

と半漁人が暴れだした。

「何かいいものがあるのか」

「あります、あります!」

他の半漁人たちは、正影に掴まれた半漁人を、信じられない、といった眼で見ていた。

「何がある?具体的に!」

「は、はいぃ!古くから伝わる水瓶です」

他の半漁人たちは、やっちまったー、とでも言いたげな表情だった。

「ほー、それはどんな水瓶だ」

「魔法の水瓶です。水瓶をひっくり返すと、結界を作ることができるのです」

そう言って半漁人は崩れた。

「結界だ?どうせ、嘘かましてんだろ?」

他の半漁人たちは顔を見合わせたが何も言わなかった。

「貴様らあああぁぁぁ!命が惜しけりゃ、さっさと吐けや!」

「ひいいいぃぃぃ・・・・・・」

半漁人たちは震え上がった。だが、命と水瓶を天秤に掛けられたら、さすがに命のほうが重かったのだろう。半漁人たちが口を開いた。

「水瓶はこの湖に代々伝わる大切な宝だ。だからてめえらみたいな、乱暴者に渡すことはないんだ」

「だが、命を掛けて守るには僕らには不要だ」

「だから、水瓶をやるからさっさと消えてくれ」

「魚を食べたのは済まなかった。だから、このとおりだ」

半漁人たちは頭を地面にこすり合わせていた。この光景を見ると、俺たちが半漁人をいじめているように感じるかもしれないが、いたってそんなことはない。半漁人が悪いのだ。断固そこは譲らない。

「義、どうする?」

「水瓶を取りに行かせたらいいんじゃないか?勿論、人質を残して」

「それがいい。わかったか下種どもっ!」

半漁人たちはうなずきあった。水瓶を渡せば開放される。するとひとりの半漁人たちがこう言った。

「水瓶は大きなものなので、ひとりでは行けません」

「おおそうか。なら、三人だ。さあ、誰が行くかは決めていいぞ。早くしろ」

半漁人たちはひそひそと、相談をしていたが三人はあっけなく決まった。

 三人の半漁人たちは縄を解かれ、凍てつくような湖に戻っていった。

「早くこいや、水瓶」

半漁人が戻ってくるまで俺たちはしりとりをしていた。案の定先生は遠慮したが。俺たちが無理やりやらせた。ゲールは知っている単語が少ないという理由から除外された。

ダグラス 「しりとり、りんご」

トム   「ごりら」

パーシー 「らっぱ」

この辺までは大体一緒である。

俺    「ぱ?パイナップル&トロピカルフルーツのスムージー

正影   「じー、ジーコジャパっ・・・・・・おっと危ねえ。『ん』がつくとこだったぜ」

俺    「正、はよ」

正影   「おおう、ジーンズ。ここは、パンのほうじゃないぞぅ」

ダグラス 「ジーンズって何?まあいいや。ズ、ず?ずる」

トム   「る、ルーレット」

パーシー 「トラウマ」

俺    「真水ー」

正影   「まみずう?う、ウルトラマ・・・・・・ウルトラメン!複数形だぞ」

ダグラス 「どっちにしろアウトだ」

正影   「ぬおおおぉぉぉ・・・・・・」

こうして俺たちのしりとりは三週目に突入しないで幕を閉じた。

 

 半漁人たちはそれからしばらくして戻ってきた。半漁人たちは大きな水瓶を持っていた。

「これは素晴らしい」

ダグラスが感嘆の声を上げた。水瓶はシンプルながらも、高級そうな作りだった。模様はなく、丸みを帯びた形をしていた。色は透き通るような透明をしていた。ダイヤモンドのように輝いている。

「これが代々伝わる水瓶です。さあ、我々を解放してください」

「まあ待てよ。こいつの効き目を試してからだ」

正影は半漁人から水瓶を引ったくり、水瓶をひっくり返した。すると、水瓶から半径三メートルほどの円が正影の周りを取り囲んだ。正影の近くにいた俺たちは、その円に飲み込まれた。外側にいたゲールが円の影響かぼやけて見える。

「ゲール、外側から触れないのか」

ゲールは前足の先で透明な壁をつついた。

「おいらがそっちに行くのは無理そうだ」

「思いっきり体当たりしてくれ」

「仕方ないなあ」

ゲールは翼を動かすと空を飛んだ。空中で小さく旋回した後、ゲールは垂直に俺たちのところへ突っ込んできた。ぶつかる、と思ったがゲールは透明な壁に衝突し、地面に転げ落ちた。

「大丈夫か」

ゲールは俺たちのほうを睨むと、大きく炎を吐き出した。ゲールの元へ行こうとしたため、正影が水瓶をひっくり返した瞬間だった。バリアは解かれ、ゲールが吐いた炎は俺たちに直で来た。俺たちは黒焦げだ。やけどした俺たちはすぐさまいてつくような水の中へ飛び込んだ。今度は冷たさで、死にそうだった。先生と水瓶は焦げた様子もなく無傷だった。

「大丈夫か」

先生の手を借りて俺たちは陸に這い上がった。半漁人たちはくすくすと笑い合っている。喧嘩っ早い正影は、ぶるぶるっと身体を震わせ水を飛ばした。

「おい、お前らなに笑ってるんだ」

辺りは静まり返った。

「ふん、貴様らなんぞいつでも俺が食べてやらぁ」

半漁人たちは泣きそうな顔で俺を見た。俺が庇ってくれると思っているらしい。

「まあいい。さあ、湖へ戻れ。そして二度と俺たちの視界に現れるな!」

正影はその鋭い爪で、半漁人たちを縛っていたロープを切った。半漁人たちは別れの言葉を言うでもなく、凍えるような湖へ戻っていった。

「さあ、私たちも家へ戻ろう。食料はないが、家は完成したんだからぐっすり休もう」

「そうですね、先生」

俺たちは、簡易ハウス目指して氷の上を歩いた。

 簡易ハウスに入ると、中は意外と広く、天井と床も満足できるものだった。ゲールは生まれたときよりも格段に大きくなっていたが、簡易ハウスに入れないくらいではなかった。

「今日の戦利品だ」

正影は水瓶を部屋の隅に置いた。

「この水瓶は持ち運びが不便そうだなあ」

「まあ、しばらくはここにいるのだから、持ち運ぶ必要もあるまい」

「先生、もし盗まれたらどうするんです?」

「盗まれる心配はないと思うんだが」

「なぜです?」

「半漁人はもうここへはやってこないだろうし、ドラゴンはここに水瓶があることを知らない」

「でも、この水瓶は半漁人の宝ですよ。いつ取り戻しに来るか」

「心配するな。水瓶ごとき、たいしたことじゃない。攻撃は最大の防御と言うだろう。自分を守るのは自分。物に頼っていては強くはなれないぞ、義影君」

「はい、先生」

「さあ、今日はもう遅い。眠ろう」

俺たちは床の上で眠った。

【オススメ!】逃避行

序章 忍び寄る影

 

午前二時。都会の薄明かりも完全に遮断される廃ビルの階段を、一人の男がゆっくりと上がっていく。前も後ろもない、吸い込まれんばかりの闇。コンクリートの壁に反響する男の硬い靴音。そして、嗅覚を刺激する血の匂い。

 窓もない完全な暗闇の中を、男は躊躇なく突き進む。上方では「標的」が息を荒げながら逃げ惑っていた。

 

――殺せ、殺せ――

 男の口元が僅かに歪んだ。

 

       

 

 どんな人間もいずれ死ぬ。こればかりは避けようのない事実。だから、俺は死など恐れない。……殺すことも。

生きたいと願わなくなったのはいつからだろうか。いや、確かにはっきりと覚えている。初めて人を殺した時だ。

 忘れたくない思い出は掌の砂のように流れては消えゆくというのに、消したい記憶ほど刺青のように胸に深く刻み込まれて消えることはない。あの日、あの瞬間から俺の中の時間は止まり、すべてのものは色を失い、何もかも価値を失った。世界が崩れ落ちるかのように、俺の心は死んだのだ。

 もう、戻ることなどできないとわかっているのに――未練などないはずの過去なのに、どうして俺はこれほど執着しているんだ。

 だがやはり、どんなに考えても無駄なんだ。俺は人殺しで、化け物なのだから。

その瞬間、俺の中のすべての感覚が麻痺する。いや、少し違う。強烈な快楽と痛みの波が電流のように全身を駆け巡る。ちょうど麻薬や覚醒剤のそれに近いものかもしれない。その瞬間だけは俺は俺を縛り付ける全てから解放され、「無」になれる。単に人間に生まれつき備わる「闘争本能」に従っていればいいのだから。

ならば人を殺すことが楽しいかと聞かれたら、間違いなく違うと答える。では何故――

理由などない。

なぜ生きているのかと聞かれて、即座に答えられないのと同じことだ。為すべきことの対象が憎いわけではない。が、沸々と湧き上がるのは間違いなく怒りの感情。何故だ。俺は一体何に心を震わせ、感情のままに闘うのだろうか。俺は死ぬまでこの負の連鎖の中でもがき苦しみ続けるのだろうか。怒りに悶え、それを暴力という形で放出しながら。

 だが、それでも俺の中の潜在意識がその感情すら鎮めようとする。やはり、俺はどこかで僅かな光を捨てきれていないのだろう。あれだけ人間という本能と欲望に埋もれた動物を嫌いながら、まだそれにわずかな希望を抱いているのだから。いくら希望を抱いても、本質的には、逃げ出せるわけもないというのに――

 従順に飼いならされた犬は、どんな飼い主であろうと噛みつくことはできない。しかし、命令が下されれば、誰にでも噛みつく。

俺は犬じゃないと自分に何度も言い聞かせてきた。それなのに「飼い主」に噛み付くことができない。しようと思っても、植えつけられた暗い記憶に逆らうことができない。

 俺は一生「犬」のまま生きるのか。独房で繋がれ、命令のままに人を殺してくる。用がなくなれば跡形もなくこの世界から抹消される。確かに死ぬことに何の恐怖も感じない。むしろ俺を縛り付ける全てから解放される。

 だが、このまま命を終わらせたくない。負け犬のまま、最後までいいなりになって死ぬなんてごめんだ。

 俺に刃向かうすべての敵を一掃してから、静かになった世界で死にたい。

 俺を殺せるのは、俺だけだ――

 

――殺せ、殺せ――

 

 何かが頭の中で囁く。自分自身の声だろうか。それとも俺の心を血で赤く染め上げた「奴ら」の声だろうか。この声を聞くといつも自分がわからなくなる。底の見えない暗闇に突き落とされ、どこまでも堕ちていく、そんな感覚だ。

 今もこうして体が勝手に動き出す。

 全身に力が漲るのがわかる。本来これは強い憤りから来るはずのものだ。だが、俺はそんなものを感じてはいない。

 目の前の「標的」が俺を見上げて震えている。だが、何故こいつは俺を見てこんな顔をするんだ。解らない。

「あああ……ああああ!」

 

――殺せ、殺せ、殺せ――

 

 まるで激しく脈打つように、声は頭の中でどんどん大きくなる。

誰なんだ。お前は一体、誰なんだ……

 

――殺せ、殺せ、殺せ……――

 

       

 

 外は土砂降りだった。激しい雨がビルの壁に叩きつけられる。男の濁った瞳が青白く光った。廃ビルの最上階の薄暗い部屋で、この男は今まさに人を殺そうとしている。

 男の身長は優に二メートルを超え、筋肉の量も常軌を逸している。黒いタンクトップから伸びる両腕には、それぞれ一頭ずつ、黒く生々しい大蛇が指先へ向け絡みつくように刻まれている。

「あああ……ああああ!」

「標的」が狂ったような悲鳴を上げた直後、二頭の大蛇が素早く頭に飛び掛かった。

 窓だけしかない殺風景なコンクリート部屋の中で、逃げ場を失った「標的」が成すすべもなく男の餌食にされる瞬間だ。死を目前にした人間は意外なほど大人しい。逃げられないとわかっているから抵抗しないのか。それともいっそ早く殺してくれ思うからなのだろうか。

男に持ち上げられ、「標的」の足は宙に浮いた。「標的」は自分の毛細血管が断裂される感覚のあとに、首の関節が抜ける激しい痛みを覚えた。「標的」の重い胴体が首を引っ張り、重力に従って首の骨がかくんと外れ、首が赤紫に変色しながら異様なほど伸びる。

 苦悶に顔を歪める「標的」の目を、男の濁った瞳が真っ直ぐに捉えていた。一瞬窓から何かの光が男の顔を照らした。彫が深く、年齢も判らない。「標的」は自分を持ち上げる男の鋭い眼光の中に、僅かな光が揺れ動くのを見た気がした。何かに怯えているようにも見えたが、すぐに闇が男の表情を隠してしまった。

男は両手の親指を蟀谷に添えると、一気に力を加えた。

爆発的な威力だった。

 ミシミシという骨が軋む音のあとに、顎の骨が外れる硬い音がして、二本の親指が頭の中に突き刺さった。溢れ出る血は男の指を伝って、「標的」自らの後頭部を赤く染め上げた。

 男はさらに高く持ち上げ、頭部を壁に思い切り叩きつけた。勢いよく指を抜くと、体が壁伝いに床に落ちた。赤黒く生暖かい血が、一本の太い線となって床まで続いていた。

既に「標的」は死んでいるというのに、男はその鼻や耳などの突起物を手当たり次第に引きちぎった。首にも手をかけ、指を肌の中に食い込ませると、気管を握って引きずり出した。手足の骨も、執拗に関節から折り曲げ、最後は頭部を捻じ曲げるように胴体から引きちぎった。大量に血が溢れ、一面血の海になり、異臭が部屋の中を漂った。

 男は見るも無残な姿となった「標的」のジャケットのポケットから何かを無造作に抜き取った。

――やっと見つけた――

 立ち上がり際にそれを自分のポケットの中に滑り込ませ、開け放たれた窓の外を見つめた。

 雨の街の弱い光に照らされた男の顔は、奇妙なことに穏やかだった。

――やっとすべてが終わった。これでもう、俺は――

 その時床を硬いものが叩く音がした。階段を上る足音だ。耳を澄ませばどんどん大きくなる。相手は一人のようだ。

 身を硬くし、男は彼の到着を待つことにした。

 そしてついにドアは開かれた。

 光沢を帯びた、いかにも高そうなスーツ姿。金縁メガネの下の鋭い眼光が、裏社会の人間だと言うことを雄弁に物語っている。顔なじみの男であった。

「右近さん、なんでここに……

 訝しげに目を細めた男に、右近と呼ばれた男が一歩近づいた。まだ若く、長身で細面の顔は端正だ。襟の下から首筋に伸びる蛇の尾の刺青がなければ、エリートサラリーマンのような見た目といえるだろう。

「井上、お前はよく働いた。この様子じゃ、仕事は片付いたようだなあ」右近はそう言って、井上と呼ばれた男の足元の死体を顎でしゃくった。「高杉会の組長も無様なもんだ」

 右近は軽蔑で歪んだ顔を井上に向けたが、一方の口角だけは気味悪く引き攣っていた。

「わざわざ現場にやってくるとは相当急ぎのようですね」

「ああ。結局その男が持っていたんだろ、例のSDカード」

 井上はゆっくりとポケットからSDカードを取り出した。ビニール袋に入っていて、血で汚れた手で触れても支障はない。

「よこせ」右近は手を出した。

「ちゃんと約束は覚えていますね」

「ああ……。俺たちがお前にコンタクトを取ることはもうない。強力な『武器』を失って残念だ」

 井上は何も言わずにそれを右近の手に置いた。井上の右手と右近の右手は、大人と子供ほど大きさが違っている。

「約束ですよ」

 右近は踵を返し、来た方向へ歩き出した。「本当に残念だ。こんな形で大きな武器を失うことになるとは。もうお前に会えなくなる……

 右近はSDカードを胸ポケットに入れる素振りをし、再び井上の方へ振り向いた。その右手には小型の拳銃が握られていた。

「一生な」

 反射的に井上は窓へ走り出した。外へ飛び降りたと同時に、右近が発砲した弾が井上の分厚い胸板を貫いた。

 慌てて右近が窓から身を乗り出したとき、土砂降りのせいで眼下は霞がかり、視界に井上を捉えることはできなかった。

――弾は心臓を貫通したはずだ。いや、少なくともこの高さから飛び降りて無事なはずがない――

 身を翻し、右近は勢いよく走りだした。

 組織屈指の銃の名手である右近だが、井上の死体を目にするまではどうしても不安を払拭することができなかった。相手は不死身と称され、今までにどんな標的をも死に至らしめてきた化け物だ。それは右近自身が一番よく知っていた。それ故不安だった。もし井上が生きていたら……。考えるだけで怖気がする。

――あれだけ闇に手を染めておきながら抜け出するとでも思ったのか、化け物め。お前に残された道は『死』のみだ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章 リアル

 

  1

 

 先刻から蚊が周辺を飛び交っていた。

 五月も終わりに差し掛かろうというこの時期、西日を背中に受けながら、一人の男が鴨川の畔に腰を下ろしていた。

 男の名を三木武志といった。

 ふらふらと腕に止まった蚊は武志の右の掌に勢いよく潰され、黒々としたシミになった。武志は苛立たしげに顔をしかめ、服の裾で手を拭った。

 武志を苛立たせる理由は蚊ばかりではなかった。

 武志の端正な顔に殴られたような痣があった。父親にやられたのだ。顔を殴られたことにも腹が立ったが、それ以上に、剣道部をやめると言っただけで殴られたことが気に食わなかった。

 

 

 剣道部を去るに至った発端は、馬鹿な一年が他校の連中と喧嘩したことについて、顧問の下坂がキレ、部員全員に校舎全域の掃除を命じたことだった。やつは「連帯責任」という言葉を連呼していた。

 三木武志は元来上下関係というものが嫌いだった。彼に言わせると、自分よりも劣っているやつを敬うなんて馬鹿げている、そうだ。だが、それでも今までは理不尽なことも耐えてきた。それは次の国体で去年の雪辱を晴らし、優勝を勝ち取ろうとしていたからだ。一年前、勝つ自信はあったが、最後の最後に判定で負けた。

今思い返せば、そもそも何故剣道なんかやっていたのだろうか。よくよく考えれば別にやりたいからやっていたわけではない。気がついたときには既に竹刀を握っていて、そのまま握り続けていたら当然のように全国大会準優勝の地位についていた。剣道が好きだったというよりも、他人よりも卓越した技術を誇る自分に酔っていただけなのかもしれない。やはり、その優越感を得るために剣道をしていただけのことなのだろう。

でも、だから尚更勝ちにこだわっていた。他人を蹴落とし、自分が優位に立つことの悦楽を知っていたから。

 一年の喧嘩に関しては、正直なところ、殴り合いだろうと殺し合いだろうと勝手にすればいいと思う。俺に害が及ばなければ、極端な話、どこで誰が死のうが知ったことじゃない。それなのにあの顧問は、こともあろうか、この俺に掃除だと?舐めている。しかも剣道の心構えまで持ち出す始末。俺ははっきり言ってやった。お前みたいな腰抜けが剣道語ってんじゃねえ。俺の上に立ちたいなら、まずは剣道で勝ってみろ、と。

 やつは額に青筋を浮かべて俺を怒鳴りつけた。いい加減耐えられなくなった俺は、ちょうど持っていた竹刀をやつの眉間に叩き下ろした。笑えるほどいい音が響き渡った。でも、それだけだった。

 

 大きなため息と共に、鴨川の石段からへ思いきり石を投げた。ポチャンと小さな音がして波紋が広がる。それが消えるまで眺めていたが、することもなく寝転ぶと、初めて今日の夕焼けが綺麗だったと気がついた。自転車で家を飛び出して、気分でなんとなく鴨川まで来たわけだが、心の重たいものはどうにもならなかった。

 もちろん「清々した」ではない。かといって「やっぱ剣道がしたい」という気は湧いてこなかった。じゃあ何なんだろう、この心の蟠りは……

 やつをぶっ叩いたあとはヤバい空気になったが、何となく許された。それは「三木には逆らえない」という空気がその場を支配したから。そりゃあそうだ。俺がいなければ、剣道部なんか所詮は雑魚共の掃き溜めみたいなところだ。私立の特権使って、スポーツ推薦で抜いてきたやつら揃えたからって、ガキの頃から竹刀だけを振ってきた俺の相手になるやつは誰もいねえ。

何となく許されはしたが、もう剣道部に戻るつもりはない。あいつが土下座してきても、校長を連れてきても嫌だ。だって俺がいい成績残したら、やつは手のひらを返したように「私の指導の賜物です」と言わんばかりに振舞うだろう。あんな下等な顧問の下で誰が剣道など続けていられるか。プライドを捨てない限り俺には無理だ。絶対あいつの犬にはならねえぞ。

 その時ポケットの中でケータイが鳴った。電話だ。画面を見ると「ユリエ」と表示されている。無視しようと思ったが、鳴り続ける着信音が耳障りでつい出てしまっていた。

「なに?」

「あ、武志?あんた剣道部やめるってマジ?つーか顧問ボコるとかマジウケるって!」何が楽しいのか電話口の向こうでゲラゲラ笑っている。いつもどおりのねちっこい口調だ。てかボコるって何だよ……

ユリエのやつ、顔はそこそこいいのにキツい性格とケバい化粧が邪魔してる。

 面倒だったからあえて何も言わなかった。するとユリエはいつになく真剣な声になった。「あんた大丈夫?なんでやめちゃうのさ」

「は?何だよ。うるせえんだよ。俺のことなんかいちいち構うなよ」

……バカ」

 は?なんだこいつ。むっとして電話を切ろうとしたが、何も言い返さないのは逃げるみたいで嫌だった。

「剣道なんか、所詮お遊びだよ」

 違う。

「棒っ切れ振り回して、今まで何が楽しかったんだか」

 そうじゃない。頭ではわかっているのに、何でこんなことしか言えないんだ。

 ユリエは何も言わなかった。しばらくしてそのまま切れた。俺も電話を切った。すぐにまた途方もないため息が出た。

 馬鹿だよな。俺にとって剣道は勢い任せで捨てられるほどのものじゃなかっただろ。どうしてあんなことで捨てちまったんだろう。剣道は俺の人生そのものだったのに――

昔から竹刀を振るだけで時間を忘れることができた。去年の国体で、全国レベルの選手たちと竹刀をぶつけ合ったときの緊張感を今でも覚えている。大勢の観客が見守る中、勝った時の高揚感。そして、決勝戦で判定負けした悔しさ――

 やはり実家が道場ということが大きかった。壱武館という道場で、俺は六代目。あの新選組の隊士も使ったというから驚きだ。流派はもちろん、多くの隊士が使ったという天然理心流。現在師範を務める親父は、国体で二度優勝した経験があるほどの猛者だ。段位は最高峰である八段。ちなみに祖父も国体で優勝している。だから血統は間違いないのだ。俺も来年には優勝するだろう。いや、優勝するはずだった。

 幼い頃から剣道だけを叩き込まれて育ち、他と比較にもならないほどの厳しい鍛錬を積み重ねてきた。盆も正月も休みの日などなかった。平日などは家に帰れば真夜中まで竹刀を握った。

 それなのに、それなのに……

 もう一度、空を見上げた。

既に太陽は沈み、夕方と夜との間の、光とも闇ともつかない空が広がっていた。遠くには一番星が輝いて見える。

 強い風が吹き、俺の心をひやりとさせた。爽やかであり、同時に僅かな棘を帯びた五月の夜風。

 それだけで十分だ。俺の心を慰めるのに、今はただそれだけで十分だ。

 

 

 

  2

三木武志〉

 

 私立玄徳学園は俺が通う高校だ。緑を多く取り入れた造りの、無駄にだだっ広い敷地を持つ学校。剣道部は新設ながらも優秀な顧問をつけ、特別強化クラブとして活動している。スポーツ推薦でテストも受けないまま入学した俺は入学料、授業料全額免除。やはり、道場だけでは稼ぎが少ない我が家では大いに喜ばれた。

 が、俺は自ら剣道部を去った。いや、書類上はまだ部員として残っているのだろうが、今さら戻りたいと言うことなど俺のプライドが絶対に許さない。だが、その一方でもう一度竹刀を振りたいと思っているのも事実だった。

 体育館で深いため息をついたとき、一限目開始を告げるチャイムが鳴った。今日は変則で学年集会だ。硬い体育館の床に座り、例のごとく学年主任や生徒指導部長の話を聞かされる。

俺は体勢を崩し、目を閉じてこの長い時間をやり過ごそうとしていた。と、その時ポケットの中のケータイが震えた。校則の厳しい玄徳学園では、見つかれば即没収だが構わずそれを取り出した。

『おーい』

 何のことはない。ユリエからのメッセージだった。

――ちっ、こんな時になんだよ――

 少しばかり苛立ちながらも俺は後ろを振り返った。横のクラスの列にユリエがいた。他の人に並ぶとユリエの化粧の濃さはさらに際立つ。今日は時間があったのか髪まで丁寧に巻いている。そんなユリエは俺の方をじっと見ていた。別段怒ったような顔はしていない。昨日のことではないようだ。

 俺は慌てて返信した。

『なんだよ』

 ユリエはケータイをちらりと見ると、何やら前を指さした。

 見ると、前に生徒指導部長が立って何やら熱く話しているところだった。

『だからなんだよ』

 ユリエはケータイに小刻みに打ち込んでいる。二つ折りだから打つのに時間がかかるらしい。届いたメッセージには『転校生』『来るみたい』『しかも女(爆)』と。文面では爆笑しているはずだが、ユリエの表情は至って落ち着いている。「ほら」と口だけ動かし、また前を指さす。よく見ると、端のほうに立つ教師の横に、大人しく座った女子生徒の後ろ姿が見えた。

『マジかよ(爆)』

進行役を務める教員が「では転校生を紹介します」と言い、その女子生徒はゆっくりと立ち上がった。

 横顔しか見えないが、美人の部類に入ることは間違いない。肩までの癖のない黒髪。華奢な白い手足。大きな瞳――

 生徒たちは彼女を見て何やらざわついている。俺はそのざわつきに異様なものを感じ取った。

「結構美人やん」「どっから来たんやろ」「違うよ。よく見て」

一体何が違うんだ――

もう一度目を凝らして見てみた。確かに美人なことに間違いはないが――

 危うく声を出すところだった。

 寸の間、俺と前に立った彼女との視線が交錯した。顔の右側は間違いなく美形だが、左の目元は火傷でもしたのか、ケロイドのように赤く爛れていて、目も完全に塞がっている。それなのに、彼女はそれを恥じる様子もなく、悠然と構えている。それが俺の心に違和感を植え付けた。

 気づけば無意識に彼女を凝視していた。見てはいけないものを見たようで、だがどこか引き込まれるような感覚を覚える。

「じゃあ、自己紹介して」

 ハンドマイクを手渡された彼女は少し間をあけ、「桜田澪です」と頭を下げた。凛とした、透き通るような声だった。

 その時背中を誰かにつつかれた。俺の後ろは帰宅部の篠だ。ニキビ面で、どういうわけか常ににやけている。いつも俺があしらっても馴れ合おうとしてくる変なやつだ。

「武志くん、どう?」

質問の意図は瞬時に理解できた。

「別に……

「なあんや。武志くんが狙えば三日で落ちるのに。じゃあ俺が狙っちゃおっかなー」

 篠は苦いものを噛み潰したような顔で笑った。そういった行動の一つ一つが気に入らない。

笑うな。汚ねえ顔が一層歪む。それにお前には絶対無理だ。

 桜田を変な目で見る篠を俺は蔑むように見た。別段、俺にとってそれは敵意を示すものではなく、ただの嘲笑めいたものだった。

 篠が言った「三日で落ちる」というものは、あながち間違いでもなかった。

確かに俺は頭も運動神経もよかった。見た目ならそれ以上に自信がある。多かれ少なかれ他のやつらが妬んでいることぐらい知っている。背は183センチある。でも特に顔には絶対的な自身があった。この顔で落ちない女はいないとさえ思っている。わざわざ自分から仕掛けたりはしないが、すり寄ってくる女は好みであれば抱いてきた。そして捨てた。ゴミのように。

「おーい。武志くん聞いてる?あの子美人や思う?」

「知らねえよ」

「目んとこどうしたんかな。何か病気かな。てか何組なるんやろ」

 煩わしさに俺は何も言わなかった。篠もしばらく一人で何やら言っていたが、そのうち静かになった。

 俺はまた腰を下ろした澪の小さな背中を見つめていた。俺はふと自分の背中に何を感じ、振り返ると一瞬だけユリエと目があった気がした。

 

 

 

  3

二階堂健二〉

 

 京都府警警察本部組織犯罪対策部第一係。肩書はよく聞こえるが、要はマル暴だ。この国の腐った部分の処理をする汚れ仕事。時々、危ないような陰気くさいような刑事課の空気が嫌になり、こうして近くの公園に逃げてくる。四六時中犯罪者の相手をしていると、自分の心も毒されていくような錯覚に陥る。いや、それはあながち間違いでもないのだが、だからこそこうして正気を取り戻すためにここへ来るのだ。

 五月だってのにこの時間帯はくそ暑い。脱いだジャケットを左手に持ち、右手には大判の手帳。ベンチに腰掛け、それを一枚一枚丁寧に読み返す。手が空くとつい不精髭を触ってしまうのは随分昔からの癖だ。分厚い手帳には汚い字でびっしりと事件に関する情報が記されているが、要点だけを書き留めているために、素人が見ても何のことだか理解しかねるだろう。

 暴力団員同士の殺し、警官殺し、縄張り争いの抗争、娼婦強姦、飲酒運転の際の轢き逃げなどなど。

 ため息と一緒に手帳を閉じ、代わりにタバコを咥えた。銘柄はセブンスター。ゆっくりと煙を吐き、余韻を楽しむように目を閉じる。

 またタバコを口へ運ぼうとした時、ポケットの中でケータイが音を立てて震えだした。せっかくの安息のひと時を邪魔しやがって。無造作にそれをまさぐり出すと、サブ画面には「柳川」の文字。俺はタバコを地面に捨て、靴裏で揉みつぶした。

「二階堂だ」

「おう俺や。お前、またどこをほっつき歩いとんのや」同じ班に所属する、階級が一つ下の同輩、柳川邦彦の声だった。班というのは、組織犯罪対策部内の第一係を指す。その顔ぶれは年齢順に松平、俺、柳川、乾の四人で構成されている。他の班からは「松平班」と呼ばれ、マル暴捜査において第一線を張っている。

「職務中やぞ。早ぅ本店に戻れ。乾に仕事押し付けよって」言葉こそ荒いが口調に棘は感じられない。仕事柄こういう喋り方になってしまうのは俺も同じだ。

「うるせえ。俺に文句垂れにわざわざ電話してくんじゃねえよ」

「まあ聞け。やっとガサ状(捜索許可状)が出たんや」

「どこの!」俺は切りかけていたケータイに怒鳴りつけた。近くの砂場で遊んでいた親子が驚いた顔でこちらを見たが、睨み返すとそそくさとその場から退散していった。

ソープランド、クイーンタイムズ。あの雑居ビルの二階の」

 すぐに分かった。前々から睨んでいた違法ソープだ。違法入国の韓国人や中国人ばかりを安値で働かせているのだが、鹿王会系暴力団である神坂組の息がかかっているために黙認していたのだ。

 柳川は電話口の向こうで薄く笑った。「このガサ入れで何人か検挙できりゃ、また松平班の白星が増える。お前かて順調に出世したいやろ」

「ふん。そんなもんに興味はねえよ」俺は電話を切るとすぐに公園を後にした。

全く出世したくないと言えば嘘になるが、俺には会議室で資料をかき集めることよりも、第一線で歩き回ることの方が性に合っていた。現場でしか味わえないスリルと高い給料を天秤にかけると、やはりスリルの方を選ぶだろう。正直なところ、最近は大きな事件もなく味気なく感じていた。今回のガサ入れ、即ち家宅捜索も失敗は許されないが、昔大事件を経験したことのある俺にとっては薄い内容だ。

 

 本店に戻ると、既に班員が玄関で待ち構えていた。よほど急ぎのことなのだろうか。俺は一抹の不安を覚えた。「わざわざここで待っていてくださるなんて、急ぎですか」

「まあな」低い声で応えた頭の薄い恰幅のいい男が、現在五十六歳の松平。班員からの信頼は厚く、この男が凄んだ時は確かに怖い。

 その松平の横で、大事そうに一枚の写真を見つめているのが柳川だ。いつも一悶着あるときは決まって妻と娘の写真を見て心を落ち着かせるのがこの男のジンクスなのだ。もうこの道のベテランだというのに、マル暴らしからぬ小洒落たペイズリー柄のシャツを着ている。俺は見た目はあまり気をつかわない方だが、一番話が合うのがこの男だ。

「二階堂さん、どうぞ」そう言って拳銃と銃弾を手渡してきたのが、班の中で一番若手の乾。乾は数年前に警視庁からエリートコースを左遷されてこの道に来た。父親が警視官ということだったが、若気の至りで礼儀知らずの乾は、上官たちと反りが合わず何度も衝突を繰り返したらしい。

「悪ぃな」

この拳銃が実際に現場で使われることは滅多にないが、俺には何度か発砲経験がある。現場ではやはり犯人逮捕の瞬間が一番危険だ。追い詰められた人間は一体何をしでかすかわからない。実際、マル暴は警察官の中で最も殉職する確率が高い。一見現場に果敢に飛び込んでいく特殊部隊や、命がけの護衛をするSPの方が危険そうだが、防具を身に着けない分危険性は高まる。たとえ違法ソープのガサ入れでも下手をすれば反撃に遭うこともある。警察官とは、常に死と隣り合わせの仕事なのだ。

「乾」

車に乗り込むと、松平はシートベルトを締めながら発車の指示を出した。

 覆面パトカーが走り出すと、松平は重く口を開いた。「二階堂が来る前に一度話したが、今回注意すべきは、現場にマルB(暴力団員)が潜伏しとる可能性があることや」

 ヤクザが潜伏しているとなると、今回の案件は一気に難しくなる。

「カミサカの荒木健一の目撃情報が現場近くであった。潜っとる可能性は大や」

 カミサカとは俺たちが独自に使う隠語で、神坂組のことを指している。その組員である荒木は、一週間ほど前に傷害と強姦で逮捕状が出ている。仮に荒木を逮捕しても、おそらく神坂組との関与は否定されることが予想されるが、逮捕できれば松平班にとってはかなり大きな星となる。とりわけ乾は左遷されたこともあり、特別出世することに欲があるようだ。

「荒木の事件は大きいっすね。何たって中学生に手ぇ出しやがったんやから」柳川は憎々しげに眉を顰めた。中学校に入学したばかりの娘がいる柳川にとって、なおさら許せない犯行なのだろう。

「ヤナ、くれぐれも無茶はするなよ。何べんも言うとるが仕事に私情を持ち込んだらアカンぞ。冷静な対処ができなくなる」

「わかってますよ、マツさん」

 そう言いながらも、何度も腰の拳銃の感触を確かめる柳川を俺は横目で気にしていた。柳川が時に無茶をすることをよく知っていたからだ。

松平がフロントミラー越しにこちらを一瞥した。「二階堂、今回はお前が出入り口を塞げ。乱闘になることは避けたいが、もしものためにわしが先頭で斬り込む。そのあとにヤナと乾が続け。もしどっかに荒木が隠れとったらそっちを最優先にする。ええな、いつも通りやれば大丈夫やからな」

「はい」

 こういう時に一番危険な役回りをするのが最年長者の役目なのだ。ここで怖気づかないところが、さすがは組織犯罪対策部で長年食べてきた松平だ。

 車を運転する乾の横顔は緊張で強張っているように見える。松平が乾ではなく俺に表を塞ぐよう指示したのは、もしもの時に咄嗟の機転が利く者を入口に置いておくことと、まだ経験の浅い乾に、もっと現場での場数を踏ませることが目的なのだろう。刑事、特にマル暴の人間は数をこなすことで一流へとなっていくが、同時に最初のうちは大きなリスクを伴う。慣れないまま現場で死んでいく刑事が少なからずいることは否めない。まだ二十代の乾は、特に集団で行動することが苦手だ。ここでしくじれば取り返しのつかないことになる。

 

 車は徐々に狭い路地に入っていき、目的地の雑居ビルから少し離れた場所に停まった。このみすぼらしいビルの二階が、これから乗り込もうとする違法ソープ店だ。俺たちは車から降りると、慎重に入口の前へ移動した。

 素早く監視カメラや見張りがいないかを確認する。同時に小声で合図を送りながら、三人はゆっくりと薄暗い階段を上っていく。二階堂は腰の拳銃に右手を添え、背中を角ぎりぎりの壁に這わせた。こうすることで、わずかならも身を隠すことができる。目を皿にして、階段だけでなく外からの襲撃にも備え、意識を多方向に集中させる。

 三人は階段を上りきると、ちらりと俺の方を見てから、一気にドアを開け部屋の中に乗り込んでいった。

 

       

 

「警察だ!動くな!」右手で拳銃を構えた松平は、左手で警察手帳を乱暴に振った。

 店の中は薄暗く、ワインレッドのソファがコの字に並べられており、その横にカウンターが備え付けられている。従業員は白いスーツの男一人。背は高いが痩せ形でひ弱な印象を受ける。客は一人もいないようだった。

 松平に詰め寄られ、男は慌てた様子で両手を挙げた。「撃つな。撃たないで下さい」

「後ろを向いて頭の後ろで手を組め」

 男が言われたとおりにすると、柳川がすかさず乱暴に手錠をかけた。「15時7分」

暴力団員を匿っているか」周囲を気にしながら、松平が横目で男に訊ねた。男は一瞬躊躇ったように目を泳がせたが、静かにうなずいた。

「荒木か。どこだ」

「一番奥の部屋にいるはず」男が顎をしゃくった先の通路には幾つもの部屋の扉があった。その突き当りの部屋に向かって、三人は走り出した。松平は銃を右手に挙げたまま、左手でドアノブに手をかけた。中から施錠してある。早くしなければ窓から逃げられる恐れがある。

「撃つぞ!」松平は数歩後ろに後ずさると、ドアノブへ向けて発砲した。

 乱暴に扉を蹴飛ばすと、正面に大きなベッドがあり、若い女がシーツに体を埋めて怯えたように体を震わせていた。

――荒木はどこだ――

 松平がそう思うのが早いか、横を見ると必死の形相の荒木が、鉈を勢いよく振り下ろすところだった。

 ほんの一瞬にして、松平の首が叩き斬られた。

 松平のすぐ後ろにいた乾は、考える間もなくを発砲していた。

 松平と荒木。二人の男が命を落としたのは、たった数秒の出来事だった。

 

 

 

  4

三木武志〉

 

 水曜日の放課後。空には重苦しい暗雲が立ち込めていた。

 胸が苛立ちで膨らんだ俺は、学校から駅へ向かう道を勇み足に歩いていた。頭の中は先ほどのことで一杯だった。

 授業が終わると俺はそのまま格技場へ向かった。もう一度剣道部へ復帰する糸口を見つけるためだ。俺が到着したころには、何人かの先輩が先に来ていた。聞き耳を立てていたわけではないが、偶然聞いた会話の概要は、次の大会のエントリーのことで、俺が抜けることで三年が一人入れるというものだった。あいつらはその会話の中で、俺に対する鬱憤を好き放題に吐露していた。

 実力で劣っているくせに都合の良いことを、と憤慨しそうになったが、今日はそこへ飛び込んでいく気力も湧かなかった。そのまま踵を返し、学校を出た。

 

一人、俺は歩いていた。今は葛藤のような気持ちは何もなかった。ただつまらなかった。これから代わり映えしない毎日が、永遠のように続くのだと思うと嫌気が差す。もちろん先ほどの出来事で剣道部へ戻る気も完全に消え失せていた。

どうせ暇つぶしの部活だ。剣道は家でもできる。いや、何が剣道だ。今更どうだっていい。

 堪えきれずため息が出ると、俺の心を一層憂鬱にさせた。

つまらん。この怠惰の中に埋もれていたら自堕落に陥りそうだ。もっと何か刺激が欲しい。全身がゾクゾクするような、強烈な刺激が。

 その時背後から肩を叩かれ、振り向くと隣のクラスの女子が三人いた。

「三木くん」

 ユリエほどではないが、今どきの女子高生らしく若干化粧をしているようだ。スカートがかなり短く、見るからに遊んでいそうだ。むしろ都合がいい。

「こんな時間に珍しいね。部活は……。あー、何でもない」

 愛想笑いを浮かべた俺に一人が自分の腕を絡ませてきた。しょぼい胸である。

「ウチら今からカラオケ行くんだけど、良かったら一緒に来ない?」

 上目づかいに俺を見つめる。俺がわざと困惑した素振りを見せると、他の二人も「行こうよ~」とわざとらしく誘ってきた。さして親しいわけでもないのに、ここまで馴れ馴れしくできるとはつくづく腑抜けだ。だが、まあ、やって捨てるぐらいの鬱憤のはけ口には使えるだろう。

「いいよ」

 優しく笑い返すと三人も嬉しそうになった。だが俺は気づいていた。その笑顔の裏に、単に見た目がいい俺を引き連れて歩けるという優越感があることを。同時に、自分が求められているのはこの外見だけだということもわかった。だから尚更罪悪感は湧かない。馬鹿を好きに使っても自業自得というものだ。

 

 カラオケ自体は至って普通だった。盛り上がらなかったこともないが、だからどうといったこともない。さしずめ、俺が心から楽しめたはずもなく、終始気を遣うだけの重苦しい時間だった。

 二時間のカラオケが終わり、俺たちは暗くなった道へ出た。三人の女子のうちの二人が、「家こっちだから」と別れを告げた。その時に二人がもう一人に「頑張れよ」と小声で言った時に確信した。最初から自分に気があることは見抜いていたが、これほどあからさまに示されれば間違いないだろう。まあ食えない顔でもない。スタイルも。今7時半か。少し早いが、まあ悪くない時間だ。このままこいつの家に行くか、それともホテルへ連れ込んでやろうか……

 画策していると、気づけば二人は帰っていた。残された女は、暗くてよく見えないがどうやら顔が染まっているらしい。何を勘違いしているのか。つくづく馬鹿な女だ。だが馬鹿な女ほど簡単なものはない。

「この後どうする」

 顔を近づけ優しい笑顔で囁いた。一瞬驚いた女を深い酔いへ誘うように俺はその髪を弄んだ。こういう女は刺激を求めているものだ。

「どうしたの、顔赤いけど」優しくはにかんだのももちろん計算だ。女は恥ずかしそうに身をくねらせた。

「カラオケの時も、ずっと思ってたけどさ、やっぱ可愛いよな」

 そういって髪から耳、耳から首へと手を移動させる。やはりだいぶ熱くなっている。体は正直だ。今度は指先を首筋からなぞるように顎まで移動させ、落としていた視線を自分へ向けさせた。数秒見つめた後、俺は甘い吐息のような声を出した。「もう少しだけ、一緒にいたい」

 そこで流れは完全にこちらのものになった。

 

そのあとはいつもどおりだった。決まった運動、決まった動作を繰り返す。俺にとっては自分の快楽以外は目的ではなく、相手がどう感じようと関係なかった。だから蛇のように冷たく體をなぞり、何の情もなく事に及んだ。半分犯していたようなものだ。だがその快楽も一時的。全てが終わると、体を丸める彼女が醜いものに思えてならなかった。汚らしく、悍ましいものに見えると心はさらに冷たくなっていった。

「じゃあな」それだけ言い、部屋から出ようとした俺を女が引き留めた。これもいつものパターンだ。

「待って。ねえ、あたし本気だから」

 俺は何も言わず、立ったまま裸の女を見下ろしていた。侮蔑に目を細めながら。

「あたし……武志くんのこと本気で好きだから。だからちゃんと付き合ってほしい」

 女が顔を赤くし俯いたとき、俺は鼻で笑うように息を吐いた。何よりも、この瞬間が堪らない。優越感を手に入れ、同時に突き放すこの瞬間が。

「へえ、そっか。でもな、俺には愛だの恋だのいった下らねえ感情は無いんだ」

……なにそれ」

 俺を見上げた彼女は呆気にとられたような、怯えたような顔をしている。これも、いつものこと。

「おかしいでしょ。ここまでしておいて」

「はあ?下らねえ冗談はよしてくれ。自分を何だと思ってんだ。自分にそんなに価値があると、本気で思ってるわけじゃないよな?」

「え……

 俺は心の底から呆れたように大きく息を吐いた。「馬鹿にすんな。俺と対等に慣れ合おうだなんて生意気だ。お前みたいな性欲に塗れた醜い女は死ねばいい。それとも殴ってやろうか。もっと刺激的になる」

 声を立てて笑いながらそのまま部屋を出た。階段を降りるときに、呻くような奇声が聞こえたが気にならなかった。それどころか小気味よかった。自分に対して所詮顔しか見ていなかった女などどうでもよかった。自分の本質も見抜けずに軽々しくその身を差し出した馬鹿。当然の報いだ。

 玄関を出ると、仕事から帰ってきたところか、女の父親とすれ違った。すれ違う時に男は何か言おうとしていたようだったが、俺は冷たく睨んでやった。

 

 電車に揺られながら、先ほどのことを呆然と思い出していた。時間が経つたびに、俺は人間らしい良心をじわじわと取り戻していった。最後に聞いた呻き声が耳に残って離れない。鬱陶しいと何度も気を紛らわそうとしたが、どういうわけか頭から離れてはくれなかった。目を閉じた俺の頭に、部屋を出る直前に見た絶望的な女の顔の残像が浮かんだ。

 苛立たしげに窓の外を睨んだ。流れる景色を邪魔するように、窓に張り付く自分の顔が見えた。

 きれいな曲線を描く輪郭。流れるようなしなやかな髪。涼しげな切れ長の瞳。形の良い高い鼻。薄い唇。どれをとっても完璧だった。ただ、表情はやつれていてまるで老人のようだった。

やっぱりどいつも顔しか見てないんだ。だから俺は求められる。でも、俺の本質が認められたことなんか、今までたったの一度だってない。

 そう思うと先ほどまで悦に浸っていた自分が惨めに思えてならなかった。

俺は何をしてるんだ。こうやって女を食い物にして、一時の感情で満足している。こんなことをしている間に老いて、大事なことを見失って死ぬんだろうか。こうやって簡単に望めば得られるから、何の価値も実感できない。人を好きになっても、蓋を開ければどいつも内面は醜くて、欲望に塗れたただの「女」だった。本気で俺を好きでいてくれる人はいないだろう。俺だって、本気で人を好きになれない。いつもどこかで相手を見下している自分が怖い。

 自分の冷たい両手が顔を覆った。その顔は、手よりも遥かに冷たかった。

 

俺は一体、何を求めているんだ――

 

 

 

  5

三木武志〉

 

 苦しい。苦しい。ここは居心地が悪すぎる。

俺の居場所はいつも誰かの遠くだ。俺は名前も知らない誰かから、遠巻きに憧れや好意の目で見られる存在だ。でも絶対に話しかけては来ない。ひそひそと噂をして、それで楽しんでいるだけだ。そんな他人の生活を彩ることはできても、自分自身を満足させてやることはできない。どんなに求められてもそれに価値を見いだせない。俺は恵まれているのか。どんなに顔がいいと言われても、そんなことには何の価値もない。そんなものは所詮一つのアドバンテージに過ぎない。顔がいい……。女にもてる……。馬鹿馬鹿しい。こんな俺のどこが恵まれているというのだ。本当に大切なものもわからずに、ただ頭で考えて、行動も伴わない。どうせならもっと馬鹿になりたかった。そうすれば、何も考えずに好きなことをして満足していられるのに。

自嘲するような無味乾燥な息が漏れた。どうしても居心地が悪くて、武志は一時限目をサボって屋上に行くための暗い非常階段をふらつくように上っていた。

本来は立ち入り禁止で武志も行ったことはないが、もしかしたらこの学校の中で一番安らげる場所かもしれないと思った。

あいにく今日は霧が濃いが、それでも空を見上げていたら、また前みたいに少しは気持ちが楽になるかもしれない。授業の単位なんかどうでもいい。どうせ俺は頭がいいからすぐに取り返せる。でも勉強もしないくせに人よりも優れているなんて生意気だよな。俺みたいなやつより、もっと将来とかそういうことに真面目なやつはいるだろうに。頭の良し悪しも半分は遺伝っていうが、じゃあ俺にあるものは全部最初から備わったものだったのか。そう考えると努力なんか虚しくなる。

 階段を上りきると眩しい光で視界がいっぱいになった。途中から光を遮断する屋根はなくなり、深い霧が視界を遮っていた。入口には閉ざされた背の高い柵に、鎖が何重にも巻き付けられてあったが、無視して無理やりよじ登った。

まだ朝だから少し肌寒い。シャツだけじゃ少し冷える。それにしても広い屋上だ。こんなにも濃い真っ白な霧のせいか縁の境界線が見えない。こんなに高い場所にいるのに、全くそんな感じがしない。

 武志は数メートルあろうかという柵の上から、薄らとしか見えないコンクリートへと飛び降りた。両足に痺れるような痛みを覚えたが、それもすぐに消え失せた。

 この下で、みんな椅子に座って真面目に勉強してるんだよな。したくもないことを、無駄な努力かもしれないのに……。そう思うと何だか自分も可哀想になってくる。生まれてからあれだけ剣道をしてきて、全国で二位という大きな結果は残したものの、結局それが何の役に立つかはわからない。せいぜい俺が道場を継いだ時の宣伝文句に使えるぐらいだろうか。だったら実に下らない。それに剣道なんて普通の生活をしていたらまず使うこともないだろう。もしヤバい状況になっても、絶対にボクシングや空手の方が現実的だろう。その辺に都合よく棒が落ちてるはずがない。

 気が付けば剣道のことを考えていた。よくよく考えれば、今さら思い出したくもないことだ。忘れよう。今はどうでもいい。そんなことよりも、この屋上がどうなっているのかが気になる。霧が晴れてくれればきっといい景色なのに。

 硬いアスファルトの上を上靴で歩きながら、俺の意識は実に下らないことに向かっていた。床に生えているコケがどこからやってきたのかとか、何でこんなところにアリの巣があるんだろうとか、ここから飛び降りたらどんなにグチャグチャになって死ぬんだろうか、とか。

 そうして屋上の一番端まで来たとき、武志は無性に叫びたくなった。理由なんか分からないが、とにかく叫びたくなったのだ。都会に住んでいると叫べる場所なんかどこにもない。確かに今叫んだらまずいことになるかもしれないと、一瞬そんな考えが脳裏を過ぎったが、そんなことを深く考えることもせず叫んでいた。

「アァーッ!」

 人ではなく犬のような声だと思った。飢えた犬だ。それでも武志は、この葛藤を少しは吐き出せたような気がして心もち楽になった。すると自然と口の端が歪み、笑いが込み上げてきた。最初は小さかったが、だんだん大声になった。

「ねえ」

 女の声。どきりとした。

 振り向くと少し遠くにうっすらと人影が見える。どうやら女子生徒らしいが、何故こんなところにいるのか武志には分からなかった。

「誰だ……

 彼女はゆっくりと近づいてきて、お互いの顔が見えるぎりぎりの距離で立ち止まった。武志はその女の顔をよく知っていた。そして、声も出せずに呆然としてしまった。

 桜田――あの特異な転校生だ。

 桜田は何も言わずに、その右の目で俺をじっと見ていたが、ふいと逸らし、歩み寄ってきたかと思うと風のようにそのまま通り過ぎた。

 声をかけようとしたが何も言えなかった。普段の武志なら上手い言葉がいくつか浮かび上がってもおかしくはないのだが……

 桜田はそのまま歩いていき、武志がいたフェンスに体を預けた。普段の武志ならば、変なやつだとあしらったかもしれないが、彼女を見ていると、何だか自分の濁った心を、まだ辛うじて残るきれいな心が静かに眺めているような感覚を覚えた。

「何でそんなに大声出すかなあ。誰か来ちゃうよ」

 俺の方に振り向いた彼女は、笑っているような悲しんでいるような顔をしていた。

……悪い」

 その言葉はあまりにも自然に発せられて、武志自身も意外だった。

「あなたは」

 名前を聞かれているのだとはすぐには分からなかった。

「三木、武志……

 何が嬉しいのか、桜田は鈴が鳴るような可愛い声で笑った。

「私は桜田澪です。よろしく」

「あ、うん。さっきの、悪かった……。誰か来たらまずいよな」

 桜田は小さくかぶりを振った。

「別にいいけど、何か嫌なことでもあったの?泣いてたように見えたけど」

 そう言って片方の澄んだ目で見つめられ、俺は返答に困った。その瞳は吸い込まれそうになるほどの暗黒で、宇宙のような美しさを秘めていた。

「別に泣いてねえよ」

 桜田は「そうだねえ」と微笑んだ。武志には彼女の笑顔は眩しすぎた。自分はいつも暗いところを見て生きてきたが、彼女は明るい方を見ているのだと思えたからだ。

 

 

 

 

 彼女は俺が何も言わないとわかると、さらに続けた。

「たった今会ったばかりなのに、失礼なことを言っちゃった。忘れて。三木くんの一人でいる時間を邪魔しちゃった。ごめんね。私はすぐに消えるから」

「消える」という言葉に違和感を抱いたが、それよりも彼女を返してはならないと、俺の中の何かが働きかけた。それはほんの少しの衝動だったが、俺の心は今にも溢れそうだった。「待ってくれ」とは言えなかったが、それよりもむしろ俺の心だった。

「俺はいつも一人だ」

 こちらへ歩き出そうとした彼女は、驚いたように身動きを止めた。

「周りに誰がいても、いつも俺は孤独なんだ。だから……もう少しだけ」

 一緒にいたい。そう言いかけてはっとした。俺は何を言っているんだ。これじゃあいつもと同じだ。上手く自分の気持ちを伝えようとしても、実際はそうじゃない。これはいつも人を欺くときに使う、嘘の自分を演じる技だ。でも今は、素の自分でいたい。それを認めてほしい。

 彼女は何も言わずに俺に近寄ってきた。見た目よりも背が低い。それに、きれいな髪だ。いい匂いがする。俺は不思議な感覚に囚われた。

「きっとあなたは一人じゃないよ。でも、その相手は私じゃない。私といると本当に一人になるよ」

「なんで……

 彼女は真っ直ぐに俺の目を見つめて、言葉の変わりに、寂しそうに、少し申し訳なさそうに微笑んだ。

 そのまま彼女は立ち尽くす俺の横をするりと通り過ぎた。はっとして振り向いたが、既に彼女の姿は霧に中に消えていた。

 

 

 

  6

二階堂健二〉

 

 昨夜、松平の葬儀は厳格かつ早急に執り行われた。参列者の多くが警察官関係者という物々しい雰囲気の中、松平の親族たちは所在無さげだった。俺たちも悲嘆に暮れてはいたが、ゆっくりとしていられないのが警察官の悲しい性だ。一番辛いのは家族だからと、俺たちは今日も普段通り仕事をしようと出勤した。

 俺が自分のデスクへ行った時、柳川と乾はそれを待ち構えたようにそこに突っ立っていた。だがいつもと違い、軽い挨拶もない。柳川は険しい表情で「会議室へ行くぞ」と言い歩き出してしまった。乾も軽く頷いたような会釈をしただけで、俺とは目も合わせない。

 嫌な予感がした。班の核である松平がいなくなったということは、もう俺たち三人を繋ぎ留めるものがなくなったということだ。今から下されるのは、俺たちがそれぞれ違う班に異動になるということだろうか。それとも俺を主任に立てて、新たなメンバーが加わるということだろうか。

「失礼します」

 緊張の面持ちを浮かべ、重い会議室の扉を開けた。

 中で待ち構えていたのは本部長だった。

 やはり直々の宣告かと、俺は背筋を伸ばした。眉間に深い皺を寄せた本部長は、デスクに置いてある三枚の封筒を手にした。それぞれに名前が書いてある。本部長はそれらを手元で弄ぶように眺めていたが、一つ咳払いした。

「今回の松平警部の殉職は私としても大変遺憾だ。君たちは同じ班に属しており、そのショックはかなり大きいものだと思う。ただ、今回の件に関しては松平警部の不注意による過失致死だ。こちらとしてもそう処理するつもりだ。今回のことで一人欠け、班として成り立たなくなった。そこで君たちにはそれぞれ別々の部署に異動してもらうことになった。何か質問はあるかね」

 やっぱりか。これで松平班も解散だ。

 柳川が「いえ」と応えると、本部長は俺たちにそれぞれ封筒を手渡した。

今後の対応などの簡単な説明を受け、俺たちは会議室をあとにした。

 

 デスクへ向かう道すがら、最初にため息を漏らしたのは柳川だった。それから何も言わずに封筒の封を乱暴に破った。

「組織犯罪対策部……第一係?」

 乾も紙を取り出すと「僕も第一係です」と言った。元々俺たちは第一係だった。ということは新しく人員を入れることになる。だが先ほど本部長は「異動」という言葉を使った。つまり、そういうことか。

 恐る恐る紙を取り出すと、諸挨拶のあとに「東山署刑事課」と記されていた。

 何故だ。何故俺が所轄なんかに……

 

デスクのあるフロアに戻ると、パソコンに向かっていた他の班の男たちが俺たちを見た。俺は確かにその視線に刺を感じ取った。

「二階堂」横を歩いていた柳川がちらりとこちらを見た。

「何だ」情けないが、俺の声は上ずっていた。

「隠さなくてええ。お前、異動やろう」

「あ、ああ……。だが納得できない」

 柳川は俺に耳打ちした。「これはあくまで噂やがな、上はどうもお前が何か隠しているんやないかと見とるらしい。マツさんのことも、お前が何か知っとるんやないかって」

 柳川が言ったことはつまり、俺が神坂組に裏で情報を売っていたのではないかということだ。瞬時にそれを察した俺は憤りに拳を固めた。

「ふざけんじゃねえぞ!」

 勢いで柳川の胸ぐらを掴んだが、柳川は静かに俺の手を解いた。

「あくまで噂や。やけどな、火のないところに煙は立たぬっていう場合もある」

 

「柳川……

思わず柳川を殴りたくなった。だがそれはその場凌ぎに過ぎない。どんなことをしても自分の立場では上官の決定事項を覆すことはできないのだ。それにこうやってわざわざ情報を回してくれる柳川に罪はない。俺は何も言い返すことができず、周囲からの冷たい視線に耐えていた。

「俺かて……俺かてお前を信じたい」柳川は硬い表情のまま、俺を見ないように視線を足元に泳がせていた。

「けどな、マツさんが死んだ以上、どうやってもお前を庇ってやることはできん。それに本音を言うと、俺もお前を腹の底から信じてええかわからんのや」

 何よりも最後の言葉が堪えた。

「柳川ァ!」

 殴りかかろうと拳を振り上げたが、柳川の悲しそうな顔を見ていると自然と右手は下がっていた。極まり悪くなって横を見ると、乾が青い顔をして突っ立っていたが、すぐに目を逸らされた。

 そういうことか。もう俺はここにいることはできないのか。

 苦いものが胃から押し返されるような、嫌な感じがした。結局そのどうしようもなさを、俺は誰にも向けることができなかった。

 

 

 

  7

三木武志〉

 

 屋上で初めて桜田と喋って以来、学校で彼女を見かけることがなかった。移動教室の時や放課後、それとなく彼女を探していたが、不思議と俺たちが出会うことはなかった。もしかしたらまた屋上にいるかもしれないと何度も思ったが、また足を運ぶことはなかった。何故だかそうするべきではないと思ったからだ。それでもずっと、あの時の桜田の複雑な笑顔が胸につっかえていた。

 他にも俺はどうしても気になることがあった。桜田の顔の傷は一体何が原因なのだろうかと。それに彼女に強い意思のようなものを感じた。なぜそこまで気丈でいられるのだろうか。

 もう一度ちゃんと喋りたい。

 刻々と流れる時間とともに、その思いは確かに強くなっていた。

 

 悶々とする日が続いたある日、放課後、帰り支度をする俺のもとへユリエがやってきた。いつも数人の仲間と一緒にいるユリエなのに今日は珍しく一人だった。

 この時間帯の教室は数人の生徒を残すだけで、あとは各々部活へ行くなり帰宅したようだ。ユリエはスポーツバッグに教科書類を詰める俺の横で、最近の悪天候のことや同じクラスの女子の愚痴を話していた。俺は荷物をまとめ終わっても、まだユリエが喋っているためにその場を動けずにいた。

 そんなユリエの話に相槌を打ちながら、長いなと心の中で呟いた。そうしてユリエの話がひと段落ついたとき、一つ質問した。

「そういや、いつも一緒にいる人たちは?」

「えっと、今日はみんな補習なんだって」

 ユリエは「あたしって意外と頭いいじゃん?」と言い、いつものようにケラケラ笑った。俺は肯定も否定もせず、代わりにカバンを持ち立ち上がった。

「ねえ、どうせ部活ないし暇なんでしょ?だったら帰りどっか寄ろうよ。あたしお腹減っちゃってさあ」

 確かに俺も空腹だったし、幼馴染の誘いを断る理由もないので二つ返事にOKした。

 

帰り道にあるファストフード店の椅子に座るや否や、ユリエはわざとらしくため息をついた。店に近づくにつれ口数が減ったとは思っていたが、単に話すことがなくなっただけだと思っていた俺は「どうした?」と珍しく自ら話を促していた。。

「おお、聞いてくださるかタケちゃん」

 ユリエが小学生の時のように、俺のことを「タケちゃん」と呼ぶときは決まってロクでもない話をする時だ。そのために俺は反射的に身構えた。

「あたしと前付き合ってたヤツいるじゃん?」

 ちなみにユリエは学年でも有数の尻軽女として知られている。女に見れなくて、俺が抱いたことは一度もないが。

「ああ、あの歯並びの悪い大学生か」

「違う違う。その次のF高の」

 そう言われてもピンとこない。正直ユリエが誰と付き合ったかなんて把握していないし、興味もなかった。それでも俺は「ああ、あいつか。で?」と続きを促した。

「あいつったら別れたっつーのに、毎日メールしてくるから、こっちもいい加減ウザくなって、もうやめてって言ったら逆ギレしてきたんだよ!信じられる?」

 そう言ってユリエはポテトをばくばく貪り始めた。俺は「信じられないなあ」とドリンクのストローに口をつけた。

「そんで電話かかってきて出てみたら、『俺はまだユリエのこと本気で好きだからー』とかわけのわかんないこと言ってきてさ、マジ怖かったからアド変して電話もブロックしてやったっつーの。不思議だよね~」

 そう言って今度はメガバーガーを食べ始めた。驚いたことにこの時点で既にポテトは食べ終わっていた。

「で?」

 ユリエは苦笑いした。「でって、あんたはどう思うよ?」

「おう、お前が正しい」

 ユリエは口に物を入れたまま「そうじゃなくて~」と口を尖らせた。「普通さ、男ならフラれたら諦めるっしょ。まあ女でもそうだけどさ。なのにだよ、そんなにあたしのこと好きってどーゆーことよ」

 ユリエが何を言いたいのかいまいちよくわからなかった俺は小首を傾げた。

「そんだけお前のこと好きだったってことだろ。良かったな」

 ユリエはメガバーガーを飲み込むように食べ終えると、コーラを飲みながら不敵な笑みを浮かべた。「やっぱ逃がしたくなかったんだろうね~。だってあたしってしょーみ美人じゃん?滅多にいないよ?」

「はあ」俺は曖昧にうなずいた。するとユリエは「あたしって美人だよね?タケちゃん?ね?ね?」とわざとらしく目を大きくして瞬きして見せた。本気でめんどくさくなったので「その通りだ」と今度は力強く肯定した。

 機嫌を良くしたユリエは俺のポテトに手を伸ばしてきた。

「お前、勝手に食うなよな。つーかどんだけ腹減ってんだよ」

 美味そうにポテトを頬張るユリエを前に、俺は気づけば笑っていた。

「あー!」

 ユリエがいきなり声をあげたことで、俺は、こいつは公衆の面前で大声出しやがって一体何を考えてんだ、とむっとした。

「なんだよ」

「あんたが笑ったとこ久しぶりに見たよ。最近全っ然笑わなかったもん」

 そう言ったユリエはなんだか嬉しそうだった。言われてみれば確かにここ最近全く笑わなかった気がする。

「あんたの笑顔を引き出したユリエちゃん、今日も絶好調でーす。てことでこのハンバーガーもいただきー」

 俺のハンバーガーを素早く奪い取ると、勢いよくもしゃもしゃと貪りだした。

「お前それでも女かよ」

 そのなんとも間抜けなざまに苦笑いし、これだけ食っても太らないユリエに感心させられた。

「そういやあんたの話、なーんも聞いてないや。最近どう?女関係とか」

 女関係と言われてどきりとした。このユリエだけは、唯一俺の人間関係において踏み入ったことまで知っているのだ。一体どう返せばいいかと、少々不安になった。

「そんな硬くなることないってー。リラックスリラックス」

 ただユリエはそのことも含めて俺のことを認めている。時として面倒だが、同じだけ頼りになる女だ。

「いつも通りかな」

 ふーん、とユリエはつまらなさそうにうなずいた。俺は黙ってドリンクを啜った。炭酸が鼻に来て思わず顔をしかめた。

「じゃあ、やっぱ彼女はいないんだ」

 実のところ、俺には今まで正式に付き合った相手はいなかった。いや、相手の方はそう思っていたのかもしれないが、それは単に俺に抱きくるめられたからで、そのところは曖昧だった。

……でもまあ、別にいらねえよ」

 嘘ではないと思った。というよりも、確かめるために口にしたという方が正しいだろうか。俺は自分の紙コップを持つ手をじっと見ていた。同時に、霧の中に浮かび上がる桜田が見えたような気がした。

 ユリエは「そっか」とハンバーガーを一旦テーブルに置いた。「でもどうせ暇してんでしょ、剣道やめてから」

 口ごもる俺を見て、ユリエは肯定したと受け止めたようだった。「剣道やめた理由はもう聞かないよ。あんただって言いたくないだろうし。でも何もせずにだらだらしてるのはもったいないよ。別に恋しろって言いたいんじゃないけどさ、そのうちしんどくなるよ」

今でさえ十分にしんどいよ。そう思ったが、口に出すことは憚られた。代わりに「別に平気だよ」と無理やり笑顔を作った。目が合うと、ユリエはなんだか強気な顔をしていた。

「無理するなよ」そう言ったのはユリエだ。「最近顔色悪いよ。家族と上手くいってないんじゃない?お父さんだってさ、そりゃあ希望の息子がいきなり剣道やめたら、堪えるんじゃないかな」

「やめてくれ」

 ユリエ、お前が俺の何を知っているっていうんだ。俺の心を見透かしたようにずけずけと物を言うのはやめてくれ。

「期待とか、あいつはこういうやつだとか、そんなことを誰かに決められる筋合いなんかない。そのたびに俺はそれを裏切らなくちゃならない。それってほんとに苦しいことなんだ。お前にそれがわかるか」

 ユリエは驚いたように目を丸くした。

「人から期待されるって、それだけ自分を押さえつけられるってことなんだ。俺を押さえつける権利なんか誰にもない」

「ごめん……。別に武志を怒らせるつもりはなかったんだけど……。でも、あたしだって何も考えずに生きてるわけじゃない。人目だって気になるし、それ以上にこのままでいいのかなって……。ずっと高校生でいれるわけじゃないもん。友達とバカやって、でもその帰り道とか寝る前とか、虚しくなる。でもそんなこと考えだしたら、怖くて何もできなくなるじゃん。そうやって何もできなくなるより、失敗しても、恥ずかしい思いしても、今しかできないことをした方がいいに決まってる。あんたの言いたいこともわかるよ。確かにあんたはあたしなんかより、よっぽど期待されてる。でも、それだけそれを跳ね返す力が必要ってことでしょ?だったら理屈で誤魔化さないで、本気で勝負しなよ。裏切りたくないなら、勝負するしかないんだよ」

そう言ったユリエの目は、逸らしたくなるほど真っ直ぐにこちらを見つめていた。正直、ユリエがこれほどまで考えているとは想定もしていなかった。ユリエが放った言葉があまりにも核心を突いてきたために、俺は動揺した。

「勝負なんて言葉、簡単に使うなよ……

 俺がそう言ったあと、ユリエは何も言わずに視線を落としていた。重い沈黙に耐えかねた俺は立ち上がった。

「もう帰るよ。今日はありがと」

 そのまま俺は憮然たる面持ちのユリエを残し、逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

  8

三木武志〉

 

 家に帰ると既に9時を回っていた。玄関の電気は消えていて戸の鍵も閉まっている。鍵を開けて家に入るのはいつものこと。暗い玄関で靴を脱ぎ、暗い廊下を歩いて居間へと向かう。

 俺の家は古式の日本家屋で、その離れが道場になっている。敷地は広いが江戸時代末期から何度も修繕を繰り返しながら使われているために相当ガタがきている。内部も改装されたがほとんどの部屋が畳のままで、居間だけがフローリングにテーブルを置いているといった状態だ。名門とはいえ道場だけでは稼ぎは少なく、親父は審判に呼ばれたり、兼業で剣道の本を書いているが、これがなかなか売れない。お袋は近くの小料理屋の女将をしていて、そちらの方が稼ぎがいいぐらいだ。

「ただいま」居間のドアを開けると、お袋がキッチンで洗い物をしていて、親父は床で剣道で使う防具を磨いていた。親父はいつものように和服を着ている。二人とも俺とは目も合わず曖昧な返事をした。

「ご飯、できてるわよ」

 テーブルの上には確かに食事は用意されていたが、どうやら冷え切っているらしい。

「ああ」俺はちんまりと椅子に座った。冷めた夕食に箸をつけようとしたとき、親父が口を開いた。

「遅かったな。最近どうした」いつになく感情のない口ぶりだ。そのうえ俯き加減で背中を向けているために表情も見えない。俺は何も言わず食事を続けた。

「弛んでるんじゃないか。どうせ遊んでたんだろ」

「進学補習」ぶっきらぼうに答えた。

「大学なんか行かんでいい」

 俺は無視して食べ続けたが、どうも食欲が湧かなかった。

「ごちそうさま」そう言い残し、俺は自分の部屋へ向かった。

 

この家は息が詰まる。剣道をやめてから尚更だ。

 二階にある俺の部屋は六畳の畳敷き。ベッドではなく布団で、その横に勉強机があり、押し入れとタンスがあるという簡素なものだ。俺はタンスの上の音楽プレーヤーの電源を入れた。音楽でも聴かないとこの威圧的な空気に飲み込まれてしまいそうだった。

 適当に洋楽をかけ、畳の上で横になり両手を枕にして目を閉じた。穏やかな音楽を聴いていても、胸の変なざわつきはどうしようもない。思い出したようにケータイを取り出したが、何の変化もなくすぐに元に戻した。

 見上げるとタンスの上には数々のトロフィーの類があり、壁には賞状や剣道をしていたころの写真が飾られている。今となってはもうずっと昔のことのようだ。それらを見ると大きなため息が漏れた。もう一度目を閉じ、今度は何も考えないように音楽に耳を傾けた。

確かにユリエが言っていた通りだ。

 俺は身を起すと窓を開け外を見た。

このまま時間を食い潰していてもしょうがない。勝負してみよう。明日桜田のところへ行ってみる。そこで何かわかるかもしれない。この悶々とした気持ちの正体が、桜田のせいなのか否か。

 そういえば桜田はユリエと同じクラスだったはず。ふと思い出し、ケータイからユリエに電話しようとしたところで、やめた。やっぱり自分の力で行くべきだと思ったのだ。人の力を借りても仕方ない。

 明日、もう一度桜田と話す。それからユリエに謝ろう。あいつは俺のこと気にかけてくれていたんだ。

 

       

 

 次の日の昼休み、俺は桜田に会うため3組に来た。同じ階にあっても、今までは一人で行くことが躊躇われてどうしても行けなかった。ユリエは俺を見つけると昨日のことが嘘のように笑顔で手を振った。俺も軽く笑い返したが、それ以上は何もしなかった。一瞬謝るべきだと思ったが、状況が状況だ。俺は教室を見まわし桜田を探した。だが彼女の姿はどこにもなかった。

 もしやと思い俺はその足で屋上へ向かった。まさかとは思ったが、どうしても確かめずにはいられなかった。

 走って暗い非常階段を上りきると、果たして、そこに彼女の姿があった。信じられなかったが、嬉しかった。彼女は一番遠くのフェンスに身を預け、遠くの空を見つめているようだった。

桜田さん!」

 柵のこちら側から彼女の名を大きく呼んだ。振り返った彼女は驚いたようだったが、確かに微笑んだ。一歩ずつゆっくりとこちらに来て、柵を挟んだそこに立った。俺たちがいる場所はちょうど死角になっていて、以前のように霧が濃くなくても人に見られることはなく、気兼ねなく話ができそうだった。

「久しぶり」

 彼女の瞳の光が揺れていた。片目だけでも、その瞳は確かに美しかった。俺は嬉しくて仕方なかった。

「どうしてここに」

「もしかしたらまたここにいるんじゃないかって思ったから。桜田さんこそ、どうしてここに」

 桜田は困ったように笑った。「誰にも言わないでよ。ほら、あそこに鳥の巣があるでしょ」

 彼女が指さした先の、用水タンクの上には確かに大きな鳥の巣があった。ちょうど屋根がついていて雨を防げるようだ。ひな鳥たちは巣から頭を覗かせて、親鳥が運んでくる餌を我先にと待っている。

「シラサギ。時々ここに来て様子を見るの。もうすぐ巣立ちだから」

 そういうことかと妙に納得させられた。てっきり何か重大な悩みでも抱えていて、一人になりたくてここへ来るものだとばかり思っていた。

「そうだったんだ……

「すごく、幸せそうだよね」そう言い微笑んだ桜田が、どうしようもなく愛らしかった。

優しい風が吹き、彼女の柔らかな髪をかき上げた。「もうすぐあのヒナたちはここから飛び立って、大人になっていく。私もそんな風に飛べたらいいのに」

 この時、俺は彼女がなぜ彼女が遠い目をしたのか、わかっていたようで、本質的にはなにもわかっていなかった。

「でも、教室に戻ったらいつもつまらない」

「どうして?」

 桜田は苦しそうに笑った。「だって、私はみんなとは違う」

「もしかして、目のこと……

 桜田の悲しそうな顔を見た途端、俺はそんなことを聞いたことを激しく後悔した。俺はそれを誤魔化すために、桜田が口を開く前に「でも」と取り繕った。

「それは関係ない」

 桜田は大きくかぶりを振った。「それは違う。この傷は私を何度も傷つけてきた。たとえ整形しても視力は戻らないし、心の傷だって癒えるわけない」

 この子の過去に一体どれほどのことがあったんだ。それを知らないことがどうしようもなく煩わしかった。

「誰かにそのことを言われたのか」

 桜田はまた大きく首を振った。

「ごめん……。もう聞かない」

 桜田は視線を地面に落としていたが、また上げた時、その目は涙に濡れていた。

「この顔の傷は、事故じゃない」

 そのあとの彼女の言葉は、俺の想像を遥かに越えていた。それはまるで剥き出しの鉄骨のように、冷たく脆いものだった。

「この傷は、何か強い酸で焼かれてできたもの。八年前、私がまだ小学校の低学年だったころ、襲われて、それから焼かれた」

 言葉もなく立ちすくむ俺に桜田は続けた。「理由は私の父親がヤクザだったから……。それだけ。私の顔を焼いたやつらは父さんの仲間に殺された。別のやつに、父さんも殺されたけど」

「そんな……

「これが私の現実なの。夜が来ると、どうしようもなく怖くなる。どこか遠くへ逃げ出したくなるよ。でもそれはできない。やっぱり私はどこへも行けない。時々夢に見るの。鮮明に記憶に焼き付いたあの時のことを。暗闇の中で大声で脅されて、犯されながら目に酸を流される。酸は強烈で鼻もきかなくなった。あれは火傷の痛みじゃない。皮を肉ごと剥がされるような感覚だった。でも一番覚えているのは、笑ってたあいつらの顔」

 信じられなかった。この子にそれほどまでに辛い過去があったなんて。今、この子は目を真っ赤にして、肩を震わせながら俺にそんな重大な告白をした。それがどれほど辛いことか、俺には到底想像がつかなかった。

どうしてこの子がそんな辛い過去を背負って生きなくちゃならないんだ。現実とはこんなにも冷たいものなのか。俺は言葉にもできないような憤りに震えた。

この子のために、何かしてあげたい。その悲しみを分かち合いたい。

 だが俺たちには越えられない壁がある。ちょうど俺たちを隔てる柵のように。

「来てよ」桜田が言った。

 

 

 

  9

小林ユリエ〉

 

――ユリエ、ユリエ!――

 まただ。夢の中で小学生の頃のあいつがまたあたしの名前を呼んだ。机に顔を伏せて寝たふりをしていたあたしは、顔を上げてにっと笑う。「なあに」と聞くと、あいつも笑って「遊ぼうぜ」とドッジボールを差し出してくる。真っ黒に日焼けしたあいつの顔にはたくさんのかすり傷や痣の跡があって、いつも友達とやんちゃしていたあいつらしかった。あたしは立ち上がって、あいつからボールを奪い取って走り出す。鮮やかな光の中へ、あたしたちは駆けていった。

 そこで目が覚めた。

「ユリエ」

 教室のドアからあいつがあたしの名前を呼んだ。あいつはあの時からすっかり成長して、昔はチビだったのに、今じゃ見上げないと顔が分からない。

 机から顔を上げたあたしは、あの時のあいつを垣間見たようで嬉しかった。昨日あいつを怒らせてしまったけど、あいつはもう怒ってないみたいだ。今ではすっかり変わってしまったけど、昔は毎日一緒に遊んだんだ。あいつは覚えているだろうか。一緒に星空を見上げたこと。一緒に野良猫を追いかけたこと。一緒に悪さして、怒られて泣いたこと……

 あたしは嬉しくて立ち上がりかけた。でも、あいつは作り笑いをして、教室を見渡すとそのままふらりと出ていった。別の誰かを探していたのだろうか。

 少しだけ悲しかった。

 休み時間、いつも机に顔を伏せているのは本当は眠いからじゃない。仲間外れにされるのが怖くて、一人を認めるのが嫌だから、寝たふりをして人目を誤魔化す。誰かに話しかけてもらうのを胸の内で期待しながら、そんなことはあり得ないと諦めている。中の良かったグループも最近崩壊した。気づけばあたしを残して、みんな別のグループに上手く溶け込んでいた。

 自分の居場所がなくなって嫌だったけど、また友達ごっこをする気力は失せていた。みんなの中にいるよりも、あたしを必要としてくれるたった一人の人と一緒にいれればいい。そう思うようになったけど、あたしが必要としているそいつは、幻のように姿だけを目の前に置いて、いつも心は遠くにある。あたしを求めてくるやつらは大抵体が目当てだ。わかっていても、そんな男たちの優しい言葉に靡いてしまうあたしは馬鹿だ。こんな状況から抜け出すための糸口が欲しくて、いつもふらふらしてしまう。でもそんなものは誰からも与えられない。自分から追いかけないとチャンスは常に遠ざかる。

 あたしは立ちあがった。

 昨日のこと、ちゃんとあいつに謝らないと。

 

 渡り廊下の窓から、眼下に外を小走りに行くあいつを見つけた。そんなに急いで一体どこへ行くつもりなんだろう。そっちは裏庭だ。なんにもない場所。

 と、あいつは非常階段へ姿を消した。あの非常階段は屋根があってここからじゃ見えない。あたしはあいつを追うように、その階段へと急いだ。

 

 非常階段を上りきった時、太陽の光の中にあいつのシルエットが浮かび上がって見えた。声をかけようとしたが、誰かと話しているようだった。あたしは角に身を隠し、その相手を確認しようと首を伸ばした。柵が邪魔でよく見えなかったが、相手は間違いなく女だった。ただ反響があるために声だけはよく聞こえる。そうだ。あの声は、転校生の桜田澪さんだ。美人だけど左目が潰れていて、いつもぼんやりと空ばかり眺めていて、滅多に笑わない不思議な子だ。そんな子が、なんで。なんであいつとこんな場所で話をしているんだろう。

 あたしは見つからないようにじっとしながら、そっと二人の会話に聞き耳を立てた。

 

それからたった数分後、彼女の秘密を知ってしまった自分がいた。同時に驚いたのは、あいつが柵を上り、桜田さんを抱きしめたこと。到底あいつのいつもの演技には見えなかった。不思議な感情に胸が苦しくなった。あいつが好きだから?奪われてしまうのが怖いから?それとも、彼女の秘密が悍ましいものだったから?

