【オススメ!】エクストリーム

 ~登場人物~

 

☆武田明弘 ♂

  本書の主人公。気弱だが心優しい大学一回生。高校時代に体操をしていたが、足の怪我で挫折した。

 

☆無敵毅 ♂

  二回生でアームレスリング部部長。どこまでもまっすぐな男で面倒見がよい。筋肉フェチでゴリマッチョ。特技は合気道

 

☆南蛇井金太郎 ♂

  留年組の一回生でアームレスリング部員。大学一の不良で、喧嘩早く乱暴者だが情に厚い。金髪のリーゼントで元ボクシング部員。

 

☆左衛門三郎武志 ♂

  二回生でアームレスリング部員。端正な見た目のせいか非常に女癖が悪い。特技の剣道は四段の腕前。常に和服を着て腰には刀を差している。本物という噂も・・・。

 

百目鬼力 ♂

  二回生のアームレスリング部員。愛称はフトシ。他の部員に比べると比較的大人しい大巨漢。食べることと寝ることが趣味。

 

☆佐藤康孝 ♂

  「康孝お兄さん」の愛称で親しまれるアームレスリング部顧問。見た目はタトゥだらけのアブナイおやじだが中身は意外と温厚な性格。

 

☆吉田梨花 ♀

  一回生でアームレスリング部の紅一点の美人マネージャー。

 第一章 追いかけろ、ゴールデン青春ライフ!

 

     転機

 

 石灰を両手に付け、僕は勢いよく鉄棒に飛びついた。何度も経験した、自重で一瞬しなる鉄棒の感触、心地いい。僕はつま先から体を前後させ、徐々に振り子のように大きく動かした。ここで気を付けることは鉄棒を強く握りすぎないこと。親指と残りの四本で輪を作り、全身の反動と背筋だけで体を一回転させるのだ。つま先の位置が最高到達点に来たとき左手を離し、右手で鉄棒を持ち替え、また左手で鉄棒を掴む。体が360度回転し、一瞬無重力の状態になった。次に来るのは体重に加算された重力「G」だ。胃袋が後ろに引っ張られるような感覚があり、僕はもう一回転すると両手を離し、体を斜めに数回転させマットの上に着地した。

とたんに右足のふくらはぎに鋭い痛みが走った。

 両手を挙げたとき、体育館の入口あたりから誰かが拍手した。振り返るとそこにいたのは体操部の顧問、宮脇だった。

「武田、さすがだな」宮脇は深い表情でうなずいた。

 部活が終わったあとの時間に僕は一人体育館にいた。次の大会の出場資格など無いというのに・・・。

「これでやっと、踏ん切りが付きました」

 気がつくと僕の頬を一筋の涙が伝っていた。

僕はこの高校での三年間、体操一筋にやってきた。体操部のキャプテンとして数々の大会で好成績を残してきたが、最後の大会を目前にアキレス腱を切ってしまい、県大会優勝候補を囁かれていた僕は、志半ばにして散ったのだ。

今日はそんな僕の総まとめとして、誰もいなくなったこの体育館を借りたのだ。

 これでもう体操を諦めなくてはならない――僕の脳裏に走馬灯のようにこの三年間の記憶が甦った。

「武田・・・」

「三年間、ありがとうございました!」

 僕は涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を宮脇に見せないように深々と頭を下げると、そそくさと体育館を後にした。

「・・・お前にとってこの三年間は絶対に無駄ではなかったはずだ。人生まだまだ分からない。大学で新しい道で闘ってくれ」

宮脇の囁きが、声を上げて泣き出した僕の耳に聞こえた気がした。

 

     アームレスリング部の男たち

 

 東京の青山に位置する、国立岸岡大学は体操部が強豪で、僕はそれの推薦入学を果たした。入学手続きの後に足を怪我したため水に流れることは無かったが、それでも体操ができないというのは屈辱的だった。普通、怪我の場合はマネージャーやトレーナーとして部に貢献するのが一般的なのだが、僕はそれを強く拒んだ。自分の心の傷を抉られたくなかったからだ。

 入学式へ向かう電車の中でも僕はそのことを考えていた。決して賢いとは言えない僕が唯一人より優れていたこと。それが体操だった。体操に出会って、僕の秘められた才能が開花したといっても過言ではない。しかし、その希望も儚く散った。明るくなろうとしても心にのし掛るこの気持ちはどうしても取り去ることができなかった。

 車内はあいにく満員だった。時間に余裕を持って出たはずが、初めての東京で道に迷い、駅で違う改札をくぐり、間違えて新幹線乗り場に行くなどしているうちに式の時間は、刻一刻と迫ってきていた。本来、僕は大学のすぐ近くのアパートに住むことになっているから、そこから来ればすぐだったのだが、今日だけは少し離れたホテルから来ていた。それというのも、実家の大分から東京まで荷物一式を運ぶのは可哀想だという親の配慮で、荷物は全て部屋に郵送してあり、今日の昼間に引っ越し屋が運び入れるために僕が泊まれなかったのだ。一度アパートを見に行った時は、ぼろい四畳半の部屋とはいえ、家賃が二万というのだから驚異的だった。東京のオシャレ発信地、青山で二万。にわかには信じがたい。

 さて、そういうわけで僕は車内でずっと時間を気にしていた。満員なために正面にいる力士さながらの男の腹が当たって仕方ない。

「暑いですなあ・・・」

 知らず知らずに顔をしかめていたのだろうか、びっしょりと汗を掻いた男は申し訳なさそうに話しかけてきた。

「ええ、はい」作り笑顔を返しておいたが、心では「お前のせいだよ!」と叫んだ。

 そうこうしているうちに電車は目的の駅に到着した。僕は慌てて飛び降りた。

 だが先ほどから尿意を感じたために、まずトイレへ向かわなければならなかった。不運にも三つある便器は既に占領されていた。仕方なく僕は体格のいい男の後ろへ並んだ。

 まだだろうか、時間がかかる・・・。

「う、うおおおぉぉぉぅぅ!」

 突然前の男が声を上げた。何事かと、そこにいた全員の視線が集中する。

ブッ。

 ほ、放屁しやがった!

 男は振り返り、えもいわれぬ恍惚の表情をこちらへ向けると、照れくさそうにその場を立ち去った。残された僕は重苦しい空気と屁の匂いが立ち込める男子トイレでしばらく呆然としていた。

 

 洗面台で何気なく鏡を見た僕はネクタイを忘れたことに気が付いた。やばい。式は正装で参加することになっているのに。

 慌てて改札から飛び出すと、運のいいことにすぐ近くにコンビニがあるのを発見した。

 店内でネクタイを探していると、背後の雑誌コーナーから男の高笑いがし、驚いて振り返ると僕はもう一度驚いた。金髪リーゼントの本格的なヤンキーがエロ本を愉しそうに眺めていたのだ。

「うわ、すげえ!百人斬りかよ!元気だなあオイ!」

 怖くなった僕は適当に黒っぽいネクタイをひっつかむとレジへと向かおうとした。しかし、ちょうど死角になっていたために、足元に人がいたことに気づかず、目の前につんのめった。

「コラァ!」

「す、すみません!」

 慌てて謝ると、(なぜか)和服姿のイケメンがこちらを苛立たしげに睨んでいた。俳優か劇団員の休憩時間か。さすがは東京、地元の大分と違って色んな人がいるらしい。

「貴様ァ・・・」

 僕は怖くて身動きが取れなかった。見ると男が持っているカゴには、どういうわけか大量のコンドームの箱が無造作に入れられていた。僕は一層怖くなった。

「ほんとすみませんでした!」

 この場から去りたい一心に半泣きで謝ると、エロ本を読んでいたヤンキーが「うるせえぞ!」と怒鳴ってきた。すると、しゃがんでいた男がすっと立ち上がり、つかつかと歩み寄ったかと思うと次の瞬間にはそのヤンキーの胸ぐらを思い切り掴んでいた。和服男の身長は180はあり、そのヤンキーを見事に威圧している。

「お前、さっきからエロ本ばっかり読みやがって思春期かよ!」

「うるせえ!お前こそそんな大量のゴム何に使うんだよ!」

 ヤンキーも筋骨隆々で、どちらも危険なオーラを発している。僕は二人が目を離したすきに慌ててレジへ走り、千円札を店員に渡すと「お釣りはいりませんから!」と半べそをかきながらコンビニを飛び出した。

 

       ○

 

 入学式にはなんとか間に合ったものの、僕は式の間中ずっと今朝のことを考えていた。大学生活初日からあんなひどい目に遭うとは、先が思いやられる。これは何か悪いことが起きる凶兆だろうか・・・。

入学式が終わり、僕は暗い気持ちのまま大講堂から出た。ふと脇を見た僕は驚愕のあまり目を剥いた。なんと、こともあろうか少し離れた花壇付近に厳ついヤンキーたちが四人屯していたのだ。ここは天下の岸岡大学。ヤンキーが混じり込める場所ではない。いや、百歩譲ってヤンキーがいたとしても、まさかそいつらが今朝出くわした電車の大巨漢と、トイレでの放屁男、コンビニでのエロ本、コンドームとは信じられない。そして、驚くべきことに全員が僕を物凄い剣幕で睨みながら、徐に何か囁きあっているのだった。今朝のことで僕を殺しに来たのだろうかと思うと泣きたくなった。

何も見ていない。僕は何も見ていない。そう自分に言い聞かせ、人の流れに任せ歩こうとしたが、男たちは「逃すまい」と言わんばかりに僕の方へ歩み寄り、逃げ場をなくすように取り囲んだのだった。

この四人が僕を値踏みするように無言で見下ろしてくる。僕はこの上ない恐怖を味わいながらも、小さな脳で必死に、なぜ名門の岸岡大学にヤンキーがいるのか、なぜあの四人がグルになっているのか、なぜこんな白昼堂々殺しを行おうとするのか、とパニック状態だった。

だが、当の男たちは突然笑顔になると握手を求めてきた。

「君が武田明弘君か」トイレで爆弾級の放屁をしたスポーツ刈りの男がニッと白い歯を剥きだして笑った。

「えっ、あ、はい」

 なぜ僕の名前を知っているんだ。殺す前にそこまでリサーチを入れたとは、相当ずる賢い男たちに違いない。

「筋肉の量はそれほどではないが、なあに、心配することはない」

 体操で鍛えたとはいえ、こんなゴリラみたいな男たちを相手にすることはできない。僕は戦わずして死するわけか。なんとも不覚な最期だ。

「さあ、アームレスリング同好会へようこそ!いや、今日からは立派な部だ。ようこそ、アームレスリング部へ!」

「アームレスリング部?」

 意味が解らない。

「しらばっくれてんじゃねえぞ!」

 突然リーゼントが僕の胸ぐらを掴み、足が浮くほど持ち上げた。周りが何だ何だとざわめく。見ると既に人だかりができていた。

「落ち着け金太郎。すまんすまん。君がアームレスリング部へ推薦入学したのは知っているよ」

アームレスリング部?僕が推薦されたのは体操部のはずだ。これは一体どうなっているんだ。

 この時、僕はまだ宮脇が裏で仕込んだ事に気づいていなかった。

 元顧問の宮脇が僕の筋肉を活かすスポーツとして試行錯誤した結果がアームレスリングだった。実は宮脇はこの岸岡大学アームレスリング部の顧問をしている佐藤康孝という男の高校時代の同級生だった。そのツテで彼らは僕にサプライズのつもりでアームレスリングを用意したのであった。親には「明弘君のスポーツ人生を最大限に生かすため」と調子のいいことを言い、極めつけは「岸岡大学は国立で偏差値も高く、誰でも入れる大学ではない」ということだった。田舎育ちで大学も出ていない両親は「国立大学」という甘美な響きに目が眩んだらしい。

 そんな事情を露も知らない僕は、ボディビルダーのような男たちに引きずられるようにして部室の前に来た。僕は逃げ出したりしなかった。もし逃げ出そうものなら、この有無を言わさぬ雰囲気の男たちに後で本当に殺されてしまうかもしれないからだ。

「さあ、ここが俺たちの砦だ!」

 スポーツ刈りの男が指さしたのは、この大学に似つかわしくない薄汚い廃墟のような小屋だった。まるで映画に出てくるアメリカンマフィアの溜まり場のようだ。

「そ、そすか」

彼らは頷き合うと、僕を乱暴にその中へ引きずり込んだ。

部屋に入ると真っ先に鼻につく匂いが僕を襲った。インドのお香と趣味の悪い香水と整髪料が混ざったような匂いだ。いきなり明るい場所から薄暗がりに叩きこまれたために、まだ中の様子がわからない。

「どうだ?設備は抜群だぞ」

目が慣れてくると、確かにそこには、アームレスリング用の台が1台置いてあったが、その周りには一般家庭にあるようなソファやテレビが備え付けられていた。床には無造作にダンベルやバーベル、見たこともないような筋トレアイテムが転がっている。壁にはよく運動部の部室にあるような「一球入魂」とか「気合い」とかの習字はなく、代わりに上半身裸のアーノルド・シュワ○ツェネッガーのポスターがでかでかと貼ってあった。シュワちゃんは眩しい笑顔で僕を見つめている。明らかに不自然な光景だ。

「どうした?元気がないようだな。さあ、我が部員を紹介しよう」

僕を連れてきた四人の他は誰もいないようだった。それに顧問はまだ来ていないようだ。

「なんじゃい!」

 突然リーゼントに凄まれ、僕は飛び上がりそうになった。

「こらこら金太郎、一年をビビらせちゃダメだ」

 スポーツ刈りが金太郎というリーゼントを宥めた。

「ふん、別にそんなつもりは無かったんだが、まあいいや。俺の名前は南蛇井金太郎。紛らわしい名前だが悪気は無かったんだ。よろしくな!」

 ホントかどうか怪しいものである。

 金太郎の頭には、七十年代の不良宛らの見事なリーゼントが乗っかっていた。顔の彫りは深く、目が窪んでいることなどから、なかなか目付きが悪いという印象を受ける。筋肉はこの部員の中で最も発達していると言えるだろう。筋肉量が多い故に顔が小さく見えるほどだ。

「よろしくお願いします」僕は戸惑いながらも金太郎に頭を下げた。金太郎は「ふむ」と満更でもない表情だ。

「副部長の百目鬼力だ。今後ともよろしく」

 この男は電車で遭遇した大巨漢だ。アームレスリングというより相撲に向いていそうだ。体と名前の割によく見ると穏やかそうな目をしている。

「平部員、左衛門三郎」

彼だけはなぜか和服を着ていた。背が高い分、筋肉が他の部員に比べて圧倒的に少なかった。だが目鼻立ちが整っている。そしてスタイルも抜群。そう、彼は俗に言うイケメンなのだ。それはそうと、なぜか腰には一本の刀のようなものを差している。映画か何かの撮影から抜け出してきたのだろうか。

「そして俺が部長の無敵毅だ。毅という漢字は犬飼毅と同じ字を書くから覚えやすいだろう。よろしくな」

 彼が最初に声を掛けてきたスポーツ刈りの男だ。彼は金太郎と並ぶくらい筋肉があった。まだ一番面倒見がよさそうで、情に厚そうな雰囲気を醸し出している。だが歴史が苦手な僕には犬飼毅という人が誰なのか全く分からなかった。さしずめ僕は勉強全部が苦手なのだが・・・。

 僕も自己紹介をし、一人一人と握手をした。ただ、左衛門三郎と握手をしたとき何か静電気でも走ったような気がした。それに異様に冷たかった。

「皆さん変わったお名前ですね」

 僕がそう言うと、全員が心底嬉しそうな顔をした。きっとそれが売りなのだろう。

「さあ諸君。今日は初日だから、恒例の下克上大会を執り行うぞ」部長の毅がそう言うと、拍手喝采が沸き起こった。

「あれ、部員はこれだけですか」

「そうだが何か」

「入部したのは僕だけなんですか。てか、そもそも僕は入部したんですか」

 全員が訝しげに顔を見合わせた。

「何言ってんだ。君は推薦でこのアームレスリング部に入部したんだ。我が部は望めば誰でも入れるわけじゃない。選ばれし者がここに集うのだ」

選ばれし者?顧問に選ばれたということか?

