キックオフ

 走れ、走れ、走れ!

仰げば曇天。スタジアムには大勢の観客たち。俺たちはグリーンの人工芝の上。インターハイへの切符を争う地区大会の決勝。あと三十秒で試合終了だ。一対二でピンチだが、一点決めればPK戦に持ち込める。PKなら負けねえ。

FWの高野がパスカットし、チャンスメイクした。そのままドリブルで二人抜くもすぐにまた追いつかれそうになる。おい、こっちはがら空きだぜ。FWを見ろFWを。かっこつけて一人で突っ走るな。俺を信じろ!

「高野!こっちだ!」

 高野がちらりとこちらを確認すると、三十メートル級の鋭いパスが飛んできた。ナイスアシストだ。キーパーが迫ってきた。一、二、軽いドリブルでリズムをとって、シュート!ボールは緩やかな弧を描いてキーパーの頭上を越え、ゴールネットを小気味よく揺らした。やった!ループシュートだ!

笛が鳴った。だがそれはゴールを告げるものではなかった。

オフサイド!」

 ウソだろ……。全身から血の気が引いた。タイマーを見るとあと十四秒で止まっていた。十四秒で何ができんだよ。俺のせいだ。全部、俺のせいだ……

 高野が駆け寄ってきた。腹を立てた表情だった。でもそれは俺に対してではなく――。

「西田、今のぜってえオフサイドなんかじゃねえよ。あの審判、ふざけやがって。クソッ、これだからハゲはっ!」

 

 私はいつもの悪夢で目が覚めた。

 目覚める直前のセリフは親友の高野の言葉だった。ちなみに高野はアフロだ。ハゲの何を知っているというのだ。

 私は慌ててベッドから出ると洗面所に向かった。

 鏡に映っていたのは、頭頂部の髪の毛が一本もないくせに、即頭部には長い毛が申し訳程度に生えている自分の頭だった。あの審判の髪形そのものだった。

こんな頭になったのはいつからだろう……

 現在四十歳でごく普通のサラリーマンをしている私は、高校時代はちょっとしたアイドルだった。

 当時、サッカー部のキャプテンでエースだった私の髪はふさふさで、しかもストレート。走るたびに風になびいていた。試合の度に「西田ファンクラブ」の女子が駆けつけたものだ。そう、自分で言うのもなんだが、私は他の学校の女子までもが見とれるほどの美男子だった。

 バレンタインはまさに武勇伝だった。登校して下駄箱を開けると溢れんばかりのチョコレートの山、山、山。教室に行くと同学年のみならず、先輩後輩の女子が待ち構えていて、チョコレートを渡しに来る。それはもう天国だった。

 

 そんな回想をして、もう一度鏡を見ると河童のような頭の男が無駄に凛々しい目でこちらを見つめていた。もう泣きそうだった。

 もう一度寝ようかと思ったが会社に行かねばなるまい。仕方なくスーツに着替えると、誰もいない部屋に「行ってきます」と言って静かに社宅を後にした。

 

 コンビニで朝食を買おうとレジに並ぶと、後ろに並んだ中学生たちが私の頭を物珍しそうに眺めていた。彼らは「河童だ、河童」「違うよ。スヌーピーだよ」などとささやきあっていた。

丸聞こえなんだよ……

 頭にきたが情けなくて怒る気にもなれなかった。

 

 会社はもっと最悪だった。

「おはようございます」

 デスクに着くと昨日やりかけた仕事の書類の山が散乱していた。

「西田ちゃん、もうちょっと効率的に仕事しようよ」

 隣の席の国重だ。こいつは私より五つも年下なのに上司だった。いつも私を馬鹿にしては楽しんでいる嫌なヤツだ。ちなみに髪はふさふさだ。ちっ、ワックスなんかつけやがって。