 そのうちのどれかはわからなかった。もしかしたら全部なのかもしれない。あたしはそのあとの展開を見届けずにはいられなかった。二人の様子を伺おうと目を細めてみても、柵の向こうに見えるのはあいつの大きな背中だけ。その背中に彼女の腕は回ってはいないようだ。

「そんな理不尽なことがあってたまるか……

 あいつの声は震えていた。

「なんで君がそんな目に遭わなきゃいけなかったんだよ……

 泣いているのかもしれない。あいつのあんな声初めて聞いた。小学生の時も、どんなにきつく叱られても絶対に泣かなかったあいつなのに。

桜田さんは何も言わない。この距離からでもあいつが彼女を抱きしめる強さが伝わってくるようだ。少し間が空いて、彼女の細い両腕があいつの背中に回った。その瞬間、あたしの心は、押し寄せる津波のようにどうしようもない虚無感に襲われた。あいつが何人もの女を抱いてきたことと、桜田さんの手があいつの背中に回ったことは、言葉ではその重みは比較にならないけど、意味合いは真逆だ。

 あいつは彼女の体を抱きしめて離そうとしない。彼女も自分の全てを預けるように、その両腕はきつくあいつを抱きしめていた。そんな時間が永遠にも続くように感じられたとき、彼女の方から体を離した。

 そのままキスしてしまうんじゃないかというほど二人は見つめあっていた。でも彼女の視線は足元へ落ちていった。

桜田さん、俺……

 彼女はあいつの言葉を遮った。

「ありがとう。でも、それ以上は言わないで。おかげで少し気が楽になった。私はもうそれだけで十分」

「でも、俺……実は……

 こういった場面であいつが口ごもるなんて今まで想像もできなかった。ずっと、あいつにとって告白なんてものは演技で、そのあとのお楽しみを得るための前戯のようなものだと思っていた。

 でも桜田さんはゆっくりと首を振った。

「もうやめて。今まで、私が好きだった人はみんな死んでしまった。父さんも、母さんも。あんな親だったけど、私にとっては大切な人だった。だから、私にあなたを好きにならせないで。もう悲しい思いはしたくない」

 じっと立っていたあいつだったが、力強く言った。

「いやだ」

 桜田さんが、ゆっくりと、もう一度あいつを見上げる。

「ごめん。でも俺はもう好きになっちゃったから……俺は桜田さんのことが好きだ。だから桜田さんも同じ気持ちでいてほしい。でも俺は絶対に死なない。何があっても」

 彼女は何も言わなかった。ただあいつから視線を外して、ほんの少しだけうなずいた。それは首の角度が僅かに下がっただけで、よく見ていないとわからないぐらいのものだったが、あたしには確かにうなずいたように見えたのだ。

 その時、空気を破壊するチャイムが鳴り響いた。五限目開始の予鈴だ。あいつはまだ何か言いたそうだったが、桜田さんに「先に行って」と言われ、名残惜しそうに後ろの柵をよじ上り始めた。

 その瞬間、あたしははっとした。

 ヤバい。あいつが来る。

 あいつは高い柵から一気に着地した。もうほんの5メートルほどの距離だ。あたしは素早く階段を下りようとした。ここであいつに見つかるわけにはいかない。でも足音を立てたらその瞬間に終わる。

 そう思った時、あたしの視線の先にあいつの影が伸びてきた。その影は、力なく立ち止まっていた。

 あたしはゆっくりと振り返った。ひどい顔をしていたかもしれない。何も知らないふりをして、いつものように笑う余裕などなかった。あいつは最初驚いた顔をしたが、でもすぐに悲しそうに視線を外し、何も言わずにあたしを抜かして小走りに下りて行ってしまった。

 泣きたい気持ちだったが、どうしようもなく逃げるように武志に続いた。

 

 

 

  10

松原正

 

 僕は出勤してくるなり、自分のデスクを見てため息をついた。机には山のように書類が積み上がり、どこから手をつけていいのかわからない。ここしばらく僕は憂鬱だった。別に何があったというわけではないのだが、何もなさすぎて気が滅入っていた。自宅と職場を往復する毎日。代わり映えしない日々。もう二十六歳になるというのに彼女はいない。まず職業柄出会いがない。

 一年前、やっと駐在勤務から刑事課に配属されて舞い上がったが、実際の刑事の仕事は雑務ばかりだった。毎日のように上から送りつけられてくる書類に目を通し、またそれを上に送り返す。そもそも京都府警のお偉方は「所轄は所轄らしい仕事をしておけ」と言わんばかりに、殺人事件や放火などの重要事件は、管轄内であろうとなかなか調べさせてもらうことすらできない。

 ここでいう所轄というのは、京都府警察本部の下にある「署」の管轄内を所管する警察官のことだ。所轄刑事の一人である僕は今までに窃盗や傷害などの小さな事件しか経験がない。

「小松原くん、ちょっと来い」

 刑事課長、秋山耕一が書類を見ながら手招きした。ミスでもあったかな、とうんざりしながら「はい」と返事した。秋山が僕を「くん」付けで呼ぶときは決まってロクでもない時だ。

 見ると、秋山の横に悪そうな顔の中年の男がいて、偉そうにこちらを睨んでいた。いや、厳密にはその細面の顔は整っている方なのだろうが、とにかく人相が悪い。暴力団関係者のような和柄のシャツにジャケットを着て、だるそうに左手だけポケットに突っ込んでいる。容疑者だろうか。

「何ですか」

 秋山が見ていた書類はどうやら警察官の経歴書らしかった。秋山は眼鏡の下から上目遣いにこちらを見上げた。いつも思うが額に濃い皺が寄る。そのせいなのかは分からないが、秋山には逆らえない貫禄がある。

「彼は府警からこの東山署に配属された二階堂警部だ」

府警……。本店から?この男が刑事なのか。いや、それよりも二階堂という名前、どこかで聞いた覚えがある。

「よろしくお願いします」僕はとりあえず目上の存在である二階堂におずおずと頭を下げた。

身長は僕が180センチだから、だいたい170ってところか。

「二階堂だ。今日から世話になるぜ」二階堂はタバコを取り出すと火をつけた。

あのパッケージは確かセブンスター。詳しくはないが、かなり度数が高いはずだ。

「小松原正です」

 胸ポケットから名刺を取り出そうとした僕を見て、二階堂はつまらなさそうに鼻から息を吐いた。タバコの煙がもろに顔にかかり、僕は咳き込んだ。

「小松原くん、今日から君は二階堂警部とタッグを組んで、マル暴、つまり組織犯罪対策係を担当してもらうことになった。君は大きな事件を担当したがっていたからね。彼は優秀なマル暴専門の刑事だから色々教えてもらいなさい」

 デスクの上で手を組む秋山はいつになく真剣な表情だ。

「マル暴、ですか」

マル暴という言葉を聞いたとき、僕の頭の中で蟠っていたものが繋がった。

 本店のマル暴、二階堂――

そうだ。噂を小耳に挟んだことがある。相当頭が切れ、睨んだ獲物は絶対に逃さない男だと。幹部レベルの学歴があるのに現場に留まっているというのもそうだ。でもなんでそんな人が所轄に?それもよりによってどうして僕なんかと組むのだろうか。

 秋山がしまおうとした経歴書に「京都大学法学部卒」の文字が見えた。

高卒の僕なんかとは、比べものにもならない……

 呆然とした僕の肩を二階堂が荒く叩いた。

「実はよ、本店で俺たちの班だった人が、犯人逮捕の瞬間に斬りつけられてよ。残念なことだが殉職された」

 そう言った二階堂は表情すら変えず、その声には何の感情も籠っていないようだった。事件自体は僕もよく知っていた。すぐ先日の事件で、違法ソープに入り浸っていた指名手配犯が逮捕時に踊って(暴れることをいう)、捜査員の一人を殺害したというものだ。

「それで代わりにお前が俺と組むことになった」二階堂は鋭い目つきのまま口だけ笑った。

 僕は返す言葉が見つからなかった。確かに殺人などの大きな事件は担当してみたかったが、マル暴の捜査は新米の自分には危険すぎるだろう。

「安心しろ。犯人は殺されてるからよ」

 犯人は逮捕の瞬間に射殺されたと聞いたが、まさかこの男が遣ったのだろうか。

「いや、しかし……

 僕がそう言うや否や二階堂の顔が憤怒に歪んだ。「しかしなんだ。まさか怖いってのか。オイ!てめぇはそれでも警察官か」

 僕は助けを求めて秋山を見たが、すっと目を逸らされてしまった。すると素早く二階堂に胸ぐらを掴まれ、ぐいっと顔を近づけられた。

「なに目ぇ逸らしてやがんだ。ちっちぇえケツの穴しやがって。来い!てめぇの根性叩き直してやる!課長、こいつ借りていきますね」

 二階堂はそのまま僕を引っ張って資料庫の中に入った。刑事課に隣接する薄暗い部屋で、未解決事件の資料や捜査状況などの書類が入っている。

「さっきは悪かったな。冗談だ」意外にも二階堂は僕から手を離すと優しく笑いかけた。それに安堵した僕は二階堂の無駄な演技に呆れ、襟を正した。

「ホントっすよ。てか何で僕なんすか。他にも刑事はたくさんいるでしょうにうっ」

 直後、鳩尾に二階堂の拳が飛んだ。

「ありゃ、ネクタイ曲がっちまったな」

……な、何するんですか」

 恐怖と怒りと痛みで何が何だか分からなくなり、ただただ泣きたい気持ちになった。

「俺にちょっとでも軽い口叩いたらこうなるんだよ。覚えとけ、裏社会はこんなもんじゃねえぞ」

……はい」

 二階堂はにっと笑うと「せっかくの男前が台無しだ」と言い、棚からホコリを被ったダンボール箱を「これかな」と取り出した。

「八年前の暴力団員連続殺害事件だ。あと三ヶ月で時効になる」

「それを今から調査するんですか」

「おう。だがまずは飯だ」

 この時初めて二階堂は満面の笑みを浮かべた。だがやはり、笑ったところで人相は悪かった。

 

 

 

  11

松原正

 

 東山署を出てすぐの通りに面する牛丼屋のカウンター席で、僕は「ミニ」を、二階堂は「メガ盛り」をかき込んでいた。店内は狭かったが、時間帯のためか客もまばらだった。外回りが多い仕事だけに、こういった時間に融通を利かせられるのも刑事の特権だ。

僕の横で二階堂は鼻歌を歌いながら牛丼に七味を振り始めた。牛全体が真っ赤に染まっている。味覚がおかしいのだろうか。

「付き合わせて悪いな。朝飯食ってなかったんだ」

「大丈夫ですけど、さっきおっしゃった事件というのは」

 二階堂は箸を持った右手を僕の顔の前に突き出した。「楽しい飯の時に殺しの話はなしだ。それよりも、俺たちはこれからずっと行動を共にするんだ。最初ぐらい楽しい話をしようぜ」

 名刺も受け取らなかったくせに失礼な男だ、と思ったが、僕は「そうですね」と大人しく笑い返した。経験上、こういう相手には盾突くだけ無駄なのだ。下手なことを言ってまた殴られるのはごめんだ。

「えーっと、名前、なんだっけ。コマツナだっけ?」

「小松原です。小さな松原と書いて、小松原です」

 二階堂は視線を落とした状態で口角を吊り上げた。口元の無精髭がなんとも男臭い。

「小さな松原か、面白い。改めて、俺の名前は二階堂健二だ。よろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 以外にも右手を差し出され、僕たちは握手した。彼の手は僕の手よりもわずかに小さかったが、ごつくて逞しかった。

「おばちゃん、水おかわり」二階堂は空のコップを突き出した。「あいよ」と太った店員が氷水を入れる。二階堂は笑い返しながら会釈した。人相が悪い割に人懐っこい笑顔だから不思議だ。

「そうだ。歳、聞いとかねえとな」

「二十六です」

 二階堂は右手で顎を摩りながら、にやにやと僕を観察してくる。「一番盛りの時期じゃねえか。彼女か嫁さんは?」

「いませんよ」苦笑いを浮かべざるを得なかった。

「じゃあ風俗通いってところか」

男同士とはいえいささか失礼じゃないか。

「行ったことないです」

僕はぶっきらぼうに答えた。脂ぎった男たちがかわりばんこに抱いた女を、自分も一緒になって抱くことを考えると気持ち悪くて気が進まなかった。そもそも残業や休日出勤ばかりでそんなところへ行く暇もない。

「じゃあ今度いいところに連れて行ってやろうか」

「大丈夫です」

 僕は息をついた。全く興味がないと言えば嘘になるが、この人とそんなところへ行って楽しいものだろうか。それよりも早く結婚がしたい。今のうちに相手を見つけないと、気づいたら一生独身なんて勘弁だ。

「二階堂さんの趣味は」僕は話を逸らしたくなって話題を変えた。

「風俗に決まってんだろうが」

 二階堂は愉快そうに笑った。聞かなければよかった。僕は黙って残りの牛丼を食べ始めた。

「お客さんたち、もしかして刑事さんかい」

 カウンター越しに先ほどの店員が食器を磨きながら聞いてきた。顔に濃い皺を刻んだ、凄めば怖そうな中年女性だ。もみあげの白髪の量からすると、もう五十代半ばといったところか。

「ええ。そこの東山署で」

「えやあ、そりゃあお勤めご苦労様だこってえ。あたすもこの前財布落とした時にお世話さなったべな」

 どこの方言だろうか、かなり訛りがきつい。二階堂は店員を見上げ、優しい笑みを浮かべた。

「そうですか。でも私たちはマル暴といって、主に暴力団を相手にしているんですよ」

 店員の目が丸くなる。「へえ、それは大変なお仕事だすねえ。どういったことをなさるんです?」

「彼は新米なんですが、私は追いかけ仕事が多かったですね。こう見えても柔道は黒帯なんですよ」

 店員は「すごいですなあ。じゃあサービスせんと」と牛肉を僕らの丼に足してくれた。

「ありがとうございます」そう言って二階堂はまた人懐っこい笑顔を店員に向ける。よく見ると二階堂の歯は薄く黄ばんでいる。ヘビースモーカーの特徴だ。

 その時、外で十数台のバイクが轟音を立てながら通り過ぎていった。それぞれに豪華絢爛な装飾が施されたバイクで、操縦する者たちは真っ白な特攻服を着ている。当然メットなどはしていない。馬鹿な連中だ。

「一応行った方がいいですかね、二階堂さん」

 立ち上がりかけた僕に、彼はひとつ大あくびをした。

「いや。交通課だか生活安全課の仕事を取っちゃあ悪ぃよ。それにどう考えても追いつけねえよ」

「ほんと嫌だわあ」店員が外を見ながら顔をしかめた。

「なんていうんだったっけ、確か京都ナントカ連盟とかって聞いたことがあるような……

 二階堂は手前の紙ナプキンを一枚取り出すと、それで鼻をほじりはじめた。

「京都暴凶連盟、通称ビーストのことでしょう。昔は関西屈指の暴走族だったらしいが、今じゃすっかり衰退して、ヤクザも相手にしませんよ。最近じゃあ交通課と争ってるぐらいのもんだから、この辺も平和になりやがった」

 つまらなさそうにパッケージからタバコを取り出し咥えた。そのまま火も点けずにぼんやりとする二階堂を見ていると、なんだか腑に落ちなくなった。なんとなく、平和になったことを不満に思っているように見えたからだ。

 

 

 

 12

松原正

 

 八年前の殺人事件というのは、暴力団同士の抗争がきっかけだった。

 東山署に戻り、僕は二階堂との捜査を本格的に始めることになった。二階堂はタバコを咥えながら会議室のデスクに京都市の地図を広げた。百台以上の事務机が並ぶフロアには僕たち二人以外は誰もいない。電気はつけなかったが、窓からの光だけで中は十分見通せた。四角いだだっ広いだけの部屋は、これといった細工がなされているわけでもなく、つまらないものだ。通常何らかの事件が発生すると、発生現場を所管する所轄警察署が捜査することになる。ただし、所轄警察署で解決できないとなると、本店に応援を頼むことになる。この会議室は今使われていないのは、本店から応援を要請するような事件がないからだ。

「ここが八年前の事件が発生した廃ビルだ」二階堂はマジックで紙上のその場所を囲んだ。幼児のような汚い囲み方だ。

「東山署の管轄内ですね」

「ああ。コマ、お前は神坂組を知ってるか」

 コマとは僕に付けられた愛称だ。牛丼屋をあとにしたあたりから、二階堂が勝手にそう呼ぶようになったのだ。

「聞いたことがあります。マル暴ですよね。でも実態は謎に包まれている」

「そうだ。暴力団ってもんは基本的に土地の転売やみかじめ料で成り立ってるんだがな」

 僕は聞きなれない言葉に小首を傾げた。「みかじめとは?」

 そのぐらい知っとけよ、とでも言うように面倒くさそうに肩をすくめる二階堂。確かに僕が勉強不足だったのかもしれないが、駐在所上がりの刑事がそんな言葉を使う機会など皆無に等しい。

「裏社会では大抵の場所にシマ(縄張り)があるってのは知ってるよな」

「まあ、ぼんやりとは」

「みかじめってのはそのシマの中で商売してる店から、営業を認める対価とか、用心棒代的な意味で金を徴収することだ」

 なるほど、暴力団が好みそうな仕事だ。言われてみれば何となく聞いたことがあるような気がする。

「店って風俗とかですか」

 二階堂はうなずいた。「他にもバーやスナック、場合によっちゃゲーセンなんてこともある。ヤクザはそういうところをどやしつけて金を要求すんだ」

「勉強になります」

「で、俺が思うに神坂組は地上げやみかじめ以外にも、薬や武器の転売なんかもしてるはずだ」

「何故そんなことがわかるんですか」

 二階堂は苦笑いした。僕は的外れな質問をしたのではないかと冷やりとしたが、どうもそうではないらしかった。

「こういう稼業してたら自ずとそういう情報が転がり込んでくるもんなんだ」

 本当はよくわからなかったが、また殴られるのが嫌だったので納得たふりをしておいた。

「話を戻すぞ。ヤクザが殺されたのは八年前の抗争がきっかけだ。詳しいことを説明する前に、お前は何もわかっちゃいなさそうだから、まず組織の構図について教えてやる」

 二階堂はホワイトボードの方に移動すると、上の方にサインペンで「組長」と乱暴に殴り書いた。

暴力団の構成は警察と同じで複雑だ。ただ、やつらの系列は血縁関係のそれにそっくりだ。一番簡単な構図を教えてやる。まずこの組長をオヤジだと思え」

 僕はメモ帳を取り出すと「組長=オヤジ」と書き込んだ。二階堂は「組長」の下に線を引き、ちょうど家系図の兄弟のように横並びに丸をいくつか書いた。それから「舎弟」と書き込む。

「こいつらみんな舎弟だ。こいつらは兄弟みたいなもんだ。んで、長男にあたるこいつが若頭だ」

 僕は何度かうなずくと、できるだけ丁寧にその図を写した。二階堂は「若頭」の下にまた線を引き、先ほどと同じようにいくつかの丸を並べた。

「若頭や舎弟の下にいるのが若衆だ。一番簡略された構図はこんな感じだが、それでややこしいのは、この組員が他の組の組長だったりすることだ」

「組にさらに下の組織があるということですか」

「そうだ。その下の組織にまたさらに下の組織があったりする。トップの組織を親だとすると、その子供の組織を二次団体、孫を三次団体っていう。でけぇところじゃ五次団体とか六次団体とかまであるわけだ」

「じゃあ暴力団って物凄い数で存在するんですね」

 二階堂は眉間に濃い皺を寄せ、顎の無精髭を撫でながらうなずいた。

「ああ。その中でも神坂組は関西一の大組織、数千人規模の鹿王会の二次団体になる。神坂組は鹿王会の傘下の中でもずば抜けて非人道的な組織だ。女だろうが子供だろうが容赦しねえ」

 二階堂は一層険しい表情になった。

「抗争相手は三代目翼賛会の三次団体、高杉会ってところだ。高杉会は伏見あたりにシマがあったんだが、隣接する神坂組と抗争になった。発端については曖昧だったんだが、みかじめにする店の取り合いってことで収まった。結局高杉会の方が身内を五人殺されて、全員でエンコ詰めして解散したんだ」

 八年前といえば僕がまだ高校生の頃だ。そんな抗争があったとは全く知らなかった。どうやら裏社会の出来事は表沙汰にならないらしい。

「その時に高杉会から神坂組に膨大な金が流れたそうだ。それで神坂組は今も潤ってる。犯人は絶対に神坂組にいると、八年前に俺たちはガサ入れ(家宅捜索)したんだが、犯人を特定できるものは何もなかった」

 二階堂は短くなったタバコを携帯灰皿に押しつぶした。

「当時の捜査に二階堂さんも関わっていたんですか」

「ああ。五人分の殺人事件だったからかなり手を焼いたぜ」

「でも八年前に捕まらなかった犯人が、今になって捕まるものなのでしょうか」

 僕の意見に二階堂は、確かに、とうなずいた。「まあ、犯人を特定できるものがなかったとは言え、当時の俺たちが全く情報を掴めなかったわけじゃない。驚くことにマル害全員の死因は、蟀谷から指を突っ込まれたことによる失血死だ」

 二階堂は自分の頭に両手を添えて、力を込める真似をした。僕はその話がどうも信じられなかった。人間の蟀谷に指を突っ込む?そんな怪力を持つ人間が一体どこに存在しているというのだ。

「蟀谷から両手の親指を突っ込んで、持ち上げ、壁に叩きつける。このパターンで現に五人の人間が殺されてる。そんな恐ろしい芸当、人間の成せる技じゃねえよな……

「え、ええ……

「しかも叩きつけられた跡は床から二メートル半も上だった。つまり、犯人の身長は最低でも二メートルはあるってことだ」

「まさか……二メートルだなんて」

 信じられない。二メートルの大男が五人のヤクザを素手で殺した?そんな大男を逮捕するなんてあまりにも無謀すぎるし、そんな鬼畜のような男がこの世に存在していいはずがない。僕は自分の顔が引き攣る感覚を覚えた。

「もちろん台か何かに乗った可能性も考えたが、あり得なかった。台を使ったような形跡もないし、まず切羽詰った現場でわざわざ台に乗るようなバカはいねえ。俺たちは浮かび上がった犯人像から神坂組と高杉会にそんな男がいなかったか調べた。だが明確な証言もないまま事件は蔵入りしたんだ」

 二階堂は二本目のタバコに火をつけて神妙な顔で吸った。それから僕を見ると薄らと目を細めた。僕が事件のあまりの不可解さに釈然としない表情を浮かべていたせいだろう。

「コマ、その時の犯人は八年経った今も捕まっちゃいねえ。時効になる前にパクって、俺は本店に戻りたい」二階堂の目は真剣だった。僕はおずおずと遠慮がちにうなずいた。

「はい……もちろんです」

 二階堂はにっと笑い、「よし」と僕の胸板を力強く殴った。

 

 

 

  13

三木武志〉

 

 俺は不思議な感覚に囚われた。

 葛藤と対象もない憤りを抱えながら過ごしていた日々の中に、小さな光を見つけ、もう少しで掴めそうなのに、ほんの少しの所で届かない。桜田を抱きしめた時の感触を今でも鮮明に覚えている。小さくて、柔らかくて、暖かくて、そして、怯えていた。

 彼女は絶対に離さない。何があっても。これほど人を好きになったのは初めてだ。今までの自分が馬鹿らしくなる。俺は所詮上辺をなぞっていただけだ。でも、これからは違う。誰に邪魔されてももう迷わない。誰に邪魔されても――

 不意にユリエの顔が浮かび上がった。あの時のユリエは、俺に対して恐怖に怯えたような顔をしていた。何故あそこにユリエがいたんだ。あいつはいつからいて、何を見たんだろうか。

少し不安になる。口が堅いからといって、まあいいかとなるようなことではないのだ。

 このままではいけない。状況を変えたいなら、自分から働きかけなくちゃならないんだ。

 

 気が付けばあの出来事からまた数日が経過していた。ユリエとは連絡も取っていない。

 今日は日曜日で、家で暇を持て余していた。気づけばもう六月だ。

今俺にできることはなんだろう。そう考えた時、咄嗟に思い付いたのは、桜田の父親が殺されたという事件をもっと知ることだった。家に一台だけあるノートパソコンを自室まで運んだ。インターネット回線は無線通信で繋がっている。型が古く、対応していないソフトも多いがまだまだ使えるはずだ。

俺は机にパソコンを置きさっそく立ち上げた。桜田から聞いた話だけでは情報が少なかったが、思い付くキーワードを手当たり次第に入力した。

桜田自身が受けた事件に関する情報は得られなかったが、彼女の父に関係のありそうな事件があった。

京都市暴力団員連続殺人事件――

 その概要は想像を絶するものだった。

 京都市東山区に拠点を置く暴力団、神坂組と、当時伏見を拠点としていた高杉会が抗争を起こし、高杉会側の組長を含む組員五名が何者かによる不明の死を遂げている。犯行の手口の詳細は記されていないが、犯人が未だ捕まっていないということは書いてあった。その後、高杉会は神坂組によって解散させられている。ちょうど八年前の事件だ。

 こんな事件が起きていたなんて知らなかった。それに、犯人が捕まっていないなんておかしい。神坂組との抗争で死者が出たなら、間違いなくそれは神坂組の何者かの仕業だろう。

 俺はそのサイトを深く調べることにした。全面黒い画面に白い字で事件のことが記されているという怪しげなサイトだった。だが他のサイトはかなりの確率で閉鎖されている。

 リンクやホーム、関連情報のページを隅々まで見たが、抗争の発端が何によるものなのかは書かれていなかった。ただ一つ、わかったのは犯人が逃亡中だとしたら、時効まであと三か月だということ。

 五人も死に至らしめた犯人の時効が、あと三か月――

 納得いなかったが、それなら警察が動き出してもおかしくはない。そんな大きな事件の犯人をみすみす逃す真似はしたくないはずだ。

 待てよ。

 俺はページに度々登場する「神坂組」という文字を見て、何か違和感を覚えていた。

 ミサカグミ、ミサカグミ。初めて聞いた気がしない。知らない名前なのに、どこかで知っていたような気がする。

その時、電流が走ったように俺の脳が震えた。

――カミサカのやつら、覚えておけよ――

 爺さんだ。爺さんの言葉だ。もう十年も前になるだろうか、真夜中トイレに起きた俺は庭に佇む爺さんを見かけた。その時に、爺さんは確かにそう呟いた。

 思い出したぞ。この家には代々続く刀があった。でもそれは爺さんの代で盗まれたんだ。ガキの頃、俺は爺さんにそれを取り返してくるって約束したんだ。そうか。爺さんが言った「カミサカ」ってのは神坂組のことだったのか。爺さんが死んだのは一昨年だ。もう少し早くわかっていれば。

 俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。親父にそのことを聞くためだ。今親父は道場で子供たちの相手をしているはずだ。でもそんなこと構っていられるか。

 俺は廊下を走って道場まで行った。母屋と離れである道場は廊下で繋がっているのだ。

「親父」

 ちょうど竹刀の素振りをさせているところだった。五、六人の子供たちは俺を見ると嬉しそうな顔になった。どの顔もよく知っている。馴染の子供たちだ。

 親父は俺に気づくと驚いたように目を丸くした。「どうした」

「聞きたいことがある」

 親父は訝しげに眉を寄せたが、「稽古中だ」ときっぱりと言った。仕方なく立ち去ろうとした俺に親父はまた言った。

「今から実戦練習だ。手伝ってくれないか」

 振り返った時、親父の目は久しぶりに熱を帯びていた。俺は考える間もなくうなずいていた。

 

 備え付けの更衣室で胴着に着替えを済ませると、俺は立てかけてあった竹刀を握った。久々だ。俺専用の竹刀。久しぶりすぎて、それは意外なほどに軽かった。黒竹という特別な竹でできた竹刀で、軽さもしなり具合も抜群だ。胴着は学校で使っていたものではなく、この道場、壱武館専用の胴着だ。ほとんど黒に近い藍色を基調としていて、その中に変則的に鮮やかな朱色が入るデザインは、秀逸で京都らしかった。

 竹刀を強く握ると興奮で全身が痺れた。俺はこの感覚を待っていたんだ。やっぱり俺は、剣道が好きだ。

「やっぱりお前は胴着が似合う」

 親父は不器用だが優しく笑った。誇らしげに俺を見るその顔は久しぶりに見るものだった。全く同じ顔を去年のインターハイの決勝で見た。試合後に涙を堪える俺を、親父はその目で客席から見ていた。それだけで、なんだか救われたような気がした。

 子供たちも嬉しそうだった。小学校高学年を中心に構成されているメンバーで、この壱武館で稽古を受けるために遠くから来ている子もいるぐらいだ。壱武館は優秀な生徒しか受け付けない。直接親父と試合するか、他の道場から実力を買われて抜かれてきた子たちだけが高度な練習を教授できるというシステムになっている。そのために生徒は少ないが、実力は間違いなかった。

「礼、始め」

 親父の掛け声で、子供たちは竹刀をぶつけ合った。小学生とはいえ、それは見ていて非常に興奮するものだった。俺はその試合の審判を親父と交替でしながら、目の前の子供たちと当時の自分を重ね合わせていた。それほど昔のことではない。ほんの数年前だ。俺は言うことを聞かず、剣道も乱暴なものだった。でも親父は、まだ生きていた爺さんと俺を鍛え上げてくれた。おかげで腕前は間違いない。瞬発力も、反射神経も、動体視力も誰にも負けない。子供たちの試合を見ていると四肢が疼いた。

 試合が終わり、子供たちが帰って行くと、親父は数々の歴史を思わす古びた木板の床に正座した。

「武志、話があったんだろ」

「はい」

「まあ座れ」

 俺は親父と向かい合うように正座した。背筋を伸ばすと親父が小さく見えた。少なくともこの道場の中では親子と言えど師弟関係だ。古くからのしきたりで敬語を使うことになっている。

「刀の話です。この家には刀があったはずです。爺さんの代で盗まれたという」

 親父はその話か、とうなずいた。どうも落ち着いている。「黒金景光のことか。そんなことよく覚えていたな。それがどうした」

「その刀は、一体どこにあるんですか」

 親父は少しの間俺の頭上の天井の梁を見つめていたが、また視線を戻した。「黒金景光は神坂組という暴力団に盗まれた。わしも本物を見たことはないが、売り飛ばしていないとしたら、そこのどこかにあるはずだ。だがそれは期待できんな。なんせあれは五千万の値がつくほどのものだからな」

 なるほど。

「お爺さんも取り返そうとしていたようだが、まさか、お前もそんなことなんぞ考えてはいないな」

 親父に睨まれてどきりとした。妙な威圧感がある。取り返すことを考えていなかったと言えば嘘になるが、本気でそうしようと思っていたわけでもない。

「まさか」

 笑って逃げた。だが親父は追ってくる。

「あの刀は確かに由縁のある家宝だったが、今となってはどうしようもない。それにそんな昔のこと、警察に届け出ても煙たがられるだけだろう。もし取り返したいと思うなら、気持ちはわかるがやめておけ。下手すれば死ぬぞ」

 確かにそうだ。神坂組なら平気で人を殺しかねない。

「でも、もし俺が取り戻したら爺さんは喜ぶだろうな」

 敬語を使わなかったからではない、親父の眉間が歪んだのは、間違いなく今の言動のためだ。

「お爺さんは亡くなったんだ。死んだ人間は喜んだり悲しんだりはしない」

 真っ直ぐに俺を見つめてくる親父の視線が痛かった。でも俺は覚えている。爺さんがあの刀に、命を惜しまぬほど執着していたことを。生前、自分は一族の面汚しで、死んでもご先祖様に合わす顔がないと言っていた。なら、死んだ爺さんの仇討に、取り返してやるのが道理じゃないか。

「お前が何を企んでいるのかは知らんが、危険な真似はするな。お前は自分の命の重さをまだわかってない。お前は三木家の六代目で、替えがきかん人間なんだ」

 俺は曖昧にうなずいた。つまり、俺は道場を継がなくてはならないということだ。最初からわかってはいたが、改めて聞くと気が重くなる。俺は立ち上がり礼を言った。それは極めて形式的なものではあったが。

 親父も立ち上がると「そろそろ晩飯じゃないか」と歩き出した。

 俺は一つ思い出し、その背中に言った。「試合、してくれないか。体が訛ってて」

 親父は立ち止まり少しの間黙っていた。「気晴らしのために竹刀を握るならやめておけ。怪我をする。お前が本気で剣道をしたくなったら、その時に来い」

 そしてまた歩き出す。少し残念ではあったが、それもそうだなと、不思議と納得させられた。

 

 

 

  14

乾実〉

 

 私は携帯電話を片手に、眼下に広がる夜景を眺めていた。明治維新の時に大老井伊直弼が暗殺された桜田門には、今ではここ、警視庁のビルが建っている。深夜だが外は人口灯が眩いばかりに輝いている。この東京という摩天楼に、多くの人間が憧れや夢を追い求めて迷い込む。ちょうど蝿や蛾が蛍光灯の光に集るように。昔の私もそうだった。自分の信じた道を貫くために、猛勉強し、警察官官僚の座を頂き、人を蹴落とし、今では実質トップツーの警視官。残すは警視総監の椅子だけだ。ここまで来るのに相当な無茶をした。警察官は時には正義を捨てなくてはならない。汚い手も使わないと上には上れなかった。数々の門を潜り抜け、私はやっとこうしてここへ辿り着いた。今こうしていられるのも、過去の私と、犠牲となった人間のおかげだ。

 時刻は午後十時。時計の秒針がちょうど真上を指した時、握っていた携帯電話が音を立てた。

「私だ」

「もしもし、日下部ですが」

 やはりあの男だ。いつもながら時間通りにかけてくるところが律儀だ。低い声で、いつも笑みを湛えたような喋り方をする。気に入らない。

「例のこと、考えてくれましたか」

 私は苦い吐息を漏らした。「薬のことか。本当にそれに三百億の価値があるのか」

 受話器の向こうで日下部は僅かに笑ったようだった。「警視官、あの薬の効果は絶大ですよ。細胞を活性化させ分裂を早める。身体能力が劇的に上がる、画期的な薬品です」

 その説明はこの前も受けたが、どうも胡散臭い。

「ならその薬の成果を実証したというマウスを早く捕まえて来い。だいたい投与したマウスのほとんどが死んでしまったんだろう。それにいつ捕まるかわからんそいつのために三百億なんていう莫大な金を用意するなんて無茶だ」

「別にいいんですよ。たとえ三百五十億でも買ってくれる人はいます。でもそれはブラックだ。ですからこっちは親切で言っているんです。何にしても、金を用意していてくれるという保証もなしにマウスを探せなんて無理難題。そのマウスは、今も逃亡中なんですから」

 いつもこの男の声はどこか落ち着いている。それゆえに私の心の中まで見透かされているようで居心地が悪い。

「たった一匹の成功例、か」

「ええ。何でも死なない男だそうですよ。魑魅魍魎どもも怯えてしまう」

「馬鹿馬鹿しい。死なない人間などいるわけがない」

 鼻で笑ったものの、本当にそうだとしたら恐怖だ。逃亡中のマウス、いや、その男のDNAが無ければこの計画は実現しない。唯一の成功例。その男の血液で今後の人類における医学が左右されるのだ。いや医学だけではない。そのような薬が社会に横流しにされれば、国家の存亡を揺るがすような大事件が起きることだろう。そうなる前に、その薬は国家が独自に確保しておきたい。

 受話器の奥で日下部の乾いたため息が聞こえた。「どのみち、そのマウスを捕獲しなければこの計画は実現しません。その男で人体実験を行わない限り、もう二度と同じ薬を作り出すのは不可能です」

「そのマウスがいる場所の目処は立っているんだろうな」

 日下部は黙っていた。わざと間を置くことで私を焦らしているのだろう。つくづく気に入らない男だ。

「鹿王会の二次団体が、その薬を投与したマウスを秘密裏に実戦に使用しました。もう八年も昔です。その時に最後の仕事をさせたあとで殺されたことになっていましたが、最近になってそうではなかったと発覚しました。つまり」

「つまり、その男はまだ生きているということだな」

「ええ。ただ八年も昔のことなので、手掛かりは皆無に等しい状況です」

「こちらでも現場の警察官を再捜査に当たらせているが、厳しい状況だろう。情報を与えずに捜査させても無理があるだろうからな。そうだ。その最後の仕事というのはどういう内容のものだったんだ」

「男は一連の事件で五人を殺害しています。その五人目が、抗争相手の組長でした。何でもマウスを所持していた暴力団はその薬の開発データを持っていたそうなんですが、相手側の暴力団員に盗まれ、それが原因で抗争に発展し、マウスを使ってそのデータを取り戻そうとした。五人目でSDカードを発見し、それを回収しに行った男がマウスを射殺したことになっていましたが、やはりマウスは不死身。弾丸は胸部を貫いたにも関わらず、現場から逃走し、結局そのSDカードも損傷し、修復不可能だそうです」

「やはりその男を見つけ出すしかないようだな。だがその男が既に死んでいるという可能性はないのか。確かその薬の副作用が、寿命が著しく短くなるということだったはず」

 私は窓際から移動し、柔らかな椅子にもたれた。個人的に持ち込んだこれは、ボーエ・モーエンセンとかいうパリのデザイナーが作ったもので、五十万ぐらいした。

「まあそれはあくまでも仮説です。実際に投与して生きていたのがその男だけなんですから確かめようがない。ですが分裂が異常な回数で行われるわけですから、その分早く年を取るというのは納得できます。あれから八年です。見た目も大きく変わっているかもしれません。なんせあの薬は一度投与されれば永続的に進行するものですから」

「なるほど。まるで何か病原体のようだな」

 日下部は受話器の向こうでおかしそうに笑った。

「病原体とはよく言ったものですね」

 それにはあえて返答せず、私は一つ気になっていたことを訊ねた。「日下部くん、もし君が裏側の人間ならば、その男を見つけ出した時にどう利用する」

 日下部は楽しげに言った。「そうですね。僕ならどんなに莫大な金を積まれてもこの国に売ったりはしません。アメリカか中国あたりが妥当なところでしょう」

「戦争でも起こすのか」

「それも悪くないですけど、ま、核と同じですよ。核と。持っているだけで安心だ。でも成功例が一人だけっていうんじゃ、この薬自体にそこまで価値がありますかねえ。まあそれに僕はアナーキストじゃない。あなたの敵にはなりませんよ。今のところはね」

 私は机の上に置かれたブラックコーヒーを啜った。

「日下部くん、ふざけるのもいい加減にしなさい。そもそも研究チームの一人だったからといって、当時の君は下っ端で、何一つ鍵となる情報を与えられていないんだ。君がこうして生きていられるのも、私たち警察のおかげなんだ」

 日下部はこともあろうか、私に聞こえるようわざと大きくため息をついた。「だから僕はそのチームの唯一の生き残りなんだ。僕が死ねば困るのはどっちですか。僕が脅威なら、先にマウスを捕まえる努力をすることです。ねえ、乾警視官」

 そこで電話は切れた。私は震える手で携帯電話を切った。

「ヤブ医者め……

 日下部達也。確かにあいつがいなければこの計画は進まない。だがそのマウスが確保できればあいつの存在は不要となる。つまり口封じに我々によって抹消される。あいつもそのくらいの察しはついているだろう。妬きになって鹿王会や裏の人間と繋がらなければいいが。そのためにも、あいつの監視は続けなければなるまい。

 私は椅子の首を回し、窓の外を見た。先ほどと変わりない、平和な東京の街が広がっていた。この日本の平衡を保つためにも、その薬も、マウスもこの世から消さねばなるまい。たとえ三百五十億を日下部に支払うことになったとしても、この日本の総人口を考えれば仕方のない出費だ。それに、金を餌にして日下部を使っても、始末してしまえばその金はまた元通りだ。何にしてもマウスを裏の人間の手に渡らせてはいけない。そうなればこの国は終わりだ。誰にも悟られずにマウスを捜索し、秘密裏に全てを始末しなければならない。その再捜査をさせるためにも、わざわざ時効のタイミングを早めたのだ。

 何としてでもやつらよりも先に男を捕まえなくては。私の眼下に広がるこの国が、崩れて消えてしまう前に。

 

 

 

第二章 いつわり

 

  15

三木武志〉

 

 京都という地は未だに平安京の色を残し、現在もなお数多くの社寺仏閣が点在する、言わずと知れた観光地だ。歴史ある街なだけに観光客は絶えず商業も賑わう。

 だが、表があれば裏がある。

 表裏一体という言葉があるように、京都は古くから裏社会と因果関係の強い街として知る人ぞ知る。京都を拠点に活動する暴力団、暴走族、ヤミ金は数知れない。夜の京都の有楽町は暴力団員たちが蔓延る危険地帯だ。今夜もキャバクラや風俗店が幟を掲げ、客引きの女たちが店の前で行き交う男たちを呼び込んでいる。ここで働く女たちの大半は、暴力団やヤミ金に沈められてやむを得ず体を売る、金という泥沼に沈んだ女たちだ。

 そんな無法地帯に明らかに場違いな男が一人いた。

 時刻は既に午前二時に差し掛かろうとしていたが、高校生ぐらいの若者が木刀を右手に下げて歩いていた。身長は180センチはあるだろう。端正なその顔は、口を真一文字に結び真剣な表情をしている。街を歩けば誰もが二度見してしまいそうな甘い顔立ちだが、同時に僅かな厳めしさも垣間見える。

「兄ちゃん、ちょいと遊んでいきなよ」

 芸者風の一人の客引きが彼に声をかけた。だが彼は物憂げな表情で一瞥しただけで、何も言わずに通り過ぎた。そんな男が木刀を片手に風を切るように夜の有楽町を歩いている。明らかに不自然な光景だ。街ゆく怪しげな男たちは、そんな彼に訝しげに目を向けたが、声をかけたりはしなかった。何者にも臆せぬようなオーラを放ち、足早に歩いて行くからだ。

 弱冠十六歳。彼の名を左衛門三郎武志といった。三木という姓は古くから武家に続く由緒正しき名前だ。さらに武志という名前に使われる「志」の一文字は、三木家に代々受け継がれてきた字だ。ちなみに父の名は剛志、祖父の名は雅志という。武志もまた代々続く壱武館という剣道の道場の六代目にして後継ぎだ。

 武志は右手の木刀の感触を確かめるように強く握ると、目的地までの道を急いだ。

――黒鉄景光、必ず奪い返す――

 黒鉄景光とは人名ではない。壱武館に先代から代々受け継がれる日本刀で、江戸時代の刀工、藤堂景光がこの世に残した最高傑作だ。黒鉄景光は同年代に作られた佐渡天喝の小烏丸、西蓮左文字の小夜左文字と並べて「三名刀」と呼ばれ、原価にして五千万の価値がある。

 黒鉄景光を奪ったのは、京都の東山辺りを縄張りとする、神坂組という数十人規模の暴力団だ。

壱武館の四代目である祖父、雅志の代に盗まれたのだが、在り処自体は見当がついていた。ただ武闘派の神坂組は一般人であろうと容赦はしない。さらにその神坂組の上には鹿王会という関西一の数千人規模の巨大組織が構えている。それ故迂闊に手出しできない状況だったのだ。

 だが恐れを知らない武志は、たった今、黒鉄景光を取り返すためにそれがある場所へ乗り込もうとしているのだ。

 

 武志が立ち止まったのは、有楽町から外れた薄汚い雑居ビルの前だった。このビルの地下に神坂組直属の武器商人がいるはずなのだ。

 だがそう易々と入れそうもなかった。入口には見張りらしき男が三人陣取っている。

 男たちは武志の存在に気づくと目の色が変わった。暴力に慣れきったような凄みがある。まさにヤクザだ。

 だが武志は落ち着き払っていた。さらにその唇は笑みを浮かべるように横に伸びている。武志は祖父の雅志が生前よく言っていたことを思い出した。

――勝つためにはまず、流れを自分のものにする。相手の目を見て、翻弄するんだ。それからどんなに苦しい時でも涼しい顔をしておけ。そうすれば、相手はやけくそになって自滅する――

 武志は一人一人の顔を前かがみになってまじまじと見つめた。彼らは無言で凄むような視線を向ける。武志はひとり言のように言った。

「どいつもこいつも、間抜けな顔してやがる」それから不気味な満面の笑みを浮かべる。ただその目だけは、異様な殺気に満ちていた。

「おいてめぇ、なめた口利いてんじゃねえぞ!」男たちは凄むように武志の元へ歩み寄ってきた。

――感情的になりやすい。馬鹿の特徴だ――

 武志が木刀を構えると、殺気に満ちていた目がさらに怪しく輝いた。

「なんじゃ、そんなもんで俺らとやる気か。ぶっ殺すど!」

 武志の胸ぐらを掴もうとした瞬間、

「うっ」

 男はうめき声と共にその場に崩れ落ちた。武志の素早い突きが鳩尾に炸裂したのだ。

「てめぇ、何してくれとんじゃ!」

 次の男が武志の木刀を奪おうと手を伸ばしてきた。だが武志はその手を木刀の先で弾くと、その流れで顔面に強烈な一発を叩き込んだ。武志は怯んだ相手の腹部に蹴りを入れ、相手は崩れた。

 次の男は武志の背後から殴りかかってきた。

 振り向いた武志は瞬時にその攻撃を躱したが、顔面すれすれに男の拳が飛んでいった。相手がよろめいた隙をついて武志は左足をかけた。

 勢い余った男はアスファルトに顔面を擦りつけた。

 すかさず武志は男の頭を勢いよく踏みつけた。顔面がアスファルトに擦れ、男は奇声に近いうめき声を上げた。

「俺に刃向かうんじゃねえ!」武志の顔に濃い縦皺が刻まれた。先ほどとは明らかに違う物凄い剣幕だ。

彼は生まれつき鋭敏な瞬発力と反射神経を持っていた。去年の国体で準優勝しただけのことはある。計り知れない実力だ。

倒れる男たちの首筋めがけて、武志はそれぞれ力任せに竹刀を振り下ろした。鈍い音がして、男たちは呻き声も漏らさなくなった。

 地下への階段は薄暗かったが、武志は迷いなくそこを下りていった。

 

 光源はぼんやりとしたオレンジ色の光を放つ幾つかのランプだけだった。通路は木製の棚で仕切られただけの簡素なものだったが、至る所に布が吊るされており視界が悪い。その背の低い棚に置いてあるものは骨董品ばかりだったが、一つ一つに引き出しがある。あながち中身は武器の類だろう。

 武志はそれらには目もくれず真っ直ぐ奥に進んだ。

一番奥の作業台には見るからに見窄らしい姿の初老の男が突っ伏していた。「服」というよりは「ぼろ布」と言うべき赤い着物を纏って、白髪交じりの髪の毛と髭はボサボサで長かった。

――薄気味悪い爺だ――

「起きろ」武志は木刀の先で男を乱暴に揺すった。男は寝ぼけ眼で何か中国語らしい言葉を漏らしていたが、武志の姿を確認すると咄嗟に身構えた。

「誰だ」

 発音が不自然だ。体が弱っているのか目は薄らと白濁している。

「ここに黒鉄景光があると聞いて来た。出せ」

 武志と男の視線が寸の間交錯したが、男は武志の鋭い視線に負け目を逸らした。

「外の連中、倒したのか」

 武志は手にした木刀を見せた。男は眉を寄せた。

「そんなものでか」

「あんたも痛い目に遭いたくなければ大人しく黒鉄景光を渡すんだ。神坂組だか何だか知らねぇが、爺さんの尻拭いは俺がする」

 男の目が怪しく光り、口元が微かに歪んだ。

「さては、三木の倅坊か」

 武志は無言で男を威嚇するように睨んだ。端正な顔が一気に肉食獣のような顔に変わると、男の蟀谷に脂汗が滲んだ。

「わかった」

 男は渋々引き出しの奥から木箱を一つ取り出した。

中には一本の刀があった。柄や鞘には部分的に金細工が施されている。シンプルだが完成された作りだ。五千万の値がつくのも納得できる。

 武志が鞘を抜くと、この薄暗がりの中でも鋭い光を放っていた。刃渡りには「藤堂景光作 黒鉄景光」と刻まれている。

「模造品じゃないだろうな」

「間違いなく本物だ。俺が保証する」

「そうか

 武志は暫く刀を見つめていたが、無意識に瞳孔がじわじわと開いていった。刀の美しさに魅了させられたようでもあり、その神秘的な何かに飲まれたかのようでもあった。

――こいつで人を斬りたい――

 そう思いはっとした。

――まさか。そんなわけがない――

 武志は初めて自分が刀の柄を物凄い力で握っているのに気づいた。そんな武志を見て中国人の男は顔を歪めた。

「おい、どうした」

「これは……黒鉄景光は返してもらうぞ」

「待て。それを持って行くな」

 途端に男は懇願するような目つきになった。

「あんたがそれを持っていけば俺は間違いなく殺される。あんただって、その刀を持っている限り神坂組から命を狙われ続けることになる」

 武志は鼻で笑った。「この俺に泣き落としか」

「お願いだ。他のものなら譲ってやる。だがそれはだめだ。俺は命が惜しいだけだ。助けてくれ」

 武志は黒鉄景光を勢いよく振り下ろした。

 男は突然の乱暴に目を剥いた。

その目の数センチ先に刄があった。

「黙れ」

 すぐに鞘にしまうと、崩れ落ちる男から逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

  16

松原正

 

 外の光が強いためか、この四角い部屋の中は暗く見えた。窓があったはずの場所は、今は何もはめ込まれておらず開け放たれた状態になっている。そのために時折強い風が吹き込む。

 タバコを咥えたまま、二階堂はコンクリートの床にしゃがみ込んだ。僕もそれに倣い床に手を突いた。外の気温は高かったが、この床はひんやりと冷たかった。二階堂は壁と右手に持った写真を交互に見比べている。写真には壁に真っ赤な血の跡が下へ向けて太い線を引いている。その下に、人間と思しき生々しい死体が捨てられたようにあった。壁にもたれるように背中を預け、足を大きく開き、その股の間に頭部が転がっている。血の量も尋常なものではない。初めてその写真を見せられた時、僕は嘔吐しそうになった。

 刑事になって一年と少し。駐在所勤務時代は人の血を見ることなどまずなかった。地域巡回や落し物などの処理。だが、たった一度だけ強盗を捕まえたことがある。刑事になる一か月前のことだ。仕事終わりに何となく立ち寄ったコンビニで、男が刃物を店員に向けているところを見た。若い店員の女性が、店内に唯一いた僕に助けを求めるように目を向けたとき、体が勝手に反応していた。走っていき、男に飛び乗り、馬乗りになって腕を力ずくで捻じりあげた。だが、その時に男が持っていたナイフが店員の顔に深い傷を残した。急所は外れていたが、あの傷が完全に消えることはないだろう。血を見たのは、あれが最後だった。

だが、そのおかげか急遽移動が任ぜられ、晴れて東山署刑事課に着任するに至った。

「ちょうどあの位置にマル害の頭が押し付けられたんだ」

二階堂はゆっくりと立ち上がり、写真をポケットにしまった。

 僕も立ち上がり、彼が指さしたコンクリート塀を見上げると、ほんの僅かだが薄らと血の跡が残っていた。やはり高さは二メートル半はある。事件から八年たった今、この部屋は片づけられ血の跡もほとんど残っていない。それでも、この廃ビルは取り壊されることもなく放置され続けてきたために、事件当時とほとんど差異はないはずだ。

 二階堂は遠い目をし、ゆっくりと窓の方へ移動した。「ここへ来たのは八年ぶりだが、あの時となんも変わっちゃいねえ。現場百回で、毎日毎日現場へ足を運んでは手掛かりとなるものを探したもんだ」

 二階堂はもう一度タバコに口をつけ、携帯灰皿に押し付けた。ぼうっと、彼の唇から肺に残った煙がゆれゆらと逃げていった。

 ここは一連の事件で最後に犯行が行われた場所で、ビルの最上階にあたる七階の一室だ。この場所で、高杉会の組長が惨殺されたのだ。本来この廃ビルは、鹿島建設事務所という会社のある場所だったのだが、倒産して事件の数か月前にはこのありさまだったという。被害者は何らかの状況で、犯人から逃げようとここまで上ってきて殺されたようだ。二階堂の話では入口あたりからここまで血痕が続いていたという。この場で致命傷を与えられるまでに、既に出血はしていたのだ。結局、それは喉の奥を何らかの影響で切ったことによる出血だった。さらに二階堂が言っていたのは、こういった残忍な殺人の場合は怨恨による動機が一般的なのだが、一連の事件で手口が全く同じために、動機による行き過ぎた犯行ではなく、快楽犯の可能性が高いということだった。快楽犯とはいえ、ここまで残酷なことができるなどとは信じられなかったが、一番有力な説なのだ。

 被害者は五人だが、実際にあった事件は三件だ。つまり残りの四人の犯行のうち、一件が三人同時に殺害されている。これが一番初めの事件だ。一人の組員のアパートの一室で、仲間と三人で酒を交わしていたところを襲われたというものだ。マンションは直後に放火され全焼失したという。幸い入居者に死者は出なかったが、その被害総額は二億五千万円にも及ぶ。放火されたことで事件解決に繋がる手掛かりは得られなかった。ちなみに被害者は年齢順に高山仁、西田守、有村孝次郎の三人で、それぞれ高杉会の、いわゆる舎弟だった。

 二件目の事件の現場は住宅地のごみ置き場だった。やはり凶器は使われずに素手で殺害されていた。被害者の首には犯人が掴んだ跡が残っていたが、驚いたことに絞殺が直接の死因ではなく、それも致命傷は圧力による大量出血だった。首筋の肉がえぐられていて、そこから大量の血液が流れたようなのだ。さらにこの事件も三件目と同様に二メートル半の高さに後頭部を叩きつけられていた。ただ今回の場合は壁ではなく電柱だった。もちろん頭部には親指を突き刺した穴が二つあった。この事件は唯一屋外での犯行だったため、目撃者がいることが期待されたが、死亡推定時刻が午前三時頃だったために、誰一人として犯人を見た者はいなかった。さらに、全ての事件において共通することは、犯人の体毛や皮脂などのDNAに関するものや、指紋は一切検出されなかったということ。普通、絞殺などで被害者が抵抗した場合、その傷跡に皮脂や爪垢などのものが残るものなのだが、今回の場合はあまりにも被害者の出血が多かったために、犯人を特定するものの検出が不可能だった。体毛に関しては、二階堂の話では、髪の毛は帽子をかぶるなりして抜けるのを防ぐことが可能なのだが、他の毛は意外と現場に残りやすいということ。ただそれが全くなかったために、犯人は完全に体毛を処理している可能性が高いということだった。

「ほら、どうだ」

 二階堂に当時の写真の束を手渡され、僕はそれを一枚一枚この現場と見比べた。夢にまで出てきそうなほど生々しい写真がほとんどで、直視するのも嫌だった。

「この犯人、人間じゃないでしょう……

「ああ。まともな人間の仕業じゃねえ。この下種を野放しにしておくわけにゃいかねえなあ」

 二階堂はジャケットのポケットから徐に一冊の分厚い手帳を取り出した。合成皮革のカバーだが、随分と年季が入っていてところどころ擦り切れている。二階堂はそれをパラパラと眺めていたが、あるページで手を止めた。

「いつも俺たちの手を焼かせるのは、決まってカミサカ絡みの事件だ。だが、その割になぜ、未だにやつらが活動していられるか。その理由がわかるか」

 僕は頭を振った。

「それはな、カミサカが鹿王会の二次団体だからだ。鹿王会は関西一の大組織だ。迂闊に手を出せば警察官であろうと闇に葬られる。だが普通の暴力団じゃそんなことはできねえんだ。なぜなら、国家を敵にしている限り、犯行を暴かれる危険性が付きまとうから」

 不気味に口元を歪める二階堂が不気味だった。

「つまり、結論を言うと、鹿王会はこの国を裏から牛耳っている。その手下のカミサカにも警察のお偉方は手出しができない。だから俺たち下っ端が潰すんだ。この日本の形態が変わらない限り暴力団は消えないが、それをどう上手く扱うかがマル暴の要なんだ」

 彼の言ったことの全ては理解しかねた。何となくはわかったが、それではまるで僕らが捜査する意味がないと言っているようなものではないか。

「だったら、僕らは何のために捜査するんですか。この事件を再捜査することを命令したのは上の人間ですよね」

「ああそうだ。上のやつらはヤクザを消したくても、自分の手を汚したくはないだろうからな。ヤクザに関わりを持って殺されるのは、いつも現場の人間なんだ。上のやつらは俺たちを将棋の駒ぐらいにしか思っちゃいねえよ」

 そう言ってじっと僕を見つめてくる。その目には何か強い意思のようなものが感じられた。もしかしたら、先日殉職された刑事のことを思っているのかもしれない。死ぬかもしれないとわかっていても尚、この人が現場に留まる理由は何なんだ。東山署に配属されたといっても、京大卒で実績もある彼ならば、東京の警視庁で官僚の座に食い込むのも決して無理なことではないはずだ。

「だったら何故、あなたはここに留まるんですか」

 二階堂は少し穏やかな表情になった。

「コマ、お前はまだ本物の刑事じゃねえな。本物の刑事の神髄は、国民のために命を懸けることにあるんだ。それを忘れちゃ、どんなにいい椅子に座ろうと意味がねえんだよ」

 純粋にカッコいいと思った。裏で殴られたり、凄まれたりはしたが……

 彼は照れくさそうに笑った。「話が逸れちまったな。まあ、捜査やろうや」

 二階堂は開けたままの手帳の一部を指でなぞった。

「人着(人相着衣)言うぞ。犯人の身長は推定約二メートル。犯行現場に続く足痕から靴のサイズは三十五センチと判明。靴の種類は不明。服装も不明。絞殺の痕から手の大きさは直径約二十五センチ」

 足の大きさが三十五センチで、手の大きさが二十五センチ?ギネスかよ。

「さあここからが驚くところだ。俺たちの捜査を混乱させた驚異の事実」

 二階堂はまた不気味な含み笑いを浮かべる。

「現場へ向かう犯人の足跡はあったが、現場から逃走する足跡はなかった。それから、この部屋に一発だけ落ちていた拳銃の薬莢」

「そんなの初耳ですよ」

二階堂はしげしげと僕を見上げながら顎を触った。「そりゃそうだ。言ってねえからな」

 何なんだ。しれっと言いやがる。

「そういうことはもっと早く言ってくださいよ。重要なことじゃないですか」

 二階堂は「悪い悪い」と笑いながら立ち上がった。牛丼屋で見た時と同じ、人懐っこい笑い方だ。

「でも謎だろう。逃走する犯人の足跡がないのは、靴を脱ぐとか履き替えるとかしていくらでも偽造できるがな、現場に薬莢はおかしいぜ」

 確かに靴を替えてしまえば足跡を残さないことは可能だ。事件当時の階段は真っ暗だったはずだが、ライトを使えば被害者の血をよけて歩くことも可能だ。二階堂はさらに続けた。

「薬莢だけあって現場に弾は落ちていなかった。消炎反応からこの部屋で発砲したことは間違いないんだが、どうも犯人が撃ったとは考えにくいんだ。犯人は一連の犯行の中で凶器は使わなかった。今回の場合だって、凶器なしで十分に殺せたからな」

「だったら被害者が発砲したんじゃないですか。高杉会の組長なら、銃を持っていたとしても不思議ではないと思いますけど」

 二階堂は首を振り、僕が持っていた写真の束から一枚を抜き出してみせた。部屋の隅から被害者と部屋全体を撮影した写真だ。

「この写真を見りゃわかりやすいが、被害者はそこのドアから入って、まっすぐに一番奥まで行ってる。犯人の足跡は血が薄れて途中からなくなってはいるがな」

 確かにその写真を見れば被害者が歩いた場所がすぐにわかる。なぜなら血痕が続いていたからだ。犯人の足跡は被害者を惨殺した場所で何度も重なり合っているが、上手く血をよけるようにしているために、途中から足跡が消えている。

「薬莢が落ちてたのはちょうどあの辺だ」二階堂が指さした場所は、確かに被害者が歩いた場所からは大きく逸れている。

「しかも弾が現場に残っていなかったということは、考えられるのはあの窓から外へ向けて発砲したということ」

「一体誰が、何の目的で……

「わからん」やや投げやりな返答だった。「事件前に発砲されたのか、事件後に発砲されたのかすらわからねえ。結局ここで、俺たちはこの事件を諦めた」

 悲しげな目だった。二階堂はまたポケットからタバコを取り出し、火を点けた。僕は彼が一服している間、一言も口をきかなかった。

「一応、この場所に一番手掛かりがあったんだが、どうだ。他の現場にも行っとくか」

「はい」

 僕がうなずくと、二階堂もうなずき返した。

 

 これからやっと、刑事らしい本格的な捜査が始まる――

 

 

 

  17

龍門寺影虎〉

 

「如是諸人等、皆已成仏道、諸仏滅度已、若人善軟心……

 一人の僧侶が、一心に正面の弥勒観音菩薩像に向かって経を上げていた。まだ若いようだが、顔には彫刻のように深い皺が刻まれている。経を読み始めてから既に一時間が経過するというのに、彼の背筋はぴんと伸びていて、正座した足も崩していない。目を閉じ、数珠を垂らした左手を右手と合わせている。低いがよく通るその声にはどこか力が篭っていた。

 僧侶は、額には大粒の汗を浮かべてはいるが、それを拭う余裕すらないように眉間に濃い皺を寄せていた。

「諸法従本来、常自寂滅相、仏子行道已、来世得作仏……

 ちょうど梅雨時の今日は湿度が高く蒸し暑かった。堂の襖は開け放たれてはいるが、ほぼ無風状態だ。空には鉛色の絵の具を零したような雲が立ち込め、今にも一雨きそうだ。さらに、この男は袈裟を着ているために体に熱がこもる。それでも身動き一つせず、合わせた手を離そうとはしない。まるで何かに憑依されたように、一心に声を張り続ける。

 その時、堂の木板が軋む音のあとに、背後から「影虎」という優しい声がした。若い僧侶が振り向くと、自分と同じ袈裟に身を包んだ老いた住職が立っていた。

「今日も精が出るな。経の途中で悪いんだが、少し一服しないか。今日は宇治の栗饅頭だ」

影虎と呼ばれた僧侶は「ありがとうございます」と硬い表情のまま言い、額の汗を拭うと、住職から饅頭と湯呑を受け取った。

住職はそんな彼を神妙な面持ちで見つめていた。

――この子はいつから笑わなくなったのだろうか――

 心の中で呟くとため息が出た。

――今では笑顔すら思い出せない――

 すると茶を飲む影虎と目が合った。

「朱鷺さん、冷めますよ」

「あ、ああ」

 朱鷺と呼ばれた住職はゆっくりと座ると湯呑の茶を啜った。影虎の自分への態度は昔とは違い他人行儀になった。小さい頃はよく甘えてきたのに……

「影虎、やっぱり敬語はやめてくれないか。どうも他人行儀だ」

 だが影虎は「今さらどうしたんですか」と茶を啜る手を休めただけで、あとは何も言わなかった。

 しばらくして、朱鷺は思い出したように言った。「檀家さんがまた増えた。松平さんという方で、警察官だったそうだ」

 影虎は飲み干した湯呑を静かに床に置いた。「そうですか」

「殉職だそうだよ。あと四年で定年だったのに、まったく哀れなことだ」

 影虎は床の湯呑を見つめるばかりで表情すら変えなかった。その時、朱鷺の懐でケータイが震えだした。最近買ったそれは、目の悪い彼にもよくわかるように老人向けのものだ。本当はこういった電子機器は操作も難しいし、持ちたくなかったのだが、周囲からは「連絡に困るから」と半ば強制的に持たされた。

「もしもし」電話に出ると男の声が返ってきた。聞き覚えがあるが、最後に聞いたのはかなり前だ。影虎は気を利かせたのか立ち上がった。

……どうしたんですか、三木さん」

 その場を立ち去ろうとした影虎はその名前に聞き覚えがあるのか立ち止まった。

「えっ……。神坂、ですか」

 影虎の顔の筋肉がみるみるうちに強ばっていく。

……ええ、いますよ。代わります」

 朱鷺は「剛志さんからだ」と影虎にケータイを渡した。

「もしもし」

受話器からは「海斗くん、久しぶりだな」と懐かしい声が聞こえてきた。だたその声は昔のような威厳に溢れたものとは違い、焦りを隠しているようだった。影虎はその呼ばれ方に何か感じたのか「ご無沙汰しております」と少し冷たい声で応じた。

短調直入で悪いんだが、君に相談したいことがある」

 受話器の向こうの声は少しトーンを落とし、ゆっくりと話しだした。それを聞いていた影虎の眼光は鋭くなり、ケータイを握る手にはいつしか力が篭っていた。その太い右腕には、ずれた袈裟の袖からはみ出た黒い蛇の刺青が顔を覗かせている。

「わかりました。いざという時は命を懸けて守ります」

 電話を切った時には、外は土砂降りになっていた。

「大丈夫か」

「ええ」静かにうなずき、朱鷺にケータイを返す。

「影虎、無理はするなよ……

「はい」

 朱鷺が静かにその場を後にすると、影虎はその場で胡座を組んだ。剛志の声を聞くと、忘れようとしていた昔のことを思い出してしまった。薄らとだが、剛志と竹刀をぶつけ合った日々のことを思い出す。

――恩人のためにこの命を使うときが、来たのかもしれない――

 影虎は襟元の紐を一つずつ外していく。

――だが、俺はまだ生きなくてはならない。生きて償うことが、俺に与えられた役目だ。神は俺が死ぬことを、まだ許してはくださらないだろう――

 影虎はゆっくりと袈裟を腰まで下ろし上半身を露わにした。両腕には黒の大蛇がまとわりつくように、その大きな背中には一つ、曼荼羅が刻まれている。そして胸には丸い穴の古傷があった。目を閉じて、その傷をゆっくりと撫でる。

――与えられた命だ。大義を為すまで燃やし続けねばなるまい。運命が俺を導いているならば、それは今だ。八年間もこの暗い堂の中で待ち続けていたんだ。だが、同じ過ちを繰り返していいのか――

 影虎は外を見つめた。激しい雨が一面に広がる砂利に叩きつけられる。雨を見て思い出す記憶はいつも暗いものだ。あの時、右近に撃たれた後、影虎は七階からアスファルトの地面へ叩きつけられた。その瞬間、自分は死んだのだと思った。走馬灯のように色々な場面が目の裏を駆け巡ったが、それでもまだ呼吸は続いていた。叩きつけられた腰に激痛を覚えたが、すぐに痛みを通り越して何も感じなくなった。胸を押さえると、ヘドロのように血が溢れ出てはいたが、まだ心臓は激しく動いていた。そのまま傷口を塞いで立ち上がった。急いでその場から逃げなくてはならなかった。

 濁流のように降り注ぐ雨の中を必死に走った。何度も何度も血を吐いたが、雨に流れて消えていった。全身が熱くなり、視界が大きく揺らぎ始めたが足はまだ動いていた。裏切られたという憎しみが胸を熱くした。この時、影虎は自分を裏切った全てに復讐することを考えながら、無我夢中で走っていたのだ。朦朧とする意識で表通りへ出た。眩しい光に照らされ、バイクの轟音が聞こえた気がした。そこで自分の名を叫ぶ大きな声が聞こえた。右近のものではなかった。懐かしい、忘れかけていた友の声だった。

 意識を取り戻した時、ちょうどここに寝かされていた。横には老いた住職がいた。見覚えのある顔だったが、誰だったかは思い出せなかった。それが朱鷺だった。胸に手をやると、傷口は完全に塞がっていた。それが薬の効果だと気づいたのはその時だった。

――裏切り者は消さなくては――

 目を閉じて深い息をついた。それから両腕の蛇を見た。

――この腕で何人もの人間を殺してきた。この悍ましい蛇が、今では血の汚れにしか見えない。仏門に入り、戒めのために入れた背中の曼荼羅ですら、俺の汚れた過去を消してはくれない。俺にはすべきことが多すぎる。己の過ちを償うために生きなければならないと朱鷺さんには言われたが、俺にはまだ自分のためにすべきことが残っている。俺は八年間もこの暗い堂のなかで、朝から晩まで経を詠み続けてきた。俺はこのまま一生、償いのためだけに生きていくのだろうか――

 考えれば考えるほどわからなくなった。影虎は両手で顔を覆い、指の隙間から睨むように菩薩像を見つめた。

――菩薩よ、あなたは何故俺を創ったのだ。俺はあなたに命を頂く価値があったのか――

 菩薩像はただ悠然と、荘厳な目で影虎を見下ろすばかりだ。耐え切れず目を閉じると、脳裏に鮮明に焼き付いた記憶が、激しい光のようにフラッシュバックした。

 

 冷たい暗闇の中で、黒服の男たちに囲まれている自分。

目の前には椅子に縛り付けられ、袋を顔に被せられた女。

渡された拳銃の重さと冷たさ。

震える両手。

「殺せ、殺せ」

 男たちの無感情な声。

「この女を殺さないと、君自身と、君に関わった全ての人間をも抹殺することになるんだ」

 一人ずつ名を挙げられ、その上でさらに繰り返し言われた「殺せ」というあの言葉。まるで悪魔の囁きのようだった。

 女の頭に泣きながら突きつけた銃口

 堪えるようにすすり泣く女の声。

 引き金を引く直前に聞こえた言葉――「海斗」

 鼓膜が破れそうになるほどの破裂音。

火薬と血の匂い。

血と肉の残骸が転がる床。

男たちの醜い笑い声。

 被せられていた袋が取られたとき、影虎が見たのは変わり果てた自分の母の顔だった。

 

 気がつけば影虎は目を赤くし、床を強く殴っていた。

――かあさん、かあさん――

 影虎が心を失ったのはまさにあの瞬間だった。時が止まり、光と闇が逆転した時だった。

――たった一人の親と呼べる人を、こんな俺を愛してくれたかあさんを、俺はこの手で殺してしまった。俺は俺自身と、俺にあんなことをさせたやつらを許さない。あいつを殺すことだけが俺の生きる目的なんだ。俺は僧侶である前に人間だ。俺の心の中にいる鬼はどんなことをしても死なない。あいつを殺さない限りは――

 土砂降りの中、激しい雷鳴が轟いた。

――やっとその時が来た。かあさんの命の仇を討つ時が来た。あいつの命は誰でもない、俺が頂く。俺たちが味わった恐怖の何倍も悍しい思いをさせてから殺す。俺はただ、そのためだけに生きている――

 顔を上げた影虎の目は狂気の光を帯びていた。

 

 

 

  18

三木武志〉

 