「さあ武田、まずは俺が相手だ」

金太郎は指をポキポキ鳴らし、アームレスリング用の台に手を置いた。その腕は普通の人間の首ほどはあろうかという太さだった。

「さあ来い!」

彼はどすの利いた声でそう言った。他の部員に比べて肝が据わった雰囲気だ。きっと数々の修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。

「ここが俺たちのフィールド兼リングだ。もんくあっか!アァ?」

「あ、ありません!」

僕もリングに肘を置いた。金太郎が僕の顔をじっと見て、それから手をぐっと握った。

「いたたたっ」

だが僕も懇親の力で握り返した。握力は体操で鍛え、自信がある。

「ほほう。面白い」

「では、レディ・ゴー」

毅の掛け声で僕たちはアームレスリングを開始した。アームレスリングは最初が肝心。僕は毅の掛け声と同時に力を込めた。と思ったら金太郎に腕をひねられ、一気に叩き落された。

「いたっ!」

「うひひ。今のはフックだ。アームレスリングの基本動作」

金太郎は僕から手を放し、近くにあった液体を一気に喉へ流し込んだ。

「先輩、それは?」

「ああ?これか。炭酸。飲むか」

「いえ。結構です」

それはまさに純粋な炭酸水だった。なにが美味しいのやら。

「次はあしが相手だ」

次は副部長の百目鬼だ。彼はこの部員の中で一番体が大きかった。縦にもデカいが横にもデカい。幅は僕の倍以上はある。

 僕は休む間もなく百目鬼の相手をさせられた。彼の戦法は独特だった。金太郎は筋肉で僕を潰しにかかったが、百目鬼は自分の体重を一気に右腕の一点にかけるやり方だった。そして僕はあっけなく百目鬼の体重に負け敗退。腕の重さだけでもかなりのものだろう。

「次は俺が相手だ」

立て続けに左衛門三郎が仕掛けてきた。彼の体型はスマートで、どう見てもマッチョではない。この試合は貰ったと確信した。

それにしても、なぜ彼は他の部員がTシャツやタンクトップを着ているのに和服なのだろうか。それにあの刀は一体何だ?

「左衛門先輩、それ本物ですか」

左衛門三郎は僕をきつく睨んだ。まさに獲物を狩るの獣の目だ。他の部員たちは「あちゃ~」といった感じで僕を見ている。

「左衛門三郎。これは苗字だ」

えっ、それ苗字だったのかよ。

「今度は間違えるなよ」

「は、はい。じゃあ下の名前は何というんですか」

「この際だから教えてやろう。俺は左衛門三郎武志だ」

「さ、左衛門三郎武志、さんですか」

「そうだ。これからは仲間なのだから、武志と呼び捨ててくれて結構だ」

「武志、ですか・・・」

「ああそうだ。俺は上下関係が一番嫌いだ。他の連中も呼び捨てかあだ名で呼んでいいぞ。それにこの金太郎は明弘、お前と同じ一回生だ」

 武志は金太郎を指さした。金太郎は決まり悪そうな顔をして武志を睨んだ。

「悪かったな。俺はアホだから留年したんだよ。何か文句あっかァ!」

 確かにこのリーゼント頭の金太郎が、この名門、岸岡大学で進級するのはかなり難しいだろう。

「いや、でも・・・」

「気を遣うことはない。アメリカでは呼び捨てにするだろ?ヴィクトリア!ジョンソン!ティファニー!」

和服を着た人にそんなことを言われてもなあ・・・。

ここの部員は金太郎を除く全員が二回生だった。その中でも武志は他の部員から一目置かれている存在だった。他の部員は武志を怒らせてはまずいと、あだ名で呼ぶことを簡単に承知した。案の定、僕はここの文化に慣れるために、他の部員が呼び合っている呼び名を引用することとなった。

「うわっ、やっべえぞ!」いきなり金太郎が叫んだ。

「どうした!」

「もう十二時じゃねえか!呑気に会話してる場合じゃねえ!みんな飯行くぞ!」金太郎はドアへ走り出した。

「あっ・・・」

 僕は財布に電車賃しか入れていないことを思い出した。入学式が終わったらそのまま帰ろうと思っていたからだ。それを察した毅が僕の肩に手を回した。

「明弘、心配はいらんぞ。今日は特別に俺が奢ってやる」

「いいんですか。つ、毅」

 僕は馴れない呼び名に困惑しつつも、彼の温情をありがたく思った。

「おうよ。今日から俺たちは仲間なんだからな。遠慮することないぜ、敬語もなしだ」

 毅は僕に親指を突き立てた。僕は彼の心の広さに感銘を受けたのであった。

「わーい。毅がラーメン奢ってくれるとよ」すると僕たちの様子を見ていた百目鬼が目を輝かせた。

「いや、待てフトシ」

 毅が言った「フトシ」というのは言うまでもなく百目鬼のことである。百目鬼のその体型からこのあだ名がついたのだが、意外と本人は気にする様子もなく、逆に気に入っているようだった。

「うひゃひゃひゃ」フトシは不気味に肩を揺すって笑った。

「四人分奢るなんて俺の一週間分の飯代に値する。フトシ、この前奢ってやった時なんか店の食材が尽きるまで食べ続けたじゃないか」

するとフトシは急に無表情になり、無言で毅を見下ろした。無敵という名前でも必ずしも無敵ではないのだ。毅はフトシの無言の圧力に負け、肩をがっくりと落とした。

「お前ら、さあ行くぞ」

恒例の下克上大会の途中であるにも関わらず、金太郎は颯爽と部室を出て行ってしまった。

 

     ラーメン屋「魚人」

 

 ラーメン屋魚人は大学の学食ではなく、大学の外にある小さなラーメン屋だった。彼らはカウンターでラーメンを啜りながら、毅の財布をチェックしていた。

「なんだ、金がないと言うわりには結構持ってんじゃんかよ」

「これでも一食四百円内で抑えてるんだぞ」

「じゃあ、この五千円札はなにかなぁ?」金太郎は財布から抜き出した五千円札を毅の顔の前でひらひらさせた。

「お前鬼か。それはデート用だよ。デート用」

「ふん、なにがデート用だ。嘘つきやがって。これはお前の合コン用だ!知ってんだぞ」

「デートでも合コンでも似たようなものだろ。おい、まさかその金も使おうってんじゃないだろうな!」

「さあ、どうするフトシ?」

フトシは三杯目の大盛りラーメンをスープまで流し込んだところだった。

「おお、あしは餃子をもっと食べたいかな。それと、豚骨ラーメンの大盛り!」

「あいよ、餃子一人前に大盛り豚骨!」

カウンター席だったため、店の主人は注文を取った。

「大さん、チャーシューおまけしてね」フトシはそう言って手を擦り合わせた。

「分かってるよ、坊ちゃん」

実はフトシの父親は、大手貿易会社の社長だったのだ。そこで輸入した肉を安い値段で、大学時代の後輩だった大さんこと大西大輔の店に入れていたのだ。大西はそれを恩に着て、息子であるフトシにチャーシューや麺をおまけしてくれるのだ。もちろん、フトシが連れてくる友だちにも。

「これでざっと六千円だ」

「武志、お前まだいけるよな」

「いや、俺はもう結構だ」

「なんだよ。じゃあ明弘、お前は余裕だな」

フトシがニヤニヤしながら聞いてきた。

「いえ、毅の金が心配だから」

「いいよいいよ。どうせ家に帰ったらもうちょこっとあるんだし。遠慮すんなって」

毅はフトシをじっと見つめた。彼はまだ水しか口にしていなかった。

「なあフトシ、勘弁してくれよ。家に帰ってもそんなにないんだ」

「そうなのか」

「ああ」

「そうか。まあ、水道代くらいは残しておいてやるぜ」

 こうして彼らは、毅から搾れるだけ搾り取ったのだった。

 

     アームレスリング部顧問佐藤康孝

 

 僕らはその後部室へ戻り、下克上大会の続きを始めた。

「明弘、手加減はなしだ」

「はい、武志先輩」

「先輩はなしだ。武志でいい。他の連中もだ」

「はい、武志」

武志はその細い腕で僕の逞しい手を握った。彼の手はひんやり冷たく、生き物の手には思えないほどだった。

「それでは、レディ・ゴー」

僕が力を込めようとした瞬間、魔法にでもかかったように力が入らなくなった。気が付いたとき、僕の右手はがっちりと押さえつけられていた。

「え・・・」

「どうだ、明弘」

「武志、今のは」

横から毅が声を掛けてきた。「どうだ明弘。今のは武志の必殺技だ」

「・・・そ、そんな」

「武志の手には特別な能力が備わっている」

「・・・そ、そんな」

「明弘、君も体感しただろう。腕の力を武志の手に吸い込まれてしまうんだ」

確かに僕には力が抜けていく感覚があった。だがそれが能力だなんて信じられない。

「毅、一年を脅すのはやめてやれ。俺のは生まれ持っての体質だ」

「・・・生まれ持っての体質」

「ああ。俺が握ると、人はみんな力が抜けてしまうんだ。だからアームレスリングだけじゃなく、女もイチコロってわけさ」

 僕は、今朝この男がコンビニで大量のコンドームを買っている姿を思い出し、途端に怖くなった。

武志はぬるりとリングから去った。すかさず毅がリングに来た。

「無敵毅、俺の部長としての真の実力を見せてやろう!」彼は体を大きく前のめりにした。

僕も一人くらいには勝たないと。でも、この人名前からして強そうだ。

「ちょっと金太郎、合図を頼む」

「ん?ああ。よいドン」金太郎の合図はいきなりだった。

よいドンってなんだよ!

案の定、僕が力を込める前にやられた。こういう作戦だったのかもしれない。毅は立ち上がり掛け声をかけた。

「以上で終了!お疲れっしたあっ!」

その時、部室のドアが勢いよく開いた。

「アームレスリング部顧問。佐藤康孝、ここに見参!」

その人は革ジャンをがばっと脱ぎ捨てた。彼はヤンキーというよりも本物のマフィアに見えた。頭はスキンヘッドで浅黒い肌。黒のタンクトップから出た右腕には『LOVEandPEACE』の文字が。左腕には黒いハートマークから鳥の翼が出ているイラストが刻まれている。ズボンは骸骨のイラストが入っているデニム。手には指だけが出る革手袋を着用しているし、首や手首にはじゃらじゃらしたシルバーアクセサリーがあった。

「来てくれたんですね!」毅が佐藤康孝なる男へと歩み寄る。まるで子分だ。

「もちろんだ。新入部員が来たら必然的に下克上大会が執り行われるからな。このわしを除いて下克上大会は成立しない!」

「はい!もちろんです!」

毅、どこまで現金なんだ!

「どっこいしょ」佐藤はリングに腕を置いた。腕にはたくさんの古傷があって、過去の闘いの凄まじさを物語っているようだった。僕も再びリングに手を置いた。

「君か」

「は、はい。武田明弘です」

「うむ。知っている。わしが君をこの大学に入れたのだからな」

「その節はありがとうございます」

「まあいいまあいい。さあ、試合開始といこうじゃないか。わしの手は闘いを前にすると疼くんだ。血沸き肉躍る、というやつか」

佐藤は豪快に笑うと、僕の手をぐっと掴んだ。

「それでは、レディ・ゴー!」

次の瞬間、佐藤の顔は一気に真っ赤になった。腕に力が入っている。目が闘志で漲っている。だが僕も負けてはいなかった。佐藤の手を思い切りぐいぐい押していった。佐藤も反撃体勢になり、腕に一層力を込めた。だが僕もだてに体操部の部長として、数々の功績を残してきたわけではない。佐藤の腕をへし折るつもりで右腕に懇親の力を込めた。佐藤の手の甲が下へ下へと押されていく。

 そしてついに僕は勝った。

「やった!勝った!勝ちましたよ!」僕は嬉しさの余りガッツポーズをした。だが佐藤はさっきまで熱くなっていたにも関わらず、冷ややかな目で僕を見ていた。

「武田君、この程度で喜んではいかん」

「へ?」

「この部に入った者はみんなわしに勝っている。つまり、これはテストというものだ」

「へぇ」

「いいかい武田君、君はわしに勝って当然なのだ。そこのとこを誤解してもらっちゃあ困るよ」

「はあ」

その後、佐藤は何かぶつぶつ言いながら部室を出ていった。

「あ、ありがとうございました。先生」

佐藤はがっくりと肩を落としたまま去っていった。振り返ると、武志がこちらを見ていた。

「彼も例外ではないぞ」

「何がです?」

「彼は部室に入ったとき『佐藤康孝、ここに見参!』と言っただろう」

「はい」

「あれは自分の名前をアピールすることによって、君に名前もしくはあだ名で呼んでほしかったのだ」

「え、そうだったんすか」

「そうだ。俺たちは彼のことを『康孝お兄さん』と呼んでいる」

「えっ」

武志が余りにも真剣に言うので僕は耳を疑った。

康孝お兄さん?まるで体操のお兄さんみたいじゃないか。そんなことをこのヤンキー集団のみんなが言っているのか?もし恥ずかしがって逆らったりしたら、さっきの毅みたいに、どんな折檻を受けるかわからない・・・。

 その時、佐藤改め康孝お兄さんが照れくさそうに部室に戻ってきた。

「ちょっと上着忘れた」

僕はすぐそばにあった革ジャンを拾い上げた。

「康孝お兄さん、どうぞ」

「ん?あ、ありがとう」

彼は変な顔をしてジャケットを受け取ると、そそくさと部室を後にした。

僕が後ろを振り返ると、部員四人が笑いを堪えてこちらを見ていた。

「え、どうかしたの」

四人は一斉に笑い出した。腹を抱えて笑ったり、床をべしべし叩いて笑ったり、転げまわって笑ったり・・・。部室は大爆笑の渦に包まれていた。ただ、僕だけがはめられたという屈辱を噛み締めていた。

 

     朽ちてゆくのか、我がキャンパスライフ・・・

 

 僕が家に着いた時は既に夜だった。家といっても実家は大分なので、ここ東京からは今となっては遠すぎる。だから前にも述べたようにボロアパートを借りて下宿しているのだ。

新入生歓迎会と称して、僕は部室で先輩たちに嫌というほど腕立て伏せをさせられた。僕は今日だけで腕立て伏せを三百回もさせられた。部長の毅は「俺の腕立ては世界一だで、よう見とけ!」と言って、僕に見たくもない腕立て伏せを見せてくれた。

 やっと長い一日が終わったと、部屋の腐りかけたドアを開けると、そこにはアームレスリング部の部員と顧問の康孝お兄さん(僕を笑い飛ばした後、みんなは佐藤をこう呼ぶことにした)がいた。

「え、何で・・・」僕の体は恐怖に戦慄いていた。

「何でじゃない。ほら、明弘にこれを持ってきたんだ」

康孝お兄さんは得意げにそれを振ってみせた。見るとそれはビンに入った透明のジェル体だった。

「ていうか、なんでみんなここにいるんですか。ここ、僕のアパートだし」

「違うぞ。ここはわしらのアパートでもあるんだ」康孝お兄さんはやたらニヤニヤしながら言った。

「まさか、ここに住んでるんですか」

「そうだ。わしらは一つ屋根の下で共に生活を送る、いわば家族みたいなものだ」

「こんな偶然があるなんて・・・」

「偶然じゃないぞ。明弘がここに来ることは、わしが君をスカウトした時から決まっていた」

「えっ」

僕はこの佐藤ハイツ紹介してくれたのが、高校時代の恩師、宮脇だということを思い出した。

やけに親切だと思ったらそういうことだったのか。それにしても、あの宮脇先生がよくこんな面倒なことをしたもんだ。

「これを使ったのさ」康孝お兄さんは右手の親指と人差し指を合わせた。俗に言う「カネのポーズ」だ。

「そ、そんな・・・」

「どやっ、まいったか。これからは筋トレ漬けやで。うひひひひ」

部員たちはニヤニヤしながら僕を見ていた。僕は絶望で立ち眩みを起こしそうになった。

「ここにみんなで来たのは他でもない。君にプレゼントがあるからだよ」

「ああ、さっき何か言ってましたね」僕はどうにか気を持ち直した。

「ささ、これを授けよう」康孝お兄さんが恭しく僕に手渡したのは、まさにローションだった。綺麗な小瓶に入っていて意味もなくピンクのリボンが結ばれている。が、なぜか誰かが少し使った形跡があった。