「だいたいなに、その頭。笑わせないでよね~」

「はあ、すみません。仕事、これでも頑張ってるんですけど……

「頑張ればいいってもんじゃないでしょー。その仕事、僕に押し付けないで下さいよー」

「はあ」

 私は泣きそうになりながらも仕事に取り掛かった。するとOLの白石がお茶を淹れに来た。白石はこのオフィスの紅一点で若くて美人。そのため社員に大人気だ。

「国重さん、いつもお疲れ様ですぅ~」

 白石はニコニコしながら国重のデスクにそっと湯呑を置いた。

「あ、ミキちゃん。今晩飲み行かない?二人で。奢るからさ」

「えへへ~。ミキ、お酒弱いの知ってるくせにぃ~。こまっちゃう~」

 クネクネしていた白石だが、私を見るなり険しい顔になった。

「ほらよ」

 ドン。

……

 私は白石の豹変ぶりに言葉を失った。まあいつものことなのだが。

白石がいなくなると国重はニヤニヤしながら椅子にふんぞり返った。

「あの娘、普段はフツーに可愛いんだけどねー。お酒入っちゃうと急にエロくなっちゃうのよねー」

なんだこいつ、いきなりオカマ口調かよ。

「だから僕そろそろ飽きちゃったかなーなんて」

 国重は肩を揺すってケラケラ笑った。私はまた泣きそうになりながらも、無視して仕事に取り掛かった。

「いやあ、女って一回可愛がったらなかなか離れてくれないもんなのよね~。あっ、西田ちゃんにこんなこと言ってもわかんないよね~」

「昔はお前なんかの百倍はモテてたんだ!」

 そう言おうとしたが、出てきたのは「そうですね」という情けない言葉だった。

 

 仕事が片付いたのは深夜十時を過ぎてからだった。残業手当なしで働かせるのは違法だろ、と思ったがそんなことを言えるはずもなく渋々働いた。

 重い足取りで駅まで歩いていると、見たことのないおでんの屋台があった。空腹だったのでそこに行こうとしたが、財布の中身を見て諦めた。

いい歳こいたオッサンの財布の中身がたったの三百円かよ……

 屋台の前を通り過ぎようとしたとき、店主に声をかけられた。

「ほら、そこの人、食ってきなよ」

「いえ、お金ないんで」

 そう言って店主を見ると、見慣れたアフロヘア。人懐っこい笑い方。

「高野!」

 それは高校時代にFWで私とともにツートップを張った男だった。高野は切れ味抜群のフェイントで相手を抜き、いつも私のシュートをアシストした。そのためにいつも花を持つのは私だったが、高野はそれを笑顔で許してくれた。高校を出てからは連絡を取り合うこともなく、会うのは実に二十年ぶりだった。

「えっ。西田……お前、もしかして西田なのか

 高野は私の頭を見て、何度も意味深に頷くと、わざと何事もないようにコップに酒をついだ。私は慌てて屋台の椅子に座った。

「どうした?お前、プロチームに入団したんじゃなかったのか」

 高野はそのアフロ頭に手をやって照れくさそうに笑った。

「芽が出なかった。ていうか嫌になった。サッカーなんて所詮ボール追っかけてるだけだもんな」

「高野……

 私は高野を見つめて感慨深げ酒を啜った。

「それよりお前、その頭どうした」

 高野はいきなり私の一番触れて欲しくないところを突いてきた。私は恥ずかしそうに曖昧に笑った。

「三十路過ぎた頃くらいから薄くなってさ、アデ○ンスで植毛したら逆に悪化してよ」

「でもちゃんとした会社で働けてるんだろ?俺なんか今じゃただのおでん屋のタコオヤジだ」

「俺だって二十年間平社員さ」

 俺たちは大きく溜め息をついた。高野は「もっと飲めよ」と私に酒を勧め自分も飲み始めた。酔が回り始め、我々の顔が真っ赤になった時に高野は呟いた。

「輝かしい青春の時代は終わり、今はお互い世捨て人ってわけか」

……あの頃に戻りたいなあ」

「ああ。毎日が輝いてたよなあ」

 いつしか私の瞳には涙が溢れていた。あの頃と今の違いを思えばどうしようもなかった。それを見た高野も目を瞬かせた。

「ほら。飲め。飲んで忘れようぜ」

「高野、ありがとう……ありがとう」

 私たちは店に置いてある酒を浴びるように飲んだ。そのまま夜は更けていき、酔いつぶれた我々は寝てしまった。

 