 俺が黒金景光を奪還した夜から数日が経過した。あの夜、俺は床に就く親父を揺り起し、その刀を見せた。寝ぼけ眼だった親父だったが、すぐにその目は恐怖に震えだした。俺はその夜のことを鮮明に覚えている。喜ぶことを期待していたのに、親父の反応は真逆だった。訳が分からなくなって、今すぐにでも戻してくるかと訊ねたが、それはやめた方がいいという答えが返ってきた。戻しに行くことも危険だからだ。親父はそれから、お前は大人しくしておけ、わしが手を打つ、と言い部屋から俺を追い払った。どうするのかは聞けなかった。ただただ取り返しのつかないことをしてしまったという自責の念が、俺の心を重く沈ませた。

 ここ数日で生活と環境が大きく変化し、俺は心身ともに疲労を感じ始めていた。心も体も強い方だという自覚はあったが、最近はどうも調子がおかしかった。以前はこういったときは何かとアルコールで誤魔化していた。頭を回らなくすれば、それだけ気楽になったような気分になった。一時的ではあったが、一番の特効薬だった。

 だが今回はそれに頼ることはしなかった。桜田のことで、心を入れ替えると決めたからだ。自分の弱い姿を見せては桜田を不安にさせるかもしれない。だから気丈に振る舞って、少しでも安心感を与えてやりたかった。

 肉体的な疲労は時間とともに回復の兆しを見せたが、それに反するように精神的な疲労は増すばかりだった。黒金景光を取り戻したことで、いつ自分たちの命が狙われるのかという不安が頭の中で一人歩きする。ユリエのこともそうだ。いずれちゃんと話をつけて桜田のことをきちんと理解してもらう必要がある。それに剣道部のことも……

 今朝は冷たい雨が降っていた。空はどんよりと黒い雲が立ち込め、足元は雨水で濡れていた。

 校門を通ると、「おい」と誰かに呼び止められた。突然のことだったので、驚いて振り向くと、剣道部の顧問、下坂がこちらを見ていた。威圧的な態度は体育教師の特徴か。俺はすぐに顔を背けた。

「そう嫌な顔をするな」

 あの顧問が笑っていた。傘の下に見え隠れする額には、まだ俺がつけた竹刀の傷が残っている。

「何すか」

「三木、ここんところ全然部活に来てないじゃないか。早く戻ってこい。大会のお前の枠はちゃんと空けてある。部員もみんな、お前を待ってる」

 ふざけるな、と言ってやりたかったが、実はほんの少しだけだが動揺していた。この男が嘘をついているようには見えなかった。それどころか、まだ自分を部員として見ている。俺はあれだけ乱暴に部を去ったというのに……

「正直な、お前がいないとみんな弛むんだ。俺がどんなに声を張り上げてもだめだ。前みたいに、みんなをまとめてやってくれないか」

 みんなをまとめているという自覚はなかったが、確かにそうだったのかもしれない。知らず知らずのうちに、大抵の部員が自分を慕うようになっていた。もちろん、先輩の中には自分を妬むものも何人かいたが、上下関係がある以上、それは仕方ないことなのかもしれない。

「頼む」

 下坂は傘を閉じて深々と頭を下げた。雨が彼の頭や背中にかかる。俺は彼の広い旋毛をぼんやりと眺めていた。

「剣道部にはお前が必要だ」

 悪い気はしなかった。それどころか、心はほとんど持っていかれかけていた。が――

「すみません」

 顔を上げた下坂は驚いたように目を見開いていた。

「なんでだ」

 俺は湧き上がる苦しさを噛み殺し、無理に笑顔を作った。

「理由なんかないですよ」

 困惑する下坂の顔を見た時、罪悪感のような胸の痛みを感じた。後悔はなかったが、潔く投げ出してしまったことが、本当によかったのかはわからなかった。

 一礼して逃げるようにまた歩き出す。

 胸が嫌に苦しかった。これで本格的に退部だろう。

 それから下坂が声をかけてくることはなかった。

 

 靴を履き替え、傘を玄関の傘立てに差し込んだ。胸に重たいものを抱えたまま、教室への廊下を歩く。今朝はいつもよりも騒がしかった。それが少し耳障りだったが、無視して歩き続ける。その時、教室から女子生徒が数人飛び出してきた。俺を見るなり慌てたように駆け寄ってくる。

「武志くんヤバいよ。三年生が教室で暴れてる」

「は?なんで……

「わかんない。でも武志くんを探してた」

――まさか……。嫌な予感がする――

「バット持ってる。絶対行かない方がいい。今先生呼んでくるから」

 女子生徒が言い終わるのが早いか、俺はカバンを放り出し、教室へ向かって走り出した。部活をやめているために今日は竹刀を持っていない。何かあった時に、武器となるのは自分自身の体だけだ。

 乱暴にドアを開けた。

 教室を見渡すまでもなかった。昨日まで等間隔に並んでいた机はばらばらで、ひっくり返っているものまである。教室の真ん中にその三年がいた。野球部だろうか。丸刈りで、童顔だが吊り目で乱暴そうな印象を受ける。背は俺よりも圧倒的に低いが、代わりに分厚い筋肉があった。手には金属バットを持っているようだ。息を切らしているところからして、激しく動いた後なのだろう。なんとなくだがその顔は見たことがあった。

他の生徒たちは、怯えるものと野次馬のように好奇に目を光らせるものとに二分されていたが、そのどちらも教室の隅の方へ退避している。彼らは俺を見るなり、異様な歓声を上げた。

 野球部員は金属バットを振り上げた。相当頭に血が上っているらしい。ただならぬ形相だ。

「てめえ……俺の女に手ぇ出したそうだな」

ああ、それか――

 一度冷静になったが、ならば尚更まずい。否定して通せるわけはないだろう。いや、それ以前に一体相手が誰だったのかさえ全く分からない。だが、こうとなればこちらも引くわけにはいかない。俺は眉を寄せ相手を深く睨みつけた。「知らねえよ。てかバット捨てろよ」

「とぼけてんじゃねえぞ!」怒鳴り、乱暴にバットを床に叩きつけると、つかつかと歩み寄ってきて俺の胸ぐらを両手で掴んだ。呆気なく俺が捕まったためか、教室はまた湧いた。

「許さねえ……。絶対許さねえ!」

 女ぐらいでよくもまあこれだけ熱くなれるものだ……

「殴りたかったら殴ってみろよ。そうだなあ、ほら、廊下の方にあんなに人が集まってて面白そうだぜ」

 俺はやつを見下ろし、馬鹿にするように笑った。何だかもうどうでもよくなっていた。別に殴り合いになっても構わなかった。俺が負けるはずがないのだから――

……来い」

 やつは額に青筋を浮かせ、俺の胸ぐらを掴んだまま廊下へ引きずり出した。集まっていた生徒たちは逃げるように後ろへ下がった。既に騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちが三、四十人以上集まっていた。

 俺はやつの耳元で囁くように言った。「俺にも心当たりの一つや二つあるからさ、別に殴られても仕方ないけど、そんなことすればお前、退学だぜ」

 やつは顔を真っ赤にして渾身の一撃を俺の顔面に叩きつけた。鈍い音がして、鼻に痛みが走った。血は出なかったらしいが、そんなことはどうでもいい。俺の顔を殴りやがって……。鼻の形が変わったらどうする気だ。

「みんな!見たか、こいつが先に殴ったんだ!もう何しても文句は言わせねえからよォ!」

 凄みを利かせ、唾をやつの顔面に吐き捨てた。やつは目を真っ赤に充血させながら震えていたが、いきなり大声を出した。

また殴りかかってきたが、今度は右手でそれを制した。

「いい加減うぜぇんだよ。歳上だからって、手加減してやってんのがわからねえのか」

 笑いながら、掴んだ腕を相手の背中に捻じりあげ、体制を崩していく。既に俺の頭からは周囲の人だかりのことは消え失せていた。今はただ、対象をどういたぶるかを考えることが、どうしようもなく面白かった。

 苦痛に呻きながら、相手の右腕はあり得ない方へと捻じれていく。

この顔を殴られたんだから、もう何をやってもいいだろう――

 俺は倒れた相手の背中に馬乗りになった。それから相手の左腕も右腕とひとまとめにし、空いている左手で相手の頭を床に押さえつけた。

 やつは体を回し、俺を振り下ろそうとした。俺は勢いよくやつから飛び退くと、立ち上がりかけたやつの口につま先から強烈な蹴りを入れた。それから何度も何度も顔を蹴った。

 周りから甲高い悲鳴が聞こえた時にはっとした。目の前には自分が蹴った男が、口から大量の血を流してうずくまっていた。口の中を深く切ったのだろう。廊下のその場所には血だまりができていて、よく見ればその中に歯のようなものが見えた。

「やりすぎだ!」誰かが叫んだ。

「なんで喧嘩になった」「あいつ、あんなことするやつだったんだ」「ひでえ」「怖い」

 そんな声が頭の中に流れ込んでくる。時計の秒針が時を刻むごとに、俺の胸の中で罪悪感はどんどんと膨らんでいく。それどころか、今まで築き上げた信頼が一瞬にして失われていくこの時に、この上ない恐怖を感じた。

 だが、後戻りなどできなかった。

「見てんじゃねえぞ!」

 最初に目に入った一番近くにいたやつを突き飛ばした。それから取り押さえられるまで、同じようなことを何度も繰り返した。男も女も関係なかった。

既に俺に理性はなかった。

 

 

 

  19

三木武志〉

 

 すぐに俺の噂は学校中へ広まった。さらに今までしてきたことも完全に公になった。自分がそうしてきたのだから仕方ないといえばそれまでなのだが、やはり、本当にそうなったのは恐ろしかった。

 あの三年を蹴り飛ばしてから数時間が経過した。あいつは救急車で病院まで運ばれ、俺は職員室の横にある「面談室」という地味な部屋で、担任や学年主任、更には副校長、校長といったメンツを揃えて、根掘り葉掘り話を聞かれた。はっきり言って苦痛でしかなかった。さきほどのことで、さすがの俺でも精神的にまいってはいたが、実質反省はしなかった。そうだ、俺は何も悪くない。先に殴ってきたのはあいつなんだから。もし女関係のもつれの話を持ち出されたとしても、そんなことは俺の知ったこっちゃない。俺はすり寄ってきた女を抱いたまでのことだ。そんなの男なら誰でも至って当然のことだ。

 俺はうつむいたまま、反省しているふりを突き通した。いちいち跳ね返っていては埒が明かない。素直に何度か謝っていると、そのうち解放された。

 確かに反省はしなかったが、後悔はしていた。それは胸をきつく縛りつけ身動きを取れなくする。授業中の廊下を一人で歩きながら、俺はこの後どうするかを考えていた。一連のことを見られたからには教室に戻るのはあり得ない。

ちょうどカバンも廊下にそのままになっていた。俺はそれを拾い上げると、教室へは行かず、人目につかず、一人になれる場所を考えた。

 行き場をなくした俺が行くべき場所は一つしかなかった。

 

 傘もささず、一人、誰もいない屋上に立った。足元は滑るが既に霧雨になっていた。全身に吹き付ける風が冷たかった。ミストのような雨を受けながら、俺はただ虚空を見つめていた。

 もう一度全身でこの雨を感じた。シャツから冷たい雨が染み込んできていたが気にならなかった。

 深く、深く目を閉じた。

 それから桜田のことを考えた。今日はさすがにここにはいないようだったが、むしろその方が良かった。どうしても一人になりたかったんだ……

 俺のことを桜田が知れば、きっと裏切られたと思うだろう。そしてまた、彼女は傷つくかもしれない。俺は本当にどうしようもないやつだ。力や自分の持つものにものをいわせて、平気で人を傷つける。そして同時に俺も傷つく。いや、そう決めつけるのは単なる逃げでしかないか。やっぱり俺は弱い人間だ。結局自分のことしか考えていない。だから俺は一人なんだ。

 笑おうとしたが、どうしてもできなかった。誰のために笑うんだ。自分のことだ。笑って誤魔化せないのは分かっている。これからは、全てのことを諦めなくちゃならないのかもしれない。今までみたいに傲慢に振る舞うことはできなくなるだろう。大人しく高校生活をやり過ごすことが順当か。心を入れ替えて、誠実な人間になろうか。いや、それは無理だ。この前にもそう決めたのに既にこのザマだ。だったら逆に思いきり遊び倒してやろうか。開き直って女を食い物にして、もっともっと悪くなれば、それはそれで楽しいかもな。

 だが俺はすぐにその考えを打ち消した。そんなことをしても何にもならないことは分かっている。自分を甘やかして現実逃避するだけだ。このままじゃだめだ。俺はどうしたら……

延々と考えを巡らせていたが、時が経つのは早いもので、気づけば昼休みを告げるチャイムが鳴った。同時にポケットの中でケータイが音を立てた。

 見るとユリエだった。

 あれから全く言葉を交わしていない。出るかどうか躊躇ったが、これで決まると思った。ユリエに見捨てられれば、俺の理解者は本当に誰もいなくなる。身を起こし、震える手で通話ボタンを押した。

「もしもし」

 まず少しの沈黙があった。いつものユリエのことを考えるとまずあり得ないことだ。

「もしもし。あたし」声に張りがなかった。

「ああ……

「今どこにいるの。先生とか、みんな探してるよ」

 答えるべきか迷った。だがユリエが他言しないことは昔からよく知っていた。

「屋上」

……やっぱり。待ってて、今行くから。直接話そう」

 返事をしようとしたとき、視界の端に人影が現れた。恐る恐るそちらを見ると、柵の向こう側に桜田が傘もささず棒のように立っていた。それを見た途端呼吸が止まった。俺の手からケータイがするりと滑り落ちたが、それにも気づかなかった。俺は操られたように一歩ずつ、慎重に桜田の方へ進んでいった。

 肩を落として俯く彼女を前にすると、どうしても距離が必要でそれ以上は進めなかった。

桜田が何も言わないので、しばらくして、やっと俺から口を開いた。

「ごめん……」情けなく、掠れた声が出た。桜田は俯いたままだ。

 俺は何も言えなかった。ただ苦しい沈黙が続く。

「俺は裏切り者だよな……

また絞り出すように、それだけ言った。桜田はまだ黙っていたが、じわじわと顔を上げ、俺の目を見つめた。その目は濡れていて、悲しそうだった。

「信じてたのに……

 否定することも、肯定することもできない。俺は彼女の言葉を受け止めることしかできなかった。

 雨は土砂降りに変わった。桜田の頬に大粒の雨がかかる。

「もう、顔も見たくないよ……

 彼女の美しい大きな瞳から、一粒の水滴が頬を伝い落ちた。それは間違いなく雨ではなかった。顔を歪めるが、必死にそれ以上泣いてしまうわないよう耐えていた。俺はいよいよ何も言えなくなり、ただただその場に立ち尽くしていた。雨は一層激しさを増し、俺と桜田の髪や服をずぶ濡れにしていく。そのうち桜田は背を向け、俺の視界からいなくなった。

 一歩ずつ遠ざかる足音を聞くたびに、俺の心は強烈な虚無感に蝕まれた。倒れるように数歩進み、錆びかけた柵にしがみついた。それからぼろぼろと泣いた。信じられないような量の涙が流れ、嗚咽の声が低く響く。

世界が止まったと思った。時間が壊れてしまったとも思った。悲しそうな顔をされるぐらいなら、きつい言葉で罵られた方がよほどましだった。俺自身、桜田に言われた言葉がどうしようもなく苦しかったが、それ以上に桜田を裏切ってしまったということの方が、惨めで情けなく、憤ろしかった。

足元の水溜りの中に俺の涙が溶けていった。目を閉じれば、桜田と出会った時のことや、会いに行った時のことの鮮烈なイメージが浮かび上がる。優しい目、美しい髪、薄い唇、華奢な肩、澄んだ声、笑った顔、泣いた顔、困った顔……。俺はあなたが好きでした。心の底から好きでした。今になってようやくそれがわかったよ。でも俺は、最期に君を裏切った。

寒さと涙で俺の体は震えていた。何分そうしていたのかもわからない。時間の感覚は全くなかった。

 そっと、俺の肩に誰かの手が触れた。

見上げるまでもなくそれはユリエだとわかった。

「武志……

 俺は下を向いたまま涙を拭いた。

「俺は馬鹿だ……。全部俺が蒔いた種なんだ……

 ユリエは柵越しに俺の肩に触れたまま、静かにしゃがみ込んだ。ユリエの吐息が俺の耳を優しく撫でる。

「あんたのせいじゃないよ。気にしなくていい」

 違う、違う。ユリエは俺に優しくしてくれる。でも今は、その優しさが俺をどうしようもなく苦しめるんだ。

「だから、もうやめよう。昔のあんたみたいに、もっとまっすぐに」

 それからユリエは、少し躊躇いがちに言い出した。

……実は、あたし、ずっとあんたのことが好きだった。小学校の時から、ずーっとあんたのことが好きだった……。それから今も。だからあんたがどんなことをしても、全然嫌じゃなかった。でもね、最近苦しそうにしてるあんたを見てると、あたしもどうしようもなく苦しかった……。ねえ、せめてあたしにはもっと素のあんたを見せてよ」

 ユリエが微笑んだのがわかった。だが俺は、どうしてだろう。ユリエを見つめ返して笑うことができなかった。

……ふざけるな」

 俺はユリエを睨み返した。残忍な目だっただろう。ユリエは驚いたのか、動揺して目が震えている。今気づいたのは、その目が涙で濡れていたということ。でも俺は、自分の中から湧き上がる感情を言葉にせずにはいられなかった。

「俺の中身はこんなにも醜く、爛れているんだ。俺がこの中身ごと好かれるわけがないだろう。お前も所詮は俺の外見しか見ていなかったみたいだな。だったら、もう、消えてくれ」

「武志、あたしはあんたの中身ごと好きだよ。小学生の時から一緒で今さら何言ってんの!」

 ユリエの言葉は俺の真っ黒い感情の中に沈んだ。俺は噛みつかんばかりの勢いでユリエを威嚇した。

「馬鹿にするな!……信じてたのに、お前も他の女と同じじゃないか」

 とうとうユリエは泣き出した。

「もういい!」

 そう言い残し、走って非常階段を下りて行った。

 

 

 

  20

柳川邦彦〉

 

 京都府警刑事課の窓の外は六月の冷たい雨が降っていた。

柳川と乾は、本部長から新しい班員との顔合わせのために、九時に会議室に来るように言われていた。それまでの間、二人は暗い顔でブラックコーヒーを啜っていた。松平が殉職したことに加え、二階堂が所轄送りになり、特に柳川はげっそりしていた。

「不味いコーヒーやのう」柳川は顔をしかめ、新発売の缶コーヒーをデスクに置いた。その様子を見るともなく見ていた乾だったが、つまらなさそうに視線を逸らした。

「次はどんな人でしょうね」

柳川の眉が苛立たしげに寄せられた。「さあな。乾、お前、二階堂のことほんまやと思うか」

 乾は興味ないといった風に肩をすくめてみせた。「どうでしょう。でも上が下したことなんですから、そうだったんじゃないですかね」

「冷めとるなあ……。おっと、ええ時間やな」

 柳川はよっこいしょ、と大儀そうに立ち上がると、「松平班も終いや」と肩を落とした。

 

 広々とした会議室の奥に本部長と女が一人立っていた。柳川と乾は敬礼し、二人のもとに近づいた。

――なんで茶汲みの女なんかがここにおるんや――

 訝しげに思った二人だったが、すぐにその理由が明らかとなった。

「彼女が第一係に新しく配属となった、烏丸涼子警部だ」

 冗談やろ、そう言いかけた柳川は慌てて言葉を飲み、代わりに乾と視線を交換した。後輩の顔も自分と同じように困惑の色が浮かんでいる。

 目の前にいる女は、刑事にはあるまじき、タイトスカートにヒールという出で立ちだった。それに真っ赤な口の紅。おそらく三十代ほどで、美人には間違いないのだが、どうも気の強そうな女だ。それ以上に柳川にとって気に入らなかったのは、このまだ若い女が、自分よりも階級が一つ上だということだった。

 烏丸は「お願いします」と頭を下げた。見た目の割に落ち着いた感じだ。その年齢で(しかも女でありながら)警部の座にいるというのは相当なキャリアということの表れだった。普通、ノンキャリの場合、定年まで働き詰めて警部になれるかなれないか。そういうレベルだ。

――そういや、あいつも警部やったな――

 柳川は左遷された同輩、二階堂のことを思い出した。京大卒のキャリア組の二階堂は、努力型の準キャリアの柳川とは給料も違った。ちなみに柳川の横にいる乾も名古屋大学卒のキャリアだ。いずれ抜かされるかもしれない。

「柳川邦彦警部補です」

「同じく、乾卓警部補です」

 再び敬礼した二人に烏丸は作り笑いを浮かべた。それを見た柳川はすぐに、いけ好かない女だと確信した。

本部長は烏丸の紹介を始めた。「彼女は警視庁から特別にこちらに配属された。若いが実力は間違いない。第一係の主任を任せるが、まだここの勝手がわからないかもしれない。そこはよろしく頼むよ」

――この女が主任やと?階級はそうやとしても、マル暴の経験が格段に違うやろう――

 そう思ったが、柳川は顔に出すようなへまはしなかった。やはり刑事はどんな状況であれ心中を顔に出してはいけないものなのだ。

「はい。ところであと一人は」

「今回は特例でこの三人で第一係を任せることになった。適任の人材がいなかったものでな」

 若干気にはなったが、あえて別の話を振った。

「本部長、ところで二階堂が異動になったことについて、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

 本部長の太い眉がぴくりと動いた。「なんだね」

「二階堂が異動になった理由は知っていますが、それには何か根拠となるものがあったんですか。私は到底彼が情報を売るようなやつだったとは思えないんです。それに、もし仮にそうだったのならば、松平警部が殉職した以上、彼は懲戒処分にされて然るべきではないのでしょうか」

 本部長は間を空けて言った。「この件に関しては上の決定だ」

 その答えは意外だった。府警全体を取り仕切る本部長より上となると、警視庁の人間しかいないことになる。最後に判を押すとしても、府警の一警察官の異動の全てを警視庁の人間が決めたなどという話は聞いたことがない。烏丸がここへ来たことと、何か関係があるのだろうか。

「用は済んだから、もう行きなさい」

 柳川は敬礼すると、二人とともにデスクがある階へと向かった。

 

       

乾卓〉

 昼休憩、乾は昼食を買いに近くのコンビニへ行った。その帰り、玄関の入り口に烏丸がいるのを見つけた。烏丸は雨に濡れないよう屋根の下に立っている。乾は隣に行き傘を閉じた。

「ひどい雨ですよね……。傘、使いますか」

 烏丸は笑いながら首を振った。その時に香水の匂いが辺りに漂った。人口的な甘い香りだが、嫌味ではない。

「君を待ってたのよ。ねえ、前に警視庁にいたそうじゃない」

「ええ」

 乾は躊躇いがちにうなずいた。この烏丸という女も警視庁からだ。父親絡みのことだろうか。何か嫌な予感がする。

「私この前まであなたのお父さんの元でずっと働いてたのよ」

――公安部か。父の部下だとするといよいよ匂う――

 乾は少し身構えた。

「そうなんですか。ならどうしてここに配属になったんですか」

 烏丸は何が楽しいのか含み笑いを浮かべた。笑顔の時はまだいいが、真顔になると急に怖くなる女だ。美人には違いないが、鋭いというか冷たいというか、どうも近寄り難い雰囲気がある。

「地元がこっちなのよ。母がもう歳だからってことで、ここへ転勤させてもらったの」

――なるほど。ならば父の回し者ではないらしい。が、本当の理由とは思えない――

「そうそう。ここへ来たのはもう一つ理由がある。どちらかというと、そっちがメインね」

 烏丸の口角が引き攣るように歪み、乾は身を固くした。

「公安部で秘密裏に追っている案件があってね。私はその調査のためにここへ来たの。お父さんから何か聞いてない?」

 確かに乾には心当たりがあった。先日父から電話があった。内容は、八年前の暴力団員連続殺人事件に関する資料を請求するものだった。未だに犯人は逃亡中で、時効はあと少しだったはずだ。それにしても警視庁の公安部が動いているとすればそれは大ごとだ。再捜査を始めるという情報は届いていない。そのくせ資料を欲しがるということは、何かの目的で、水面下で捜査を進めているいうことなのだろうか。

「八年前の事件のことですか」

「ええ。あと少しで時効の案件。今は管轄の所轄署の刑事が担当してるそうね。まあ、たった二人だけだけど……。私は上層部と現場とのパイプ役にここへ来たわけ。あなたも自分のお父さんが不利な状況になるようなことは他言しないでしょう。それに、私たちは元警視庁の好だしね」

 何かまずいことになりそうだ。すぐにそう思ったが、乾は平静を装った。

「では柳川さんには言わない方がいいですね」

「お願いするわ」

「その所轄署とはもう繋がっているんですか」

「ええ。署長と刑事課長に極秘でお願いしてあるから、情報が入り次第報告が入る。少しでも動きがあれば、警視庁から応援が来るわ。乾くん、この件についてはくれぐれも内密に」

「わかってますよ。でも何故そんな機密事項を僕なんかに」

 烏丸は目を細め明後日の方向を見た。

「そうね。手元に情報を共有できる人間を置いておきたかったからかしら」

――そしてそれが自分の上司である警視官の息子なら裏切るリスクがないからか。抜け目のない女だ。結局俺を上手く利用したいんだろう?だったら俺も、この女を踏み台に警視庁へ返り咲いて見せる――

 腹の中でほくそ笑んだが、内心を悟られないように何食わぬ顔を保つ。

「なんというか、さすがですね。そうだ、この弁当冷めちゃもったいないんで、そろそろ戻りますね」

「ええ」

乾は烏丸を残してそそくさと自動ドアを通り抜けた。残った烏丸はケータイを取り出すと短縮ボタンで電話をかけた。

「もしもし、烏丸です。警視官――

 烏丸の真っ赤な唇が、忍び笑いに歪んだ。

 

 

 

  21

松原正

 

 捜査が本格的に始まってから数日が経った。事件現場には何度か足を運んだが、やはり八年も前の事件だけに、手掛かりとなるものは全く掴めなかった。まだほんの数日たっただけだというのに、情報のあまりの少なさに僕はうんざりしていた。それでも二階堂は「再捜査なんてこんなもんだ」と冷静を保っている。彼の言葉を借りると、再捜査は初動捜査の後にするもんだから、ネタなんか出きっている。一回特捜が踏み込んだところを俺たちだけで捜査しても、そうそう手掛かりなんか出やしない、のだ。確かにそうかもしれない。僕にとって、捜査と言える捜査は今回が初めてだが、それが再捜査となると尚厄介だろう。せめて二階堂の足手まといにならないように頑張らないと。

 本日の勤務が終わり、僕は二階堂に呼ばれ、居酒屋兼焼き鳥屋、明石家に来ていた。二階堂が僕を誘ったのは、僕の気疲れに気づいてくれたからかもしれない。店内は狭く、照明はかなり絞ってあり、ゆっくりとするにはちょうどいい空間だった。カウンター席の一番端に陣取り、生を片手に焼き鳥を頬張る。既にほろ酔い加減の二階堂は若手だったころの話を楽しそうに語った。

……それがマル暴になって最初の仕事よ。昔はちょいちょい事務所に顔を出すのもマル暴の仕事だったんだぜ。信じられるか」

 事務所とは暴力団事務所のことだ。「いえ」と僕は顔の前で手を振った。

「組長に顔を覚えてもらって、いい関係を築いておけば、裏の情報を売ってくれるってんだから、非合法もいいところだ」

「今でもそういう捜査はするんですか」

 二階堂はビールを啜りながら笑った。「まあまずねえなあ。でも俺は裏に何人か知り合いがいるから、そういった人間に捜査を手伝ってもらうこともある。あ、秘密だぞ」

 僕も笑いながらうなずく。

「お前も本気でマル暴に足突っ込むなら、ぼちぼちそういうことを覚えといた方がいいかもな。多かれ少なかれ、マル暴はそういった捜査が必要になってくっから」そう言うと二階堂は何か思い出した表情になり、顎を掻きはじめた。「……そうだな、今回はまだそれを使ってなかったな」

 まさか今回の事件でもその非合法の捜査をしようというのか。僕は少し身を硬くした。

「犯人は十中八九カミサカの人間だろう。だったら、そりゃあカミサカの人間に聞くのが一番手っ取り早いわけだ」

「八年前はそういった捜査はしなかったんですか」

 険しい表情の僕を見て、二階堂は苦笑いを浮かべた。「いくら俺でもあのカミサカに知り合いはいねえもん。近づいたら殺されちまうぜ。おー、くわばらくわばら」

 そう言うわりには楽しそうだ。ではその捜査をどう取り入れようというのだ。二階堂がネギマに手を付け始め、僕もビールに手を伸ばした。

「五年くらい前に他の事件の捜査途中に、ある男にコネができてよ。カミサカの組員じゃねえんだが、違法入国者だから軽く脅せば、何かあれば吐くかもしれねえ」

 なるほど、これが二階堂の捜査方法か。だんだんとわかってきたぞ。その男をあえて逮捕せずに泳がせることで裏とのパイプ役に使っているわけか。確かに発覚すれば減給どころか、下手すれば懲戒免職ものだが、そこはさすがにマル暴の一流だ。今までも秘密裏にやってきたのだろう。

「なら明日にでもその男のところへ行きましょう」

 二階堂は苦笑いを浮かべ顔の前で手を振った。「強引な捜査だぜ?それよりも先に、ムショにいる元組員の人たちに聞いてみようじゃねえか。意外と見落としがちだが、そういうところから情報が拾えたりするもんだ」

「ではその違法入国者の方は」

 二階堂は食べ終えた串を咥えながら意味深な笑みを浮かべた。「最後の砦だ。俺だって危ねえ橋は渡りたくねえからよ。お前だってそうだろ?」

「ええ、そりゃあ」

 二階堂は怪しい笑みを浮かべていたが、すぐに視線を手元のメニュー表へ移した。

「お姉ちゃん、モモとネギマ。それから生!」

「あ、僕も同じやつを」

「はーい」

 二階堂はニヤリとした。「あ?顔赤いぞ。おまっ、生っつってもあっちの方じゃねえからな」

 また下ネタか。アルコールが入っていれば顔が赤くなるのは当然じゃないか。

「二階堂さん、ところで」ふと思い出し、前々から気になっていた異動の理由を聞こうとした。同じ班の人が殉職したとはいえ、それで二階堂が所轄送りになったことに直結するとは思えなかったのだ。

「あ、いえ……

 聞こうとは思ったが、自ら詳しく話さなかったということは、人に喋りたくないということなのだろう。僕にだってそういうことはある。例のコンビニ強盗の件も含めて。

 二階堂は怪訝そうに僕を眺めていたが、手元のジョッキに目をやった。「そういやよ、俺が若手だったころ、先輩刑事によく言われたんだ」

「何をです」

「罪を憎んで人を憎まず、ってな。深いんだが浅いんだが知らねえが、俺は未だにそれを実行できてねえ気がする。どうだ、お前はこの言葉の意味がわかるか」

 僕は曖昧に首を傾げた。「でもそれって難しいですよね」

「ああ。俺だって時々殺してやりたくなるほど犯人が憎くなるときがある……

 さきほど注文した料理が運ばれてくると、二階堂はいったん言葉を切り、一呼吸おいてからまた話し始めた。

「危険な考えかもしれんがな、今回の犯人だって、見つけたらすぐにぶっ殺しちまいてえよ。マル害は全員ヤクザもんだが、同じ人間だ。人間が人間を殺すなんて馬鹿げてる。自分の命をどうするかなんてのは、そんなもん個人の勝手だが、他人の命に干渉するなんてこたあ、あってはならんことだろう」

 料理には見向きもせずタバコを味わっていたが、すぐに灰皿でもみ消した。その手元を見つめる彼の表情はどこか寂しげで、何か思いつめている人間のように見えた。

「どうして刑事になったんですか」自分でも何故そんなことを聞いたのかはわからなかった。酒のせいだろうか。

二階堂は声を落とした。「暗い話だぞ」

「はい」

「八つも歳の離れた姉がいた。当時姉貴には婚約者がいて、あと数日で挙式って時に、交通事故で死んだんだ。俺が高校生の時だ。ひき逃げだったんだが、飲酒運転でな。すぐに車を降りて救急車を呼べば助かったかもしれねえのに、そいつは飲酒がばれるのが怖くて逃げたんだ。俺はどうしてもそれが許せなくて復讐を考えたんだが、死んだ姉貴の顔を見てると、どうもそんな気は失せちまった。殺されたってえのに、穏やかで、優しい死に顔だったからよ……

「だから警察官になったんですか」

 二階堂は無言でうなずいた。鼻の頭がほんのりと赤くなっている。

「俺がそういうやつらを捕まえにゃならんと思ったわけだ。青くせえ考えだが、それからめちゃくちゃに勉強した。それで今こうしているわけだ。だから、俺は犯罪者が許せねえ」

 僕は何も言えず、目の前の料理をじっと見ていた。

「しけた空気になっちまったな」

「いえ、とんでもないです」

「お前はどうだ」二階堂は僕を見て少し笑った。こんな話の後に僕の動機を言っていいものだろうかと迷ったが、場の空気に負けてしまった。

「大した理由じゃないですよ。ただ公務員で給料もいいからっていうだけです」

 二階堂はジョッキを握った。「でも命懸ける仕事だぜ」

「ええ……

「でもま、それはそれでいいのかもな」

 それから僕らは料理を食べ始めた。終電の時間まで、僕たちはずっとその席を離れなかった。

 

 

 

  22

三木武志〉

 

 死にてえ――

 そう思ったのは、あの雨の日から数日後のことだった。

 俺は右手にビールの缶をだらしなく下げ、いつかのように鴨川の畔で風を受けていた。

 あれから学校へは行っていない。休みの連絡すら入れなかった。さすがに怪しまれるだろうと思ったが、今さらどうでもよかった。人間関係や他人の目なんかどうだっていい。既に自分のことは諦めている。だから悔しさや惨めさはもう感じなくなっていた。

 長い間、狭い部屋の中に閉じこもっていたが、気づけばまたここへ来ていた。揺れる水面をぼんやりと眺めながら、四本目のビールを口に含む。もう味は感じなかったが、とにかくもっと酔いたかった。酔って忘れらるほどのことではないことは重々承知していたが、そうするしかなかった。

いつ死のうか――

 またそんな考えが頭を過った。生きる目的もなく、恨まれ続けながら生きることは苦痛でしかない。死んでリセットできるとは思えなかったが、少なくとももうそれしか道はないとも思っている。俺が死ぬことで喜ぶ人間はいくらでも思いつくが、死んで悲しむ人間は誰一人として思い浮かばない。親でさえも、あの一件から俺に口をきいてくれなくなった。

 時刻は最後にここを訪れた時と大差はないが、あの時とは違い、川に反射する太陽の輝きはなく、連日の雨のせいで濁流となった水が勢いよく流れていく。おまけにぽつりぽつりと雨が降り出した。

 飲み干した最後の缶を川へ投げ捨てた。黄土色の水に揉まれながら浮き沈みを繰り返して、流れていく。

あれが見えなくなったら死のう――

 コンビニのビニール袋から剥き出しのナイフを取り出した。ビールと一緒に家から持ってきた。当てつけに黒金景光で自殺することも考えたが、なんだか爺さんに申し訳なくなってやめた。

 ナイフは薄く、鋭く、鈍い光を帯びていた。刃渡りは10センチといったところか。死ぬには申し分ない長さだ。これが肉を引き裂き、太い血管を断裂し、臓器を抉っていくのか。やはり、心臓か。酒のおかげで少しは痛みが緩和されるだろう。だが、河原で自殺とは、なんとも無様な最期だ。

 川下を見ると既にさきほどの缶は見えなかった。

ようし。

絵を両手で掴み、刃先を胸へ向けた。きっと、痛いのは一瞬だろう。つまらない人生だった。本当に、つまらない人

生だった……

 深く目を閉じ、柄を握りなおした。

背後で「おい」という女の声がしたのは、まさにその時だった。

 振り向くと、後ろの狭い道に見たことのある顔があった。ユリエでも桜田でもない。あの女だ。ついこの間、俺がやって捨てた女。上の名前が「石井」ということは覚えていたが、下の名前までは覚えていない。

 俺は咄嗟にナイフを背中に隠した。

「ゴウキくん、退学になった」

 あの丸刈りのことか。到底同情はできなかったが、あいつも被害者だったのだとわかった。

「あいつの女って、お前のことか」

今になってこの女と交わった夜のことを思い出す。案外汚い体だったというぐらいの印象しかなかった。こここへ来てまでそんなことを思い出す自分が嫌になる。

 石井は何も答えない。代わりに目を赤くして俺を鋭く睨んでくる。その目には確かに憎悪があり、怒りがあり、侮蔑があった。

その目を見ていると、自分の中で、何か大きな苛立ちの感情がむくむくと膨れ上がるのを覚えた。

 何故俺が死ななければならない。俺がこの女を貪っていた時、こいつは腹の中で嗤っていたんだ。そうだ、元の発端はこの女にある。この女が俺を誘惑しなければ、あの三年は俺を殴りに来なかった。俺も立場を失わずに済んだ。桜田を失ったのも、元はと言えば全部こいつのせいなんだ。それなのに被害者面しやがって。どこまで調子のいい女なんだ。

 気づけば背中に隠したナイフの柄を強く握っていた。立ち上がり、ゆっくりと間合いを詰める。

「お前こそ、全部計算ずくだったんだろ?」

 雨は風と共に強さを増していく。

 お前は悲劇のヒロインか?悪いのは全部俺か?俺が死んでも、お前は何食わぬ顔で平然と暮らしていくのだろう。だったら、俺に死ぬ理由なんか、これっぽっちもないじゃないか。俺を苦しませ続けてきたものの正体である、この女に一矢報いなければ死んでも死にきれない。このナイフで、その顔をずたずたに引き裂いて、てめえの汚い血で汚してやる。

一歩ずつ慎重に石井に詰め寄る。三メートル、二メートル……。やつはゆっくりと後ずさるが、既にもう斬りつけたら届く範囲だ。

「なに?誤解してる……

「誤解だ?ふざけるな!」

「あたしが悪かったって言いたいの?意味わかんない!全部あんたのせいでしょ!」

 いい加減にしろ。さもないと――

 雨は土砂降りに変わった。全身の体温が奪われ、視界が悪くなる。

 だが俺はそれを振り切るように石井を睨みつけた。この女は全く反省していない。それどころか、これっぽっちも自分に非があると思っていない。

「あんた女癖悪すぎ。マジキモい。あたしは何も悪くないよ。全部あんたのせいだから!」

 唾を飛ばしながら、よくこれほどまでぬけぬけとものを言う。それもこの俺に、この俺に――

 俺にナイフを向けられた石井の顔が恐怖に歪んだ。その顔を見ているとなんだか全てのことがどうでもよくなった。もう俺の人生は修復不可能だ。俺以上にこの女に生きる価値はない。ここで始末してやる。

「嫌ァ!」

 石井は逃げようと背を向けたが、俺はすかさずその肩を掴んだ。無理やりこちらを向かせ、ナイフを腹に突き刺そうとしたとき、石井は涙を流しながら、大声で謝罪の言葉を喚き散らし始めた。「ごめん!ごめんなさい!だから殺さないで!」

 ここで俺の動きは完全に止まった。この女が最後まで悪女なら、俺は迷いなくその腹を引き裂いただろう。だがここで動きを止めたことが命とりだった。

 石井が俺の腹に体当たりすると、俺は体勢を崩し、石段を転げ落ちた。石井はその時に落としたナイフを拾い上げると、走ってきて、そのまま何の躊躇いもなく振り上げた。

「やめろッ!」

 咄嗟に身を引いたが、胸を刃先で斬られた。鋭い痛みが走り、石井が泥濘に足を取られてよろめく。今しかない。

 俺は夢中で石井に飛びかかっていた。

 石井を仰向けに押し倒して馬乗りになり、ナイフを握る右の腕を強く捻じり、ナイフを落とした。それから悲鳴を上げた石井の首を強く掴んで声を出せないようにした。両手両足を使って必死に抵抗してくるが、到底俺の力には敵わない。俺は全体重を一点に乗せ、一人の女が自分の手の中で死にゆく感触を味わうことにした。やつの顔は真っ赤になり、目を白黒させながら魚のように大きく口を開閉する。最期まで間抜けな様だ。

気道は完全に塞がった。あと少しで、この女は死ぬ。

 突然、何の前触れもなく俺の視界が真っ暗になった。

なんだこれは――。手か?異常な大きさの手に背後から目を隠された。

それから俺は凄まじい力で石井から引き離され、素早く何者かの両手で側頭部を押さえつけられた。それから異常な高さまで持ち上げられていく。足が地面から離れると同時に首に強烈な痛みを感じた。この状況が全く分からない。相手が本当に人間なのかも定かでない。俺は必死で相手の手を掴んで体重を分散させようとしたが、ほぼ無意味だった。

――痛い。首が……抜ける――

悲鳴すらも出なかった。あまりの激痛に意識が飛んだ。最後に見たのは、泥と血で汚れ、ぴくりとも動かない石井の体だった。

 

       

 

 暗闇の中で意識が戻った。真っ暗で何も見えない。どうやら目に何かをきつく巻きつけてあるらしい。体は全く動かない。背中に冷たいものを感じる。コンクリートかそれに近いものに寝かされているらしい。

「原田さん、この女、やっちゃっていいすか」

 隣で声がした。確信はないが、どうやら石井も俺の横で寝かされているらしい。声の反響からして狭い室内のようだ。

「待てや。あとでたっぷり楽しませたるさかい。最初は俺じゃ」

 柄の悪い声だ。続いて乾いた笑い声が重なる。この狭い空間にかなりの多人数がいるらしい。

 まさか、神坂組か――

「ガチのJKて、かなりレアやぞ。しかもほれ、割と顔もええし、なによりええオッパイしとるわ。コラァ、たっぷり楽しんだっからなあ」

 凄むような最後の言葉は石井に向けて言ったらしい。石井の反応はない。状況から考えて死んではいないようだが、少なくとも意識はないらしい。俺は息を潜めていたが、いつまでこうしていればいいのかわからない。石井は女だから犯される。なら俺は?俺は殺されるのか――

 全身に寒気が走り、体が小さく震えだしたが、一心にそれを止めようとした。今ここで意識があると教えるわけにはいかない。好機を見計らって逃げなければ。

「念のためにビデオ回しとけ。わかっとると思うが俺の顔は映すなよ。まあどのみちこの女はシャブ漬けにして売り飛ばすがな。一本……行けば上等かのぅ」

 すぐ近くでズボンのファスナーが下りる音がした。それから服の擦れる音。男の荒い息遣いまでもが耳に入ってくる。

 その時、誰かの手が俺の足に触れた。

「あっ……」恐怖のあまり、俺は声を上げてしまった。

「うわっ、びっくりさせんな。原田さん、こいつ生きてますよ」

 服の擦れる音がやんだ。それからゆっくりとこちらに近づいてくる足音。立ちどまり、俺を見下ろしているらしい。その間の沈黙が恐ろしかった。

「どうします?腹裂いて海にでも捨てますか」

 乱暴な舌打ち。「ドアホッ!こいつはカイの獲物じゃ。クスリで眠らしとけ」

 カイ……獲物……俺は殺されるのか――

 原田と呼ばれた男は、俺の体を靴の裏で転がそうとしていたが、飽きたのか、顔の前にしゃがみ込んだ。

「おい。今からお前が殺そうとしとった、このねーちゃんで、たーっぷり楽しませてもらうさかいな。考えられるありとあらゆるゲスいプレイで死ぬ寸前まで犯しまくったる。どうせ殺されてた身や。のぅ、この人殺しがッ!」

 耳元で怒鳴ると、立ち上がり、俺の耳を乱暴に踏みつけた。耳がちぎれんばかりのの激痛と、恐怖と屈辱で、俺は声を噛み殺しながら震えていた。

 すぐして右腕に針が刺さる痛みがあり、すぐに呼吸が苦しくなった。意識を失うまでそう時間はかからなかった。

 

 

 

  23

松原正

 

 石丸邦夫。強姦と傷害で懲役五年、執行猶予二年。組での立ち位置は一番下の、いわゆる若衆だ。留置場で最初に聴取したのがこの男だ。背の低い、猿のような男だった。年齢は四十五歳。ちょうど二階堂と同じだ。事件当時は三十八ということになる。それで若衆なのだから、使えない男だったのだろう。

「もう一度聞く。八年前の夏の前後で、組に身長二メートルぐらいのやつはいなかったか」

二階堂は石丸に詰め寄った。といっても面会室はガラスで仕切られているため、二階堂がガラスに顔を寄せた、という方がしっくりくる。僕は二階堂の横に立ちメモを取る。

「知らねえ!何度も言わすな」

 二階堂は苛立たしげに石丸を睨みつけ、その顔のまま壁の時計に目をやった。既に聴取を始めてから十五分近く経過している。石丸の横に立つ看守は眠たそうにあくびを噛み殺している。

「事件に関することならどんな些細なことでも構わねえ……。石丸!どうせ出所しても服役したってタグが付いてりゃ、煙たがられて神坂組にも戻れねえだろうし……どうだ。ここらで俺に恩を売っときゃ、出所した時にいい仕事紹介してやるぞ」

 もちろんウソだ。案の定というべきか、石丸は好色を示さなかった。

「知らねえもんは知らねえっつってんだろうが!」

「じゃあ高杉会の組員が五人殺されたってのは知ってるか」

 石丸はやや投げやりな感じでうなずいた。「ああ。あたりめえだ」

「殺したのは神坂組の人間か」

「知らねえ……

そのとき石丸は何かを思い出したような顔になった。「結局あの抗争は何が発端だったんかなあ……

 僕と二階堂は顔を見合わせた。発端はみかじめにする店の取り合いによるものだったはず。もし違うとすれば、抗争の意味は大きく変わる。

「みかじめの取り合いじゃなかったのか」二階堂の荒い口ぶりに石丸は逃げ腰になった。

「なに?てぇか、そんな情報どっから拾ってきたんだよ」

 まずい。抗争の原因が間違いならば、捜査自体がずれた路線を行っていた可能性も危惧される。

「二階堂さん、それ、どこの情報ですか」

 二階堂は唸った。「査会議ん時に他の班の誰かが言ってた気がするが……

 石丸は薄い笑みを浮かべた。「警察って案外馬鹿らしいな。アンタ、そんな情報信じたん?みかじめの取り合いなんかで相手の組員を五人も殺すなんてあるわけねえだろ。ましてや組長なんて……。ちょっと常識無いんじゃない?」

「クッ……」二階堂は机の上で強く拳を固めた。

僕は石丸のその言い回しに若干の違和感を覚えた。「待って下さい。あなたの言い方じゃあまるで、神坂組の誰かが犯行に及んだことを認めているみたいだ」

「例えばの話だよ。例えばの」石丸に動揺の色はない。嘘をついているようには見えなかった。僕は視線を二階堂に移した。「そのみかじめの店はちゃんと押さえたんですか」

「ああ。クラブ・パッションとかいう会員制クラブだ。抗争の途中で跡形もなく消滅しちまったがな」

 石丸は乾いた唇を濡らすように舌なめずりをした。「ああ、その店なら鹿王会が買収したやつだ」

「何だと?」二階堂は身を乗り出した。

「あれ。言わない方がよかったな……。まあいいや。あの店は鹿王会が買い取って廃業にしたんだよ。理由は知らないんだけどな」

 二階堂は硬い表情で僕の方を見た。「コマ、こいつはいかんぞ。鹿王会の目的が俺たち警察を嵌めることだったとすれば、とんでもなくでかい事件だ……

 

 それからさらに三人の男に聴取をとったが、それ以上の新しい情報は得られなかった。僕たちはその後、東山署へ戻り集まった情報を整理するために報告書の制作に取り掛かった。事件の情報があまりにも少ないために大したことは書けなかったが、時効成立までの期限は確実に迫っていた。このままこの事件を闇に葬るなんてごめんだ。薄らとだが既に輪郭は掴みかけている。もう少し時間があれば、きっとこの事件をモノにしてやるのに。

「明日例のところへ行く」

 二階堂に言われ、すぐに違法入国者の居場所のことだとわかった。いよいよ最後の砦か。そこで情報が得られなければもうチャンスはないかもしれない。

「わかりました」

「危険かもしれん。お前は来なくてもいいぞ」

 そう言われたが、この目でその男を見てみたいと思った。裏社会のことはよくわからないが、マル暴として身を固めるなら通らねばならない道だろう。

「いえ。行かせてください」

「そう言うだろうと思ってたよ」

二階堂はいつものようにタバコを吸い始め、しばらくしてそれを灰皿に押し潰した。

「死ぬなよ」横に僕を見るその目は真剣そのものだった。

「ええ……

 ぎこちなくうなずく僕の胸に、久しぶりに拳が飛んだ。力が籠っていたが不思議と痛くはなかった。

「この二十年ほどで俺の周りで三人も殉職者が出た。俺はもう死体を担ぎたくない。だから死ぬな」

 熱い目だった。僕は少しの間何も言えなかったが、「はい」と一つ礼をした。

当たり前だ。こんなところで死んでたまるか。

 

 

 

  24

 

 次の日、僕は二階堂に連れられ、東山区内の怪しげな雑居ビルの前にいた。時刻は午前六時前。元々怪しげな場所だから人がいないのか、それとも時間の問題なのかはわからない。

 少し前を行く二階堂は背中を丸めながら、薄暗い地下室への階段を下りて行く。本当にここで武器の裏販売が行われているのだろうか。

 二階堂はその武器商人のことを「モグラ」と呼ぶそうだ。本名は不明だという。二階堂も刑事ということ以外は本名を明かしていないそうだ。

 地下室には薄汚れた、緑とも青ともつかないペルシャ絨毯が吊るしてあり、それをかき分けた先にいたモグラは見るからに怪しげな風貌だった。薄汚い赤い服を着ていて、髪や髭は伸び放題。少なくとも見ていて気持ちのいいものではなかった。それになんだか不潔な匂いがする。

 作業台で黄色い壺を磨いていたモグラは、僕たちの存在に気づくと険しい目つきになった。「カワサキか。久しぶりだな。今日は逮捕しに来たか」

 カワサキ――おそらく二階堂の偽名だろう。

「また情報を買いに来た」二階堂は机の上に懐から出した札束を投げ出した。僕は驚いたがそれを顔に出さぬよう平静を装った。これもまだ許容範囲だ。それに口を利かないように釘を刺されている。

 モグラは獲物を見つけた猫のように札束に掴みかかると、急いでそれをポケットに押し込んだ。一瞬だったが、その右手は指が三本ほどしかないように見えた。

「八年前の神坂組と高杉会の抗争についてだ。俺たちの推測じゃ、一連の犯行は身長二メートル以上の大男の犯行の可能性が極めて高いという結論に至ったんだが、そんな男を知らないか」

「ああ、あのヤクザ殺しの件か」モグラは数本欠けた歯を覗かせた。彼は少しの間考えていたが、何か思い出したのか「あっ」と声を上げた。「確かにいた。名前は知らねえが、まだほんのガキだったはずだ」

 やっと推測が確信に変わった。二階堂は興奮のあまり顔を引き攣らせた。「どんなやつだ!詳しく教えてくれ」

「俺もちょっと見ただけだが、いつも組長の近くにいた。でもあいつは人じゃねえ。怪物だ」

 怪物――。確かにそうだ。五人もの人間を殺めた男なのだから。

「他には?どんな些細なことでもいい」

 モグラは少し考えていたが続けた。「吊るし屋と呼ばれていた気がする。見た目は頭がこう……スキンヘッドで、それから……機械みたいなやつだった」

「機械?」

「ああ。組長の言うこと全部に、はい、はいって応えるんだ。異様だったよ」

 二階堂は顎を触った。「あと一つ。抗争の発端を知ってるか」

 モグラは険しい顔で首を振った。「それがわかんねえんだ。上の人間だけで片付いちまったからよ。なああんた、やっぱりこの件には踏み込まない方がいいぜ」

モグラは何かを怖がるように目を眇めた。「マル暴ったってよ、あんたは堅気の人間だ。吊るし屋のことは神坂組じゃ口にするのもご法度みてえになってるよ。他の事件はいい。だが、悪いことは言わねえ。吊るし屋を追うのだけはやめておけ。さもないと、あんた、消されるぜ」

 二階堂はモグラに掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。「教えてくれ!俺が誰に消されるって?その吊るし屋とかいう男か。カミサカか。それとも鹿王会か!」

 モグラの唇が僅かに震え、次の言葉を発しようとした時、入口の方で乱暴に車が止まる音がした。

「まずい。裏口から早く逃げろ!」切羽詰った様子でモグラは言った。

「くそっ、カミサカか」

 二階堂はモグラが指さした方へ走り出した。本来、歩行者専用道路に乗用車が入ってくるはずがないからだ。

「コマ、早く!」

 僕は慌てて二階堂を追いかけた。

 

 

 

  25

 

 午前六時過ぎ。朝の心地よい眠りは一瞬にして壊された。

 聞きなれない男の声で目を開けると、目と鼻の先に銃口が突きつけられていた。この状況が全く理解できないわけではなかったが、殺させる理由は見当たらなかった。

「誰だ……

「やっと見つけたぞ。研究員は全員焼死した思っていたが、まだ残党がいたとはな」

 日下部達也は身動きもとれず息を飲んだ。目の前の男に見覚えはない。金縁メガネに尖った鼻。長身で細身のスーツを着ている。

――警察の人間か。いや、それにしては様子がおかしい。ならば裏の人間か。だが何故俺の居場所を暴かれた――

「俺を撃つな。俺が死ねば警察が駆けつけるぞ」

 男は動じる様子もなく、日下部から目を逸らさない。「随分と警察に肩入れしたみたいだな。おかげで警察は井上のことを嗅ぎまわっているみたいじゃないか。困るんだよ。あいつの存在がばれたら俺の首も危ない」

 顔を歪めるようにして不気味に笑う。よく見れば首に何か刺青が見える。となれば間違いなく暴力団だろう。鹿王会か、それとも――

「あの男、井上という名前だったのか……どうせ殺すんだろ。最後に全部教えてくれないか」

「こっちも聞きたいことはたくさんある。お前が情報を売った警察官は誰だ」

 日下部は口をつぐんだ。すぐに名を挙げればこの場で射殺されかねない。どうにか引き伸ばして逃げるチャンスを見つけなければ。「井上という男は一体どんなやつだったんだ」

 男はうんざりしたように息を吐いた。「お前にそのことを話す謂われはない。それにしても、わざわざ京都から横浜まで移住するとはご苦労なことだ。殺されないための策だったんだろうが、結局少し寿命が延びただけだったみたいだな。まったく苦労かけやがる……さっさと吐かねえか!」男は乱暴に布団をまくり、銃口を日下部の額に押し付けた。「少しでも動いたら撃つぞ」

「わかった……警視庁の乾実って男だ……

「乾実……階級は」

「警視官だったはず」

 男の唇の一片が吊り上がった。「井上の血にはえげつねえ懸賞金が掛かってるみてえだからなあ。まあ俺はあいつをきちんと始末することしか目的はないが」

 それから日下部を蔑むように見た。「立て」

 ゆっくりと拳銃を遠ざけ、少し後ろへ下がった。日下部は男の行動に疑問を抱いたが、すぐにその目的がわかった。男は日下部にネクタイを投げつけ、頭上の梁を指さした。

 ネクタイは日下部自身のお気に入りのものだった。ギャルソンで一万円もしたやつだ。それを梁に括り付けて自殺しろというのだ。卑怯な男だ。最後まで自分の手を汚さないとは。

「俺は井上みてえな馬鹿な殺し方はしねえ」

 日下部は歯を食いしばりながら震える手でネクタイを梁に結びつけた。既にこの男から逃げることはできないと悟っていた。ゆっくりと首を通し、目を閉じた。

――本当ならばもっと前に殺されていたはずなんだ。あの研究に関わったことで、俺の人生は狂ってしまった――

「降りろ」男の声は無感情だった。このベッドから降りれば自殺は成立する。だが日下部は降りることができなかった。どうしてもここで死にたくはなかった。

 が、男は乱暴に日下部の足を掴むと、無理やり下へ引きずり下ろした。

 首に全体重がかかり呼吸が不可能となった。日下部は顔を真っ赤にして最期の痛みに耐えていた。首が赤黒く変色し異様なほど伸びる。日下部は大量の唾液と糞尿を垂れ流しながら死んでいった。

 男は日下部の遺骸を侮蔑に顔を歪めながら見ていたが、すぐして部屋を後にした。

 

 それから十数分後、事件現場に別の男が一人駆け付けた。日下部の死体を見るとうんざりしたように顔をしかめたが、すぐに作業に取り掛かった。工具箱からメスのような刃物を取り出すと、コンセントの蓋を慎重に外し、その裏に取り付けられていた盗聴器を回収した。それからまた蓋を元通りにし、命令通り電話をかけた。

「もしもし……日下部達也の遺体を確認しました。首吊りですが、他殺の線でしょう」

 受話器の向こうで男が言った。「そうか。餌にするには惜しい人間だった……玄関の監視カメラと盗聴器は回収したか」

「ええ。映っていると思いますよ」

「助かる。首吊りなら私が手を下すまでもないだろう。君はそのデータを今すぐ私の所へ持ってきなさい」

「わかりました」

 電話が切れると、男はすぐにその部屋を後にした。

 

 

 

  26

 

 再び目覚めた時、景色は一変していた。そこは紛れもなく自分の部屋だった。

 意味が分からない。俺は何者かに拉致されたはず。あれは夢だったのか。時計を見ると時刻は午後六時過ぎ。日付はあの時から丸一日経ったということになる。

 身を起こし、はっとした。裸の上にさらしのように包帯がきつく巻かれている。押さえると確かに痛みがあった。あれは夢ではなかった。

 俺は立ち上がり、まず服を着た。それからふらつく足で親父を探した。親父なら何か知っているかもしれない。

 居間の近くまで行くと声が聞こえてきた。とりあえず入ろうとしたが、ある声を聞いて足がすくんだ。

「養子なんか引き取らなきゃよかったのに」紛れもなくお袋の声だった。親父のため息も聞こえた。

「この家も終わりだ」

 背筋が凍りついた。

「あいつは大馬鹿だ。まさか本当に刀を取り返してくるとは。神坂組がここへ来るのは時間の問題かもしれん」飲んでいるのか父の声はいつもより荒々しい。

「もう嫌!あなたがあんな子引き取ってくるから」

 剛志が乱暴に缶ビールを置く音がした。

「やめろ」

「だってそうでしょ!だって……だって……」お袋がすすり泣く声が聞こえる。親父は何も言わない。

何だよそれ。俺はこの家の人間じゃねえのか。今までのことは全部偽りで、俺は十六年間も欺かれ続けてきたっていうのか。冗談じゃねえ。

 体がかたかたと震えだした。意味が分からない。だって俺は三木家の六代目で、後継ぎで、剣道の腕だって遺伝なんだろ?それが養子だと?何の血の繋がりもない、赤の他人だと?

「ごめんなさい。私が子供を産めない体だったばっかりに……

 肉を打つ高い音がした。親父がお袋を打ったのだろう。「いい加減にしろ!それは言わないと約束しただろ。あの子は俺たちの子だ。もし武志が聞いていたらどうする!」

「もう嫌!最近おかしなことばかり。全部あの子のせいよ!警察へ行きましょう」お袋の声は普段と大きく違い、ヒステリックなものだった。

「警察はだめだ。何か起こらない限り取り合ってもらえない。それに彼もいるんだ。見殺しにはできない」

 お袋が泣き声を上げた時、俺はふらつく足で二人のもとに姿を現した。なぜそうしたのかは自分でもわからない。頭に血が上り、体が勝手に動き出していた。

 二人が俺を見たとき、場の空気が凍りつくのが全身に感じ取れた。二人とも唖然とするだけで何も言わない。

「今までよくも騙してくれたな……

 考えることなく口走っていた。また心が黒いものに染められていく――

「武志……

 それから言葉は溢れるように出てきた。まるで自分ではない誰かが言うのを、ただ傍聴している感覚だった。

「親子じゃなかったんだな……あんたらにとって、俺はペットだったんだろ。剣道をさせてあとを継がせるための」

「止めろ、武志……

 親父の声など耳に入らなかった。

「剣道も、この家も、服も、食べ物も、この名前すらも、全部あんたらが俺に与えた肥やしなんだ。結局は自分たちのためなんだ。俺のことなんかこれっぽっちも愛してやいねえ。だから平気で今みてえなことが言えたんだ。どうせお前らは自分のことしか考えてねえんだろ!」

 親父もお袋も言葉もなく立ち尽くすだけだ。それが俺にとっては答えだった。

「今までよくも親のふりしてきたよな。笑っちまうぜ。ほら、なんか言い返してみろよ……言い訳もねえのかよ!」

 俺は乱暴に足元のゴミ箱を蹴り飛ばした。中に入っていたものが部屋中に飛び散る。

「武志、お前は俺たちの子だ!血の繋がりなど関係ない!」

 親父の言葉も俺の心には響かなかった。いや、心なんか既にないのかもしれない。

「やめろ。今更父親面すんなよ……みっともねえから」

「やめなさい武志!」

 つかつかと歩み寄ってきたお袋が俺の頬を打とうとしたが、きつく鋭く睨まれて手を止めた。

「なんだよ。殴れねえのかよ。まあそうだよな、本当の親じゃねえんだから」

「あんた……

「もういい。俺、この家出て行くから」

 二人から逃げるように踵を返した俺は、呼吸を忘れるほどの衝撃を受けた。

すぐ目と鼻の先に何者かの分厚い胸があった。背が高すぎて顔も判らない。驚いて言葉も発せられない俺は、腹に強烈な蹴りを食らった。

 俺は下から腹を突き上げられ、体を「く」の字に曲げ、床でもんどりうった。

「海斗くん!」

 親父の声がした。

カイト――

 間違いない。あの男だ。鴨川で俺を殺そうとした男。何故あいつがこの家にいるんだ。神坂組の人間か。まさか、親父が何か仕組んでいたのか――

「先生を侮辱するな……」やつの声は、肉食動物の唸り声のように低くて図太いものだった。

 蹴られた勢いで胸の傷口が開き、包帯がどんどん赤く染まっていく。傷口を押さえると粘り気の強い血が手にべっとりと付着した。

 見上げようとすると、ぼやける視界に薄らと男の両手が見えた。両腕に生々しい蛇が彫られている。それを見た途端、俺の中に眠っていた記憶が一瞬にして蘇った。

それは生きるために消した記憶だった。

 全てを思い出した時、俺は涙を流さずにはいられなかった。

 

 

 

  27

 

俺がまだ赤ん坊だった頃の真夏の暑い日。目を閉じれば記憶が映像のように流れていく。淡いブルーのサングラスをかけて見ているような、幻想のような光景だった。

 蝉の声。子供用の赤い靴。小さなクマのぬいぐるみ。ベビーカーの前輪。楽しげに歩く日傘を指す人。

 女の人の楽しげな笑い声。ベビーカーの中にいた自分を抱きかかえた男の人の逞しい両腕。鳥のさえずり。眩しい太陽。鮮やかなひまわり。草木が揺れる音。

 俺の目に確かに二人が見えた。見覚えがないのに、なぜだか胸が熱くなる。それが懐かしさから来るものだとわかったとき、俺の目から涙が溢れた。心が深い幸福で満たさる。ずぶ濡れの体を暖かなのもで優しく包み込まれる、そんな温もりを感じた。長らく忘れていた感覚だった。この二人が俺の本当の両親なのか――

 次の瞬間、別の記憶が激しい電流のように俺の頭を貫いた。

次の景色は地獄絵図だった。

 母親が俺を抱いて泣いている。暗闇の中で見えるのは、大きな大きな男の背中だ。しゃがんで何かしているようだ。ブチブチと生々しい音が聞こえる。男が立ち上がった。手に何かを持っている。

 ゆっくりと男が振り返った。

 その光景を見た瞬間、俺の頭の中の何かが壊れた。

 男が持っていたのは、胴体から引きちぎった父の頭部だった。暗くてよく見えないが、目だけが光に揺れている。母の泣き声が嗚咽に変わった。

 男がゴミのようにそれを床に転がし、ゆっくりと近づいてくる。見上げるほどの大男だ。顔はわからないが、母の頭を掴んだ時に腕に刺青が見えた。命が宿っているように生々しい大蛇の刺青だ。それだけは確かに見覚えがあった。

――やめろ、その人を離せ――

 母の体が持ち上がっていく。自分の体が床に落ちた。

 男の両手が母の頭を挟んだ。

――やめろ、やめろ!――

 男が手を離したとき、床に転がった母は既に息絶えていた。血が床に広がり、自分の肌にもその生暖かい液体が触れた。

 男の濁った目と目があった。腕のそれのように、冷たい目だった。

 男の大きな手がゆっくりと伸びてきた。

 殺されると思い目を閉じた。

 覚えているのはそこまでだった。

 

 

 

  28

 

「あああ……

 俺は肩を震わせながら身を起こした。

 初めて男の顔をまともに見た。

 まず、化け物だと思った。

 毛髪だけでなく眉毛すらないために表情が全く読めない。さらに彫の深い顔はとても日本人には見えなかったが、白人でも黒人でもない。強いて言うなら中東の顔立ち。年齢も判らない。さらに身長は明らかに二メートルを超えている。二メートル十センチ、いや、二十センチ以上はあるかもしれない。黒いタンクトップを着ている。そして、恐ろしく筋骨隆々で俺の力では到底敵いそうにもなかった。

「武志に手を出すな……

 親父が俺の体を支えた。男はというと、怒るわけでも、笑うわけでもなく、微塵も感情の伺えない目で俺たちを見下ろすだけだ。

 俺は震える手を突いて立ち上がった。

「お前……俺の本当の親を殺しただろう……

 睨みつけても男は平然としていた。この男に心はないのか。

この男は俺の両親を殺して、あの時、今度は俺を殺そうとした。この男だけは生かしてはおけない。

 勝算はなかったが、そんなことを考えられる頭は俺には残っていなかった。男の首筋に夢中で飛びつき、俺は男を倒そうとしたが全く動じなかった。俺は下から男の首を強く掴み、指をめり込ませるように爪を立てた。

「殺したければ殺せばいい。だが、お前にそれができるか」

 平然と言ってのける。何故だ。この首は硬すぎて爪が少しも食い込まない。さらに力を込めた時、男の大きな右手が俺の腕を掴んだ。簡単にへし折られてしまいそうだ。

「お前は人間を殺すということの本質がわかっていない。お前には過去も未来もあるが、俺にはそのどちらもない。俺は気分次第でお前を殺すこともできるんだ」

 男は左手で俺の頭を掴み、じわじわと力を込めていく。頭蓋骨が割れるような激痛に、俺は悲鳴を上げた。

「やめろ!海斗!」

 後ろから親父が叫んだ。

「だが俺は、義務は果たす」

 男の力は引いていった。俺は苦痛あまりその場に崩れ落ちた。痛みは簡単には引いてくれなかったが、俺はそれではなく、悔しさに身を震わせた。

 その時表門の方から物を壊すような音と乱暴な罵声が聞こえてきた。神坂組だと直感した。

まさか、この状況で――

「武志、動けるか。黒金景光を守れ」

 そう言うと親父は玄関へ向かって走って行った。

 こんな状況で……一体全体状況が全く飲み込めない。ただ言えることは、もはや躊躇している時間などないということ。残された道は二つに一つ。戦うか、戦わずに黒金景光を差し出すか――

お袋を見ると恐怖に顔を歪め、膝を床に付けて震えていた。再び男の方を見たが、驚くことに音もなく消えていた。不気味に思ったが、すぐに親父の言葉を思い出し黒金景光がある道場の方へ、傷口を庇いながらも急いだ。

 

 稽古場の一番奥に飾られていた黒金景光を握りしめた時、表門から二発の銃声がした。直後に母屋と離れを繋ぐ廊下を駆けてくる男たちの足音。音が多すぎて人数が分からない。それぞれに乱暴な言葉を発しながら確実に近づいてくる。

 さきほど音が本当に銃声ならばこの家の誰かが撃たれたということか。

 親父だろうか――

 俺は恐怖に震える手で黒金景光を鞘から抜いた。刃は僅かな光を照り返し、不気味な輝きを帯びていた。

たとえこの刀で人を斬ったとしても、俺は、俺だけは生き残ってやる――

 ついに男たちはなだれ込むように道場の戸を開けて入ってきた。多すぎて人数が分からない。狭い入口から途絶えることなく侵入してくる。全員スーツ姿だが物々しい雰囲気だ。俺一人に対して相手が多すぎる。それにまだ傷口から血が流れ続けている。貧血で意識が飛びそうだった。

「来るなァ!」

 目頭が急激に熱くなるのを感じた。手にした黒金景光を構え、相手一人ひとりを見た。既に人を殺す覚悟はできている。誰からでもかかって来い。

 男たちは俺から一定の間を空け立ち止まった。ナイフを持っているやつも、拳銃を構えているやつもいる。

「ガキがァ!刀降ろさんか!お前の親父みてぇに殺されたいんか!」

 足がすくんだ。こいつらは平気で人を殺せる人間ばかりだ。ここで降参してもどのみち殺される。俺は全てを投げ出す覚悟を決めた。

 稽古場に響き渡る声で叫び、目の前の男に斬りかかった。男が銃を撃つ前に、黒金景光はその腕を見事に刎ね飛ばした。斬った時の感触はほとんどなかった。牛の鳴き声のような悲鳴が聞こえ、血飛沫が顔にかかったが全く気にならなかった。俺は考えることもなく次々と刀を振るった。剣道の技術など何の役にも立たなかった。無我夢中で目の前の相手に黒金景光を叩きつけていく。数人に斬りつけたところで、床に広がった夥しい血に足を取られた俺は身を強く打ち付けた。

 しまったと思った時には、轟音に続いて、体が後ろに持って行かれる感覚を覚え、直後に火傷のような強烈な痛みを感じた。撃たれた……状況は理解できたが、実感は湧かなかった。目に入るのは天上だけで、それ以外は何も映らない。

 撃たれた左の脇腹から痛みが全身に広がっていく。微弱な電流が走ったように手足が痙攣する。こんな激痛は生まれて初めてだ。じわじわと背中に生温かい血が広がる。動脈をやられたかもしれない。ならばもう長くは持たないだろう。

 男たちの醜悪な笑い声が聞こえた。拳銃を握りなおす音。

 次はどこだ。頭か、心臓か――

 俺はこの、赤い泥濘の中で一生を終えるのか。恐怖を味わいながら、全てを失って……

 嫌だ。まだ生きたい――

 その時、入口の方から何者が咆哮した。全員の視線が一気にそちらへ集中する。空気が一瞬にして張り詰めるのが全身に感じ取れた。

「イノウエ……

 誰かがそう呟いたのを俺は朦朧とする意識の片隅で聞いていた。

 また何発か銃声がした。

 撃たれたのはあの大男ではなく、暴力団員たちの方だった。胸から血を吹き出し、その場へ崩れ落ちていく。それに構うこともなくやつはまた発砲した。弾丸は寸分のずれもなく、見事に暴力団員の胸部を貫いていく。即死だった。

 人間が死ぬ瞬間を見たのは初めてだ。人の命とは、これほどまでに呆気ないものなのか――

刹那、あの男と視線が交錯した。残忍で狂気に満ちた、人殺しの目だった。

 男は次の瞬間には銃を捨て、暴力団員たちの群れの中に飛び込んでいた。

 

 そのあとの一部始終を見たわけではない。遠ざかりゆく意識の中で、男たちの叫びや、骨が砕ける音、肉を引きちぎる生々しい音を何度も何度も聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章 厭世観――ペシミズム――

 

  29

 小松原正

 

 

 事件発生から四時間後の東山署は騒然としていた。

全員で十七人いた暴力団員のうち十五人が死亡し、辛うじて一命を取り留めた二人は警察病院の集中治療室で緊急手術を受けている。メディアはこの事件をトップニュースに上げ、ネットの掲示板やSNSは事件の話題で炎上していた。

暴力団以外にも、その家にいた五十代の男性が銃殺されている。事件はあまりにも不可解だった。神坂組が一般家屋に突然襲来したということはもちろんだが、それ以上に事件の成り行きが全くの不明だ。殺害された暴力団員の多くは射殺、撲殺による即死だが、中には鋭利な刃物で体を傷つけらている者もいた。にもかかわらず現場に凶器となる刃物はなかった。

凶器以外にも死に至るまでのプロセスが全くの不明だ。十七人いた暴力団員がたった一人の男、それも高校生に力負けしたとは考えにくい。死亡した組員たちには強く殴打された形跡があり、それも非常に強力なもので、とても彼だけの仕業とは考えられなかった。そもそもそれが殴打などと呼べるものなのかさえ疑わしい。手足の骨を折られ、更には顔から首にかけての肉を引きちぎられ、中には完全に顔が陥没している遺体まであった。

 東山署には急遽、京都府警から特別捜査本部が開設されることになり、東山署以外にも隣接する警察署の多くの職員がこの事件の捜査の応援をすることになった。各メディアは東山署と府警に報道陣を送り込み、署長や副署長、刑事課長はその対応に追われていた。

警視庁が応援をよこすのも時間の問題だった。

 

 東山署が事件の後処理に追われる中、僕は二階堂と被害者の家族を保護するため、市内の大学病院内にいた。本来ならばもっと早く対応するべきだったのだが、事件があまりにも大ごとになったために、事件現場の確保に調査、さらには本店の捜査本部開設などの対応で遅れたのだ。時刻は既に午後十一時を回り、院内にほとんど人はいなかった。

 既に閉院した薄暗い廊下を勇み足で歩きながら、僕は少し前を行く二階堂に目をやった。「今回の事件、八年前のものと何か関係があると思いますか」

「わからんが、否定はできん」振り向くこともせず歩き続ける。その声はいつもよりも緊張感があった。

「あの死体の山を見たか。あの殺し方は八年前のそれに匹敵する」

 そう。入電を受け、最初に現場に入ったのが管轄内にいた僕たちだ。玄関に倒れる男性が救急車で運ばれ、SATが到着した時には既に全てが終わっていた。血みどろの稽古場には、生きている者と死んでいる者、合わせて十八人が転がり、夥しい血が床一面に広がっていた。すぐに住人と思しき高校生ほどの男が病院に搬送され、続いて生存が確認された暴力団員二名も警察病院へ搬送された。残りは状況証拠として、鑑識の仕事が終わるまでは現場に置いておき、それが終われば科学捜査研究所、通称科捜研で解剖される。

 数十分後には本店からの応援も駆けつけ、僕らはまともに現場を調べさせてもらうことができなくなったのだが、それ以前に初めて見る大量の血液と異常な匂いを前に、僕は立ち眩みを起こした。一方の二階堂はというと顔を歪めはしたものの、至って冷静に状況確認にあたっていた。

「いいかコマ。もし八年前の犯人が関与しているなら間違いなくそいつが鍵になるはずだ。人間の頭を捻り潰すような下種を生かしてはおけん。絶対に油断はするなよ」

「はい」

 前を向いていて顔は伺えなかったが、彼が険しい表情をしていることは付き合いでわかる。この人が犯罪を憎んでいることは、誰よりも僕がよく知っている。

「この事件、もしかすると俺たちの知らないところで、何か大きなものが動いているのかもしれん。国家の威信に賭けて、絶対に根元からぶっ叩くぞ」

 二階堂の背中を見て思った。彼には貫禄がある。それは数々の事件を経験したものにしかない貫禄だ。どうしても、すぐ近くの二階堂が、手の届かないどこか遠くの存在に思えてならなかった。

僕もこんな刑事になれるだろうか↓↓

 

被害者がいる待合室の前に到着すると僕たちの足音の反響は消えた。

 二階堂は軽くノックし、待合室の戸を開けた。中には黒い硬質なソファに腰掛け背中を丸めた女と担当医がいた。現場にいた中で唯一口がきけるその女の衣服は意外にもきれいだった。ただ、随分と泣き腫らしたのか、化粧は涙の痕を残し、顔もやつれている。そうでなければおそらく年の割になかなか美人のはずだ。

「失礼します。東山署刑事課、二階堂警部です」警察手帳を見せ、目礼する。

「殺人事件ですので、ご主人の遺体は科捜研に回させております。どうぞご理解下さい」

 四十代半ばほどのその女は「はい」と消え入りそうな声で言った。

「同じく小松原巡査です。今後の捜査を担当させていただきます」

 女は誰を見るでもなく、微かに頭を垂れただけだった。無理もない。一家の大黒柱を暴力団員に殺害され、一人息子すらもたった今緊急手術を受けているというのだから。

 二階堂は彼女の正面にしゃがみ込み、その目を真っ直ぐに見つめた。

「大変な目に遭いましたね。でももう大丈夫です。あなたはこちらで保護致します。今夜は遅いので署の方でゆっくり休んでください」

いつ頃、元の生活に戻れますか」

 夫を殺され、こんなことがあっては元の生活になど戻れるはずがない。それさえ判別できないほどこの女性は気が動転しているのだろう。

今夜はゆっくり休みましょう。話はそれからです」二階堂の口ぶりは至って落ち着いている。

 二階堂に廊下に出るように促されると、女はふらりと立ち上がった。

これから本格的な捜査が始まるのだ。そうなれば自分も第一線で捜査することになるだろう。

 そう思ったが僕の胸は踊らなかった。以前はあれほど大きな事件を担当したいと思っていたのに、いざ遺族を前にすると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。事件が起きたのは自分たちの管轄内だ。未然に防げたかもしれない

 その時「コマ」といつもの低く鋭い声がした。

「行くぞ」

 慌てて返事をすると、今自分のすべきことを思い出した。

僕は何を迷っている。一刑事たるもの、職務を全うすることが己に課せられた仕事なのだ。今は自分にできることを精一杯やるしかないだろう↓↓

 

 

 

  30

 三木武志

 

 

 点滴の滴の音で目が覚めた。誰かが横にいるでもなく、薄暗い病室のベッドにたった一人で寝かされていた。脇腹が痛む感覚はあるが、体は鉛のように重い。どうやら俺は生きているらしい。だが喜びも安堵も感じなかった。ただただやるせなさに胸が詰まりそうになる。

 親父が死んだという事実が重く心に圧し掛かる。結局本当の親ではなかったが、今まで俺を育ててくれたことに変わりはない。最後の最後に酷いことを言ってしまった。親父に対する疑心が今も完全に晴れたわけではないが、それよりも後悔が大きかった。できることなら今すぐにでも謝りたい。だがそれはもうできない。

 親父を殺したやつに対しての恨みは不思議と湧かなかった。まだ頭が冴えていないだけかもしれないが、やはり全ての責任は自分にあるのだ。俺はあの場で死んでおくべきだったのかもしれないが、今は死にたいなどとは思わない。本当の死を目の前にすれば恐怖からそんな考えは吹き飛んでしまう。あの暴力団員たちは、全員あのカイトという男に殺されたのだろうか。なぜあの男が家にいたのだろうか。なぜあの男は殺しを躊躇わなかったのだろうか。俺を助けようとして敵を殺したのか、それともただ殺したかっただけなのだろうか

 どちらにせよこうして俺が生きていられるのはあの男のおかげということになる。今思えば、河川敷でのあの男の行動は、俺を殺そうとしたからではなく、俺を殺人犯にしないためにしたのではないのだろうか

 だが、どのみち俺の親を殺した男だ。人の命を何の躊躇いもなく奪っていく↓↓あの男に心はない。

 ならばこの感情は何なんだ。恨みや憎しみは間違いなくある。殺してやりたいほどに。が、それだけではない。「恩義」というものだろうか。だったらそれは、人をだめにするくだらない感情だ。

 ベッド脇の机の上に目覚まし時計があった。午前六時前。あれから随分と長い時間が経ったわけだ。

 布団の中で傷に手をやった。包帯が何重にも巻かれていて、押さえると痛むが、この様子だと臓器はやられていないようだ。

 俺はこれからどうなるのだろうか。ここで終わりというわけにはいかないだろう。

 目を閉じればあの時の真っ赤な景色が鮮明に浮かび上がる。破裂した水道管のように血が飛び散り、内臓が抉れ、人が人ではないかのように死んでいく。由緒あるあの稽古場の床が、悍ましいほどに真っ赤な鮮血に染められていく。悲鳴、怒号、発狂、嗚咽、そして塩辛いような血液の独特の匂い

 

 看護士が朝食を運んできたのは二時間後のことだった。それまで俺の頭の中は完全に事件のことで支配されていた。胃がむかむかするような苦しさをずっと抱えたまま、布団の中に蹲っていた。

「調子どうですか」三十歳くらいの女性看護師が俺の前に机を出して簡素な料理を並べていく。病院の飯は味気ないというぐらいのことはあって、見た目も量も貧相だ。

 俺は答える気にもなれず何も言わなかった。あながちこの看護士は本心から俺の怪我を案じているのではなく、単なる挨拶として言ったのだろう。

十時ごろに警察の方が面会に来られるそうです。それまでゆっくりしていてください。それからそこに着替えを置いたので使ってください」

 顔が他の人よりも大人びているせいか、俺は年上にいつも敬語を使われる。いつも。

「親父とお袋はどうなりましたか」

 看護士は皿を持つ手を止め、俺を申し訳なさそうに見た。「お母さんは無事ですが、お父さんは亡くなられました」

「そうですか」

 やっぱりと思っただけで別段驚きはしなかった。それにそれ以上は悲愴感もなかった。お袋に関しては、俺たちが必死になっていた時にどこかに隠れていたのだろう。失望こそしなかったが、なんだか呆れる。そういえばあの男はどこへ行ったんだ。黒金景光は?