「そう、それはローションだ。知ってのとおりボディビルダーたちがこれをつけて、筋肉を美しく見せるための道具なのだよ」

 もちろん本来の使用目的ではない。

「で、これを使えと?」

「そうだ。明日これを使って写真撮影を行う。ほら、駅の近くに写真館があっただろ」

「写真館で行うんですか」

「そうだ。これで君は美しくなれる。ザ・ビューティ・ボディ!」

 康孝お兄さんはわざとらしく親指を突き出した。しかも英語のところだけ無駄に発音がいい。

ふと見ると部員たちが楽しそうにローションを顔に塗りあっていた。

「どうだ?このてかり具合。美しいだろ?」

僕は何と言っていいのかわからなかった。ローションを顔に塗った部員たちは「おほほほほ」と、各々手鏡を見てうっとりしていた。どう考えてもこの部員たちはナルシスト集団なのだ。

「そうだ明弘、写真撮影はこれを履いて写ってもらう」

康孝お兄さんが手渡したそれは、逆三角形の黒い海パンだった。

「これもわしからのプレゼントだ。大切に使ってくれ。ボディビルダーのユニフォームだからな」

僕は視界が真っ暗になった。突然の環境の変化が余りにも異常だったからだ。みんなが僕を呼んでいたが、僕の意識は闇の中へ引きずり込まれていった。

 

     康孝お兄さんの砦

 

次の朝起きると、僕の部屋で部員たちと康孝お兄さんが重なり合うようにして寝ていた。

「ぬぁんじゃこりゃぁぁぁ!」

やつらが視界に入るや否や、僕は即座に全員を叩き起こした。みんなはぶつぶつ言いながらもなんとか部屋を後にしてくれた。彼らが去った後の部屋はまさに惨状だった。ビール瓶が五、六本転がっていて、畳の床や壁じゅうにローションがべったりついている。その時、僕はみんなが重なり合っていた場所に一枚の紙切れがあるのを見つけた。

 拾い上げてみると、物凄く汚い字で何やら文章のようなものが記されていた。もはや日本語なのかアラビア語なのかもわからない。

「読めねえよ!」

僕は怒りに身をゆだね、部屋の壁を殴りつけた。すると隣の部屋から「静かにしろよ~」とやる気のない声がした。どうやら隣は武志の部屋らしい。仕方なく僕はこの文字の解析を行った。目を凝らすと、文章の内容が辛うじてわかった。十時に康孝お兄さんの部屋に行けばいいのだ。それまで僕は部屋の片付けをすることにした。

言っておくが僕はさしてきれい好きな方ではない。しかしここまで汚いと感染症を引き起こす恐れがある。僕はとりあえず雑巾を濡らして、床と壁をきれいにし始めた。

 結局僕は二時間以上も部屋の掃除に時間を割かれた。

 その後、怒りを覚えながらも康孝お兄さんの部屋に行った。一階の康孝お兄さんの部屋のドアは、他の部屋と異なり重厚な作りをしていた。表札には「佐藤☆康孝」と書かれている。ドアをノックすると「お~い」という声がした。入れという意味なのだろうか。僕は恐る恐る豪華なドアを開けて入った。

ドアと同じく、中も豪華な作りになっていた。僕は恐る恐る靴を脱いで部屋に上がった。

「おう明弘、遅いじゃないか」康孝お兄さんは両手を広げながら、僕をリビングに招き入れた。

「すみません。部屋の掃除をしていたもんで」皮肉を込めたつもりだったが、康孝お兄さんは動じなかった。

「さてと。んじゃ、ミーティングを始めるぞ」

だがこの部屋には、僕と康孝お兄さんの他は誰もいなかった。

「え、全員揃ってませんけど」

「全員が揃う必要はない。写真撮影はお前だけだからな。手紙にもそう書いたはずだぞ?」

僕だけがあられもない姿をさらすというのか。とほほ・・・。

「どうだ。ここがわしの部屋だ」

 ソファがあるというのに僕らはまだ立った状態だ。どうやら部屋の中をちゃんと見せたいらしい。

「ずいぶんと豪華な作りですね」

部屋のいたるところにトロフィーや賞状、写真などが飾ってあった。壁にはアーノルド・シュワ○ツェネッガーのポスターがでかでかと貼ってあった。部室にあるのと同じやつだ。部員がふざけて持ち込んだのだと思っていたが、どうやら顧問の仕業だったようだ。

「8LDKだ」

「は、8LDK?何でそんなに大きいんですか!僕の部屋はたったの四畳半なのに!」

「悪かったな。わしはここの大家だ」

「ええ!でも僕が挨拶した大家さんは、かなりきれいな女の人でしたよ」

 康孝お兄さんは照れ臭そうに笑った。「それはうちの嫁だ」

「ええ!」

僕がここに来たときに、アパートの前で掃除をしていたあのきれいな女の人が大家だったはずなのに・・・。なんであの人はよりによってこんな康孝お兄さんなんかと結婚してしまったんだ・・・。

「そんなに驚くことはないだろう」

「ていうか、康孝お兄さん結婚してたんですね」

「その康孝お兄さんってのは何なんだ?」

「武志が決めたんです」めんどくさくなった僕は平然と答えた。

「あいつが?まあ変なところがあるやつだからな」

「嫌ですか」

「嫌じゃないが、何だか照れるな」

 康孝お兄さんは体を不自然にくねらせた。マフィアのボスのような外見の中年がするようなこととは思えない。明らかに不自然だ。

「ところで、ミーティングというのは?」

「うむ、わしの部屋を見せたかっただけだよ。見てくれよ、このトロフィーの数々。現役時代に取ったものなんだ」

「アームレスリングのですか」

「それもあるが、ほとんどはボディ・ビルディングのだ」

「そ、そすか」僕は面食らった。厳ついボディビルダーだな・・・。

「特別にわしの黄金記録を聞かせてやろう」

 別に聞きたくなどない。

ゆっくりと彼はソファに腰を下ろした。仕方なく、僕も向かい合う席に座った。

「思い出すぜ、あの突っ走った激動の十年間を。俺は――」

突然彼は「わし」ではなく「俺」という言葉を使い出した。きっと、昔を思い出しているのだろう。

「俺は、十九歳でボディ・ビルディングに目覚めた。まあ、俺がこの筋肉を生かさないのは、大トロを捨てちまうようなもんだからな」

 僕は曖昧に相槌を打った。

「それから、札幌ジャイアント・ボディ・ビルディング協会に入会した。そこで俺は人生の恩師に出会った。ハロルド・デイビス先生だ。あのハロルド・デイビス先生だぞ?彼は世界中のボディ・ビルディングの大会を総なめにしていた。俺は彼に鍛えられて、本当の筋肉を手に入れた。そして、大会の凄まじい争いの中で、俺は十年連続で北海道・東北大会を優勝してきた。だが、十年目にハロルド・デイビス先生が心筋梗塞で倒れた。俺は先生のために、どうしても、どうしても全国優勝したかった。そして、とうとう全国大会の決勝に残った。周りには筋肉隆々の男たち。だが俺は負けなかった。俺は先生のために全国優勝したんだ。でも俺が全国優勝したその夜、先生は息を引き取られた」

康孝お兄さんはここで一旦話しをやめた。

「大変な十年だったんですね」

「ああ。だが俺は優勝できた。それだけでよかった。だがその時俺は三十五だった。俺はそこで引退を決意した。その時俺は大学の体育教師になると決めた。俺の意思を誰かに受け継いでほしいと思ったんだ。でも大学教師になるのは苦労の連続だったよ。だがな、挫けそうになった俺を支えてくれたのは、過去の自分と、亡くなったハロルド・デイビス先生だった。そして遂に俺は大学の教師になれたんだ。人生諦めなければいつか叶うもんだな。俺の場合十年かかったが、それでもこの岸岡大学の体育教師になれた。それからこのアームレスリング部を受け持った。一代目が君の先輩たちだよ。彼らがこの部を作った時のことはよく覚えている。みんなヤンキーなやつらだったよ」

 康孝お兄さんは天井を見上げ「ふぅ」と息を漏らした。だが一番ヤンキーなのはどう見ても彼自身だ。

「部員数がギリギリでなぁ。同好会からのスタートだった。一番手を焼いたのはやっぱり金太郎だったな。あいつは元々ボクシング部の推薦でこの大学に来たんだが、どういう訳かアームレスリング部にいついちまったんだ。最初は暴れるわ物を壊すわで、大変な問題児だったんだが、他の部員の支えがあって今のように落ち着いているんだ」

 僕の背筋に悪寒が走った。やはり相当デンジャラスな人だったのだ。僕はそのことを追及しようとしたが、口から出てきたのは違う質問だった。

「じゃあ、下克上大会って恒例でも何でもないんじゃないですか」

「まあそうだな。きっとあいつらが調子に乗ってそう言ったんだろう。何も不自然なことではない」

 常識で考えると明らかに不自然なことだ。

「ところであんな若い奥さんといつ知り合われたんですか」

「ふっふっふ。あれは去年の十二月」

「ええ!最近じゃないですか」

「うん。彼女は俺の筋肉の惚れたー。そーして、俺の人柄の惚れたんだー。俺は彼女の全てに惚れたー」

康孝お兄さんは遠くを見るようにして、やたらと語尾を延ばして喋った。その時、部屋のドアが開いて、一人のうら若き女性が入ってきた。

「あら、お客さん?」

 まさに例の奥さんだった。年齢は三十歳前後ぐらいだろう。花柄のワンピースが似合うコンサバ系若奥様だ。

「ハニー、このセニョールにお茶菓子を出してあげてくれないか。ベイベー」

「もちろんよ。ダーリン」

うぐっ。なんとくさい新婚なのだ。早くここから脱出せねば!

「あのう、僕大学の講義に行かないと・・・」

「ん?今日は休みだが」

「えっ!あ、じゃ、あの、友達と約束があるんで」

「明弘、どうしたんだい?気を遣うことはない。ははあ、わしの新妻に見とれておるんだな」

「え、そんな」

「きゃ、あなた」

奥さんが康孝お兄さんのつるつる頭をベシベシ叩いた。その後、奥さんは照れ笑いを浮かべながらキッチンへと向かった。その時既に、僕は康孝お兄さんに腕をがっちり掴まれていた。

「写真撮影の時まで逃がさんぞ」 

「ひいいいぃぃぃ!」

 結局、僕はずっとこの居心地の悪い家で過ごすことになった。

 

     地獄の写真撮影

 

 僕が居心地の悪い愛の巣から出られたのは午後四時すぎだった。あれから約六時間、僕は延々と康孝お兄さんの餌食にされていたのだ。そしてこれからあの写真撮影が行われるのだ。

「明弘、ローションとユニフォームはちゃんと持ってきているか」

「はい」僕はカバンを軽く叩いてみせた。ユニフォームとは例の逆三角形の海パンのことだ。

「では、心して向かえ」

それから僕らは、終始無言で写真館へ向かった。写真館には『スタジオ・ゴルゴン』という看板がでかでかと掲げてあった。

厳つい名前だな・・・。

店に入り、康孝お兄さんは店員と話を付け始めた。彼は専用のポイントカードを持っていた。そして彼は僕を呼びこう言った。

「ポイントが貯まったから君はタダだ。よかったな」

ポイントが貯まるほどここで写真を撮ったのか。僕は気が遠くなった。

「さあ、着替えてきなさい」

僕は店員に案内され、専用の更衣室で着替えた。スタジオは店の一角にあったため、店員や客が僕を見ることができる。案の定、ビルパン(正式名称ボディビルパンツ)とローションをつけた僕のことを、OLや親子連れが物凄い形相でじっと見ていた。そしてあろうことか店員までも・・・。僕は目が合うたびに愛想笑いを浮かべたが、向こうは薄笑いを浮かべた。

こんな状況で大学の人に会えば、僕は知り合う前から変なレッテルを張られてしまう!

「さあ、そこに立って」

「あ、はい」

僕はライトで照らされたスタジオに立った。ローションがやたらテカテカしているのが気になる。康孝お兄さんは無表情で僕を見ていた。だがよく見ると微かに口元が綻んでいる。

カメラマンが僕を撮ろうと、ピント調節を始めた瞬間だった。こともあろうか店内にお馴染みの四人が堂々と入ってきたのだ。そして後ろからは見慣れぬ美女がそれに続いて入ってきた。

あいつら、呪ってやるぅ!

「やあ明弘」

彼らはさも当たり前のように僕の前にやって来た。僕は驚愕に目を見開いた。部員たちが自分を見に来たから、ということもあったが、僕が驚いた一番の理由はその視線の先にあった。

毅がその美人と手を繋いでいたのだ!

「そ、そそそそ、そんな・・・」

 そう。他の部員はともかくとしても、部長である毅はデート感覚で僕の処刑場へのこのことやってきたのだ。

「びっくりしたか。そうだ。彼女は俺の彼女。わっはっは!」

毅は得意そうに彼女の肩に手を置いた。実際に「わっはっは」と笑う人間を見たのは人生初だった。

「はじめまして。吉田梨花です」

 彼女は照れくさそうに会釈した。はにかんだ表情も様になる。ネイビーのペンシルスカートに白のブラウスというシンプルながらも清楚な服装。癖のない髪は明るい栗色のセミロング。こんなにきれいな人は大分にはいなかった。さすが東京。さすが青山。きっと育ちもいいのだろう。どこかの社長令嬢といったところか。なんでよりによって毅なんかと……

「は、はは、はじめまして。て、てて、てか、な、ななな、何で」

「お前の勇姿を見に来たんだろうが。で、そこで俺の彼女を紹介しに来たわけ」

無表情だった康孝お兄さんが突然話しに加わった。

「毅ぃ、お前彼女いたんだな」

「はい!この前の合コンでゲットしたっす。俺の熱いアプローチが梨花ちゃんに届いたんですよ!ね?ね?梨花ちゃん」

吉田梨花は少し顔を赤らめた。

「んもう。合コンじゃないでしょ。入学説明会の後に声かけて半ば無理やりのお食事じゃないの」

要はナンパじゃないか。入学説明会なんてほんの二、三日前だぞ。(ちなみに僕は参加していない。)

「で、何で来たんすか」

「え?だからお前の勇姿を」

「じゃなくて!何で彼女を連れてきたんすか」

「ああ~。羨ましいんだな。大丈夫だ!お前もきっとそのうち」

僕は目眩がした。

吉田は物珍し気にこちらを見つめている。この格好が明らかに不自然だからだろう。本当にもうやめてほしかった。というかやめたかった。

その時康孝お兄さんが、「せっかくだからみんなで写るか」と言いだした。部員たちは「そうだな」とか「せっかくだしな」とか言って写真に写ることを快諾した。もちろん僕以外の部員はビルパンを持ってきていなかったので、私服(武志に限っては和服)での撮影となった。

僕の周りでみんなはプリクラ感覚でポーズを取り出した。僕に至ってはそんな先輩たちを痛ましげに見つめるばかりである。康孝お兄さんは「こんなこともあろうかと」と、その場で服を脱ぎだした。吉田は慌てて目を隠した。