       ○

 

「はげ、ハゲ、剥げ!」

「ああああああ!」

 目覚めると遥か遠くに走り去っていく中学生たちの背中が見えた。

「ハックションッ」

 やられた!私は高野ともども追い剥ぎに遭ったのだ。今どきおやじ狩りとは珍しい。どうにかパンツまでは取られなかったらしいが、財布やケータイ、しかもシャツやスラックスに至るまで持って行かれた。これでは会社には行けそうもない。

「おい高野、起きろよ」

 目覚めた高野は、我に返り暫時泣き言を漏らしていたが、そのうちに正気を取り戻した。

「まあ屋台が残ってただけマシか……。っておい!調理道具一式持って行かれちまったじゃねえか!」

「無一文になっちまった……

「落ち着け西田。とりあえず俺の家まで来い」

「ありがてえ。お前家まで持ってたのか。私はまだ社宅暮らしだぞお……

 

 連れてこられたのは一戸建てではなく、六畳一間のアパートの一室だった。

「まあ座れよ」

 どこに座れというのだ。部屋の中にはぼさぼさの髪の女が布団に包まり、死んだように寝ていた。それだけでも狭いというのに中はごちゃついていて足の踏み場もない。結局私はパンツ一丁で玄関に突っ立ったままでいた。

「お前、結婚なんかしてたんだな。水臭いじゃねえか。だったらハガキの一枚でも寄越せってんだ」

「ん?ああ、あれか。あれはダッチワイフだ」

 マジかよ!本当にそんなのを持ってるやつがいたとは!

「ほら寒いだろ。とりあえずこれ着ろよ」

「お、おう」

 私は渡された赤いジャージをありがたく着た。何だかやたら小さいぞ。よく見ると「三年 小西」と書かれている。

「誰だ小西って?」

「ああ、若いころ盗んだやつだ。気にしなくていいぞ」

「気になるわ!」

 高野は黙々とスラックスに足を通し始めた。ジャージは我々が卒業した学校のものではない。若い頃とか言っていたが、ダッチワイフを持っているような男だ。怪しい。怪しすぎる。

……小西って、女か?」

「しゃーねえな。とりあえず警察行こう、警察」

 出頭かな?と思ったが、追い剥ぎに遭ったことで被害届を出すためらしかった。

ということで、私は盗んだジャージ、高野はスーツというアンバランスな格好で近くの警察署に入った。受付で事情を説明すると、受付嬢はくすくす笑いながら生活安全課へ行くよう言った。高野は「刑事課だろ。告訴してやる」とぶつぶついっていたが、本物の警察官を前にすると急にしおらしくなった。仕方ないので私の口からことのあらましを説明した。

……大変な目に遭いましたね。ところでその恰好は?」

 私が説明しようとしたとき、高野は横でくすくす笑い出した。

「こいつの趣味なんですよ。変装が好きでね、これは中学生のコスプレなんです」

「えっ。そそ、そうなんですか。それは奇特な趣味をお持ちだうふっ」

 警察官の男は口に手を当てて笑を噛み殺している。私は慌てて否定した。

「違うんですよ。着るものがなかったんで仕方なく」

「まあ、趣味は人それぞれですからね」

 警察官はぎこちなく作り笑いを浮かべると、机の上に一枚の紙切れを置いた。それはまさに被害届だった。本物を見るのは初めてである。

「じゃあこれにちゃっちゃと記入しちゃって下さい。私はむこうにいますんで、不明な点とかありましたら呼んでください。ちゃっちゃとお願いしますよ。ちゃっちゃっちゃ~」

 警察官は妙な歌を歌いながらどこかへ消えていった。

「」