 看護士は何も言わず作業を進める。俺は目の前に置かれた麦茶を喉へ流し込んだ。渇いた喉に心地よい冷たさが広がる。

「すいません、ちょっとトイレいいすか」

「はい、出たところの右側です。付き添いましょうか」

「大丈夫です」俺は慎重に体を起こした。痛みはあるがゆっくりとなら歩ける。支柱台というのだろうか、点滴袋を下げる金属製の柱を転がしながら病室を出た。

 トイレは清潔感があった。俺は車椅子用トイレの横のを使った。

 すぐして、左横、つまり車椅子用のトイレに誰かが立った。他にも結構あるのにと思ったが、それ以上は気にもしなかった。

「君が、武志くんだね」ふいに横の男が言った。驚いて見ると、上下ベージュのスーツ姿で同じ色のハットを被った小太りの老人だった。驚いたのはその男は用を足していたのではなく、ただそこに立っていたということだ。入院患者ではないのは明らかだった。

「え、ええ」辛うじて返事をした。

「なにも怪しいもんじゃない。わしはこの近くの寺で住職をしている、朱鷺というものだ。鳥のトキと同じ字を書く」

 苗字だろうか、聞きなれない名だ。本名なのかさえ分からない。

 彼は帽子を外して見せた。確かにきれいに髪の毛のない頭だ。顔は、ごく普通の人の良い老人といったところか。

「わしは君のお父上とは古い友人だ。知り合った経緯を離せば長くなるのだが、もっと言うと、影虎の親代わりだ」

「カゲトラ

 異様な名前だ。コードネームか、それに近い何かなのだろうか。

「知っているだろう。背の高い男だ」

 あの男か。だが俺が知っている名前じゃない。それを聞くと朱鷺はこともなげにうなずいて見せる。

「あの子は本名を井上海斗という。じゃが、親のない哀れな子だ。今は影虎としてわしを手伝ってくれておる」

 あの男が僧侶だったのか。信じられない。

「なんでそんなことをわざわざ言いに来たんですか。俺はあの男を警察に突き出すかもしれないのに」

俺は朱鷺と対峙した。朱鷺は動じることもなく、至って落ち着いた風だ。

「うん。そのことでここへ来た。本来ならば影虎がここへ来るべきだったんだが、それはできない。影虎が君の前に姿を現したのは何も君を殺すためじゃない。君を守るためだ」

 守る?どういう意味だ。

「影虎は君のお父上に大きな恩義があるらしい。今回の一件の前に影虎に君を守るよう言ってきたのは剛志さんからだ」

 そういうことならわからないでもない。だがその影虎は親父に一体何の恩があると言うのか。

外で看護士が押す荷台が横切る音がしたので、俺は声を潜めた。「だからって何も殺すことはないでしょう。それもあんなに大勢」

 朱鷺は悲しそうにうなずいた。「わしも影虎が人を殺めることはもうないと思っていたのだが。いや、今はその話は別だ。単刀直入に言おう。君は影虎のことを警察に話してはならん。絶対にだ」

「何故ですか。そんなのはそっちの勝手な都合じゃないか」

 少し間を置いてから朱鷺は言った。「警察に言えば影虎は逮捕され、おそらく死刑になる。匿っていたわしも捕まるだろう。だが同時に君も捕まるぞ」

「どういうことだ」少し語気が強まった。対する朱鷺は妙に落ち着いた声で、窘めるようにゆっくりと言い放った。

「君も人を殺したからだ。あの刀で、暴力団員に斬りつけたそうじゃないか」

 はっとした。まさか殺したとは思っていなかったが、少なくとも斬りつけたことに違いはない。切羽詰っていたために状況をはっきりとは思い出せないが、もしかすると本当に殺してしまったのかもしれない。

 俺の顔から汗の粒が流れ落ちた。

あれは正当防衛だ」

「ならば鴨川のことはどうかね。あれは違う。君は確かに女の子を殺そうとしていたそうじゃないか。これも否定するかね」

 俺は恐怖から何も言えなくなった。警察にそのことを調べられれば一巻の終わりだ。石井はまだ拉致されているのかもしれない。それを追及されれば俺の立場は危ない。さらに俺には学校での暴力事件がある。俺がいくらとぼけてもその証言に力はないだろう。

 俺の肩に朱鷺の皺だらけの手が置かれた。

「わしは何も君を脅しに来たわけじゃない。わしらは君の味方だ」

それから折りたたまれたメモを俺の手に握らせる。「隙を見てここへ来なさい。刀も置いてあるから。いいかね、警察が本格的に動き出せば君は身動きが取れなくなるだろう。それは君の身の破滅を意味する。そうなる前に、来なさい」

 そう言い残し、朱鷺は去って行った。彼がいなくなった後も俺はその場で呆然として動けなかった。

この状況で何を信じろと言うのだ。信じられるのは己のみだ。そう思ったが、俺に何か別の選択肢があるとは思えなかった。

 

 

 

  31

乾実

 

 

 烏丸涼子。現在三十二歳。東京大学法学部卒。二十五歳で国家公務員試験Ⅰ種に合格。その後、警視庁公安部に所属していたが、数週間前に京都府警警察本部に異動し、刑事課組織犯罪対策部第一係の主任を任せられる。

 京都府警に異動になったことをマイナスに捉えなければ、全く非の打ちどころない経歴といえるだろう。この若さで警部とは相当優秀ということの表れだ。「公安のS」と呼ばれた女で、私の直属の部下だ。

 Sとは隠語で警察内の組織内通者のことを言う。すなわちスパイだ。

 今回の場合もそうだ。府警に潜らせて八年前の捜査情報を調べさせる。頭の良くて使える女だ。日下部の存在は伝えてあるが、さきほど殺されたことを伝えると、「そうですか」とだけ業務的な答えが返ってきた。いつもそうだ。あの女は、仕事はできるが熱意は感じられない。常に適切なことをするが、それ以上はしない。まあ、だから私の手で動く「駒」としては申し分のない人材なのだが↓↓

日下部が殺された一部始終を録音したデータは、その三時間後には私の元へ直接届いた。ネットワークを介してのやり取りだと何らかの形で暗号が解かれてしまったり、パソコンに送る段階で他の職員が確認する可能性がある(まあ、実際にそんなことが起きたことは今まで一度もないのだが)。そのためわざわざ人の足で運ばせた。多少の時間はかかったが、一番安全な方法だ。

 右手でマウスを移動し、玄関の監視カメラに映った男の顔を画面に映し出す。この男だ。この男が日下部を殺したのだ。そしてこいつの口から出た「井上」という存在。恐らくその井上なる人物が八年前の事件の真犯人で、やつはまだ生きている。100%とは言えないが、今回の事件に井上が関係している確率は限りなくそれに近い。そうでなければ十五人もの暴力団員を一度に殲滅させるなど考えられない。不死身と呼ばれるのも当然かもしれない。

警視官」

 烏丸が私を呼んだ。そうだ、烏丸と電話していたところだった。椅子に深く背中を預け、足を組み換え楽な姿勢をとる。「ああ。君はそちらで任務にあたってくれ。現場のことは卓がよく分かっているからあいつに聞いてくれればいい」

 烏丸を現場へ送り込んで正解だった。あいつは賢い女だ。「集まった情報は全て私の元へ回せ。今回の捜査の指揮権は君に委ねる。烏丸捜査官」

 受話器の向こうで烏丸が息を飲んだのがわかった。捜査官は捜査全体を取り仕切るトップだ。烏丸がキャリアと言えど普通は年配者がするものだ。だが今はそんなことに構ってはいられない。私の直属の部下でないと何かと面倒だ。

「まだ警部クラスで、若輩者の私なんかに大役すぎませんか

 気の強いこの女が臆するとは珍しい。私は彼女の尻を叩いてやることにした。「烏丸。君は公安で非常に優秀な働きをしてくれたじゃないか。場所が変わっても君ならできるはずだと思うが。犯人逮捕の暁には警視の椅子を用意してやる」

ありがとうございます、警視官」

「それから、所轄送りにした二階堂警部はこちら側へ取り込んでおけ」

「確か、私と入れ替わりで班を退いた人ですよね。何故ですか」

「あの男は異常に鼻が利く。所轄に異動させたのも、八年前の事件を追わせたのも全部私が仕向けたことだ。駒にしておけば後あと使えるだろう」

「わかりました」

 こうやって私の元で動く人間を増やしておけば何かと役に立つ。烏丸には捜査全体を、二階堂には現場と裏の情報を回してもらおう。あの男こそ本当のマル暴だ。裏社会は知っていても、その本質を知っている刑事はこの国には数えられるほどしかいない。本当の裏というのは、裏の裏、つまり表側の見えない部分に潜んでいるのだから。

「烏丸、必ず星を挙げろ」

 彼女の返事を聞くと私は受話器を置いた。

 さて、問題はまた別にある。日下部の死は自殺として処理できたが、日下部を殺した男がまだ生きている。監視カメラに映った顔を頼りに私の直属の部下に追わせているが、現れるのは私の前だろう。日下部の次は私が餌になったというわけか。自分の命惜しさに私の名を挙げるなど、あの男は最後まで使えなかった。私にSPを付けたがいつあの男は現れるのだ。私を殺そうなどと思うなよ。私は警察官僚のトップツーだ。私を敵に回すのは警察全体を敵に回すことと同じことだぞ。

「新沼、菅谷」

 ドアが開き、黒いスーツ姿の男が二人入ってきた。私の部下でSPを任せている。二人とも長身で逞しく、実戦経験も豊富だ。

「例の男のこと、任せたぞ」

「はい」二人同時の敬礼。私の自宅からこの職場、更には顔を出す店にまで注意を払い、完全な警戒態勢を敷いている。例の男を見つけ次第の後処理はこの二人に任せている。私のコネで警備部から公安に引き入れ、警視の階級までくれたやった二人だ。忠義を感じ、命を張る覚悟はできているだろう。

「それはそうと、日下部の処理はもう終わったのか」

「神奈川県警は自殺として既に処理を終えました。遺族にも不信感を抱く人間は今のところいません」

「よし」

 私は窓の外に目をやった。曇り空の下に、今日も騒々しい東京の街が広がっていた。

 

 

 

  32

乾卓

 

 暴力団員連続不審殺人事件。これがこの事件に与えられた名だった。

 今日、正式に東山署に捜査本部が開設された。明日には警視庁からの応援も駆けつけるという。こういった類の事件は初めてだった。暴力団員が民家に押し入るところまではまだわかるが、返り討ちに遭い、ほぼ全員が殺害されるというのは前例がない。しかも犯人は不明。証言できるのは生き残った母親と病院にいる高校生の息子だけ。だが母親の方は情緒不安定でまともに会話が噛み合わないという。殺された暴力団員十五名の遺体は科捜研送りとなり、辛うじて一命を取り留めた二人は警察病院にいるが、二人とも遷延性意識障害。つまるところ昏睡状態だ。

 今日初めてこの東山署に来た時、まず寂れたチンケな建物だと思った。狭い駐車場に、それとほぼ同じぐらいの敷地の建物がそれだった。しかもたったの三階建て。やはり所轄署は所轄署だ。俺たちがいる本店とは規模が違う。まあ、その本店でさえ警視庁舎とは雲泥の差なのだが↓↓

最初に出迎えてきたのは、署長の青田警視。見た目はただのオッサンだが俺たちよりも階級は上だ。まあ年功序列制だから署長の席には年の功で居座っているのだろう。

 案内された会議室は思いのほか広かったが、建物自体の老朽化が進んでいるために壁や天井の至る所にひび割れが目立つ。百台以上ある三人用長机には、既に本店の第二係から第五係までの職員、東山署の職員、応援の他の署の職員、さらには科捜研の職員が座り、向かい合う前の席には府警の栗原警視正、足立警視長と錚々たるメンバーが揃っている。烏丸はその二人の間の席、つまり真ん中の捜査官の椅子に座り、俺と柳川はこの三人の横の机の席に座った。

これはこれは。向かい合う三列目の席に二階堂がいた。横の若い刑事と何やら話している。相変わらずのヤクザまがいの趣味の悪い服装だ。

「起立」足立警視長の号令でその場にいた全員が立ち上がった。「敬礼」

 烏丸は足立警視長とアイコンタクトを挟み話し出した。「捜査官の烏丸です。今回は暴力団絡みの事件です。くれぐれも行き過ぎた捜査の無いように、皆さん心して捜査に当たってください」

 烏丸が捜査官だと名乗った時、その場が若干ざわついた。無理もない。こんな若い女に捜査官など務まるものか。だが烏丸は動じることなく、机の上の書類を持ち今回の事件の概要の説明をした。

「では捜査報告をお願いします」

 説明が終わると烏丸の声で捜査員の一人が立ち上がり話し始めた。ちなみに彼も本店の人間だ。事件現場を最初に押さえたのは所轄の人間だが、初動捜査で踏み入ったことまで調査したのは本店の人間なのだ。

「殺害されたのはまず、事件があったで民家で剣道の道場を営んでいた三木剛志、五十一歳。死因は胸部を拳銃で二回発砲されたことによる失血死。銃弾は二発とも被害者の体外から発見されました」

 そう言ってビニール袋に入った銃弾を持ち上げる。日本の警察が使用する「ニューナンブM60」の、先が丸い弾丸とは違い、アメリカやフランスの軍が使用するものに近い尖った流線形をしている。暴力団関係者が使うものなら、さしずめフィリピン製といったところだろう。

暴力団員の方は所持品から神坂組の組員だと判明。裏取りはこれからですが、おそらく十七人全員がそうと思われます。殺害された十五人の死因のうち、拳銃によるものが六人。残りの九人は撲殺でしたが、本田直樹、葉山和重、池本芳樹、松井正次の四人は特に外傷がひどく、顔の識別も困難でした。他に刃物のような傷が銃殺されたうちの三人、うち一人は右腕を切り落とされていました」

 それから一人ずつの名を挙げ、その死因と外傷の状況について詳しく説明する。他の捜査員たちはそれぞれメモを取っている。

 次に科捜研から白衣の白髪交じりの男が立ち上がった。「死亡推定時刻は午後六時頃。それぞれ多少の誤差はありますが、暴力団員が玄関で剛志を殺害後、稽古場で息子の武志に発砲。その前後で何らかの状況で返り討ちに遭ったものと思われます。ちなみに暴力団員の体内外から検出された弾丸は神坂組が使用していたものとは一致せず、全くの別物というところから、犯人は神坂組の人間ではない可能性が高いと見受けられます」

 栗原警視正は机の上で手を組んだ。「では暴力団員を殺害した犯人は全く別にいると?」

「おそらく」

 栗原警視正は「なるほどな」とうなずき、「引き続き目撃情報の収集に当たってくれ」と全員を見渡した。

その後、烏丸が捜査担当の割り振りを行い最初の捜査会議は終了した。

 結局俺たち第一係の担当は歩き仕事ではなく、第二係から第五係までの本店の職員と所轄の刑事が収集する情報を整理するというものだった。

「乾くん」

人が散った会議室、ちょうど柳川がトイレか何かのために席を外した隙に烏丸は俺の所へ来た。「あなたは八年前の事件の捜査情報を集められるだけ集めてちょうだい。データは府警のコンピュータにデータ化してあるけど、詳細や押収した物品は全てここに保管してあるはず。それから二階堂警部のこと

「二階堂さんがどうかしたんですか」何故烏丸の口から二階堂の名前が?さきほどの捜査会議を除いて二人に面識はないはず。

「上からの指示で彼にも我々の捜査に協力してもらうことになったわ。彼にはここで最近まで例の事件について捜査してもらっていたらしいから」

「上って、もしかして父ですか」

 烏丸はうなずいた。なるほど。つまりあの男は権力で二階堂を所轄へ送ったということか。二階堂が裏に情報を流したという話もでっち上げだろう。それを知れば二階堂も柳川もどう思うことか。下手すれば俺の方に怒りの矛先が向く。所轄の二階堂はともかく、柳川は敵にしておきたくない。あの二人は無駄につるんでいた。最悪、その関係をこじらせ二人を対立させておくべきか

「捜査情報は秋山刑事課長に言えば引き出せるはずよ」

 そういえば刑事課長も取り込んだとか言っていたな。

「では先にそちらをやりましょう」俺は烏丸に軽く頭を下げると会議室を後にした。

 

 刑事課まで行き、まず秋山を探した。小用で空けているのかデスクに姿はなかった。

 と、視線の先で二階堂と目が合った。二階堂は俺に気づくと馴れ馴れしく笑いかけ、近づいてきた。その横の若い刑事は素早くこちらへ敬礼する。

「乾じゃねえか。元気か」

 俺は愛想笑いを浮かべた。「ご無沙汰しております。ここだったんですね、二階堂さんが異動になった署というのは」

「ああ」と苦々しく笑う二階堂。「それよりこんなところへどうした。何か用でもあんのか」

「ええ、まあ」言うべきか迷った。だがどのみち捜査に協力してもらうのであれば必要なことだ。「唐突で恐縮なんですが、八年前の暴力団員連続殺人事件の捜査情報をお借りできますか」

 二階堂は訝しげにこちらを睨んだ。あからさまに俺を怪しんでいる。「そんなもん何に使うんだ。お前は今回の事件の捜査をしにここへ来たんじゃないのか」

 言葉に詰まった。ここでこちらの手の内を明かして仲間へ引きずり入れるべきか、それとも慎重に行くべきか。この男は無駄に鋭い。下手な真似はできない。

そこへ若い刑事が近づいてきた。

「二階堂さん、どうしたんですか」

背は高いが細身で、刑事らしい物々しさにまるで欠けた優男だ。縦社会の警察の中でこの口の利き方か。おそらく刑事の厳しさをまだあまり知らない、駐在所上がりか研修生といったところだろう。やれやれ。邪魔者が介入してきやがった。

「ああ、なんだ。乾、俺たちは今から被害者の遺族のところへ向かう。悪いがここではお前が部外者だ。捜査情報なんざ軽く渡せるわけないだろう。行くぞ、コマ」

 二階堂は俺の横をするりと通り過ぎ、若い刑事もそれに続いた。

「待ってください」

 二階堂は立ち止まったが振り向かずに言った。

「なあ、俺はもう本店の人間じゃねえんだぜ。なあなあは通用しねえよ」

 そしてそのまま行ってしまった。その声に迷いや躊躇いは伺えなかった。左遷され腐っているのかと思えば、逆に吹っ切れた様子だった。これは少し厄介だ。俺たち本店の人間を敵視しているならばこちら側へ引き入れることは困難かもしれない。

 

 

 

  33

三木武志〉

 

 約束の時間ちょうどに彼らは病室に訪ねてきた。

 彼らが来るまでの間、俺は病室のテレビでずっとニュースを見ていた。報道のほとんどが俺の家であったことだった。そこで詳しい事情を確認した。襲撃た十七人の暴力団員のうち、殺されたのが十五人で、残りの二人も意識不明の重体ということだった。やはりどの局も龍門寺影虎の存在には触れていない。事件はまだ捜査段階で、詳細が掴めていないというわけだ。

訪ねてきた刑事は二人組で、一人は顎鬚の生えた渋い感じのベテラン。もう一人は二十代くらいの背の高い男。二人の自己紹介で名前がわかった。前者が二階堂。後者が小松原。警察相手ということで俺は身構えていたが、彼らは意外にも柔らかな物腰だった。

「色々なことがあって不安も多いだろうけど、今はゆっくり怪我を治してね」小松原はベッドの横の台に見舞いのフルーツ籠を置いた。

「被害者や遺族の心のケアをするのも僕ら警察官の仕事だから。何でも話して下さいね」

二階堂は一脚だけある椅子を出してそこに座った。「早速で悪いんだが、事件の概要を聞いてもいいか」

「ええ」

 二階堂はポケットから手帳を取り出した。随分と使い込んだのか、えらく年季が入っている。「えーっと、君は三木武志くん。十六歳の高校二年生。私立玄徳学園に通学しているということで間違いないね」

「はい」俺はベッドの上で少しだけ身を起こした。

「で、家にいると突然ヤクザ集団に襲撃された、と

 少し癇に障る言いぐさだったが、俺は黙ったまま彼の手帳を見るでもなく見ていた。そこには読めないほど汚い文字が所狭しと羅列してある。

「借金があったとか、揉め事があったとか、そういうことは?」

 俺は「わかりません」と首を振った。二階堂は「なるほどなあ」と何やら手帳に書き込んでいく。「まあ高校生だもんな。もしそういうことがあっても隠そうとするもんだからな、親は」

 最後の「親は」という何気ない言葉に胸がチクリとした。この人はまだ俺の家の本当の家族関係を知らないのだろう。

「俺の口から言っても確認してるだけになっから、君の口から事件のあらましを話してくれないか。それとも気が動転して上手く喋れないか」

 俺は「大丈夫です」と首を振り、言葉を選びながら事の次第を説明した。ただ、嘘の証言をしなければならないという緊張で、口の中に粘土の高い唾液が溜まった。「暴力団員たちが来て、親父は玄関に行きました。あ、俺たちはリビングにいて俺は稽古場に行きました。お袋はどこかへ隠れていたんだと思います」

 二階堂はうなずいた。「通報してきたのが君のお母さんだった」

「それから銃声を聞いて、暴力団員たちがこっちへ来て」それから何を言えばいいか迷った。暴力団員たちが来て、俺が刀で斬りつけて、撃たれて殺されそうになったところへ影虎が来た。そしてそこにいた人たちを殺していった

 押し黙る俺を二階堂がじっと見つめてくる。「辛いのは分かるが、事件解決のためなんだ。話してくれないか」

すみません。記憶が曖昧で。確か銃で撃たれて、そこで意識がなくなり、目覚めたらここでした」

 二階堂は何度か小さくうなずいた。「そうか他に思い出せることは?どんなことでもいいんだが」

 俺は首を振った。「すみません。まだ気が動転してるみたいで」

「わかった。落ち着いてからゆっくりと聞くことにしよう。コマ、今日は戻るぞ」

 そう言い、二階堂は小松原と共に俺の病室を出ていった。

 

     *   *   *

松原正

 

 病院を出ると、二階堂は早速タバコを取り出しライターで火を点けた。もうこの光景も見慣れてしまったが、僕はまだどうもタバコの臭いを好きになれない。だいたいあんなもの、体と財布に悪いだけだろう。刑事だったら歩き仕事もあるし、犯人を追いかけることもある。タバコ吸う刑事がウケるのはせいぜい昔の刑事ドラマくらいのものだろう。

「臭うな」二階堂はタバコを咥えたまま顔をしかめた。

「タバコがですか」

「バカッ。あの武志とかいうガキがだよ」そう言って鼻から白煙を吐き出す。

「え?だって、被害者ですよ」

 二階堂は眉を寄せ、遠くを見るように目を細めた。「考えてもみろよ。自分の父親が死んで間もないってぇのに、涙どころかそのことについて一切聞いてこなかっただろ。俺があいつの立場なら警察官が来た時点でそれを聞くがな」

「確かにそういえばそうですよね」

「あのしおらしいというか、被害者じみた態度というか、なーんか胡散臭かったんだ」

 そこまで見抜いていたのか。さすがは二階堂だ。

「でも被害者は被害者ですよ。それにまだ高校生ですし」

 二階堂は呆れたようにタバコの白煙を吐き出した。「高校生ならなおさらだ。まあ、一応被害者だから強引な聴取はできねえが、看護士の話じゃ、あと数日で退院って言うし、保護とかなんとか理由付けて署で勾留しときゃ、何かしらネタを落とすかもしれねえ」

「ええ、まあ」

「そうだな今日まだ時間あるしよ、お前、高校行って敷鑑(被害者の関係者に対する聞き込み)して来い。俺は他にすることあっから」

「僕一人でですか」怯んだ僕は二階堂にきつく睨みつけられた。

「何だよ。一人じゃ嫌って小学生じゃあるまいし」

 少しむっとなった。

「違いますよ。ただ、二階堂さんの他にすることっていうのが気になったんで」

「ああ。モグラんとこに行ってくる。今頃カミサカはピリピリしてるだろうからな。今回も強引だが奥の手を使うことにするよ。それにもし犯人が八年前と同じ人間ならまたどこかで殺しが起きるかもしれん」

「待って下さい。今あんなところへ行くなんて絶対に危険ですよ」

「うるせえ。前に言っただろ、国民のために命を張ることが警察官の神髄だって。何も殴り込みに行くわけじゃねえんだから。それに、あれからモグラの安否が気になっちまってな」

 僕は何も言えず黙り込んでしまった。確かにあの後モグラはどうなったのだろうか。あの様子では殺されていたとしても不思議ではない。僕もそのへんは知っておきたかった。

わかりました。でもほんとお願いしますよ」

 二階堂は「おう」と笑い、「じゃあな」とそのまま行ってしまった。

 取り残された僕はケータイで元徳学園の場所を確認しながら考えた。何の確証もないが、もし八年前の犯人が関与しているならば今回の事件の捜査はかなり難航するのではないだろうか。それに、何故、犯人は時効成立まで迫った今になって事を起こしたのか。もしかすると八年前とは全く別の人間の仕業なのではないだろうか。

 だが考えても分からなかった。結局刑事の仕事はパズルのようなものだ。散らばった一つ一つのピースを、これでもないあれでもないと組み合わせながら目的のものを導き出す。今回の事件は散乱するピースを見つけること自体困難かもしれない。が、確実に終着点はあるはずだ。

 戦はまだ始まったばかりだが、ピースは着実に集約されていくだろう。それを組み合わせた時、今回の事件と八年前の事件は何らかの形で繋がるのかもしれない。

 

 

 

   34

右近〉

 

 強風が吹き荒れるビルの屋上で、二人の男が作業をしていた。一人はキャスターにスナイパーライフルをセットし、もう一人は周囲を気にしながら風向計で風を測っている。

「右近さん、やっぱり吊るし屋はまだ生きてるんですかね」風向計を見つめたまま三島竜二がそう言うと、右近の眉間に若干の力が入った。「だろうな。あれは十中八九井上の仕業だ。俺たちやあん中の数人はともかく、井上の存在すら知らなかったやつらまで殺すとは舐めたことをしやがる。あいつには死んでもらうしかない」

 三島は憎々しげに顔を歪めた。「そうっすよね。井上だけは生かしてはおかないっすよね」

「ああ。それにしてもまさか本当に井上が生きてたとはな

 右近は廃ビルで井上を撃った夜のことを考えていた。あの時、確かに心臓を撃ったはずだ。いや、たとえ心臓を逸れていたとしてもあの状況で生きていられるはずがないのだ。普通なら叩きつけられた衝撃で骨折はおろか辺りに肉片が散らばってもおかしくはない高さだ。だが井上の死体どころか、大雨のせいで手掛かりとなるものは何も残っていなかった。それが意味することはただ一つ。

井上はまだ生きている。

↓↓組長には殺したと報告したが、生きていたとすればまずいことになる。組長が井上の生存を知れば俺を消すかもしれん。ならばそれより先に井上を始末しておかないと↓↓

「右近さん、それにしてもなんで井上は今頃動き出したんでしょうか」

「さあな。もしかするとあの家と何か繋がりがあったのかもしれねえさあそろそろか。リュウジ、わざわざ東京まで呼んですまなかったな」

「いえ。俺は右近さんの舎弟っすから」

「ああもうすぐだ」目を眇めながらスコープの鏡筒を覗き込んだ。たった今、この男は警視庁舎の出入り口へ向けて、乾実を射殺しようと構えていた。時刻は正午を少し回り、真上から照り付ける太陽のせいで屋上はうだるような暑さに満ちていた。体中から吹き出す汗を拭うことすら我慢して、身動き一つせず、スコープから庁舎の入り口に意識を集中させる。

↓↓乾実、殺してやる。俺の命を脅かすやつは誰であろうと生かしておくわけにはいかねえんだ↓↓

 右近はここ数日の乾実の行動の大まかなパターンを掴んでいた。昼は決まって庁舎を出てブティック・今野という店で昼食をとる。そこでちょうど警視庁舎から出てきたところを狙おうという算段だ。

 引き金に人差し指を添え、スコープから入口の自動ドア周辺を睨んでいたが、どういうわけか何分経っても乾実が出てくることはなかった。

「遅いっすね」

リュウ少し黙ってろ」

 右近にとって乾実はどうしても消しておきたい存在だった。警察官の中でおそらく唯一例の薬のことを知っている人間だからだ。十年ほど前に京大の医学部で研究していたアンチエイジングの新薬は、研究段階で非常に特殊なものを生み出した。生物実験でその薬を投与した二十匹のモルモットのうち十九匹が死に、たった一匹だけに大きな変化が生じた。まず全身の毛がほぼ抜け落ち、通常時よりも1.5倍ほど体長が大きくなり、筋肉も大きく発達し強度を増した。他のモルモットとの違いを調べるためにその遺伝子を調べると、フォクソ(FOXO)という遺伝子が検出された。このフォクソ遺伝子は管理人遺伝子とも呼ばれ、寿命が著しく伸びるというごく希少なものだ。人間にもこのフォクソ遺伝子は存在するが、ある人と無い人がいて、ある人は無い人に比べ圧倒的に少ない。

結局そのモルモットは一気に老化し、一か月と持たずに死んでしまった。チームは更なる研究のために人と遺伝子が近い動物として、ニホンザルを次の実験に使用した。ニホンザルもやはりフォクソ遺伝子が無い個体は全滅だった。だが驚くことにフォクソ遺伝子がある個体でもあのマウスのようになったのは、十匹のうちたった一匹だけだった。フォクソ遺伝子を持つ個体というだけで希少なうえに、その一匹と他の九匹の明確な違いが判らないままこの実験は行き詰っていた。さらに、細胞が活性化する反面、分裂が早まることで老化が早まり、それだけ死へ近づくということで、人間への使用は見込めない薬品ということでこの研究自体の意義が問われ始めた。

研究全体を通して分かったことは、薬の投与が成功した場合、まず全身の毛が抜け落ち、筋肥大と同時に骨格が新たに形成され、更には細胞の活性化により自然治癒力が著しく高まり、多少の怪我や病気はすぐに治してしまうということ。結局何故フォクソ遺伝子がある個体で、更にはその中でも僅かなものにしか投与が成功しなかったのかは不明のまま、この研究は日の目を見ることなく終わった。

 だがそれは本当の意味での終わりではなかった。

その直後、研究室があった建物は火災で焼失し、そこにいた研究員も脱出できずにほぼ全員が死を遂げた。警察は実験中の不慮の事故ということで処理したが、実際は事故などではなかった。その実態はその研究を知った神坂組がそのデータと薬を盗み出し、口封じに研究員を事故死に見せかけて殺害したというものだった。唯一生き残った、当時研修生だった日下部達也も、先日右近によって自殺に見立てて殺害された。

 八年前、神坂組は人間の投与に唯一成功した井上海斗を抗争に使用した。当時十七歳だった井上に実の母親を殺害させ、絶望的な環境の中で彼の洗脳を遂行した。心理学的用語を用いるならば、当時の井上は学習性無力感だったと言える。学習性無力感とは、長期にわたりストレス回避の困難な状況下にあったものは、それから逃れようとすらしなくなるということを意味する。井上もこの無気力状態の中で何人もの人間を惨殺していった。

 手筈では最後の最後に井上を抹殺し、証拠を完全に隠滅するはずだったのだが、結局それは果たせなかった。

 そして、井上は未だにどこかで息を潜めている。

 だから先日の事件のように暴力団員たちを殺害していったのだ。次は自分の番かもしれないと、右近は覚悟している。

 だが生きる希望を捨て去ることなどできるはずがない。だからこうして、間接的にでも自分の命を脅かす乾実を消しておきたいのだ。

「右近さん!」背後で三島の切羽詰った声がした。振り返るとそこには二人のガタイのいい警察官がいて、それぞれこちらへ銃を向けていた。右近は状況のあまりの激変ぶりに目を疑った。

↓↓何故だ↓↓

ゆっくりと立ち上がり三島と同じように両手を挙げた。

「公安部の者だ」男の一人がそれだけ言った。

↓↓乾の部下か↓↓

「なあ、待てよ」右近の顔が恐怖に歪み、鼻の頭に汗の玉が浮かんだ。

「君たちにはカク秘(警視庁における秘密保持の階級。カク秘が最上級)で超法規的措置が許可されている。つまり殺してもいいというわけだ」男は銃を構えたまま顔を歪めるように笑った。「だが血肉が飛び散れば後始末が骨だ。大人しくしていれば獄(刑務所)までで勘弁してやる」

「わかった。わかったから

 右近の弱弱しい声に動揺した三島は、彼の方をちらりと見たが、観念したのか大人しく警察官の方へ歩き出した。

「ようし」

 二人の注意が三島へ移ったその瞬間、右近は首裏に隠しておいた小口径の銃を素早く取り出し、迷いなく発砲した。

 特有の破裂音はなかった。空を切るような音がしたかと思うと、二人はほぼ同時に膝から崩れ落ちた。それぞれ顔に穴が開き、そこからどろどろと赤い血を吹きだしている。

三島は緊張のあまりその場にへたり込んだ。「右近さん

 見ると三島の頬に赤い血の線が横切っていた。右近が発砲した銃弾が掠ったのだ。

拳銃を下ろした右近は肩で息をしていた。「危ねえリュウジ、急いでここから離れるぞ」そう言ってスナイパーライフルを素早く片付け、それが終わると虫の息の二人の刑事の手から拳銃を奪い取り、そのうちの片方を三島の手に握らせる。「お前も持っとけ。いつ殺されるかわからねえぞ」

「でも右近さん、いくらなんでもこれはヤバいですって」右近に引きずられるように歩き出した三島は後ろの死体を振り返った。三島は恐怖に顔を強張らせているが、対照的に右近は僅かな緊張の色を浮かべるだけでそれ以上動じる風もない。

「殺される前に殺しただけだ。こんなことを躊躇ってたら井上に殺られるぞ」

 二人は警察官二人の死体を残し、非常階段から逃げるように下りて行った。

 

 

 

  35

 

 中年の事務員に案内された面談室という部屋は狭くてかび臭かった。部屋の中央に低いガラス張りのテーブルがあり、それを挟むように薄汚いソファが設置されている。テーブルの横に設置された木製の台座には、中国風の柄が施された壺が飾ってあるが、ホコリを被っているために色が薄れて見える。事務員が黒いカーテンを開けると、日光に照らされて舞い上がった塵が見えた。掃除が行き届いていないということは、この部屋が使われることは滅多にないということだ。僕は事務員に促されるままに上座にあたる椅子に座った。彼は薄暗い部屋に電気をつけると、「先生を呼んできますので」と部屋を出ていった。

 待っている間に室内を観察していると後ろの壁に数枚の賞状が飾られているのを見つけた。

 平成○○年↓↓去年のものだ。剣道部か。どうやらこの高校は剣道部が強豪らしい。僕も高校の時に警察官採用試験に有利だろうと剣道をしていたが、どうも強い方ではなかった。それでも三年間なんとか続けていたが、残した最高の成績は地区大会での三勝だけだった。運動自体は得意だが、技術を要する剣道はどうも向いていなかったらしい。

 勉強なんてもっとだめだった。最初は大学に行くために頑張っていたが途中で諦めた。夢だった警察官採用試験にはなんとか合格し、それから京都府警察本部警察学校で十か月を過ごした。たくさんの厳しい訓練や課題をこなしたが、夢のためならいくらでも我慢できた。おかげでこうして曲がりなりにも刑事になれた。

 ふうっと細い吐息を吐いた時、ゆっくりとドアが開き、男性教諭が二人入ってきた。一人は校長だろか、恰幅の良い年配の男。もう一人は特徴の掴みづらい短髪の中肉中背の男。僕は背筋を伸ばし、懐から警察手帳を取り出した。「東山署刑事課の小松原です。お忙しいところすみません」

「とんでもございません。あ、私、校長の重田と申します。それからこちらが三木くんの担任の吉岡先生」

吉岡が上目づかいに軽く会釈する。僕も軽く頭を下げ、スーツのポケットから手帳を取り出した。

「早速ですが武志くんの学校での様子をお聞かせ願えますか」

 吉岡は重田をちらりと見ると遠慮がちに話し始めた。警察相手に緊張しているのだろうか。「三木は成績もいいですし、部活の剣道では去年は全国二位の成績を残し、頑張っていました」

 あの彼、それほどまでの実力があったのか。さすがは道場の跡取り息子だ。

「ですが」吉岡は口ごもった。

「どうしました?」

「は、はい。半月ほど前に剣道部に行かなくなった辺りから様子がおかしいと思っていたんです。授業態度が悪くなったというのもそうなんですが、もっとこう、目つきが鋭くなったというか

 僕はメモを取りながら軽く相槌を打った。

「剣道部に顔を出さなくなったのも、顧問の先生と上手くいってなかったらしくて。なんでも、あるとき口論から竹刀で殴ったそうなんです。ちょうどここら辺を」そう言って自分の額のあたりを触る。校長の重田は「殴ったなんて。少しかっとなって当ててしまっただけですよ」と弁解したが、どうも怪しい。そもそも剣道なんてものは特に上下関係や礼儀に重きを置く競技だ。普通口論になったからといって顧問を殴るだろうか。二階堂が言ったように武志くんが曲がっているのか、あるいはその顧問によほどの問題があるのかだ。ただこの件は事件と直接問題があるとは思えない。

「あのう、まだあるんですが」

「何ですか」

「実は三木は事件の四日前に暴力事件を起こしていまして」

「えっ」つい大きな声を出してしまった。それが本当だとしたら一大事だ。

「あ、少し語弊がありました。えっと、朝、私たちの教室である三年生がバット持って暴れてたんです。それがどうやら三木を探していたみたいで。そこへ三木が行って、喧嘩、みたいになってしまって」

「それから?」

「それからえっと

 口ごもった吉岡に痺れを切らしたのか、重田が代わりに話し始めた。「私どもも実際に現場を見たわけではありませんので詳しいことは言えませんが、そこで三木くんはその三年生をきつく罵り、怪我をさせてしまったんです。それがひどい怪我で前歯が抜けて、骨は無事だったんですが肩の関節をひどく痛めてしまったとか。これはあとでわかったことなんですが、どうやらその三年生と交際していた子を三木くんが取った、取っていないとか、そういうことだったらしいんです。結局、最初に手を出したのがその三年生だったということで、彼には退学処分を下しました」

 女関係のもつれで乱闘。その際にバットを持った三年生をボコボコにした?普通の真面目そうな高校生だと思っていたが、まさか猫を被っていたのか。剣道が強いならかなり力もあるだろう。進学校の生徒といえど不良じゃないか。

 それで話は以上だと思っていたが、校長はさらに続けた。「もしかしたらこれは関係ないことなのかもしれませんが、今日その子が登校していないんですよ」

「えっと、その子というのは、例の二人が乱闘を起こすきっかけとなった女の子ですか」

「まあ、そうなりますね」

 それだけなら別段おかしなことではない。しかし↓↓

「今朝保護者に電話したら昨日から家に帰ってないとかで女の子ですし、身に何かあったのではないかとこちらも肝を冷やしていたところで」

 何か嫌な予感がする。

「その子と退学した三年生の名前と住所を控えさせてください」

 重田は予め用意していたバインダーから書類を取り出しこちらに差し出す。僕はそれらを素早く写し取り、書き取った名前を見つめた。石井詩織と小田剛喜か。

「二人がホテルかどこかにいるといった類のことかもしれませんね」

「ならまだいいんですが保護者の方は様子を見て、場合によっては被害届を出すかもしれないとおっしゃっていました」

「そうですか。もし被害届が提出されたら捜査することになると思います。他に、何かありますか」

「あのう、三木は無事なんでしょうか。さっきからずっとそれが気になってて」おずおずとそう言ったのは吉岡。先ほどから落ち着きがなかったのはそのためだったのか。

「ええ。今は病院に入院していますが、今朝会った時は普通に会話できるほど元気でした」

 それから僕は、さすがにお父さんが亡くなられて落胆していましたが、と付け加えた。すると吉岡の視線がすっとせり上がり、僕を見つめた。

「刑事さん、もうご存知かもしれませんが、一応言っておくと彼の両親は本当の親ではありません」

 また新しい情報か。僕は「詳しく聞かせてください」とペンを握りなおした。

「入学時にご両親が内々に相談してきたことなんですが、武志くんは養子で、そのことをまだ教えたくないから一応気をつかってやってくれとのことでした」

「武志くんは、そのことを知っているんですか」

 吉岡は首を傾げた。「どうでしょう。そういったことは」

「わかりました。今日はお忙しいところありがとうございました」

 

 二人と別れ、来客用出入り口から校門へと向かった。ここへ来て正解だった。二階堂が言うように武志は完全にはシロとは言い切れない。さすがに暴力団員殺しの犯人だとは考えにくいが、必ずしも犯人が犯人らしいオーラを放っているわけではないのだ。武志のことをさっきの二人以外にも↓↓できれば彼の近辺の生徒辺りに聞いておきたいが、あいにく時間的にも今は厳しい。それに警察官といえど無関係の生徒に聞き込みを入れては学校側から何らかの形でバッシングを被ることになりかねない。ここへ来たときに校門の前を通りかかったが、マスコミ関係者らしい人物を何人か見かけた。学校側としても今回の件は警戒しているはずだ。無用な刺激をして関係を悪くさせては今後の捜査に響くかもしれない。

 ポケットから手帳を取り出し、先ほど仕入れた情報を再度確認する。石井詩織に小田剛喜。石井が行方不明というのはこの事件とは無関係だろう。ならば小田の所へ行くか?左京区↓↓少し遠いが足を運ぶ価値はあるかもしれない。

「刑事さん!」

いきなり後ろから呼ばれ、慌てて振り返ると吉岡が息を切らせながら走ってくるところだった。どうしたのだろう。何か言い忘れたことでもあるのだろうか。

「どうしました」

「あの、さっきは校長の前だったんで言えなかったんですが

吉岡は少し間を置いてから声を低くした。「これは担任としてではなく、一人の人間として言わせてください。私も噂で聞いただけなんですが、三木は以前から女癖が非常に悪く、そのために敵を作ってしまうことが多々あったそうですですから、この前の暴力事件も一概に小田が加害者とは言えないんですよ。校長は三木を庇護したがっていますが、それはこの学校にとって彼が大きな成績になるからです」

 そうか、吉岡が先ほどから様子がおかしかった理由はそういうことだったのか。この学校が武志の方ではなく小田剛喜を退学にした理由の一つにそういった策略があったとも考えられる。なら、先ほどの聞き込みでは学校側に不利になることは隠していた可能性もある。その辺はこの男が話してくれそうだ。

「石井さんと三木くんはどういう関係だったかご存知ですか」

「はいこんなことを言うのはいけないのかもしれませんが、石井は不良とまでは言いませんが、それに近い感じで。三木も一見真面目そうなんですが、どうも屈折したところがありまして。二人の関係についてはなんとも言えませんが、あの二人が男女の関係を持った可能性もあります。だとすれば小田がそれを知って、三木に敵意を持つのは当然です」

 確かにそうだ。年上の彼氏がいる女に手を出すのは挑発的な行為とも言える。年下に自分の彼女を寝取られたのであれば小田が腹を立てるのも分かる。しかし、もし武志が石井に交際相手がいることを知らなかったのだとすれば?片方の観点からでは見えぬことも、多角的に攻めれば見えてくることもある↓↓つまり、もしそうだったのであれば、武志はむしろ被害者なのではないだろうか。いくら屈折していても、いくら悪人だったとしても、イコール加害者という位置づけをすることはできかねるのではないだろうか。

「刑事さん校長の目を憚ってわざわざ言いに来た私の気持ちも汲んでください」僕の顔色を窺うように吉岡が頭を下げた。もしかするとこの吉岡という男は三木に何か負の感情を抱いているのではないだろうか。表向きは担任だが、だからといって生徒を全面的に信頼しているとは限らない。ならその感情は何だ。恨み?怒り?いや違う、そこまで薄汚れたものではない。そうか、羨望だ。自分よりも容姿や能力に恵まれていて、それを己の欲望のために利用する武志への、手の届かない妬みと憧れ。

 だとするとこの男の話を鵜呑みにするわけにはいかない。

僕は「今後の捜査の参考にします」と頭を下げた。顔を上げた時、吉岡はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、構わず踵を返した。

人間の内面がどれほどのものかなど、外側の人間が知る由もないのだ。だが目的はそれを追及することではない。犯人を逮捕する。ただそれだけなのだ。それができれば、この事件は終わりだ。

 

 

 

  36

 

 刑事課長の秋山は、一階の自動販売機前で呑気にタバコなんか吹かしていやがった。ベルトの上に乗っかった、でっぷりと贅肉のついた腹。所轄署の刑事課長なんざ所詮は捜査費用を誤魔化してできた裏金で私腹を肥やしている身なのだ。上の人間に阿るようにさえしておけばそれなりに上手くやっていける。そういう立ち位置にいる人間は一番取り込みやすい。

 俺は自動ドアをすり抜けると、秋山の元へ歩み寄った。秋山は俺が自分と同じ側につく人間だと言うことを知らないはずだ。俺に背を向けるようにして口から白い煙を吐き出した。

「秋山刑事課長ですね」俺が声をかけると驚いたように振り向いた。小さな黒目がちの目が、メガネのレンズの向こうで僅かに揺らいだ。

「君は?」

「府警の刑事課で暴対(組織犯罪対策部のマル暴以外の別の呼び方)をしている乾卓警部補です」

「あ、ああ」明らかに事情が分かっていないようだった。

「八年前の暴力団員殺しの件の捜査情報を拝見させてもらえますか」

 やっと状況が呑み込めたのだろう、口を開けたまま何度かうなずくと、慌てて持っていたタバコの火を灰皿で揉み消した。「こちらへ」そう言って歩き出し、俺を資料庫の中まで案内してくれた。

 俺の身長よりも高い棚には、解決済み、又は未解決事件の資料がそれぞれファイリングされ並べられている。押収品がある事件の場合は捜査資料と共に段ボール箱に詰められている。少し前から二階堂たちが捜査していたこともあり、その段ボール箱だけがホコリを被っていなかった。秋山はそれを手に取ると、恭しくこちらへ差し出した。「やはり極秘ですか

 どうやら危ない取引か何かだと勘違いしているらしい。まああながち間違いでもないが、俺はこの男を安心させてやることにした。「大丈夫ですよ。これも捜査の一環ですので」

秋山が安堵の息を漏らすのを確認すると、頭を下げ、その足で会議室へ向かった。

 人の散った会議室で、俺は烏丸を呼んで段ボールの中身を確認した。捜査資料に押収品の類。当たり前だが凶器はない(凶器の無い殺人事件だからだ)。

被害者が身に着けていた血で汚れたシャツ、スラックス、ベルト。どれも被害者の遺族が引き取らなかったからここに残しているだけだろう。当時の写真には被害者一人一人の所持品が写され、裏面には事細かな説明書きが添えられている。

 第一の事件の被害者、有村孝次郎、西田守、高山仁の所持品を確認する。有村の自宅で酒を交わしていたところ殺害されていたことと、犯行のあとに現場が放火されたことからどの所持品も焼け焦げていたり、灰や煤を被っていた。

 西田守↓↓二つ折り財布(現金一万五千八百円、その他カード数枚)、二つ折りの携帯電話、自動車のキー。

 高山仁↓↓長財布(焼失されていたために明確な所持金は不明)、二つ折り携帯電話、自動車のキー、メガネケース。

有村孝次郎↓↓長財布(現金三万二千六百五十二円、その他カード数枚)、自動車の免許証、二つ折りの携帯電話、自動車のキー、家の鍵。

 三人とも特に特徴のない所持品ばかりだ。

 二件目の被害者、桜田敏行はどうだろう。自宅付近のごみ置き場で深夜に殺害されている。所持品は、特になし。

 三件目の被害者、高杉会組長、石橋哲也。鹿島建設事務所があった廃ビルの七階で惨殺されている。所持品、長財布(現金六万八千二百五十五円、クレジットカード、その他カード数枚、レシート多数)、二つ折りの携帯電話、自動車のキー、自宅の鍵、そして拳銃(フィリピン製)。

「個人的には桜田の事件が気になるわね」

「何故ですか」烏丸の意見に俺は首を傾げざるを得なかった。深夜、自宅近くのごみ置き場に出向いたのであれば所持品を持っていなくても何ら不思議なことはない。まあ、自宅の鍵すら持っていなかったのは多少物騒な気もするが、暴力団員ということを考慮すれば多少のことは自分で解決できるだろう。

 烏丸は桜田敏行に関する捜査資料のページに素早く目を通していった。「自宅から数十メートルのごみ置き場まで、何も持たずに行くのはうなずけるけど、だとしたら犯人はどうやってその時間に桜田を外に呼んだんだと思う?深夜を狙って桜田待ち伏せしていたのだとしても、真夜中に外へ出る人はそうそういるもんじゃない。私は犯人が桜田を呼び出した可能性が高いと思うけど」

言われてみれば確かにその通りだ。なら当時の捜査員たちはそれを察して捜査を進めたのだろうか。烏丸から捜査資料を借りて確認する。そこに記されていた桜田の携帯電話の通話記録にはその時間帯での通話はなかったとのことだった。メールや固定電話も同様。なら犯人は桜田が出てくるまでゴミ置き場で待ち伏せしていたのだろうか。それとも何か別の方法で呼び出した?

「乾、何やっとんや」その時、俺たちの元へ柳川が歩み寄ってきた。まずい。この男は俺たちが裏で仕組んでいる「本当の捜査」を知らないのだ。

「ヤナさんこそ、今までどこにいたんですか」立ち上がり、柳川の注意をこちらへ引く。烏丸は素早く捜査資料を段ボール箱の中へ詰めていく。

「ん、やっぱり俺には現場の方が向いとるらしい。さっきから他の班の刑事に事情を聞いてまわっとったんやが、なかなかこれといった情報はなかったな」

 どのみち捜査会議が行われるのだから、その時に情報は共有できるじゃないか。まったく、せっかちな男だ。

「そうですか。ところで、二階堂さんのこと、もうご存知ですか」

 柳川は「なんや」と怪訝そうに眉を顰めた。よしよし、あとは上手くこの男を丸め込めば二階堂とこの男の間に距離を作れる。そうしておけば松平の件で二階堂が所轄送りになった本当の意味を知るリスクから、柳川を遠ざけておける。

「二階堂さんが異動になった件について、」

 

 

 

 

 

 

  36

 

 刑事課のデスクには既に二階堂がいた。暑そうにジャケットを椅子に掛けているところからして、ちょうど今帰ってきたところなのだろう。別れてからまだ二時間と経っていない。僕は少し不思議に思った。「モグラ、どうだったんですか」

 二階堂は僕に気づくと「ああ」と呟き、疲れた様子で軽く周りを見渡した。「ちょっと来い」

 狭い館内は関係者が気忙しそうに行き来していた。僕たちは廊下の自動販売機の前の少し広いスペースに移動した。二階堂はアイスコーヒーを二本買うと一本を僕に手渡した。

「ありがとうございます」

 以前焼き鳥屋に出かけた時もそうだが、この人は何かと僕に奢ってくれる。彼は遠くを歩く人たちを意識しながら、どこか上の空で「ああ」と返事した。

モグラ、どうでしたか」再度訊ねるとやっと僕の目を見た。随分と疲れているようだ。

「あ、ああ会えなかった。というか、あの様子じゃ殺されてたな」

 驚く僕をよそに二階堂は額の汗を袖で乱暴に拭った。僕は彼が何を見たのか追及しようとしたが、話は少し別の方へ移っていた。

「俺たちが行った日、あっただろ。そのあとにやっぱり暴力団員にやられてた」

「なんでわかるんですか」

 二階堂はその質問には答えず、ぐったりとした様子で缶コーヒーを啜った。

「今思うと、あの時の様子じゃ殺されることを自覚してるみてえだったな

 まるで友を失ったように苦々しく顔を歪める。僕はそれ以上訊ねることができず、仕方なく缶のプルタブを開けた。

「お前の方は」そう聞かれ、僕はさっき拾ってきた情報の一部始終を話して聞かせた。二階堂は例のごとく顎を摩りながら興味深げにうなずいていたが、僕が話し終えてもしばらく黙っていて、ゆっくりと備え付けの椅子に腰を下ろした。僕は曖昧な反応の二階堂を見て、自分が拾ってきた情報が不満なのかと不安になった。

「これはかなり大きな情報だと思うんです。武志くんが暴力に慣れていたならあの時暴力団と応戦したというのも、万に一つ無いとは言い切れません。剣道の腕は全国で二位ですし、体格だっていい。捜査会議で言えば上の人たちも容疑者をもう一度考えるかもしれません」

 二階堂は黙って床を見つめていたが、徐にタバコを咥え、ライターで火をつけた。コンビニで買えるような安いものでなく高級そうなジッポーだ。煙を吐き出し、それからやっと口を開いた。

「なあ、コマ」

 いつにない、窘めるような声だ。

「はい」

「あのガキは好きじゃねえが、今回の犯人はあいつじゃねえよ」

 どうしてそんなことが言えるんですか、と聞き返す前に二階堂の次の言葉に遮られた。

「ずっと気がかりだったんだが、今朝乾が八年前の捜査資料を取りに来ただろ」

 あの刑事のことかと黙ってうなずいておく。

「捜査会議じゃ所轄を含む捜査員が仕入れた情報を上の人間が吸収する。その役目を担う一人の乾が八年前の情報を見たがってる。それはきっと乾が独自にやってることじゃねえと思うんだ」

 つまり↓↓

「つまり、上の人間は既にこの事件と八年前の事件との関連性を見出している。誰もそんなこと知らねえはずなのに」

 冷たいものが背中を這いまわるような嫌な寒気がした。二階堂は顔を上げないまま淡々と続ける。

「お前だってあの死体の山を見ただろ。信じられねえが、あれはやっぱり人間の仕業だ。だが普通の人間じゃない。八年前の犯人と同じ、怪物だ」

 僕は返事もできず息を吞んだ。

「これはあくまで仮定だがな、八年前の犯人が関与していて、今回の騒動の時にひと暴れして逃げたとすると全部辻褄が合うんだ。そうでなけりゃ、たとえ腕っ節の良いガキでも暴力団員十七人相手にあんな真似できるはずがねえんだ」

 僕は苦い表情のままうなずいたが、どうしても納得いかなかった。

「逃げたってでも犯人はカミサカ側の人間でしょう。だったら何故同じカミサカの人間を殺したんですか。やっぱり犯人は別にいるんじゃ↓↓

「裏切りはある。裏社会でも、表社会でも」

 彼のタバコを持つ手が震え、長くなった灰が床にぽとりと落ちた。自分の経験と照らし合わせているのだろうか。だが僕にはそんなことを気遣う余裕はなかった。

「でもなら、どうして武志くんはそれを言わなかったんですか。僕には犯人を庇うような供述をした意味が分からない。それにその犯人だって、彼らを守るために人を殺すほどのリスクを冒した意味があったんでしょうか」

 床の一点を見つめていた二階堂の視線が、じわじわと僕の方へせりあがっていく。

「その家族を助けるためじゃなく、組員を殺すためだったとしたらどうだ」

 僕ははっとした。殺すために殺した。つまりはそういうことなのか。

「そいつが昔の仲間に大きな恨みを抱いていて、殺そうとしていたんだとしたら分からないこともねえぞ。それにあのガキを脅して嘘の供述をさせることなんざ、きっとやつにはたやすいはずだ。もう一つ気になってることがある。犯人はなんで時効間際の今になって事件を起こしたのか。それからなんで俺たちはこんなタイミングで八年前の事件の捜査に当たらされたのか。言い方を変える。どうして俺はこんなに都合の良いタイミングでここへ飛ばされたんだ!」

 最後は荒い口ぶりだった。

「二階堂さん

「ここへ来る前、俺はカミサカの別の事件を追っていた。そこで仲間が殺され、俺が裏に情報を売っていたって疑いがかけられた。実際俺はそんなことしていないが、問答無用でここへ飛ばされたよ。そんで俺はここへ来たとき、いきなり八年前の事件の再捜査に当たらされた。そうだ、八年前の事件を調べるにはここへ降りてくる方が都合がよかった。それに、俺は当時捜査していて勘が働く」

「まさか、上の人間の陰謀で」

気味の悪い汗が僕の脇からシャツを濡らしていった。

 二階堂は人差し指の節で眉間を押さえながら何か考えている。

「連続殺人犯が時効まで待たずに直前で犯行に及んだ。そうなれば考えられることは一つだ。やつは自分の全てを賭けている。もしこれが本当に復讐だとしたら、必ずまた組員の誰が殺されるだろう」

 僕たちの視線が交錯した。お互いに恐怖と緊張のあまりに顔が強張っていた。

「なら早く上にそのことを知らせないと」

 そう言って立ち上がりかけた僕の手首を二階堂が乱暴に掴んだ。

「馬鹿かお前。俺を嵌めてここへ飛ばしたやつらだぞ。もし何らかの策略があるならば上層部とカミサカは繋がっているかもしれん。簡単に情報を預けるのは危険だ。それにあの捜査官の烏丸とかいう女、どうもいけすかねえ。あの歳で捜査官なんてどう考えても上の人間の思惑だ」

「なら一体どうしろって言うんですか」

 焦りを隠しきれない僕を前に二階堂は渋っていたが、ついに決心を固めたようだった。

「俺たちだけで独自に捜査する」

 そう言った彼の目には紛れもなく強い意思が宿っていた。数々のヤマを経験してきたベテラン刑事だけが見せる特有の、鋭利なものだ。

「いくらなんでも、危険すぎやしませんか」

 立ち上がった二階堂は狼狽する僕の肩を力強く叩いた。

「どのみち危険だ。それにこのままあの化け物を世に泳がせておくよりはよほどマシだろ?」

 僕はおずおずとうなずいた。独自の捜査なんて発覚したらどうなることか。減給か、駐在所に逆戻りだろうか、まさか懲戒免職にはならないと思うが↓↓

「面白くなってきやがった」二階堂は無精髭の口元を歪ませた。「俺ら二人でホシを挙げる。そんで聞いてやろうじゃねえか。なんで人が人を殺すのかってえのを」

 その時遠くから廊下を靴が叩く硬い音がした。見ると本店の警察官らしき男女三人が並んで歩いてくるところだった。二階堂は彼らに見覚えがあるのかじっと睨んでいる。

「ヤナ

 息を漏らしたような小さな声が確かに聞こえた。

事件の捜査官の女性を先頭に二人の男が続く。一人は今朝会った乾。もう一人が「ヤナ」という男だろうか。全員険しい表情を浮かべている。

「二階堂警部ですね」

 そう言ったのは捜査官の烏丸。見た目は三十代前半。若作りしているとしても、まさか四十代には満たないだろう。この人が捜査官と知った時は正直驚いた。年配の男性警察官の役目というイメージが強かったからだ。

 二階堂は烏丸の問いに返事もせず、怪訝そうに目を細めた。きつく睨んでいるようにも見える。

「以前府警にいらしたと彼らから聞いています。私は今回の事件で捜査官を務めさせていただくことになった烏丸です」

マル暴の二階堂だ」タバコを灰皿に押し潰しながら、凄むようにそれだけ言う。

二階堂のぶしつけな態度に烏丸の細い眉が寄った。

「年下に敬語は使いませんか」

 二階堂は目を尖らせ、口だけで笑った。「悪いが、女にも敬語は使わない主義なんでね」

 烏丸はあからさまに顔をしかめた。二階堂はそう言ったが、僕は牛丼屋で女性店員相手に敬語を使っているところを見ている。やはりこの烏丸という女を挑発しているのだろうか。

「このご時世に男女差別ですか。考え方が古いようですね。私は女ですが、この班の主任です」

「おい待て。そこの柳川じゃなく、あんたが主任なのか。それに班員がもう一人足りないようだが」

 上目づかいに烏丸が笑った。「特例で、この三人で第一係を任せられました。足手まといが無い分捜査がスムーズになるという上の方針みたいです」

 そう言い、細めた目でちらりと僕を見た。汚いものでも見るようなその目つきに、僕の胸がちくりと痛んだ。その僅かな目の動きを二階堂は見逃さなかった。

「くっ。エリート気取ってんじゃねえぞ、この尼が。マル暴はデスクワークじゃねえんだ。女はオフィスで茶でも淹れときゃいいんだよ」

「口を慎め」

 そう言ったのは烏丸の後ろの男だ。

「柳川、元気そうだな」

「悪いがお前と馴れ合うことはもう二度とない。本店の面汚しめ」

「お前それ、本気で言ってんのか!」

 僕は彼の胸ぐらに掴みかかろうとした二階堂を必死に押さえつけた。「落ち着いて下さい!」

「柳川、乾、お前らはいつからこの女の犬になったんだ!マル暴のプライドを忘れたのか。警察はサラリーマンじゃねえ。肩書きよりも足で勝負するもんだろうが!」

「やめなさい」烏丸が冷たく制した。

「二階堂刑事、立場を弁えなさい。過去に府警の人間だったとしても、今のあなたは所轄の人間です。所轄は所轄の仕事をしておきなさい」

 二階堂はぎりぎりと歯を噛みしめた。さすがに僕も今の言葉には腹が立った。

「行くわよ」そう言った烏丸を先頭に柳川と乾が続く。すれ違いざまに乾がぼそりと呟いた。

「本店の犬になったのは、あなたの方ですよ」

 二階堂は屈辱に肩を震わせ、ただ足元に視線を落としていた。

 

 刑事課長、秋山警部が八年前の暴力団員連続殺人事件の捜査情報を烏丸に提出したと知ったのは、そのすぐ後のことだった。

 

 

 

  37

 小林ユリ

 

 朝起きて、眠い目を擦りながらテレビ画面を見た時、小林ユリエは何かの間違いかと思った。リアルタイムで見覚えのある壱武館が大々的に映されていて、多くの報道陣が家の前の道路にごった返していた。テレビ画面に家族の顔が映ることはなかったが、それでも間違いなくあの家だった。門の所に広がる夥しい血を見た。既に乾いていて赤黒くアスファルトにこびりついている。三木剛志、あの優しい武志のお父さんが殺されたのだと知ると、全身の力が抜けた。

↓↓なんで↓↓

 考えても分からなかった。警察でもわからないことがユリエにわかるはずもなかった。立ち尽くすユリエの肩に母がそっと手を置いた。

 二十分間にも及ぶ報道が終わった時、ユリエは膝からくずれて泣いてしまった。

 

 今日は学校を休んだ。両親も、泣き崩れるユリエを前に到底登校を強要することなどできなかった。ユリエはそれからもずっとテレビの前に座り、チャンネルを変えながら各局の報道を凝視していたが、何を思ったのか「行ってくる」と立ち上がった。武志の家はここから路地を三本挟んだだけのすぐ近くにある。スウェットのまま、ユリエは親が止めるのも聞かずに家を出た。

武志の家までサンダルで走った。近づくと野次馬の声が聞こえてきた。

 武志はここにはいない。きっとどこかの病院か警察署にいるんだ。そうとは分かっていたが、どうしてもそこへ向かわずにはいられなかった。

「ちょっと、通してください」

 人ごみを無理やりかき分けた先には黄色いビニールテープが張ってあり、人を通さないようにしてあった。マスコミも外側から撮影を続けている。

 ここにいてもどうしようもないとわかると、来た時と同じように人ごみから抜け出した。

↓↓何であいつがヤクザなんかに↓↓

 泣き出しそうなのを堪えながらとぼとぼと歩いていたユリエは、人だかりから距離を置いた場所に見覚えのある人を見つけた。

 制服姿の桜田澪が顔を青くして立ちすくんでいた。

桜田さん」

 恐る恐る声をかけたが、桜田は呆然と立ち尽くすだけだった。ユリエは桜田に駆け寄ると彼女の目の前に立ちふさがった。

「ねえ」

 桜田はゆっくりと視線をユリエの方に上げ、泣き出しそうな細い声で言った。

「私のせいかもしれない

どういう、こと?」

 崩れ落ちた桜田は息を噛み殺すように泣き出した。

 

 

 

  38

 

 警視庁からの応援として、特殊部隊を含む総勢二百人の捜査員と、更には公安部の警視官、乾実が直々に駆けつけた。朝の捜査会議では前日の捜査状況を捜査員たちがそれぞれ述べていった。その中で、府警の捜査員が興味深い情報を発表した。事件発生直後に現場から走り去った一台の車を目撃した人がいるという。ナンバーや車種は不明だが、黒いワゴン車だったいうことだ。捜査会議ではそれが犯人だという見解を強め、犯人が京都市内から逃亡できないように各地に検問を設置することに決定した。捜査会議に顔を出した乾実警視官の話では、他県警にも協力を要請し、今日中に四千人以上の捜査員を動員するということだった。更にはマスコミにも情報を提供し、市民にも捜査の協力を呼びかけるという特例の捜査方針を取るということになった。捜査員全員に拳銃携帯命令が下されたのもこの捜査会議でのことだった。

 捜査会議が終了すると二階堂は「被害者のところに行くぞ」と立ち上がった。

 その時彼を呼ぶ声がして、振り返ると乾実が僕たちを見ていた。二階堂は怪訝そうに眉を顰め「はい」と返した。警視官が二階堂に一体何の用があるというのだ。

「少しだけ、いいかね」

 僕たちが歩き出した乾実についていこうとすると、彼は「すまないが君は外してくれ」と僕を遠ざけた。

「コーヒーでも飲んで待っててくれ」二階堂は狼狽える僕にそれだけ言うと乾実について歩き出した。二階堂は何か知っているのだろか。もしかすると彼を嵌めたという上層部の人間というのは、乾実なのではないだろうか。

 

     *   *   *

 

 空いている取調室に案内され、二階堂は大人しく扉をくぐった。乾実は二階堂に軽く笑うと、ついてきた男に「外してくれ」と二階堂と二人だけの空間を設けた。

 二階堂は立ったままだったが、構わず乾実が口を開いた。

「二階堂警部、京都府警で卓がお世話になったそうだね。礼を言うよ」

 やはり乾の父親かと二階堂は息を漏らした。この男が本心で言っているのかはわからなかったが、少なくとも挑発しているようには見えなかった。

「ええ、まあ。警視官、まさかそんなことを言うためだけに、わざわざ時間を割いたわけではないですよね」

 乾実は薄く笑うと鋭い顔つきになった。

「単刀直入に言おう。私たちは公安で独自に八年前の京都市暴力団員連続殺人事件を追っていた。君が最近まで捜査していたそれだ。我々は今回の事件と八年前の事件の犯人は同一だと睨んでいるが、どうだね。我々に情報提供してくれないか。もちろんタダでとは言わない。犯人が逮捕されれば君には警視という肩書きを与えるつもりだ。なんなら察庁(警察庁)で採用してもいい。本来君はキャリア組なのだから、現場にこだわる必要はないと思うが?」

 二階堂はパッケージからタバコを取り出し、「買収ですか」と笑った。

 確かに二階堂は国家公務員試験Ⅰ種に合格している。これはかなりの難関で、これに合格した者だけがキャリア組と呼ばれ、国家公務員試験Ⅱ種に合格した者は準キャリアと呼ばれる。今までも出世のタイミングはあったが、二階堂は現場に留まるためにそれを断り続けていた。

「君の活躍は本庁の方まで届いている。マルB(暴力団)捜査において相当優秀なんだって?」

当たり前だ。潜入捜査の経験がある刑事すら少ない時代なんだから、と二階堂は心の中で毒づいた。

「京大卒のキャリアの君がどうして昇進試験も受けないでこんなところで燻っているんだ」

 咥えたタバコを右手で拾い上げ、二階堂は乾実を疑いの目で見つめた。「ここへ飛ばされたのは二週間ほど前です。ご存じありませんでしたか、警視官」

 乾実は目を眇めて鋭く笑った。

間違いない。この男こそが裏で糸を引いている立役者だ。

 二階堂はさらに続けた。「荒木健一の事件を発端に俺がここへ飛ばされたのは、全部上の人間の仕組んだことなんでしょう。八年前に俺はこの東山署でその暴力団員連続殺人事件を追っていました。だから勘が働く俺にこの事件を当たらせたかった。違いますか」

 狼狽の色を少しは見せるかと思われたが、反対に乾実はゆっくりと笑顔を作った。憎らしいほど満足げな笑顔だ。

「さすがだ。そこまで見抜いているとはね」

 あっさりと認められたことで逆に二階堂の方が狼狽えた。

「あなた方がやっていることはれっきとした服務規程違反だ。俺は汚名を着せられたんですよ

「すまないと思っている。だが、これも大義のためだ」

 平然と言ってのける乾実が、二階堂には腹立たしかった。大義なんて言葉を言い訳に使うんじゃない。上の人間の都合で関係のない者にまで干渉するなんて許せない。二階堂は右の拳を固く握りしめた。

「我々は既に人員を確保している。捜査官の烏丸や息子の卓もそうだ。他にもここの署長、副署長、刑事課長もこちらへ取り込んでいる。もし君が断ればここに居づらくなるぞ」

 二階堂は昨日刑事課長の秋山が当然のように乾に情報を横流しにしていたことを思い出した。つまりはそういうことだ。金や出世のためなら平気で卑怯な真似をする。これが人間の浅ましさというものなのか。

「もし断れば?」

 この狭い空間で、一対一で話すには威圧が大きすぎる相手だった。乾実の背後には国家という最強の組織が構えている。この男は警察官でありながら半分は政治家なのだと二階堂は生唾を呑んだ。