「安心しろ。ビルパンは装着済みだ!」

康孝お兄さんが装着していたのはビルパンだけではなかった。

「康孝お兄さん、それは!」

「これか?これはなぁ、チャンピオンベルトだあっ!」

まさしくそれはチャンピオンベルトだった。プロレスやボクシングで優勝した者だけが腰に巻けるそれだ。康孝お兄さんはスタジオにずかずか入ってきて僕と肩を組んだ。

「このチャンピオンベルトは最後の全国大会で優勝したときのものだ」

「お、おお!これが」

 見事なベルトだった。ゴールドに赤のエンブレム。康孝お兄さん自身もさすがに全国優勝しただけのことはある。日焼けした浅黒い肌に見事に隆起した筋肉。四十五歳にして全く衰えていない。

ぼーっとしていたカメラマンが、ふと我にかえったように撮影の合図をした。

「あれ、梨花ちゃんも一緒に写ろうよ」

毅が吉田を呼んだ。彼女はきっぱりと否定したが、せっかくだから、という毅の熱いアプローチに負けて撮影を許した。彼女は僕たちから少し離れたところに立った。

「お姉さん、もうちょっとつめて頂けますか」

「は、はいっ」

吉田は慎重に僕たちとの間をつめてきた。その時「吉田梨花さんだったね。アームレスリング部のマネージャーをやらないか」と康孝お兄さんが色っぽい声で言った。彼女は引きつった笑みを浮かべた。

「一枚目撮りまーす」

パシャ。

吉田はその瞬間笑顔を作ったが、この笑顔が心からではないというのは言うまでもない。

 カメラマンは次々と無遠慮に写真を撮っていった。

 

撮影が終わったとき、僕は精神的にボロボロだった。先輩たちに裏切られたことによる小さな憤怒を抱きはしたが、わざわざ講義する気持ちは起きなかった。

外に出ると、西の空に桃色の雲がたなびいていた。僕たちはそのままアパートに向かった。みんながみんな同じ方向に帰るというのは、田舎育ちの僕にしてみればかなり新鮮ではあったが、さして喜ばしいことでないというのは言うまでもない。

そんな中、吉田は自分の高級マンションに戻っていった。やはり彼女は大財閥の重役の娘で、金にはまったく困っていないという。康孝お兄さんに目をつけられたようだが、果たして大丈夫なのだろうか。

 

     金太郎の夢

 

 僕は部屋に戻り、買い置きしておいたコンビニ弁当を食べようと壊れかけの冷蔵庫を開けた。すると廊下をドタドタと走り回る音がしたかと思うと、僕の部屋の前で止まった。と、ノックもなしに誰かが入ってきた。

「よほう、明弘。今夜のディナーは何だ?」

金太郎だった。

金太郎は僕がいるちゃぶ台の前にどっかりと腰を下ろした。

断っておくが、僕が部屋の鍵を閉め忘れたわけではない。そもそも僕の部屋には鍵など最初からついていなかったのだ。防犯もプライバシーあったもんじゃない。

 と、金太郎は僕の手にあるものを見てブチギレた。

「コラァ明弘ォ!ぬんだこりゃあ!コンビニ弁当じゃねえか!こんなもん食う気か!しかも大量にストックしやがってぇ!」

 金太郎は某熱血野球マンガの父親ようにちゃぶ台をひっくり返した。何も置いてなかったのがせめてもの救いだ。僕は金太郎に本気でキレられてもう既に半泣きだった。しかし、このままでは悔しいので正義を盾に勇気を振り絞り反撃に出た。

「何なんすか!安売りしてたから買ったんすよ。コンビニ弁当じゃダメですか!」

……ダメですかってか。おい!新入部員とはいえお前も一介のアームレスリング部員だろ。もっと自覚を持ったらどうなんだ!」

「自覚、ですか」

「そうだ。コンビニ弁当は成長期の敵だぞ。コンビニ弁当にはな、防腐剤つって食い物を腐らせないようにする薬が入ってやがんだ。その薬が何だか知ってっか?」

「な、何ですか」

「ホルマリンだよ、ホルマリン。理科室のカエルだのヘビだのゴキちゃんだのを沈めてるあれだよ。その薬は人間にも作用して、ずっとコンビニ弁当しか食わなかった人間は、死んでからしばらく腐らなかったんだってよ」金太郎はニヤリと笑った。

「だからもっと低カロリーでタンパク質豊富なものを選んで食べろ。あ、野菜も食え。お勧めはピーマンだ」

 ピーマンと聞いて僕は元気になった。

「ピーマンですか。実は僕の実家がピーマン農家なんです」

「ほほう、それは奇遇だな。実は俺はイチゴ農家出身なんだ。今度遊びに来いよ。イチゴ食べ放題だぞ」

 ふっ、ヤンキーのくせして実家がイチゴ農家とは、意外と可愛いところがあるじゃないか。ふとそんなことを思ったが、当然そんなことを言えるはずもない。

「ありがとうございます!よかったらピーマン食べますか。昨日実家から大量に送られてきて、僕一人じゃ食べ切れそうもないんです」

「おお!そりゃいいな。俺は子供のときからピーマンが大好物なんだ」

僕はピーマンが大量に入ったダンボール箱を差し出した。金太郎はそれを見るなり、「美しい。親御さんのピーマンにかける情熱が伺える」と言ってひとつ掴み口に放り込んだ。

「な、生すか先輩」

「ん~、こりゃ美味い。明弘、お前幸せもんだなあ」

そう言って彼は涙を流しながらピーマンをがっついていた。と、突然何かを思い出したのか手を止めた。

「そうだ。俺のこと先輩って呼ぶのやめてもらえるか。他の奴らは下の名前で呼ばれてるってのに、俺だけ先輩だと何かやだ」

「確かにそうですね」

「でも、なんて呼ばれたらいいかな。俺は南蛇井金太郎だから……。金ちゃん、それだ!」

「金ちゃんですか。なるほど」

金太郎は大はしゃぎだった。

「ところで、どうして僕の部屋に来たんですか。ただ僕の夕ご飯を見に来たわけじゃないんでしょ」

「ああ。飯をチェックするついでに何か頂こうと思ってな。俺は貧乏学生だからな。なぜなら高校時代に暴力事件を起こして中退。それで、父親が怒って俺を勘当したからだ」

それから金ちゃんは聞いてもいないのに一人で勝手に喋りだした。

「途方に暮れた俺は、得意だったボクシングをすることにした。小さなステージで客の前で対戦するやつだ。名のある選手を倒せば、認めてもらえると思ったんだ。だが現実は甘くなかった。俺はボコボコにやられた。それから、金がなくなりホームレス生活が続いた。なんか、物凄く長かった気がする。丸一日何も食べられなかったときもあったし、情のないオバさんに罵られたりもした。ガンを飛ばしたらすっ飛んでったけどな。そしてある日、洗濯をしていたら大阪総合格闘技塾『黒魂塾』のお偉いさんに声を掛けられたのよ。あの時は上半身裸だったから、俺の筋肉を見たんだろう。俺は迷わずそこに行った。そこで俺は鍛え上げた。そこでは俺が希望したボクシングの大会にも出さしてもらった。俺はいい成績を出したんだ。黒魂塾はいろいろな競技に出場できるから、俺は片っ端から出場した。ある時、アームレスリングの大会にも出さしてもらった。俺は結構いい成績を出した。そして、全国大会でフトシと当たった。俺はフトシには勝てなかった。俺はショックで泣いた。屈辱的だった。だが俺は康孝お兄さんの目に止まったんだ。俺は恩のある黒魂塾のお偉いさんにそのことを報告した。すると、彼は笑顔で『それは自分で決めることだ。もし、今の君にとって我々が足かせになっているなら、遠慮することはない。君の幸せは、我々の幸せだ』って、俺の背中を押してくれたんだ。あの時は涙が出るほど嬉しかったぜ。そして、中卒の俺がこんな有名大学に入学できたって訳だ!」

金ちゃんは上を向いて目を瞬かせた(まさか、ピーマンが美味しいからではないだろう)。こんな金ち

ゃんに、これほどの過去があったとは・・・。

「でもな、それからフトシに勝てるように陰で努力した。そのお陰でフトシに勝てるようになった。今、俺が目の敵にしているのは武志だけだ。あんなヒョロヒョロに負けるのは、デブのフトシに負けるより遥かに悔しい。だから、俺はあいつに勝てるように訓練しているんだ」

僕は感動した。やんちゃだった金ちゃんが、実は努力家だったことに驚いた。人はどん底からでも希望を捨ててはならないということを彼に教えてもらったような気がした。

「そうだ。どうしてさっき勘当されたのに実家に遊びに来いと言ったんですか」

「ああ、もう勘当は撤回されたんだよ。俺が大学に入ったことを報告したら、自慢の息子よ!ってな」

 その後、金ちゃんはありったけのピーマンを食べてから、部屋を出て行った。

 

 それからしばらくして、僕はアパートからすぐの銭湯に向かった。

 

     銭湯で

 

 僕は浴槽のドアを開けた。どうやらアームレスリング部のみんなは来ていないようだ。今日こそゆっくり休むことができそうだ。しかし。

「おお!明弘、お前も来てたのか!」

顧問を含むお馴染みのメンバーが一斉に湯船から飛び出してきた。僕は仰け反って悲鳴を上げた。他の客が一斉に僕らを見たが、今はそんなことはどうでもよかった。アームレスリング部員ということだけあってフトシを除くみんなが引き締まった体をしている。

「明弘、静かにしろや。今日は梨花ちゃんとお風呂デートなんだからな!」

毅が腰に手を当て、自信満々にそう言った。

「何すかお風呂デートって」

毅は僕を見て肩をすくめた。「そんくらいわかるだろ。一緒に銭湯に来たんだよ。もちろん湯船は別だがな」それから毅はわざとらしく「ちきしょう!」と叫んだ。

「お前の彼女、マンションに風呂があるのにわざわざ来てくれたんだよな」

康孝お兄さんが肘で無敵をつついた。毅はでれでれで、隣の女湯にまで聞こえる声で、

「そうだ!梨花ちゃんは、俺のためにわざわざ来てくれたんだ。感謝してるよ~!」と言った。

「ヒューヒュー、お熱いねえ!どうせなら今からみんなで女湯に乗り込むか!」

 康孝お兄さんは満面の笑みを浮かべながら、無敵の頭を乱暴に撫でた。すると女湯からタライが飛んできて、見事に康孝お兄さんの顔面に直撃した。しかし彼は怒るでもなく、相変わらずニヤニヤしている。

どうやら他の部員はともかく、康孝お兄さんは毅を冷やかすためだけに来たようだ。なんせ彼の部屋にはジャグジーつきの風呂があるのだから。

 みんなは嬉しそうに体をくねらせている毅を冷やかしながら湯船に沈めた。僕はそんな彼らを無視し石鹸で体を洗った。

きっとみんなは彼女がいる毅がうらやましいんだろう。そう思うと無性に恋がしたくなった。

 僕が湯船に体を浸すと、これからの部の活動内容について説明が始まった。

「いいか、今年度もアームレスリング全国優勝を狙う。ここから優勝者が出ることを願っている。いや、一位、二位、三位と表彰台を独占することも夢じゃない!なんせ、お前らはわしが見込んだ精鋭たちなんだからな!」

康孝お兄さんは「ガッハッハ」と豪快に笑った。

「いいか。もうひとつ大切な大会がある。アメリカでエクストリームアームレスリング世界選手権が執り行われるのだ!」

みんなはざわついた。

エクストリームアームレスリング――それは僕でも知っている言葉だった。アームレスリングをしながら、ボクシングをするという危険度マックスな格闘技だ。ノックアウト制で、アームレスリングというよりはもはやボクシングだ。腕は机から離れてもいいので、ただひたすらに相手を殴りまくるという格闘技。これは腕に自身があるヤツでも命の保証はない禁断の格闘技なのだ。

「いいか。その大会は世界中から鬼のような選手がそろう。この大会は自由参加だ。大会の前は必ず生命保険に入っておけ。いいか、絶対だぞ」

僕は身震いした。エクストリームアームレスリング――禁断の格闘技。怪我や意識不明が続出するあの格闘技だ。だが先輩たちは目を輝かせていた。

「もう一度言うが、この大会は自由参加だ。出たくない奴は出なくていい。だが、そんな臆病者はこの部にはいないはずだ。そうだよな!」

「おうよ!」「あったりめーだぜ!」「アメリカ人どもに大和魂見せつけてやろうぜ!」「命を投げ出す覚悟はできている」

僕は完全に逃げ道を絶たれてしまった。先輩たちはやる気満々だ。自分が士気を下げてはいけない。僕はエクストリームアームレスリング世界選手権に出場することを決めた(というか決められた)。

 

 風呂からあがったとき全員がのぼせていた。熱い風呂の中で熱い男の話に花を咲かせてしまったからだ。各自思い思いにジュースを飲んだ。もちろんこの時も金ちゃんは炭酸水を飲んでいた。どうやらわざわざ持ってきたようだ。

 銭湯の入り口に吉田が立っていた。毅は彼女のところに駆け寄った。何やら詫びを入れているらしい。結構待っていてくれたようだ。

 それからふたりはみんなと合流した。するとすぐさま康孝お兄さんが吉田に声を掛けた。

「どうだい、アームレスリング部に入部する気になったかね?君は一回生でまだどこの部並びにサークルにも入部していないはずだ」

彼女が一回生ということは僕も知らなかった。康孝お兄さんは彼女のことを事前に調べていたようだ。

「・・・はい」

「マネージャーとさっきは言ったが、よければ選手でも構わんよ。女子の大会もあるはずだ」

「いえ、それは結構です」

「やはり、選手は危険だからな。マネージャーをしてくれるとわしも助かる」

吉田に詰め寄る康孝お兄さんは傍から見れば変態おやじに相違ない。彼女は笑っていたが、それは引きつった笑顔だった。

「康孝お兄さん、本人が嫌がってるじゃありませんか」ここでやっと毅が止めにかかった。

「えー、そんなことないだろう。なあ梨花ちゃん」

彼女は完全に引き気味だ。「先生、私、アームレスリング部はちょっと・・・」

「ちょっとなんだ?男ばかりでむさいとでも言うのかね?」

「いえ、そんな」

「ならいいじゃないか」

「いえ、やっぱり女子一人というのは」

「ならば仕方ない。我々で他の女子部員を集めようじゃないか!」

我々?僕たちもってことか?