 じっと真顔で見つめてくる間の沈黙に、二階堂ですらも緊張の色を隠しきれず、額から汗が流れ落ちた。

 ふと乾実は二階堂から視線を外すと、窓の方へ移動した。

「十年前、君は別の事件を追う中で高杉会に潜入捜査したそうだね。暴力団への潜入捜査は危険極まりない。ヤクザは組織に属す刑事を殺さないと一般的には言われるが、潜入捜査員に対しては別だ。身内の情報を売る人間は警察官でも容赦しない。三か月に及ぶその危険な捜査で、君は高杉会自体を潰すことはできなかったものの、ホシだった、銃の密売人、工藤久を上げたそうだね」

 確かにそれは実際にあったことだ。本来は銃対(銃器対策部隊)が担うべき事件だったのだが、ホシがあまりにも危険だという理由で組織犯罪対策部から二階堂が選出された一件だ。だが今、それが一体この話と何の関係があるというのだ。この男の意図が読めない。二階堂は警戒しながらも「はい」と肯定せざるを得なかった。

「その三か月で君は暴力団員の心を掴み、とりわけある男と親しくなった。その男の名は桜田敏行。当時君は三十五歳で敏行は三十三歳。歳の近かった君たちは急速に近づき、敏行は君を兄のように慕うようになったそうだね。潜入捜査員と暴力団員との間の情とは、また皮肉なものだな」

何故この男がそんなことまで知っているんだ。このことを話した男はたった一人だけのはず↓↓

 二階堂は全身が粟立つのを感じた。何故ならこの話をしたたった一人の男というのが、他でもない、柳川邦彦だったからだ。

柳川、俺を売ったのか

 冷たい口調で乾実はさらに続けた。

「上手く身を引いた後も君たちの関係は続いた。だが、二年後に発生した暴力団員連続殺人事件で桜田敏行は惨殺された。おそらく、たった一昨日起きた事件の真犯人、井上という男によって」

イノウエ。この男は既に犯人の名前まで割っているのか。一体どこにそんな情報源があるというんだ

「奇しくも、君はその事件の捜査に当たらされた。弟のような男を殺した犯人を許すことなどできなかっただろう。君は個人的な怨恨を持って捜査に臨んだ。その捜査の中で、君は敏行の小学二年生の娘が強姦傷害事件に遭っていたことを知る。これでその怒りに拍車がかかった。まだ小学二年生の女子児童に強姦とは、私も胸がいたくなる話だ。だが、君たちのそんな関係を露も知らない上司たちは、結局捜査を打ち切りにした。君にはそれが大きなストレスだったはずだ。本来服務規定には、被害者が身内の場合、職員は自ら申告し捜査を外れなければならない、というものがある。これは捜査員に私的な感情を持ち込ませないためのものだ。だが君は申告しなかった。何の血の繋がりもないのだから、もちろんこれは何の処罰の対象にもなることもない。だが↓↓

 乾実は不気味に口元を歪めた。窓からの逆光のせいで全身が黒いシルエットとなり、顔の輪郭だけがぼんやりと光りを受けている。二階堂にはおそらく次に来るであろう言葉が分かっていた。そして、それがどういう意味を持つことなのかも。

「実際は君と敏行は腹違いの兄弟だった。君はそれを隠して捜査をしていた。まあ当然だ。身内に暴力団員がいたとなっては立場がなくなる。刑事、それもマル暴としては致命的だ。さらに君はもう一つ隠していることがある。現在君はその敏行の娘の、桜田澪の親代わりをしているようだね」

 二階堂のシャツの背には冷たい汗が染み込んでいた。小さく肩を震わせながら乾実をじっと睨んだ。

「いつからそれを」

二階堂にしては珍しく力のない声だった。

「つい最近のことだよ。少し卓にも調査を手伝ってもらったんだが、悪く思わないでくれ。何も君の生活をめちゃくちゃにしようなどとは思っていない。姪御さんのこともある。高校生なんだってね。まあ叔父が姪を引き取ることは問題じゃない。問題なのは君の弟が暴力団員だったということの方だ」乾実は息を吐くように軽く笑った。「最初は驚いたよ。まさか隙のなさそうな君からこんな綻びが出てくるなんて。どおりでやたらと裏の事情に詳しいわけだ。信用していても、たった一人に話せばそれが命とりになることもある。よく覚えておくんだな。君が望むなら、柳川警部補は地方に飛ばすことも可能だぞ」

 二階堂は力なく首を振り、ゆっくりと頭を下げた。「それではあいつがあまりにも可哀想です。あいつに罪はありません。勘弁してやってください」

「そうか。君が我々に協力してくれるのであれば、敏行の件も帳消しにしよう。ただし、しないと言うのであれば、私は警視官として然るべき処分をするつもりだ」

わかりました。捜査に協力させていただきます」

 乾実は満足げにうなずいた。「そうこないとな」

「ただし」二階堂はゆっくりと顔を上げた。「得た捜査情報は全てこちらにも回してください。そうでなければこちらも動けません」

「ああ。そうだな」

「それから、それから出世させてやるなら、さっき俺といた小松原巡査にしてやってください」

 もう一度深々と頭を下げる。乾実は黙って二階堂を見ていたが「君がそれでいいのなら」とそれを受け入れた。

「では捜査に戻ってくれ。くれぐれも他言しないように。捜査資料は烏丸を経由してデータで渡す」

 二階堂は更に頭を下げ、取調室を後にした。

 

     *   *   *

 

 二階堂が取調室をあとにした後、乾実は窓の曇りガラスを見つめながらタバコを一本取り出した。

↓↓今夜は新沼と菅谷の葬儀か↓↓

 昨日ビルの屋上で殺害されていたのを、帰りが遅いと不審に思った別の警察官が発見した。二人とも顔から夥しい血を流しながら死んでいたという。本当は葬儀に参列したかったのだが、事件の方がどうしても心配だった。昨日の通夜にはなんとか顔をだし、急いで直後の新幹線でここまで来た。

↓↓せめて顔はやめてやってほしかった↓↓

 顔にあれだけの傷があると遺族に遺体を会わせてやることもできなくなる。そのうえ遺族には捜査中の殉職というだけのことしか報告のしようがない。守秘義務という警察官の宿命だ。刑事なのだから仕方ないと言えばそれまでなのだが、やはり、やりきれない感がある。遺族には火葬した骨だけしか手元に届かないという。なんというか、哀れ極まりない。

乾実はぐっと目頭を押さえた。

↓↓二人を殺したのは間違いなく日下部を殺した男だ。いくらなんでも許せない↓↓

 タバコを右手に下げたまま、乾実は取調室を出た。

「親父」

 目の前に息子の乾卓が立っていた。直接会ったのは実に数年ぶりだったが、今は父親という立場を忘れ、一人の上司として毅然とした態度で振る舞わなければならない。

「職務中だぞ」

 息子は本庁にいた時よりも眼光が鋭くなり、頬が少しこけて刑事らしくなっていた。幼いころから勉学に親しませ、厳しいことも言ってきたつもりだ。卓には苦労させたと思っている。

「二階堂警部はこちらの捜査に協力してくださるそうだ。色々と人間関係をこじらせてしまって、すまなかったな」

 乾卓は軽く首を振ると言った。「何かを為すためには犠牲はつきものだと、親父はいつも言ってたでしょう」

 乾実は何も答えず、代わりに今は自分よりも背が高くなった息子の肩を軽く叩くと会議室へと戻っていった。

 

 

 

  39

 

 二階堂が乾実警視官に呼ばれた後、僕は言われたとおりコーヒーを買うために、入口の自動販売機前に来ていた。小銭を投入し、ブルーのパッケージ、エメラルドマウンテンのボタンを押す。ガタンと落ちる音がすると、腰を屈めてそれを拾い上げる。冷たい感触が右手に心地いい。

見上げると空からは痛いほど燦々とした陽光が照り付けていた。もう梅雨は明けたらしい。街路樹の葉っぱもこの暑さで元気をなくしている。

プルタブを開け、ゆっくりと喉に流し込む。コーヒー特有の芳醇なほろ苦さが口全体に沁み渡る。学生の頃はコーヒーなど苦いだけで、格好を付けたいやつが飲むものだと思っていたが、二十代になってから急に味が分かるようになってきた。苦さの中に深みやまろやかさがある。他の飲物とは別格だ。そんなことを考えていると受付からいきり立つ男の声が聞こえてきた。

「生活安全課ってどういうことですか!普通刑事課だろう」

 見ると受付嬢に中年の男が怒鳴っていた。受付嬢が僕好みだったからとかそういうことではないが、仕方なく止めに入った。

「どうしたんですか」

 男はにわかに荒い息で僕の方を見た。

「刑事さんですか。いいところに来た」

 見た目だけで刑事だとわかるとは、ちょっと嬉しい気がした。交番勤務時代には「おまわりさん」などと呼ばれていたが、やっと一介の「刑事」になれたのだと改めて実感する。

「小松原くん

 助かったとばかりに僕を見るこの受付嬢は、確か会計課の中西さん。狭い署内では大抵の職員は顔見知りだ。一つか二つ年上で、何度か「ミワコ」と呼ばれているのを聞いたことはある。まあ、ちゃんと喋ったことは一度もないのだが。

「刑事さん、娘が誘拐されたんだ。これってどう考えても刑事事件ですよね」

 誘拐?だとすると間違いなく刑事事件だが、捜査本部が開設されたこともあり、立て込んでいて生活安全課へ回しているというのならないでもない。

 中西は困り果てた様子で男に言った。

「まだ誘拐って決まったわけじゃないでしょう。小松原くん、この人の高校生の娘さんが一昨日から家に帰ってないんですって。まだ事件って決まったわけじゃないから生活安全課へ案内してるところ」

 もしかして昨日元徳学園で話に出た石井さんのことだろうか。

「すみません、もしかしてあなたの上の名前、石井さんというんじゃないですか」

 男は目を丸くして何度もうなずいた。「ええ、そうですが。何故それを」

 被害届を提出しに来たところなのだろう。あの子は連絡もなしに二日も家に帰っていないのか。小田くんといったか、その彼の家に泊まっているにしても向こうにも親御さんがいるだろうし

「別件でちょっと高校の方へ行った時に校長先生からお話を伺いまして」

 怪訝そうに首をかしげていた男だったが、何かを思い出したように大声を上げた。

「あっ!もしかしてそれ、この近くであった暴力団員ナントカ事件の!刑事さん、もしかして娘はそれと何か関係があるんですか」泣きつくように僕のシャツに掴みかかってきた。娘がいる父親の気持ちは理解できそうもなかったが、なんだかどうも可哀想になってきた。困惑しながら中西に横目で助けを求めたが、彼女は申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべただけだった。仕方なく僕は男の肩を掴む。

「落ち着いて下さい。話はきちんと伺いますから」

「ありがとうございます。さすがは刑事さんだ」男の目が輝いた。

今から捜査に行こうとしていたところだったのに、面倒なことに巻き込まれてしまった。

「やっぱりこれは刑事課で対応してくださるんですよね」

「それも含めてお話をお聞ききしまますから。どうぞこちらへ。中西さん、二階堂さんが来たら刑事課にいると伝えておいてもらえますか」

「はあい」何だか間の抜けた軽い返事だった。仕方なく男を刑事課がある二階へと階段の方へ連れていく。途中振り向くと中西が両手を合わせて笑っていた。まったく。本当に面倒なことになった。

 

「なるほど。学校に行ったきり帰ってこないわけですね」

「はい」

 刑事課の一角にある「接待コーナー」と呼ばれる、二つのソファーとテーブルが設置された一角で、僕は男の話を聞いていた。普段ここはベテラン刑事の溜まり場のようになっているが、どういうわけか今日はすんなりと席を譲ってくれた。もちろん話を聞くための場所なのだから当然だが、二階堂と組んでから、どうも僕に対しても扱いが良くなったような気がする。

「えーっと、それで被害届を提出しに来たということですね」

 手帳に書き取ったことを見返しながら訊ねる。こうしていると自分でも刑事らしくなったと改めて感じる。

「そうです。刑事さん、これは刑事事件ですよね」

「どうでしょう。実際に被害に遭われたわけではないので、こういう場合は大抵生活安全課での捜査ということになります」

 現にこういう案件は結構頻繁に持ち込まれるが、大抵はラブホテルなどで遊んでいるか、駆け落ち(この場合は他県警に捜査要請することもあり非常に厄介だ)、または(プチ)家出という場合がほとんどだ。実際は被害がなければ追い返すことがほとんどらしいが、運よく生活安全課へ持ち込まれる場合もその多くが粗雑な捜査で片が付くという。最終的に行方不明者がふらっと家に帰ってくるというのがほとんどで、最低でも三日は家に帰っていないという場合に初めてやっと刑事事件としての捜査が始まる。

「そんなわざわざ仕事まで休んで来たっていうのに。あなたに親の気持ちの何が分かるっていうんだ!」

 可哀想だとも思ったが、よく考えれば彼氏がいるにもかかわらず他の男に手を出すような女の子だ。きっとギャル系で、いわゆるビッチなのだろう。単にどこかで遊んでいるに違いない。

 うんざりしながら言い返そうとした時「おーいコマ、何やってんだ」と僕を呼ぶ声がした。二階堂だ。

「はい!」

 慌てて返事すると、二階堂は「何やってんだよ。探したんだぞ」と苛立たしげに寄ってきたものの、すぐに状況を察したのか、静かに僕の隣に腰掛けた。僕は彼に今までの経緯を簡単に説明した。

「なるほどな。あ、私、刑事課組織犯罪対策係主任の二階堂と申します」

 その肩書きから頼れると人間だと思ったのだろう。男は二階堂に深々と頭を下げた。「お願いします。娘の命を助けてください」

 少し大袈裟じゃないか、と思いながら横で聞いていると、驚くことに二階堂は「わかりました」と即答した。

「ちょっと。今から捜査に行くんじゃ

 だが二階堂はちらりともこちらを見ない。「私の専門は暴力団絡みの事件でして、こういった案件は専門外ですが、一応当たれるところを当たらせていただきます。ただ、やはり刑事課よりも生活安全課の職員が専門なので、是非そちらにも当たってみてください。刑事課の二階堂が捜査してくれと言っていた、と言えばわかってくれるでしょう。何かありましたら遠慮なくこちらにお電話ください」

 そう言って名刺を一枚、机の上で差し出す。男は目に涙を浮かべながら深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。ありがとうございます

 

 男が帰った数十分後、僕と二階堂は地下鉄で移動し京都大学病院へ向かって歩いていた。車内ではお互いずっと黙っていたが、僕はとうとう耐えられなくなった。

「さっきの、捜査してあげたくなったのは分かりますけど、僕らには今追うべき事件があるじゃないですか。二階堂さんだって、この事件は俺たちだけで独自に追うって意気込んでたところですよね」

「お前な、さっきから何言ってんだよ。俺はあの案件を上手く断ったんじゃねえか」タバコを咥えながら鼻を鳴らす。言われてみると確かに捜査は生活安全課がメインになるといった話ではあった。

「ああいうのは真摯な対応をするフリしときゃいいんだよ。真っ向から対立したらかえって怒りを逆撫でするだけで、最悪訴えられちまうからな」

 なるほど。確かにそれはあるかもしれない。

「ところでさっき警視官の方と何を話したんですか」

 僕がそう聞いた途端、二階堂の鼻に皺が寄った。「買収提案だよ。極秘で捜査してる事件の情報を流せと頼まれた。八年前の暴力団員殺しだ」

「それってやっぱり上は八年前の事件と今回の事件が何らかの繋がりがあると見てるってことですよね」

 二階堂は何も言わずにうなずき、顎にそっと左手を添えた。

「そんで警視官は何故かその犯人の名前を知っていた。上しか言わなかったが、井上って名前だ」

 井上↓↓。聞いたことのない名前だ。それにしてもどうして八年前に血眼になって追っていた犯人の名前を上層部の人間が知っているのだろうか。やはり裏の組織と何らかの繋がりがあるということだろうか。だとしても何故、そこまで割れているのに犯人を特定できないのだろうか。それに情報を公にして捜査に踏み出さないところから考えて、その情報源は間違いなくブラックだろう。あの乾警視官という男、相当な曲者だろうな。

「まさかその買収に乗ったわけじゃないですよね」

僕の質問に二階堂はあっけらかんと「乗ったよ」と答える。さすがに言葉を失った。この人は何を考えているんだ。情報を上層部に垂れ流せなんていう馬鹿げた買収に乗る意味が分からない。だがそこは二階堂のことだ。まさか意味もなくそれを呑んだとは考えにくい。

「そんな怖い顔すんなよ。捜査に協力してやる代わりに上が仕入れた情報は全て俺たちにも下ろして貰える。それなら文句はねえだろ」

 そうは言ってもやはり釈然としない。あれだけ上の人間に敵意を剥き出しにしておいて、条件が良ければそれを簡単に呑むというのか。

「ですが

「コマ、これは捜査だ。手柄をあげることが目的じゃない。本当の目的は犯人をパクって獄にぶち込むことだ。そこをはき違えるな」二階堂は凄みを利かせるように言ったが、そういうのにも随分と慣れてしまった。

「でもいいんですか。僕はやっぱり上の人が何らかの表に出せないようなことを隠しているように思います。これは勘ですが、恐らくそれは警察官僚が使う裏ルートか何かで、どうしても表沙汰にできないことなんじゃないでしょうか。だから二階堂さんを使って自分の手を汚さないようにしている本当にそんな人間を信じて命を張る意味はあるんですか」

 陽の光に目を細めるように、二階堂はすっとこちらを見上げた。強い斜光のために目元に陰ができ、その中で瞳が小さな光を揺らしていた。

「俺だって、俺だって本当はこんな理不尽な捜査はごめんだ。上層部は既に何か掴んでて、俺たちはその犯人を追うためのダシにされてるだけなのかもしれねえ。これじゃまるで掌で踊らされてるのと同じだ。でもな、だとしても俺はどうしてもホシを逮捕してえ。いや、願わくはその眉間に銃弾の一発でもぶち込んでやりてえよトシを殺したやつだからな

 彼が拳を強く握りしめたのがわかった。そこからは強い憤りのような黒く染まった感情が伝わってくる。

暴力団員連続殺人事件の捜査資料は全て頭に叩き込んである。トシとはつまり、第二の事件の被害者、桜田敏行のことではないだろうか。

 深夜に住宅地のごみ置き場で殺害されていたという高杉会の若衆の中の一人。確か享年三十五。高山仁、西田守、有村孝次郎に次ぐ四人目の被害者だ。その桜田敏行と二階堂との間に一体何の因果があるというのだろうか。

「二件目の事件で殺された桜田敏行は、俺の弟だ。十年前にダイブ(潜入捜査)したときに再会したんだが、まあ驚いたよ。腹違いで二個下だった不良あがりの弟が、今回の『対象』なのかってな。笑っちまうだろ?マル暴の俺の弟がヤクザとはな。とんだ茶番だ」

 二階堂は鼻で笑ったが、僕には到底笑える話ではなかった。警察官にとってそういった繋がりが致命的なことぐらい僕にだってわかる。しかしそのことに関しては二階堂自身に非があるわけではない。それほどの秘密をずっと抱え続けることは、相当な障害になったのではないだろうか。

「ダイブが終わった二年後に、理由は知らんが敏行は殺された。俺はその捜査に当たらされたんだが、刑事の身内にヤクザがいるってのは痛手でな、誰にも言えずに任務に従事した。結局犯人は捕まらずに打ち切りになったんだが、俺の中でその事件は永遠に終わらなかった。敏行には妻と娘がいたんだが、すぐに妻は病死。残された娘は俺が引き取ったんだが、毎日毎日あいつの顔を見るたびに敏行のことを思い出しちまうんだ。澪っていうんだが、あいつの顔にゃあ痛々しい傷跡があってな。そのせいでいじめられたりとか、随分と苦労したみてえで両親は死んでて、あいつの祖父にあたる俺の父親は澪のことを赤の他人としか思ってない。孤独だっただろうよ。俺だって結婚もしてねえし、仕事柄家にいる時間も少ねえから」

 そんな話初めて聞いた。ずっと黙っていたのだろうが、僕にはもっと早く教えてほしかった。嘘をつかれていたわけではないが、同じように胸が痛かった。

「だから俺は、あいつを孤独にした犯人を死ぬほど恨んでる。もし俺が刑事をやってなかったらカミサカに潜り込んでその犯人の尻尾を掴んで、この手でぶち殺していただろうよ」

「わかりました二階堂さんの言いたいことはよくわかりました。ですが、ですがこれはやはり捜査です。僕なんかが偉そうなことは言えませんが、そういった考えを捜査に持ち込むのはやっぱり間違っているんじゃないでしょうか」

 二階堂は項垂れるように力なくうなずくと、今度は逆に笑いかけてきた。「そう強く出るなって。安心しろよ、こんなのは本当に人を殺めたことがないやつの、ただの戯言だからよ」

 到底安心など出来そうもなかった。なぜなら僕にはその笑顔が安っぽい作り物にしか見えなかったからだ。

 

 

 

  40

 

京都市東山区で発生した『暴力団員連続不審殺人事件』について、今日午前十時頃、京都府警は捜査に警視庁から約四千人の捜査員を動員し、さらには京都市内の要所に検問を設置すると発表しました。依然として事件の概要は明らかにされていませんが、鹿王会系暴力団、神坂組組員襲来時に、何らかの形で第三者が介入した可能性が高いということです。なお、事件発生時に現場周辺で黒いワゴン車が猛スピードで走り去るのを目撃した人がいることなどから、府警は今後、その車種の解明なども視野に入れて捜査する意向を表明しました↓↓〉

 ゆっくりとだが着実に影虎の存在が明るみに出ようとしている。そのことに対して何故か妙な焦りを覚えた。

 アナウンサーが原稿を持ち替え、ニュースが次に移るのを確認しテレビを消そうとした瞬間、勢いよくドアが開き、俺は固まった。少なくとも怪我人の病室に乱暴に入ってくる看護士や医者はいない。恐る恐る首を回すと、昨日と同じ刑事が二人立っていた。二人とも昨日と違い、その表情は強張っていた。

「怪我の具合はどうだ」 体調を案じてくれているわけではなく、二階堂が言ったその言葉は単なる挨拶のようだった。

「大丈夫です」

 二階堂は無言でうなずくと「今日は聞き込みじゃない」とだけ突き放すように言った。どういう意味だろうか。嫌な予感がする。

「担当医には既に話をつけてきた。病院から毎日医者を出張させる約束で君を東山署で保護することになった。こちらで再度事情聴取を行い、数日後には京都府警へ送検される。そこでまた取り調べを行い、それからのことは上の人間の決定に従うんだ」

 何を言っているのかよくわからなかった。保護?取り調べ?何故怪我が完治していない俺を東山署に連れていくんだ。

「どういうことですか」

「君は事件の重参(重要参考人)だ。こちらで保護し、捜査に協力してもらう。それに今外に出れば何が起きるかわからない状況だ。君にとっても警察にいる方がよほど安全だと思うが」

 確かにそうかもしれないが、いきなり状況が変わりすぎてはいないか。昨日は数日後に退院と言っていたのに、今になってそれを覆すとはどういう了見だ。やはり本当に「保護」を目的としているのか。いや、そうとも限らない。署へ連れ込めば取り調べがしやすくなり、容疑者の一人として拘束しておけるという魂胆かもしれない。だとするとまずいことになる。石井の件が表面化すれば俺の逃げ道は断たれる。

「待ってください。これは任意同行ですか」

 こちらを見下ろす二階堂の目つきが急速に鋭くなっていく。

「ニンドウなんて難しい言葉よく知ってんじゃねえか。いいか、これは国を揺るがすような大事件なんだ。てめえが拒むなら別件で引っ張ってもいいんだぞ」

 別件↓↓。背中に悪寒が走った。石井の件だとするととんでもないことになる。

「お前、数日前に高校で暴力事件を起こしたらしいじゃねえか」

 それか。石井の件ではないらしいが、それもあの鴨川でのことに繋がっている。警察の捜査が一体どれほどのものかは検討が付かないが、既に影虎の存在に気づきかけているぐらいだ。かなり精度が高いのではないだろうか。だとすると下手な動きをして怪しまれることだけは避けたい。だが、言うことに従っていたとしても、鴨川での一件が暴かれれば、最悪、俺が暴力団員殺しの犯人に仕立て上げられる可能性も、無きにしも非ずだ。

 俺の顔色が変わったことに気づいたのか、二階堂がニヤリと笑った。昨日は人の良い男だと思っていたが、今はどうだ。犯罪者を見るように、俺に好奇と嫌悪の入り混じった眼差しを向けてくる。

「どうした。怖いか。立件されれば立場がなくなるか」

 俺の緊迫感を楽しむようなその声が誰かに似ていると思った。わかった。石井を強姦した原田とかいう男だ。

あれは、止めに入っただけです。こっちから仕掛けたわけじゃありません」

 平静を装ったつもりだったが、二階堂の目の色は変わらなかった。

ケータイを確認していた小松原が「タクシーが到着したそうです」と二階堂に耳打ちしたのが聞こえた。二階堂は無言でうなずくと、更に鋭く俺を見た。

「それはいいが、一昨日から石井詩織が行方不明だ。お前、何か知ってんだろ?」

 心臓が跳ね上がりそうだった。この二人は例のことをどこまで知っているのだろうか。何を、どう答えれば正解なんだ↓↓

知りませんよ、そんなこと」無理やり言葉をひねり出す。

「本当だろうな」

「はい」

「そうか小松原」

 二階堂に顎をしゃくられ、小松原は手帳を取り出すとゆっくりと説明するように切り出した。

「はい。昨日ここへ来たあとで、僕は元徳学園まで聞き込みに行きました。そこで君が起こした暴力事件のことを先生方から伺いました。それによると、君と教室で乱闘をした小田剛喜の交際相手が石井詩織で、その乱闘のきっかけとなったのは、君が石井に手を出した、出していないという交際関係のもつれが原因とのことでした。違いますか」

 全部本当のことだった。俺は肯定も否定もせず、次の言葉を待った。

「これは僕の仮説ですが、もしかして君は石井に交際相手がいることを知りながら手を出したんじゃないですか」

「違う!」勢いで身を起こすと傷口が痛んだ。二人とも瞠目したようだったが、二階堂が「後は署で追い込みかけりゃいい」と薄く笑った。

「立て」

 俺は二階堂に無理やりベッドから引きずり降ろされた。傷がまた痛んだが、傷口は既に塞がっていた。二階堂の乱暴なやり方に俺は動揺の色を隠せなかった。

「離せコラ!」

 乱暴に手を振り払おうとした瞬間、二階堂の拳が頬に飛び、次の瞬間には胸ぐらを掴まれ、壁に強く押さえつけられていた。

「てめえ自分の立場が分からねえのか。お前は被害者だが、別件では加害者だ。傷害は重罪だぞ。これ以上俺ら警察に盾突いたらマスコミにお前のことを売ってやる。被害者が暴力好きなガキだって知ったら、えれえ面白がるんじゃねえか?なあ、武志くんよ」

 タバコのヤニで薄汚れた歯を見せて笑う二階堂を見ていると、腹の底からこいつ殴りたいという衝動にかられた。しかしそれをすればどうなるのかは目に見えている。殴られた頬は痛かったが、そんなことよりも今の自分の置かれた状況が惨めで情けなかった。もはや自分には選択の余地などないのだろう。屈辱を味わわされながら強引な取り調べを受け、絞れるだけ絞り取られる。自尊心なんてものは「警察」という大きな権力に叩き潰されるのが関の山だ。

 俺はせめてもの意地で二階堂を睨み返した。「あんたの捜査こそ違法じゃないのかよ俺の顔殴りやがって。訴えてやる

 すると二階堂は愉しげに顔を歪めた。「殴っただと?小松原、お前、何か見たか?」

 視界の隅で小松原がおずおずと首を振るのが見えた。

「ああ、そうだろう。なあ武志くん、これが大人のやり方だ。ガキが舐めた口利くと怖い思いするぜ

 そうかよ。所詮足掻くだけ無駄なんだろう。警察は正義だと信じていたが、それは見せかけに過ぎなかった。実態はこの国と同じで腐っている。力を持たない国民はどうすることもできない。そうやって権力を振りかざすのが、この国では正義なんだ。

 

 

 

  41

 

「保護」という名目の元、取り調べは壮絶を極めた。東山署に連行され、昼飯もなしで午前十一時から午後五時までの六時間もの間狭い取調室に押し込められ続けた。二階堂は手こそ上げなかったのもの、凄みを利かせ、怒鳴り散らし、机を殴るなどという到底正当な取り調べとは思えない所業を繰り返した。俺も最初のうちはいちいち否定していたが、途中からはずっと黙っていた。何度も何度も真実を吐露しそうになったが、その度にどうにか耐えた。ここで本当のことを言えば俺自身も犯罪者の肩書を着せられる。そうなれば全て終わりだ。

 やっと地獄の取り調べから解放され、俺が連れていかれたのは、お袋が待つ「仮眠室」という二段ベッドが並ぶ狭い部屋だった。

「お前の母親、事件のせいで頭がイカレちまったよ」吐き捨てるように言った二階堂の言葉が胸につっかえた。

 案内された部屋は薄暗くかび臭かった。左右の壁に沿うようにベッドが配さされていて、その一番奥の窓際のベッドの上に、膝を抱えて蹲るお袋がいた。最後に見た時よりも随分とやつれているようで、肩が小刻みに震えている。

「飯まで大人しくしてろ」二階堂が乱暴に部屋を出ていくと、取り残された俺は恐る恐るお袋に近づいた。カーテンが外の光を遮っているためか、部屋全体に沈んだ色味を帯びていて、空気もどんよりと澱んでいるようだった。

 あれからお袋とは会っていない。一体何を話せばいいのだろうか。実の両親について知りたいという思いはあったが、それを聞けるような状態ではないだろう。

「お袋おい、お袋」

 何度目かの呼びかけで、やっと、ゆっくりとだがこちらを見た。しかしその目は虚ろで、焦点も定まっていないように、俺をすり抜けてどこか遠くを見ているように見えた。

俺は「頭がイカレた」という二階堂の言葉にはっとした。お袋の足元を見ると、布団が何か水のようなものでびっしょりと濡れていた。

「おい、どうしたんだよ

 美味い小料理屋の女将で、美人な母ちゃんだと友達にも羨ましがられていたお袋の面影はなく、代わりに醜い老婆がお袋の姿を借りているように、死臭のようなオーラが感ぜられた。風の吹かない生ぬるい部屋の中で、お袋が歯をカタカタいわせた。もしかして、泣いているのだろうか。

シ」

 何を言っているのかわからなかった。そして、ただ怖かった。

タケシ」

 ゆっくりと手を伸ばしながらこちらへ来ようと這ってくる。ぼさぼさに乱れた黒髪が顔にかかっていたが、目だけがゆらゆらと揺れ動く光を宿している。

 正直どうすべきかわからなかった。何か言葉をかけてやるか、その手を握って抱きしめてやるべきだったのかもしれないが、俺は増幅する恐怖に負けていた。

「く、来るな!」

 後ずさったが、お袋は息を荒げながらこちらへ迫ってくる。

「ねえ、武志

 ベッドから床へ移動するとゆっくりと立ち上がり、じっとこちらを見つめてきた。そのまま息遣いも聞こえぬほどの静寂があった。寸分のずれもなく、その目はじっとこちらを見つめていた。今にも怒りを爆発させそうであり、同時に悲しそうな衰弱した目だった。

 そんなお袋を見ていると、今まで見てきたお袋の姿とは遠くかけ離れていて、どうしてもその二つを繋げることはできなかった。

お、お袋?」

 俺の口から今にも泣き出しそうなか細い声が漏れた。両手にびっしょりと掻いた汗が指の先から水滴となって落ちていく。お袋はじっとこちらを見ていたが、突然狂ったような大声を発した。

「お前があの人を殺したのよ!」

 その言葉を聞いた俺は嗚咽に近い悲鳴を上げていた。刹那、お袋が勢いよく俺に飛び掛かり、俺を床に押し倒した。

「殺してやるお前なんか殺してやる!お前さえいなければあの人は死ななかったのに!」

 お袋の冷たい声が胸を鋭く突き刺した。少なくとも今のお袋にとって俺は子供じゃない。自分の夫を殺した憎むべき相手なんだ。

「ああああああ!」

 お袋の長い爪は痛みと共に俺の顔の肉を強く抉っていった。顔を押さえると両手に赤いものがべっとりと広がった。

 助けてくれ↓↓

 俺の中の何かが声を張り上げたが、実際の声にはならなかった。お袋は泣き叫びながら爪を俺の頬に深く突き立てた。その激痛に全身が悶えた。刺さった爪が引き抜かれたとき、俺はお袋の第一関節までが血で赤く染まっているのを確かに見た。

 気が付けば俺は足でお袋の腹を強く突き上げ、その場から逃げようとドアの方へ走っていた。開けようとノブを捻ったが、しかし、施錠してあるのかそのノブはガタガタと音を言わせるだけで回転することはなかった。

「出せ!出してくれ!」

 ドアを何度も強く殴ったが、全く動きはしなかった。振り向くと目を赤く血走らせたお袋がこちらへ走ってくるところだった。

「あああ!」

 俺は泣きながらお袋を押さえつけた。しかし、お袋は猛獣のように俺の腕の中で暴れ、唾を飛ばしながら俺の腕に噛みついてきた。痛みに耐えながらも腕を振ると、お袋は子犬のような悲鳴を上げて後ろへ吹き飛んだ。右の拳が頬に当たったようだ。

「やめてくれ!もうたくさんだ!」

 叫んだが、お袋は息を荒くしてまたこちらへ飛び掛かってきた。そしてまた格闘になったが、俺はとうとうお袋の腹に強烈な拳を入れてしまった。

 お袋はそのまま腹を押さえながら床に倒れ込み、そのまま動かなくなった。

 俺は恐怖に震えながら、窓の方へあとずさり、血で汚れた手で鍵を開けた。外を見るとひび割れた民家の壁が目に入った。数メートル下にはアスファルトの細い道がある。逃げなくては。俺は夢中で窓から飛び降りた。

 着地の直後、両足に鈍い痛みが走った。地面を見ると顔から垂れた血液の斑点が飛び散っていた。咄嗟に顔を押さえると先ほどよりも多い量の血が手に付着した。

 逃げないと↓↓早くここから逃げないと、俺はいずれ殺されてしまう。

 痛む足に鞭打ってがむしゃらに走った。柵を乗り越え、できるだけ人目につかないように、できるだけ遠くにと。

 もしここで捕まれば俺の人生は終わってしまう。警察も、暴力団も、マスコミも、この社会自体が俺にとっては敵なんだ。俺の味方は一人もいない。誰一人として、俺を助けてくれる人間はいないんだ。

 流れた涙が頬の傷を刺激した。

↓↓影虎↓↓

 その時、脳裏にあの男の残像が浮かび上がった。そうか、あいつのところが最後の砦だ。

ポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出す。住所は?ここからでは遠すぎる。金もない。歩いていくなんて論外だ。ならどうすれば↓↓

 その時、一台の黒い大型バイクが轟音と共に俺を抜かし、進行を妨げるように目の前でドリフトした。

 誰だ敵か、味方か。

男はフルフェイスのヘルメットを脱ぐと怒鳴った。「乗れ!」と。

 はっとして立ちすくむ俺に男は図太い声を張り上げた。「クソッ、死にてえのか!」

 考えることもなく、俺はバイクに飛びついていた。男は俺に自分のヘルメットを渡すとハンドルを捻った。短く刈り上げた金髪に両耳にずらりと並ぶピアス。そして上下白という服装は確かに不審だったが、今はそんなことを考えている余裕はない。

 バイクは轟音と共に滑るように走り出した。

 

 

 

  42

 

 神坂組組長、安岡大力は椅子に深く腰掛け、鼻に皺を寄せながら葉巻の煙を顔の前でくゆらえていた。ゆったりとした和服にポマードで固めたオールバック。恰幅の良い体系に浅黒い肌。暴力団の組長としては申し分のない貫禄がある。

 その安岡の目の前で、額に汗を浮かべながら立ち尽くしているのが右近だ。この建物のこの部屋には、三島竜二を含む三人の他は誰もいない。

「吊るし屋は消したんじゃなかったのか」

 安岡は窘めるように右近を見上げた。元々の額の皺が更に濃くなり、幾筋もの黒い線を引いた。

「申し訳ありませんでした」右近は深々と頭を下げた。組長という絶対的な権力を前にその声は怯えていた。その様子を三島は右近の斜め後ろから神妙な面持ちで見つめていた。

「消したのか否かを聞いているんだ」

 安岡の下腹を突き上げるような野太い声が部屋全体に重く響いた。右近は顔を上げないまま「消していません」と声を絞り出した。安岡は鼻で笑うと、ゆっくりと立ち上がった。

「右近お前はもう少し使える男だと思っていたが」

 ゆっくりと右近に近づき、「のう」とその顔を覗き込む。恐る恐る顔を上げた右近の眉間に、安岡は持っていた葉巻の先を押し付けた。

「うっ」

 右近は歯を食いしばりながら耐えていたが、眉間はジュウジュウという音と共に煙を吹きだした。

「お前を拾ってやったのはいくつの時だったかのう」

 やっと葉巻が離されると、右近は咄嗟に傷口を押さえた。出血こそなかったが、その傷が消えることは一生ないだろう。端正な顔に無様な烙印を焼き付けられてしまった。

「十七です」

「そうか。ならあの時から十九年がたったわけかつまり人生の半分以上をここで過ごしたわけだ」

 現在三十六歳。影虎を逃した時は二十八だったということになる。

「そうか確か吊るし屋がここへ来たのも十七の時だ」安岡は不敵な笑みを浮かべた。「やつの方がまだ使えたな」

右近の目が屈辱に見開かれた。「次は必ず殺します!この命に代えても」

「当たり前だ!」安岡は右近の耳元で大声を張り上げた。「お前が殺し損ねた男のせいで十七人もの組員が犠牲になったんだぞ!本来ならここでお前も殺すべきなんだ」

 安岡の凄みに近くにいた三島は身を縮めた。

 安岡は右近の胸ぐらを乱暴に掴んだ。「お前の銃の腕は誰よりも俺が買っているんだ。これからはそこを弁えて行動しろ。それから、人間の姿を借りたあの化け物だけは何があっても生かしておくな」

「はい

 安岡は右近の襟から手を離すとまた椅子に座り、深く葉巻を吸った。「黒金景光が原因でどうしてこうなったんだ。死んだ組員の命に代えてくれるなら五千万の刀など腐るほどくれてやるのにそれにしても何故あの場に井上がいたんだ。こちらの組員が襲いに行くのが分かっていたのか。右近、お前はどう思う」

右近は恐る恐る口を開いた。「八年前の復讐が目的というのは言うまでもなく明らかです。井上が待ち構えていたのは、恐らく、あの家族と何らかの繋がりがあったからではないでしょうか」

「どういうことだ」

「殺した三木剛志と井上との間に何らかの因果関係があったならば、最悪の場合に備えて井上を用意したということが考えられます。それか、井上自身が我々が組員を寄越すと踏んで待ち構えていたのか」

 安岡は細く息を吐き出した。「お前が袁峰隆に預けていた黒金景光を紛失したと聞いたとき、やつはその三木家のガキの名を挙げたらしいが、そいつの下の名前は何だったか」

 袁峰隆↓↓違法入国者の武器商人だ。

「確か武志という名前でした。今はどこかの病院に入院しているはずです」

「ああ。ならばそのガキを洗わないとな。井上につながる唯一の頼みの綱だ。マークしておけ」

「わかりましたあの、鹿王会はこのことについてなんと」

 安岡は苦々しい表情で唇を噛んだ。「今の段階では何とも言い難いが、何か裏で工作をしているようだ。笠井は侮れない男だからな。こちらへはまだ何も言ってこない。最悪、切られるかもしれん」

 右近はごくりと唾をのんだ。そうなれば最悪、口封じに命を追われることになるかもしれない。そもそも京大のアンチエイジングの研究の話を持ち掛けてきたのも鹿王会だったはずだ。だとすると一体やつらは何が目的なのだろうか。

 まさか、神坂組のことを実験材料として利用したというのだろうか。だとしても分からないのはその目的だ。

「右近、わかったらとっとと行け。その武志とかいうガキが井上に接触するまで泳がせるんだ」

「はい」

 右近は目礼し、踵を返すと三島とともに部屋を後にした。

 

 

 

  43

 

 古民家が立ち並ぶ入り組んだ道を抜け、男に連れてこられたのは、「龍門寺」という寺の大きな門の前だった。高さ五メートル以上はあろうかという巨大なその門は固く閉ざされていて、来るものを固く拒んでいるように思えた。青銅製だろうか、くすんだ蒼い門には細やかな彫刻が施してあり、見上げると梲の下に一頭の黒い龍の像が泳いでいる。おそらくこれがこの寺の名の由来なのだろう。それにしても巨大な門だ。その門の脇には「厳格な寺院につき、何人も許可なき立ち入りを禁ず」と書かれた古びた貼り紙が貼られている。

「ここだ」男はバイクから降りると、周囲を気にしながらケータイを取り出した。「朱鷺さん、例の、連れてきましたよ」声を潜めるようにそれだけ言うと、ゆっくりとその木戸(高さは僅か一メートル強ほどで、身を屈めないと通れそうもない)がゆっくりと開いた。

「さあ、中へ」やはり、朱鷺だった。前見た時と違い今日は袈裟に身を包んでいた。

 俺は訝りながらも素早く戸を潜った。三メートル以上はあろうかという外壁で外から様子は遮られていたが、いざ中へ来てみると、そこは想像以上に広々としていた。砂利が一面に敷き詰められた敷地内はほぼ正方形で、一片の端から端までは三十メートルはあるだろう。その敷地の一番奥に本堂があり、その左側に小ぢんまりとした倉庫があった。

 バイクで俺を連れてきた男は、その小さな扉から無理やり大型バイクを通し、急いで木戸を閉ざした。

「顔の傷、大丈夫かね」朱鷺が心配そうに訊ねてきた。まだ痛みはあるが血は既に乾いているらしい。

「警察署でちょっと」軽く愛想笑いを浮かべたが、朱鷺が笑って返してくることはなく、代わりに「とりあえず本堂へ」と歩き始めた。

 本堂へ歩く道すがら「影虎は中にいる」と朱鷺が囁いた。あの男にまた会うと思うと急に気が重くなった。一体俺はどんな顔をしてあの男に会えばいいのだろうか。俺の命の恩人であり、同時に親の仇でもある。それにしてもどうしてこの二人はこんなにも平然としていられるんだ。あれほどまでに凄惨な殺し方をする人殺しが近くにいるというのに。

 本堂の襖を開けると中は広々としていた。その中の中央に影虎がこちらに背を向けるようにして胡坐を掻いていた。朱鷺と同じように黒い袈裟を着ているが、明らかに大きさが違う。

「影虎、武志くんが来た」

 朱鷺がそう言うと影虎は立ち上がり、ゆっくりと振り向いた。「生きてたのか」影虎が言ったのはそれだけだった。

 俺はどう答えていいかわからなかった。この男のせいではないかもしれないが、紛れもなく親父は死んだ。どういう意図があってそんなことを言うのだろうか。俺が生きていたことがラッキーだという意味なのか。

 俺は無言で影虎を見上げた。相変わらず目を合わせることすら躊躇してしまうほど恐ろしい顔つきだが、それ以上に不気味なのはその目だった。人間らしさというか、生き物全てに共通してある輝きがこれっぽっちもない。全てを諦めているかのように陰鬱で、同時に凶暴でもある。

 影虎は俺に背を向けると、本堂の一辺の仏壇に立てかけてある刀を手にした。黒金景光だ。それを俺に手渡すと「少し話そう」と俺に座布団に座るように勧めた。大人しく仏壇の前に一つだけある座布団に座ると、影虎も俺に向かい合うように床に腰を下ろした。朱鷺と俺をここに連れてきた男は未だに立ったままだ。

「俺に聞きたいことがあるんじゃないか」

 ある。ありすぎて何から聞けばいいかわからないほどに。

俺の両親を殺したのはあんたか」

 影虎が口を開く前に、朱鷺が「違う」と遮った。「わしは剛志さんからその話を伺ったが、君の本当の両親を殺したのは影虎じゃない」

 嘘だ。この男は嘘をついている。「じゃあ誰なんだ!」語気に苛立ちが混じる。「説明してみろよ」

朱鷺は一つうなずき、言葉を選ぶように言った。「君の本当のご両親、草刈一さんは舞鶴で刑事をしていた。十六年前、連続警官殺しの犯人を追っていた彼は、その犯人に自宅で妻の陽子さんと共に刺殺された」

 刺殺だと?そんなはずがない。俺は確かに二人が素手で嬲り殺される様を見たんだ。そしてその犯人こそが今目の前にいる影虎なのだ。

「馬鹿言うなよ。俺の親はこの男に弄ばれるように殺されたんだぞ!」

 そうだ。この忌々しい化け物に↓↓。だが朱鷺は毅然とした態度で首を振った。「君の両親を殺害したのは永井龍という男だ。君の両親が殺害された翌年に逮捕され、服役中に結核で死んだよ。調べればすぐにわかることだ」

「まさか嘘だ」太腿の上に乗せた両の拳が僅かに震えはじめた。

「嘘じゃない。残された君は一の高校時代の友人である剛志さんに引き取られた。証拠に、君の両親が殺害された十六年前、この影虎がいくつだったと思う?たったの九歳だよ」

「嘘つくんじゃねえ!」立ち上がった勢いで影虎をじっと睨みつけた。向こうも闇のように濁った瞳で俺をじっと見つめ返してくる。

「だって

「俺が老けて見えるからか」嘲笑めいた声だった。「残念ながらこれは真実だ。現に俺はそいつと同じで二十五だ。なあ、原田」影虎は襖の柱に身を立て掛ける男に視線を投げかけた。

 原田だとまさか俺を監禁していた男か。確かに最初、聞き覚えのある声だと思った。だとするとこいつらは全員俺の敵なんじゃないのか。本当は俺をここへ連れてきたのも何かの策略なんじゃないのか↓↓

 がたがたと震えだした俺を原田は面白そうに眺めていた。

「そうさ。俺たちは中学時代からのダチだ」

「あんたが石井を強姦した、あの原田なのか

 原田は長い舌を出して笑った。その舌は蛇のそれのように先が二股に分かれていた。笑い方も普通の人間ではない。薬物中毒者のように目の焦点が定まっていない。「石井っていうのか、あのねーちゃん。随分と楽しませてもらったぜ。媚薬とシャブで頭破壊してからソープに飛ばしたよ。思ったほどの額にはならなかったが、中古車が一台買えるぐらいにはなったぜ。なんたって本物の女子高生なんだからなあ」

よくもまあぬけぬけとそんなことが言えたものだ。一体どんな環境で育ったらそんな屈折した大人になるんだ。考えただけで胃がむかつく。

「シャブはいい。人間を堕落させてくれる。女はシャブを俺から買うために自分の体を売って金を稼ぐ。表に戻ったらシャブが手に入らなくなっちまうからまともな仕事には就けねえ。あながち頭がイカレてそんな考えも湧かねえだろうがな。中毒者はそうやって裏の道から抜け出せないとわかっていながら地獄の火車に乗るんだぜ。おかげでこっちは大儲けだ」

覚醒剤の注射針を腕にさす石井の姿が目に浮かんだ。

「あんたそれでも人間かよ」

 原田はこれ見よがしに顔の片側を歪ませた。「殺そうとしてたお前が言っても何も説得力ねえぞ。むしろ感謝してもらいてえぐらいだ。あのねーちゃんがもし正気で表に戻ったら、お前は殺人未遂で懲役食らうんだぜ?」

「原田、それぐらいにしておけ」影虎が冷たい声で制した。「武志、原田はシンナーで少し馬鹿になっている。勘弁してやれ」

 勘弁?確かに俺はあの時石井を殺そうとしたが、それは何も影虎、お前みたいに目的もなく人を殺めるのとは違う。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて、どうしようもなくなって導き出した答えがそれだった。決してこいつなんかとは違う。原田もそうだ。石井を強姦して風俗に売り飛ばしたのだって、要するに自分のためなんだろう。恨みや憎しみもないのに、自分の利害だけで物事を考えている。違うか?このクズども。

反論しようとした途端、影虎の目が険しくなった。

なんだよ。俺が間違っているとでも言いたいのか。馬鹿馬鹿しい。確かにお前は俺の親を殺しちゃいないのかもしれないが、その実、目の前で暴力団員を殺したことは否定のしようのない事実だ。それについてはどう答える?

「影虎、あんたが俺の親を殺してないっていうのは分かった。でも、何がしたいんだよ。親父に恩があるっていうのは朱鷺さんから聞いたけど、だからって人を殺すことはないだろう!」

「ならあの場で見殺しにしてほしかったのか」影虎の声は至って落ち着いていた。あまりの感情のなさに俺は狼狽した。

「それはでも、それは結果論だ。なんであんたは人を殺してそこまで冷静でいられるんだ!俺には理解できない」

「俺を化け物に変えたのはやつらだ。裏切り者は生かしてはおけん」影虎は俺と対峙するような姿勢をとった。

 化け物?裏切り者?どういう意味だ。

「八年前、俺は神坂組に高杉会との抗争で殺し屋として使用された。ちょうどお前ぐらいの歳の時だ。逃げ場のないあの恐怖がどれほどのものか、所詮お前には理解できぬだろうな」

 八年前の高杉会との抗争↓↓桜田の父親が殺された事件と一致している。まさか↓↓

「薬を投与され、目覚めた時にはこのザマだ。組長や右近は神の薬だと賞賛していたが、俺には分からなかった。人間の姿をこれほどまで悍ましく変えてしまう薬に、いかほどの価値があるというのだ。俺は訳も分からないまま殺しを強要されたんだぞ。人間を殺すことがどれほど恐ろしいか、当事者でない限り一生知りえない」影虎の口調はまるで自分に言い聞かせるようだった。

俺は無意識のうちに黒金景光を強く握りしめていた。俺にとって影虎は脅威だが、今は恐怖心が憎しみに変わっていた。どういうことがあったのかは知らないが、全て言い訳にしか聞こえなかった。このご時世に、そんな話はあまりにも現実味がなさすぎる。

桜田の父親を殺したのか」

 核心的な問いに、影虎はこちらをじっと見下ろしたまま何も答えなかった。

「八年前、お前は五人殺した。そしてついこの前、俺の目の前で十五人も同じように殺した。俺を守るためだ?馬鹿にするな。それを他人事みたいに言いやがって。お前は罪を償うべきなんだ。もう一度聞く。桜田の父親を殺したのはお前か」

俺は左手を黒金景光に添え、その刃を鞘から引き抜こうとしていた。斬りかかれば届く距離だ。そして、桜田の父親を嬲り殺した犯人こそがこの男なのだ。

「誰を殺したかなどいちいち覚えていてもきりがない。その桜田とかいう男が高杉会の組員なら、確かに俺が殺したのかもな」

「お前は遺族がどれほど辛い思いをするか知らないからそんなことができるんだ。桜田は、一生父親を殺されたっていう現実を背負って生きていかなくちゃならねえんだぞ!」

 ついに俺は鞘から刀を引き抜いた。刃先を影虎へ向け、じわじわと間合いを詰める。今斬りかかれば間違いなくこの男は死ぬだろう。二十人もの人間を死に至らしめた化け物をこの手で成敗できるのだ。

「やめろ!」朱鷺の叫びが聞こえたが関係なかった。

「原田、やめておけ」影虎の声に原田の方を横目で見ると、こちらへ小型の拳銃を構えていた。「ここで使うことは俺が許さん。仏の前で血が流れるなど、あってはならん蛮行だ」

 俺には仏の目など関係なかった。人を一人殺せば自分も死んで償うべきだ。もし俺があの時人を殺していたのなら(殺していなくてもそうするつもりだが)、影虎を斬ったあとで自分も斬ってこのくだらねえ世の中とおさらばだ。今さらこの世に未練などない。命よりも大切な何もかもを失ったのだから。

「武志、俺を殺しても何にもならんぞ。その程度の判断力はさすがにまだあるんだろ?」

「黙れ、バケモノめ。お前を殺して俺も死んでやる。それで全て終わりだ」

「そうか」影虎の目が怪しくぎらついた。「なら先に殺すまでだ」

 そう言うと影虎は両手で俺の頭を勢いよく挟み込んだ。と同時に蟀谷に激痛が走った。

殺られる前に殺らなければ↓↓

俺は刀を影虎の腹めがけて突き刺した。肉を引き裂く感触の後に、骨に突き当たった硬い感覚があったが、力ずくでねじ込むと軽くなった。貫通したのだろう。

「う」低い声を漏らすと影虎はその場に崩れ落ちた。床に大量の血が広がっていった。

 俺はその光景を見て声を荒げて笑ったが、すぐに笑っている自分に気が付いて途方もない罪悪感に襲われた。俺はとうとう人を殺してしまったのだ。人として一番やってはいけない罪を犯してしまった。もう残された道は死しかないのだ。

 

 刀を叩き下ろしたと同時に、視界が真っ赤に染まった。次の瞬間には両目に夥しい量の血が降り注いだ。影虎が口から血を吹き出したのだ。だが確かに肉を斬った感覚はあった。ならばやつを殺すことに成功したはず↓↓

身動きの取れなくなった俺に影虎の体が重くのしかかった。床に押し倒され、両手を強く押さえつけられた。

「馬鹿野郎!」本堂に影虎の怒鳴り声が響いた。「お前まで人殺しになるな!お前はまだ人間でいろ!」

「なんで」両目に涙が溢れてきた。血のせいで周りの様子が見えなかったが、影虎の荒い息遣いはよく聞こえた。「なんで俺のためにそこまでするんだよ」

 朱鷺と原田が駆け寄ってくるのが分かった。影虎を俺から押しのけ、傷口を押さえつける。

消え入りそうな声で影虎が言った。「先生にお前を守れと言われた。先生には、大恩がある

「恩って、なんだよ」どうして自分の命を擲ってまでそれを果たそうとしたんだ。俺には意味が分からない。死んだ人間との約束などないも同然じゃないか。

 だが影虎の答えは単純明快だった。やつは声とも息ともつかぬ荒い声で言った。

「先生は、初めて、俺を人として見てくれた」

 それだけか。たったそれだけなのか、この男をあれほどまで突き動かした理由のいうのは↓↓。突然俺は深い寂寥感に襲われた。寂寥感は涙に変わり、俺の頬を伝い落ちていった。

 そして影虎の呼吸の音は次第に消えていった。

 

 

 

 

 

 

第四章 逃避行

 

  45

 

 渇いた喉を潤すのは水だが、乾いた心を潤すためにはどうしたらいい?その答えは未だに見出せていない。カラカラに乾いた心はぼろぼろにひび割れ、今にも壊れ落ちてしまいそうだった。大切な人を失った悲しみは当事者にしかわからない。それが悲しみなのか憎しみなのか、当時のこの男にはわからなかった。

姉弟を二人も失った。一度目で、もう二度と同じことを経験したくないと思い、刑事になった。二度目は刑事になってからだ。二人とも、殺されたのだ。二人目↓↓弟を殺した犯人は未だ逃亡中だ。その犯人に手錠をかけるのは自分しかいない、そう二階堂は誓っていた。

 カーテン越しに、まどろみのような優しい朝日が部屋全体を照らしていた。二階堂は柔らかいベッドの上で目を覚ました。裸の体には薄らと汗を掻き、頬には涙の痕が残っていた。

 この国は平和だ。ほんの少しの例外があるだけで。どうして俺はその「例外」に自ら飛び込んでいくのか。二階堂自身ですら本当のところはわからなかった。給料はいい。こんな危険なことをしなくても十分なほど手に入る。なら単に刺激を求めているから現場に留まるのか。それは違うと自分に言い聞かせ、思い出す。刑事は国民のために命を張る仕事なのだと。だから俺はこうしている。だから俺は、もう誰も悲しませないために刑事になったんだ。そう思うが、いつも途端に虚しくなる。今自分がしていることは単なる他人の粗探しでしかないんじゃないかと。

 だがすぐにその考えを打ち消す↓↓いや、これもこの国に生きる人々のためだ。復讐の連鎖が始まる前にそれを断ち切らなくてはならない。犯人がまた人を殺そうとするなら、何としてでもそれを阻止しなければならない。それが俺の仕事なのだから、と。

 ゆっくりと身を起こし、机の上の時計を見た。午前六時五十分。目覚ましの時間よりも早く起きた。基本的に家に帰ることは少ないが、たまに帰れば仕事の時間ぎりぎりまで寝てしまうことが多い。それはそれで幸せだが、今回のように大きな事件を追っているときは、それが解決するまで安心して眠ることもできない。

 ベッドから下りて目覚ましのタイマーを切る。それから丁寧に折りたたまれたボルドーのシャツとグレーのスラックスに身を通す。まだ眠い目を擦りながらダイニングまで移動すると、コーヒーの芳醇な香りが漂っていた。

「姉貴

 キッチンに立つ姪の後ろ姿に死んだ姉の姿が重なったが、すぐに現実に引き戻された。きれいで優しかったあの姉貴はもうこの世にはいないのだ、と。

炒め物をしていたために二階堂の呟きは聞こえなかったのだろう。澪は二階堂の気配に気づくと、振り返り、優しい笑みを浮かべた。「おはよう、伯父さん」

「あ、ああ……

 不思議と面立ちは亡くなった姉にそっくりだが、その顔の傷は痛々しい。二階堂は笑い返そうとしたが、ぎこちなく顔が歪んだだけだった。

「今日は起きるの早いんだね。もうすぐできあがるから、座って待ってて」

 敏行には申し訳ないが、あいつの娘にしては出来が良すぎると思った。そして、だめな自分の相手をさせておくのにも。

 二階堂は言われたとおり席に着いた。テーブルの上には今朝の新聞が置いてあった。いつも澪がここに置いていてくれるのだ。気立てが良くて、よく気がつく自慢の姪だ(あながち、二階堂は自慢などしなかったが)。

もし澪が嫁に行くと言い出したら俺はどんな反応をするだろう。確かにそれは喜ぶべきことだが、俺は心から喜べるだろうか。俺は澪の父親代わりでありなあら、実際はそれだけでは割り切れない関係なのかもしれない。澪にとって俺は伯父であり、父親であり、本当の父親を殺した犯人を追う刑事でもある。なら俺にとって澪は何なのか。ただの姪とというのも違う気がする。ならばもはや娘?それとも被害者の娘か?それはもっと違うと思う。なら一体何なんだ。この子がいなくなったら、俺の生活はすぐに杜撰なものになるだろう。それだけじゃない。心のつっかえ棒を失うことになるのだ。敏行の奥さんが死んで澪がここへ来ることになった時、最初は俺も戸惑ったよ。十歳の女の子なんて相手にしたことなかったし、何よりも怯えていたから。でもできるだけ負担をかけないように気遣いながら、どうにか育ててきた。あの頃は単なるガキで――今もそうなんだろうが――時々はっとするよ。不意に見せる「女」の表情に――。

 新聞のトップ記事はやはり暴力団員連続不審殺人事件のことだった。記事に目を通して安堵する。「あのこと」はまだメディアにばれていないらしい。こちらの捜査以上のことは何も記されていない。次のページを開く。「府立○×高校で首吊り自殺」

 その時、澪が運んできたコーヒーを二階堂の前に置いた。二階堂は慌ててページを戻した。こんな暗い記事を少しでも澪に見せたくなかった。前の高校でひどいいじめに遭ったのが理由で、三か月ほど前に今の高校に転校させた。やはり、原因はその顔の傷だった。

「ねえ、伯父さん」

 どきりとした。

「な、何だ」

 澪は料理を並べながら二階堂が読む新聞を遠くから覗き込むようにしていた。

「犯人、捕まるといいね」

 二階堂は言葉に詰まった。警察官――特に刑事には守秘義務が付きまとう。捜査状況は家族であれ部外者にひけらかしてはならないのだ。

「ニュース見たよ。ひどい事件……

 澪は二階堂と向かい合う席に腰を下ろした。二階堂は新聞を畳むとコーヒーに口を付けた。

「そうだな」

 正直何と答えていいか分からなかった。この事件を自分が追っていることすら話していない。ましてやこの事件の犯人が澪の父親を殺したやつだと言えばどうなるだろう。澪は悲しむだろうか。それとも憤慨するだろうか。どちらにせよ事件が解決するまでは話すわけにはいかないのだ。犯人を捕まえて、お前を怖がらせるものはもうないと教えてやるのだ。そのためにも、やつを死刑台に送らなくては。

「事件があった場所ってここからそう遠くないよね」澪はテーブルの上のフレンチトーストに目を落としていたが、伏目がちに顔上げた。「伯父さん、その事件追ってるんでしょ」

 二階堂ははっとして澪の顔を見つめた。穴が開くほど見つめた。

「その被害者の子、私の友達だよ」

 躊躇いがちにそう言った澪の目はうっすらと赤くなっていた。彼女はまるでそれを見せまいとするかのように窓の方を向いてしまった。二階堂はやはり澪の顔を見つめるばかりで何も答えることができない。あえて答えなかったわけではない。彼女の目に一瞬だけ浮かんだ、悲壮感とも恐怖ともつかぬ曖昧なものを見た瞬間、心をられたような嫌な苦しさを覚えた。二階堂自身なぜそんな風になったのかは分からなかったし、知りたくもなかった。

「三木武志……そうか、学校、同じだったのか」

 その嫌な感情を少しでも遠ざけようとしたのか、そんな的外れな言葉が漏れた。本当はそんなことはとっくに知っていた。武志が元徳学園の生徒だと知った時に、澪との関係を気にしたが、聞けなかった。どう聞けばいいというのだ。守秘義務だってあるわけだし、それ以前にこの事件に少しでも触れさせてはいけないと思った。だから俺は高校へは行かず、そちらは小松原に任せたのだ。

 澪は軽くうなずいた。「武志くんは大丈夫なの?」

 二階堂は昨日のことを思い出していた。取り調べの後、仮眠室で待機させていたはずの武志の姿はなく、代わりに母親が倒れていた。武志は自分の母親を殴って逃げたのだ。母親の指にべっとりと付着した血液は武志に抵抗した時にできたものなのだろう。実の親子でないとはいえ、ここまでする武志の人間性を疑った。やはり、武志が事件に関与している線は濃厚になった。井上とはどういった間柄なのだろうか。

「伯父さん……

 二階堂ははっと我に返った。「あ、ああ。大丈夫だ。お前は心配しなくていい。犯人も俺が必ず捕まえるから」

 澪は少しの間じっと黙り込んでいたが、躊躇いがちに口を開いた。

「もしかして、その犯人って」

二階堂は咄嗟に立ち上がっていた。「澪……お前は何も心配するな」

……

「俺が意地でも捕まえるから。約束だ」

 澪は悲しそうに顔を歪ませ、ゆっくりと二階堂に歩み寄ったかと思うと、二階堂の体を強く抱きしめた。

「犯人が捕まることよりも、私は伯父さんが生きていてくれればそれでいい。生きて、私を守ってよ」

 涙交じりのその声を聞いた二階堂は、強く澪の体を抱きしめていた。

「わかった。わかったよ……

 右手を澪の頭に移し、ぎゅっと抱きしめた。柔らかな癖のない髪の毛が指先を流れていく。小さな肩を強く抱きしめる。うっすらとした甘い花の香りが心を麻痺させる。澪の柔らかい体が自分の肉張った体に強く当たる……

二階堂は自分が何か特別な感情を抱きかけていることを心の端で感じていた。

 

 

 

46

 

「」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五章 マーダー

 

 

 

終章 遠景の光

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事件発生から二日。俺の病室の前に警官が張り付くようになり、医者や看護師も頻繁に部屋に訪れるようになった。昨日の夜にやっと点滴針を外せ、体調も回復の兆しを見せていた。医師の話では傷口は脇腹の肉をそぎ落としたが、痛み以外は普段の生活には大きな支障はないという。ただ筋肉をやられたために激しい運動はできなくなるということだった。

 時が経つごとに俺の不安は大きくなっていった。俺のことはもう警察は知っているのだろうか。影虎という男のこともそうだ。暴力団員たちはまた俺に復讐をするだろうか。もう普通の生活は取り戻せないのだろうか……

 

 

 

 

 

 

 

 武志は東山署から数十メートル離れた道でタクシーを拾った。手元には満足な金額はなかったが、それでも今は構っていられない。

 正面玄関を突破するときはどうなることかと焦ったが、ケータイで電話をするふりをしながら、怪しまれることなく抜け出すことに成功した。報道陣関係者と思しき男たちが数人いたが、それもうつむきながらなんとか誤魔化せた。それよりも武志が注意していたのは神坂組の誰かがいないかということだったが、今のところそれらしい男はいない。

 タクシーに乗り込むと、武志は影虎から渡された紙切れの住所を見せた。運転手はくしゃくしゃのそれを訝しげに見ながらカーナビに打ち込んでいく。

――早くしろ。急がないと――

 車は静かに発進した。運転手は暫く黙っていたが、ちらちらとフロントミラー越しに武志を見てくる。

「お客さん、何をしにここまで?」

 緊張で会話をする余裕などなかったが、返さないのも不自然だと武志は素っ気なく返事した。

「この住所まで」

「ここは龍門寺というお寺みたいですが、お客さん、今日は学校は休みですか」

 詮索されることを恐れ、武志は何も言わず外の景色を眺めていた。淡々と流れる京都の風景はビルや家屋が立ち並ぶどこにでもある風景だ。今日は日差しが強くて眩しかった。

 武志は何度か後ろを振り返った。尾行されているか気がかりだったが、どうやらその心配はないらしい。見るたびに後ろの車が変わっている。

 

 十数分後、タクシーは徐々に入り組んだ道に入り、大きな門の前で停車した。

 

 

 

 

「おいブー。いつまで寝てんだ。ブー起きろ!」

 狭いボロ雑居ビルの一室のオフィスで、真っ赤なソファに座る男は床で眠りこける太った男の腹に靴裏を押し付けた。

 オフィスと言っても大したものではない。雑居ビルの二階を借りて、表向きは「ニコニコ相談所」という幼稚な名前の何でも屋をやっているが、実際のところは武器の裏取引を中心に活動している裏会社だ。狭いオフィスには応接室と社長室の二部屋だけ。社長室といっても二人だけの会社なので片方が専務ということになる。業界ではこの会社のことを縮めて「NK」と呼んでいる。ニコニコだから、というそれだけの理由だ。

「ブー」こと山内康介は呻き声を漏らしながら体を起こした。ちなみにこの男がここの専務だ。

「真ちゃんまだ寝かせてよ

「うるせえ。今何時だと思ってんだ。時計見て見ろ。真昼間だぞ、ブー」

 ブーと呼ばれるだけあって山内の外見はどうも情けなかった。頭は禿げあがっていて、腹の肉はいつもベルトからはみ出している。更にはチビときた。オタク風というかニート風というか、まだ二十五歳だというのに、見た目は本物のオヤジだ。

 それとは対照的にソファに座る男、社長の原田真之介はガラの悪い見た目をしている。短く刈り込んだ髪は金髪で、それと同じ色の顎鬚を生やしている。両耳にはメタリックなピアスがずらりと並び、それと同じように鼻や唇にもピアスが光っている。だるそうにワイングラスを持ち上げた左手の指にはこれまた厳つい指輪が並んでいる。

「ブー、一時に客が来るんだ。その汚え恰好をどうにかしろ」

 山内はゆっくりと立ち上がり「ブーブー言わないでよ」と悲しそうな顔になった。だが原田は「あっち行けよ」と手で山内を遠ざけた。

左手でワインを飲みながら、原田はテーブルの上のリモコンで正面のテレビを起動させた。やはり数日前の暴力団員連続不審殺人事件についての報道をしていた。

「ひぃ、おっかねえ」

 そう言って楽しげに口を歪める。

 番組ではアナウンサーが事件現場である壱武館の前から報道していた。未だに事件の詳細は掴めておらず、警察は引き続き捜査に当たるという。

――カイの野郎、殺しはしねえって約束しただろうが――

 壱週間近く前に龍門寺へ拳銃を届けに行った時は、影虎に変わった様子はなかった。礼だけ言って銃を受け取った。「アンパン(シンナー)はもうやめたのか」と聞かれ、原田は「いいや」と笑った。「それで人を殺すのか」という原田の問いに影虎は「もう殺しはしない」と言った。久しぶりに会ったというのに、たったそれだけの会話だった。

 結局影虎は人を殺した。それも十五人も。これで一体何人目になる。原田はため息を漏らした。

 

 

 

 

 

 影虎がいなくなってから武志の頭はパニック状態だった。影虎が黒鉄景光と共に姿を消したのは、剛志と舞衣が武志の元へ戻ってくる直前だった。

 影虎は一枚の紙切れに住所らしきものを書き込むと、「頃合を見計らってここへ来い。それから、俺のことは絶対に他言するな」と武志の目を見つめた。その後に「当たり前だが、一人で来い」と彼は言った。

 武志は当初、黒鉄景光を影虎に渡すことを拒んだが、「どうせ持っていても警察が取り上げて、戻ってはこないぞ」という影虎の言葉を信じることにした。それに影虎には信じるだけの価値があるような気がした。あれほど武志の心を突き動かした者は今までいただろうか。武志は影虎に自分に近いものを知らず知らずに感じていた。

 武志はブラインドの隙間から窓の外を見た。外は報道陣の車のフロントライトや照明器具で照らされ眩しかった。

 家族のために貸し出された応接室には、三人が寝るためにソファと毛布がそれぞれに用意された。だが武志は眠れなかった。それは父も母も同じようで、電気もつけないで座ったままでいるようだった。

 武志の和服は血で汚れたために、小松原という担当刑事が自分の替えのワイシャツとスラックスを貸してくれた。小松原が貸したそれらは、長身の武志にも合うほどのサイズだった。武志の和服は明日の朝には洗濯が終わり返してくれるそうだ。

――明日には事情聴取か。一体いつ影虎さんのところへ行けばいいんだ。今は報道陣が多すぎて身動きが取れない。でも時間が経てば取り返しのつかないことになる気がする――

 武志は不安を払うように立ち上がった。

「どこへ行くんだ」

 剛志だった。

「トイレ」

 応接室を出ると、二階堂がドアの横のパイプ椅子に、タバコをふかしながら座っていた。

 二階堂は武志を見ることもなく、正面の壁を見つめたまま煙を吐いた。そのままトイレに行こうと歩き出した武志の背中に二階堂は言った。

「武志くんだったな。今日、君は何を見た」

 武志の背筋が凍りついた。影虎のことが脳裏をよぎったからだ。ゆっくりと振り返ると、二階堂は鋭い目でこちらを見上げていた。

「今日のこと、正直に話してくれ。残念ながら暴力団員たちの証言は意味不明だ」

 武志は生唾を飲み込んだ。

事情聴取は、明日からじゃなかったんですか」

 二階堂は嘲笑めいた笑みを浮かべた。武志にはそれがただただ不気味で仕方なかった。

「そうだな。だが、これは俺が個人的に聞きたいことだ。今回の事件は明らかにおかしい。まるで何者かが乱入したようだ。大勢の暴力団員を相手にできるような、驚異的な力を持った何者かが」

 武志は言葉を失った。この刑事は全てお見通しなのではないか。どんなに思考を巡らせても言い返す言葉が見つからない。この場で二階堂を納得させるようなことを言わなくては。だが、何も出てこない。

 額に大粒の汗を浮かべた武志を見て、突然二階堂は無表情になった。

「どういう事情があるにせよ、警察に隠し事はすんじゃねえぞ。小僧」

 武志の額から脂汗が伝い落ちた。

……何も隠してませんよ。何も見ていません」

 二階堂は暫く武志を見つめていたが、「そうか。小便だろ」と目を逸らした。

 武志は逃げるようにトイレに入った。鏡に映った自分の顔は、今まで見たことがないくらいに引きつっていた。

――逃げないと。ここにいたら何もかもが暴かれる。自分が黒鉄景光を持ち出したことも。爺さんと約束したんだ。あの刀は誰にも渡さない。誰にも――

 

 武志は朝まで絶えず色々なことを考えていた。

 自分の周りの全てが敵に思えて仕方がなかった。自分を育ててくれた家族でさえも、本当に心から信用していいか分からなかった。

「親父、母さん」

 ふたりはゆっくりと武志を見た。

「影虎さんのこと、俺は絶対に話さない。だからだからお願いだ

 二人は驚いたように顔を見合わせたが、剛志は「二人には話しておかないといけないことがある」と言い、小声で続けた。

「海斗くんのことで、わしが知っていることを話そう。彼は昔わしの教え子だった。力が強く優秀な子だったが、中学に入ると彼は剣道をやめてしまった。そのあとは暴走族に入ったと朱鷺さんに聞いている」

「暴走族

「ああ。海斗くんの過去に何があったのか、具体的なことまでは分からないが、そのあとは暴力団にいたらしい。そのあと彼は瀕死の状態で朱鷺さんに助けられたと聞いている。理由は分からないが、彼は暴力団員たちから命を狙われている。おそらく警察にもだ。だから警察には彼のことを言うつもりはない」

 武志は何度もうなずいた。

――確かにそうなら辻褄が合う。今までのことも納得できる。だが一つ気がかりがあるとしたら――

「親父、影虎さんがいた暴力団って」

 剛志は言いにくそうに言った。

「神坂組だ」

 信じられないというよりは、信じたくなかった。薄々そんな気はしていたが、本当にそうだとわかると、どうしても影虎のことを疑ってしまう。

神坂組影虎さんが」

「彼がそこで何をしていたのかは不明だ。彼の記憶も曖昧だったし、何より言いたくないようだった。ただ、聞くところによると、常軌を逸した力を誇示していて、不死身と言われていたそうだ」

 武志は頭を抱えた。影虎が神坂組の元組員だとすると本当に信用して良かったのかわからない。黒鉄景光のことも全て影虎の計算内だったとしたら、取り返しのつかないことになる。

親父、本当に影虎さんを信用してよかったのか」

 剛志は神妙な面持ちになった。

「わしは彼を信じたい。根本的なところで、わしらはまだ師弟関係だからな。ただ、彼の中に悪が宿っているのも事実だ。まあ、どのみち彼を信じるほかないだろう」

――何だよ、その押し付けがましい説明は。俺は命よりも大事な刀を預けてきたんだ。信じる信じないの問題じゃないだろう――

……俺だって信じたいさ。命の恩人だからな。でも、爺さんを殺したやつらの昔の仲間を腹の底から信じるなんて、俺にはどうしても無理だ」

 剛志は悲しそうに顔を歪めた。

武志、人間の真の価値は肩書きじゃないんだ。それがどうしてお前にはわからない」

 武志が何も言わずに父を見つめ返していた時、ドアがノックされ小松原が顔を覗かせた。

「朝食をお持ちしました。30分後に事情聴取を行います」

 武志たちは小松原から受け取ったパンを無言で食べた。剛志ともっと話すべきだったのかもしれないが、このまま平行線を辿るだけだろうと思うと気がめいった。代わりに武志の意識は次の行動へ集中していた。嘘の証言をしなければならないというプレッシャーに、押しつぶされそうだった。

 

 狭い取調室は、よくドラマで目にするものと何ら変わりなかった。武志は促されるままに、奥の簡素な椅子に腰を下ろした。向かい合うように入口側の椅子に二階堂が座った。小松原は横の小さな机で調書をとるために座っている。壁の小さなマジックミラーが、誰かに覗かれているようで気味悪かった。

 二階堂は手を組み、武志の顔を覗き込むように見つめた。

「緊張しているか」

「大丈夫です」

 二階堂はうなずくと、手元のレコーダーの録音ボタンを押した。それが武志の心を余計に不安にさせた。

「まずは本人確認をしましょうか。三木武志くん、私立玄徳学園に通う高校二年生。十六歳。間違いありますか」

 二階堂の敬語は至って形式的だったが、不思議と不自然ではなかった。武志は首を横に振った。

「声に出して」

「間違いないです」

二階堂は小さくうなずいた。

「じゃあ、事件当時のことについてお伺いします。暴力団員たちがやってきたとき、君はどこで何をしていましたか」

「道場で父と祖父と一緒にいました」

「それから」

それから、母の悲鳴を聞き、駆けつけると暴力団員たちが大勢いて、乱闘になりました」

「人数は何人ぐらいでしたか」

「二十人ぐらいだったと思います」

「その時に、君はどうしましたか」

 武志は一瞬返答を躊躇ったが、平静を装い「木刀で応戦しました」と言った。

 二階堂は「ほう、木刀ねえ」と訝しむように顎を摩る。

「その時の状況を詳しく聞かせてもらえますか」

 武志は、剛志と二人で玄関を防いでいたこと、何人かが入り銃声が聞こえたことなどを話し、駆けつけた時には既に母が殺され、死に物狂いで戦ったと話した。

 二階堂はゆっくりと首を縦に振っていたが、その顔は納得していないようだった。

「君は木刀で応戦したと証言しましたね。だがおかしいのは、暴力団員たちの中には、明らかに木刀ではつかない傷があるものがいたことです。それも大勢。どうしてですか」

 二階堂の的を射た質問に武志は言葉を失った。

「どうしました。顔色が悪いですよ。何か心あたりでもあるのですか」

「いえ。わかりません夢中で戦ったので覚えていませんが、もしかしたら僕か父が殴ったのかもしれません」

 二階堂と小松原が目配せした。

「殴る私がそのような言葉を使いましたか。私は『木刀では付かない傷』と言ったんですが。誰かが殴るところを見たのですか」

 二階堂の目が怪しくぎらつく。武志の肩は小刻みに震えだした。

……分かりません。覚えてないです。僕は、気が動転していたので」

 武志自身、自分の挙動が不自然だというのは分かっていた。だがどうしても二階堂の目を見つめ返すことができない。それどころか唇が乾燥して、粘度の高い唾液のせいで上手く喋れない。

そうですか。じゃあ、暴力団員が刺殺されていたことについて、何か知っていますか」

 そう聞いて武志は考えた。ここで正直に知っていると答えれば、次は誰がやったか聞かれ、凶器を聞かれる。だが日本刀だと答えればそれが一体どこに消えたのかという問題になる。だが知らないと答えるのはどう考えても不自然だ。

「え

 やっと武志が口にした言葉はこれだけだった。

「もう一度言います。暴力団員が三人刺殺されました。だが凶器がない。まあ死体は科捜研で司法解剖しているところだろうから、凶器が割り出されるのも時間の問題だろう。ただ、その凶器がどこにもない。どういうことだ」

 二階堂が身を乗り出した。彼の目は武志を捉えて離さない。

「知りません

 二階堂は間を置いて言った。

「実を言うとこちらは、君が刺したんじゃないかと見ているんだが」

「違う!」

 武志は声を荒げていた。立ち上がり、威嚇するように睨んだが、二階堂は冷たい眼差しでそれを制しただけだった。

「事件直後で気が動転しているようだ。コマ、今日はここまでにしよう」

 小松原がうなずくと、二階堂はレコーダーを切った。

「戻っていいぞ」

 武志を一瞥し、冷たく言い放った。武志が呆然としていると「まだ続けたいか」と今度は語気が強まった。

 武志は苦悶の表情を浮かべたまま、何も言わずに部屋を後にした。

 

 

 

  15

 

 取り調べが終わると、小松原と二階堂は廊下の自動販売機の前で一服した。相変わらず二階堂は美味そうにタバコを吸う。

「武志くんって言いましたっけ。あの子、随分と様子がおかしかったですね」

 缶コーヒーを自販機から取り出す小松原に対し、二階堂は「ああ」とうなずいた。

「あいつは間違いなく何か隠しているな。まあ、俺たちが取り調べできたのもあれで終わりだ。あとは本店のやつらが追い込みをかけるだろ」

「それにしても取り調べ、随分と攻めましたね。二階堂さんがカマかけた時、あの子の目の色が変わりましたよ」

「そうだったかな

 二階堂はタバコを口から話すと、深く息を吐いた。

「だが本店にいた頃はもっと攻撃的だった。ヤクザ相手に本気で殴りかけたこともあったわな。そんなことよりも」

 二階堂はタバコを灰皿に押し潰すと、備え付けられている椅子に腰を下ろした。

「捜査本部が開設された。俺たちが集めた情報が全部かき集められる」

「ええ」

 小松原は訝しげに眉を顰め、コーヒーを啜る。

「それと同時に情報を共有できる。これがどういう意味を持つかわかるか」

「なんですか」

「つまり、八年前の事件との関連性を導き出せるかもしれん。本店の情報にアクセスできれば」

「何言ってるんですか二階堂さん。今はそれどころじゃないでしょう。八年前の事件のことは暫く保留にするしかない」

 二階堂は大きくため息をついた。

「お前はヤクザの死体を見てねえのか。あれは人間の仕業だ。だが普通の人間じゃない。八年前の犯人と同じ、怪物だ」

 小松原は息を飲んだ。

「これはあくまでも仮定だがな、八年前の殺し屋が関与していて、今回の騒動の時にひと暴れして逃げたとすると、全部辻褄が合うんだ。そうでなけりゃ、たとえ腕っ節の良い親子でも、暴力団員十七人を相手に無傷で済むはずがないんだ」

 小松原は苦い表情のままうなずいたが、どうしても納得いかなかった。

「ですが、もしそうだとしても、なぜ武志くんはそいつを庇うような供述をしたんですか。それにあの現場に乱入して、あの家族を助けた意味が分からない。人を殺すほどのリスクを冒す意味があったんでしょうか」

 床の一点を見つめていた二階堂の視線がゆっくりと小松原へと上がっていく。

「家族を助けるためじゃなく、組員を殺すため、だったとしたらどうだ」

 小松原の眉が寄る。

「どういうことです」

「そいつが昔の仲間に大きな恨みを抱いていて、殺そうとしているんだとしたら分からないこともねえぞ。それにあのガキを脅して嘘の供述をさせることなんざ、きっとやつにはたやすいはずだ」

 小松原は背筋が寒くなった。二階堂の感の鋭さに尊敬と同時に恐怖を覚えた。

「やっぱり、八年前の犯人は今も生きていたんだ

 その時、遠くから廊下を硬い靴が叩く音がした。見ると本店の警察官らしき男女が三人で歩いてくるところだった。二階堂は彼らに見覚えがあるのか、じっと睨んでいる。

「あれぇ、二階堂さん。飛ばされたのってここだったんですか」

 一番若い刑事がつかつかと歩み寄ってきた。二階堂は立ち上がる。

「乾

「お知り合いですか」

 小松原が耳打ちすると二階堂は小さくうなずいた。

「鬼の二階堂さんが所轄とは、驚きましたよ」

「やめなさい乾くん。すみません」

 そう言ったのはまだ若い女だ。見た目は二十代後半から三十代前半。若作りしているとしても四十代には満たないだろう。なかなかの美人で頭もよさそうだ。

「以前府警にいらっしゃったと彼らから聞いています。私は今回の事件で捜査官を務めさせていただく、烏丸と申します」

 捜査官といえば捜査全体を取り仕切るトップだ。普通なら上層部の年配者がするものだが、今回はこの女がするというのだ。すなわちかなりのエリートなのだろう。

「マル暴の二階堂だ」

「同じく小松原です」

 小松原は敬礼したが二階堂は何もしなかった。その態度に烏丸の細い眉が寄った。

「年下に敬語は使いませんか」

 二階堂は目を尖らせて笑った。

「いや、悪いが女に敬語は使わない主義なんでね」

 烏丸はあからさまに顔をしかめた。

「このご時世に男女差別ですか。考え方が古いようですね。私は女ですが、この班の主任です」

「待て。柳川じゃなく、あんたが主任なのか。それに班員がもう一人足りないようだが」

 上目づかいに烏丸が笑う。

「特例で、この三人で第一係を任せられました。足手まといが無い分、捜査もスムーズになるという上の方針みたいですよ」

 二階堂は鼻で笑うと、鋭く烏丸を睨みつけた。

「ふざけるな。エリート気取ってんじゃねえぞ、女が。マル暴はデスクワークじゃねえんだ。あんたは椅子に座って資料の整理でもしてろ」

「口を慎め」

 そう言ったのは烏丸の後ろの男だ。

「ヤナ、元気そうだな」

「悪いがお前と馴れ合うことはもう二度とない。本店の面汚しめ」

「なんだと!」

「落ち着いて下さい」

 小松原が押さえつけたが、すぐにふり払われた。

「ヤナ!乾!お前らはいつからこの女の犬になったんだ!マル暴のプライドを忘れたのか!警察はサラリーマンじゃねえ!肩書よりも足で勝負するもんだろうが!」

「やめなさい」

 烏丸が冷たく制した。

「二階堂刑事、立場を弁えなさい。過去に本店の人間だったとしても、今のあなたは所轄の人間です。所轄は所轄の仕事をしておきなさい」

 二階堂はぎりぎりと歯を噛みしめた。

「行くわよ」

 そう言った烏丸を先頭に柳川と乾が続く。すれ違いざまに乾が二階堂に耳打ちした。

「犬になったのは、あなたの方ですよ」

 二階堂は苦しそうに顔を歪め、ただ足元に視線を落としていた。

 三人が見えなくなると、呆然と立ちすくむ小松原に二階堂が呟いた。

「あれは俺のここへ来る前の仲間だ」

 二階堂の表情は硬く、ケースからタバコを取り出す手もおぼつかなかった。

「仲間が一人殉職したって言ったよな」

「ええ

「そのあとに俺はここへ飛ばされた。理由は多分俺が被疑者に情報を売ったってことなってるだろう」

「どういうことですか」

 二階堂の顔が険しくなり、言葉を選びながら続けた。

「確かに俺は裏に情報ルートがある。そこから容疑者を探したり、裏を取ることもあった。だが、寝返って仲間を殺させたりはしない。それに、もし俺が情報を売ったっていう結論を上が下したとしたら」

「東山署に飛ばされるだけで済むはずがない、ですよね」

 二階堂は力なくうなずくとさらに続けた。

「だとすると、俺はどうしてここへ飛ばされたんだ」

 二階堂は調子が戻ってきたのか、タバコを指に挟みながら顎髭を摩った。

「他に理由がありそうですね。何か思い当たる節はないんですか」

 二階堂は目を閉じ、深く考えていたが、「あっ」と目を開けた。

「俺はここへ来たとき、いきなり八年前の事件の再捜査に当たらされた。そうだ、八年前の事件を調べるにはここへ降りてくる方が都合がよかった。それに、俺は当時捜査していて勘が働く」

「じゃあ、上の人間がそれを見越して、二階堂さんをここへ寄越したというんですか」

「いや待て」

 二階堂は眉間を人差し指の節で押さえながら、何か考えている。

「事件の捜査をさせるなら俺の他にも柳川だって必要だろう。くそう!あと少し出かかっているのに」

「落ち着いて下さい。ゆっくり考えましょう」

 小松原は二階堂を椅子に座らせ、その横に腰を下ろした。二階堂は何度も唸っていたが、ゆっくりと顔を上げた。

「おかしいぜ、コマ。もし今回の事件の立役者が八年前の犯人と同じだとしたら、いくらなんでもタイミングが良すぎやしないか

 小松原ははっとした。八年の間を空けての捜査だというのに、このタイミングで動き出したというのは二階堂が移動してきたことと、何らかの繋がりがあるのかもしれない。

「僕らが捜査を始めてからまだ一か月もたっていない。それに、あと二か月と少しで時効になるこのタイミングで、こんなことをするなんて不自然だ。まるでそれを狙っているみたいですね

 気味の悪い汗が小松原の脇の下からシャツを濡らす。

「連続殺人犯が時効まで待たずに、直前で勝負に出た。そうなれば考えられることは一つだ。やつは自分の全てを賭けている。もしこれが本当に復讐だとしたら、必ずまた組員の誰が殺される」

 二人は顔を見合わせた。お互いに恐怖と緊張のあまりに顔が強張っていた。

「なら早く上にそのことを知らせないと」

 そう言って立ち上がりかけた小松原の袖を二階堂が乱暴に掴んだ。

「待て。俺を嵌めてここへ飛ばしたやつらだぞ。もし何らかの策略があるならば、上層部と神坂組は繋がっているかもしれん。簡単に情報を預けるのは危険だ」

「なら一体どうしろと言うんですか」

 二階堂は渋っていたが、ついに決心を固めたようだった。

「俺たちだけで独自に捜査する」

 そう言った二階堂の目には、紛れもなく硬い意思が宿っていた。

「危険すぎやしませんか

 二階堂は立ち上がると、小松原の肩を軽く叩いた。

「どのみち危険だ。それに、このままあの化け物を泳がせておくよりはよほどマシだ」

 僅かにうなずいた小松原は苦しそうに笑った。

「だったら、あの家族を本店に引き渡す前に、もう一度聴取しましょう。時間はまだ少しだけあります」

 二階堂がうなずいたとき、廊下の向こう側から血相を変えた秋山が走ってきた。

「大変だ!彼が、武志くんの姿が無い!」

 

 

 

  16

 

 武志は東山署から数十メートル離れた道でタクシーを拾った。手元には満足な金額はなかったが、それでも今は構っていられない。

 正面玄関を突破するときはどうなることかと焦ったが、ケータイで電話をするふりをしながら、怪しまれることなく抜け出すことに成功した。報道陣関係者と思しき男たちが数人いたが、それもうつむきながらなんとか誤魔化せた。それよりも武志が注意していたのは神坂組の誰かがいないかということだったが、今のところそれらしい男はいない。

 タクシーに乗り込むと、武志は影虎から渡された紙切れの住所を見せた。運転手はくしゃくしゃのそれを訝しげに見ながらカーナビに打ち込んでいく。

――早くしろ。急がないと――

 車は静かに発進した。運転手は暫く黙っていたが、ちらちらとフロントミラー越しに武志を見てくる。

「お客さん、何をしにここまで?」

 緊張で会話をする余裕などなかったが、返さないのも不自然だと武志は素っ気なく返事した。

「この住所まで」

「ここは龍門寺というお寺みたいですが、お客さん、今日は学校は休みですか」

 詮索されることを恐れ、武志は何も言わず外の景色を眺めていた。淡々と流れる京都の風景はビルや家屋が立ち並ぶどこにでもある風景だ。今日は日差しが強くて眩しかった。

 武志は何度か後ろを振り返った。尾行されているか気がかりだったが、どうやらその心配はないらしい。見るたびに後ろの車が変わっている。

 

 十数分後、タクシーは徐々に入り組んだ道に入り、大きな門の前で停車した。

 武志は料金をどうにか払うと、人目を気にしながらその閉ざされた門の前へ立った。青銅製だろうか、くすんだ蒼い門は細やかな彫刻が施してあり、見上げると屋根の下に一頭の由々しい龍の像が泳いでいる。これがこの寺の名の由来なのだろう。それにしても巨大な門だ。その門の脇に貼られた古びた紙には「厳格な寺院につき、何人も許可なき立ち入りを禁ず」と書かれている。後ろを見ると、いつの間にかタクシーは消えていた。

 躊躇ったが、武志はその門を開けようと力強く前へ押した。

「そこじゃない」

 いきなり声をかけられて武志の胆がひやりとした。横を見ると、門に備え付けられた小さな木戸から、あの男が顔を覗かせていた。

 いつ見ても厳つい顔だ。何度見ても背筋が冷たくなる。

「中へ入れ。安全だ」

 声に促されるまま木戸をくぐると、中は想像以上に広く、武志は目を丸くした。大きな公園ほどの広さはあろうかという広場に砂利が敷き詰められ、それを取り囲むように松の木が並んでいる。さらに奥には古びた本堂がある。外からは全く見えなかったが、瓦屋根のそれはかなり大きいだろう。その本堂の脇に小さく見えるのが倉庫のようだ。

 松の木も足元の砂利もきっちりと手入れがされているのに、どういうわけか他の僧侶は見当たらない。

「本当に待っていてくれたんですね」

 影虎は振り返らず、黙って前を歩いていく。

「ここには誰が住んでいるんですか」

 ちらりと振り返り、影虎は応えた。

「俺以外に、朱鷺という住職が一人いる」

 

 

 

 

 

 

  第三章 襲来

 

  25

 

 神坂組組長、安岡大力はどっかりと椅子に腰かけて葉巻をふかしていた。

 大柄な男で腹が前に突き出している。高級な和服を着てピカピカの革靴を履いている。顔中に濃い縦皺が刻まれ、ロングの黒髪はポマードでオールバックに撫で付けてある。見るからに危険な風貌だ。まさにヤクザのドンといった感じだ。

「おい」

 安岡は葉巻の先で近くにいた男を呼んだ。

「はい」

 180センチほどの男は安岡の正面に立った。金縁の眼鏡をかけていて頬に切り傷がある。スーツを着こなしているが、その首筋には服に隠れきれなかった刺青がはみ出している。

「右近、刀の行方はまだわからないのか」

「申し訳ありません。若衆が必死に捜索しているので、見つかるのも時間の問題だと思われます」

 右近と呼ばれた男は頭を下げた。

 安岡は軽くうなずくと、手を組み眠るように目を閉じた。だが実際は眠ってなどいない。これが彼の一番落ち着く体制なのだ。

 右近は海斗の次のボディガードだ。

彼は細身だが相当な豪腕だ。幼い頃から総合格闘技を学び、頭もきれる。そして彼は拳銃の扱いが人知を超えているのだ。組員からは次期組長と囁かれている。

 右近は顔を上げると部屋に備え付けてあるパソコンの前に座った。新しいメールが来ている。確認してみたが、どれも有力な情報とは言えない。場所を特定する有力な手がかりがないのだ。

 その時、外の部屋から騒ぎ声が聞こえた。

 安岡は苛立たしげに身を起こすと「黙らせろ」と言った。

「見てきます」

 右近は部屋のドアを開け、向こうの部屋に移った。

「一体何の騒ぎだ」

 するとひとりが慌てて駆け寄ってきた。

「右近さん!三島が、三島龍二が帰ってきたんです!」

「何だと?」

 三島は例の抗争の時に警察に逮捕され、今は警察病院にいると聞いた。

「三島はこの前サツにパクられただろう」

「でもあんさん、現に表に三島がいるんですよ!」

 右近は男を押しのけると外へ急いだ。

(あの時現場にいた三島が本当に戻ってきたとしたら、これは有力な手がかりを得られるに違いない!)

 神坂組の雑居ビルを出ると、一点を取り囲むように男たちがいた。

「俺だ!お前らそこを退け」

 男たちは右近を見ると慌てて左右にどいた。右目が完全に潰れてはいるが、そこにいたのは間違いなく三島龍二だった。

「三島、その怪我どうした」

「包帯が邪魔だったんで捨ててきてやりましたよ!」

 右近は辺りを見回した。

「ここじゃなんだ。とりあえず中には入れ」

「そんなことよりあんさん。龍門寺海斗が生きていました」

 右近は息を呑んだ。

とりあえず中へ来い。組長の前で話すんだ」

 

「龍門寺影虎」という名を右近から聞くなり、安岡は顔を強ばらせた。右近の隣にいる三島が先日の衝突の一部始終を話している間、安岡の顔は強ばったままほんの少しも動かなかった。

(龍門寺海斗あいつは殺したはずだ

 安岡は八年前のことを思い出していた。

 高杉会と衝突したとき、高杉会の組員が神坂組から一枚のSDカードを盗み出した。そのSDには神坂組が今までに沈めてきた一般人の詳細が記されていた。借金に溺れて最終的に臓器提供を強要されて殺された者や、組を脱退しようとして殺された者の他にも、大物政治家から依頼された、国会議員暗殺のデータも含まれていた。安岡は影虎を使って高杉会のその男を徹底的に追わせて、最終的に銃殺させ、高杉会は姿を消した。SDカードも回収し、全てが幕を閉じたようだったが、安岡には最後にすることがあった。

 SDカードを回収した影虎を保険のために殺しておくことだ。

 安岡が知っている限り影虎は、組員にバラバラにされた後、大阪湾にコンクリートで沈められたはずなのだ。それを実行したはずの男はちょうどその頃に姿を消している。高杉会の残党に殺されたと聞かされていたが、ちゃんと確かめたわけではない。

 安岡は直感し、全身に鳥肌が立った。

――バラバラにされて沈められたのは、海斗ではなくあの組員の方だったのだ――

 事件の末路を知るのはこの世に安岡と影虎だけだ。

――海斗さえ消せば全てが丸く収まる。いや、やつを消さなければ自分の命がどうなるかわからない。あいつは間違いなく俺を恨んでいる。実の母親を殺させたこの俺を――

「右近」

「はい」

「黒鉄景光は必ず奪い返せ。それから、龍門寺海斗は今すぐ見つけ出して始末しろ」

 新しい葉巻を取り出そうとした安岡の手は小刻みに震えていた。

 

 

 

  26

 

 武志は目の前の光景を見て息を呑んだ。総勢二百人以上の厳つい男たちが、バイクに跨りこちらを凝視しているからだ。

 龍門寺の前に集まったビーストのメンバーは表通りを完全に陣取っていた。それぞれ煌びやかな装飾が施された大型のバイクに跨り、静かにこちらを見つめている。年齢はバラバラだ。中年もいれば武志より若い者もいる。全員が真っ白の特攻服に身を包み、「京都暴狂連盟野獣」とか益荒男魂」という幟を掲げている者もいる。異様な光景だ。

 ビーストのメンバーが一挙に集結したわけだが、それをまとめるはずの原田の姿がないために武志はかなり慌てていた。山内ははっきり言ってあてにならない。

 その時、大型のトラックが彼らの後方からやってきた。

「頭領!」

 男たちは口々に叫ぶと、原田のトラックのために道をあけた。

 原田はトラックを先頭に停めると、武志の横に歩み寄ってきた。原田も特攻服姿だった。

「お前らァ!」

 一瞬にして水を打ったように空気が張りつめた。これがビースト会長原田真之介の存在の大きさだ。原田は満足そうに笑うと彼らを見渡した。

「これは戦争だ。敵は神坂組って暴力団。神坂組はこのガキのなんだっけとりあえず刀を狙っている。お前らにはその刀を死守してほしい。このガキは前会長、龍門寺大先生の大切なご友人だ。死んでも守って欲しい」

「神坂組なんか怖くないぜ!」

 一人が叫ぶと一斉に歓声が沸き起こった。原田は右手を掲げそれを静めた。

「今から向かうは初代会長、巳六權水先生の邸宅だ。そこまで逃げ切るんだ。組の連中は仲間を何人か殺されて相当苛立ってる!死ぬ覚悟をしてくれ」

 武志は鳥肌が立った。多分この中からも死者が出るだろう。自分や黒鉄景光の為に

 横にいる桜田が心配そうに武志を見つめた。だが武志は彼女の視線を視界の端で認識しつつも、その顔を見返すことはできなかった。

 一方ビーストの面々は、不気味なほどニヤニヤ笑っていた。

「命なんか惜しくねえ!俺らはただ金と名誉が欲しい!なあみんな」

 前にいたスキンヘッドの男がそう言うと、その後ろからも歓声が沸き起こった。

 原田は声を上げて笑うと満足げにうなずいた。

「よし!それでこそ京都暴狂連盟の看板を背負ってる男たちだ。今から拳銃を渡す。アメリカ製のエミリーだ。だが覚えとけ。敵だろうと人を殺すとムショから出てこれねえぞ!さあ、思う存分暴れようぜ!」

 一斉に歓声が沸き起こり、原田は満足げに舌を出して笑った。

 全員に拳銃が手渡されると原田は武志たちの所に戻ってきた。

「ほら、お前らも持っておけ」

 ずしりと重い感触が武志の手に触れた。桜田は恐怖心に顔を歪ませた。無理もない、目の前に殺人兵器があるのだ。

「普通の女子高生に拳銃は良くなかったな。ねーちゃん、あんたはブーとトラックに乗れ。バイクよりは安全だろう。それから武志、その刀は俺が持っておく」

 武志は腰の黒鉄景光に手をやった。

「いや、こいつは俺が持っておきます。死んだ爺さんの形見だ。命を賭けても自分で守りたいんだ」

「だがそいつを持ってる限り、神坂組から狙われ続けることになるぞ。香川までは遠い。本当に大丈夫か?」

 原田は心配そうだった。

「それでも俺はこいつを守りたい」

 武志は原田を真っ直ぐに見つめ返すとはっきりそう言った。それを見て原田もうなずいた。

「わかった。俺が先頭で突っ走るからお前は常に俺の後ろについておけ。香川までノンストップで行くぞ」

 そう言うと原田は山内に目で合図を送った。山内はうなずくとトラックの運転席に乗り込んだ。

「ねーちゃん早くしろ。みんなを待たせるな」

 桜田は心配そうに武志を見つめた。その視線が武志の心を熱くさせた。

「大丈夫だって。そんな顔するなよ」

 笑おうとしたが顔が不自然に歪んだだけだった。桜田はそのまま原田に急かされて山内の隣の席に乗り込んだ。

「荷台からバイクを出す。手伝え」

 原田は武志を連れてトラックの後部に回り込んだ。

それからトラックの荷台を開けた。中には左右に軍隊が使うような武器や弾薬が所狭しと積まれていた。その真ん中の一番奥に原田のバイクがあった。青を基調としている。

「おい、グズグズすんな」

 原田に呼ばれ武志は慌てて荷台に乗り込んだ。

「こんな武器や弾薬、ブーさんが一人で?」

「そうだ。持っていきたいのがあるなら遠慮するなよ。このトラックは動く武器庫だ。こいつさえあればビビるこたぁねえ。ほら、持ち上げろ」

 二人は原田のバイクを外に出した。車体が太陽に反射し眩しく輝いた。よく見ると、足元にアクセルのようなものがついている。普通バイクはハンドルにアクセルがついているから、これはおかしなことだった。

「何見てんだ。もたもたすんじゃねえ。早くてめぇのバイクに乗れ」

 武志は慌てて自分のバイクに跨った。

「それから」

 原田は武志に何か投げてきた。受け取るとずしりと重い服のようだった。

「防弾チョッキだ」

 そう言って彼は白い歯を覗かせた。

「ありがとう!」

「和尚さんと小僧さんたちは寺に残るそうだ。お前の両親は途中のどこかに安全なところに下ろしていく。それまでは後ろのジャガーで移動だ。獅子頭とかいうやつは使えそうだから香川まで来てもらう」

「わかった」

 原田はうなずくと右手を空へ振り上げた。

「さあ、俺についてこい!」

 原田のバイクが轟音を立てて走り出した。

 

 

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 その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。

一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。

――何なんだあいつは。人間じゃない――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武志は自分の

武志の目は憤怒に血走っていた。

「お前ら全員殺してやる

十人以上いる男たちの中に飛び込もうと、思いきり床を蹴った。

 その時だった。

 誰かが武志の肩を強く引いた。

 振り向くと、自分より遥かに大きい男が立っていた。少なくとも2メートルはあるだろう。

スキンヘッドで黒いタンクトップを着、その逞しい両腕には黒い蛇がそれぞれ彫られている。

彫りが深い顔は目元が陰になっており、彼の威圧感を増幅させている。頬は肉が薄く鼻が高い。日本人らしからぬ顔立ちだ。武志は直感的に生命の危機を感じた。一瞬自分を殺しに来たと思ったのだ。

 だが違った。武志はこの男のことを覚えていた。

龍門寺影虎」

 そう。三年前に父、剛志に勝ってふらりといなくなった男だ。

「小僧、俺が隙を作る間にご老体を助け出せ」

 影虎の声は不気味なほど落ち着いていた。

 敵の暴力団員たちの空気が一気に張り詰めた。武志は誰かが「イノウエ」と囁いたのを聞いた気がした。

 影虎は武志の肩から手を離すと、勢い良く男たちの中に飛び込んだ。

 彼の戦い方は豪快だった。

 その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。

一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。

――何なんだあいつは。人間じゃない――

「小僧!早くしろ!」

 影虎が叫ぶと、武志は自分のすべきことを思い出した。影虎が敵を寄せ付けないようにしていたおかげで、雅志に駆け寄ることができた。

雅志の手はしっかりと黒鉄景光を握っていたが、既に本来の温もりは消えかけていた。

 武志は雅志を背負うと逃げるように稽古場を後にした。

 

 

 

 

 瞼の隙間からぼんやりと光が差して、それが徐々に強くなった。

 眩しいけど、ここはさっきの場所じゃない。体が暖かい。息もできる。俺は確かに生きている。

 焦点が定まると、真っ先に輸血袋が見えた。一本の赤い管が伸びていて、俺の体に繋がれているらしい。壁の時計を見ると十一時前だった。あれから五時間も眠っていたのだと思うと不思議な感じがする。体中が汗でべたつく。ベッドに寝かされていると分かり、すぐに病院にいると認識した。

 俺は生きている。でも、なんで――

 体を起こそうとすると激しく左腕が痛んだ。

「大丈夫か、武志」

 そう言って覗き込んできた顔を見てぞっとした。

「親父

 親父は安心したように息を吐いた。

「無事で良かった」

 親父の横を見るとお袋が涙ぐんでいた。そっと俺の右手を握っている。

 左手を見ると包帯が何重にも巻かれていて、肩の近くに輸血の為の針が刺さっている。正直言って気持ち悪かった。

「君のお母さんがO型で本当に良かった」

見ると、白衣を着た中年の医者が立っていた。

「輸血が遅れたら大量出血で死んでしまうところだったよ。傷口が動脈をわずかに逸れていたから助かったものの、あと1センチずれていれば君は確実に死んでいた。お母さんに感謝しなさい」

 お袋は心なしか疲れているようだった。俺はどうしていいか分からず、ぎこちなく会釈するしかできなかった。

「いいのよ。親子だもの」

 そう言ったお袋は、心の底から安心したように俺を見つめてくる。だが俺にとってはそれが不気味で仕方ない。

 医者が病室をあとにすると、親父が深々と頭を下げてきた。

「武志、今までお前の本当の親のことを黙っていて、本当にすまなかった」

 いいんだ。なんて、言えるわけがない。

 お袋は悲しそうな顔で俺の顔を見つめてくる。その目が何を訴えているのかは分からないが、俺はこの二人にどう接すればいいかを必死に考えていた。俺が突き放すかどうかで、この人たちの明暗が分かれる。でも何故だかどっちに転んでもいいような気さえする。俺が優しくすれば以前と同じような日々が続くだろうが、それは上辺だけのもので、要は家族ごっこだ。逆に冷たくあしらえば、俺の胸はすくかもしれないが、人間関係は崩壊するだろう。まあどちらにせよ、もう修復は不可能だろう。

「俺の本当の親のことを教えて」

 結局許す許さないを選ぶことはできなかった。親父は言いにくそうにしていたが、絞り出すような声で続けた。

「お前の父親の名前は草刈一。警察官だった。でもある事件を捜査していた時に、自宅で奥さんの陽子さんと一緒に殺害された。お前は現場に居合わせたが奇跡的に無事だった。草刈と陽子さんは駆け落ち結婚だったらしく、親はおろか親戚とも連絡の手段がなかった。残されたお前は引き取り手が現れない限り、児童保護施設に入る予定だったが、わしが申請してお前がここの子になった。かいつまんで説明するとこうなる」

 親父の説明は確かに理にかなってはいる。が、頭では理解できても心がついていかない。それにこの話、さっき俺が見た夢をなぞるような内容だ。俺の本当の両親が何者かに殺されたなんて、不気味で仕方がない話だ。

もし二人が生きていたのなら、俺はもっと違う人生を歩んでいたのだろうか。こうやって苦しまずに済んだのだろうか

「わしと草刈は高校の時に剣道部で同じだった。あいつは真面目で、いいやつだった」

 親父の険しかった目が、わずかに優しくなったような気がした。

「じゃあ草刈さんが殺された事件っていうのは」

 言いにくそうにしている親父が今は腹立たしかった。俺のために言うべきか躊躇っているのかもしれないが、これ以上何かを隠されるのはごめんだ。

「親父」

「ああ。十六年前のことだ。舞鶴辺りに連続殺人犯が潜伏しているという情報があって、捜査に乗り出して暫くしてから草刈は殺された。ちなみに犯人はまだ捕まっていないらしい」

 犯人がまだ捕まっていないという事実も興味深かったが、それ以上に確認すべきことがある。

「犯人はどうやって二人を殺したんだ」

 呼吸も躊躇われるような深い沈黙があったが、俺は自らそれを破った。

「頭を胴体から外されて、か」

 核心を突かれ、親父の目が見開いた。答えを聞かなくてもそれが答えだった。

 間違いない。あの夢は現実だ。

 いや。そもそもあれは夢だったのか。夢にしては鮮烈過ぎる。きっとあれはもう一人の、今の俺に隠れている自分からのメッセージだ。だとすれば、俺がすることは何だ。

 その時俺の頭の片隅に「革命児」という文字が浮かび上がった。

 そうか。あの声もそう言っていた。なら、俺はその犯人を見つけ出すべきなのか。俺の親を殺したやつを見つけ出して、そのあとは。

 そのあとは――

 もう人を傷つけるのはごめんだ。こうやって俺がここにいる今、詩織さんはどうしているのだろうか。あの人は生きているのだろうか。いや、生きていてくれ。そうじゃないと、俺は人殺しだ。そんな闇を背負って生きていけるほど俺は強くない。もう自分がどうすればいいのかわからない。こうやって悩んでいる時間もきっと今の俺にはないんだ。何かすべきことが必ずある。それを見つけ出さないと。早くしないと――

「親父、俺はその犯人を見つける」

「見つけてどうするんだ」

 親父の目は真剣で、じっと俺を見つめてくる。

「それはまだわからない。でも見つける」

 親父は呆れたように息を吐いた。

「お前のそういうところ、草刈にそっくりだ。だからこのことをお前にだけは言いたくなかったんだ」

 

 

 

 

 

 

  9

 

 平日の午後、二人の男が東山の繁華街を歩いていた。時間の割に営業中の店や通行人は多い。空には昨日の雨が嘘のように太陽が燦然と輝いている。

「暑いですね」

 小松原は隣を歩く二階堂に目をやった。自分より若干背は低いが、社会の裏の全てを知り尽くしているかのような貫禄がある。

「まだ、四月だってぇのになあ」

 二階堂は吸い終わったタバコを火も消さずに道端に放り投げた。

「ちょっと、ダメですよ」

 小松原は慌ててそれを拾った。だが二階堂は謝るでもなく先を歩いていく。小松原は二階堂の背中を見つめて小さく溜め息を漏らした。これで何度目だろう、二階堂のタバコの処理をするのは。本当にこの人が刑事なのだろうか。

 と、二階堂はいきなり立ち止まった。

「コマあれを見ろ」

「何ですか」

 二階堂の視線の先を見ると、和柄の服を着た男が二人、怪しげな雑居ビルの地下に入っていくところだった。

「もしかしてマル暴ですか」

「間違いない。あの雑居ビルの地下にはモグラがいる。もしかしたらやつらはモグラに会いに行ったのかもしれねえ」

モグラ」というのはもちろん動物ではなく人間のことだ。小松原は既に二階堂から「モグラ」についての説明は受けていた。神坂組の下で武器の裏販売をしている中国人のことだ。常に地下にいて、まず地上に姿を見せないことから二階堂が勝手にそう呼んでいる。今回二人はその通称モグラという武器商人に会いに来たのだ。理由はもちろん八年前の事件について聞くためだ。

「あいつらが出てくるまでは様子見だ。そこの喫茶店で様子を伺うぞ」

「はい」

 二人はすぐ横にあった喫茶店に入った。するといきなり「いらっしゃいませご主人様!萌え萌えキュンキュン」とメイド服を着た若い女が出迎えた。

「二階堂さん、どうやらここメイド喫茶みたいですね。どうしますか」

「メイドだ?メイドってあの冥土の土産の冥土か」

 どうやら二階堂はメイド喫茶というものを全く知らないらしい。

「冥土だろうと賽の河原だろうと今は関係ねえ。おいねえちゃん、そこの窓際の席に座らせてもらうぜ」

 そう言うと二階堂は窓際の席につかつかと歩いていき、どっかりと腰を下ろした。小松原はメイド服の女に申し訳なさそうに会釈すると、慌てて二階堂と向かい合う席に座った。

「コマ、あいつらが出てくるまで絶対に目を離すなよ」

 二階堂は外の雑居ビルをじっと見つめている。目を離すなと言われても小松原の席からは反対方向で振り向かないと見ることができない。

「はい。ところで二階堂さんはどうしてモグラのことを知ってるんですか。明らかに違法の店ですよね。まさか、警察上層部が黙認してるんじゃないですよね」

 二階堂は小松原が喋っている途中から面倒くさそうな顔になっていた。

「まさか。モグラの存在を知ってるのはマル暴担当でも俺だけのはずだ。おい、ちゃんと見とけ」

 小松原は慌てて雑居ビルを見るために振り返った。

「はい。で、モグラは検挙しなくていいんですか。放っておけば武器が平気で街中に出回りますよ」

 二階堂は小松原をバカにしたように鼻を鳴らした。

「そのモグラが逮捕されりゃあ、せっかくの裏の情報の仕入先がなくなるだろ。そうなれば俺たちの仕事もなくなるぜ」

「そういう捜査ってよくするんですか」

 二階堂が面倒くさそうに口を開きかけたその時、注文を取りに先ほどの店員がやってきた。

「ご主人様!注文を取りに来ました。萌え萌え」

 二階堂は苛立たしげに大きく舌打ちした。

「おい、ねえちゃん、俺たちは今会話してんだ。勝手に割り込んでくるんじゃねえ」

 彼女の表情が一気に曇ったので、小松原は慌てて「コーヒー二つ」と言った。

「お砂糖とミルクはどうなさいますか。も、萌え」

「いえ、結構です」

「かしこまりました。も、も

 彼女はがっくりと肩を落として去っていった。二階堂は「変な店だなあ」と顔をしかめた。確かに内装は目がチカチカするようなピンク一色で、椅子や机も派手な柄の模様がプリントされている。こういう店に私服とはいえ警官が二人でやってくるのも相当変なのだが。

「コマ、これはひょっとして何かのプレイか?」

「へっ、どうなんでしょう。違うような違わないような

「だとしたら違法の可能性があるな。支店に戻ったら確認しとけ」

「わかりました」

と言いつつ小松原は二階堂にバレないように小さく溜め息をついた。

(確認なんてするわけないでしょう。この人は裏社会には詳しくても、表社会にはそんなに詳しくないんだろうか)

 運ばれてきたコーヒーを、二階堂は不味そうに飲みながら外の様子を伺った。と、彼の瞳孔が見開かれた。

「やつらが出てきた。意外と早かったな。行くぞ」

 二階堂はコーヒーカップを机に置くと立ち上がった。

「ねえちゃん、千円で足りるよな」

二階堂は財布を開いた。しかし小銭しかない。

(やべ、これじゃ後輩の前でカッコつかねえぞ)

 だが二階堂は何か思いついたようにニヤリと笑うと、やってきた店員に警察手帳を見せつけた。

「動くな、警察だ!この店は違法だろう。だが今回ばかりは見逃してやる。ありがたく思え。よし行くぞ」

 二階堂は唖然とする小松原の胸ぐらを掴むとそのまま店を出た。店員は状況が飲み込めずただ呆然と二人を見送った。

 

 

 

  10

 

 モグラの巣穴には骨董品などが置かれていて、所々に布や木箱が置いてあった。昼間なのに中は薄暗く異様な雰囲気だった。

「実はよ」

 二階堂は小声で小松原に囁きかけた。

「俺がモグラの存在を知ったのは、捜査を打ち切りにした四年後だった。だからあの時のことをモグラに聞くのは今日が初めてだ。もちろん、今までも何度か会ってるが、大抵他の事件の捜査中だったからよ

「じゃあ、もしかするとその時の手がかりが掴めるかもしれませんね」

 小松原がそう言った時、店の奥から男の呻くような声が聞こえてきた。二階堂は軽く笑い「モグラめ」と言った。慣れている様子だ。

「おおい、どこにいるんだよ」

 二階堂はそう言って声のする物陰を見た。

 すると、右手から夥しい量の血を流した初老の男が倒れていた。白髪交じりの髪も髭もボーボーに伸びていて薄汚い服を纏っている。

「おいモグラ!一体何があったんだ」

 モグラと呼ばれた男は「血、トメテ」とか細い声で言った。どうやら右手の小指を第二関節から切断されているらしい。小松原は慌ててポケットからハンカチを取り出した。

「これを使って下さい」

 二階堂は乱暴にそれをひったくるとビリビリに裂いて、男の指にきつく巻いた。

「コマ、棚に置いてある酒を取ってくれ」

 小松原がそのブランデーを二階堂に手渡すと、彼はその酒を勢いよく男の口に流し込んだ。

「痛み止めだ」

男はそれからもしばらく呻いていたが、どうやら血は止まったらしい。十分ほどで喋れるようになった。

「まさか救急車呼んでネィだろな」

「大丈夫、呼ぶわけがない」

 男は安心したのか大きく息を吐いた。

「おいモグラ、さっきの男たちにやられたのか」

「いや。指は自分で切っタ。俺がやった責任重イ」

「責任って何だ」

「俺、アンタラに話す筋合いない。それよりアンタラなにしにきたネ」

 二階堂は珍しく溜め息をついた。

「助けてやったんだから少しぐらい話してもいいだろう。そうだ、今日来たのは八年前の事件について聞くためだ」

「ヤクザ殺しか」

 男は痛みを堪えならも、数本欠けた歯を剥きだして笑った。小松原はそんな彼を不気味に思った。

「そうだ。俺たちは犯人が2メートルの大男だと特定して捜査したんだが、そんな男を知らなかったか」

 男は首を傾げたあと、何か思い出したのか「あっ」と声を上げた。

「いた!確かにタ。名前は忘れたケド、まだほんのガキだったはず

 二階堂はただの推測が確信に変わり、興奮のあまり顔をピクピクさせた。

「どんなやつだ、詳しく教えてくれ!」

「俺もちょっと見たダケだがいつも組長の近くにいた。でもあいつは人じゃネィ。怪物だ」

 男がそう言った時、入口の方から乱暴に車が止まる音がした。

「まずい。オマイら裏口から早く逃げれ!」

 男は切羽詰った様子で小声でそう言った。

 二階堂はそれが神坂組の車だと直感した。本来、歩行者専用道路に乗用車が入ってくるわけないからだ。

「コマ、急げ!」

 小松原は走り出した二階堂の背中を慌てて追いかけた。

 

 

 

 

 

 

  12

 

「どうぞ」

 小松原は夕日を見つめている二階堂に缶コーヒーを差し出した。二階堂は珍しく嬉しそうに笑った。

「悪いな」

「いえ」

 小松原は二階堂と並ぶように柵に体を預けた。東山署の屋上から見る夕焼けは絶景だ。風も優しい。

コーヒーを口にすると、ほろ苦い味が口全体に広がり、心を落ち着かせた。

二人は「モグラの巣穴」から逃げたしばらく後、再びその場に戻ってきた。しかし、武器商人の男の姿はなく、置いてあった骨董品や木箱なども全て運び去られていた。唯一掴んだ手がかりは、二メートルの大男が実際にいたということ、彼がいつも組長のそばにいたこと、そしてまだ若かったということだけだ。それでも二階堂は「十分大きな手がかりだ」と喜んでいた。

「二階堂さん」

「ん」

「あのあとモグラは一体どこへ行ったんでしょうか」

 二階堂は薄く笑った。夕日を体中に浴びてどこかもの悲しげだった。

「死んだのかもしれねえなあ。裏社会は怖ぇからよ、追求するのはやめておけ」

 最後の言葉に小松原は疑問を抱いた。

でも、それが僕たちの仕事です。失礼ですが二階堂さんは警察官らしくないですね」

 二階堂は顔を小松原の方へ傾けた。じっとこっちを見てはいるが、同時に、自分を通して違うものを見ているような気がした。

二階堂は缶コーヒーを飲み干すと、ほらよ、と小松原に空き缶を渡した。

コマ、お前は何で刑事になったんだ」

 意表をつかれた。

「えっ。子供の頃からの夢だったからです」

 二階堂は「ふうん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。

「じゃあよ、ここは小松原少年が描いたような、情熱だとか正義だとかに満ちあふれた職場だったか」

 小松原は何も言えなかった。子供の頃は正義のために戦う警察官に憧れていたが、今までの仕事を振り返ってみると、普通のサラリーマンのようなことしかしていない。

 二階堂は遠くを見て言った。

「俺じゃ上手く言えねえけどよ、警察なんて所詮は国家権力で動いてるただの『庁』なんだ。この世には当然光があって闇がある。俺たちは闇を暴こうとしてるが、考えてもみろ。光と闇があって初めて目に見える。もし光だけになったらよ、眩しくて何も見えなくなるぜ」

 二階堂の目は悲しげだった。小松原は息もできずそんな彼を見つめた。

「俺は二十年とちょっと刑事してきて、この社会の裏と表の両方を見てきたつもりだ」

「はい」

「いいか。地球って丸いよな。丸い地球の光が当たってる側を見ると、光が当たってる場所と当たってない場所がある。またよく見ると、影が濃いところと薄いところがあり、光が強いところと弱いところがある。どういうことかわかるか」

 小松原はかぶりを振った。

「つまりそれがこの社会だ。光が当たってるような表社会にも実はそうじゃない場所がたくさんある。警察で考えるとわかり易い。正義のために本気で頑張ってるやつもいりゃ、金のために裏で手を汚してるやつもいる。汚ねえ金で私腹を肥やす上層部がいれば、そうじゃない所轄刑事もいるってことだ」

 二階堂は若干口元を緩ませた。

「人間一人にしろ、多かれ少なかれ闇の部分はある。だがこの社会を動かす政治家とか警察の上層部は必ずと言っていいほど裏とつながりが深い。それは誰もそれが間違ったことだと教えちゃくれないからだ。自分より上がいないと歯止めが効かなくなる。あとは自分の判断次第ってことだ。いいかコマ、お前は周りがどんな動きを見せても、必ず自分の正義を貫け」

「二階堂さん

 二階堂は真剣な顔をしていたが、ふっと笑った。

「しけた話しして悪かったな」

「いえ。そんな」

「俺が言いたかったのは、この腐った社会で信じられるのは自分だけだってことだ」

はい」

照れくさそうに夕日を見つめる二階堂が眩しかった。失礼だが、初めて二階堂が本物も刑事に見えた。

「たとえ上からの命令でも、自分が間違っていると思えばする必要はないんだぜ。心まで染められたら、自分が本当にしたかったことができなくなっちまうからよ」

 そう言って二階堂は、ポケットからタバコを取り出して口に咥えた。

「じゃあ、僕はもう二階堂さんが捨てたタバコは拾いませんよ」

 小松原が冗談っぽく笑うと、二階堂は嬉しそうに殴りかかってきた。

「俺の命令だけは特別なんだよ」

 小松原は嬉しそうに、その拳を胸に受け止めた。

 

 

 

  13

 

 病院で精密検査を受けたが異常は見当たらなかった。

 しかし、彼は未だに自分の腕に違和感を抱いていた。不思議な感覚だった。あの試合の時から、右腕に力が漲っているのだ。左腕はいつもどおりというのに、一体どうしたのだろうか。右腕の筋肉に若干の痛みを感じるが、普段よりも軽く感じた。

 最近彼は部活を休み続けていた。腕のことが心配だったからだ。

空は怪しげな雲行きで、今にも雨が降りそうだ。上空には夥しい暗雲が立ち込めている。

 武志は今日も部活を休んで、家に帰ってきた。

 由緒正しい道場だけあり、和風の豪邸だった。ただ、代々伝わる家だけに老朽化が進み、ネズミが住処としていた。

(俺の右腕は何かに取り憑かれているんだ。毎晩激しい電流が体中を駆け巡る。これは物の怪の仕業に違いない!俺の腕が、どんどん蝕まれていく

「おい、武志」

 彼が縁側を通りかかったとき、一人の男が声をかけてきた。

 そのひとことで彼は我に返った。

 別段怪しい男ではない。彼の父、三木剛志だ。普段から和服を着て、ここへ来る子供たちに稽古を付けているのだ。今は縁側に座り池の錦鯉を眺めていた。

 彼は息子と違いゴツゴツした顔をしていた。身長も168センチと高くはなかったが、剣の腕前は相当なものだった。五十歳を迎えた今でも、それはほとんど衰えていない。普段は優しい父親だが、剣道のこととなると豹変するのだ。

「久しぶりに勝負しないか」

「悪いな親父。前にも話したが、今はそれどころじゃないんだ」

 しかし、剛志はむっくりと立ち上がると、道場のある離れへ歩きだした。

仕方なく武志も後に続いた。

 

 彼がこの道場に足を踏み入れたのは久しぶりだった。江戸時代から続くだけあって、床板はボコボコでとても汚れている。だがこの汚れはこすっても落ちるものではなかった。もう床の一部となっているのだ。

 武志が幼い頃、何故床を張り替えないのかと聞いたことがある。剛志は、代々伝わるものだから、と答えた。その時武志は「ふうん」と思っただけだったが、今ではそのありがたみがわかる。昔の偉人たちもこの道場をよく利用していたという。

 道場の四方向には四神が描かれた掛け軸がある。これも年季ものだ。

 東が青龍、西が白虎、南が朱雀、北が玄武だ。

 そして、その下にあるのはこの前武志が取り返してきた宝刀黒鉄景光だ。鹿の角の上に置いてある。

「やはり、ここにあると落ち着くな」

 剛志はニッと豪快な笑みを彼に投げかけた。

「わしが赤ん坊同然だった時に盗まれてな。それ以来ここには何もなかった。わしも実質これを見たのは初めてだ」

「親父、こんなところに置いておくなんて無防備じゃないか?それに子供だってここに来るんだ」

 剛志は腕組みをし、眉間に皺を寄せた。

「だがなぁ、これは代々伝わる格式というか、伝統なんだ。それを覆すことはできない。それにほら、お祖父さんだって毎日ここへ来て黒鉄景光を拝むんだ」

 剛志が指さした先には、背の低い仙人のような老人がいた。隅に置いてある花瓶に並んでいたため、武志は彼の存在に気づかなかった。

「げっ。爺さん、いたのかよ」

「ふぉっふぉっふぉ。武志、わしの存在に気づかないとは、まだまだじゃのぅ」

 その老人の身長は小学三年生程しかなく、孫と並ぶと危うく蹴られそうになる。

「懐かしいのぉ、この感触」

 この一見ハゲ老人、三木雅志は自分の代で黒鉄景光が失われたことで激しく落ち込んでいたのだ。だが、孫の武志がそれを持ち帰ったことで、最近になってよく人生を取り戻したかのような、満面の笑みを浮かべるようになったのだ。

 雅志は鞘をさっと抜くと、黒鉄景光の銀色の刃渡りを眺めた。

「これぞ美じゃ!素晴らしい!国宝級じゃ」

「爺さん、もう歳なんだ。あんまり喚くとみっともないぜ」

「何を!わしがまだ現役だった頃は、敵の鬼畜米英どもをバッサバッサと薙ぎ倒したもんよ!」

 現役時代とは太平洋戦争に兵役していた頃のことである。

「不死身の雅志とはわしのことじゃ!がっはっは!」

 彼がグアムで戦っていたのは今から70年近くも前になる。雅志は敵の銃弾をものともせず、相手の懐に飛び込んでは敵を刀で片っ端から切っていったのだ。小さな体と持ち前の度胸を活かす彼の活躍は、他の兵士に勇気を与えた。彼が刺殺した敵兵の数は平均的な兵士と桁がふたつも違ったという。常人のメンタルなら刀で何百人も殺すと精神崩壊を起こしてしまいそうだが、それでも平然としていられる雅史はまさに鬼だった。それほど彼のメンタルは強かった。

 

 その時、突然表門の方から甲高い悲鳴が聞こえた。

 

 

 

  9

 

「何だ何だ!」

 剛志は表門に走っていった。

「待て親父」

 武志も剛志の後を追った。

 

 玄関で悲鳴を上げたのは、武志の母、舞衣だった。

「どうした!」

 剛志は妻の元へ駆け寄った。

「サエモンさん、この前のオトシマエ付けに来たぜ」

 そこにいたのは二十人ほどの厳つい男たちだった。この前武志とやりあった三人の姿もある。全員バイクで乗り付けたようだ。黒を基調としたジャケットに統一している。明らかにヤクザだ。

 剛志は眉間に皺を寄せ、訝しげに男たちを睨んだ。

「オラァ!刀渡さんかい!」

 一人の男が怒鳴った。だが一番年上の貫禄のある男がそれを沈めた。

「黙れ。サエモンさんは賢い人やて聞いた。言わんでも返してくれはるわ。なあ、そうですやろ?」

 男は挑発するような目で剛志の顔を覗き込んだ。

「お前ら、神坂組の連中だな」

 剛志は玄関に立て掛けてあった木刀を手にした。

「そんな木ぃっころでこの大人数と戦う気ぃか。やめとけや、死ぬで」

 彼らは不気味に笑った。下品な笑い方だ。

 剛志の蟀谷に一筋の汗が伝った。

「刀などはここにはない」

 男たちの目つきが一層険しくなった。

「嘘抜かせ!舐めてると血祭りじゃ!」

 そう言って男は武志に顎をしゃくった。

「おい兄ちゃん。あんたがシメた武器屋のオッサンに吐かして殺すぐらい、俺らには雑作もないことなんやぞ。刀渡せば大人しく帰ったるけどなぁ、渡さへんねやったらこうやで」

 男は不気味に笑い、懐から一枚の写真を取り出した。そこには腹部から大量の血を流し、倒れているあの時の武器商人の姿があった。剛志は忌々しそうに写真を見つめた。

「だが黒鉄景光は渡さない。あの刀は代々この家に伝わるもんなんだ!お前らに渡す筋合いはない!」

それが答えか」

「ああ」

 男は含み笑いを浮かべると、踵を返し歩き出した。

 一瞬引き上げるのかと思ったが違った。振り向きざまに「殺れ」と小さく声がしたのを武志は聞き逃さなかった。

 すると相手の若い連中が懐からナイフを取り出し、一斉に剛志に飛びかかった。下手をすれば死ぬだろう。

だが、剛志の顔に焦りはなかった。

「くらぁっ!」

 剛志はカッと目を見開きそう叫ぶと、手にした木刀を飛びかかってきた男の顔面に突き立てた。

 グシャという音がした。

 相手の男は鼻をやられ、目と鼻と口から大量の血を流して倒れた。

「うらぁ!次は誰だァ!」

 相手の動きが一斉に止まった。剛志の剣幕に負けている。

 剛志は目を見開き、相手一人ひとりを睨んだ。

「武志、お前も手伝え」

 武志に腕の痛みを躊躇っている余裕はなかった。彼は静かにうなずくと、手にした黒い竹刀を構えた。

「母さんは奥にいてくれ」

 そう言って武志は目の前の男に飛びかかった。

 

 

 

  10

 

 刑事課にいた警察官全員がほぼ同時に立ち上がった。

 東山署の刑事課に事件発生の緊急招集がかけられたのだ。突然民家に暴力団が侵入し、現在も乱闘しているという。

 小松原は嫌な予感がした。

 課長は立ち上がり声を張った。

「マル暴担当の二階堂刑事が指揮を取れ。民間人の救出を最優先にするんだ」

「はい」

 二階堂は返事をすると走り出した。

(まさか神坂組じゃねえだろうな)

 小松原も二階堂の背中を追いかけた。突然の事件発生に体中の鳥肌が立った。事件は今も起きているのだ。

 

 東山署のパトカーが一斉に動き出した。サイレンを鳴らし、列を成してどんどんと加速していく。

「二階堂さん、神坂組でしょうか」

 小松原は運転しながら助手席に座る二階堂に訊ねた。

「わからん。だが民家にマル暴が乱入するなんて明らかにおかしい。借金取りの時とは明らかに様子が違うみてえだ」

 小松原は苦悶の表情でうなずいた。

「急げ。特殊部隊が来るまで待ってたら死人が出るかもしれん」

 

 

 

 

  10

 二人は相手一人ひとりを順番に倒していったが、それでもこの前とは違った。敵の人数が多い分、自分に隙ができてしまう。武志は何回も危ない目に遭った。腕が悲鳴をあげている。どういうわけかいつも通り動いてくれない。

 相手は倒しても倒しても起き上がる。並みのメンタルではない。ヤクザの意地とプライドが掛かっているからだ。

「おい、中へ行ったぞ!」

 剛士は息子に叫んだ。

二、三人が二人の隙を突いて家の中へ転がり込んだのだ。

だが武志にそれを追いかける余裕はなかった。相手の人数が多すぎて、自分を守るだけで精一杯だった。それは剛志も同じだった。

 彼らは足早に稽古場へと向かった。

(まずい。あっちには爺さんしかいない!)

 武志は不安に思いつつも、目の前の敵と戦うしかなかった。

 

 三人のヤクザが稽古場へ着くと、そこには刃が剥き出しの黒鉄景光を大事そうに握った背の低い老人が立っていた。彼の周りの空気が異様に張り詰めていたため、三人は一瞬怯んだ。しかし、年寄り相手に引き下がるわけにはいかない。

「ジジイ、さっさと刀をよこせ。年寄りだからって手加減はしねぇぞ!」

 しかし、雅志は悠然と構えている。

 彼はゆっくりと黒鉄景光を構えた。無表情だが目に闘志が漲っている。

「わしが五十年以上恋焦がれた黒鉄景光じゃ。命に代えても守り抜く」

 そう呟くと雅志は一人の男に飛びかかった。既に彼の感情は黒鉄景光に支配されていた。

「やぁ!」

 八十を迎えた老人とは思えない、俊敏な動きだった。

 雅志は時が止まる感覚を覚えた。

六十年間眠っていた感覚だ。

人間が作り物にしか見えない。真剣を振るうことに何の抵抗もなかった。

 黒鉄景光は空を切るように男の胸を切り裂いた。鮮血が雅志の頬を掠めた。驚いたことに、雅志は笑顔だった。

男はゆっくりと前かがみに崩れ落ちた。

 男の膝が床に付くより先に、雅志は次の男の心臓を突き刺した。黒鉄景光は驚くほど簡単に体を貫通した。抜いたときには、もう息の根が止まっていた。

 最後の男に切りつけようと、黒鉄景光を大きく持ち上げた時だった。

 

 武志の耳に、爆竹のような強烈な破裂音が飛び込んできた。

 一瞬そこにいた全員が固まった。

 武志は一瞬何が起きたのか分からなかった。

「今だ!」

 誰かその声で周囲は一気に怒号へ包まれた。彼らは一斉に家の中へなだれ込んでいく。彼ら全員我先にと門をくぐって行く。

 だが、二人は取り残された。剛志はただ呆然としている。

 先に我に返ったのは武志だった。

「親父、行くぞ!」

 彼はそう言い残して、先を行くヤクザたちを追った。

(爺さん、頼む。生きていてくれ!)

死に物狂いで土足のまま廊下を突っ走った。

 

 行き着いた先には、先に来た黒服の男たちが何かを取り囲むようにして立っていた。よく見ると血で真っ赤に染まった男が四人倒れている。全員呼吸している様子はない。

武志は立ち尽くしてしまった。

(爺さんが、殺された

 武志は自分の目頭が急激に熱くなるのを感じた。自制心を制御できない。手にした竹刀を構え直し、相手一人ひとりを見た。

武志の目は憤怒に血走っていた。

「お前ら全員殺してやる

十人以上いる男たちの中に飛び込もうと、思いきり床を蹴った。

 その時だった。

 誰かが武志の肩を強く引いた。

 振り向くと、自分より遥かに大きい男が立っていた。少なくとも2メートルはあるだろう。

スキンヘッドで黒いタンクトップを着、その逞しい両腕には黒い蛇がそれぞれ彫られている。

彫りが深い顔は目元が陰になっており、彼の威圧感を増幅させている。頬は肉が薄く鼻が高い。日本人らしからぬ顔立ちだ。武志は直感的に生命の危機を感じた。一瞬自分を殺しに来たと思ったのだ。

 だが違った。武志はこの男のことを覚えていた。

龍門寺影虎」

 そう。三年前に父、剛志に勝ってふらりといなくなった男だ。

「小僧、俺が隙を作る間にご老体を助け出せ」

 影虎の声は不気味なほど落ち着いていた。

 敵の暴力団員たちの空気が一気に張り詰めた。武志は誰かが「イノウエ」と囁いたのを聞いた気がした。

 影虎は武志の肩から手を離すと、勢い良く男たちの中に飛び込んだ。

 彼の戦い方は豪快だった。

 その強靭な四肢は身の毛もよだつような暴力を生み出した。顔を殴れば目と鼻が潰れ、腹を蹴れば口から血を吐いて倒れ、片手が頭を握ると顔中から血が溢れ出た。逃げようとする者ですら一切の手加減を許さなかった。

一瞬で何人もの人間が倒れる。武志は彼の動きに足がすくんだ。

――何なんだあいつは。人間じゃない――

「小僧!早くしろ!」

 影虎が叫ぶと、武志は自分のすべきことを思い出した。影虎が敵を寄せ付けないようにしていたおかげで、雅志に駆け寄ることができた。

雅志の手はしっかりと黒鉄景光を握っていたが、既に本来の温もりは消えかけていた。

 武志は雅志を背負うと逃げるように稽古場を後にした。

 その時丁度、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきて、何台も車が家の前に停った。舞衣が連絡したのだ。

中から防護服を身につけた警官が何人も降りてきて、そのまま稽古場へ走っていく。

武志は門から出ると、雅志を道路の脇に置いた。その時、初めて土砂降りだったことに気づいた。

そこへすぐさま若い警察官が駆け寄ってきた。

「腹を撃たれている!早く病院に運んでくれ!」

 そう言いながら武志は自分の和服を脱いで、包帯のように雅志の腹部を強く縛った。脈は微かにあるが、大量に出血している。

 警官は慌ててうなずくと、「担架を持ってきてください!大至急だ!」と応援を頼んだ。

「後は我々に任せてください」

 雅志は担架に乗せられ、救急車の中に運び込まれた。そこへ舞衣がやってきた。

「おじいちゃん!」

 舞衣は目に涙を浮かべながら、衰弱した雅志の手を握り、担架にしがみつくように救急車に乗り込んだ。

「爺さん、鬼の雅志だろ!こんなところで死んでいいのか!」

 武志は涙で顔をくしゃくしゃにしながら必死に叫んだ。

「武志!あんたも早く乗りなさい」

 武志は一瞬迷ったが、首を縦には振らなかった。今の自分には他にすべきことがある。――影虎の元へ行かなくては――

雅志の口に呼吸装置を付けられた。普段の生き生きした顔色ではなく、死人のように真っ白で、硬い顔だった。

 武志は踵を返すと、警官に呼び止められるのも無視して、元いた方へ走っていった。

 

 

 

  11

 

 それから数時間が経過した。

 今も雅志は大学病院で手術を受けている。難しい手術かもしれないと武志は思った。

 先ほど剛志から乱闘は終焉を迎えたことを電話で知った。警官がヤクザを制圧し、おそらく全員が逮捕されたという。だが安心はできない。神坂組にこれほどのことをしたからには、これから何があるか分からない。神坂組は決して小さな組織ではない。まだ仲間が沢山いる。そして、その上には鹿王会が控えている。だが、剛志はしばらくは大丈夫だと言った。これほどの大事になれば、しばらくは警戒して手を出してこないはずだろう、と。しかし、武志にはそれが自分を落ち着かせる為に言ったことだと分かった。

 薄暗い廊下に座りながら、武志は血で赤く染まった黒鉄景光を見つめていた。

(元はといえば、俺がこいつを取り戻したから、爺さんがこんなことに

 すっかり元気をなくした武志と舞衣のもとに、血だらけの姿で剛志とその男がやってきた。

 舞衣は影虎の姿を見てぎょっとした。身長約2メートルある刺青だらけの厳つい大男が、長い鉄の棒を揺らしながらこちらに歩いてくるからだ。しかも、服には生々しい赤い血がべっとりと付いている。

「母さん、彼は龍門寺君だ」

 剛志の紹介で影虎は礼儀良く頭を下げた。

「龍門寺影虎です。そこの寺の副住職をしております。以前壱武館でお世話になっていました。旧名は海斗と言います」

「海斗」と聞いた舞衣の影虎に対する目が、恐怖や警戒から違うものに変わった。

「もしかして、小さい頃うちに来ていた、あの問題児の?」

「ええ」

 問題児と言われ、少しは愛想笑いを浮かべてもいいものなのに、影虎は表情一つ変えなかった。それが不気味で、影虎の方ばかりを見ていると目が合った。

「やっぱり。小僧、あの時の」

 影虎は武志を見つめたまま横に腰を下ろした。近くで見ても凄い迫力だ。分厚い筋肉がひと目でわかる。二十五歳ぐらいだろうか。四十代にも見える。年齢がわからない顔をしている。

「久しぶりだな。でかくなった」

 武志は何と言えばいいか分からなかった。でかくなったと言われる程の間柄だったような覚えはない。一度会っただけだ。

影虎はそんな武志の心を見透かしたように言った。

「三年ぶりぐらいか。俺は君のことをよく知っているが、君は俺のことは覚えていないかもしれないな。なんせ、あの時は会ったとはいえ一瞬だったからな。さっきも言ったが俺は代々続く龍門寺という寺の僧だ。だからこんな頭なんだ」

 彼は自分のスキンヘッド頭に手をやった。身長2メートル以上もある刺青の入ったスキンヘッドの大男は、どこからどう見てもその筋の人間に見える。

 龍門寺とは影虎の名前であり実家の寺の名前でもある。そこは京都に数ある寺の中でも古く敷地も広い方だが、厳格な浄土真宗の寺として観光客や一般人が立ち入ることは許されていない。

「海斗君は幼い頃からわしが特別に稽古をつけていたんだが、彼があまりにも乱暴者だったため手に負えなくなったんだ」

 影虎は無表情のまま頭を掻いた。

「若気の至りというやつですかね。この刺青もその時のものです。こいつのせいでいつもは袈裟しか着られないんですよ」

 武志の脳裏にぼんやりと記憶が蘇った。確かに小さい頃にこんな年上の少年がいたような気もする。見た目はかなり怖かったがたまに冗談を言ってくる少年だった。ただ十歳も歳が離れているために記憶は曖昧だった。

 影虎は突然真剣な表情になった。真顔になった途端さらに厳つくなった。彼に凄まれたら誰でも動けなくなってしまうだろう。

「師匠、これから神坂組の連中が乗り込んでくるのは言うまでもないです。このまま大人しくしているはずがない」

 影虎は真っ直ぐに剛志を見つめた。

「うん。仲間が三人も殺された以上、彼らが黙っているはずがない。最悪この道場も手放すことになるかもしれない。それと、もし鹿王会が動くとしたら大変なことになる」

 武志は居心地悪そうにしていたが、自分がしたことへの責任を感じ俯いた。

「俺のせいでごめんなさい」

 普段は絶対に自分から謝ることのない武志の姿に、剛志は少し目を見開きすぐにいつもの威厳あふれる表情になった。

「武志、顔を上げろ。お前らしくもない。それにお祖父さんがまだ死んだと決まった訳ではない」

 影虎もうなずいた。

「そうだ。今はこの状況をどうするか考える方が先だ。自分の行動に非があると思うなら、その責任を取るのが男じゃないのか」

 武志はゆっくりと顔を上げた。

「俺、どうすれば

「今は神坂組から遠ざかることが先決だ。どうでしょう、皆さんで龍門寺に来るというのは」

「いいのか、海斗くん」

「はい。師匠には大変お世話になりましたから。クズ同然だった俺を救い出してくれたのはあなたです」

 二人が熱い視線を交わす傍ら、舞衣はぼんやりと「手術中」という赤いランプを見つめていた。

「手術中」のランプを見つめる舞衣は剛志の肩にそっと身を寄せた。その目は赤く泣きはらしていた。剛志は舞衣の頭を強く腕に抱いた。

 その時、赤いランプの光が消えた。

 

 

 

  12

 

「先生、結果は」

 全員が一斉に立ち上がった。

 初老の外科医は暫く黙っていたが、重々しく口を開いた。

「最善の治療は施しましたが、手遅れでした」

 全員が固まった。

 寸の間、武志は医師が何を言っているのか理解できなかった。大切な人を失ったのは何度目だろうか。だが武志はどうしても実感が沸かなかった。数時間前まで一緒に笑っていたあの矍鑠とした祖父が、もうこの世にいないのだ。不思議と涙は流れなかった。その代わり「ああ、ああ」と乾いた声が溢れ出した。

崩れ落ちた息子の背中を、麻衣は泣きながらそっと抱え込むように支えた。

 剛志は「そうですかありがとうございました」と言い深々と頭を下げると、そのまま顔を上げなかった。ただ、大粒の涙が頬を伝っては床に落ちていった。

 全員が悲しみに暮れる中、唯一影虎だけは、少し離れた場所で腕を組んで無表情で彼らを見つめていた。

 

 手術台で運ばれてきた雅志の顔には白い布が載せられていた。

それでも武志は、爺さんがまた起き上がって「大丈夫」と俺に声をかけてくれるんじゃないか、と思っていた。いや、そう願っていたのかもしれない。だが雅志が息を吹き返す筈もなく、静かに流れる時が武志の心の希望を拭い去り、代わりに絶望で黒く染めていった。

「別室に来てください」

 医師はそう言った。武志はそれが死因の詳しい説明だとわかったから、影虎とここに残ることにした。これ以上辛いことを聞かされたら、堪えている涙が溢れてしまうと思ったのだ。

 剛志と舞衣は医師のあとを静かについていった。

 雅志の遺体も看護師の手によって冷暗所に運ばれていった。

 取り残された武志はしばらく無言で突っ立っていたが、「コーヒーでも飲むか」という影虎についてふらふら歩き出した。

 

「ほら」

 影虎は売店で焼きそばパンとブラックコーヒーを武志に渡した。

「ありがとうございます」

 武志のぎこちない表情を見て、影虎は目を細めた。

「ご老体がああなったのは、決してお前のせいではないぞ」

 そう言って武志の頭を乱暴に揺すり、そこにあったベンチに座った。武志も横に腰を下ろした。

こんな時だってのに、腹が減っちまう」

 武志は必死に涙を堪えながら、焼きそばパンに食らいついた。

 影虎は自分のブラックコーヒーを一気に喉に流し込むと、大きく息を吐いた。

「こんな時にする話じゃないかもしれないが、聞いてくれ。武志、お前は人が死んで悲しいだろ。だがな、俺は何も思わないんだ。俺は組時代に何回も抗争に巻き込まれ、人が死ぬところを何度も見てきた……仲間が死ぬところも見てきた。だから俺は自分の感情に蓋をしたんだ。蓋をすれば何も感じなくなる。辛さや悲しさとか。最初はよかった。何も考えずに闘えた。それは自己防衛にもなるし、誰も俺に手出しできなくなった」

 武志は影虎の顔を見つめた。彼が暴力団員だったことに驚いたというよりは、純粋に彼の話に耳を傾けていた。

「でも俺は気づいたんだ。俺は組の兵器にされてたって。何も考えず、感じずに相手を倒してくれる都合のいい男、それが俺だ。……俺は獣同然だ。無感情にただ本能に任せて暴れていた」

……影虎さんは獣なんかじゃない。俺を助けてくれた」

影虎はほんの少し顔を歪ませ、武志の頭を乱暴に撫でた。

泣けるってのは羨ましいことだぜ。涙は人間だけの特権だ。獣は泣けない。だからさ、思いっきり泣けよ」

 言葉は武志を優しく包み込んでくれた。「もう大丈夫」というような温もりがあった。

 影虎を見つめる武志の目が潤み、一筋の涙が流れ落ちた。

 一度涙が頬を伝うと、次から次へと溢れてきた。

そして、もう止めることはできなかった。

 

 泣きながら武志は雅志との記憶を辿っていた。

 最初に剣道を教えてくれたのは雅志だった。まだ歩けるようになったばかりの武志に竹刀を握らせた。三歳の頃にはおもちゃの剣を振れるようになった。その時の雅志の喜びようを、武志は今でも薄らと覚えている。

 それから武志は剣道が大好きになった。いつも雅志相手に練習をした。楽しくて、楽しくて仕方がなかった。

武志はその頃から雅志が目標になった。小学校に上がると練習も一段と厳しくなり辛かったが、それでも剣道は大好きだった。

――いつか、爺ちゃんのような剣客になる――

 それが武志の夢だった。

 その時、雅志は既に八十を越えていたが、そのへんのゴロツキ相手なら一人でも勝てるほど強かった。

 とても強く優しい雅志だったが、寿命は確実に終わりに差し掛かっていた。患っている心臓病が悪化して入院したとき、彼は一度黒鉄景光について語ってくれた。

――爺ちゃんの命が尽きる前に、必ず俺が取り返すんだ――

 幼かった武志は、彼に必ず自分が取り返すと約束をした。

雅志は己の孫を愛おしげに見つめ、誇らしげな顔をした。

話半分に流されるのかと思っていた武志に、雅志は「ありがとう」と言った。

 その「ありがとう」は、付け焼刃なものではなく、孫に対する激励だった。

 そしてその後、その約束は見事に叶えられた。しかし、今も神坂組はこの黒鉄景光を狙っている。現金に換算して五千万の価値がある黒鉄景光だが、武志にとってはそれ以上にどうしても手放せない代物だった。

 雅志が亡くなり、彼の決心は一際強くなった。

――俺の為にも、死んだ爺さんの為にも、こいつだけはどうしても手放せない。意地でも守り抜く。爺さんとの約束だから――

 黒鉄景光を握る両手に力が篭った。

 

 

あれから

 僕の平和をぶち壊す報せはこたつの中にいるときにやってきた。ねーちゃんがフロリダから帰って来たのだ。なんの前触れもなく、いきなり。

「ただいま~」

 聞きなれた懐かしい声に、まさかと思いこたつ布団から顔を覗かせると、あろうことか目の前にねーちゃんが仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。

「そこどきな」

 慌てて場所を譲ると、どっこいしょっ、とこたつに足を突っ込む。三年ぶりだが見た目は特に変わっていなかった。ソバージュというのだろうか、その金髪の縮れ麺みたいなパーマも、どぎつい紫にヒョウ柄をあしらったパーカという趣味の悪い服装も、そして、その目元だけ白い、逆パンダみたいなガングロも……

 タケノコ族かよ!てかいつの時代の流行だよ!