「いいな。女子部員がいたら、入部してくれるんだな?ん?」

康孝お兄さんは吉田の顔にぐっと自分の顔を近づけた。彼女は恐怖心からか何度もうなずいた。

「よし。ならば話は早い。みんな、明日から我がアームレスリング部をPRして、女子部員を呼び込むんだ!」

正直僕は嫌だった。でも他の部員たちは燃えていた。毅は梨花ちゃんが入ってくれるならと。金ちゃん、フトシ、武志の三人は待望の女子部員を獲得すべく、高々と拳を掲げていた。

「よし、明日からは勧誘だ!決して誘拐じゃないからな!」康孝お兄さんの一言が、ギャグなのかどうかは怪しかった。

僕たちは呼び込み方法を相談しながら帰宅した。気がつけば吉田の姿が消えていた。恐れをなして逃げ帰ったのだろう。

 

     待望の女子部員

 

 次の日、日曜日であるにもかかわらず僕たちは女子部員を獲得すべく、目に付く女子にパンフレットを配って歩いた。

「どうか、アームレスリング部を末永く宜しくお願い致し申す。このとおりだ」武志は深々と頭を下げた。

「武志、そんなことしても駄目なんじゃない?」

僕たちは2チームに分かれたため、僕と武志が一緒に行動することになった。後から康孝お兄さんも合流するらしい。

「何が駄目なんだ」武志は大真面目に聞いてきた。

「それじゃあ勧誘にならないでしょ。見てて」

僕は袖をまくって上腕二頭筋を出した。それから力を込めた。

「見てください!この上腕二頭筋。アームレスリング部に入部したら、素晴らしい上腕二頭筋を手に入れることができます!腹筋もそうです!見ていきますか?ほらほらほら!」

周りの人は冷ややかな目で僕を見て足取りを早めた。

「あんなあ、そんなことしても女子は引くだけだろ」

「おっしゃるとおりです」

 その時、サンタクロースの格好をした康孝お兄さんが歩み寄ってきた。浅黒いマフィアのボスのようなサンタは見ていて痛々しかった。

「康孝お兄さん!どうしたんですか。まだ、四月ですよ」

「ははは。これは作戦だ。この袋の中にプレゼントがたんまりと入っている。女子はプレゼント攻撃に弱いからな」

そう言って康孝お兄さんは、通りかかった女子にプレゼントを手渡した。

「どうぞ。アームレスリング部顧問、佐藤康孝ここに見参。我が部に入ると、毎日がサプライズだぜぃ!」

そう言って彼は爽やかな笑顔を作った。彼女は会釈して立ち去った。嫌がる様子はなかった。

「さすが康孝お兄さん!あれで女子のハートはがっちりゲットですね!」

武志は絶賛しているが、本当にハートをゲットしたのかは定かでない。

「ところでプレゼントは何なんですか?まさかダンベル、とかじゃないですよね」

 僕は遠慮がちに聞いてみた。

「おいおい。女子にダンベルはナンセンスだろ。安心しろ。プロテインだ」

「そう来ましたか。ははは・・・」

康孝お兄さんと武志は心から笑ったようだが、明弘は顔だけ笑った。その時だ、吉田が明弘たちの近くに来たのは。彼女は明弘たちを見つけると足早に歩み寄ってきた。

「先生、もうやめてください!そんなことさせて悪いです」

「何言ってるんだ。これは我々が好きでやっていることなのだから」

「・・・でも」

「他の女子部員がいたほうが君も助かるだろ?」

 彼女は小さくため息を漏らした。

「わかりました。私、アームレスリング部のマネージャーとして入部します」

「本当か」

「はい。これ以上皆さんに迷惑はかけられませんから」

彼女をここまで追いやったのは何を隠そう康孝お兄さんだ。

「では入部届けにサインしなさい」

康孝お兄さんは、そう言ってポケットからくしゃくしゃの入部届けを取り出した。吉田はそれにサインした。

「よし!これで待望のマネージャーがきたわけだ。部室に戻って祝杯をあげよう。明弘、他の奴らにもメールかなんかで伝えといてくれ」

「はい!」

 僕はすぐさま「ダイシキュウ ブシツニテマツ」と電報のようなメールをした。

 

 部室に戻ると他の部員たちは息を切らしながら待っていた。

「なんだ?慌てて戻ってきたぞ」

「吉田さんがマネージャーになってくれたんだよ、毅」

「本当か!」

 毅は吉田の手を取った。

「ありがとう!マネージャーになってくれて本当に嬉しいよ。これから一緒に頑張ろうな」

 吉田は少し恥ずかしそうに笑った。毅は心底嬉しそうに何度もうなずいた。

「よし、今日はここにカツ丼でも頼んで祝杯をあげるか」

「はい!」

 早速フトシが電話を始めた。大学の校内であるにも関わらず届けてくれるようだ。

 

 カツ丼が届くと、全員が思い思いの場所で食べ始めた。一回生の明弘は運悪く床で食べることになった。

「うんめぇ!」

 金太郎は涙をぽろぽろ流しながらカツ丼をかきこんだ。

「やっぱお祝いごとにはカツ丼だよな!」

 いつからそんなルールになったのかは不明だが、全員がうんうんとうなずいでカツ丼を食べた。

「・・・なんだか家族みたいですね」

 吉田がしみじみ言った。すると康孝お兄さんは何かを思い出したように彼女を見た。

「そうだ。君はもうれっきとしたアームレスリング部員なのだから、うちの佐藤ハイツに住んでもらうよ」

 すると、ソファでカツ丼を頬張っていた毅も急に立ち上がった。

「そうだよ!梨花ちゃん、康孝お兄さんのアパートに来なよ」

「えっ」

 吉田は戸惑った表情だ。しかし静かに座っていた武志とフトシも顔を見合わせてうなずきあった。彼らの表情は紛れもなく男のものだった。

「あしらも毅の意見に賛成だ。吉田さん、アームレスリング部の部員は必ず康孝お兄さんのアパートに入るのが伝統だ」

「で、伝統って・・・。あなたたちが一代目なんでしょ?」

「はひ?何のことだい?」

 みんなの目線が一斉に泳ぎだした。吉田は呆れ顔だ。すると康孝お兄さんが咳払いした。

「以上のことから、君のアパートはわしの佐藤ハイツで決まりだな」

「何が以上のことなんですか。そもそも私、自分のマンションありますし」

 武志が冷静な口調で言った。

「だが、家賃は格安だぞ」

「で、でも・・・」

「迷っているなら一度来てみるといい。何か参考になるかもしれんぞ」

 康孝お兄さんは至って真面目な表情だった。一体何の参考になるってんだ。

「それって、もしそっちに住むことになったら、部屋が皆さんと隣同士ってことですか?」

「まあ、そういう事になるかな」

「絶対無理です!」

 部員たちの表情が見る見るうちに曇っていった。

「だが、武志が言ったように家賃は格安だぞ。大学までだって徒歩三分だ」

 吉田は腕組みした。やはり男ばかりのアパートに来るのは嫌なようだ。

「あ、そうだ!」

 吉田は突然何か思い出したようだ。

「ペット!ペットはいいんですか?」

「ペット?何か飼ってるのかね?」

「い、いえ。でも犬を飼いたいな、なんて・・・」

 彼女が嘘をついているのは明らかだった。

「もしも犬を飼うことを許可したら、佐藤ハイツに越してくるんだな?」

 康孝お兄さんは覗き込むように吉田の顔を見つめた。吉田は引きつった表情で康孝お兄さんを見つめていた。それが数秒続き、彼女は大きくため息をついた。

「わかりました。越してもいいですが、条件があります」

「何だ?」

「私の部屋には絶対に近づかない。これが約束できますか?」

「もちろんだ」

「ならいいですよ。家賃は具体的にはどのくらいなんですか?」

「一月で二万だ。格安だろ?」

 吉田は目を丸くした。

「二万円ですか?確かに格安ですね。ほぼボランティアじゃないですか」

康孝お兄さんは嬉しそうに笑った。食事はどうですか、という質問に、

「飯は各自で責任を持つんだ。自己管理する能力も身に付けてほしいからな」

 と康孝お兄さんは応えた。みんなは吉田が入居してくるかが気がかりな様子だ。特に毅は身を乗り出している。わかりやすい性格だ。

「入居するなら今が手頃だぞ。引越し屋も今ならまだ春のキャンペーン中だ」

 吉田はしばらく迷っていたが、とうとううなずいた。

「わかりました、入居します。犬はとりあえず飼わないことにします。それから」

 吉田はじっと康孝お兄さんを見た。康孝お兄さんの鼻の頭は汗で濡れていた。

「繰り返すようですが、私の部屋には近づかないでくださいよ」

「わかってるって。わしは女子大生の部屋に忍び込むようなまねはせん」

「忍び込む?」

 彼は墓穴を掘ってしまった。今度は額に脂汗が滲む。

「例えだよ、例え。なあみんな」

「お、おう。誰も毅の彼女に手はださねえよ」

 毅は吉田に耳打ちした。

「俺がいるから大丈夫だ。何かあったらすぐに知らせろよ」

 梨花さんはうなずいた。

「大丈夫だって。ここは紳士ばかりなんだから」

 笑いながら金太郎はそう言ったが、目だけが不気味にぎらついている。

「さあ、今日は祝杯だ!誰か酒持って来い!あはははは」とフトシ。

「よし!昼間だが飲むぞ~」と康孝お兄さん。

 こうして岸岡大学アームレスリング部に初めてのマネージャーが来たのだった。

 

     恐怖の新クラス

 

 次の日、月曜日のことである。つまり明弘にとっては講義初日だ。入学式が金曜日にあり、土日のあいだに色々なことがあったが、大学生として本格的に動き出すのは今日からなのだ。

 僕は緊張する足取りで自分のホームルームクラスへ向かっていた。入学式の後は自由解散だったので、実質クラスメイトとの対面は今日が始めてだ。

 ちなみに大学にもクラスはあり、選択科目以外の必須科目はクラスごとに受けることになっている。僕が入ったスポーツ体育科は、運動部の推薦入試で入った生徒が80%を占めている。曲がりなりにも僕もその一人だ。

 誰しも初対面の人とは緊張するものである。案の定、気の弱い僕は人一倍緊張していた。

(名門大とはいえ、スポーツ科だけあってきっと乱暴な人もいるんだろうな・・・)

 恐る恐る教室のドアを開けた。教室には既に何人も来ていた。

 僕は黒板に書いてある席に静かに座った。周りを見渡してみるといかにも体育会系といった男たちばかりだった。

(極端に女子が少ない。とほほ・・・)

 僕は時間を気にするふりをしたり、腕が痒いふりをして時間を潰した。

 

 始業のチャイムが鳴ると同時にドアが勢いよく開いた。

「佐藤康孝、ここに見参!」

「あ」

 僕は開いた口が塞がらなかった。康孝お兄さんは教卓の前に行くと、黒板いっぱいに「さとうやすたか」と相変わらずの汚い字で書いた。

「おはよう!今日から四年間君たちの担任をすることになった佐藤康孝だ。もちろん体育を担当している。ちなみに顧問はアームレスリング部だ」

 康孝お兄さんは僕を見るとニッと笑った。

「さて、それでは出欠を取るぞ」

 康孝お兄さんは教室を見渡すと、机がひとつ余っているのに気づいた。

「初日というのに一人来ていないようだな」

 その時、乱暴にドアが開いた。

 僕は本日二度目のショックを受けた。

 そこにいたのは金太郎だった。クラス中が異様などよめきに包まれた。無理もない。名門の国立岸岡大学に七十年代みたいな金髪リーゼントがいたら誰でも驚くだろう。

 金太郎は真っ赤なTシャツに変な柄のジャケットを着ていた。しかもガムを噛んでいる。

「あれ、明弘じゃんか。なんだ、同じクラスかよ」

「は、はい」

 僕は泣きそうになった。よりによって担任が康孝お兄さんでクラスメイトが金太郎とは・・・。

「金太郎、いいから席につけ」

「あ、康孝お兄さん!」

 金太郎も驚いたようだ。無理もない。

(そういえば金太郎は留年生だったな・・・)

「ゴホン。それでは一人ずつ自己紹介していってもらおうか」

 大学初の新クラスは初っ端から変なスタートを切った。

 

 次の休み時間、僕のところに金太郎が来た。僕の椅子に当然のように座り、ふんぞり返った。

「よう」

「金ちゃん・・・」

「お前と同じクラスになるたぁ、運命だよな」

 そう言って金太郎はタバコに火をつけた。運命も何も、このスポーツ体育科は一クラスしかないのだから留年すれば同じクラスになるに決まっているのだ。

「あれ、金ちゃん未成年じゃ・・・」

 僕は周囲を気にしながら金太郎を注意した。クラスの男たちは二人のことを警戒しきった目で見ている。クラスにリーゼントでタバコを吸うヤツがいたら見てしまうのも当然だろう。

「俺はもう十八過ぎてるんだ。バイクだって車だって酒だってオッケーなんだぜ」

「飲酒は二十歳からじゃ・・・。そもそも、僕にあれほど健康についてレクチャーしておいて、自分はタバコなんか吸うんすね」

「俺は中二の頃から吸い続けてるんだ。今更やめられるかよ」

「でも先生にバレたら下手すりゃ退学ですよ」

「大丈夫だ。康孝お兄さんはその辺心が広いからなあ」

「南蛇井、ちょっと来い」

 突然何者かに呼ばれ、二人はどきりとした。

 振り返ると、教室のドアのところに見上げるほどの大男がいた。身長はゆうに190以上ある。黒いTシャツを着ていて、「ボクシング イズ マイライフ」と大きくペイントされている。

「やべっ」

 金太郎は即座に立ち上がり僕の机でタバコの火を消した。

「あわわわわ」

「わりぃ明弘、次の授業はこのタイムカードで俺も出席ってことにしといてくれ!」

 そう言って「桜坂!」と言うと彼は勢いよく教室を出て行ってしまった。

「何なんだよ・・・」

 僕は涙目で机にのったタバコの吸殻をフーフーした。

 

     金太郎と桜坂

 

 金太郎は桜坂に連れられて校舎の外を歩いていた。二人の厳つい男が、満開の桜並木の下を歩く光景はこの岸岡大学には不似合いだ。美しい桜の花びらに包まれていても金太郎の表情は曇っていた。別に彼らは喧嘩をしに行ったわけではないのだ。

 桜坂孝太郎――彼は二回生にしてボクシング部のキャプテンを任された前代未聞のファイターだ。アマチュアボクシング界の十二ある階級の中のヘビー級という最も重い階級で、彼は全国的に有名だった。数々の大会で優勝してきた実力者だ。その大きな体からは想像もつかないような素早いフットワークと強烈なストレートが持ち味。岸岡大学でも彼の名は通っていた。

 一方の金太郎は、ミドル級というヘビー級の二つ下の階級の選手だった。金太郎も岸岡大学にボクシング部の推薦入学をしたのだが、今は訳あってアームレスリング部にいるのだ。

「南蛇井よ、いつになったらボクシング部に戻って来るんだ」

「前にも言っただろう。俺はもう人を殴るようなスポーツはやめたんだ。二度とあんな野蛮な格闘技はしたくねえ」

「それが本当にお前の本心なのか。あれだけボクシングが好きだったじゃないか」

 金太郎は俯いた。

「おい、あれだけの成績を残しておいて、ボクシング界を去るなんて俺は絶対に認めんぞ!アームレスリングなんてふざけた競技は捨てちまえ!お前は鍛えればプロになれるほどの実力があるだろう」

 金太郎は桜坂を睨みつけた。

「アームレスリングはふざけた競技なんかじゃねえ!他の格闘技と肩を並べるほど立派なスポーツだ」

 桜坂は決まり悪そうに金太郎から目を逸らした。

「・・・まだ過去を背負っているのか。あれは事故だ」

「桜坂、その話はするな」

「・・・すまん。だが、俺はもう一度お前と拳をぶつけ合いたい。ボクシング部のキャプテンとしてではなく、一人の男として」

 そう言うと桜坂は立ち止まりシャドーボクシングを始めた。洗練された全く無駄のない動きだ。軽やかなフットワークにリズミカルなジャブ。そして持ち味の強烈なストレート・・・。

 桜坂のシャドーボクシングを見ていると、金太郎は自然に拳を握っていた。

 しばらくの間桜坂は見事なシャドーボクシングをしていたが、ふと動きを止めた。

「体、鈍ってんだろ。リングへ来いよ。貸切りだぞ」

 そう言うと桜坂は微笑み、走り出した。気づけば金太郎はその大きな背中を追いかけていた。

 

     マスボクシング

 

「何ヶ月ぶりだ、お前とこうやってマスができるのは」

 桜坂はリングの上でグローブをはめながら言った。マスとはマスボクシングのことで、本気では打ち合わない試合形式の練習のことである。

「先生は?」

 金太郎もグローブをつけた。本来練習といえどマスボクシングをするときは監督下で行うことが義務付けられている。

「俺たちがマスをするのは秘密だぞ」

 ヘビー級のボクサーは笑った。ミドル級のボクサーも自分の両の拳をぶつけて笑った。

「10分だけだぜ」

「俺とのマスで10分持つかな」

 二人は同時にマウスピースをはめた。直後、桜坂はステップを踏み出した。金太郎もステップを踏み、桜坂との距離をとった。相手は身長がある分リーチが広い。だがその分防御が手薄になる。彼はその隙を狙うつもりだ。

 だが桜坂には見事なほどに隙などなかった。彼は素早いジャブを繰り出しながら、じわじわと体制を変え、金太郎の隙を的確についてこようとする。金太郎はそのジャブをガードしながら腕の隙間から桜坂の動きを探った。

(速い!)