「ね、ねーちゃん……

「あんた、こんな時間に何してんの。小学校は休みなわけ?」

 ただいまの時刻は午後二時すぎ。ちなみに今日は月曜日だが、一学期の始業式だったので午前中で終わったのだ。

「午後から休み。ていうか、ねーちゃんこそ……

 ぎろりと鋭い目でこちらを睨む。僕は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった。

 最後に会ったのはねーちゃんがフロリダに旅立つ日の朝の空港。ねーちゃんは高校を卒業するとフロリダにあるナントカ大学(聞いたことのない怪しげな名前の大学だ)に留学していった。確かあの時僕は小学校三年生になった頃だった。

……なんで帰ってきたの?」

 恐る恐る訊ねるとねーちゃんは呆れかえったようにわざとらしいため息をついた。

「あんたさあ、久しぶりに会ったってのにもっとマシなこと聞けないわけ?まあオコチャマだもんね。仕方ないよね」

 カチンときたが、ねーちゃんと喧嘩して勝てないことは知っている。

 僕が小学校二年生の時、高校から帰ったねーちゃんが「それ貸しな」と僕から買ってもらったばかりのDSを奪い取った。十分だけならとしぶしぶ貸してやったのだが、十五分経っても二十分経っても返してくれなかったので、「返せよ!」とねーちゃんの髪を少し乱暴に引っ張ると「てめぇなにすんだこら」と凄み、その後何やら電話を始めた。数十分後、柄の悪いお兄さんたちが来て、僕は彼らと遊ぶことになった。

 なんだか嫌なことを思い出してしまい、僕は一人ため息をついた。と、ねーちゃんは「喉乾いちゃった

ぁ」と僕の頬をつついてきた。本来小悪魔的な仕草だが、ねーちゃんがやると本当に胡散臭い。正直言っ

てかったるかった。

「お茶?水?」そう言って渋々立ち上がってやる。

「え~、オレンジジュースがいい。今のあたしオレンジジュースしか飲まないもーん」

 なんだこいつ。せっかく人が親切で聞いてやってるってえのに。だいたいどうしてこんな性格なんだろう。前からこんなだったっけ?それともアメリカンナイズされてこんな風になってしまったのか……

「ないよ、そんなもん」

 そう言って突き放すと、ねーちゃんは呆れたように肩をすくめた。

なっちゃん

「誰?」

 ねーちゃんはまた呆れたように肩をすくめた。「オレンジジュースといえばなっちゃんでしょーが。買ってきて」そう言ってどえらく派手な金ぴかの財布から千円札を取り出し、僕の前でひらひらさせた。

「おつりは全部あげるから。買ってきてよ」

 僕はごくりと生唾を飲み込んだ。(数日前になったばかりではあるが)小学六年生にとって、千円というのは紛れもなく大金だ。ねーちゃんのつかいっぱしりをさせられるのは抵抗があったが、ジュース一本買えば残りのお金をくれるというのだからとんでもなくいい話だ。

「いいよ。わかった。買ってくる」

「へへっ、それでこそ我が弟だ」

 僕はサンダルをつっかけ、家から約二百メートルの距離にある自動販売機まで行き、目的の「なっちゃんオレンジ」を一本と、自分用に八十六茶を買った。数あるお茶の中でこれが一番美味いのだ。

 ペットボトル二本で三百円。残りの七百円が手取りになった。明日学校でヒロシやカナコに自慢してやろーっと。

 意気揚々と家に帰ると、ねーちゃんは「おせーんだよ」とこたつに包まるようにして、僕のおやつ用にお母さんが買っといてくれたポテチを貪っていた。本当にふてぶてしいねーちゃんである。確か名前をユリ子とかっていったはずだが、そんなかわいい名前このねーちゃんにはもったいない。お前なんかにはせいぜいジャイ子かブー子あたりがいいところだ。

 僕は仕方なく五○○ミリのペットボトル――なっちゃんを差し出した。するとジャイ子、じゃなかった、ねーちゃんは訝しげに眼を細めた。

「一本だけ?」

……え?」

 僕は耳を疑った。

「じゃあ、そっちは?」

 しまった!八十六茶を左手に持ったままだった。ねーちゃんのことだ、これも寄越せとかって言うんじゃないだろうな?

「もしかしてあんた、あたしをジュース一本でちょろまかそうとしたわけじゃないよな?」

 よな?女が使う言葉かよ……

「千円で百五十円のジュースが何本買えるか言ってみな」

「えーっと……

 頭の中で計算してみる。小学生といえどこのぐらいの計算ならできる。三本で四百五十円。それが倍で九百円で百円のおつりが出る。

「六本、かな」

「ん?待って。今電卓で計算するから」

 そう言って巨大なタブレット端末をカバンから取り出してごそごそしている。自分で聞いておいて、つくづく馬鹿な女である。よくこんなんで(聞いたことない名前とはいえ)フロリダの大学に行けたもんだと妙に感心させられる。

「ああそうそう。六本ね。ほんじゃあ百円のおつりが出るでしょ。それがあんたの取り分よ」

「いやいや、いくらなんでもそれはないでしょ」

 僕がそう言うや否や、ねーちゃんの目じりが吊り上がった。今度はどんな屁理屈を持ってくるのだろうかと僕はビクビクした。

「あんた、いい男の条件を知ってるかい?」

 いきなり何の話だろう。ここは適当にそれらしい言葉を並べておくか。

「高収入、高学歴、高身長?」

「三高かよ。つかいつの時代だ?」

タケノコ番長には言われたくないものである。

するとねーちゃんは「んなもんイケメンに決まってんだろうが」と言い捨てた。

「はあ……」話の筋が全く読めない。顔の話?だから何なんだよ?

「じゃあイケメンとは何か。顔がいいだけじゃあ本当のイケメンとは言えないんだよ。そう、本当のイケメンとはレディに対する優しさを持つ男のことだ。だけどあんたは、たった数百円ぽっちの為にその、男として最も大切な優しさを忘れちまってる。なあ、コウヘイ、そうだろ?」

 そんなマジな目で見つめないでくれよ……。僕はどうしようもなくうなずいた。

「そうだろ、コウヘイ?フロリダにはそんなイケメンが大勢いたぜ。なあコウヘイ、あんたも好きな女の一人や二人ぐらいいるだろ?その子を幸せにしたいならイケメンになれ。な?」

「は、はい……

 仕方なくポケットから七百円を取り出し、ねーちゃんに手渡す。ねーちゃんは「よしよし」とそれを例の派手な財布に滑り込ませた。

 

 次の日の昼休み、教室でヒロシとカナコにそのことを話すと、二人とも同情したような顔をした。

「ドンマイ、コウヘイ」とヒロシは同情してくれたが、カナコは何故か楽しそうに聞いていた。

「ジュースのことだけじゃないんだ。ねーちゃんが帰ってきたせいで僕んちは崩壊寸前なんだよ!このままじゃ一家離散ものなんだよ」

「え、なあに?」途端にカナコが目を輝かせた。女子は何故かこういう話に興味を持つんだよなあ……

「昨日の夜さ、ねーちゃんが久しぶりにフロリダから帰って来たから家族で焼き肉行ったんだ。そしたらねーちゃんが店員に色目使って」

「色目ってなあに?」

 カナコの質問に僕とヒロシは顔を見合わせたが、ヒロシが取り繕うように説明した。

「ああ、あれだよ。えーっと、あれあれ。なんか、あれ」

「なによ」

「えーっとね、アハ~ン、ウッフ~ンってやつ」ヒロシは腰を艶めかしくくねり始めた。

「いやヒロシ、そこまでじゃなかったけど……

「ああ!同伴ってやつね!」とカナコ。

……

「ん?アフターの方?」

 それってキャバクラかよ!

「ああーっ!」突然ヒロシが大声を上げた。「今日一組のやつらとドッジの試合じゃね?こりゃあマジで絶対に負けられない戦いがそこにはあるパティーンじゃないですかこれ!戦闘能力五〇〇〇の俺がいねえと話にならん」

 何を基準に戦闘能力が設定されるのか僕には理解できなかったが、このクラスの男子にはそれぞれ戦闘能力なる数値が設けられていた。ちなみにヒロシに言わせると、僕の戦闘能力はたったの二○らしい……

六年生は二クラスで、毎週金曜日に来週のグランドの配分を決めるドッジボールの試合があるのだ。基本的に自由参加だが、確かにヒロシがいるのといないのとでは差が出てしまうだろう。

「もうすぐ始まるぜ。行くぞコウヘイ!カナコも来るか?」

「う~ん、めんどいからいいや」

 そう言うとカナコはふらりと女子の群れに消えていった。ヒロシはそれには構いもせずに走り出した。

「待てよ、ヒロシ」

「へっへ~ん!」

 

 だが試合は惨敗だった。教室に戻るや否や、服を土で汚した男たちは呻きだした。

「ああ~くそ、顔面はセーフだろーが!」

「つーか片桐のやつ普通にライン越えてただろ」

「言俵め~、女子ばっかり狙いやがって」

 その時授業開始のチャイムが鳴った。

「みんな国語の用意はできてるかしら~」

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 ~登場人物~

 

☆武田明弘 ♂

  本書の主人公。気弱だが心優しい大学一回生。高校時代に体操をしていたが、足の怪我で挫折した。

 

☆無敵毅 ♂

  二回生でアームレスリング部部長。どこまでもまっすぐな男で面倒見がよい。筋肉フェチでゴリマッチョ。特技は合気道

 

☆南蛇井金太郎 ♂

  留年組の一回生でアームレスリング部員。大学一の不良で、喧嘩早く乱暴者だが情に厚い。金髪のリーゼントで元ボクシング部員。

 

☆左衛門三郎武志 ♂

  二回生でアームレスリング部員。端正な見た目のせいか非常に女癖が悪い。特技の剣道は四段の腕前。常に和服を着て腰には刀を差している。本物という噂も・・・。

 

百目鬼力 ♂

  二回生のアームレスリング部員。愛称はフトシ。他の部員に比べると比較的大人しい大巨漢。食べることと寝ることが趣味。

 

☆佐藤康孝 ♂

  「康孝お兄さん」の愛称で親しまれるアームレスリング部顧問。見た目はタトゥだらけのアブナイおやじだが中身は意外と温厚な性格。

 

☆吉田梨花 ♀

  一回生でアームレスリング部の紅一点の美人マネージャー。

 第一章 追いかけろ、ゴールデン青春ライフ!

 

     転機

 

 石灰を両手に付け、僕は勢いよく鉄棒に飛びついた。何度も経験した、自重で一瞬しなる鉄棒の感触、心地いい。僕はつま先から体を前後させ、徐々に振り子のように大きく動かした。ここで気を付けることは鉄棒を強く握りすぎないこと。親指と残りの四本で輪を作り、全身の反動と背筋だけで体を一回転させるのだ。つま先の位置が最高到達点に来たとき左手を離し、右手で鉄棒を持ち替え、また左手で鉄棒を掴む。体が360度回転し、一瞬無重力の状態になった。次に来るのは体重に加算された重力「G」だ。胃袋が後ろに引っ張られるような感覚があり、僕はもう一回転すると両手を離し、体を斜めに数回転させマットの上に着地した。

とたんに右足のふくらはぎに鋭い痛みが走った。

 両手を挙げたとき、体育館の入口あたりから誰かが拍手した。振り返るとそこにいたのは体操部の顧問、宮脇だった。

「武田、さすがだな」宮脇は深い表情でうなずいた。

 部活が終わったあとの時間に僕は一人体育館にいた。次の大会の出場資格など無いというのに・・・。

「これでやっと、踏ん切りが付きました」

 気がつくと僕の頬を一筋の涙が伝っていた。

僕はこの高校での三年間、体操一筋にやってきた。体操部のキャプテンとして数々の大会で好成績を残してきたが、最後の大会を目前にアキレス腱を切ってしまい、県大会優勝候補を囁かれていた僕は、志半ばにして散ったのだ。

今日はそんな僕の総まとめとして、誰もいなくなったこの体育館を借りたのだ。

 これでもう体操を諦めなくてはならない――僕の脳裏に走馬灯のようにこの三年間の記憶が甦った。

「武田・・・」

「三年間、ありがとうございました!」

 僕は涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を宮脇に見せないように深々と頭を下げると、そそくさと体育館を後にした。

「・・・お前にとってこの三年間は絶対に無駄ではなかったはずだ。人生まだまだ分からない。大学で新しい道で闘ってくれ」

宮脇の囁きが、声を上げて泣き出した僕の耳に聞こえた気がした。

 

     アームレスリング部の男たち

 

 東京の青山に位置する、国立岸岡大学は体操部が強豪で、僕はそれの推薦入学を果たした。入学手続きの後に足を怪我したため水に流れることは無かったが、それでも体操ができないというのは屈辱的だった。普通、怪我の場合はマネージャーやトレーナーとして部に貢献するのが一般的なのだが、僕はそれを強く拒んだ。自分の心の傷を抉られたくなかったからだ。

 入学式へ向かう電車の中でも僕はそのことを考えていた。決して賢いとは言えない僕が唯一人より優れていたこと。それが体操だった。体操に出会って、僕の秘められた才能が開花したといっても過言ではない。しかし、その希望も儚く散った。明るくなろうとしても心にのし掛るこの気持ちはどうしても取り去ることができなかった。

 車内はあいにく満員だった。時間に余裕を持って出たはずが、初めての東京で道に迷い、駅で違う改札をくぐり、間違えて新幹線乗り場に行くなどしているうちに式の時間は、刻一刻と迫ってきていた。本来、僕は大学のすぐ近くのアパートに住むことになっているから、そこから来ればすぐだったのだが、今日だけは少し離れたホテルから来ていた。それというのも、実家の大分から東京まで荷物一式を運ぶのは可哀想だという親の配慮で、荷物は全て部屋に郵送してあり、今日の昼間に引っ越し屋が運び入れるために僕が泊まれなかったのだ。一度アパートを見に行った時は、ぼろい四畳半の部屋とはいえ、家賃が二万というのだから驚異的だった。東京のオシャレ発信地、青山で二万。にわかには信じがたい。

 さて、そういうわけで僕は車内でずっと時間を気にしていた。満員なために正面にいる力士さながらの男の腹が当たって仕方ない。

「暑いですなあ・・・」

 知らず知らずに顔をしかめていたのだろうか、びっしょりと汗を掻いた男は申し訳なさそうに話しかけてきた。

「ええ、はい」作り笑顔を返しておいたが、心では「お前のせいだよ!」と叫んだ。

 そうこうしているうちに電車は目的の駅に到着した。僕は慌てて飛び降りた。

 だが先ほどから尿意を感じたために、まずトイレへ向かわなければならなかった。不運にも三つある便器は既に占領されていた。仕方なく僕は体格のいい男の後ろへ並んだ。

 まだだろうか、時間がかかる・・・。

「う、うおおおぉぉぉぅぅ!」

 突然前の男が声を上げた。何事かと、そこにいた全員の視線が集中する。

ブッ。

 ほ、放屁しやがった!

 男は振り返り、えもいわれぬ恍惚の表情をこちらへ向けると、照れくさそうにその場を立ち去った。残された僕は重苦しい空気と屁の匂いが立ち込める男子トイレでしばらく呆然としていた。

 

 洗面台で何気なく鏡を見た僕はネクタイを忘れたことに気が付いた。やばい。式は正装で参加することになっているのに。

 慌てて改札から飛び出すと、運のいいことにすぐ近くにコンビニがあるのを発見した。

 店内でネクタイを探していると、背後の雑誌コーナーから男の高笑いがし、驚いて振り返ると僕はもう一度驚いた。金髪リーゼントの本格的なヤンキーがエロ本を愉しそうに眺めていたのだ。

「うわ、すげえ!百人斬りかよ!元気だなあオイ!」

 怖くなった僕は適当に黒っぽいネクタイをひっつかむとレジへと向かおうとした。しかし、ちょうど死角になっていたために、足元に人がいたことに気づかず、目の前につんのめった。

「コラァ!」

「す、すみません!」

 慌てて謝ると、(なぜか)和服姿のイケメンがこちらを苛立たしげに睨んでいた。俳優か劇団員の休憩時間か。さすがは東京、地元の大分と違って色んな人がいるらしい。

「貴様ァ・・・」

 僕は怖くて身動きが取れなかった。見ると男が持っているカゴには、どういうわけか大量のコンドームの箱が無造作に入れられていた。僕は一層怖くなった。

「ほんとすみませんでした!」

 この場から去りたい一心に半泣きで謝ると、エロ本を読んでいたヤンキーが「うるせえぞ!」と怒鳴ってきた。すると、しゃがんでいた男がすっと立ち上がり、つかつかと歩み寄ったかと思うと次の瞬間にはそのヤンキーの胸ぐらを思い切り掴んでいた。和服男の身長は180はあり、そのヤンキーを見事に威圧している。

「お前、さっきからエロ本ばっかり読みやがって思春期かよ!」

「うるせえ!お前こそそんな大量のゴム何に使うんだよ!」

 ヤンキーも筋骨隆々で、どちらも危険なオーラを発している。僕は二人が目を離したすきに慌ててレジへ走り、千円札を店員に渡すと「お釣りはいりませんから!」と半べそをかきながらコンビニを飛び出した。

 

       ○

 

 入学式にはなんとか間に合ったものの、僕は式の間中ずっと今朝のことを考えていた。大学生活初日からあんなひどい目に遭うとは、先が思いやられる。これは何か悪いことが起きる凶兆だろうか・・・。

入学式が終わり、僕は暗い気持ちのまま大講堂から出た。ふと脇を見た僕は驚愕のあまり目を剥いた。なんと、こともあろうか少し離れた花壇付近に厳ついヤンキーたちが四人屯していたのだ。ここは天下の岸岡大学。ヤンキーが混じり込める場所ではない。いや、百歩譲ってヤンキーがいたとしても、まさかそいつらが今朝出くわした電車の大巨漢と、トイレでの放屁男、コンビニでのエロ本、コンドームとは信じられない。そして、驚くべきことに全員が僕を物凄い剣幕で睨みながら、徐に何か囁きあっているのだった。今朝のことで僕を殺しに来たのだろうかと思うと泣きたくなった。

何も見ていない。僕は何も見ていない。そう自分に言い聞かせ、人の流れに任せ歩こうとしたが、男たちは「逃すまい」と言わんばかりに僕の方へ歩み寄り、逃げ場をなくすように取り囲んだのだった。

この四人が僕を値踏みするように無言で見下ろしてくる。僕はこの上ない恐怖を味わいながらも、小さな脳で必死に、なぜ名門の岸岡大学にヤンキーがいるのか、なぜあの四人がグルになっているのか、なぜこんな白昼堂々殺しを行おうとするのか、とパニック状態だった。

だが、当の男たちは突然笑顔になると握手を求めてきた。

「君が武田明弘君か」トイレで爆弾級の放屁をしたスポーツ刈りの男がニッと白い歯を剥きだして笑った。

「えっ、あ、はい」

 なぜ僕の名前を知っているんだ。殺す前にそこまでリサーチを入れたとは、相当ずる賢い男たちに違いない。

「筋肉の量はそれほどではないが、なあに、心配することはない」

 体操で鍛えたとはいえ、こんなゴリラみたいな男たちを相手にすることはできない。僕は戦わずして死するわけか。なんとも不覚な最期だ。

「さあ、アームレスリング同好会へようこそ!いや、今日からは立派な部だ。ようこそ、アームレスリング部へ!」

「アームレスリング部?」

 意味が解らない。

「しらばっくれてんじゃねえぞ!」

 突然リーゼントが僕の胸ぐらを掴み、足が浮くほど持ち上げた。周りが何だ何だとざわめく。見ると既に人だかりができていた。

「落ち着け金太郎。すまんすまん。君がアームレスリング部へ推薦入学したのは知っているよ」

アームレスリング部?僕が推薦されたのは体操部のはずだ。これは一体どうなっているんだ。

 この時、僕はまだ宮脇が裏で仕込んだ事に気づいていなかった。

 元顧問の宮脇が僕の筋肉を活かすスポーツとして試行錯誤した結果がアームレスリングだった。実は宮脇はこの岸岡大学アームレスリング部の顧問をしている佐藤康孝という男の高校時代の同級生だった。そのツテで彼らは僕にサプライズのつもりでアームレスリングを用意したのであった。親には「明弘君のスポーツ人生を最大限に生かすため」と調子のいいことを言い、極めつけは「岸岡大学は国立で偏差値も高く、誰でも入れる大学ではない」ということだった。田舎育ちで大学も出ていない両親は「国立大学」という甘美な響きに目が眩んだらしい。

 そんな事情を露も知らない僕は、ボディビルダーのような男たちに引きずられるようにして部室の前に来た。僕は逃げ出したりしなかった。もし逃げ出そうものなら、この有無を言わさぬ雰囲気の男たちに後で本当に殺されてしまうかもしれないからだ。

「さあ、ここが俺たちの砦だ!」

 スポーツ刈りの男が指さしたのは、この大学に似つかわしくない薄汚い廃墟のような小屋だった。まるで映画に出てくるアメリカンマフィアの溜まり場のようだ。

「そ、そすか」

彼らは頷き合うと、僕を乱暴にその中へ引きずり込んだ。

部屋に入ると真っ先に鼻につく匂いが僕を襲った。インドのお香と趣味の悪い香水と整髪料が混ざったような匂いだ。いきなり明るい場所から薄暗がりに叩きこまれたために、まだ中の様子がわからない。

「どうだ?設備は抜群だぞ」

目が慣れてくると、確かにそこには、アームレスリング用の台が1台置いてあったが、その周りには一般家庭にあるようなソファやテレビが備え付けられていた。床には無造作にダンベルやバーベル、見たこともないような筋トレアイテムが転がっている。壁にはよく運動部の部室にあるような「一球入魂」とか「気合い」とかの習字はなく、代わりに上半身裸のアーノルド・シュワ○ツェネッガーのポスターがでかでかと貼ってあった。シュワちゃんは眩しい笑顔で僕を見つめている。明らかに不自然な光景だ。

「どうした?元気がないようだな。さあ、我が部員を紹介しよう」

僕を連れてきた四人の他は誰もいないようだった。それに顧問はまだ来ていないようだ。

「なんじゃい!」

 突然リーゼントに凄まれ、僕は飛び上がりそうになった。

「こらこら金太郎、一年をビビらせちゃダメだ」

 スポーツ刈りが金太郎というリーゼントを宥めた。

「ふん、別にそんなつもりは無かったんだが、まあいいや。俺の名前は南蛇井金太郎。紛らわしい名前だが悪気は無かったんだ。よろしくな!」

 ホントかどうか怪しいものである。

 金太郎の頭には、七十年代の不良宛らの見事なリーゼントが乗っかっていた。顔の彫りは深く、目が窪んでいることなどから、なかなか目付きが悪いという印象を受ける。筋肉はこの部員の中で最も発達していると言えるだろう。筋肉量が多い故に顔が小さく見えるほどだ。

「よろしくお願いします」僕は戸惑いながらも金太郎に頭を下げた。金太郎は「ふむ」と満更でもない表情だ。

「副部長の百目鬼力だ。今後ともよろしく」

 この男は電車で遭遇した大巨漢だ。アームレスリングというより相撲に向いていそうだ。体と名前の割によく見ると穏やかそうな目をしている。

「平部員、左衛門三郎」

彼だけはなぜか和服を着ていた。背が高い分、筋肉が他の部員に比べて圧倒的に少なかった。だが目鼻立ちが整っている。そしてスタイルも抜群。そう、彼は俗に言うイケメンなのだ。それはそうと、なぜか腰には一本の刀のようなものを差している。映画か何かの撮影から抜け出してきたのだろうか。

「そして俺が部長の無敵毅だ。毅という漢字は犬飼毅と同じ字を書くから覚えやすいだろう。よろしくな」

 彼が最初に声を掛けてきたスポーツ刈りの男だ。彼は金太郎と並ぶくらい筋肉があった。まだ一番面倒見がよさそうで、情に厚そうな雰囲気を醸し出している。だが歴史が苦手な僕には犬飼毅という人が誰なのか全く分からなかった。さしずめ僕は勉強全部が苦手なのだが・・・。

 僕も自己紹介をし、一人一人と握手をした。ただ、左衛門三郎と握手をしたとき何か静電気でも走ったような気がした。それに異様に冷たかった。

「皆さん変わったお名前ですね」

 僕がそう言うと、全員が心底嬉しそうな顔をした。きっとそれが売りなのだろう。

「さあ諸君。今日は初日だから、恒例の下克上大会を執り行うぞ」部長の毅がそう言うと、拍手喝采が沸き起こった。

「あれ、部員はこれだけですか」

「そうだが何か」

「入部したのは僕だけなんですか。てか、そもそも僕は入部したんですか」

 全員が訝しげに顔を見合わせた。

「何言ってんだ。君は推薦でこのアームレスリング部に入部したんだ。我が部は望めば誰でも入れるわけじゃない。選ばれし者がここに集うのだ」

選ばれし者?顧問に選ばれたということか?

「さあ武田、まずは俺が相手だ」

金太郎は指をポキポキ鳴らし、アームレスリング用の台に手を置いた。その腕は普通の人間の首ほどはあろうかという太さだった。

「さあ来い!」

彼はどすの利いた声でそう言った。他の部員に比べて肝が据わった雰囲気だ。きっと数々の修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。

「ここが俺たちのフィールド兼リングだ。もんくあっか!アァ?」

「あ、ありません!」

僕もリングに肘を置いた。金太郎が僕の顔をじっと見て、それから手をぐっと握った。

「いたたたっ」

だが僕も懇親の力で握り返した。握力は体操で鍛え、自信がある。

「ほほう。面白い」

「では、レディ・ゴー」

毅の掛け声で僕たちはアームレスリングを開始した。アームレスリングは最初が肝心。僕は毅の掛け声と同時に力を込めた。と思ったら金太郎に腕をひねられ、一気に叩き落された。

「いたっ!」

「うひひ。今のはフックだ。アームレスリングの基本動作」

金太郎は僕から手を放し、近くにあった液体を一気に喉へ流し込んだ。

「先輩、それは?」

「ああ?これか。炭酸。飲むか」

「いえ。結構です」

それはまさに純粋な炭酸水だった。なにが美味しいのやら。

「次はあしが相手だ」

次は副部長の百目鬼だ。彼はこの部員の中で一番体が大きかった。縦にもデカいが横にもデカい。幅は僕の倍以上はある。

 僕は休む間もなく百目鬼の相手をさせられた。彼の戦法は独特だった。金太郎は筋肉で僕を潰しにかかったが、百目鬼は自分の体重を一気に右腕の一点にかけるやり方だった。そして僕はあっけなく百目鬼の体重に負け敗退。腕の重さだけでもかなりのものだろう。

「次は俺が相手だ」

立て続けに左衛門三郎が仕掛けてきた。彼の体型はスマートで、どう見てもマッチョではない。この試合は貰ったと確信した。

それにしても、なぜ彼は他の部員がTシャツやタンクトップを着ているのに和服なのだろうか。それにあの刀は一体何だ?

「左衛門先輩、それ本物ですか」

左衛門三郎は僕をきつく睨んだ。まさに獲物を狩るの獣の目だ。他の部員たちは「あちゃ~」といった感じで僕を見ている。

「左衛門三郎。これは苗字だ」

えっ、それ苗字だったのかよ。

「今度は間違えるなよ」

「は、はい。じゃあ下の名前は何というんですか」

「この際だから教えてやろう。俺は左衛門三郎武志だ」

「さ、左衛門三郎武志、さんですか」

「そうだ。これからは仲間なのだから、武志と呼び捨ててくれて結構だ」

「武志、ですか・・・」

「ああそうだ。俺は上下関係が一番嫌いだ。他の連中も呼び捨てかあだ名で呼んでいいぞ。それにこの金太郎は明弘、お前と同じ一回生だ」

 武志は金太郎を指さした。金太郎は決まり悪そうな顔をして武志を睨んだ。

「悪かったな。俺はアホだから留年したんだよ。何か文句あっかァ!」

 確かにこのリーゼント頭の金太郎が、この名門、岸岡大学で進級するのはかなり難しいだろう。

「いや、でも・・・」

「気を遣うことはない。アメリカでは呼び捨てにするだろ?ヴィクトリア!ジョンソン!ティファニー!」

和服を着た人にそんなことを言われてもなあ・・・。

ここの部員は金太郎を除く全員が二回生だった。その中でも武志は他の部員から一目置かれている存在だった。他の部員は武志を怒らせてはまずいと、あだ名で呼ぶことを簡単に承知した。案の定、僕はここの文化に慣れるために、他の部員が呼び合っている呼び名を引用することとなった。

「うわっ、やっべえぞ!」いきなり金太郎が叫んだ。

「どうした!」

「もう十二時じゃねえか!呑気に会話してる場合じゃねえ!みんな飯行くぞ!」金太郎はドアへ走り出した。

「あっ・・・」

 僕は財布に電車賃しか入れていないことを思い出した。入学式が終わったらそのまま帰ろうと思っていたからだ。それを察した毅が僕の肩に手を回した。

「明弘、心配はいらんぞ。今日は特別に俺が奢ってやる」

「いいんですか。つ、毅」

 僕は馴れない呼び名に困惑しつつも、彼の温情をありがたく思った。

「おうよ。今日から俺たちは仲間なんだからな。遠慮することないぜ、敬語もなしだ」

 毅は僕に親指を突き立てた。僕は彼の心の広さに感銘を受けたのであった。

「わーい。毅がラーメン奢ってくれるとよ」すると僕たちの様子を見ていた百目鬼が目を輝かせた。

「いや、待てフトシ」

 毅が言った「フトシ」というのは言うまでもなく百目鬼のことである。百目鬼のその体型からこのあだ名がついたのだが、意外と本人は気にする様子もなく、逆に気に入っているようだった。

「うひゃひゃひゃ」フトシは不気味に肩を揺すって笑った。

「四人分奢るなんて俺の一週間分の飯代に値する。フトシ、この前奢ってやった時なんか店の食材が尽きるまで食べ続けたじゃないか」

するとフトシは急に無表情になり、無言で毅を見下ろした。無敵という名前でも必ずしも無敵ではないのだ。毅はフトシの無言の圧力に負け、肩をがっくりと落とした。

「お前ら、さあ行くぞ」

恒例の下克上大会の途中であるにも関わらず、金太郎は颯爽と部室を出て行ってしまった。

 

     ラーメン屋「魚人」

 

 ラーメン屋魚人は大学の学食ではなく、大学の外にある小さなラーメン屋だった。彼らはカウンターでラーメンを啜りながら、毅の財布をチェックしていた。

「なんだ、金がないと言うわりには結構持ってんじゃんかよ」

「これでも一食四百円内で抑えてるんだぞ」

「じゃあ、この五千円札はなにかなぁ?」金太郎は財布から抜き出した五千円札を毅の顔の前でひらひらさせた。

「お前鬼か。それはデート用だよ。デート用」

「ふん、なにがデート用だ。嘘つきやがって。これはお前の合コン用だ!知ってんだぞ」

「デートでも合コンでも似たようなものだろ。おい、まさかその金も使おうってんじゃないだろうな!」

「さあ、どうするフトシ?」

フトシは三杯目の大盛りラーメンをスープまで流し込んだところだった。

「おお、あしは餃子をもっと食べたいかな。それと、豚骨ラーメンの大盛り!」

「あいよ、餃子一人前に大盛り豚骨!」

カウンター席だったため、店の主人は注文を取った。

「大さん、チャーシューおまけしてね」フトシはそう言って手を擦り合わせた。

「分かってるよ、坊ちゃん」

実はフトシの父親は、大手貿易会社の社長だったのだ。そこで輸入した肉を安い値段で、大学時代の後輩だった大さんこと大西大輔の店に入れていたのだ。大西はそれを恩に着て、息子であるフトシにチャーシューや麺をおまけしてくれるのだ。もちろん、フトシが連れてくる友だちにも。

「これでざっと六千円だ」

「武志、お前まだいけるよな」

「いや、俺はもう結構だ」

「なんだよ。じゃあ明弘、お前は余裕だな」

フトシがニヤニヤしながら聞いてきた。

「いえ、毅の金が心配だから」

「いいよいいよ。どうせ家に帰ったらもうちょこっとあるんだし。遠慮すんなって」

毅はフトシをじっと見つめた。彼はまだ水しか口にしていなかった。

「なあフトシ、勘弁してくれよ。家に帰ってもそんなにないんだ」

「そうなのか」

「ああ」

「そうか。まあ、水道代くらいは残しておいてやるぜ」

 こうして彼らは、毅から搾れるだけ搾り取ったのだった。

 

     アームレスリング部顧問佐藤康孝

 

 僕らはその後部室へ戻り、下克上大会の続きを始めた。

「明弘、手加減はなしだ」

「はい、武志先輩」

「先輩はなしだ。武志でいい。他の連中もだ」

「はい、武志」

武志はその細い腕で僕の逞しい手を握った。彼の手はひんやり冷たく、生き物の手には思えないほどだった。

「それでは、レディ・ゴー」

僕が力を込めようとした瞬間、魔法にでもかかったように力が入らなくなった。気が付いたとき、僕の右手はがっちりと押さえつけられていた。

「え・・・」

「どうだ、明弘」

「武志、今のは」

横から毅が声を掛けてきた。「どうだ明弘。今のは武志の必殺技だ」

「・・・そ、そんな」

「武志の手には特別な能力が備わっている」

「・・・そ、そんな」

「明弘、君も体感しただろう。腕の力を武志の手に吸い込まれてしまうんだ」

確かに僕には力が抜けていく感覚があった。だがそれが能力だなんて信じられない。

「毅、一年を脅すのはやめてやれ。俺のは生まれ持っての体質だ」

「・・・生まれ持っての体質」

「ああ。俺が握ると、人はみんな力が抜けてしまうんだ。だからアームレスリングだけじゃなく、女もイチコロってわけさ」

 僕は、今朝この男がコンビニで大量のコンドームを買っている姿を思い出し、途端に怖くなった。

武志はぬるりとリングから去った。すかさず毅がリングに来た。

「無敵毅、俺の部長としての真の実力を見せてやろう!」彼は体を大きく前のめりにした。

僕も一人くらいには勝たないと。でも、この人名前からして強そうだ。

「ちょっと金太郎、合図を頼む」

「ん?ああ。よいドン」金太郎の合図はいきなりだった。

よいドンってなんだよ!

案の定、僕が力を込める前にやられた。こういう作戦だったのかもしれない。毅は立ち上がり掛け声をかけた。

「以上で終了!お疲れっしたあっ!」

その時、部室のドアが勢いよく開いた。

「アームレスリング部顧問。佐藤康孝、ここに見参!」

その人は革ジャンをがばっと脱ぎ捨てた。彼はヤンキーというよりも本物のマフィアに見えた。頭はスキンヘッドで浅黒い肌。黒のタンクトップから出た右腕には『LOVEandPEACE』の文字が。左腕には黒いハートマークから鳥の翼が出ているイラストが刻まれている。ズボンは骸骨のイラストが入っているデニム。手には指だけが出る革手袋を着用しているし、首や手首にはじゃらじゃらしたシルバーアクセサリーがあった。

「来てくれたんですね!」毅が佐藤康孝なる男へと歩み寄る。まるで子分だ。

「もちろんだ。新入部員が来たら必然的に下克上大会が執り行われるからな。このわしを除いて下克上大会は成立しない!」

「はい!もちろんです!」

毅、どこまで現金なんだ!

「どっこいしょ」佐藤はリングに腕を置いた。腕にはたくさんの古傷があって、過去の闘いの凄まじさを物語っているようだった。僕も再びリングに手を置いた。

「君か」

「は、はい。武田明弘です」

「うむ。知っている。わしが君をこの大学に入れたのだからな」

「その節はありがとうございます」

「まあいいまあいい。さあ、試合開始といこうじゃないか。わしの手は闘いを前にすると疼くんだ。血沸き肉躍る、というやつか」

佐藤は豪快に笑うと、僕の手をぐっと掴んだ。

「それでは、レディ・ゴー!」

次の瞬間、佐藤の顔は一気に真っ赤になった。腕に力が入っている。目が闘志で漲っている。だが僕も負けてはいなかった。佐藤の手を思い切りぐいぐい押していった。佐藤も反撃体勢になり、腕に一層力を込めた。だが僕もだてに体操部の部長として、数々の功績を残してきたわけではない。佐藤の腕をへし折るつもりで右腕に懇親の力を込めた。佐藤の手の甲が下へ下へと押されていく。

 そしてついに僕は勝った。

「やった!勝った!勝ちましたよ!」僕は嬉しさの余りガッツポーズをした。だが佐藤はさっきまで熱くなっていたにも関わらず、冷ややかな目で僕を見ていた。

「武田君、この程度で喜んではいかん」

「へ?」

「この部に入った者はみんなわしに勝っている。つまり、これはテストというものだ」

「へぇ」

「いいかい武田君、君はわしに勝って当然なのだ。そこのとこを誤解してもらっちゃあ困るよ」

「はあ」

その後、佐藤は何かぶつぶつ言いながら部室を出ていった。

「あ、ありがとうございました。先生」

佐藤はがっくりと肩を落としたまま去っていった。振り返ると、武志がこちらを見ていた。

「彼も例外ではないぞ」

「何がです?」

「彼は部室に入ったとき『佐藤康孝、ここに見参!』と言っただろう」

「はい」

「あれは自分の名前をアピールすることによって、君に名前もしくはあだ名で呼んでほしかったのだ」

「え、そうだったんすか」

「そうだ。俺たちは彼のことを『康孝お兄さん』と呼んでいる」

「えっ」

武志が余りにも真剣に言うので僕は耳を疑った。

康孝お兄さん?まるで体操のお兄さんみたいじゃないか。そんなことをこのヤンキー集団のみんなが言っているのか?もし恥ずかしがって逆らったりしたら、さっきの毅みたいに、どんな折檻を受けるかわからない・・・。

 その時、佐藤改め康孝お兄さんが照れくさそうに部室に戻ってきた。

「ちょっと上着忘れた」

僕はすぐそばにあった革ジャンを拾い上げた。

「康孝お兄さん、どうぞ」

「ん?あ、ありがとう」

彼は変な顔をしてジャケットを受け取ると、そそくさと部室を後にした。

僕が後ろを振り返ると、部員四人が笑いを堪えてこちらを見ていた。

「え、どうかしたの」

四人は一斉に笑い出した。腹を抱えて笑ったり、床をべしべし叩いて笑ったり、転げまわって笑ったり・・・。部室は大爆笑の渦に包まれていた。ただ、僕だけがはめられたという屈辱を噛み締めていた。

 

     朽ちてゆくのか、我がキャンパスライフ・・・

 

 僕が家に着いた時は既に夜だった。家といっても実家は大分なので、ここ東京からは今となっては遠すぎる。だから前にも述べたようにボロアパートを借りて下宿しているのだ。

新入生歓迎会と称して、僕は部室で先輩たちに嫌というほど腕立て伏せをさせられた。僕は今日だけで腕立て伏せを三百回もさせられた。部長の毅は「俺の腕立ては世界一だで、よう見とけ!」と言って、僕に見たくもない腕立て伏せを見せてくれた。

 やっと長い一日が終わったと、部屋の腐りかけたドアを開けると、そこにはアームレスリング部の部員と顧問の康孝お兄さん(僕を笑い飛ばした後、みんなは佐藤をこう呼ぶことにした)がいた。

「え、何で・・・」僕の体は恐怖に戦慄いていた。

「何でじゃない。ほら、明弘にこれを持ってきたんだ」

康孝お兄さんは得意げにそれを振ってみせた。見るとそれはビンに入った透明のジェル体だった。

「ていうか、なんでみんなここにいるんですか。ここ、僕のアパートだし」

「違うぞ。ここはわしらのアパートでもあるんだ」康孝お兄さんはやたらニヤニヤしながら言った。

「まさか、ここに住んでるんですか」

「そうだ。わしらは一つ屋根の下で共に生活を送る、いわば家族みたいなものだ」

「こんな偶然があるなんて・・・」

「偶然じゃないぞ。明弘がここに来ることは、わしが君をスカウトした時から決まっていた」

「えっ」

僕はこの佐藤ハイツ紹介してくれたのが、高校時代の恩師、宮脇だということを思い出した。

やけに親切だと思ったらそういうことだったのか。それにしても、あの宮脇先生がよくこんな面倒なことをしたもんだ。

「これを使ったのさ」康孝お兄さんは右手の親指と人差し指を合わせた。俗に言う「カネのポーズ」だ。

「そ、そんな・・・」

「どやっ、まいったか。これからは筋トレ漬けやで。うひひひひ」

部員たちはニヤニヤしながら僕を見ていた。僕は絶望で立ち眩みを起こしそうになった。

「ここにみんなで来たのは他でもない。君にプレゼントがあるからだよ」

「ああ、さっき何か言ってましたね」僕はどうにか気を持ち直した。

「ささ、これを授けよう」康孝お兄さんが恭しく僕に手渡したのは、まさにローションだった。綺麗な小瓶に入っていて意味もなくピンクのリボンが結ばれている。が、なぜか誰かが少し使った形跡があった。

「そう、それはローションだ。知ってのとおりボディビルダーたちがこれをつけて、筋肉を美しく見せるための道具なのだよ」

 もちろん本来の使用目的ではない。

「で、これを使えと?」

「そうだ。明日これを使って写真撮影を行う。ほら、駅の近くに写真館があっただろ」

「写真館で行うんですか」

「そうだ。これで君は美しくなれる。ザ・ビューティ・ボディ!」

 康孝お兄さんはわざとらしく親指を突き出した。しかも英語のところだけ無駄に発音がいい。

ふと見ると部員たちが楽しそうにローションを顔に塗りあっていた。

「どうだ?このてかり具合。美しいだろ?」

僕は何と言っていいのかわからなかった。ローションを顔に塗った部員たちは「おほほほほ」と、各々手鏡を見てうっとりしていた。どう考えてもこの部員たちはナルシスト集団なのだ。

「そうだ明弘、写真撮影はこれを履いて写ってもらう」

康孝お兄さんが手渡したそれは、逆三角形の黒い海パンだった。

「これもわしからのプレゼントだ。大切に使ってくれ。ボディビルダーのユニフォームだからな」

僕は視界が真っ暗になった。突然の環境の変化が余りにも異常だったからだ。みんなが僕を呼んでいたが、僕の意識は闇の中へ引きずり込まれていった。

 

     康孝お兄さんの砦

 

次の朝起きると、僕の部屋で部員たちと康孝お兄さんが重なり合うようにして寝ていた。

「ぬぁんじゃこりゃぁぁぁ!」

やつらが視界に入るや否や、僕は即座に全員を叩き起こした。みんなはぶつぶつ言いながらもなんとか部屋を後にしてくれた。彼らが去った後の部屋はまさに惨状だった。ビール瓶が五、六本転がっていて、畳の床や壁じゅうにローションがべったりついている。その時、僕はみんなが重なり合っていた場所に一枚の紙切れがあるのを見つけた。

 拾い上げてみると、物凄く汚い字で何やら文章のようなものが記されていた。もはや日本語なのかアラビア語なのかもわからない。

「読めねえよ!」

僕は怒りに身をゆだね、部屋の壁を殴りつけた。すると隣の部屋から「静かにしろよ~」とやる気のない声がした。どうやら隣は武志の部屋らしい。仕方なく僕はこの文字の解析を行った。目を凝らすと、文章の内容が辛うじてわかった。十時に康孝お兄さんの部屋に行けばいいのだ。それまで僕は部屋の片付けをすることにした。

言っておくが僕はさしてきれい好きな方ではない。しかしここまで汚いと感染症を引き起こす恐れがある。僕はとりあえず雑巾を濡らして、床と壁をきれいにし始めた。

 結局僕は二時間以上も部屋の掃除に時間を割かれた。

 その後、怒りを覚えながらも康孝お兄さんの部屋に行った。一階の康孝お兄さんの部屋のドアは、他の部屋と異なり重厚な作りをしていた。表札には「佐藤☆康孝」と書かれている。ドアをノックすると「お~い」という声がした。入れという意味なのだろうか。僕は恐る恐る豪華なドアを開けて入った。

ドアと同じく、中も豪華な作りになっていた。僕は恐る恐る靴を脱いで部屋に上がった。

「おう明弘、遅いじゃないか」康孝お兄さんは両手を広げながら、僕をリビングに招き入れた。

「すみません。部屋の掃除をしていたもんで」皮肉を込めたつもりだったが、康孝お兄さんは動じなかった。

「さてと。んじゃ、ミーティングを始めるぞ」

だがこの部屋には、僕と康孝お兄さんの他は誰もいなかった。

「え、全員揃ってませんけど」

「全員が揃う必要はない。写真撮影はお前だけだからな。手紙にもそう書いたはずだぞ?」

僕だけがあられもない姿をさらすというのか。とほほ・・・。

「どうだ。ここがわしの部屋だ」

 ソファがあるというのに僕らはまだ立った状態だ。どうやら部屋の中をちゃんと見せたいらしい。

「ずいぶんと豪華な作りですね」

部屋のいたるところにトロフィーや賞状、写真などが飾ってあった。壁にはアーノルド・シュワ○ツェネッガーのポスターがでかでかと貼ってあった。部室にあるのと同じやつだ。部員がふざけて持ち込んだのだと思っていたが、どうやら顧問の仕業だったようだ。

「8LDKだ」

「は、8LDK?何でそんなに大きいんですか!僕の部屋はたったの四畳半なのに!」

「悪かったな。わしはここの大家だ」

「ええ!でも僕が挨拶した大家さんは、かなりきれいな女の人でしたよ」

 康孝お兄さんは照れ臭そうに笑った。「それはうちの嫁だ」

「ええ!」

僕がここに来たときに、アパートの前で掃除をしていたあのきれいな女の人が大家だったはずなのに・・・。なんであの人はよりによってこんな康孝お兄さんなんかと結婚してしまったんだ・・・。

「そんなに驚くことはないだろう」

「ていうか、康孝お兄さん結婚してたんですね」

「その康孝お兄さんってのは何なんだ?」

「武志が決めたんです」めんどくさくなった僕は平然と答えた。

「あいつが?まあ変なところがあるやつだからな」

「嫌ですか」

「嫌じゃないが、何だか照れるな」

 康孝お兄さんは体を不自然にくねらせた。マフィアのボスのような外見の中年がするようなこととは思えない。明らかに不自然だ。

「ところで、ミーティングというのは?」

「うむ、わしの部屋を見せたかっただけだよ。見てくれよ、このトロフィーの数々。現役時代に取ったものなんだ」

「アームレスリングのですか」

「それもあるが、ほとんどはボディ・ビルディングのだ」

「そ、そすか」僕は面食らった。厳ついボディビルダーだな・・・。

「特別にわしの黄金記録を聞かせてやろう」

 別に聞きたくなどない。

ゆっくりと彼はソファに腰を下ろした。仕方なく、僕も向かい合う席に座った。

「思い出すぜ、あの突っ走った激動の十年間を。俺は――」

突然彼は「わし」ではなく「俺」という言葉を使い出した。きっと、昔を思い出しているのだろう。

「俺は、十九歳でボディ・ビルディングに目覚めた。まあ、俺がこの筋肉を生かさないのは、大トロを捨てちまうようなもんだからな」

 僕は曖昧に相槌を打った。

「それから、札幌ジャイアント・ボディ・ビルディング協会に入会した。そこで俺は人生の恩師に出会った。ハロルド・デイビス先生だ。あのハロルド・デイビス先生だぞ?彼は世界中のボディ・ビルディングの大会を総なめにしていた。俺は彼に鍛えられて、本当の筋肉を手に入れた。そして、大会の凄まじい争いの中で、俺は十年連続で北海道・東北大会を優勝してきた。だが、十年目にハロルド・デイビス先生が心筋梗塞で倒れた。俺は先生のために、どうしても、どうしても全国優勝したかった。そして、とうとう全国大会の決勝に残った。周りには筋肉隆々の男たち。だが俺は負けなかった。俺は先生のために全国優勝したんだ。でも俺が全国優勝したその夜、先生は息を引き取られた」

康孝お兄さんはここで一旦話しをやめた。

「大変な十年だったんですね」

「ああ。だが俺は優勝できた。それだけでよかった。だがその時俺は三十五だった。俺はそこで引退を決意した。その時俺は大学の体育教師になると決めた。俺の意思を誰かに受け継いでほしいと思ったんだ。でも大学教師になるのは苦労の連続だったよ。だがな、挫けそうになった俺を支えてくれたのは、過去の自分と、亡くなったハロルド・デイビス先生だった。そして遂に俺は大学の教師になれたんだ。人生諦めなければいつか叶うもんだな。俺の場合十年かかったが、それでもこの岸岡大学の体育教師になれた。それからこのアームレスリング部を受け持った。一代目が君の先輩たちだよ。彼らがこの部を作った時のことはよく覚えている。みんなヤンキーなやつらだったよ」

 康孝お兄さんは天井を見上げ「ふぅ」と息を漏らした。だが一番ヤンキーなのはどう見ても彼自身だ。

「部員数がギリギリでなぁ。同好会からのスタートだった。一番手を焼いたのはやっぱり金太郎だったな。あいつは元々ボクシング部の推薦でこの大学に来たんだが、どういう訳かアームレスリング部にいついちまったんだ。最初は暴れるわ物を壊すわで、大変な問題児だったんだが、他の部員の支えがあって今のように落ち着いているんだ」

 僕の背筋に悪寒が走った。やはり相当デンジャラスな人だったのだ。僕はそのことを追及しようとしたが、口から出てきたのは違う質問だった。

「じゃあ、下克上大会って恒例でも何でもないんじゃないですか」

「まあそうだな。きっとあいつらが調子に乗ってそう言ったんだろう。何も不自然なことではない」

 常識で考えると明らかに不自然なことだ。

「ところであんな若い奥さんといつ知り合われたんですか」

「ふっふっふ。あれは去年の十二月」

「ええ!最近じゃないですか」

「うん。彼女は俺の筋肉の惚れたー。そーして、俺の人柄の惚れたんだー。俺は彼女の全てに惚れたー」

康孝お兄さんは遠くを見るようにして、やたらと語尾を延ばして喋った。その時、部屋のドアが開いて、一人のうら若き女性が入ってきた。

「あら、お客さん?」

 まさに例の奥さんだった。年齢は三十歳前後ぐらいだろう。花柄のワンピースが似合うコンサバ系若奥様だ。

「ハニー、このセニョールにお茶菓子を出してあげてくれないか。ベイベー」

「もちろんよ。ダーリン」

うぐっ。なんとくさい新婚なのだ。早くここから脱出せねば!

「あのう、僕大学の講義に行かないと・・・」

「ん?今日は休みだが」

「えっ!あ、じゃ、あの、友達と約束があるんで」

「明弘、どうしたんだい?気を遣うことはない。ははあ、わしの新妻に見とれておるんだな」

「え、そんな」

「きゃ、あなた」

奥さんが康孝お兄さんのつるつる頭をベシベシ叩いた。その後、奥さんは照れ笑いを浮かべながらキッチンへと向かった。その時既に、僕は康孝お兄さんに腕をがっちり掴まれていた。

「写真撮影の時まで逃がさんぞ」 

「ひいいいぃぃぃ!」

 結局、僕はずっとこの居心地の悪い家で過ごすことになった。

 

     地獄の写真撮影

 

 僕が居心地の悪い愛の巣から出られたのは午後四時すぎだった。あれから約六時間、僕は延々と康孝お兄さんの餌食にされていたのだ。そしてこれからあの写真撮影が行われるのだ。

「明弘、ローションとユニフォームはちゃんと持ってきているか」

「はい」僕はカバンを軽く叩いてみせた。ユニフォームとは例の逆三角形の海パンのことだ。

「では、心して向かえ」

それから僕らは、終始無言で写真館へ向かった。写真館には『スタジオ・ゴルゴン』という看板がでかでかと掲げてあった。

厳つい名前だな・・・。

店に入り、康孝お兄さんは店員と話を付け始めた。彼は専用のポイントカードを持っていた。そして彼は僕を呼びこう言った。

「ポイントが貯まったから君はタダだ。よかったな」

ポイントが貯まるほどここで写真を撮ったのか。僕は気が遠くなった。

「さあ、着替えてきなさい」

僕は店員に案内され、専用の更衣室で着替えた。スタジオは店の一角にあったため、店員や客が僕を見ることができる。案の定、ビルパン(正式名称ボディビルパンツ)とローションをつけた僕のことを、OLや親子連れが物凄い形相でじっと見ていた。そしてあろうことか店員までも・・・。僕は目が合うたびに愛想笑いを浮かべたが、向こうは薄笑いを浮かべた。

こんな状況で大学の人に会えば、僕は知り合う前から変なレッテルを張られてしまう!

「さあ、そこに立って」

「あ、はい」

僕はライトで照らされたスタジオに立った。ローションがやたらテカテカしているのが気になる。康孝お兄さんは無表情で僕を見ていた。だがよく見ると微かに口元が綻んでいる。

カメラマンが僕を撮ろうと、ピント調節を始めた瞬間だった。こともあろうか店内にお馴染みの四人が堂々と入ってきたのだ。そして後ろからは見慣れぬ美女がそれに続いて入ってきた。

あいつら、呪ってやるぅ!

「やあ明弘」

彼らはさも当たり前のように僕の前にやって来た。僕は驚愕に目を見開いた。部員たちが自分を見に来たから、ということもあったが、僕が驚いた一番の理由はその視線の先にあった。

毅がその美人と手を繋いでいたのだ!

「そ、そそそそ、そんな・・・」

 そう。他の部員はともかくとしても、部長である毅はデート感覚で僕の処刑場へのこのことやってきたのだ。

「びっくりしたか。そうだ。彼女は俺の彼女。わっはっは!」

毅は得意そうに彼女の肩に手を置いた。実際に「わっはっは」と笑う人間を見たのは人生初だった。

「はじめまして。吉田梨花です」

 彼女は照れくさそうに会釈した。はにかんだ表情も様になる。ネイビーのペンシルスカートに白のブラウスというシンプルながらも清楚な服装。癖のない髪は明るい栗色のセミロング。こんなにきれいな人は大分にはいなかった。さすが東京。さすが青山。きっと育ちもいいのだろう。どこかの社長令嬢といったところか。なんでよりによって毅なんかと……

「は、はは、はじめまして。て、てて、てか、な、ななな、何で」

「お前の勇姿を見に来たんだろうが。で、そこで俺の彼女を紹介しに来たわけ」

無表情だった康孝お兄さんが突然話しに加わった。

「毅ぃ、お前彼女いたんだな」

「はい!この前の合コンでゲットしたっす。俺の熱いアプローチが梨花ちゃんに届いたんですよ!ね?ね?梨花ちゃん」

吉田梨花は少し顔を赤らめた。

「んもう。合コンじゃないでしょ。入学説明会の後に声かけて半ば無理やりのお食事じゃないの」

要はナンパじゃないか。入学説明会なんてほんの二、三日前だぞ。(ちなみに僕は参加していない。)

「で、何で来たんすか」

「え?だからお前の勇姿を」

「じゃなくて!何で彼女を連れてきたんすか」

「ああ~。羨ましいんだな。大丈夫だ!お前もきっとそのうち」

僕は目眩がした。

吉田は物珍し気にこちらを見つめている。この格好が明らかに不自然だからだろう。本当にもうやめてほしかった。というかやめたかった。

その時康孝お兄さんが、「せっかくだからみんなで写るか」と言いだした。部員たちは「そうだな」とか「せっかくだしな」とか言って写真に写ることを快諾した。もちろん僕以外の部員はビルパンを持ってきていなかったので、私服(武志に限っては和服)での撮影となった。

僕の周りでみんなはプリクラ感覚でポーズを取り出した。僕に至ってはそんな先輩たちを痛ましげに見つめるばかりである。康孝お兄さんは「こんなこともあろうかと」と、その場で服を脱ぎだした。吉田は慌てて目を隠した。

「安心しろ。ビルパンは装着済みだ!」

康孝お兄さんが装着していたのはビルパンだけではなかった。

「康孝お兄さん、それは!」

「これか?これはなぁ、チャンピオンベルトだあっ!」

まさしくそれはチャンピオンベルトだった。プロレスやボクシングで優勝した者だけが腰に巻けるそれだ。康孝お兄さんはスタジオにずかずか入ってきて僕と肩を組んだ。

「このチャンピオンベルトは最後の全国大会で優勝したときのものだ」

「お、おお!これが」

 見事なベルトだった。ゴールドに赤のエンブレム。康孝お兄さん自身もさすがに全国優勝しただけのことはある。日焼けした浅黒い肌に見事に隆起した筋肉。四十五歳にして全く衰えていない。

ぼーっとしていたカメラマンが、ふと我にかえったように撮影の合図をした。

「あれ、梨花ちゃんも一緒に写ろうよ」

毅が吉田を呼んだ。彼女はきっぱりと否定したが、せっかくだから、という毅の熱いアプローチに負けて撮影を許した。彼女は僕たちから少し離れたところに立った。

「お姉さん、もうちょっとつめて頂けますか」

「は、はいっ」

吉田は慎重に僕たちとの間をつめてきた。その時「吉田梨花さんだったね。アームレスリング部のマネージャーをやらないか」と康孝お兄さんが色っぽい声で言った。彼女は引きつった笑みを浮かべた。

「一枚目撮りまーす」

パシャ。

吉田はその瞬間笑顔を作ったが、この笑顔が心からではないというのは言うまでもない。

 カメラマンは次々と無遠慮に写真を撮っていった。

 

撮影が終わったとき、僕は精神的にボロボロだった。先輩たちに裏切られたことによる小さな憤怒を抱きはしたが、わざわざ講義する気持ちは起きなかった。

外に出ると、西の空に桃色の雲がたなびいていた。僕たちはそのままアパートに向かった。みんながみんな同じ方向に帰るというのは、田舎育ちの僕にしてみればかなり新鮮ではあったが、さして喜ばしいことでないというのは言うまでもない。

そんな中、吉田は自分の高級マンションに戻っていった。やはり彼女は大財閥の重役の娘で、金にはまったく困っていないという。康孝お兄さんに目をつけられたようだが、果たして大丈夫なのだろうか。

 

     金太郎の夢

 

 僕は部屋に戻り、買い置きしておいたコンビニ弁当を食べようと壊れかけの冷蔵庫を開けた。すると廊下をドタドタと走り回る音がしたかと思うと、僕の部屋の前で止まった。と、ノックもなしに誰かが入ってきた。

「よほう、明弘。今夜のディナーは何だ?」

金太郎だった。

金太郎は僕がいるちゃぶ台の前にどっかりと腰を下ろした。

断っておくが、僕が部屋の鍵を閉め忘れたわけではない。そもそも僕の部屋には鍵など最初からついていなかったのだ。防犯もプライバシーあったもんじゃない。

 と、金太郎は僕の手にあるものを見てブチギレた。

「コラァ明弘ォ!ぬんだこりゃあ!コンビニ弁当じゃねえか!こんなもん食う気か!しかも大量にストックしやがってぇ!」

 金太郎は某熱血野球マンガの父親ようにちゃぶ台をひっくり返した。何も置いてなかったのがせめてもの救いだ。僕は金太郎に本気でキレられてもう既に半泣きだった。しかし、このままでは悔しいので正義を盾に勇気を振り絞り反撃に出た。

「何なんすか!安売りしてたから買ったんすよ。コンビニ弁当じゃダメですか!」

……ダメですかってか。おい!新入部員とはいえお前も一介のアームレスリング部員だろ。もっと自覚を持ったらどうなんだ!」

「自覚、ですか」

「そうだ。コンビニ弁当は成長期の敵だぞ。コンビニ弁当にはな、防腐剤つって食い物を腐らせないようにする薬が入ってやがんだ。その薬が何だか知ってっか?」

「な、何ですか」

「ホルマリンだよ、ホルマリン。理科室のカエルだのヘビだのゴキちゃんだのを沈めてるあれだよ。その薬は人間にも作用して、ずっとコンビニ弁当しか食わなかった人間は、死んでからしばらく腐らなかったんだってよ」金太郎はニヤリと笑った。

「だからもっと低カロリーでタンパク質豊富なものを選んで食べろ。あ、野菜も食え。お勧めはピーマンだ」

 ピーマンと聞いて僕は元気になった。

「ピーマンですか。実は僕の実家がピーマン農家なんです」

「ほほう、それは奇遇だな。実は俺はイチゴ農家出身なんだ。今度遊びに来いよ。イチゴ食べ放題だぞ」

 ふっ、ヤンキーのくせして実家がイチゴ農家とは、意外と可愛いところがあるじゃないか。ふとそんなことを思ったが、当然そんなことを言えるはずもない。

「ありがとうございます!よかったらピーマン食べますか。昨日実家から大量に送られてきて、僕一人じゃ食べ切れそうもないんです」

「おお!そりゃいいな。俺は子供のときからピーマンが大好物なんだ」

僕はピーマンが大量に入ったダンボール箱を差し出した。金太郎はそれを見るなり、「美しい。親御さんのピーマンにかける情熱が伺える」と言ってひとつ掴み口に放り込んだ。

「な、生すか先輩」

「ん~、こりゃ美味い。明弘、お前幸せもんだなあ」

そう言って彼は涙を流しながらピーマンをがっついていた。と、突然何かを思い出したのか手を止めた。

「そうだ。俺のこと先輩って呼ぶのやめてもらえるか。他の奴らは下の名前で呼ばれてるってのに、俺だけ先輩だと何かやだ」

「確かにそうですね」

「でも、なんて呼ばれたらいいかな。俺は南蛇井金太郎だから……。金ちゃん、それだ!」

「金ちゃんですか。なるほど」

金太郎は大はしゃぎだった。

「ところで、どうして僕の部屋に来たんですか。ただ僕の夕ご飯を見に来たわけじゃないんでしょ」

「ああ。飯をチェックするついでに何か頂こうと思ってな。俺は貧乏学生だからな。なぜなら高校時代に暴力事件を起こして中退。それで、父親が怒って俺を勘当したからだ」

それから金ちゃんは聞いてもいないのに一人で勝手に喋りだした。

「途方に暮れた俺は、得意だったボクシングをすることにした。小さなステージで客の前で対戦するやつだ。名のある選手を倒せば、認めてもらえると思ったんだ。だが現実は甘くなかった。俺はボコボコにやられた。それから、金がなくなりホームレス生活が続いた。なんか、物凄く長かった気がする。丸一日何も食べられなかったときもあったし、情のないオバさんに罵られたりもした。ガンを飛ばしたらすっ飛んでったけどな。そしてある日、洗濯をしていたら大阪総合格闘技塾『黒魂塾』のお偉いさんに声を掛けられたのよ。あの時は上半身裸だったから、俺の筋肉を見たんだろう。俺は迷わずそこに行った。そこで俺は鍛え上げた。そこでは俺が希望したボクシングの大会にも出さしてもらった。俺はいい成績を出したんだ。黒魂塾はいろいろな競技に出場できるから、俺は片っ端から出場した。ある時、アームレスリングの大会にも出さしてもらった。俺は結構いい成績を出した。そして、全国大会でフトシと当たった。俺はフトシには勝てなかった。俺はショックで泣いた。屈辱的だった。だが俺は康孝お兄さんの目に止まったんだ。俺は恩のある黒魂塾のお偉いさんにそのことを報告した。すると、彼は笑顔で『それは自分で決めることだ。もし、今の君にとって我々が足かせになっているなら、遠慮することはない。君の幸せは、我々の幸せだ』って、俺の背中を押してくれたんだ。あの時は涙が出るほど嬉しかったぜ。そして、中卒の俺がこんな有名大学に入学できたって訳だ!」

金ちゃんは上を向いて目を瞬かせた(まさか、ピーマンが美味しいからではないだろう)。こんな金ち

ゃんに、これほどの過去があったとは・・・。

「でもな、それからフトシに勝てるように陰で努力した。そのお陰でフトシに勝てるようになった。今、俺が目の敵にしているのは武志だけだ。あんなヒョロヒョロに負けるのは、デブのフトシに負けるより遥かに悔しい。だから、俺はあいつに勝てるように訓練しているんだ」

僕は感動した。やんちゃだった金ちゃんが、実は努力家だったことに驚いた。人はどん底からでも希望を捨ててはならないということを彼に教えてもらったような気がした。

「そうだ。どうしてさっき勘当されたのに実家に遊びに来いと言ったんですか」

「ああ、もう勘当は撤回されたんだよ。俺が大学に入ったことを報告したら、自慢の息子よ!ってな」

 その後、金ちゃんはありったけのピーマンを食べてから、部屋を出て行った。

 

 それからしばらくして、僕はアパートからすぐの銭湯に向かった。

 

     銭湯で

 

 僕は浴槽のドアを開けた。どうやらアームレスリング部のみんなは来ていないようだ。今日こそゆっくり休むことができそうだ。しかし。

「おお!明弘、お前も来てたのか!」

顧問を含むお馴染みのメンバーが一斉に湯船から飛び出してきた。僕は仰け反って悲鳴を上げた。他の客が一斉に僕らを見たが、今はそんなことはどうでもよかった。アームレスリング部員ということだけあってフトシを除くみんなが引き締まった体をしている。

「明弘、静かにしろや。今日は梨花ちゃんとお風呂デートなんだからな!」

毅が腰に手を当て、自信満々にそう言った。

「何すかお風呂デートって」

毅は僕を見て肩をすくめた。「そんくらいわかるだろ。一緒に銭湯に来たんだよ。もちろん湯船は別だがな」それから毅はわざとらしく「ちきしょう!」と叫んだ。

「お前の彼女、マンションに風呂があるのにわざわざ来てくれたんだよな」

康孝お兄さんが肘で無敵をつついた。毅はでれでれで、隣の女湯にまで聞こえる声で、

「そうだ!梨花ちゃんは、俺のためにわざわざ来てくれたんだ。感謝してるよ~!」と言った。

「ヒューヒュー、お熱いねえ!どうせなら今からみんなで女湯に乗り込むか!」

 康孝お兄さんは満面の笑みを浮かべながら、無敵の頭を乱暴に撫でた。すると女湯からタライが飛んできて、見事に康孝お兄さんの顔面に直撃した。しかし彼は怒るでもなく、相変わらずニヤニヤしている。

どうやら他の部員はともかく、康孝お兄さんは毅を冷やかすためだけに来たようだ。なんせ彼の部屋にはジャグジーつきの風呂があるのだから。

 みんなは嬉しそうに体をくねらせている毅を冷やかしながら湯船に沈めた。僕はそんな彼らを無視し石鹸で体を洗った。

きっとみんなは彼女がいる毅がうらやましいんだろう。そう思うと無性に恋がしたくなった。

 僕が湯船に体を浸すと、これからの部の活動内容について説明が始まった。

「いいか、今年度もアームレスリング全国優勝を狙う。ここから優勝者が出ることを願っている。いや、一位、二位、三位と表彰台を独占することも夢じゃない!なんせ、お前らはわしが見込んだ精鋭たちなんだからな!」

康孝お兄さんは「ガッハッハ」と豪快に笑った。

「いいか。もうひとつ大切な大会がある。アメリカでエクストリームアームレスリング世界選手権が執り行われるのだ!」

みんなはざわついた。

エクストリームアームレスリング――それは僕でも知っている言葉だった。アームレスリングをしながら、ボクシングをするという危険度マックスな格闘技だ。ノックアウト制で、アームレスリングというよりはもはやボクシングだ。腕は机から離れてもいいので、ただひたすらに相手を殴りまくるという格闘技。これは腕に自身があるヤツでも命の保証はない禁断の格闘技なのだ。

「いいか。その大会は世界中から鬼のような選手がそろう。この大会は自由参加だ。大会の前は必ず生命保険に入っておけ。いいか、絶対だぞ」

僕は身震いした。エクストリームアームレスリング――禁断の格闘技。怪我や意識不明が続出するあの格闘技だ。だが先輩たちは目を輝かせていた。

「もう一度言うが、この大会は自由参加だ。出たくない奴は出なくていい。だが、そんな臆病者はこの部にはいないはずだ。そうだよな!」

「おうよ!」「あったりめーだぜ!」「アメリカ人どもに大和魂見せつけてやろうぜ!」「命を投げ出す覚悟はできている」

僕は完全に逃げ道を絶たれてしまった。先輩たちはやる気満々だ。自分が士気を下げてはいけない。僕はエクストリームアームレスリング世界選手権に出場することを決めた(というか決められた)。

 

 風呂からあがったとき全員がのぼせていた。熱い風呂の中で熱い男の話に花を咲かせてしまったからだ。各自思い思いにジュースを飲んだ。もちろんこの時も金ちゃんは炭酸水を飲んでいた。どうやらわざわざ持ってきたようだ。

 銭湯の入り口に吉田が立っていた。毅は彼女のところに駆け寄った。何やら詫びを入れているらしい。結構待っていてくれたようだ。

 それからふたりはみんなと合流した。するとすぐさま康孝お兄さんが吉田に声を掛けた。

「どうだい、アームレスリング部に入部する気になったかね?君は一回生でまだどこの部並びにサークルにも入部していないはずだ」

彼女が一回生ということは僕も知らなかった。康孝お兄さんは彼女のことを事前に調べていたようだ。

「・・・はい」

「マネージャーとさっきは言ったが、よければ選手でも構わんよ。女子の大会もあるはずだ」

「いえ、それは結構です」

「やはり、選手は危険だからな。マネージャーをしてくれるとわしも助かる」

吉田に詰め寄る康孝お兄さんは傍から見れば変態おやじに相違ない。彼女は笑っていたが、それは引きつった笑顔だった。

「康孝お兄さん、本人が嫌がってるじゃありませんか」ここでやっと毅が止めにかかった。

「えー、そんなことないだろう。なあ梨花ちゃん」

彼女は完全に引き気味だ。「先生、私、アームレスリング部はちょっと・・・」

「ちょっとなんだ?男ばかりでむさいとでも言うのかね?」

「いえ、そんな」

「ならいいじゃないか」

「いえ、やっぱり女子一人というのは」

「ならば仕方ない。我々で他の女子部員を集めようじゃないか!」

我々?僕たちもってことか?

「いいな。女子部員がいたら、入部してくれるんだな?ん?」

康孝お兄さんは吉田の顔にぐっと自分の顔を近づけた。彼女は恐怖心からか何度もうなずいた。

「よし。ならば話は早い。みんな、明日から我がアームレスリング部をPRして、女子部員を呼び込むんだ!」

正直僕は嫌だった。でも他の部員たちは燃えていた。毅は梨花ちゃんが入ってくれるならと。金ちゃん、フトシ、武志の三人は待望の女子部員を獲得すべく、高々と拳を掲げていた。

「よし、明日からは勧誘だ!決して誘拐じゃないからな!」康孝お兄さんの一言が、ギャグなのかどうかは怪しかった。

僕たちは呼び込み方法を相談しながら帰宅した。気がつけば吉田の姿が消えていた。恐れをなして逃げ帰ったのだろう。

 

     待望の女子部員

 

 次の日、日曜日であるにもかかわらず僕たちは女子部員を獲得すべく、目に付く女子にパンフレットを配って歩いた。

「どうか、アームレスリング部を末永く宜しくお願い致し申す。このとおりだ」武志は深々と頭を下げた。

「武志、そんなことしても駄目なんじゃない?」

僕たちは2チームに分かれたため、僕と武志が一緒に行動することになった。後から康孝お兄さんも合流するらしい。

「何が駄目なんだ」武志は大真面目に聞いてきた。

「それじゃあ勧誘にならないでしょ。見てて」

僕は袖をまくって上腕二頭筋を出した。それから力を込めた。

「見てください!この上腕二頭筋。アームレスリング部に入部したら、素晴らしい上腕二頭筋を手に入れることができます!腹筋もそうです!見ていきますか?ほらほらほら!」

周りの人は冷ややかな目で僕を見て足取りを早めた。

「あんなあ、そんなことしても女子は引くだけだろ」

「おっしゃるとおりです」

 その時、サンタクロースの格好をした康孝お兄さんが歩み寄ってきた。浅黒いマフィアのボスのようなサンタは見ていて痛々しかった。

「康孝お兄さん!どうしたんですか。まだ、四月ですよ」

「ははは。これは作戦だ。この袋の中にプレゼントがたんまりと入っている。女子はプレゼント攻撃に弱いからな」

そう言って康孝お兄さんは、通りかかった女子にプレゼントを手渡した。

「どうぞ。アームレスリング部顧問、佐藤康孝ここに見参。我が部に入ると、毎日がサプライズだぜぃ!」

そう言って彼は爽やかな笑顔を作った。彼女は会釈して立ち去った。嫌がる様子はなかった。

「さすが康孝お兄さん!あれで女子のハートはがっちりゲットですね!」

武志は絶賛しているが、本当にハートをゲットしたのかは定かでない。

「ところでプレゼントは何なんですか?まさかダンベル、とかじゃないですよね」

 僕は遠慮がちに聞いてみた。

「おいおい。女子にダンベルはナンセンスだろ。安心しろ。プロテインだ」

「そう来ましたか。ははは・・・」

康孝お兄さんと武志は心から笑ったようだが、明弘は顔だけ笑った。その時だ、吉田が明弘たちの近くに来たのは。彼女は明弘たちを見つけると足早に歩み寄ってきた。

「先生、もうやめてください!そんなことさせて悪いです」

「何言ってるんだ。これは我々が好きでやっていることなのだから」

「・・・でも」

「他の女子部員がいたほうが君も助かるだろ?」

 彼女は小さくため息を漏らした。

「わかりました。私、アームレスリング部のマネージャーとして入部します」

「本当か」

「はい。これ以上皆さんに迷惑はかけられませんから」

彼女をここまで追いやったのは何を隠そう康孝お兄さんだ。

「では入部届けにサインしなさい」

康孝お兄さんは、そう言ってポケットからくしゃくしゃの入部届けを取り出した。吉田はそれにサインした。

「よし!これで待望のマネージャーがきたわけだ。部室に戻って祝杯をあげよう。明弘、他の奴らにもメールかなんかで伝えといてくれ」

「はい!」

 僕はすぐさま「ダイシキュウ ブシツニテマツ」と電報のようなメールをした。

 

 部室に戻ると他の部員たちは息を切らしながら待っていた。

「なんだ?慌てて戻ってきたぞ」

「吉田さんがマネージャーになってくれたんだよ、毅」

「本当か!」

 毅は吉田の手を取った。

「ありがとう!マネージャーになってくれて本当に嬉しいよ。これから一緒に頑張ろうな」

 吉田は少し恥ずかしそうに笑った。毅は心底嬉しそうに何度もうなずいた。

「よし、今日はここにカツ丼でも頼んで祝杯をあげるか」

「はい!」

 早速フトシが電話を始めた。大学の校内であるにも関わらず届けてくれるようだ。

 

 カツ丼が届くと、全員が思い思いの場所で食べ始めた。一回生の明弘は運悪く床で食べることになった。

「うんめぇ!」

 金太郎は涙をぽろぽろ流しながらカツ丼をかきこんだ。

「やっぱお祝いごとにはカツ丼だよな!」

 いつからそんなルールになったのかは不明だが、全員がうんうんとうなずいでカツ丼を食べた。

「・・・なんだか家族みたいですね」

 吉田がしみじみ言った。すると康孝お兄さんは何かを思い出したように彼女を見た。

「そうだ。君はもうれっきとしたアームレスリング部員なのだから、うちの佐藤ハイツに住んでもらうよ」

 すると、ソファでカツ丼を頬張っていた毅も急に立ち上がった。

「そうだよ!梨花ちゃん、康孝お兄さんのアパートに来なよ」

「えっ」

 吉田は戸惑った表情だ。しかし静かに座っていた武志とフトシも顔を見合わせてうなずきあった。彼らの表情は紛れもなく男のものだった。

「あしらも毅の意見に賛成だ。吉田さん、アームレスリング部の部員は必ず康孝お兄さんのアパートに入るのが伝統だ」

「で、伝統って・・・。あなたたちが一代目なんでしょ?」

「はひ?何のことだい?」

 みんなの目線が一斉に泳ぎだした。吉田は呆れ顔だ。すると康孝お兄さんが咳払いした。

「以上のことから、君のアパートはわしの佐藤ハイツで決まりだな」

「何が以上のことなんですか。そもそも私、自分のマンションありますし」

 武志が冷静な口調で言った。

「だが、家賃は格安だぞ」

「で、でも・・・」

「迷っているなら一度来てみるといい。何か参考になるかもしれんぞ」

 康孝お兄さんは至って真面目な表情だった。一体何の参考になるってんだ。

「それって、もしそっちに住むことになったら、部屋が皆さんと隣同士ってことですか?」

「まあ、そういう事になるかな」

「絶対無理です!」

 部員たちの表情が見る見るうちに曇っていった。

「だが、武志が言ったように家賃は格安だぞ。大学までだって徒歩三分だ」

 吉田は腕組みした。やはり男ばかりのアパートに来るのは嫌なようだ。

「あ、そうだ!」

 吉田は突然何か思い出したようだ。

「ペット!ペットはいいんですか?」

「ペット?何か飼ってるのかね?」

「い、いえ。でも犬を飼いたいな、なんて・・・」

 彼女が嘘をついているのは明らかだった。

「もしも犬を飼うことを許可したら、佐藤ハイツに越してくるんだな?」

 康孝お兄さんは覗き込むように吉田の顔を見つめた。吉田は引きつった表情で康孝お兄さんを見つめていた。それが数秒続き、彼女は大きくため息をついた。

「わかりました。越してもいいですが、条件があります」

「何だ?」

「私の部屋には絶対に近づかない。これが約束できますか?」

「もちろんだ」

「ならいいですよ。家賃は具体的にはどのくらいなんですか?」

「一月で二万だ。格安だろ?」

 吉田は目を丸くした。

「二万円ですか?確かに格安ですね。ほぼボランティアじゃないですか」

康孝お兄さんは嬉しそうに笑った。食事はどうですか、という質問に、

「飯は各自で責任を持つんだ。自己管理する能力も身に付けてほしいからな」

 と康孝お兄さんは応えた。みんなは吉田が入居してくるかが気がかりな様子だ。特に毅は身を乗り出している。わかりやすい性格だ。

「入居するなら今が手頃だぞ。引越し屋も今ならまだ春のキャンペーン中だ」

 吉田はしばらく迷っていたが、とうとううなずいた。

「わかりました、入居します。犬はとりあえず飼わないことにします。それから」

 吉田はじっと康孝お兄さんを見た。康孝お兄さんの鼻の頭は汗で濡れていた。

「繰り返すようですが、私の部屋には近づかないでくださいよ」

「わかってるって。わしは女子大生の部屋に忍び込むようなまねはせん」

「忍び込む?」

 彼は墓穴を掘ってしまった。今度は額に脂汗が滲む。

「例えだよ、例え。なあみんな」

「お、おう。誰も毅の彼女に手はださねえよ」

 毅は吉田に耳打ちした。

「俺がいるから大丈夫だ。何かあったらすぐに知らせろよ」

 梨花さんはうなずいた。

「大丈夫だって。ここは紳士ばかりなんだから」

 笑いながら金太郎はそう言ったが、目だけが不気味にぎらついている。

「さあ、今日は祝杯だ!誰か酒持って来い!あはははは」とフトシ。

「よし!昼間だが飲むぞ~」と康孝お兄さん。

 こうして岸岡大学アームレスリング部に初めてのマネージャーが来たのだった。

 

     恐怖の新クラス

 

 次の日、月曜日のことである。つまり明弘にとっては講義初日だ。入学式が金曜日にあり、土日のあいだに色々なことがあったが、大学生として本格的に動き出すのは今日からなのだ。

 僕は緊張する足取りで自分のホームルームクラスへ向かっていた。入学式の後は自由解散だったので、実質クラスメイトとの対面は今日が始めてだ。

 ちなみに大学にもクラスはあり、選択科目以外の必須科目はクラスごとに受けることになっている。僕が入ったスポーツ体育科は、運動部の推薦入試で入った生徒が80%を占めている。曲がりなりにも僕もその一人だ。

 誰しも初対面の人とは緊張するものである。案の定、気の弱い僕は人一倍緊張していた。

(名門大とはいえ、スポーツ科だけあってきっと乱暴な人もいるんだろうな・・・)

 恐る恐る教室のドアを開けた。教室には既に何人も来ていた。

 僕は黒板に書いてある席に静かに座った。周りを見渡してみるといかにも体育会系といった男たちばかりだった。

(極端に女子が少ない。とほほ・・・)

 僕は時間を気にするふりをしたり、腕が痒いふりをして時間を潰した。

 

 始業のチャイムが鳴ると同時にドアが勢いよく開いた。

「佐藤康孝、ここに見参!」

「あ」

 僕は開いた口が塞がらなかった。康孝お兄さんは教卓の前に行くと、黒板いっぱいに「さとうやすたか」と相変わらずの汚い字で書いた。

「おはよう!今日から四年間君たちの担任をすることになった佐藤康孝だ。もちろん体育を担当している。ちなみに顧問はアームレスリング部だ」

 康孝お兄さんは僕を見るとニッと笑った。

「さて、それでは出欠を取るぞ」

 康孝お兄さんは教室を見渡すと、机がひとつ余っているのに気づいた。

「初日というのに一人来ていないようだな」

 その時、乱暴にドアが開いた。

 僕は本日二度目のショックを受けた。

 そこにいたのは金太郎だった。クラス中が異様などよめきに包まれた。無理もない。名門の国立岸岡大学に七十年代みたいな金髪リーゼントがいたら誰でも驚くだろう。

 金太郎は真っ赤なTシャツに変な柄のジャケットを着ていた。しかもガムを噛んでいる。

「あれ、明弘じゃんか。なんだ、同じクラスかよ」

「は、はい」

 僕は泣きそうになった。よりによって担任が康孝お兄さんでクラスメイトが金太郎とは・・・。

「金太郎、いいから席につけ」

「あ、康孝お兄さん!」

 金太郎も驚いたようだ。無理もない。

(そういえば金太郎は留年生だったな・・・)

「ゴホン。それでは一人ずつ自己紹介していってもらおうか」

 大学初の新クラスは初っ端から変なスタートを切った。

 

 次の休み時間、僕のところに金太郎が来た。僕の椅子に当然のように座り、ふんぞり返った。

「よう」

「金ちゃん・・・」

「お前と同じクラスになるたぁ、運命だよな」

 そう言って金太郎はタバコに火をつけた。運命も何も、このスポーツ体育科は一クラスしかないのだから留年すれば同じクラスになるに決まっているのだ。

「あれ、金ちゃん未成年じゃ・・・」

 僕は周囲を気にしながら金太郎を注意した。クラスの男たちは二人のことを警戒しきった目で見ている。クラスにリーゼントでタバコを吸うヤツがいたら見てしまうのも当然だろう。

「俺はもう十八過ぎてるんだ。バイクだって車だって酒だってオッケーなんだぜ」

「飲酒は二十歳からじゃ・・・。そもそも、僕にあれほど健康についてレクチャーしておいて、自分はタバコなんか吸うんすね」

「俺は中二の頃から吸い続けてるんだ。今更やめられるかよ」

「でも先生にバレたら下手すりゃ退学ですよ」

「大丈夫だ。康孝お兄さんはその辺心が広いからなあ」

「南蛇井、ちょっと来い」

 突然何者かに呼ばれ、二人はどきりとした。

 振り返ると、教室のドアのところに見上げるほどの大男がいた。身長はゆうに190以上ある。黒いTシャツを着ていて、「ボクシング イズ マイライフ」と大きくペイントされている。

「やべっ」

 金太郎は即座に立ち上がり僕の机でタバコの火を消した。

「あわわわわ」

「わりぃ明弘、次の授業はこのタイムカードで俺も出席ってことにしといてくれ!」

 そう言って「桜坂!」と言うと彼は勢いよく教室を出て行ってしまった。

「何なんだよ・・・」

 僕は涙目で机にのったタバコの吸殻をフーフーした。

 

     金太郎と桜坂

 

 金太郎は桜坂に連れられて校舎の外を歩いていた。二人の厳つい男が、満開の桜並木の下を歩く光景はこの岸岡大学には不似合いだ。美しい桜の花びらに包まれていても金太郎の表情は曇っていた。別に彼らは喧嘩をしに行ったわけではないのだ。

 桜坂孝太郎――彼は二回生にしてボクシング部のキャプテンを任された前代未聞のファイターだ。アマチュアボクシング界の十二ある階級の中のヘビー級という最も重い階級で、彼は全国的に有名だった。数々の大会で優勝してきた実力者だ。その大きな体からは想像もつかないような素早いフットワークと強烈なストレートが持ち味。岸岡大学でも彼の名は通っていた。

 一方の金太郎は、ミドル級というヘビー級の二つ下の階級の選手だった。金太郎も岸岡大学にボクシング部の推薦入学をしたのだが、今は訳あってアームレスリング部にいるのだ。

「南蛇井よ、いつになったらボクシング部に戻って来るんだ」

「前にも言っただろう。俺はもう人を殴るようなスポーツはやめたんだ。二度とあんな野蛮な格闘技はしたくねえ」

「それが本当にお前の本心なのか。あれだけボクシングが好きだったじゃないか」

 金太郎は俯いた。

「おい、あれだけの成績を残しておいて、ボクシング界を去るなんて俺は絶対に認めんぞ!アームレスリングなんてふざけた競技は捨てちまえ!お前は鍛えればプロになれるほどの実力があるだろう」

 金太郎は桜坂を睨みつけた。

「アームレスリングはふざけた競技なんかじゃねえ!他の格闘技と肩を並べるほど立派なスポーツだ」

 桜坂は決まり悪そうに金太郎から目を逸らした。

「・・・まだ過去を背負っているのか。あれは事故だ」

「桜坂、その話はするな」

「・・・すまん。だが、俺はもう一度お前と拳をぶつけ合いたい。ボクシング部のキャプテンとしてではなく、一人の男として」

 そう言うと桜坂は立ち止まりシャドーボクシングを始めた。洗練された全く無駄のない動きだ。軽やかなフットワークにリズミカルなジャブ。そして持ち味の強烈なストレート・・・。

 桜坂のシャドーボクシングを見ていると、金太郎は自然に拳を握っていた。

 しばらくの間桜坂は見事なシャドーボクシングをしていたが、ふと動きを止めた。

「体、鈍ってんだろ。リングへ来いよ。貸切りだぞ」

 そう言うと桜坂は微笑み、走り出した。気づけば金太郎はその大きな背中を追いかけていた。

 

     マスボクシング

 

「何ヶ月ぶりだ、お前とこうやってマスができるのは」

 桜坂はリングの上でグローブをはめながら言った。マスとはマスボクシングのことで、本気では打ち合わない試合形式の練習のことである。

「先生は?」

 金太郎もグローブをつけた。本来練習といえどマスボクシングをするときは監督下で行うことが義務付けられている。

「俺たちがマスをするのは秘密だぞ」

 ヘビー級のボクサーは笑った。ミドル級のボクサーも自分の両の拳をぶつけて笑った。

「10分だけだぜ」

「俺とのマスで10分持つかな」

 二人は同時にマウスピースをはめた。直後、桜坂はステップを踏み出した。金太郎もステップを踏み、桜坂との距離をとった。相手は身長がある分リーチが広い。だがその分防御が手薄になる。彼はその隙を狙うつもりだ。

 だが桜坂には見事なほどに隙などなかった。彼は素早いジャブを繰り出しながら、じわじわと体制を変え、金太郎の隙を的確についてこようとする。金太郎はそのジャブをガードしながら腕の隙間から桜坂の動きを探った。

(速い!)

 桜坂のジャブは金太郎にとってはストレートだった。階級がひとつ上になればそのジャブがストレートに感じられるのは、ボクシングをしているものには常識だ。そして、桜坂の階級は金太郎の二つ上だった。

 金太郎はガードしたまま相手の隙を探るしか方法がなかった。次々に飛んでくる桜坂のジャブを、持ち前の反射神経でガードすることだけで精一杯だった。金太郎は未だにジャブの一発も打てていない。

 試合開始30秒にして金太郎の脳裏に敗北の二文字が浮かんだ。彼がまだボクシング部にいた頃、桜坂と何度かマスをしたことはあったが、金太郎が勝ったことは一度もない。それどころか今の桜坂はさらに強くなっている。そして、自分には半年のブランクがあった。

「うっ」

 桜坂の強烈なストレートが金太郎の顳かみを掠めた。その速すぎる右の拳が桜坂の方へ戻っていくのと同時に、左の拳が弧を描いて顔面に飛んできた。顎に桜坂の青いグローブが直撃し、刹那金太郎の意識が飛んだ。

 気がつくと桜坂は金太郎から少し距離をあけ、次の攻撃ステップを踏んでいた。

 熱くなった金太郎は反撃に出ようと、右腕に反動を付け桜坂へ飛びかかった。だが彼の拳が桜坂の顔面に到達するより早く、桜坂の左手が金太郎の腹部を打った。

 金太郎の動きが一瞬停止すると、桜坂は跳ねるように一歩後ろに飛び退き、次のステップを踏んだ。そしてリズミカルにジャブを繰り出したかと思うと、また強烈なストレートを金太郎の腹に叩き込んだ。

 金太郎はまたしても一歩離れた桜坂を目で追うしかできなかった。桜坂の戦法は一切の無駄がなかった。ギリギリまで相手に近づき、相手より早く狙った場所に的確にストレートをぶつけてくる。顔を狙ったようなジャブを二、三発繰り出したあとの腹部へのストレートは、分かっていてもまず避けることができなかった。

 金太郎が桜坂を追うようにステップを刻むと、すかさず桜坂が先ほどと同じようにジャブを打ってきた。慌てて金太郎がガードすると、二、三発打ってきた後に、ほんの一瞬の時間が空いた。金太郎は次に飛んでくるであろう腹部へのストレートに備え、左手のガードを下げた。すると、さっきより少し遅れたタイミングで、今度は顎に今までで一番強烈なアッパーが炸裂した。

全国の覇者である桜坂の殺人的なアッパーを顔面に受けた金太郎は、そのまま真後ろに吹っ飛んでリングに倒れた。

 桜坂はあえてタイミングをずらし、攻撃を腹部から顎に変えることで、全くガードのない場所に反動をつけた渾身のアッパーを打つことができたのだ。この一瞬の判断力こそが、天才ボクサーである桜坂の一番の武器なのだ。 

 

 リングに寝転んだまま金太郎は一歩も動けなかった。負けたことを実感するのにそれほど時間はかからなかった。中学高校とケンカで負けたことがない金太郎にとって、桜坂は大きすぎる壁だった。

「錆び付いたな」

 既にリングから降りて水分補給をしている桜坂がぽつりと呟いた。

「・・・・・・」

 桜坂は寝転んだ金太郎を一瞥すると、再び水を口いっぱいに含んだ。

 金太郎はマウスピースをぶっと吐き出した。

「・・・こんなんマスじゃねえ」

「お前がノックアウトするまでたったの三分。俺はお前から攻撃らしい攻撃を一発も受けてない。半年前はもっといい試合ができたのに。正直お前には失望したよ」

 そう言って桜坂は部室をあとにした。

リングの上に倒れていた金太郎の頬を一筋の涙が伝った。それは敗北のあとの屈辱的な涙だった。

 

 部室を出た桜坂は遠くの空を眺めながら呟いた。

「お前はこんなもんで燻ってるような器じゃない。帰ってこいよ」

 

     金太郎の憂鬱

 

 大学生活にも段々慣れてきた明弘は、放課後いつものように部室へ向かった。部室はマネージャーである吉田のおかげで外側も内側も見違える程きれいになった。

 清々しい気持ちでドアを開けると、既に毅と武志がソファに腰掛け、二人で熱心に雑誌を読んでいた。

「先輩たち、こんにちは」

「お、おお。明弘……

 二人は明弘を見て動揺しているようだった。

「二人して何読んでるんですか」

「こら。子供はあっちで筋トレでもしてなさい」

 武志は部室の隅にあるバーベルを指差した。明弘は即座にそれがエロ本だと直感した。

「ははあ、それヤバい雑誌でしょ」

「ち、違う!」

「じゃあ見せて下さいよ~」

「いや、ダメだダメだ!」

 明弘は抵抗する武志からするりと雑誌を取り上げた。見ると、彼らが見ていたのはエロ本などよりももっと不健全なものだった。

「あ・・・」

 そこに載っている写真にはゴリゴリの男たちが、黒いピチピチの変な格好をして、ゴリゴリなことをしているというものだった。

「あちゃ~」

 二人は半笑いで明弘を見ていた。

「先輩たち、そういう趣味だったんですね・・・」

「今月の『アジアンマッスル』、結構ハードで良かったな」

「そうだな。そりゃあ送料込みで八千円もしたんだからな。さあ、それ隠しておくから返してくれよ。あ、お前も読みたい?」

 明弘はブルブル首を振った。

「結構です!」

「結構です、だって~。それはけっこうけっこう。わはははは」

 明弘はうんざりしながら雑誌を武志に返した。武志はそれをソファの隙間に押し込んだ。もし吉田が発見しようものなら大変なことになるだろう。

「それ誰が買ってきたんですか」

「え?俺だよ。部費で」

 毅がそう言った瞬間、明弘の目が驚愕で見開かれた。

「なに部費でこんな変なもん買ってんすか!」

「はっはっは」

 毅は腰に手を当てて愉快そうに笑った。そう、部長である毅には部費の使い道を決める権限があるのだ。

 明弘が反論しようとしたとき、部室のドアが静かに開いた。

「おう金太郎、今月のアジアン届いたぞ」

「あ、ああ」

 金太郎は明弘たちに見向きもせずに荷物を置いた。

「悪い、ちょっと外の空気吸ってくるわ」

 そう言い金太郎はのろのろと部室を後にした。

「あいつ、最近どうも元気がないな」

 武志がぽつりと呟いた。金太郎がここ数日元気がないのは明弘も気づいていた。だが理由を聞いても金太郎は決して答えようとしなかった。

「明弘、なんか知ってるか」

「そういえば、桜坂さんという人が金ちゃんを連れ出してから、元気がなくなったように思います」

 桜坂という名前を聞くと二人の表情が凍りついた。

「桜坂って、桜坂孝太郎か」

「下の名前はでは」

「この学校に桜坂なんて名前のやつは一人しかいない。ボクシング部部長、桜坂孝太郎だ!」

「まさか金ちゃんがその人にいじめられてるとか?何かただならぬ雰囲気で教室を出て行ったし」

 明弘は背筋に悪寒が走るのを感じた。

「バカ野郎。金太郎はこの学校一の不良で、いじめることはあっても、いじめられることはない。それに桜坂はいじめなんてくだらないことはしない」

「じゃあ何なんだろう・・・」

 明弘が腕組みしたとき、毅と武志が同時に「ボクシングだ」と言った。

「金太郎は元々ボクシング部員であの桜坂とツートップだったんだ。それが訳あってアームレスリング部やってきた」

「え・・・でも金ちゃんはアームレスリングの推薦でこの岸岡大学に入学したんでしょう?そう金ちゃんに聞いたけど」

「あいつ、そんなでまかせを・・・。あいつはボクシング部の推薦でここへ来たんだ。多分ボクシング部にいたことを言いたくなかったんだろうな。でもあいつは高校の時ナントカ級で関西一位だ。桜坂のやつ、金太郎を取り返しに来たんだ・・・」

 毅は眉間に濃い皺を寄せた。明弘は金太郎から聞いた話がどこまで本当なのかわからなくなってきた。

「金ちゃんがボクシングをやめてここへ来た理由って何ですか」

 明弘の質問に二人は答えなかった。その代わり「今からボクシング部へ殴り込むぞ!」と、毅は外へ歩き出した。

「部員が一人でも欠けたら俺たちはまた同好会に戻っちまう!」

 走り出した毅を追うように武志も動き出した。その手にはいつの間にか黒光りする竹刀が握られていた。

「明弘、お前も来い!殴り込みだ!」

「んな、殴り込みって!」

「左衛門三郎武志、剣道四段!」

「無敵毅、漢検三級!」

 明弘は彼らの強さ(?)に圧倒されたのだった。

 

     ボクシング部の男たち

 

 ボクシング部の部室の前に来た明弘は、その大きさに圧倒された。アームレスリング部の小屋みたいな部室とは比べ物にならない。まるで小ぶりの体育館のようだ。

「・・・ここがボクシング部の砦」

 毅は二人の一歩前に出ると叫んだ。

「アームレスリング部部長の無敵だ!桜坂!桜坂孝太郎出てこい!」

 すると声が届いたのか部員が数名様子を伺いに来た。

「げっ、無敵に左衛門三郎!」

「やべえ、部長~!」

 すると中から野太い声で「おーう」という返事が。出てきたのは身長190センチ以上あろうかという大学一の巨人、桜坂孝太郎だった。今日は赤いTシャツを着ていて、金色の文字で「天下無双」と大きく書かれている。

「桜坂・・・」

「無敵・・・」

 桜坂と毅の視線がぶつかり火花を散らした。

「この二人、因縁の関係なんだ」

 武志が明弘にそっと耳打ちした。

「因縁の関係?」

「恋敵なんだ。マネージャーの吉田、桜坂も狙ってた」

「吉田さん、そんなにモテてたんだ・・・」

「まあ俺なら三日あれば奪えるがな」

 そう言って武志はニヤニヤ笑った。

「聞こえてるぞ、武志!」

 毅の目は闘志に漲っていた。武志は慌てて弁解した。

「いやいや、冗談だって!そんなことより金太郎の件に決着をつけようぜ」

 隠然とした表情で部室の入口に立ちはだかっている桜坂が口を開いた。

「南蛇井のことか。あいつは元々ボクシング部に推薦入学してるんだ。勝手にやめられるわけがないだろう。それに今だって立派なボクシング部員だ」

「書類上はな。でも金太郎はもうボクシングなんかしたくないはずだ。あいつはもうアームレスリング部の大切な部員なんだ」

 桜坂は苛立たしげに舌打ちした。

「アームレスリングがなんだ!昨日今日できたような訳のわからん部活に、うちの大切な戦力を渡せるわけがないだろう!」

 その言葉を聞いた毅の顔はみるみるうちに真っ赤になった。

「黙って聞いてりゃ何だその物言いは!アームレスリング部部長として、黙ってるわけにはいかねえぜ!今すぐ金太郎を連れてくるから足を洗って待ってろ!」

 そう言って毅は走り出した。武志はその背中に「それを言うなら首だろ」と小声でつっこんだ。(明弘は間違いにすら気づかなかった)

 

 三人が金太郎を見つけたとき、彼は校内の噴水近くで何やら物思いにふけっていた。

 近づいてみると「桜坂殺す、桜坂殺す、桜坂殺す・・・」とぶつぶつ呟いている。三人は不気味に思ったが、ひとまず声を掛けた。

「おい、大丈夫か」

「桜坂殺す、桜坂殺す・・・むは!な、なんでぇ、三人揃って」

 慌てる金太郎に毅が訳を説明した。金太郎は事情を聞くと落ち着きを取り戻した。

「・・・そうか。いい加減逃げられなくなったわけか」

「おい金太郎、もちろんお前はボクシング部なんかに戻らねえよな?」

「馬鹿馬鹿しい。俺はもうボクシングなんて野蛮なスポーツはしねえよ」

 そういう金太郎は言葉とは裏腹にどこか上の空だった。毅はとりあえず金太郎を立たせた。

「だったら今から来てくれ。お前の口から、ボクシングへ決裂することを桜坂に伝えるんだ」

 

 金太郎を連れて戻ると、ボクシング部の部室前は騒然としていた。観衆は金太郎の姿を確認すると、「わあっ」とどよめいた。

「どうした?何だ、この騒ぎは」

 毅は桜坂に聞いた。

「今から俺と南蛇井がボクシングをして、この件に決着をつけるもんだと思ってるみたいだ」

「そんな馬鹿な。話し合いで決めるべきだ」

 そこへ康孝お兄さんが走ってきた。

「須藤先生!須藤先生!」

 須藤先生とはボクシング部の顧問で、既に七十歳を迎えている老人だ。だが彼の指導力は絶大で、この岸岡大学ボクシング部を八回全国優勝へ導いている。彼の人柄に惚れてこのボクシング部へきた生徒も多数いるらしい。

「佐藤先生、来てくださいましたか」

 部室の入口に腰掛けていた須藤はゆっくりと立ち上がり、律儀に腰を折り曲げた。彼はとてもにこやかで、傍から見ると本当にボクシング部の顧問かと疑わざるを得ない。

「やや!これは須藤先生!うちの部員が練習中にご迷惑をおかけしました。それで、何か問題でしょうか」

「南蛇井君の件ですよ」

 康孝お兄さんの目が一気に見開かれた。南蛇井の件と聞いてピンときたのだろう。金太郎は居心地悪そうに康孝お兄さんを見ないようにしていた。明弘は金太郎が動揺している姿を初めて見た。

「まあそう構えなさるな。ここは南蛇井君の意思を尊重すべきところです」

「え、ええ」

 そこにいた全員の視線が一斉に金太郎に集中した。それぞれの目が金太郎に何かを訴えかけている。それだけ彼に多くの人の期待が寄せられているのだ。

 だが金太郎は足元を見つめたまま、ただ黙りこくっていた。

 一秒ごとにその場の空気が張り詰めていく。ここでの金太郎の言動が、これからのアームレスリング部とボクシング部の明暗を分けるのだ。

 と、水を打つようにパシッという音がした。武志が竹刀を地面に打ち付けたのだ。

「こんな状況では金太郎が率直な意見を言えるはずがない」

「武志、俺は大丈夫だ」

 金太郎は武志を制した。

「俺はもうボクシング部に戻るつもりはない。それに、俺みたいなやつがもう一度ボクシングをしたいなんて図々しいことは言えない」

「金ちゃん、昔何があったの?」

 明弘は金太郎にさっきから気になっていた質問を投げかけた。金太郎は躊躇いがちに口を開いた。

「・・・半年前、秋の大会で対戦相手を殺しかけたんだ。相手の挑発的な戦い方にカッときて、審判が止めるのも聞かずに相手を殺す寸前まで殴り続けたんだ」

 野次馬たちが一斉に静まり返った。金太郎に疑いの眼差しが向けられる。金太郎は苦々しい表情で眉間に皺を寄せた。

「相手は優秀な選手だったんだが、今でもあの時の恐怖心からリングに立つことすらできないそうだ。俺はボクサーとしての誇りを捨てちまった。俺がボクシング部に戻れるわけがないだろう」

 明弘はうつむく金太郎の背中が急に小さく感じられた。事情を知っているボクシング部員や毅たちも地面に視線を落とすばかりだ。

 と、須藤が彼の元に歩み寄り、震えるその肩にそっと手を置いた。

「誰しも忘れてはならん過去はある。だが克服できない過去はない。君は半年前のことで人間的に成長できたじゃないか」

 ゆっくりと顔を上げた金太郎に須藤はにっこりと微笑んだ。

「自分が正しいと思ったようにすればいい。それが君の生き方じゃないのかね?」

「先生・・・ありがとうございます・・・。でも俺、もうボクシング部には戻れません。自分への戒めの意味も込めて、もう二度とリングには立ちません」

「君がそれを正しいと思うのなら、そうしなさい」

 明弘の目には小さな須藤が大きく見えた。こういう人に多くの人間がついていこうとするのは、なんとなくだが理解できた。

「南蛇井・・・」

 桜坂はまだ納得のいかない面持ちだった。

「俺はボクシング部にお前がいないと、どうしても張り合いがない。本当にお前に戻ってきて欲しいんだ」

 金太郎は首を振ると真っ直ぐに桜坂を見つめ返した。もうその目には迷いはなかった。

「・・・だったら、最後にもう一度だけ俺と本気のボクシングをしてくれ」

「桜坂」

 金太郎は驚きを隠せずその男の名を呼んだ。

「3Rの本気の勝負をしてくれないか」

 だが須藤が桜坂を制した。

「南蛇井君はもううちの部員ではないんだ。それに彼はもうボクシングをしないといっている。彼の気持ちを尊重してあげたらどうだね」

「ですが・・・」

 桜坂は押し黙ってしまった。だが実は金太郎も最後に桜坂に勝って、ボクシングというスポーツにちゃんと終止符を打ちたいという思いがあった。ただ、マスボクシングで歴然とした差を見せつけられた以上、ボクシングで桜坂に勝利するのはまず不可能だった。

「南蛇井、だめか」

 金太郎は返事をできずにただ戸惑うばかりだ。

「だったら」ここで明弘が口を開いた。

「だったら、エクストリームアームレスリングで勝負すべきです!桜坂さんにとってはボクシングが専門競技。でも今の金ちゃんはアームレスリングが専門だ。なら、二つの競技をかけあわせたエクストリームアームレスリングで決着をつけるのが筋です」

 その場にいた野次馬たちは聞きなれない言葉にざわついた。だがその言葉を既に耳にしたことのあるアームレスリング部員たちは身を固くした。

「バカッ、あんなの桜坂とやったら下手したら死ぬぞ」と武志。

「そうだ、いくらなんでも」そう言った毅を金太郎が制した。

「俺もダテにボクシングをしてきたわけじゃない。それに今はアームレスリング部の期待のエースだ。こんな図体のデカいだけのやつに負けると思われてるなら心外だ」

 その言葉を聞いた桜坂の口元が微かに歪んだ。

心の中で笑ったのだ。

「じゃあ、そのエクストリームアームレスリングとやらで戦おうじゃないか」

「ああ!」

 金太郎は白い歯を剥きだして笑った。

 その目には闘志が漲っていた。

 

     金太郎のプライド

 

 エクストリームアームレスリングは明日行われるということで話がついた。

 この競技の説明をすると、アームレスリング用の台で競技者二名の腕を固定し、一分間の試合を3Rするというものだ。その試合というのは一分間に相手を殴りまくる、それだけだ。固定された左腕は机から離れてもいいが、腰に鎖を付けることで移動が困難となる。腕の繋がった相手との殴り合いはボクシングの何倍も危険で、既にアームレスリングからはかけ離れている。こんな野蛮で馬鹿げた競技を金太郎たちは明日するのだ。

 部室の戸を開けると、フトシと吉田が暇そうに競技台でオセロをやっていた。事情を知らない二人は明弘たちの遅れた登場にゆる~く挨拶した。

「みんな、先に来てたわよ」

「よお、遅かったな。暇だから吉田さんとオセロしてた」

 その光景を見た毅は呆れ顔で溜め息を漏らした。

「フトシ、メニューやれよ」

「え~、だって疲れちゃうだろ~」

 そばに置いてあるポテチをバリバリ食べながらフトシは言った。

「あ、ごめんなさい。オセロしようって言ったのは私からなの」

 吉田が申し訳なさそうな顔になった途端、毅の表情は一気に和らいだ。

梨花ちゃんはいいんだよ~。毎日マネージャーの仕事、頑張ってくれてるもんね~」

 鼻の下を伸ばしながら吉田に駆け寄ろうとした毅の頭を、武志がパシッと叩いた。

「そんなことより、明日のエクストリームアームレスリングの話が先だ」

 エクストリームアームレスリングと聞いてフトシが反応した。

「エクストリームがどうした?まさか誰かやるのか?」

 金太郎は口元を綻ばせながら「俺だ」と言った。フトシは愕然とした表情で手に持っていたポテチを落とした。

「・・・ウソだろ?」

「明日の午後四時、桜坂と戦うことになった。応援よろしく」

「・・・あんなんやったら本気で死ぬぞ」

「お前らも今年アメリカでするんだ。しっかりと見とけ」

 ドアの前で静かに腕組みしていた康孝お兄さんが口を開いた。

「本当はもっとしっかりと練習しておくべきなんだが・・・。こうと決まった以上仕方ない。今からDVDを見てイメージトレーニングだ。ここにいるみんなの中で、ボクシング経験者はお前だけだ。あとは自分との戦いだぞ」

 金太郎は静かにうなずいた。

「では」

 そういうと康孝お兄さんはドアを開けた。

「わしは大学側に認可を取ってくる。そのついでに宣伝もしてくる」

 

 

 次の日、教室に金太郎の姿はなかった。明弘にはその理由が簡単に推測できた。多分自主トレーニングに励んでいるのだろう。ヤンキーだが努力家な金太郎を思い浮かべ、明弘は少し誇らしい気持ちになった。

 金太郎と桜坂の試合が始まる少し前、明弘が試合会場となった第二体育館の扉を開けると既に観客が大勢いた。

(康孝お兄さんの宣伝の力、半端ないよ)

 明弘はこれから二人の殴り合いが始めるということへの緊張感と共に、どういうわけか高揚感すら感じていた。

体育館の中央には部室から運んできたリングが置いてあった。他の部員たちが運んだのだろう。明弘は多くの人たちの中に、上半身を裸にしてボクシング用のハーフパンツを身につけた金太郎を見つけた。彼は部員と康孝お兄さんに囲まれ、真剣な表情をしていた。

「金ちゃん」

 明弘が駆け寄ると金太郎は笑顔になった。

「よお明弘、十分後に試合開始だ。俺の勇姿をその目に焼き付けろよ」

 そう言った彼の目は、これからヘビー級の王者と戦うというのに自信に満ち溢れていた。上半身裸なだけにその見事に隆起した筋肉が露わとなり、威圧感さえ感じる。全ての筋肉が完璧なまでに鍛え上げられており、日焼けしたその浅黒い肌やリーゼントの頭が彼の潜在能力を引き立たせているようだ。

「なぁに金太郎の股間じろじろ見てんだよ」

 武志に笑いながらそう言われ明弘はハッとした。気がつけば金太郎のボクシングパンツをじっと見ていたからだ。

「明弘、俺のベイビーがそんなに気になんのか?」

「いや違うって。そのズボンみたいなのって?」

「ああこれか。俺が関西のミドル級を制覇した時に履いてたやつだ。これさえ履いとけば絶対負けることはねえ」

 そう言い金太郎はその場でシャドーボクシングを始めた。こんな狭い場所でそんなことをするもんだから、明弘は自分に当たりそうでヒヤヒヤした。

「うっしゃ!」

 一通り体を動かすと、金太郎は全身に一気に力を込めた。戦いを前にして気持ちを高めているようだ。

「金太郎、相手の動きを観察して的確にパンチを繰り出すんだぞ」

 康孝お兄さんは心配そうに金太郎を見つめた。

「お兄さん、俺にボクシングのアドバイスはやめてくれよ。俺はこの両の拳で何十人もの相手をぶちのめしてきたんだ。そうだ明弘、桜坂の急所に俺の一発をぶち込めば、あいつはもんどり打って動かなくなるぜ。なんせエクストリームはボクシングと違い、下半身に攻撃することは反則じゃないんだからな」

 ニヤニヤ笑いながら彼はマウスピースを口に押し込んだ。

 グローブを毅から受け取り、金太郎はみんなに笑いかけた。歯の代わりに真っ赤なマウスピースを覗かせた。部員たちもこれから戦いに挑む金太郎に精一杯の笑みを投げかけた。ただ康孝お兄さんだけが、顧問として静かに彼を見ていた。金太郎はくるりと踵を返すと体育館中央のリングに左腕を置いた。

 目の前には金太郎を見下ろす桜坂がいた。

 

     静かなる戦い

 

 金太郎は既に自分の世界に浸っていた。周囲からは歓声や罵声が飛び交っていたが、彼の耳には何も届いていなかった。ただ対戦相手だけを見て精神を集中させていた。

 明弘はそんな金太郎を目の前にして、もしかしたらやってくれるのではないかと思い始めていた。ミドル級の関西圏の王者だ。そのハングリー精神できっと桜坂にすら勝ってくれると。

 金太郎と桜坂はリングの上で左手を組んだ。

桜坂の深緑のTシャツには今日も字が書かれていた。「気炎万丈」と血のように真っ赤な色で。

審判は二人の拳が離れないようにガムテープでぐるぐる巻きにした。それから腰に巻いてあるベルトにリングに取り付けてある鎖を引っ掛けた。

「これであいつらはボロボロになるまで殴り合うんだ」

 明弘は金太郎からずっと視線を逸らさない毅を見た。毅はそのあとは何も言わなかった。

 気がつくと明弘の横にマネージャーの吉田が立っていた。息を切らしているところから考えて今来たところなのだろう。

「金太郎君、頑張って・・・」

 その呟きに毅は嫉妬の眼差しで吉田を見つめたが、彼女は動じなかった。毅も、マネージャーなんだからな、と納得し金太郎を見つめた。

 明弘は金太郎の逞しくて大きな背中を見ていると、自分にも力が漲ってきた。

(金ちゃん、絶対に勝って!)

 どこのスタッフかは分からないが、それらしい審判は二人の組んだ左手に自分の手を重ねた。

「レディ・ゴー!」

 掛け声と共に審判が離れ試合は始まった。観客たちの声援は一層大きくなった。だがそれを打ち消すように康孝お兄さんは怒鳴るように「キンタロー!」と叫んでいる。他の部員たちもそれに続いて叫んだ。

「金太郎ォ!ぜってー負けんな!」

「金ちゃん!金ちゃーん!」

 みんなの声援を背中に受けながら、金太郎は果敢に桜坂に殴りかかった。左手を固定されているためガードができない桜坂の顔面に、金太郎の強烈なストレートがもろに炸裂した。鼻が潰れるんじゃないかと思うほどの強烈なパンチを顔面に受けた桜坂は、一瞬顔をしかめたが直後反撃に出た。

 その長い腕のリーチを使い、金太郎の頭にその拳を何度も何度も振り下ろした。金太郎は痛みのせいか身を固めてしまった。

「金太郎!股間狙うんだ!」

 毅が叫ぶと、他の部員たちも必死に「タマ取れ!タマ!」「ポコ○ン潰せ!」と汚い言葉で叫んだ。明弘が叫びながらチラリと横を見ると、吉田は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。

 金太郎は部員たちの声援に押され、一気に身を低くすると桜坂の股間めがけて、噛み付くように飛びかかった。

「ぶっ!」

 腹をくの字に曲げ、青いマウスピースを勢いよく吹き出した桜坂は、あまりの激痛に目を剥き股間を押さえた。

 金太郎の強烈なストレートが股間に炸裂したのだ。観客の声援と怒号が会場全体に沸き起こった。

「・・・何すんじゃ!」

 涙を堪えながら桜坂が叫ぶと審判は慌ててゴングを叩いた。

 第一Rは金太郎の卑怯にも思われる戦法での勝利だった。

 桜坂はパンツを広げて自分のものにフーフーと息を吹きつけた。あまりの痛さで涙目だ。

 金太郎はマウスピースをグローブにぶっと吐き出すと、その様子を見て爆笑した。

「ぎゃはははは!これ反則じゃねえんだぞ!ポコ○ンフーフーしてやがるぜ!ざまあねえなあ!」

 康孝お兄さんは「確かに反則じゃない」と大きく頷いた。

「くそッ!」

 審判はおろおろしながら「まだやれるかね?」と桜坂に聞いた。桜坂は股間をさすりながら大きく頷いた。その目は金太郎を真っ直ぐに捉え、異様なほど爛々と輝いていた。とうとう桜坂の逆鱗に触れてしまったのだ。

「お前を女にしてやる・・・」

 桜坂のその一言に金太郎は凍りついた。

 

 第二Rが始まった。

 桜坂は最初から金太郎の股間を狙いに行った。その目は怒り狂っていて正気の沙汰とは思えなかった。金太郎は慌てて右手で必死に自分のものをガードした。

(やべえ、女にされる・・・)

 さすがの金太郎も焦りだした。桜坂は金太郎のそれを一心に見つめ、ひたすらガードの隙を狙ってくる。

 会場は二人の男の静かなる戦いに大きく湧いた。もはや既に本来のエクストリームアームレスリングとはかけ離れているが、審判は二人のあまりの剣幕に止めに入ることもできなかった。

 金太郎にはこの地獄のような一分間が永遠に続くように思われた。なんせ、桜坂の殺人ストレートを股間に受けたら本当に女になりかねないからだ。

(やめろおおおおおお!)

 泣きそうになった金太郎の耳に、やっと第二R終了のゴングが鳴り響いた。

 桜坂は動きを止め、肩で息をしながらマウスピースを吐き出すと「女にしてやる」と呟いた。

 金太郎は一分前まで馬鹿笑いしていたというのに既に半泣きだった。

「男でいたいっす」

 客席の最前列にいた須藤は「ふたりとも、やれなくなるぞ!」と珍しく必死な形相で叫んだ。

 康孝お兄さんは「そのタマは魂の次に大事なタマだ!考え直せ!」と喚いたが二人には届かなかった。

 吉田は恥ずかしさのあまり、真っ赤になった顔を両手で覆った。毅は明弘を押しのけると、そんな彼女に「俺のは無事だからな。安心しろ」と言った。案の定強烈なビンタが炸裂した。

 明弘は感に耐えず大きく咳払いした。

 

 異様な空気のまま第三Rが始まった。

 桜坂は今度は腹を狙って何度もパンチしてきた。金太郎は意識を集中させその攻撃をガードし続けた。

(腕一本分ガードするなんて、俺にとっちゃ雑作もない!このRを守りきれば俺の勝ちだ)

 そう思った瞬間、股間に桜坂の殺人ストレートが飛んできた。慌ててよけたが当たったところは丁度ヘソの部分だった。金太郎は今日の昼飯を戻しそうになったが、どうにか持ちこたえた。

(腹筋鍛えといてよかったぜ・・・)

 今度はよろめいた金太郎の顔面に強烈なストレートが飛んできた。ガードしようと右手を伸ばしたが間に合わなかった。顎を打たれ意識が遠のいた。

(桜坂のやつ、本来の戦法に戻しやがった・・・)

 しかし、もしやと思い下をガードすると腕に痛みが走った。桜坂の股間を狙ったストレートを右腕に受けたのだ。

 金太郎はマウスピースを吐き出した。

「テメェ!卑怯だぞ!」

 桜坂もマウスピースを吐き出した。

「どっちが卑怯だ!女になりやがれ!」

 そう言った桜坂は、今までで一番強烈なパンチを金太郎の股間めがけて繰り出した。金太郎は慌ててガードしたが、ついに自分の右手ごとそこに入ってしまった。

「あああああああああ!」

 あまりの痛みに金太郎は叫んだ。

「女になるうううううう!」

 桜坂がとどめのストレートを股間に叩き込もうと振りかぶった時、神の思し召しかゴングが鳴り響いた。

 左手を繋がれたまま、金太郎はその場にへたりこんだ。

「痛えぇ!うあああ!」

 汗だくの桜坂は目を血走らせ豪快に笑った。

「ぎゃはははは!お前は今日から女だ!」

「わああ!金ちゃんが女になったー!」

 明弘が泣き出すと、伝染するように部員たちが、観客たちが騒ぎ出した。

「金太郎がオカマになりやがった!」

「違う!ニューハーフだ!」

「嫌だー!」

「金子ちゃんだぁ!」

「誰か救急車を呼べ!」

「おい!誰かちゃんとついてるか確認してこい!」

「嫌だー!」

 その後やってきた救急車で、金太郎と桜坂は股間を押さえながら仲良く運ばれたのであった。

 

     金太郎の病室

 

 例の桜坂との戦いのあと、金太郎は大学病院の泌尿器科で一物の精密検査を受けた。運良く大事には至らなかったのだが一週間入院することになった。

 一方の桜坂は意外と軽傷で、「しばらく安静に」と医師から釘を刺されてはいるがそれだけだった。

 入院一日目の今日、顧問を含む部員全員で金太郎のお見舞いに来ていた。

「よう大丈夫か?」

 個人部屋だけあって狭い部屋で、みんなが入るには少々狭かった。

「大丈夫なもんか」

 スウェットを着た金太郎はどこか悲しげだった。いつものリーゼントも今日はただのオールバックになっているぐらいだ。

「二週間も使えないんだってよ。今も管に繋がれてるんだぜ。ううう・・・」

 吉田に聞こえないように金太郎は小声で喋った。その吉田は持参した花束をせっせと花瓶に添えている。もしかしたら本当は聞こえているのかもしれないが、聞こえている様子はない。

「何だと!」

 一番驚いたのは武志だった。

「それはかわいそうだ。二週間も・・・」

 明弘が武志を校内で偶然見かけるときは、常に違う女を連れているだけあって、女関係において彼はだらしなかった。それだけ武志に女性を惹きつける魅力があるということなのだが・・・。

「そうだろ?」

 金太郎は何度も大きくうなずいた。

「お前に使うあてがあるとも思えんがな」

 毅の一言に金太郎はため息をつき黙ってしまった。いつもなら何か言い返しそうなものだが、今日は特別元気がなかった。その横でフトシはニヤニヤ笑っている。もしかしたらムッツリなのかもしれない。

「お前ら、くだらん話してないで金太郎のおむつを替えてやろう」

 康孝お兄さんはごそごそとカバンから老人用のおむつセットを取り出した。

「に、兄さん!俺、おむつなんか履いてませんし、替えて欲しくもないです!」

 金太郎は慌てて手を振った。

「あれ?おむついらなかった?」

 康孝お兄さんの目が何か訴えかけている。もしかしたら、ただおむつ交換というものをしてみたかっただけなのだろうか。いよいよ変な男だ。

「いりませんよ!」

「そうだ金太郎、病院の飯でかわいそうだからこれをやる」

 フトシはカバンから大量のカップラーメンを取り出した。

「フトシ、お前・・・」

 金太郎の目がうるうるしだした。

「あ、でも給湯器ないから食えねえや。うひひ」

「フトシ、てめ・・・」

 金太郎の目が恨めしそうにぎらついた。

「そういえば僕もお腹がすくだろうと思って缶詰持ってきましたよ。ツナ缶に鯖の味噌煮にフルーツ缶なんかもありますよ」

「お前はいい後輩だな。いや、同じクラスだから後輩じゃないか。ははは・・・」

「でも肝心の缶切り忘れました。あ、でもせっかくなんでおいていきますね」

「フトシに明弘、お前ら何か俺に恨みでもあんのか・・・」

「ムフフフ……

 余計げっそりした金太郎は「それでよお」と言った。

「結局あの試合は、俺と桜坂のどっちが勝ったんだ?」

「どうやら決着はつかなかったようだよ。君らは互角に戦ったということだ」

 康孝お兄さんは満足げにうなずいた。

「え~!俺の勝ちじゃなかったのかよ」

「あの桜坂君と互角に戦ったのは凄いことだよ。まあ、かなり際どいやり方だったが・・・」

 金太郎はやっとここで嬉しそうに笑った。

「あの作戦最高でしょ。男なら誰でも弱点ですからね」

 そう言い彼は鼻から息を吹いた。

「確かにそうだが、アメリカの大会で同じことをするなよ。日本人の威厳に関わる問題だからな」

「ええ!」

 その言葉に部員全員が反応した。

「俺もやろうと思ってたのに」

「俺も俺も」

「僕も!」

 康孝お兄さんはため息をついた。

「そんなことをした結果が今の金太郎じゃないか」

 そう言うと康孝お兄さんは金太郎のスウェットを脱がしにかかった。

「うわ!何すんだよ!」

「君らも見ておきなさい。怪我をすると怖いんだ」

「やめろよ兄さん!やめろって、康孝!」

 金太郎は脱がされまいと必死に抵抗した。その様子を見た吉田は顔を真っ赤にして病室を飛び出した。

「あ、マイハニー・・・」

 毅は走り去った吉田を目で追うことしかできなかった。その様子を見た康孝お兄さんは、金太郎のスウェットから手を引いた。

「・・・兄さん」金太郎は目を見開き、疑いの眼差しを康孝お兄さんに向けた。

「・・・これはまずい。女子マネージャーには少々ハードだったようだ」

「そうですよ!康孝お兄さん!」

 キレかかっている毅だが、彼も以前部室でろくでもない雑誌を読んでいたことを忘れてはならない。

「とにかく追いかけましょう」

 明弘を先頭に、いい歳の男たちが病室を大急ぎで飛び出していった。取り残された金太郎は、半分以上ずらされたスウェットに気づき慌てて引き上げた。

 

     マネージャーの涙

 

 明弘たちが吉田を発見したのは産婦人科コーナーの前だった。

 吉田は待合所の椅子に座りしくしく泣いていた。周囲の人たちはそんな彼女のことを、傍から好奇と心配の混じった目で見ていた。無理もない。まだ若い女性が産婦人科コーナーの前で一人泣いていたら心配にもなるだろう。

 そこへ柄の悪い男たちが我先にと走ってきた。そう、アームレスリング部の男たちだ。

梨花ちゃ~ん、愛してるよ~!」毅は吉田の隣に座ると猫なで声で彼女の頭をさすった。

「吉田さん、大丈夫?」と明弘は彼女の前にしゃがみ、「泣くな、おなごの恥だ」と武志は言い、「カップ麺食べますか?お湯ないけど」とフトシは呑気に言った。康孝お兄さんに至っては「悪かった。少々過激なことをしてしまった」と誤解を生むようなことを言った。

 話がどんどんずれた方へ行き、たくさんの人が集まってきてしまった。だか、当の本人たちはその様子に全く気づいていない。

野次馬たちは彼らの様子を一定の距離を置いて小声で囁き合いながら見つめるばかりだ。

「やあねえ、できちゃったのかしら」

「誰の子供だかわかんないんじゃない?」

「若いのに大変ねえ」

「あの刺青の男が怪しいわね」

 オバサンたちはひそひそとそんな会話をしていた。

 吉田はまだ両手で顔を覆って泣いている。

梨花ちゃん・・・ごめんな・・・」

 どういうわけか毅も泣き出した。これにより余計にそれらしくなってしまった。

「いいや、悪いのは全部わしだ。すまなかった」

 康孝お兄さんは吉田に向かって土下座した。これでは完全に修羅場だ。

「・・・男って、どうしてみんなそうなの?私の気持ちも知らずに・・・。私一人で毎日毎日あなたたちの相手するの、ホントに大変なんだから・・・」

 この言葉によって周囲の空気が一気に張り詰めた。

「あらやだ」

「え、そゆこと?」

 オバサン連中はだんだん楽しくなってきたのか、ワクワクした目で彼らを見ていた。この後の展開が気になるようだ。

梨花ちゃんはウブなんだ。みんなが変なことするから・・・」

「変なことをしたのは康孝お兄さんだけでしょ!」

「え?わし?」

「当たり前だ。俺らは何も変なことしてないよなあ、フトシ」

「当たり前でごあす。変なことをして泣かせたのは康孝お兄さんと金太郎でがんす」

「確かにわしも悪かったが、みんなだって迷惑かけてたんじゃないのか?」

 康孝お兄さんは立ち上がると全員を見た。

「そういえば俺、フトシが寝ぼけたふりして、梨花ちゃんの部屋に忍び込もうとしたとこ見たぞ。鍵かかってて諦めたようだったが」

「つつつ、毅!それは誤解でござるよ。トイレに行こうとした時に間違ったんだべさ」

 毅は睨むようにフトシを見つめた。

「そういえばさっきから口調がいつもと違うよな。ウソついてんじゃないのか?」

「そそそ、そんなわけないでげす!」

「あっ、そういえば僕も見ましたよ」

 明弘は得意げに続けた。

「武志の部屋のベランダに女物の下着が干してありました。あれ、もしかして吉田さんのですか?」

 武志は顔を真っ赤にした。

「バカ!あれは違う女のだよ!」

「てめえ、やっぱり女連れ込んでやがったのか!規則でそういうのは禁止にしただろ!てかホントに梨花のじゃねえんだろうな?」毅が大声で喚きたてた。

「違うと言ったら違う!アヤコだかナツコだかミワコだかウメコのだか忘れたが、断じて違う!」

「お前、一体何人連れ込んでやがるんだ・・・」

「もうイヤ!」

 吉田は勢いよく立ち上がった。

「あなたたちにはうんざりよ!そもそも何で私がマネージャーなんかさせられてるのよ!」

 康孝お兄さんは何か言いたそうに口をもごもご動かした。だが、もごもご動かすばかりで言葉は何も出てこない。

梨花ちゃん・・・」

 毅は悲しそうに吉田を見つめた。吉田はそんな毅を一瞬躊躇いがちに見たが、すぐに目を逸らした。

「私、元のマンションに戻ります。マネージャーの仕事もしばらくは休みます。さよなら」

 そう言うと吉田は足早にその場を立ち去った。

「待ってくれ、梨花ちゃん」

 追いかけようとした毅の肩を武志が引いた。

「女心がわからんやつだなあ。こういう時は一人にさせてやれ」

 毅は悲しそうに俯いた。その時、

「ふう。さっきからニラが歯に挟まってたんだ。やっと取れた」

 空気の読めない康孝お兄さんは嬉しそうに笑った。どうやらさっきから口を動かしていたのはそのためらしい。

「康孝お兄さん・・・」

 全員が康孝お兄さんに疑いの眼差しを向けたのだった。

 

     アームレスリング部崩壊の危機

 

 佐藤ハイツに戻った明弘は、自分の部屋に戻ったあと、部長である毅の部屋に呼ばれた。そこには既に武志とフトシもいた。全員が複雑そうな表情をしている。

 毅の部屋は意外と物が少なく、きれいに整理整頓されていた。ただ、壁にグラビアアイドルのポスターが大きく貼ってあるのを除いて。沖縄かどこかの海で撮ったものらしい。水着姿のどアップで、これ見よがしに谷間を強調して満面の笑みを浮かべている。そのアイドルは、どこか吉田に似ている気がした。

梨花ちゃん、やっぱり荷物を置いて出てったよ」

 毅はため息混じりにそう言った。背中を丸めて畳の上に正座した毅は、いつになく覇気がない。

「そう気を落とすな。女なんか星の数ほどいるんだ」

 武志は慰めているつもりらしいが、明らかにずれた発言だ。毅は悲しそうに俯いたままだ。

「毅、また合コンに行けばいいさ」

 すると毅はいきなり上を向いてわんわん泣き出した。

梨花~!戻ってきてくれぇ~!」

 もうこうなると手がつけられない。三人は顔を見合わせた。

(どうする?ほっとくか)

(ほっとくわけにはいかないでしょ)

(じゃあどうする?)

(あしにいい考えが)

(ほう)

「ちょっと部屋から酒を持ってくる」

 フトシはそう言って部屋を出ていった。酒で酔わせて忘れさせようという安直な作戦だ。

「毅、そう泣かないで下さいよ」

 仕方なく明弘が毅を宥める。

「明弘ぉ、お前は恋をしたことがあるか・・・。魂と魂をぶつけ合うような、情熱的で、時には狂わしく、溺れるような恋を」

「えっ、恋ですか」

 明弘の恋といえば、せいぜい片想いがいいところで、付き合ったことはおろか告白すらしたことがない。当然告白されたこともない。

「・・・残念ながら、無いです」

「なんだ、虚しい男だなあ」

 毅は泣くのをやめたが明弘は少しむっとした。馬鹿にされたと思ったからだ。

「武志は・・・いや、こいつのは恋じゃないか。女をたらし込んでるだけだもんな」

「何だと?最近やっと彼女ができたからって偉そうに。俺が女をたらし込んでるだ?ほっといても女はうじゃうじゃ来るんだよ。そもそもお前はモテないからこんなもん部屋に貼ってるんだろ!」

 武志は明弘がずっと気になっていたグラビアアイドルのポスターを指さした。毅は顔を真っ赤にして叫んだ。

「関係ない!ひ、姫子は俺のミューズなんだ!」

 ミューズって・・・。明弘は吹き出してしまった。吹き出すとどんどん笑いが込み上げて来て止められなかった。

 気がつくと毅が真顔で明弘の顔を覗き込んでいた。

「・・・明弘、そんなに面白いか」

「す、すみません」

 武志はうんざりしたように肩をすくめた。

「こんなくだらん言い合いはよそう。今はマネージャーをどうするか話し合うべきだ」

 確かにその通りなので明弘と毅はうんうんうなずいた。

その時酒を取りに行ったフトシが戻ってきた。手には日本酒やワイン、ウィスキーなどの高価な酒が握られている。さすが社長の息子。金はあるらしい。

「おおフトシ。悪いな。飲みながら話そうか」

 明弘を除く三人はコップも使わずに思い思いの酒を飲みだした。意外にも明弘に奨めないのは、自分たちがより多く飲みたいからのようだ。

「俺が思うによ~、やっぱ康孝お兄さんが全部悪いと思うんだよな~」

 ウィスキーで酔っ払った毅は明弘にもたれかかった。明弘は胡散臭そうに毅を押しのけた。

「そうだそうだ!なんだかんだであの人が一番の問題児だ!」

 フトシもワインですっかり酔っ払っている。

「それにさっきのニラは腹が立ったよなあ。あの状況でニラなんかどうでもいいだろ。てか、いつニラが挟まんだよ」

 武志は顔を真っ赤にして酒臭い息を吐いた。こんなキツい酒ばかりを好き好んで飲むからだ。明弘は一瞬にして酔った三人に顔をしかめた。部屋は既に酒臭い匂いで充満している。

「よおし、打倒康孝だー」

 毅は楽しそうに手に持ったウィスキーを掲げた。

「おお~」

 武志とフトシもなぜかノリノリだ。

「ちょっと待ってくださいよ。顧問がいなくなればもう部活じゃないですよ。それに僕たちもここを追われるかもしれないし」

「明弘ぉ!」

 いきなり毅が明弘に抱きついた。酔っているためか異常に力が強い。明弘が必死に抵抗してもびくともしない。

「やめてくださいよ。気持ち悪い」

「俺を助けると思え。な?姫子ちゃんのレアカードあげるから。これプレミアだぞ?」

「いりませんよ、そんなもん」

 明弘が毅を突き放すとなぜか突然悲しそうな顔になった。

「・・・・・・俺はよお、ずっと探し求めていたんだ。それでようやく梨花ちゃんに巡り会えたんだ。長かった。本当に長い戦だったよ。親の仕送りのほとんどを合コンに費やす毎日・・・。来る日も来る日も見栄を張って奢るのは大変だった。おかげで今は水道代を払うことも大変なんだぜ・・・」

 水道代を切り詰めるぐらいなら、アイドルのカードを集めたりする趣味をやめればいいのに。

キックオフ

 走れ、走れ、走れ!

仰げば曇天。スタジアムには大勢の観客たち。俺たちはグリーンの人工芝の上。インターハイへの切符を争う地区大会の決勝。あと三十秒で試合終了だ。一対二でピンチだが、一点決めればPK戦に持ち込める。PKなら負けねえ。

FWの高野がパスカットし、チャンスメイクした。そのままドリブルで二人抜くもすぐにまた追いつかれそうになる。おい、こっちはがら空きだぜ。FWを見ろFWを。かっこつけて一人で突っ走るな。俺を信じろ!

「高野!こっちだ!」

 高野がちらりとこちらを確認すると、三十メートル級の鋭いパスが飛んできた。ナイスアシストだ。キーパーが迫ってきた。一、二、軽いドリブルでリズムをとって、シュート!ボールは緩やかな弧を描いてキーパーの頭上を越え、ゴールネットを小気味よく揺らした。やった!ループシュートだ!

笛が鳴った。だがそれはゴールを告げるものではなかった。

オフサイド!」

 ウソだろ……。全身から血の気が引いた。タイマーを見るとあと十四秒で止まっていた。十四秒で何ができんだよ。俺のせいだ。全部、俺のせいだ……

 高野が駆け寄ってきた。腹を立てた表情だった。でもそれは俺に対してではなく――。

「西田、今のぜってえオフサイドなんかじゃねえよ。あの審判、ふざけやがって。クソッ、これだからハゲはっ!」

 

 私はいつもの悪夢で目が覚めた。

 目覚める直前のセリフは親友の高野の言葉だった。ちなみに高野はアフロだ。ハゲの何を知っているというのだ。

 私は慌ててベッドから出ると洗面所に向かった。

 鏡に映っていたのは、頭頂部の髪の毛が一本もないくせに、即頭部には長い毛が申し訳程度に生えている自分の頭だった。あの審判の髪形そのものだった。

こんな頭になったのはいつからだろう……

 現在四十歳でごく普通のサラリーマンをしている私は、高校時代はちょっとしたアイドルだった。

 当時、サッカー部のキャプテンでエースだった私の髪はふさふさで、しかもストレート。走るたびに風になびいていた。試合の度に「西田ファンクラブ」の女子が駆けつけたものだ。そう、自分で言うのもなんだが、私は他の学校の女子までもが見とれるほどの美男子だった。

 バレンタインはまさに武勇伝だった。登校して下駄箱を開けると溢れんばかりのチョコレートの山、山、山。教室に行くと同学年のみならず、先輩後輩の女子が待ち構えていて、チョコレートを渡しに来る。それはもう天国だった。

 

 そんな回想をして、もう一度鏡を見ると河童のような頭の男が無駄に凛々しい目でこちらを見つめていた。もう泣きそうだった。

 もう一度寝ようかと思ったが会社に行かねばなるまい。仕方なくスーツに着替えると、誰もいない部屋に「行ってきます」と言って静かに社宅を後にした。

 

 コンビニで朝食を買おうとレジに並ぶと、後ろに並んだ中学生たちが私の頭を物珍しそうに眺めていた。彼らは「河童だ、河童」「違うよ。スヌーピーだよ」などとささやきあっていた。

丸聞こえなんだよ……

 頭にきたが情けなくて怒る気にもなれなかった。

 

 会社はもっと最悪だった。

「おはようございます」

 デスクに着くと昨日やりかけた仕事の書類の山が散乱していた。

「西田ちゃん、もうちょっと効率的に仕事しようよ」

 隣の席の国重だ。こいつは私より五つも年下なのに上司だった。いつも私を馬鹿にしては楽しんでいる嫌なヤツだ。ちなみに髪はふさふさだ。ちっ、ワックスなんかつけやがって。

「だいたいなに、その頭。笑わせないでよね~」

「はあ、すみません。仕事、これでも頑張ってるんですけど……

「頑張ればいいってもんじゃないでしょー。その仕事、僕に押し付けないで下さいよー」

「はあ」

 私は泣きそうになりながらも仕事に取り掛かった。するとOLの白石がお茶を淹れに来た。白石はこのオフィスの紅一点で若くて美人。そのため社員に大人気だ。

「国重さん、いつもお疲れ様ですぅ~」

 白石はニコニコしながら国重のデスクにそっと湯呑を置いた。

「あ、ミキちゃん。今晩飲み行かない?二人で。奢るからさ」

「えへへ~。ミキ、お酒弱いの知ってるくせにぃ~。こまっちゃう~」

 クネクネしていた白石だが、私を見るなり険しい顔になった。

「ほらよ」

 ドン。

……

 私は白石の豹変ぶりに言葉を失った。まあいつものことなのだが。

白石がいなくなると国重はニヤニヤしながら椅子にふんぞり返った。

「あの娘、普段はフツーに可愛いんだけどねー。お酒入っちゃうと急にエロくなっちゃうのよねー」

なんだこいつ、いきなりオカマ口調かよ。

「だから僕そろそろ飽きちゃったかなーなんて」

 国重は肩を揺すってケラケラ笑った。私はまた泣きそうになりながらも、無視して仕事に取り掛かった。

「いやあ、女って一回可愛がったらなかなか離れてくれないもんなのよね~。あっ、西田ちゃんにこんなこと言ってもわかんないよね~」

「昔はお前なんかの百倍はモテてたんだ!」

 そう言おうとしたが、出てきたのは「そうですね」という情けない言葉だった。

 

 仕事が片付いたのは深夜十時を過ぎてからだった。残業手当なしで働かせるのは違法だろ、と思ったがそんなことを言えるはずもなく渋々働いた。

 重い足取りで駅まで歩いていると、見たことのないおでんの屋台があった。空腹だったのでそこに行こうとしたが、財布の中身を見て諦めた。

いい歳こいたオッサンの財布の中身がたったの三百円かよ……

 屋台の前を通り過ぎようとしたとき、店主に声をかけられた。

「ほら、そこの人、食ってきなよ」

「いえ、お金ないんで」

 そう言って店主を見ると、見慣れたアフロヘア。人懐っこい笑い方。

「高野!」

 それは高校時代にFWで私とともにツートップを張った男だった。高野は切れ味抜群のフェイントで相手を抜き、いつも私のシュートをアシストした。そのためにいつも花を持つのは私だったが、高野はそれを笑顔で許してくれた。高校を出てからは連絡を取り合うこともなく、会うのは実に二十年ぶりだった。

「えっ。西田……お前、もしかして西田なのか

 高野は私の頭を見て、何度も意味深に頷くと、わざと何事もないようにコップに酒をついだ。私は慌てて屋台の椅子に座った。

「どうした?お前、プロチームに入団したんじゃなかったのか」

 高野はそのアフロ頭に手をやって照れくさそうに笑った。

「芽が出なかった。ていうか嫌になった。サッカーなんて所詮ボール追っかけてるだけだもんな」

「高野……

 私は高野を見つめて感慨深げ酒を啜った。

「それよりお前、その頭どうした」

 高野はいきなり私の一番触れて欲しくないところを突いてきた。私は恥ずかしそうに曖昧に笑った。

「三十路過ぎた頃くらいから薄くなってさ、アデ○ンスで植毛したら逆に悪化してよ」

「でもちゃんとした会社で働けてるんだろ?俺なんか今じゃただのおでん屋のタコオヤジだ」

「俺だって二十年間平社員さ」

 俺たちは大きく溜め息をついた。高野は「もっと飲めよ」と私に酒を勧め自分も飲み始めた。酔が回り始め、我々の顔が真っ赤になった時に高野は呟いた。

「輝かしい青春の時代は終わり、今はお互い世捨て人ってわけか」

……あの頃に戻りたいなあ」

「ああ。毎日が輝いてたよなあ」

 いつしか私の瞳には涙が溢れていた。あの頃と今の違いを思えばどうしようもなかった。それを見た高野も目を瞬かせた。

「ほら。飲め。飲んで忘れようぜ」

「高野、ありがとう……ありがとう」

 私たちは店に置いてある酒を浴びるように飲んだ。そのまま夜は更けていき、酔いつぶれた我々は寝てしまった。

 

       ○

 

「はげ、ハゲ、剥げ!」

「ああああああ!」

 目覚めると遥か遠くに走り去っていく中学生たちの背中が見えた。

「ハックションッ」

 やられた!私は高野ともども追い剥ぎに遭ったのだ。今どきおやじ狩りとは珍しい。どうにかパンツまでは取られなかったらしいが、財布やケータイ、しかもシャツやスラックスに至るまで持って行かれた。これでは会社には行けそうもない。

「おい高野、起きろよ」

 目覚めた高野は、我に返り暫時泣き言を漏らしていたが、そのうちに正気を取り戻した。

「まあ屋台が残ってただけマシか……。っておい!調理道具一式持って行かれちまったじゃねえか!」

「無一文になっちまった……

「落ち着け西田。とりあえず俺の家まで来い」

「ありがてえ。お前家まで持ってたのか。私はまだ社宅暮らしだぞお……

 

 連れてこられたのは一戸建てではなく、六畳一間のアパートの一室だった。

「まあ座れよ」

 どこに座れというのだ。部屋の中にはぼさぼさの髪の女が布団に包まり、死んだように寝ていた。それだけでも狭いというのに中はごちゃついていて足の踏み場もない。結局私はパンツ一丁で玄関に突っ立ったままでいた。

「お前、結婚なんかしてたんだな。水臭いじゃねえか。だったらハガキの一枚でも寄越せってんだ」

「ん?ああ、あれか。あれはダッチワイフだ」

 マジかよ!本当にそんなのを持ってるやつがいたとは!

「ほら寒いだろ。とりあえずこれ着ろよ」

「お、おう」

 私は渡された赤いジャージをありがたく着た。何だかやたら小さいぞ。よく見ると「三年 小西」と書かれている。

「誰だ小西って?」

「ああ、若いころ盗んだやつだ。気にしなくていいぞ」

「気になるわ!」

 高野は黙々とスラックスに足を通し始めた。ジャージは我々が卒業した学校のものではない。若い頃とか言っていたが、ダッチワイフを持っているような男だ。怪しい。怪しすぎる。

……小西って、女か?」

「しゃーねえな。とりあえず警察行こう、警察」

 出頭かな?と思ったが、追い剥ぎに遭ったことで被害届を出すためらしかった。

ということで、私は盗んだジャージ、高野はスーツというアンバランスな格好で近くの警察署に入った。受付で事情を説明すると、受付嬢はくすくす笑いながら生活安全課へ行くよう言った。高野は「刑事課だろ。告訴してやる」とぶつぶついっていたが、本物の警察官を前にすると急にしおらしくなった。仕方ないので私の口からことのあらましを説明した。

……大変な目に遭いましたね。ところでその恰好は?」

 私が説明しようとしたとき、高野は横でくすくす笑い出した。

「こいつの趣味なんですよ。変装が好きでね、これは中学生のコスプレなんです」

「えっ。そそ、そうなんですか。それは奇特な趣味をお持ちだうふっ」

 警察官の男は口に手を当てて笑を噛み殺している。私は慌てて否定した。

「違うんですよ。着るものがなかったんで仕方なく」

「まあ、趣味は人それぞれですからね」

 警察官はぎこちなく作り笑いを浮かべると、机の上に一枚の紙切れを置いた。それはまさに被害届だった。本物を見るのは初めてである。

「じゃあこれにちゃっちゃと記入しちゃって下さい。私はむこうにいますんで、不明な点とかありましたら呼んでください。ちゃっちゃとお願いしますよ。ちゃっちゃっちゃ~」

 警察官は妙な歌を歌いながらどこかへ消えていった。

「」

猿軍団39――俺たちの未来――

 あれから何年が経っただろう。そう、彼らがオーストラリアの地面を踏んでから。

 俺の名前は猿之助。猿吉の実の息子だ。猿吉は今、この猿軍団のボスを務めている。猿軍団と命名したのは、もちろん猿吉。元々は猿軍団39だったが、数が変わってしまったため、猿軍団と改名したそうだ。

 俺が生まれたのは、親父や仲間がこの土地を踏んだ一年後だった。俺は長男。次男は猿衛門、三男は猿彦、そして、末っ子の長女が猿子。どうやら、親父は自分の子どもに『猿』という一文字を入れたいようだ。なぜなら、彼はその『猿』という文字に誇りを持っていたからだ。だが、俺は猿という文字がダサい気がする。猿というのは、(今は亡き)人間が俺たちを区別するためにそう呼んだのだ。だから、俺の子供には、絶対『猿』という文字は入れない。

猿之助、足場が悪い。気ぃつけるんや」

父、猿吉が一団の先頭を歩いている。今は、南へ向かう旅の途中。天気は曇り、怪しげな沼地に足を踏み入れ、しばらく歩いた時だった。

「親父、休憩せぇへんか。みんな疲れているで」

「いや、まだや。ここで休むんは危険すぎる」

確かに、ここで休むには足場が悪い。それに何よりも、どこにワニがいるかわからない。しかし、後ろからついてくる仲間たちの足取りは重く、今にも倒れそうだった。

「でも・・・・・・」そう言いかけた時だった。行く手の先に、黄色いふたつの目が見えた。俺は咄嗟に身構えた。俺のほんの十数メートル先にワニがいるのだ。辺り一面に点在する細長いアシのせいで、遠くからはわからなかったのだ。しかも、そのワニの大きさというのが、三メートルはゆうに超えるものだったのだ。

猿吉は後ろにいる仲間たちにわかるよう、笛を吹いた。この笛は、他の動物に聞こえない周波数で仲間にしか通じないのだ。これも親父の発明品だ。後方から、了解という意味の笛が返ってきた。俺たちはよほど近くにいるとき以外は、声を出して連絡はしない。敵を挑発することになるからだ。

 見ると、ワニの後方約二十メートル先に大きな木があった。全員が登っても大丈夫そうだ。問題は、どうやって木に辿りつくか、だ。

「二手に別れよう」親父は言った。喋る時でもワニから目を逸らさない。ワニはまだ動く様子はなかった。

「それより」俺は言った。「おとりがええ。俺がおとりになる」

「やめろ。危険や。死者を出したぁない」

「なら、戻るべきや」

その時、後ろからも笛の音がした。危険信号だ。俺のお袋と兄弟たちは後ろにいる。無事でいることを願うが・・・・・・。

「後には引けへん。二手に別れて、あの木で落ち合おう。ヒロ、お前が左の指揮を取れ。わいが右の指揮を取る」

「わい」というのは、リーダーが自分のことをそう呼べる、いわば特権のようなものだった。

「はい。お任せを」

ヒロは親父の右腕だ。宇宙に行ったときも一緒だったらしい。身体つきは、猿軍団の中で最もがっしりしている。親父が知力なら、ヒロは腕力だろう。

 猿吉が二手に別れる合図を出した。笛を二回――一回目は短く、二回目は長く――吹いた。俺たちはさっと、左右に別れた。

 俺はヒロに続いた。全速力で駆け抜ける。やった、ワニを追い越した。

 地面がぬかるんで歩きにくい。さっきよりも、水かさが増えている。

猿之助」ヒロが俺を呼んだ。「ワニは群れで行動することもある。仲間がいるかも知れへん」

「おう。緊張感を持てってことやな」

「ああそうや。四方八方に集中せい!」

ワニは今のところ一匹だけだ。だが、ワニは動き出した。俺たちのところだ。いや、後ろだ。

 後ろには、体力が消耗し歩けなくなった仲間がいた。ワニはそいつに狙いを定めている。と、ヒロが後ろへ走り出した。

猿之助、お前がみんなを引っ張れ。ええな!」

返事をする暇はなかった。ヒロの勇気は凄いが、今は俺がみんなを引っ張っていかなくてはならない。

「みんな、ついて来い!」

みんなは一瞬ためらったが、ここは行くしかないと、思いとどまった。

 ヒロは無事だろうか。あの猿は、顔は見えなかったがまだ子供だったはず・・・・・・。心配ではあったが、あえて振り返らなかった。振り返ったら、もう走れそうになかったから。

 その時だった。バリバリと骨を砕くような音が聞こえたのは。俺はどうしても、振り返るのを止められなかった。頭は行かせまいとしているのだが、体が勝手に動いちまう。

 見ると、ワニが猿を飲み込むところだった。遠すぎて、小猿だったか、ヒロだったかはわからなかった。よく見て、確信することもしなかった。それは辛すぎることだから。

 木はもうすぐだ。親父の一行はもう先頭から木にたどり着いている。俺たちは走った。足元がぬかるんでうまく前に進めない。運良く周りにはワニはいないようだ。

 木は俺たちが乗っても折れそうにない大木だった。

猿之助、ヒロはどないした?」親父が聞いてきた。

「仲間を助けようとして・・・・・・。そのまま戻ってけぇへん」

「二匹ともか」

「ああ。きっと死んだんや・・・・・・。俺は何もでけへんかった」

猿之助、お前は仲間を導いたやないか。そう簡単にはでけへんで」

「親父」

その時、向こうから何かが駆けてきた。ヒロだ。

 ヒロは木に登った。だが、顔の半分には引っかいたような傷があり、そして左足の踵から先がなかった。

「ヒロ!」

俺たちはヒロに駆け寄った。

ヒロは俺たちを見た。悲しそうな目だった。

「子供は食われちまいました」

「そうか、そうか。だが、お前は生きとる。怪我の手当てをせえへんと」

「そんなことより、早く移動したほうがええでしょう。私は血の臭いを放っている。そのうち、臭いを嗅ぎつけたワニがうようよやってくるでしょう」

「しかし、その出血では、早く治療しないと」

「私のことはいいんです。私をここにおいて行ってください」

「馬鹿なことを言うな。そんなことできるはずないだろう。君は私の戦友であり、親友だ」

「嬉しいこと言ってくれるな。猿吉」

ヒロは息苦しそうにそう言った。喋り方も昔に戻ったようだ。

「さあ、止血しよう。誰か止血できそうなものを持ってないか?」

「ここにあります」

雌猿が親父に包帯を手渡した。

「おい猿吉、そいつはスペースシャトルから持ち出したものじゃねぇか。そんな貴重なもの、俺のために使うな」

「喋るな。悪化するぞ。猿軍団にはお前が必要だ」

「ありがたい」

親父は傷口に包帯を巻いていった。ヒロは痛みをじっと堪えていた。

 包帯を巻き終わると、ヒロは親父を見た。その眼差しはボスを見るというよりも、親友を見るような目だった。