 桜坂のジャブは金太郎にとってはストレートだった。階級がひとつ上になればそのジャブがストレートに感じられるのは、ボクシングをしているものには常識だ。そして、桜坂の階級は金太郎の二つ上だった。

 金太郎はガードしたまま相手の隙を探るしか方法がなかった。次々に飛んでくる桜坂のジャブを、持ち前の反射神経でガードすることだけで精一杯だった。金太郎は未だにジャブの一発も打てていない。

 試合開始30秒にして金太郎の脳裏に敗北の二文字が浮かんだ。彼がまだボクシング部にいた頃、桜坂と何度かマスをしたことはあったが、金太郎が勝ったことは一度もない。それどころか今の桜坂はさらに強くなっている。そして、自分には半年のブランクがあった。

「うっ」

 桜坂の強烈なストレートが金太郎の顳かみを掠めた。その速すぎる右の拳が桜坂の方へ戻っていくのと同時に、左の拳が弧を描いて顔面に飛んできた。顎に桜坂の青いグローブが直撃し、刹那金太郎の意識が飛んだ。

 気がつくと桜坂は金太郎から少し距離をあけ、次の攻撃ステップを踏んでいた。

 熱くなった金太郎は反撃に出ようと、右腕に反動を付け桜坂へ飛びかかった。だが彼の拳が桜坂の顔面に到達するより早く、桜坂の左手が金太郎の腹部を打った。

 金太郎の動きが一瞬停止すると、桜坂は跳ねるように一歩後ろに飛び退き、次のステップを踏んだ。そしてリズミカルにジャブを繰り出したかと思うと、また強烈なストレートを金太郎の腹に叩き込んだ。

 金太郎はまたしても一歩離れた桜坂を目で追うしかできなかった。桜坂の戦法は一切の無駄がなかった。ギリギリまで相手に近づき、相手より早く狙った場所に的確にストレートをぶつけてくる。顔を狙ったようなジャブを二、三発繰り出したあとの腹部へのストレートは、分かっていてもまず避けることができなかった。

 金太郎が桜坂を追うようにステップを刻むと、すかさず桜坂が先ほどと同じようにジャブを打ってきた。慌てて金太郎がガードすると、二、三発打ってきた後に、ほんの一瞬の時間が空いた。金太郎は次に飛んでくるであろう腹部へのストレートに備え、左手のガードを下げた。すると、さっきより少し遅れたタイミングで、今度は顎に今までで一番強烈なアッパーが炸裂した。

全国の覇者である桜坂の殺人的なアッパーを顔面に受けた金太郎は、そのまま真後ろに吹っ飛んでリングに倒れた。

 桜坂はあえてタイミングをずらし、攻撃を腹部から顎に変えることで、全くガードのない場所に反動をつけた渾身のアッパーを打つことができたのだ。この一瞬の判断力こそが、天才ボクサーである桜坂の一番の武器なのだ。 

 

 リングに寝転んだまま金太郎は一歩も動けなかった。負けたことを実感するのにそれほど時間はかからなかった。中学高校とケンカで負けたことがない金太郎にとって、桜坂は大きすぎる壁だった。

「錆び付いたな」

 既にリングから降りて水分補給をしている桜坂がぽつりと呟いた。

「・・・・・・」

 桜坂は寝転んだ金太郎を一瞥すると、再び水を口いっぱいに含んだ。

 金太郎はマウスピースをぶっと吐き出した。

「・・・こんなんマスじゃねえ」

「お前がノックアウトするまでたったの三分。俺はお前から攻撃らしい攻撃を一発も受けてない。半年前はもっといい試合ができたのに。正直お前には失望したよ」

 そう言って桜坂は部室をあとにした。

リングの上に倒れていた金太郎の頬を一筋の涙が伝った。それは敗北のあとの屈辱的な涙だった。

 

 部室を出た桜坂は遠くの空を眺めながら呟いた。

「お前はこんなもんで燻ってるような器じゃない。帰ってこいよ」

 

     金太郎の憂鬱

 

 大学生活にも段々慣れてきた明弘は、放課後いつものように部室へ向かった。部室はマネージャーである吉田のおかげで外側も内側も見違える程きれいになった。

 清々しい気持ちでドアを開けると、既に毅と武志がソファに腰掛け、二人で熱心に雑誌を読んでいた。

「先輩たち、こんにちは」

「お、おお。明弘……

 二人は明弘を見て動揺しているようだった。

「二人して何読んでるんですか」

「こら。子供はあっちで筋トレでもしてなさい」

 武志は部室の隅にあるバーベルを指差した。明弘は即座にそれがエロ本だと直感した。

「ははあ、それヤバい雑誌でしょ」

「ち、違う!」

「じゃあ見せて下さいよ~」

「いや、ダメだダメだ!」

 明弘は抵抗する武志からするりと雑誌を取り上げた。見ると、彼らが見ていたのはエロ本などよりももっと不健全なものだった。

「あ・・・」

 そこに載っている写真にはゴリゴリの男たちが、黒いピチピチの変な格好をして、ゴリゴリなことをしているというものだった。

「あちゃ~」

 二人は半笑いで明弘を見ていた。

「先輩たち、そういう趣味だったんですね・・・」

「今月の『アジアンマッスル』、結構ハードで良かったな」

「そうだな。そりゃあ送料込みで八千円もしたんだからな。さあ、それ隠しておくから返してくれよ。あ、お前も読みたい?」

 明弘はブルブル首を振った。

「結構です!」

「結構です、だって~。それはけっこうけっこう。わはははは」

 明弘はうんざりしながら雑誌を武志に返した。武志はそれをソファの隙間に押し込んだ。もし吉田が発見しようものなら大変なことになるだろう。

「それ誰が買ってきたんですか」

「え?俺だよ。部費で」

 毅がそう言った瞬間、明弘の目が驚愕で見開かれた。

「なに部費でこんな変なもん買ってんすか!」

「はっはっは」

 毅は腰に手を当てて愉快そうに笑った。そう、部長である毅には部費の使い道を決める権限があるのだ。

 明弘が反論しようとしたとき、部室のドアが静かに開いた。

「おう金太郎、今月のアジアン届いたぞ」

「あ、ああ」

 金太郎は明弘たちに見向きもせずに荷物を置いた。

「悪い、ちょっと外の空気吸ってくるわ」

 そう言い金太郎はのろのろと部室を後にした。

「あいつ、最近どうも元気がないな」

 武志がぽつりと呟いた。金太郎がここ数日元気がないのは明弘も気づいていた。だが理由を聞いても金太郎は決して答えようとしなかった。

「明弘、なんか知ってるか」

「そういえば、桜坂さんという人が金ちゃんを連れ出してから、元気がなくなったように思います」

 桜坂という名前を聞くと二人の表情が凍りついた。

「桜坂って、桜坂孝太郎か」

「下の名前はでは」

「この学校に桜坂なんて名前のやつは一人しかいない。ボクシング部部長、桜坂孝太郎だ!」

「まさか金ちゃんがその人にいじめられてるとか?何かただならぬ雰囲気で教室を出て行ったし」

 明弘は背筋に悪寒が走るのを感じた。

「バカ野郎。金太郎はこの学校一の不良で、いじめることはあっても、いじめられることはない。それに桜坂はいじめなんてくだらないことはしない」

「じゃあ何なんだろう・・・」

 明弘が腕組みしたとき、毅と武志が同時に「ボクシングだ」と言った。

「金太郎は元々ボクシング部員であの桜坂とツートップだったんだ。それが訳あってアームレスリング部やってきた」

「え・・・でも金ちゃんはアームレスリングの推薦でこの岸岡大学に入学したんでしょう?そう金ちゃんに聞いたけど」

「あいつ、そんなでまかせを・・・。あいつはボクシング部の推薦でここへ来たんだ。多分ボクシング部にいたことを言いたくなかったんだろうな。でもあいつは高校の時ナントカ級で関西一位だ。桜坂のやつ、金太郎を取り返しに来たんだ・・・」

 毅は眉間に濃い皺を寄せた。明弘は金太郎から聞いた話がどこまで本当なのかわからなくなってきた。

「金ちゃんがボクシングをやめてここへ来た理由って何ですか」

 明弘の質問に二人は答えなかった。その代わり「今からボクシング部へ殴り込むぞ!」と、毅は外へ歩き出した。

「部員が一人でも欠けたら俺たちはまた同好会に戻っちまう!」

 走り出した毅を追うように武志も動き出した。その手にはいつの間にか黒光りする竹刀が握られていた。

「明弘、お前も来い!殴り込みだ!」

「んな、殴り込みって!」

「左衛門三郎武志、剣道四段!」

「無敵毅、漢検三級!」

 明弘は彼らの強さ(?)に圧倒されたのだった。

 

     ボクシング部の男たち

 

 ボクシング部の部室の前に来た明弘は、その大きさに圧倒された。アームレスリング部の小屋みたいな部室とは比べ物にならない。まるで小ぶりの体育館のようだ。

「・・・ここがボクシング部の砦」

 毅は二人の一歩前に出ると叫んだ。

「アームレスリング部部長の無敵だ!桜坂!桜坂孝太郎出てこい!」

 すると声が届いたのか部員が数名様子を伺いに来た。

「げっ、無敵に左衛門三郎!」

「やべえ、部長~!」

 すると中から野太い声で「おーう」という返事が。出てきたのは身長190センチ以上あろうかという大学一の巨人、桜坂孝太郎だった。今日は赤いTシャツを着ていて、金色の文字で「天下無双」と大きく書かれている。

「桜坂・・・」

「無敵・・・」

 桜坂と毅の視線がぶつかり火花を散らした。

「この二人、因縁の関係なんだ」

 武志が明弘にそっと耳打ちした。

「因縁の関係?」

「恋敵なんだ。マネージャーの吉田、桜坂も狙ってた」

「吉田さん、そんなにモテてたんだ・・・」

「まあ俺なら三日あれば奪えるがな」

 そう言って武志はニヤニヤ笑った。

「聞こえてるぞ、武志!」

 毅の目は闘志に漲っていた。武志は慌てて弁解した。

「いやいや、冗談だって!そんなことより金太郎の件に決着をつけようぜ」

 隠然とした表情で部室の入口に立ちはだかっている桜坂が口を開いた。

「南蛇井のことか。あいつは元々ボクシング部に推薦入学してるんだ。勝手にやめられるわけがないだろう。それに今だって立派なボクシング部員だ」

「書類上はな。でも金太郎はもうボクシングなんかしたくないはずだ。あいつはもうアームレスリング部の大切な部員なんだ」

 桜坂は苛立たしげに舌打ちした。

「アームレスリングがなんだ!昨日今日できたような訳のわからん部活に、うちの大切な戦力を渡せるわけがないだろう!」

 その言葉を聞いた毅の顔はみるみるうちに真っ赤になった。

「黙って聞いてりゃ何だその物言いは!アームレスリング部部長として、黙ってるわけにはいかねえぜ!今すぐ金太郎を連れてくるから足を洗って待ってろ!」

 そう言って毅は走り出した。武志はその背中に「それを言うなら首だろ」と小声でつっこんだ。(明弘は間違いにすら気づかなかった)

 

 三人が金太郎を見つけたとき、彼は校内の噴水近くで何やら物思いにふけっていた。

 近づいてみると「桜坂殺す、桜坂殺す、桜坂殺す・・・」とぶつぶつ呟いている。三人は不気味に思ったが、ひとまず声を掛けた。

「おい、大丈夫か」

「桜坂殺す、桜坂殺す・・・むは!な、なんでぇ、三人揃って」

 慌てる金太郎に毅が訳を説明した。金太郎は事情を聞くと落ち着きを取り戻した。

「・・・そうか。いい加減逃げられなくなったわけか」

「おい金太郎、もちろんお前はボクシング部なんかに戻らねえよな?」

「馬鹿馬鹿しい。俺はもうボクシングなんて野蛮なスポーツはしねえよ」

 そういう金太郎は言葉とは裏腹にどこか上の空だった。毅はとりあえず金太郎を立たせた。

「だったら今から来てくれ。お前の口から、ボクシングへ決裂することを桜坂に伝えるんだ」

 

 金太郎を連れて戻ると、ボクシング部の部室前は騒然としていた。観衆は金太郎の姿を確認すると、「わあっ」とどよめいた。

「どうした?何だ、この騒ぎは」

 毅は桜坂に聞いた。

「今から俺と南蛇井がボクシングをして、この件に決着をつけるもんだと思ってるみたいだ」

「そんな馬鹿な。話し合いで決めるべきだ」

 そこへ康孝お兄さんが走ってきた。

「須藤先生!須藤先生!」

 須藤先生とはボクシング部の顧問で、既に七十歳を迎えている老人だ。だが彼の指導力は絶大で、この岸岡大学ボクシング部を八回全国優勝へ導いている。彼の人柄に惚れてこのボクシング部へきた生徒も多数いるらしい。

「佐藤先生、来てくださいましたか」

 部室の入口に腰掛けていた須藤はゆっくりと立ち上がり、律儀に腰を折り曲げた。彼はとてもにこやかで、傍から見ると本当にボクシング部の顧問かと疑わざるを得ない。

「やや!これは須藤先生!うちの部員が練習中にご迷惑をおかけしました。それで、何か問題でしょうか」

「南蛇井君の件ですよ」

 康孝お兄さんの目が一気に見開かれた。南蛇井の件と聞いてピンときたのだろう。金太郎は居心地悪そうに康孝お兄さんを見ないようにしていた。明弘は金太郎が動揺している姿を初めて見た。

「まあそう構えなさるな。ここは南蛇井君の意思を尊重すべきところです」

「え、ええ」

 そこにいた全員の視線が一斉に金太郎に集中した。それぞれの目が金太郎に何かを訴えかけている。それだけ彼に多くの人の期待が寄せられているのだ。

 だが金太郎は足元を見つめたまま、ただ黙りこくっていた。

 一秒ごとにその場の空気が張り詰めていく。ここでの金太郎の言動が、これからのアームレスリング部とボクシング部の明暗を分けるのだ。

 と、水を打つようにパシッという音がした。武志が竹刀を地面に打ち付けたのだ。

「こんな状況では金太郎が率直な意見を言えるはずがない」

「武志、俺は大丈夫だ」

 金太郎は武志を制した。

「俺はもうボクシング部に戻るつもりはない。それに、俺みたいなやつがもう一度ボクシングをしたいなんて図々しいことは言えない」

「金ちゃん、昔何があったの?」

 明弘は金太郎にさっきから気になっていた質問を投げかけた。金太郎は躊躇いがちに口を開いた。

「・・・半年前、秋の大会で対戦相手を殺しかけたんだ。相手の挑発的な戦い方にカッときて、審判が止めるのも聞かずに相手を殺す寸前まで殴り続けたんだ」

 野次馬たちが一斉に静まり返った。金太郎に疑いの眼差しが向けられる。金太郎は苦々しい表情で眉間に皺を寄せた。

「相手は優秀な選手だったんだが、今でもあの時の恐怖心からリングに立つことすらできないそうだ。俺はボクサーとしての誇りを捨てちまった。俺がボクシング部に戻れるわけがないだろう」

 明弘はうつむく金太郎の背中が急に小さく感じられた。事情を知っているボクシング部員や毅たちも地面に視線を落とすばかりだ。

 と、須藤が彼の元に歩み寄り、震えるその肩にそっと手を置いた。

「誰しも忘れてはならん過去はある。だが克服できない過去はない。君は半年前のことで人間的に成長できたじゃないか」

 ゆっくりと顔を上げた金太郎に須藤はにっこりと微笑んだ。

「自分が正しいと思ったようにすればいい。それが君の生き方じゃないのかね?」

「先生・・・ありがとうございます・・・。でも俺、もうボクシング部には戻れません。自分への戒めの意味も込めて、もう二度とリングには立ちません」

「君がそれを正しいと思うのなら、そうしなさい」

 明弘の目には小さな須藤が大きく見えた。こういう人に多くの人間がついていこうとするのは、なんとなくだが理解できた。

「南蛇井・・・」

 桜坂はまだ納得のいかない面持ちだった。

「俺はボクシング部にお前がいないと、どうしても張り合いがない。本当にお前に戻ってきて欲しいんだ」

 金太郎は首を振ると真っ直ぐに桜坂を見つめ返した。もうその目には迷いはなかった。

「・・・だったら、最後にもう一度だけ俺と本気のボクシングをしてくれ」

「桜坂」

 金太郎は驚きを隠せずその男の名を呼んだ。

「3Rの本気の勝負をしてくれないか」

 だが須藤が桜坂を制した。

「南蛇井君はもううちの部員ではないんだ。それに彼はもうボクシングをしないといっている。彼の気持ちを尊重してあげたらどうだね」

「ですが・・・」

 桜坂は押し黙ってしまった。だが実は金太郎も最後に桜坂に勝って、ボクシングというスポーツにちゃんと終止符を打ちたいという思いがあった。ただ、マスボクシングで歴然とした差を見せつけられた以上、ボクシングで桜坂に勝利するのはまず不可能だった。

「南蛇井、だめか」

 金太郎は返事をできずにただ戸惑うばかりだ。

「だったら」ここで明弘が口を開いた。

「だったら、エクストリームアームレスリングで勝負すべきです!桜坂さんにとってはボクシングが専門競技。でも今の金ちゃんはアームレスリングが専門だ。なら、二つの競技をかけあわせたエクストリームアームレスリングで決着をつけるのが筋です」

 その場にいた野次馬たちは聞きなれない言葉にざわついた。だがその言葉を既に耳にしたことのあるアームレスリング部員たちは身を固くした。

「バカッ、あんなの桜坂とやったら下手したら死ぬぞ」と武志。

「そうだ、いくらなんでも」そう言った毅を金太郎が制した。

「俺もダテにボクシングをしてきたわけじゃない。それに今はアームレスリング部の期待のエースだ。こんな図体のデカいだけのやつに負けると思われてるなら心外だ」

 その言葉を聞いた桜坂の口元が微かに歪んだ。

心の中で笑ったのだ。

「じゃあ、そのエクストリームアームレスリングとやらで戦おうじゃないか」

「ああ!」

 金太郎は白い歯を剥きだして笑った。

 その目には闘志が漲っていた。

 

     金太郎のプライド

 

 エクストリームアームレスリングは明日行われるということで話がついた。

 この競技の説明をすると、アームレスリング用の台で競技者二名の腕を固定し、一分間の試合を3Rするというものだ。その試合というのは一分間に相手を殴りまくる、それだけだ。固定された左腕は机から離れてもいいが、腰に鎖を付けることで移動が困難となる。腕の繋がった相手との殴り合いはボクシングの何倍も危険で、既にアームレスリングからはかけ離れている。こんな野蛮で馬鹿げた競技を金太郎たちは明日するのだ。

 部室の戸を開けると、フトシと吉田が暇そうに競技台でオセロをやっていた。事情を知らない二人は明弘たちの遅れた登場にゆる~く挨拶した。

「みんな、先に来てたわよ」

「よお、遅かったな。暇だから吉田さんとオセロしてた」

 その光景を見た毅は呆れ顔で溜め息を漏らした。

「フトシ、メニューやれよ」

「え~、だって疲れちゃうだろ~」

 そばに置いてあるポテチをバリバリ食べながらフトシは言った。

「あ、ごめんなさい。オセロしようって言ったのは私からなの」

 吉田が申し訳なさそうな顔になった途端、毅の表情は一気に和らいだ。

梨花ちゃんはいいんだよ~。毎日マネージャーの仕事、頑張ってくれてるもんね~」

 鼻の下を伸ばしながら吉田に駆け寄ろうとした毅の頭を、武志がパシッと叩いた。

「そんなことより、明日のエクストリームアームレスリングの話が先だ」

 エクストリームアームレスリングと聞いてフトシが反応した。

「エクストリームがどうした?まさか誰かやるのか?」

 金太郎は口元を綻ばせながら「俺だ」と言った。フトシは愕然とした表情で手に持っていたポテチを落とした。

「・・・ウソだろ?」

「明日の午後四時、桜坂と戦うことになった。応援よろしく」

「・・・あんなんやったら本気で死ぬぞ」

「お前らも今年アメリカでするんだ。しっかりと見とけ」

 ドアの前で静かに腕組みしていた康孝お兄さんが口を開いた。

「本当はもっとしっかりと練習しておくべきなんだが・・・。こうと決まった以上仕方ない。今からDVDを見てイメージトレーニングだ。ここにいるみんなの中で、ボクシング経験者はお前だけだ。あとは自分との戦いだぞ」

 金太郎は静かにうなずいた。

「では」

 そういうと康孝お兄さんはドアを開けた。

「わしは大学側に認可を取ってくる。そのついでに宣伝もしてくる」

 

 

 次の日、教室に金太郎の姿はなかった。明弘にはその理由が簡単に推測できた。多分自主トレーニングに励んでいるのだろう。ヤンキーだが努力家な金太郎を思い浮かべ、明弘は少し誇らしい気持ちになった。

 金太郎と桜坂の試合が始まる少し前、明弘が試合会場となった第二体育館の扉を開けると既に観客が大勢いた。

(康孝お兄さんの宣伝の力、半端ないよ)

 明弘はこれから二人の殴り合いが始めるということへの緊張感と共に、どういうわけか高揚感すら感じていた。

体育館の中央には部室から運んできたリングが置いてあった。他の部員たちが運んだのだろう。明弘は多くの人たちの中に、上半身を裸にしてボクシング用のハーフパンツを身につけた金太郎を見つけた。彼は部員と康孝お兄さんに囲まれ、真剣な表情をしていた。

「金ちゃん」

 明弘が駆け寄ると金太郎は笑顔になった。

「よお明弘、十分後に試合開始だ。俺の勇姿をその目に焼き付けろよ」

 そう言った彼の目は、これからヘビー級の王者と戦うというのに自信に満ち溢れていた。上半身裸なだけにその見事に隆起した筋肉が露わとなり、威圧感さえ感じる。全ての筋肉が完璧なまでに鍛え上げられており、日焼けしたその浅黒い肌やリーゼントの頭が彼の潜在能力を引き立たせているようだ。

「なぁに金太郎の股間じろじろ見てんだよ」

 武志に笑いながらそう言われ明弘はハッとした。気がつけば金太郎のボクシングパンツをじっと見ていたからだ。

「明弘、俺のベイビーがそんなに気になんのか?」

「いや違うって。そのズボンみたいなのって?」

「ああこれか。俺が関西のミドル級を制覇した時に履いてたやつだ。これさえ履いとけば絶対負けることはねえ」

 そう言い金太郎はその場でシャドーボクシングを始めた。こんな狭い場所でそんなことをするもんだから、明弘は自分に当たりそうでヒヤヒヤした。

「うっしゃ!」

 一通り体を動かすと、金太郎は全身に一気に力を込めた。戦いを前にして気持ちを高めているようだ。

「金太郎、相手の動きを観察して的確にパンチを繰り出すんだぞ」

 康孝お兄さんは心配そうに金太郎を見つめた。

「お兄さん、俺にボクシングのアドバイスはやめてくれよ。俺はこの両の拳で何十人もの相手をぶちのめしてきたんだ。そうだ明弘、桜坂の急所に俺の一発をぶち込めば、あいつはもんどり打って動かなくなるぜ。なんせエクストリームはボクシングと違い、下半身に攻撃することは反則じゃないんだからな」

 ニヤニヤ笑いながら彼はマウスピースを口に押し込んだ。

 グローブを毅から受け取り、金太郎はみんなに笑いかけた。歯の代わりに真っ赤なマウスピースを覗かせた。部員たちもこれから戦いに挑む金太郎に精一杯の笑みを投げかけた。ただ康孝お兄さんだけが、顧問として静かに彼を見ていた。金太郎はくるりと踵を返すと体育館中央のリングに左腕を置いた。

 目の前には金太郎を見下ろす桜坂がいた。

 

     静かなる戦い

 

 金太郎は既に自分の世界に浸っていた。周囲からは歓声や罵声が飛び交っていたが、彼の耳には何も届いていなかった。ただ対戦相手だけを見て精神を集中させていた。

 明弘はそんな金太郎を目の前にして、もしかしたらやってくれるのではないかと思い始めていた。ミドル級の関西圏の王者だ。そのハングリー精神できっと桜坂にすら勝ってくれると。

 金太郎と桜坂はリングの上で左手を組んだ。

桜坂の深緑のTシャツには今日も字が書かれていた。「気炎万丈」と血のように真っ赤な色で。

審判は二人の拳が離れないようにガムテープでぐるぐる巻きにした。それから腰に巻いてあるベルトにリングに取り付けてある鎖を引っ掛けた。

「これであいつらはボロボロになるまで殴り合うんだ」

 明弘は金太郎からずっと視線を逸らさない毅を見た。毅はそのあとは何も言わなかった。

 気がつくと明弘の横にマネージャーの吉田が立っていた。息を切らしているところから考えて今来たところなのだろう。

「金太郎君、頑張って・・・」

 その呟きに毅は嫉妬の眼差しで吉田を見つめたが、彼女は動じなかった。毅も、マネージャーなんだからな、と納得し金太郎を見つめた。

 明弘は金太郎の逞しくて大きな背中を見ていると、自分にも力が漲ってきた。

(金ちゃん、絶対に勝って!)

 どこのスタッフかは分からないが、それらしい審判は二人の組んだ左手に自分の手を重ねた。

「レディ・ゴー!」

 掛け声と共に審判が離れ試合は始まった。観客たちの声援は一層大きくなった。だがそれを打ち消すように康孝お兄さんは怒鳴るように「キンタロー!」と叫んでいる。他の部員たちもそれに続いて叫んだ。

「金太郎ォ!ぜってー負けんな!」

「金ちゃん!金ちゃーん!」

 みんなの声援を背中に受けながら、金太郎は果敢に桜坂に殴りかかった。左手を固定されているためガードができない桜坂の顔面に、金太郎の強烈なストレートがもろに炸裂した。鼻が潰れるんじゃないかと思うほどの強烈なパンチを顔面に受けた桜坂は、一瞬顔をしかめたが直後反撃に出た。

 その長い腕のリーチを使い、金太郎の頭にその拳を何度も何度も振り下ろした。金太郎は痛みのせいか身を固めてしまった。

「金太郎!股間狙うんだ!」

 毅が叫ぶと、他の部員たちも必死に「タマ取れ!タマ!」「ポコ○ン潰せ!」と汚い言葉で叫んだ。明弘が叫びながらチラリと横を見ると、吉田は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。

 金太郎は部員たちの声援に押され、一気に身を低くすると桜坂の股間めがけて、噛み付くように飛びかかった。

「ぶっ!」

 腹をくの字に曲げ、青いマウスピースを勢いよく吹き出した桜坂は、あまりの激痛に目を剥き股間を押さえた。

 金太郎の強烈なストレートが股間に炸裂したのだ。観客の声援と怒号が会場全体に沸き起こった。

「・・・何すんじゃ!」

 涙を堪えながら桜坂が叫ぶと審判は慌ててゴングを叩いた。

 第一Rは金太郎の卑怯にも思われる戦法での勝利だった。

 桜坂はパンツを広げて自分のものにフーフーと息を吹きつけた。あまりの痛さで涙目だ。

 金太郎はマウスピースをグローブにぶっと吐き出すと、その様子を見て爆笑した。

「ぎゃはははは!これ反則じゃねえんだぞ!ポコ○ンフーフーしてやがるぜ!ざまあねえなあ!」

 康孝お兄さんは「確かに反則じゃない」と大きく頷いた。

「くそッ!」

 審判はおろおろしながら「まだやれるかね?」と桜坂に聞いた。桜坂は股間をさすりながら大きく頷いた。その目は金太郎を真っ直ぐに捉え、異様なほど爛々と輝いていた。とうとう桜坂の逆鱗に触れてしまったのだ。

「お前を女にしてやる・・・」

 桜坂のその一言に金太郎は凍りついた。

 

 第二Rが始まった。

 桜坂は最初から金太郎の股間を狙いに行った。その目は怒り狂っていて正気の沙汰とは思えなかった。金太郎は慌てて右手で必死に自分のものをガードした。

(やべえ、女にされる・・・)

 さすがの金太郎も焦りだした。桜坂は金太郎のそれを一心に見つめ、ひたすらガードの隙を狙ってくる。

 会場は二人の男の静かなる戦いに大きく湧いた。もはや既に本来のエクストリームアームレスリングとはかけ離れているが、審判は二人のあまりの剣幕に止めに入ることもできなかった。

 金太郎にはこの地獄のような一分間が永遠に続くように思われた。なんせ、桜坂の殺人ストレートを股間に受けたら本当に女になりかねないからだ。

(やめろおおおおおお!)

 泣きそうになった金太郎の耳に、やっと第二R終了のゴングが鳴り響いた。

 桜坂は動きを止め、肩で息をしながらマウスピースを吐き出すと「女にしてやる」と呟いた。

 金太郎は一分前まで馬鹿笑いしていたというのに既に半泣きだった。

「男でいたいっす」

 客席の最前列にいた須藤は「ふたりとも、やれなくなるぞ!」と珍しく必死な形相で叫んだ。

 康孝お兄さんは「そのタマは魂の次に大事なタマだ!考え直せ!」と喚いたが二人には届かなかった。

 吉田は恥ずかしさのあまり、真っ赤になった顔を両手で覆った。毅は明弘を押しのけると、そんな彼女に「俺のは無事だからな。安心しろ」と言った。案の定強烈なビンタが炸裂した。

 明弘は感に耐えず大きく咳払いした。

 

 異様な空気のまま第三Rが始まった。

 桜坂は今度は腹を狙って何度もパンチしてきた。金太郎は意識を集中させその攻撃をガードし続けた。

(腕一本分ガードするなんて、俺にとっちゃ雑作もない!このRを守りきれば俺の勝ちだ)

 そう思った瞬間、股間に桜坂の殺人ストレートが飛んできた。慌ててよけたが当たったところは丁度ヘソの部分だった。金太郎は今日の昼飯を戻しそうになったが、どうにか持ちこたえた。

(腹筋鍛えといてよかったぜ・・・)

 今度はよろめいた金太郎の顔面に強烈なストレートが飛んできた。ガードしようと右手を伸ばしたが間に合わなかった。顎を打たれ意識が遠のいた。

(桜坂のやつ、本来の戦法に戻しやがった・・・)

 しかし、もしやと思い下をガードすると腕に痛みが走った。桜坂の股間を狙ったストレートを右腕に受けたのだ。

 金太郎はマウスピースを吐き出した。

「テメェ!卑怯だぞ!」

 桜坂もマウスピースを吐き出した。

「どっちが卑怯だ!女になりやがれ!」

 そう言った桜坂は、今までで一番強烈なパンチを金太郎の股間めがけて繰り出した。金太郎は慌ててガードしたが、ついに自分の右手ごとそこに入ってしまった。

「あああああああああ!」

 あまりの痛みに金太郎は叫んだ。

「女になるうううううう!」

 桜坂がとどめのストレートを股間に叩き込もうと振りかぶった時、神の思し召しかゴングが鳴り響いた。

 左手を繋がれたまま、金太郎はその場にへたりこんだ。

「痛えぇ!うあああ!」

 汗だくの桜坂は目を血走らせ豪快に笑った。

「ぎゃはははは!お前は今日から女だ!」

「わああ!金ちゃんが女になったー!」

 明弘が泣き出すと、伝染するように部員たちが、観客たちが騒ぎ出した。

「金太郎がオカマになりやがった!」

「違う!ニューハーフだ!」

「嫌だー!」

「金子ちゃんだぁ!」

「誰か救急車を呼べ!」

「おい!誰かちゃんとついてるか確認してこい!」

「嫌だー!」

 その後やってきた救急車で、金太郎と桜坂は股間を押さえながら仲良く運ばれたのであった。

 

     金太郎の病室

 

 例の桜坂との戦いのあと、金太郎は大学病院の泌尿器科で一物の精密検査を受けた。運良く大事には至らなかったのだが一週間入院することになった。

 一方の桜坂は意外と軽傷で、「しばらく安静に」と医師から釘を刺されてはいるがそれだけだった。

 入院一日目の今日、顧問を含む部員全員で金太郎のお見舞いに来ていた。

「よう大丈夫か?」

 個人部屋だけあって狭い部屋で、みんなが入るには少々狭かった。

「大丈夫なもんか」

 スウェットを着た金太郎はどこか悲しげだった。いつものリーゼントも今日はただのオールバックになっているぐらいだ。

「二週間も使えないんだってよ。今も管に繋がれてるんだぜ。ううう・・・」

 吉田に聞こえないように金太郎は小声で喋った。その吉田は持参した花束をせっせと花瓶に添えている。もしかしたら本当は聞こえているのかもしれないが、聞こえている様子はない。

「何だと!」

 一番驚いたのは武志だった。

「それはかわいそうだ。二週間も・・・」

 明弘が武志を校内で偶然見かけるときは、常に違う女を連れているだけあって、女関係において彼はだらしなかった。それだけ武志に女性を惹きつける魅力があるということなのだが・・・。

「そうだろ?」

 金太郎は何度も大きくうなずいた。

「お前に使うあてがあるとも思えんがな」

 毅の一言に金太郎はため息をつき黙ってしまった。いつもなら何か言い返しそうなものだが、今日は特別元気がなかった。その横でフトシはニヤニヤ笑っている。もしかしたらムッツリなのかもしれない。

「お前ら、くだらん話してないで金太郎のおむつを替えてやろう」

 康孝お兄さんはごそごそとカバンから老人用のおむつセットを取り出した。

「に、兄さん!俺、おむつなんか履いてませんし、替えて欲しくもないです!」

 金太郎は慌てて手を振った。

「あれ?おむついらなかった?」

 康孝お兄さんの目が何か訴えかけている。もしかしたら、ただおむつ交換というものをしてみたかっただけなのだろうか。いよいよ変な男だ。

「いりませんよ!」

「そうだ金太郎、病院の飯でかわいそうだからこれをやる」

 フトシはカバンから大量のカップラーメンを取り出した。

「フトシ、お前・・・」

 金太郎の目がうるうるしだした。

「あ、でも給湯器ないから食えねえや。うひひ」

「フトシ、てめ・・・」

 金太郎の目が恨めしそうにぎらついた。

「そういえば僕もお腹がすくだろうと思って缶詰持ってきましたよ。ツナ缶に鯖の味噌煮にフルーツ缶なんかもありますよ」

「お前はいい後輩だな。いや、同じクラスだから後輩じゃないか。ははは・・・」

「でも肝心の缶切り忘れました。あ、でもせっかくなんでおいていきますね」

「フトシに明弘、お前ら何か俺に恨みでもあんのか・・・」

「ムフフフ……

 余計げっそりした金太郎は「それでよお」と言った。

「結局あの試合は、俺と桜坂のどっちが勝ったんだ?」

「どうやら決着はつかなかったようだよ。君らは互角に戦ったということだ」

 康孝お兄さんは満足げにうなずいた。

「え~!俺の勝ちじゃなかったのかよ」

「あの桜坂君と互角に戦ったのは凄いことだよ。まあ、かなり際どいやり方だったが・・・」

 金太郎はやっとここで嬉しそうに笑った。

「あの作戦最高でしょ。男なら誰でも弱点ですからね」

 そう言い彼は鼻から息を吹いた。

「確かにそうだが、アメリカの大会で同じことをするなよ。日本人の威厳に関わる問題だからな」

「ええ!」

 その言葉に部員全員が反応した。

「俺もやろうと思ってたのに」

「俺も俺も」

「僕も!」

 康孝お兄さんはため息をついた。

「そんなことをした結果が今の金太郎じゃないか」

 そう言うと康孝お兄さんは金太郎のスウェットを脱がしにかかった。

「うわ!何すんだよ!」

「君らも見ておきなさい。怪我をすると怖いんだ」

「やめろよ兄さん!やめろって、康孝!」

 金太郎は脱がされまいと必死に抵抗した。その様子を見た吉田は顔を真っ赤にして病室を飛び出した。

「あ、マイハニー・・・」

 毅は走り去った吉田を目で追うことしかできなかった。その様子を見た康孝お兄さんは、金太郎のスウェットから手を引いた。

「・・・兄さん」金太郎は目を見開き、疑いの眼差しを康孝お兄さんに向けた。

「・・・これはまずい。女子マネージャーには少々ハードだったようだ」

「そうですよ!康孝お兄さん!」

 キレかかっている毅だが、彼も以前部室でろくでもない雑誌を読んでいたことを忘れてはならない。

「とにかく追いかけましょう」

 明弘を先頭に、いい歳の男たちが病室を大急ぎで飛び出していった。取り残された金太郎は、半分以上ずらされたスウェットに気づき慌てて引き上げた。

 

     マネージャーの涙

 

 明弘たちが吉田を発見したのは産婦人科コーナーの前だった。

 吉田は待合所の椅子に座りしくしく泣いていた。周囲の人たちはそんな彼女のことを、傍から好奇と心配の混じった目で見ていた。無理もない。まだ若い女性が産婦人科コーナーの前で一人泣いていたら心配にもなるだろう。

 そこへ柄の悪い男たちが我先にと走ってきた。そう、アームレスリング部の男たちだ。

梨花ちゃ~ん、愛してるよ~!」毅は吉田の隣に座ると猫なで声で彼女の頭をさすった。

「吉田さん、大丈夫?」と明弘は彼女の前にしゃがみ、「泣くな、おなごの恥だ」と武志は言い、「カップ麺食べますか?お湯ないけど」とフトシは呑気に言った。康孝お兄さんに至っては「悪かった。少々過激なことをしてしまった」と誤解を生むようなことを言った。

 話がどんどんずれた方へ行き、たくさんの人が集まってきてしまった。だか、当の本人たちはその様子に全く気づいていない。

野次馬たちは彼らの様子を一定の距離を置いて小声で囁き合いながら見つめるばかりだ。

「やあねえ、できちゃったのかしら」

「誰の子供だかわかんないんじゃない?」

「若いのに大変ねえ」

「あの刺青の男が怪しいわね」

 オバサンたちはひそひそとそんな会話をしていた。

 吉田はまだ両手で顔を覆って泣いている。

梨花ちゃん・・・ごめんな・・・」

 どういうわけか毅も泣き出した。これにより余計にそれらしくなってしまった。

「いいや、悪いのは全部わしだ。すまなかった」

 康孝お兄さんは吉田に向かって土下座した。これでは完全に修羅場だ。

「・・・男って、どうしてみんなそうなの?私の気持ちも知らずに・・・。私一人で毎日毎日あなたたちの相手するの、ホントに大変なんだから・・・」

 この言葉によって周囲の空気が一気に張り詰めた。

「あらやだ」

「え、そゆこと?」

 オバサン連中はだんだん楽しくなってきたのか、ワクワクした目で彼らを見ていた。この後の展開が気になるようだ。

梨花ちゃんはウブなんだ。みんなが変なことするから・・・」

「変なことをしたのは康孝お兄さんだけでしょ!」

「え?わし?」

「当たり前だ。俺らは何も変なことしてないよなあ、フトシ」

「当たり前でごあす。変なことをして泣かせたのは康孝お兄さんと金太郎でがんす」

「確かにわしも悪かったが、みんなだって迷惑かけてたんじゃないのか?」

 康孝お兄さんは立ち上がると全員を見た。

「そういえば俺、フトシが寝ぼけたふりして、梨花ちゃんの部屋に忍び込もうとしたとこ見たぞ。鍵かかってて諦めたようだったが」

「つつつ、毅!それは誤解でござるよ。トイレに行こうとした時に間違ったんだべさ」

 毅は睨むようにフトシを見つめた。

「そういえばさっきから口調がいつもと違うよな。ウソついてんじゃないのか?」

「そそそ、そんなわけないでげす!」

「あっ、そういえば僕も見ましたよ」

 明弘は得意げに続けた。

「武志の部屋のベランダに女物の下着が干してありました。あれ、もしかして吉田さんのですか?」

 武志は顔を真っ赤にした。

「バカ!あれは違う女のだよ!」

「てめえ、やっぱり女連れ込んでやがったのか!規則でそういうのは禁止にしただろ!てかホントに梨花のじゃねえんだろうな?」毅が大声で喚きたてた。

「違うと言ったら違う!アヤコだかナツコだかミワコだかウメコのだか忘れたが、断じて違う!」

「お前、一体何人連れ込んでやがるんだ・・・」

「もうイヤ!」

 吉田は勢いよく立ち上がった。

「あなたたちにはうんざりよ!そもそも何で私がマネージャーなんかさせられてるのよ!」

 康孝お兄さんは何か言いたそうに口をもごもご動かした。だが、もごもご動かすばかりで言葉は何も出てこない。

梨花ちゃん・・・」

 毅は悲しそうに吉田を見つめた。吉田はそんな毅を一瞬躊躇いがちに見たが、すぐに目を逸らした。

「私、元のマンションに戻ります。マネージャーの仕事もしばらくは休みます。さよなら」

 そう言うと吉田は足早にその場を立ち去った。

「待ってくれ、梨花ちゃん」

 追いかけようとした毅の肩を武志が引いた。

「女心がわからんやつだなあ。こういう時は一人にさせてやれ」

 毅は悲しそうに俯いた。その時、

「ふう。さっきからニラが歯に挟まってたんだ。やっと取れた」

 空気の読めない康孝お兄さんは嬉しそうに笑った。どうやらさっきから口を動かしていたのはそのためらしい。

「康孝お兄さん・・・」

 全員が康孝お兄さんに疑いの眼差しを向けたのだった。

 

     アームレスリング部崩壊の危機

 

 佐藤ハイツに戻った明弘は、自分の部屋に戻ったあと、部長である毅の部屋に呼ばれた。そこには既に武志とフトシもいた。全員が複雑そうな表情をしている。

 毅の部屋は意外と物が少なく、きれいに整理整頓されていた。ただ、壁にグラビアアイドルのポスターが大きく貼ってあるのを除いて。沖縄かどこかの海で撮ったものらしい。水着姿のどアップで、これ見よがしに谷間を強調して満面の笑みを浮かべている。そのアイドルは、どこか吉田に似ている気がした。

梨花ちゃん、やっぱり荷物を置いて出てったよ」

 毅はため息混じりにそう言った。背中を丸めて畳の上に正座した毅は、いつになく覇気がない。

「そう気を落とすな。女なんか星の数ほどいるんだ」

 武志は慰めているつもりらしいが、明らかにずれた発言だ。毅は悲しそうに俯いたままだ。

「毅、また合コンに行けばいいさ」

 すると毅はいきなり上を向いてわんわん泣き出した。

梨花~!戻ってきてくれぇ~!」

 もうこうなると手がつけられない。三人は顔を見合わせた。

(どうする?ほっとくか)

(ほっとくわけにはいかないでしょ)

(じゃあどうする?)

(あしにいい考えが)

(ほう)

「ちょっと部屋から酒を持ってくる」

 フトシはそう言って部屋を出ていった。酒で酔わせて忘れさせようという安直な作戦だ。

「毅、そう泣かないで下さいよ」

 仕方なく明弘が毅を宥める。

「明弘ぉ、お前は恋をしたことがあるか・・・。魂と魂をぶつけ合うような、情熱的で、時には狂わしく、溺れるような恋を」

「えっ、恋ですか」

 明弘の恋といえば、せいぜい片想いがいいところで、付き合ったことはおろか告白すらしたことがない。当然告白されたこともない。

「・・・残念ながら、無いです」

「なんだ、虚しい男だなあ」

 毅は泣くのをやめたが明弘は少しむっとした。馬鹿にされたと思ったからだ。

「武志は・・・いや、こいつのは恋じゃないか。女をたらし込んでるだけだもんな」

「何だと?最近やっと彼女ができたからって偉そうに。俺が女をたらし込んでるだ?ほっといても女はうじゃうじゃ来るんだよ。そもそもお前はモテないからこんなもん部屋に貼ってるんだろ!」

 武志は明弘がずっと気になっていたグラビアアイドルのポスターを指さした。毅は顔を真っ赤にして叫んだ。

「関係ない!ひ、姫子は俺のミューズなんだ!」

 ミューズって・・・。明弘は吹き出してしまった。吹き出すとどんどん笑いが込み上げて来て止められなかった。

 気がつくと毅が真顔で明弘の顔を覗き込んでいた。

「・・・明弘、そんなに面白いか」

「す、すみません」

 武志はうんざりしたように肩をすくめた。

「こんなくだらん言い合いはよそう。今はマネージャーをどうするか話し合うべきだ」

 確かにその通りなので明弘と毅はうんうんうなずいた。

その時酒を取りに行ったフトシが戻ってきた。手には日本酒やワイン、ウィスキーなどの高価な酒が握られている。さすが社長の息子。金はあるらしい。

「おおフトシ。悪いな。飲みながら話そうか」

 明弘を除く三人はコップも使わずに思い思いの酒を飲みだした。意外にも明弘に奨めないのは、自分たちがより多く飲みたいからのようだ。

「俺が思うによ~、やっぱ康孝お兄さんが全部悪いと思うんだよな~」

 ウィスキーで酔っ払った毅は明弘にもたれかかった。明弘は胡散臭そうに毅を押しのけた。

「そうだそうだ!なんだかんだであの人が一番の問題児だ!」

 フトシもワインですっかり酔っ払っている。

「それにさっきのニラは腹が立ったよなあ。あの状況でニラなんかどうでもいいだろ。てか、いつニラが挟まんだよ」

 武志は顔を真っ赤にして酒臭い息を吐いた。こんなキツい酒ばかりを好き好んで飲むからだ。明弘は一瞬にして酔った三人に顔をしかめた。部屋は既に酒臭い匂いで充満している。

「よおし、打倒康孝だー」

 毅は楽しそうに手に持ったウィスキーを掲げた。

「おお~」

 武志とフトシもなぜかノリノリだ。

「ちょっと待ってくださいよ。顧問がいなくなればもう部活じゃないですよ。それに僕たちもここを追われるかもしれないし」

「明弘ぉ!」

 いきなり毅が明弘に抱きついた。酔っているためか異常に力が強い。明弘が必死に抵抗してもびくともしない。

「やめてくださいよ。気持ち悪い」

「俺を助けると思え。な?姫子ちゃんのレアカードあげるから。これプレミアだぞ?」

「いりませんよ、そんなもん」

 明弘が毅を突き放すとなぜか突然悲しそうな顔になった。

「・・・・・・俺はよお、ずっと探し求めていたんだ。それでようやく梨花ちゃんに巡り会えたんだ。長かった。本当に長い戦だったよ。親の仕送りのほとんどを合コンに費やす毎日・・・。来る日も来る日も見栄を張って奢るのは大変だった。おかげで今は水道代を払うことも大変なんだぜ・・・」

 水道代を切り詰めるぐらいなら、アイドルのカードを集めたりする趣味をやめればいいのに。